6.道徳面の問題に対する人間の感覚 Ⅱ





1974年8月10日

 アリヤシーラダンマの話の土曜講義、第六回目の今日は、前回いくらも講義していないうちに雨が降ってしまったので、もう一度「道徳面の問題に対する人間の感覚」という小さな題でお話します。だから今日はその題で講義すると、このようにご理解ください。

 前回も「道徳面の問題に対する人間の感覚」という題で、みなさんは、「道徳面の問題に対する世界中の人間の感覚」、あるいは今世界で問題になっている道徳について話そうとしていると、良く聞かなければなりません。つまり道徳面の問題に対する人間の感覚は、もう一段、人間は道徳面の問題に対して感覚があるかないか、という問題があります。

 人間に道徳面の問題に対して感覚があるなら、あるいは今本当に感じているなら、それらの感覚は正しい感覚でしょうか。人はどのような感覚も、幾らでも持つことができ、それが正しい必要はないからです。この項目を判断し、観察したように述べます。最初の部分をこのように理解してください。

 私は、道徳面の問題に対する現代の人間の感覚は、全然感じないと言ってしまえば、その方が良いと主張したいと思います。現代の人間は良く調べない、あるいは解決する術がないような間違った感覚と言います。このようなら、まったく感覚がないと言う方がまだ正しいです。どんなに間違った感覚でも、この世界や人間は今どのようかを見る以外には、面と向かって主張する積りはありません。これから詳しく話します。


 一つハッキリ見えるのは、みなさんはそれが道徳面の問題と見えないことです。

 危機である、破滅、衰退、国内のいろんな混乱である何かが生じても、道徳面の問題と感じないで、経済面の問題と感じてしまいます。使うお金がない、文字を知らないなどは政治面の問題もあり、福祉の問題もあるので困窮すると見ます。「本当の原因は道徳面の問題」と見ません。道徳が衰退し、あるいは全部なくなったので、経済面、あるいは政治面、あるいは福祉、あるいは食糧問題、あるいは識字率が低い問題が生じます。

 これは道徳面の問題と感じないいろんな問題という意味です。良く見れば、いろんな問題が生じて、そして解決できないのは、道徳が衰退してしまったからです。人に善い道徳があれば、経済面の問題も世界にありません。人が有利になろうとせず、勤勉で、互いに慈悲があれば、経済面の問題など、生じようがありません。

 この世界の問題は、何十、何百の問題でも、道徳面の問題次第と、いつでも心に銘じておいてください。道徳面の正しさが十分あれば、それらの問題は生じられません。あるいは善い道徳があれば、問題が生じる余地はありません。世界中の人間が誰一人文字を知らなくても、良い道徳があれば問題はないと言うことができます。ギャングが殺し合い、あるいは有利になる、あるいは何かいろいろする道はありません。

 今、道徳面の問題をすべての問題の根源と見て、取り上げて熟慮し、調整解決する人は誰もいません。「道徳」という言葉は、少しずつ人間の口の端から消え、新聞紙上から消え、どんどん何かになります。末端の原因である他の問題の話ばかりします。

 だから人間集団に平和が生じず、平和も崩れ去ります。それでも人は、「それが道徳の衰退の原因」と考えません。それは必ずこのようになると、最高にバカのように考えます。つまり私たちが経済の問題を解決できないのは、そのようでなければならず、政治面の問題を解決できないのは、このようでなければならないと、このように考えます。

 ね、誰も道徳について考えません。人に例えれば、道徳は今不公正を受け取り、恩を仇で返され、誰も道徳の恩を感じる人はいないと言います。だから世界はこのような状態である罰を受けているような状態にあり、危機があり、至る所に分裂と困難があり、どんどん酷くなっています。これも人間の道徳に対する恩知らずが、人間に罰を与えているということです。そして道徳が人間からダンマであることを受け取らないので、このような結果が生じて人間に罰を与え、人間は感じません。


 これから話す項目は、人間が道徳と呼ぶ物に対して感じない愚かさ、あるいはアガティです。

 愚かさは、誰も感じない物でなければなりません。普通は愚かな人は自分が愚かと感じません。感じてしまえば愚かではないからです。だから、「愚かなら自覚できない」と言い、気づかなければアガティ(不公正。悪業。偏見)と呼ぶような間違いをします。

 アガティは歪むという意味で、第二、第三の意味では正しいですが、第一の意味では、「正しくない行くこと」という意味です。ガティは「行く」という意味で、アは「不」で、正しい「行くこと」ではありません。こういうのをアガティと言います。それです、私たちが感じないアガティの類の愚かさは。そして私たちはいろんな問題の末端の原因を解決します。

 末端の原因だけの解決は、解決できないと良く聞いてください。感じないので、恥ずかしくないので、恥じないからです。今いろんな問題解決を、末端の原因だけ解決し、世界に平和を生じさせることができません。世界には誰も責任を取る人がいません。あるいは誰も恥じません。私がこれを話すのはふさわしいです。道徳の問題にとって最高に利益があります。

 道徳面の問題に関して感じないアガティである人間の愚かさはどのようか、見本として熟慮します。今私たちの口は「幸福が欲しい、安楽が欲しい」と要求し、これは誰も反対しません。それはそのように本当ですが、道徳を尊重せず、関心がなく、持ちたがりません。それで安楽を要求します。今私たちは気づかずに道徳を尊重しません。ほとんどそれは関心がないことから来ています。そして知らないので、道徳と呼ぶ物を最高に必要な物と尊重しません。だから道徳を持ちたがりません。

 率直に言えば、正しいか間違いかはともかく、そして率直に、誰にも遠慮せずに言えば、今人は道徳を持ちたがらないと言います。ここに座っているみなさんも、道徳に幾ら関心があり、道徳をどれだけ尊重し、どれだけ道徳を持ちたいか。あるいは全部忘れ、全部寝言で、道徳について話した言葉は無意味か、熟慮して見てください。しかし私たちは幸福を探したがり、幸福を要求し、幸福を期待し、幸福を得る話ばかりします。

 しかし誰も道徳に関心がなく、道徳を知らないので、道徳を尊重しません。だからどのように道徳を持つかは、本当は持ちたくありません。本当でしょうか。

 そして他を見、世界中を見ると、今物質的発展の話、すごく良い生活、美味しさ、楽しさに熱狂している人の群れが最高にはっきり見えます。私たちの国以上かも知れません。我が国もいろんな階層、いろんなレベルがありますが、道徳に関心がなく、道徳を尊重せず、道徳を持ちたくない方向へ、どんどん傾いています。

 これは愚かか、賢いか、考えて見てください。そして気づいているアガティ(不公正。悪業。偏見)か、気づかないアガティか、考えて見てください。安楽の原因である物に無関心で安楽を欲しがるので、反対に踏みにじってしまいます。これは愚かでしょうか、それとも賢いでしょうか。

 次に人が道徳を知らなければ、それはすべての問題の原因なので、夢中になって末端の原因だけを解決します。それは成功しない話です。成功しても「蟹を獲ってザルに入れる」のと同じです。聞いて意味が分かるタイの成語です。それは一時だけ成功し、「蟹を捕まえてザルに入れる」と逃げて行ってしまいます。私たちが国のいろんな問題を解決できないのは、問題の末端の原因を解決するからです。

 今、人の心は非常に賤しくなり、自分勝手になり、簡単に他人を消滅させられます。あるいは騙す餌が多すぎるので、心が愛欲面に賤しくなります。賤しい心がある人は、心を賤しくする何種類もの原因がありますが、まとめれば道徳がないことに集約できます。

 あるいは心の病気が増えること。これはすべての医師が認め、いろんな統計も、彼らは事実を隠さず、騙さすに公表しています。非常に発展しているリーダーである大国も、今までなかったほど心の病気が増えていると認めています。これは、心が賤しい人たちの中にいると言わなければなりません。

 まとめれば、今私たちは心が賤しく、あるいは心の病気が増えている問題があります。そして現象として現れているのは、

1.盗賊行為が増えています。この町でも盗賊行為がひどくなっていると感じます。どこを見てもひどくなっているニュースを聞き、世界を見ても最高に増えています。国際間の盗賊行為は恐ろしい盗賊行為で、政治的、経済的な盗賊行為で、政治面、あるいは経済面、水面下で盗賊略奪をします。それは大きな盗賊行為です。あるいは普通の盗賊行為も、この世界のどこの国でも、至る所で増えていると見えます。

2.貧困も減りません。産業面、製造面、いろんな省力が進歩しても、一部分だけが豊かで、もう一部はむしろ貧困が増えます。貨幣の値打ちが下がり、あるいは物資が足りず、貧困は増えます。お金持ちになることばかり考えないでください。本当の内心の感覚では、貧しいと感じる人が増えています。

3.不正が増えます。昔の人は罪を恐れ、口は罪や罪を恐れることについて話しましたが、現代人はほとんど「罪を恐れる」と一言も話しません。昔の人は一日に何度も話しました。これは自分の義務の中、あるいは他人に対してでも、不正である現象が増えている一つの現象です。

4.性の犯罪、性の面の頽廃が増えています。道徳面の教育がないので、性の話に関わる頽廃、あるいは誤った行為、不正が増え、今、不邪淫戒を取消したいと、このようです。

5.もう一つ悲しいのは、私たちの子どもは精神異常になりつつあります。あるいは狂人と呼んでも良いです。私たちの青少年は狂気の沙汰で、親はなく、先生もなく、罪を恐れず、地獄天国もなく、何でもいろいろ無く、凶暴でカッとなり易く、自分が欲しい物だけを要求します。

 これらの例は、本当にある問題と説明するに十分です。そして私たちは夢中になって、迷って末端の原因を解決し、問題解決のために、ああいう、そういう、こういう委員会を繰り返し立ち上げます。心の病気も増え、盗賊行為も増え、貧困でも何でも増え、そして解決できず、解決すればするほど増えます。観察した限りでは、このように見えます。誰でもこのようであると認めます。今は、これらの問題解決委員会を立ち上げますが、反対に問題は増えます。

 問題解決会議は滑稽です。地獄で生じている問題解決を、天人の国で会議します。楽しく快適で豪華な避暑地のホテルで、貧困の人の問題、田んぼにある貧困問題のための会議ができるでしょうか。これらの人は、この種の問題を解決できる心があるでしょうか。末端の原因を解決し、そして「自分を知らず、いろんな物事を知らない」と言うような解決以外に。

 彼らは盗賊行為の問題解決を、いろんな方法でします。しかしそれが道徳の衰退から生じていると見ないので、道徳面の解決を考えたことがありません。管理するのは末端の原因だけでは、解決できません。解決できても、蟹を捕まえてザルに入れるような解決です。

 ね。夢中になって末端の原因、道徳がないことの末端の原因だけを解決し、道徳がないことを解決しません。道徳を引っ張り寄せて、大々的に薫陶、説諭して植え付けません。それは多少時間が掛かるだけで、いろんな問題を解決できます。どれだけ時間が掛かってもしなければなりません。しなければ解決できません。末端の原因だけ解決するのは愚かな人、気づかないアガティだからです。


 まだ滑稽な愚かさ、あるいはアガティがあります。褒められたい、名誉を得たい、道徳がある人と理解されたいためにするので、その人たちは、道徳がある人のように振る舞います。

 これらの道徳がある人のような態度をとる人は、演じているだけです。名誉を得たい、あるいは褒められたいので、それだけ道徳があると言い、本当は道徳を欲しがらないので、道徳がある人を演じます。このような道徳は何の助けにもなりません。まったく無いより多少マシなだけです。これを迷いと言い、アガティの一つです。

 次に上げる例は、文化の面、あるいは道徳面の奴隷であると感じないのは、政治面、物質面の奴隷以上と感じない、もっと微妙な愚かさです。中には「政治面の奴隷は国を失って、彼らに政治的に占領されて植民地になること」と理解できない人もいます。

 次にもう一度、私たちは道徳面の奴隷、文化面の奴隷、文化面の奴隷です。つまり彼らの行動や様式の標準など、何でも色々、全部喜んで受け入れます。道徳があっても、それらの人のヤクザな道徳です。簡単に言えば、西洋の文化は煩悩しか考えない肉体文化で、彼らが道徳を規定すれば、その種の、肉体面の、あるいは煩悩の美味しさ、楽しさを増やす種類の規定をします。それはそれらの人々の道徳、それらの人々の文明です。まとめてそれらの人たちの文化は肉体面の文化と言います。

 仏教教団員はそのような肉体の文化を持ったことがありません。本当の文化、本当の道徳がありました。つまり心の面で、明らかで不動の秩序である規定があります。私たちは先祖たちのこの種の善い文化を捨ててしまい、西洋から入って来た新しい文化、肉体の文化を受け入れます。

 彼らが腰布を穿かない、幾つもの戒を守らないのは、肉体面の楽しさだけを考えるからです。タイ人が愚かになれば、頭を下げてその文化を受け入れます。これも文化面でタイを失うことです。これを文化面で国を失うと言います。

 「文化面で国を失うのと、政治的に国を失うのとどっちが恐ろしいか」比べて見てください。一般の人は、政治面で国を失い、彼らに負けて占領される方が恐ろしくビックリすると、あるいは損害が多いと考えます。しかしタンマである心がある人は、そのように認めません。

 彼らはタンマの面の土台をすっかり失い、文化を失い、道徳を失い、仏教教団員の文明を失うことはすべてを失うこと、驚愕するような喪失と見ます。つまり人間らしさが消滅し、仏教教団員らしさが消滅し、タイ国らしさが消滅し、タイ人らしさが消滅します。このようなら、どちらが恐ろしいでしょうか。

 愚かさが「心の面、文化の面の消失は幾らでもない。物質的な楽しさ、美味しさを得ることにしよう」と誤解させます。これは道徳に関わる愚かさかアガティです。本当の道徳を犠牲にし、あるいは投げ捨て、道徳でない騙す道徳を受け入れ、際限なく物質面の美味しさ、楽しさに執着する教えにします。

 次に「文化面の奴隷になることは政治面の奴隷になる原因」と、もう一度よく見てください。国が消滅して他の国の奴隷になるのは、私たちが道徳の部分で腐敗することが原因です。彼らを好んで崇拝すれば、間もなくすべての面で、つまり二つの面で彼らの威力の下に落ちます。文化面の奴隷であることは国の独立を失う原因です。アガティにならないでください。このような話に目を瞑って愚かにならないでください。

 これをすべて道徳面の問題と言います。私たちは道徳面の問題に対してどのような感覚があるか熟慮を生じさせるために、幾つか例を挙げ、ある問題についてこれから見て行きます。

 つい先だって、貧しいタイ人が東北地方からクルンテープ(バンコクのこと)に仕事を探しに来て、「泥棒になるより乞食をする方がマシだ」と話したと新聞が報じているのを初めて見ました。私はインドでこの言葉を聞きましたが、タイで聞いたことはありませんでした。しかしつい数日前、初めて聞きました。

 東北からクルンンテープに仕事を探しに来た貧しい人にインタビューして、最後に「仕事が見つからなかったらどうしますか」と質問したのに対し、「泥棒になるより乞食になる方がマシだ」と答えました。ね、私たちタイはインドに負けません。しかしその人一人だけかどうか、自分で見てください。

 「泥棒になるより乞食になる方がマシ」と受け入れるのは、道徳が百パーセントあるからで、変化していないので喜ばしいです。しかしここで、なぜ「金持ちになればなるほど不正をする」という言葉があるのでしょうか。一人は食べる物がなく、本当に食べる物がないほど貧しくても「泥棒になるより乞食になる方がマシ」と言い、もう一方、金持ちになればなるほど不正をし、バランスがとれません。

 金持ちなら金持ちほど貧乏人より狡い人たちは、今遭遇する物、顔を合わせる物です。一人は「泥棒になるより乞食になる方がマシ」と言い、もう一人は「金を持てば持つほど狡くなる」と言います。不正をするのに都合が良ければ良いほど不正ができます。それで道徳面の問題としてどのように比較できるでしょう。

 このタイに「泥棒になるより乞食になる方がマシ」と言う人が何人いるでしょうか。そして「金を持てば持つほど狡くなる。金持ちになればなるだけ、狡さは酷くなる」と言う人が何人いるでしょうか。

 これです。目を瞑ってアガティをして、道徳面の問題を解決する人から、この問題を解決する義務の人まで、道徳面の問題は生死の問題と同じくらい重要と知りません。

 この項目を、道徳が欠如すればするほど何になるか、もう一度熟慮して見てください。道徳に欠ければ欠けるほど、話が通じなくなります。道徳のない人は自分の利益しか考えない自分勝手で、自分の物のことしか考えないので、話しても話が通じないという意味です。それぞれが自分の利益だけで、全体の利益、取るべきでない過剰な利益はありません。

 道徳がない人は自分の利益しかないので、あのように、そのようにしないで、このようにする方が良いと、他の人を納得させられる話ができません。道徳がなければないほど話にならないので、最高に理解できません。いつでも別方向の理解で、狡い人同士、自分勝手な人同士も話になりません。

 狡い人同士と見なしても、一緒に不正をする決意の人の集団の中で有利にならなければならない点で話になりません。不正にする教えがあっても話にならず、理解できず、そして私たちが欲しがる一致団結がありません。

 今「私たちは団結が欲しい。国は団結を求めている」とあまり話さなくなるまでうるさく話します。非常に話すと口が疲れ、自然に止め、自然に消えるので、団結しません。アガティなら、道徳がなければないほど、愛し合う道、団結し合う道がありません。人間集団の団結は道徳がなければなりません。そうすれば団結が生じます。それぞれが道徳に欠ければ、身勝手で団結できないと簡単に見えます。

 「道徳がないことは何よりも悪い」と比較することを知らなければなりません。だから貧困も、愚かも、あるいは健康が衰えているのも、読み書きができないのも道徳がないよりマシと、率直に比べて見てください。死んでしまうのもまだ道徳がないよりマシです。しかし今、誰も認めません。この世界のどの哲学者たちも、どの政治家たちも、どの知識者たちも、「道徳に欠けるより死の方がマシ」と認める人はいないと主張、あるいは挑戦したいと思います。他の物、他の時代なら、それはあります。

 ダンマを失うなら、あるいは道徳を失うなら死ぬ方が良いと言う人はいます。今あるのは、ぺーンナームアック・ルークスア(ボーイスカウトのような団体)か何か知りませんが、「命を失っても、正直さを失うな」と言います。それはその文字にあるだけです。考えて見てください。道徳を失うより死の方が良いと言うのは、本心ではありません。

 今落として「道徳がないよりバカの方が良い」と言いたいと思います。こういうのは教育省は認めません。理解できません。世界の国の教育を実施する人たちは、道徳がないよりバカの方が良いと言うのを認めません。道徳に欠ける方がバカより良いように見えるので、バカにさせないよう大々的に教育をします。世界の教育はバカを解決することに集中するので、狂った教育になります。つまり賢い人にするだけで、人は道徳がありません。

 以前、教育は知識と道徳の両方がありました。職業の知識と能力があり、道徳もありましたが、現代の教育は、片方しか残っていません。つまり性急で強烈で、稲光のように賢い知識しかなく、道徳の話は全部消えました。いろんな原因で、そして気づかずに、見ないで消えました。だから今の教育を修了した人は普通以上に賢いですが、道徳がありません。それでどんな結果が生じるでしょうか。それは問題を作る賢さ、不正をする賢さ、最高に深く有利になる賢さです。

 熟慮して見てください。世界中に不正が溢れています。私たちは、最低の人から最高の人物まで狡い人と感じます。少なくとも不正な人で、今不正な人と非難され、不正な人と検証されています。非常に素晴らしいと言われる現代の教育は、なぜ「不正に賢い人」にするのでしょう。大学を卒業しても大麻を吸うのが好きで、ヘロインを吸うのが好きです。このような教育って、いったい何でしょうか。

 昔、まだ教育が発展していなかった頃、子供たちはこういうのを嫌いました。今教育が発展して、卒業すると薬物を好み、猥褻のような変わった物を好んで「これは芸術だ」と捉えます。このような賢さは堪らないでしょうか。

 だから私は「道徳がないより、バカな人でいさせていただきます」と言います。私は煩悩に従う賢さにし、道徳をなくす類の教育を尊敬、崇拝しません。道徳がないより貧乏の方がマシなので、道徳がある側にします。私たちの先祖は、全員そのように捉えていました。

 彼らは貧しさに甘んじ、挽回するまで歯を食いしばって耐え、罪な人になって豊かになることはしませんでした。道徳がないより、貧しさを受け入れる方がマシです。あるいは病気も健康を害すのも受け入れるけれど、道徳がないのは受け入れませんでした。

 今もまだ残っていて見えるものもあります。医師が言うには、蟹や魚を獲って食べるのは、宗教に厳格な人はしないそうです。彼らは「死ぬなら死ぬ」と言います。あるいは生き延びるために戒を破り、戒に反さなければならない方向で何かをさせると、彼らはしたがらないと言います。だから彼らは病気や健康が衰えるだけでは、道徳がないことを受け入れず、道徳の側にします。それはこのように、人に十分道徳があることの原因です。

 読み書きができない方が、道徳がないよりマシです。昔は千年でも二千年でも、読み書きができない人も、読み書きができる時代の人より良い道徳があったと証明されています。これから熟慮して見ても良いです。道徳がないより死ぬ方が良い。これは話しました。もう一つ、道徳の衰退を受け入れず、死を受け入れる人に飲ませる薬はないと話したいと思います。

 これもアガティと言い、歩くべき道でなく、気づかない愚かさです。道徳を消滅させ、道徳を踏みにじり、この世界に道徳を無くします。


 今、現代が「最新」と言うもう一つの愚かさ、必要以上に良くすることから生じる罪を知りません。

 するべき以上に良くすることは罪です。そして人はこの罪を知りません。だからこれらの人の善は全部罪です。つまり物質を重要と捉える人たちは身体だけを考えるので、いろんなことを発明します。

 昔の人は、美だの何だの、欲情の話はほとんどなく、今の人は賢いので美しくして熱狂します。自然では、あるいは昔の文化では、あったのは生殖が大原則であり、この様式の教育で発展した現代のように、欲情に熱狂する話はありません。over sex と呼ぶ物、あるいはそのような物は、今まで知っている人は無く、たった今、つまりこの様式の教育で発展した現代に生まれたばかりです。

 まとめれば、アーヤタナの奴隷は今のように発展していなかったと言います。つまりアーヤタナの楽しさ、美味しさのための目・耳・鼻・舌・体・心の際限のない奴隷です。これは非常に多く、彼らに良いと考えさせる原因です。もっともっと良い物を食べなければならず、もっともっと良い生活をし、もっともっと飾り付けなければなりません。彼らはすべて「善い」と言い、すべてを「発展」と呼びます。こういうのは今までありませんでした。

 必要を超えているので、生じた途端に罪になりました。こういうのは、畜生はできません。だから畜生は、必要以上に良くする部分の罪はありません。しかし人間は最高に増え、特に現代の人間は、必要以上に良くすること、そして聞く耳を持たないように著しく増えていることに罪があるでしょうか。神様の呪いがあるでしょうか。

 「必要以上に良いのは罪」と、憶えておいてください。だから食べるにも、使うにも、消費するにも、必要以上に良くしないでください。それは罪であり、愚かであり、アガティだからです。


 次に、これも次の項目と関りがあり、今の人は辛抱をしたがりません。

 昔の人なら辛抱は当たり前でしたが、現代人は、少しも辛抱をしたがりません。以前は西洋人が仏教をどれだけ好きでも、どのように好きでも出家しようとしませんでした。出家すれば戒があり、律があり、辛抱しなければならない規則がたくさんあったからです。しかし私たちは当たり前と見たので、簡単に出家しました。これも、辛抱や我慢が嫌いなら、自分を強制する規則を好まないので、自分自身を強制して、我儘な本能を管理しない見本です。

 今私たちにも変化が生じました。辛抱が好きだった人たち、特にタイ人、あるいは仏教教団員は、かつては心の面の辛抱が好きで、身体の面の辛抱も好きでした。しかし彼らの後を追って辛抱を好まなくなったので、他にも波及して「俺、俺の物」の本能を管理しなくなりました。「俺、俺の物」の本能は自慢します。

 俺の本能は貪っていろんな物を掻き寄せ、これらの本能を管理しようとしません。そして貪り・怒り・迷いが生じて、町中、国中、世界中に流れて氾濫します。身勝手な本能を管理するのが好きでないので、減らさず、消滅させてしまわないからです。

 俺と呼ぶ物は自画自賛し、誰も認めず、名誉ばかり考えて熱狂し、誰も受け入れないと言います。「俺の物」は欲張り、欲張ったように得られなければ怒ります。怒りは欲と対です。怒りは対でなければなりません。望んだように得られない時は怒ります。あるいは誰も認めない煩悩、自画自賛があります。すべては非常に詳細すぎるので、私は短く「俺、俺の物」と言います。

 世界の人は今、俺、俺の物の本能を管理しようとしないので、この世界に貪りと怒りと迷いが流れて氾濫します。それが俺、俺の物の症状です。ね、目を瞑ってするばかりです。知らないので、アーヤタナの、目・耳・鼻・舌・体・心の感覚のままにするので、その度に失敗します。益々物質面、肉体面の幸福、楽しさばかり考えるので、他の物が見えず、理解できません。これが罪を作らせる原因である愚かさ、あるいは迷いです。あるいは今、町中、国中問題になっているすべての悪をさせる原因です。

 だから「パーパーニ カンマーニ カローヌティ モーハー=すべての動物は、モーハ故に罪を作る」と思い出してください。モーハ(痴)とは闇、愚かさ、迷いで、範囲が広いので非常に広くできます。

 「すべての罪業は迷いによって作る。迷わなければできない」と、この項目をできるだけたくさん熟慮して見てください。だから「迷い」という言葉にたくさん関心を持ってください。それは目を遮る光です。愚かさ、迷い、あるいはモーハは目を遮る光です。それは闇以上です。闇なら何も見えないので、それ以上何もする必要はありません。

 騙す光は事実のままに現わさないので、人が迷う無明の光です。人は饒舌に話し、「自分は知っている。頭が良い」、そのよう、このようと自慢します。それは無明の光なので、すべて間違いです。

 すべては愚かさ、あるいは人間が気づかずにするアガティに関わる幾つもの見本です。それは道徳面の問題であり、大きな問題であり、そしていつでも道徳面の舞台に立っています。そして経済面、政治面、教育面、農業面の問題など、世界のすべての問題である子を産みます。これらすべて問題は、愚かさ、迷い、気づかないアガティに基盤がある道徳面の問題から生じます。

 だから人間は道徳面の問題に対して感覚があるかどうか、この項目を良く見てください。私が初めに「むしろ感覚がないと言う方が正しい。道徳面の問題に対して感覚がないと言う方が正しい」と述べたように、今このように感じていると話すのは、あるいは間違って感じるのは、その種類の考えから何も結果がないからです。


 次に、道徳と呼ぶ物があるかないか、あるいは衰退、発展を現すもう一つの角度で見ます。

 短くまとめて「罪と徳を知る」、あるいは「徳と罪を知る」と言うとまとめたいと思います。徳を知り罪を知る知識について話します。先ほど愚かさについて、知らないことについて、アガティについて話しました。次に知るべき知識、そして反対の知識の角度で見ます。

 しかし初めに、罪・徳・恩・害を知ることについて、どのような事実があるか見てしまわなければなりません。これは更に比較して見なければなりません。そうすれば簡単に見えます。今の世界で使っている普通の言葉で言うと、どのような種類の人間を教育があると言い、どのような種類の人間を教育がないと言うのか。そして現在の教育過程も、教育のある人間と教育のない人間を比較して見なければなりません。

 私がこのような質問をすると、人は頑固で、自分の感覚で、あるいは自分の望みどおりに答えようとしません。だから投票から答えを探すこともできません。きっと誰も受け入れません。あるいは面と向かって抵抗し、殴り合って全員口が裂けても受け入れる道はありません。だからそうしないでください。今世界に本当にある物を見るのが一番です。本当にある現象を時代ごとに分けて見れば、簡単に見えます。

 何の時代か知らない人もいるので、今彼らがピンポンの時代と呼ぶ現在と答えさせていただきます。今現在、このニ三十年の間をピンポンの時代と呼び、ここ十年を、彼らは宇宙の時代と呼び、そしてこの二三十年を核の時代と呼びます。その前は、電気を使うことを知り始めた電気の時代と呼びます。それより前は蒸気の時代です。

 三、四百年前、人間は蒸気を車や船の動力に使う知識があり、それだけ知っている時代を蒸気の時代と呼びます。その後もっと賢くなると電気の時代で、電力を発明して使うことを知り、上手になります。その後核の力を使うことができ、もっと後は地球の外、宇宙へ行くことを知ります。しかし最後の現代はピンポンの時代で智慧が尽き、政治面の問題解決を助ける物は何もありません。ピンポン玉を使うしかない、つまりピンポン玉のように当てにならない嘘と欺瞞の時代です。

 一番は道徳を比較して見ます。ピンポン時代の道徳と、宇宙の時代の道徳を比べて見ると、どちらが善く、どちらが悪いか、罪徳・功罪を比較して見ると、ピンポンの時代はピンポン玉のように嘘と欺瞞の時代で、過ぎた宇宙の時代の道徳より悪いです。宇宙の時代と核の時代の道徳は、逆戻りしなければなりません。核の時代の道徳には敵いません。核の時代の道徳は、電気しか知らなかった電気の時代の道徳に敵いません。

 電気の時代の道徳も、蒸気の時代の道徳には敵わず、蒸気の時代の道徳は、牛や水牛で頸木を引いていた、昔式の省力機を使った時代には敵いません。肩や牛や水牛で水田を耕していた時代は、省力機を使うことを知った時代より善い道徳がありました。このようなのは本当か嘘か、自分で見てください。そして答える必要、反論する必要はありません。これは時代ごとに比較して、これらの現象を見せただけです。

 次に最初から最後まで一挙に比較するなら、昔の道徳とピンポン時代の道徳はどのように違うか比較し、どちらが道徳でどちらが道徳でないか、考えて見てください。冗談ではありません。誰かを皮肉っているのではありません。事実を見る手伝いをしていただきたいだけです。この世界の人間の生死に関わる事実である道徳があること、あるいは道徳がないことを見る手伝いをしてください。これを、このように広く見ると言います。

二番目。次は狭く見て、子供、青少年の道徳を比較して見ます。

 道徳、あるいは子どもが罪徳を知っているのは、地面に座って勉強した時代、あるいはお寺のサーラーに座って勉強した時代は、何十万も何百万もする建物で勉強する時代の生徒より善かったと、本当にこのように感じます。みなさんも、四五十年前の子はお寺のサーラーで勉強し、時には木陰の地面で勉強しなければならなかったと理解できます。

 今の子は何十万、何百万もする建物で勉強します。それで見てください。この二つ時代の子の内、お寺のサーラーで勉強した時代の子の方が現代の子供たちより善かった、徳と罪、あるいは道徳の感覚があったと見えます。これは説明は要らないでしょう。何十万、何百万の値段の学校から、専門学校、大学に生じている問題、先生たちの段階まで、何があるかを見ます。

 三番目。幼児園の三歳四歳の小さな子は罪を恐れるか。罪という言葉を知っていて罪を恐れるか。このようにもう一度見ます。

 小学生になると残りが少なくなります。罪を恐れる感覚、あるいは道徳は残り少なくなります。

 中学生になると、罪を恐れる感覚、あるいは道徳は半分も残っていません。

 高校生になると罪徳の感覚、あるいは道徳は残っていません。

 大学生になるとこの感覚は最高に無くなり、そのようでなければならない、このようでなければならない、そのように要求しなければならない、このように要求しなければならない、このように交渉しなければならない、このように闘争しなければならないと、民主主義に狂った人の教えで学んだように、あるのは怒りによる荒んだ行動と、感情の沸騰だけです。彼らは「膨張した民主主義」と呼ぶほど教えるので、民主主義がこれらの人の脳を侵します。ダンマがある民主主義ではありません。

 だから私たちは見ることができます。幼児園の子は、本能で小学生より道徳があると認めなければなりません。本能で。小学生は中学生より善い道徳があり、中学生は高校生より善い道徳があります。これを「年齢別に見る自然の経過で、本当にある環境と人物は、このように見せる結果がある」と言います。

 四番目。もう少し広く見ます。見る必要があります。あるいは非常に重要な事実です。そして極めて問題でもあります。つまり十分発展したという国の青少年と、後進国と呼ぶ国の青少年です。

 タイのように小さな国、遅れている国を、彼らは後進国と呼びます。しかし少し遠慮して、少し気を使って発展途上国と言い、彼ら自身の国を先進国と呼びます。だから世界のすべての国は、先進国と発展が劣る国の二種類になります。この二種類のうち、どの国の子どもに善い道徳があるか、あるいは大人でもどの国の人に善い道徳があるか。つまり道徳の価値を知っているか。道徳を尊重し、徳と罪を知っているか。これを広く見ます。

 「先進国は物質狂いで、道徳を考えず、掻き寄せることしかなく、小さな後進国はまだ愚かで、掻き寄せることも知らず、まだ罪を恐れるのでより善い道徳があり、より多く神様がいる」と答える必要はありません。

 次にもう一つ、どの国の方が道徳の教えが変化したか。著しく発展した国は、道徳の教えがどれだけ変化したか。まだ発展が劣る国は、どれほど道徳の教えを変化させる勇気がないか。それでもどの国の道徳がより多く変化したか。それ以上言わなくても見ることができます。発展した国は発展だけを目指し、物質面の利益だけを目指し、道徳面の規則を改定し、道徳違反になる必要がない新しい流行が生じます。

 これは、非常に発展した国の青少年と、まだ発展が遅れている国の青少年のどちらにたくさん道徳があるか。罪という言葉と徳という言葉は、非常に意味が変化し、どの種の国で、つまり発展した国と、発展していない国の人々の中で変化したかを見る道具にします。どうか公正な心で学んで見てください。

 五番目。次に残っているもう一つ、先生について話したいと思います。

 先生という言葉の一番の意味は「扉を開ける人」です。精神面の案内人と訳すのは、インドの昔の本当の文字で、グルという言葉は扉を開ける人という意味です。語根がどうか、パーリ側の教典にはありません。それは古すぎもします。しかしこの言葉は本当の語根で、扉を開ける人という意味と保証されている点が一致しています。

 動物が暗い小屋の中にいて、人が来て扉を開けると、それらの動物は広い場所へ、明るい場所へ、光がある空気の良い場所へ出て行きます。その扉を開ける人が先生という言葉の意味です。

 二番目のもっと簡単な意味は、精神面の導き手という意味です。先生は精神面の光で、すべての人に正しく後を追わせます。グルと呼ぶのは「恩がある人、尊敬するべき人物」と捉えるからです。グルは非常に恩がある人、あるいは非常に尊重しなければならない人と言い伝えられています。これが先生という言葉です。

 その後先生は意味が変化して、雇われて勉強を教える人になったのは別の話です。混同しないでください。先生なら扉を開ける人、あるいは精神面の案内人、あるいは尊敬される人物の義務をしなければなりません。精神面を照らすために世界の規定としてあります。これをまとめて先生と呼びます。

 次に現代になっても、まだ先生の類の人物がいて、昔と同じ、精神面の扉を開ける人であるグルという言葉を使います。しかし行動はピンポン時代と呼ぶような時代に応じて変化し、世界や世界の出来事が変化したので、先生も持ちこたえられず、変化しました。青少年の案内人、あるいは精神面を照らす人が変化するのも当たり前です。だからこの変化を見、そして現代の世界にとってこれほど悪い結果と理解します。そして先生が政治に仕える人になった、ピンポンの時代を見る方が良いです。

 現代の多くの先生が欧米へ留学したことがなかった時代はどのようで、先生が留学したことがある時代はどのようか。欧米に留学するのが流行り、先生が欧米の尻を追う時代はどのようで、そして欧米に出しゃばりたがる時代はどのようか。そしてピンポン時代の先生は抵抗し、抗議し、何でもする導き手である人が、どんどん増えています。

 先生は抗議のリーダーで、それで精神の扉を開けることができるでしょうか。彼らは「そのとおり。講義することは愚かな人、ヤクザな人の精神面の扉を開けることで、闘い、抵抗し、あるいは要求する機会を与える。それも正しい」と考えることもあります。

 しかし今、道徳の角度で、どの階層の先生にどれくらい道徳があるかを見ると、留学したことがない先生、留学を好む先生、西洋の尻を追う先生、西洋にしゃしゃり出たい先生、思い切り怒りで当たり散らす先生は、あのような要求、このような要求、抵抗の導き手で、先生であることの状態は何も残っていません。

 今はどの種の先生が多いでしょうか。子供たちの道徳はどのようか、すぐに答えることができます。これだけ話すだけで理解できます。雨と競って話す必要はありません。話が終らないうちに、雨が降って来そうです。

 六番目。統治者階級を見ます。政府、何と呼んでも良く、遠慮なく呼ぶことができます。しかしまとめて統治者階級と呼ばなければなりません。政府の形、あるいは政府の舞台裏、あるいは政府の前面など何でも、この統治者階級は、道徳にどのような意味を与えているでしょうか。世界の統治者階級は今どのように、道徳面の価値を与えているでしょうか。

 これらの統治者階級が良く道徳を知って道徳に意味を与えれば、人間にとって利益がある形の道徳を規定しなければなりません。つまり確実に人間に与える平和があるに違いありません。

 今、統治する権力のある統治者階級の人は、どのような心があるか見ます。これらの人は、どれだけ罪・徳・益・害を知っているでしょうか、どのように父母や先生を知り、どのように道徳・分化・宗教・神様・僧を知り、国を失うこと、あるいは国の消滅をどのような状態で知っているでしょうか。

 彼は、民主主義は道徳がある人だけにふさわしいと、知っているでしょうか。道徳がなければ民主主義はあり得ません。民主主義があり得るのは、道徳が基礎にあるからです。彼らは民主主義の部分にだけ迷い、道徳の部分を見ません。それは拠り所にできない民主主義で、あるのは毒である民主主義だけです。だから民主主義の統治のほとんどは毒で、自然の事実に反し、いろんな事実に反します。

 憶えておくべきとても良い箴言があります。「ネーサー サバー ヤッタナ サンティ サントー」。ネーサー サバーは議会ではない。ヤタナ ナ サンティ サントーは善人がいない所はどこでも、そこはサパーではない。

 いろんな世界の国の国民の代表議会に善人がいるかいないか。善人がいなければ、サパー(議会)と呼ぶべきではありません。集まって狂人の仕方でいろいろ口論し合う狂人の集団にすぎません。パーリ語の意味の議会なら、サントー サンタブッガラ、つまり善人がいなければなりません。善人がいない所はどこでも、義会ではありません。

 今議会があり、国を統治するための議会で、そしてその議会に善人がいるかどうか、見てみませんか。善人がいなければ、それは狂った人と酔った人の集合で、半分狂い、半分酔い、いろいろ惑溺します。道徳と呼ぶ物を知らずに、国、あるいは世界を導くことはできません。その議会は罪・徳・益・害を知っているでしょうか。それ以上に、善人がいるでしょうか。

 国の消滅、国を失うという言葉は、最高に重要な言葉です。彼は文化的に国を失う、国が亡びるというのは、政治的に国を失う、国が亡びるより非常に凶悪と知っているでしょうか。敗北して植民地になり、奴隷になければならなくても、まだ道徳、タイの文化があり、仏教徒でいられるなら、タイ国を失ったと言いません。タイ国が滅びたと言いません。地理的に、あるいは政治的に他の国に含まれても、タイの国は人物、文化、道徳にまだあります。

 しかし今、私たちが道徳、仏教教団員のようなタイの文化を、今ここで捨ててしまえば国は滅びてしまい、タイ国を統治するために会議する議会の中で、国が滅びます。タイ人らしさがなければ、まだどこの植民地にもなっていなくても、タイは滅びます。今タイの領土はどこの国にも占領されていませんが、タイが消滅することはあります。

 つまりタイ文化がなく、タイの道徳がなく、先祖たちに昔からあった、善人らしい、タイ人らしい仏教教団員らしさはありません。今、文化面のタイは消滅したと言います。このようなら、領土はまだ他国の物でなくても、国は滅びました。

 今彼らは目を瞑って熱狂したように、怒り任せに、性急に、粗暴に、一面的に一方だけ領土だけを見て、抽象面、心の面、意の面の国を失うこと、国が滅びることを見ません。だから心の面、あるいは文化の部分の国が滅びます。そして間もなくこの国の滅亡が、身体面、国土面、物質面の、何でもすべての国の滅亡をもたらします。

 今私たちが何でも彼らの尻を追い、生活の何でも彼らの尻を追えば、残っているタイ人らしさはありません。間もなく彼らの奴隷に志願するだけです。口は別のことを言いますが、心情はすっかり行ってしまいました。最高に恐ろしいタイの滅亡と言います。

 他の国も同じです。この国だけではありません。これは統治者階級次第です。政府でも国会でも、国を護る義務をする人の集まりは、どれだけ道徳があるでしょうか。十分道徳があれば、タイらしさでも何でもあり、人間らしさもあります。穏やかな幸福も平和もあります。先に心の面の道徳がなくなれば、最後には身体面も、物質面も終わります。


 これを、すべての角度、すべての面で最高に見ると言います。たとえ概略でも、すべての角度すべての面で、道徳はどのような問題があるかを見ます。

 人間であるみなさん。この問題をどのように感じますか。誰でも「感じる」と反論しますが、その感覚が正しくなければ、まだ目を瞑っています。だから感じない方がマシと言います。だから正しい問題解決ができません。本当に感じれば問題を解決できます。なぜ問題解決できないと言うのでしょうか。見てください。至る所にあるのは危機ばかり、分裂ばかりで、個人の穏やかな幸福がなく、全体の平和もありません。道徳面の正しさがないと言います。

 彼らが何かを知っていると言えば、道徳がない道に沿って知り、それを道徳と仮定します。道徳でない物、つまり今世界にある事実を道徳にします。だからこの世界の今の人は、道徳に対してどのような行動があり、どのような感覚があるか、今日適度に話しました。

 今彼らが多少得意なのは、道徳面の哲学の話をたくさん話せる口がありますが、何人でもありません。そして哲学者の集団で道徳面の哲学で反論し合うのも何人でもありません。それ以外の人は知らず、実践しません。誰も実践したくないので、時間を肉体面の陶酔の幸福や楽しさの追求に使いたいので、実践する人は誰もいません。

 道徳があれば限定され、彼らも我慢しすぎなければならないと感じます。時には味気ないと感じるので欲しがりません。世界はこのようです。道徳面の問題に対してこのように感じます。

 「世界を消滅させよう。私は望み通り美味しさ楽しさを味わう」と短絡的に考える人がいます。そしてこれが正しさです。こういうのは非常に増えています。人間の道徳に対する感覚は、このような事実があります。だから持ち帰って、どうか熟慮して見てください。

 次に仏教教団員であるみなさんも、他の人と世界を共にしなければなりません。だから知らなければならず、関心を持たなければなりません。そして人間の話に関して、生きること、あるいは人間が危機を脱すことに関して、あるいは破滅、人間を消滅させることに関して人間社会を知らなければなりません。だから話しました。

 仏教が、道徳という言葉の意味で世界を平和にするため、すべてのダンマが世界を護って、世界が正常で幸福な状態であるよう支えるためにあっても、仏教教団員らしさは、自分と他人を穏やかな幸福にすることに利益がある人だからです。

 だから「道徳という言葉は、シン(戒。タイ語読み)、あるいはシーラ(パーリ語)という言葉が重要」と何度も話したことを忘れないでください。シーラは正常という意味です。正常なら混乱せず、問題がなく、苦はありません。だからこれだけで十分です。混乱させる煩悩と苦がなければシーラで正常です。これは世界で共存する人間にとって最高に素晴らしい物です。

 シーラの問題は人間が正常であることで、関心を持つべき物です。自分の能力の限り関心を持ってください。一度生まれたら、人間が「すべてにおいて正しい人間」という意味で生活するために、能力の限り、力の限り助け合うことができると言われるからです。後日、他の角度の道徳の問題について話します。

 今日は時間になりましたので、これで終わらせていただきます。




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