5.道徳面の問題に対する人間の感覚





1974年8月3日

 タンマにご関心がある善人のみなさん。アリヤシーラダンマの話の土曜講義は、道徳面の問題に対する人間の感覚という小さな題でお話します。

 誰が倦怠しても恐れず、道徳と呼ぶ物について繰り返し熟慮していただくようお願いします。かつて人間を助けたように、援けることができる物だからです。今世界のいろんな問題は、道徳の衰退だけが原因で生じます。しかしこれを見る人は誰もなく、反対に他の状態で大声で助けを求めています。

 今私たちは、現代のいろんな危機、あるいは今どこででも増えている犯罪を非常に恐れています。首都の中心でもこの恐怖はあります。私たちは、それは人間の道徳の欠如に原因があると知らずに、幾つもの困難に耐えなければなりません。

 私たちは、それは何から生じたか見ないで、良く調べないで新聞紙上で話している困難について話し、これらの危機を生じさせる原因について話しません。困難として現れる結果について話しますが、その原因は何かを見ることに関心がありません。それ以上に、誰かが「苦は道徳の欠如から生じる」と話せば、信じようとしません。理解できません。だから自分で話すことに関心がありません。他人がすべての危機を生じさせる原因である道徳の衰退について話しても、他人の話を聞く興味もありません。

 みなさんがこのような状態でここに座っていると、人間は何も問題がない、あるいは世界は今何も問題がないように感じます。これは、何も関心を持つ必要はないというのに近いです。この講義を聞くのは、危機、あるいは国家の混乱の原因を断つ知識より、むしろ他の知識がほしいためです。これも人間の一つの感覚を表しています。

 道徳面の問題と感じる人は何人もいません。しかし今困窮している地域の集団に聞けば、あるいは国全体の、世界中のいろんな話をまとめて熟慮して見れば、このスアンモークの世界とは別の世界と感じます。

 このような状態の中にいると、今クルンテープ、あるいはクルンテープより大きな都市全般にある世界とは別世界です。私たちは小さな国に分かれてこのような状態でここに暮らし、それはこのようで、道徳の問題に対する感覚は別の物があるようです。今困窮していて、デモ行進をして悪戦苦闘し、反対し、そのような何かをしている人の心の中は、今ここに座っている私たちと同じではありません。だから彼らは、道徳の問題に対して別の状態、あるいは正反対に感じます。

 富豪は快適で、権力と福分があるので、もっと違う感覚があります。罪がまだ結果に至っていない人は、また別の感覚があり、他人に対して罪も何も作っていない人は、罪を作った人と世界を共にするだけ、罪のある人と同じ国、同じ町に住むだけで、その影響を受け取ります。

 こういうのは、道徳の問題に対してまた違った感じ方をします。それは今世界にある、実に多種多様な感覚です。熟慮しなければ見えません。しかし私は、熟慮して見る必要があると見ます。そうすれば道徳と呼ぶ物の価値を知る、あるいは更に尊重するまでになります。


 この複雑困難は使って話す言語にあると、もう一度繰り返させていただきます。ダンマの面でも言葉は次々に変化し、時には元と違った意味もあります。同じ語句でも別の場合に使う時は、言うことがクルクル変わって信用できない言葉を使わなければなりません。あるいは言語の欺瞞がいろんな物の理解を難しくしています。

 例えば道徳という言葉は「庶民の善い」という言葉がなければなりません。それは「庶民の悪い道徳がある」のと同じで、こういうのは、正しくありません。道徳なら「悪い」はあるべきではありません。

 しかしもっと複雑な話があります。道徳という言葉を、私たちは低いレベルで、つまり社会の話、秩序のある正しい生活と呼ぶ低いレベルの社会の安楽のための話に使ったことがあります。しかし自然の事実はそれ以上で、煩悩をなくすダンマの実践も道徳の形の中にあります。世界の学生、あるいは世界の道徳家は、涅槃の話も道徳の話の一つとしています。彼らはそれほど遠い言葉を使うことを知っているからです。それも真実ですが、特別に熟慮して見なければなりません。

 言葉が曖昧で、このようにクルクル変わって信用できないので、「アリヤシーラダンマ」という厳格な言葉を使わせていただきます。二度と変わらない、変わりやすくない言葉にするために、憶えていただくようお願いします。アリヤシーラダンマは聖人の道徳、あるいは聖なる弟子の道徳、あるいはアリヤという言葉の意味で、敵から去ってしまう素晴らしい道徳と言います。

 私たちは聖人の素晴らしい道徳を知ることができます。本当は、今道徳がないことから知らなければなりません。そしてどんな状態の生き地獄に落ちたような困難があるか、見えれば見えるほど、道徳は必要な物と見えます。今なぜこの項目を、これほど必要と見ないのでしょうか。「道徳がなければこの世界は意味がなく、畜生の世界」と言えるほどです。それでなぜ世界の人は、道徳に関わる物、特に道徳面、あるいは今日詳しく熟慮して見る道徳に関わるいろんな問題を考えないのでしょうか。

 人は今怖れ、困難に耐え、そして話す口がなくなるまで苦や困難について話し、いろんな考えや意見を出します。しかしこれらの凶悪な物の根源である「人の道徳の衰退、あるいは欠如」を見ません。

 私が道徳の話をすると、昔の古い話を繰り返し話すように、顔を背ける人がいるように見えます。観察した限りではこのように見えます。あるいは道徳の話の講義の言葉を印刷すると、関心がある人は何人もいないと信じます。しかし、一度道徳の話を十分話さなければならないという思いを抑えられません。

 変った人の感覚では悲観的にしか感じません。そして今そうなっているように、その原因を知ることに興味がありません。だから狂っている人のように安楽でない話、困難の話、いろんな話を叫びます。今この世界の人の道徳に対してある感覚を見ると、マイナス面ばかり、悪い面、劣る面ばかり見えます。

 ある人たちは「道徳の話には何も意味がない。譫言と見なす話に感覚はない」と感じます。あるいは「それは彼らが伝承している儀式に過ぎない」と考えます。またある人は智慧のない人、弱い人、愚かな人の話なので、道徳について話してばかりと考えます。他の話ができないので、問題解決ができないからです。現代人が考える最高に良いのは、時代を脱した善い物、タンマ、あるいは宗教、あるいは道徳は善いと感じます。彼らは善いと認めますが、時代を脱していて、何の問題解決もできません。

 彼らはこのように感じ、道徳の必要性について感じる部分は、ほとんどありません。だから私たちの世界は道徳の欠如が溢れていると観察して見てください。道徳を持つ決意のある人は何人もいません。道徳を知る人、関心のある人が誰もいないので、世界中の人、ほとんど世界中が道徳を知らず、関心がなく、自分自身の煩悩のままにしています。

 だから道徳という言葉は消滅しました。十年ばかり前は「道徳」という言葉が新聞紙上にあり、今よりまばゆかったように見えます。今みなさん、新聞のすべての頁に眼を通して見ると、道徳という言葉を探すのは、道徳という言葉を見つけるのは大変です。

 外国でも同じです。私はこれを観察する努力をしていますが、非常に有名で好く読まれている新聞、侮辱になるので名前は出さない方が良いですが、その種の世界のそのレベルの新聞ほど、道徳という言葉を探すのは困難です。moral、morality、このような言葉はほとんど目に触れません。あるのは今熱狂している世界の出来事の話ばかりです。解決する考えもなく、あれば寝言譫言のように複雑で珍しい話ばかりし、これからはもっとでしょう。

 しかし昔を振り返れば、遠ければ遠いほど道徳という言葉がたくさん見えます。もっと昔になると、道徳に関わる言葉、文字は見えないかもしれませんが、もっと本物が見られます。つまりそれらの人間の身についている道徳の本物があります。そのようなら紙上に言葉がなくても大丈夫です。道徳は人の身にあるからです。その後道徳は、ほとんど紙の中にあり、その後消えて今になり、新聞紙上に道徳という言葉を探すのは困難になりました。

 道徳の話に対する人間の感覚は、関心がないので減少しました。だから人間の苦や困難な問題を解決できません。原因は道徳がないことにあるのに、道徳を持たせることに関心がないので、この問題を解決できません。口ではあのように、このように解決できると言います。それは口先の解決、文字の解決です。直言すれば末端の解決です。だから誘い合って道徳の話に、もっと関心を持ってください。


 今日は最高に悲しい物、最高に哀れを誘う物、あるいは人間の最高に恐ろしい物、ぞっとする物を見ます。つまり人間はこれに関心がなく、頑固に、道徳と呼ぶ物の重要性を見ません。だから最初に、道徳に関した事実の話をもう一度させていただきます、あまり重複しない、まだ見ていない物の説明をします。

 最初に「すべての危機は道徳がないことの結果」と話します。物質面でも身体面でも、あるいは心の面、知性、精神の面も、そのようです。

 危機という言葉は、最高に時間を節約する言葉です。危機と言えば混乱、困難、混乱状態、苦に耐えることを意味し、安楽を求めることはできない、ほとんど死ぬほどの苦です。こういうのをまとめて一語で「危機」と言います。

 すべての種類の危機は、人間に道徳がないことの結果です。そして大昔から、つまりこの世界に人間が生まれて以来あります。大昔の人間は何も知りませんが、自然は声を聞きません。人間が、私たちが見ているような状態のことをすれば、それは道徳に反すので、途端に苦にならなければなりません。最初の時代の人間はまだ動物に近く、まだ悪を成すことを知りません。

 知性がなく、考えがないので、まだ問題はありません。身勝手な行動があれば、道徳に反すと知らないで道徳に反します。しかしそれは苦であり、その社会の混乱なので、人は必至で解決し、「そうだ、このようにしなければならない」と気づきます。だから新たに、失敗しないようにさせる道徳制度の規定が生まれました。

 道徳制度は人間に制定するよう強制しました。人が安楽でなく暮らしている時、解決するために悪戦苦闘し、正しい制度を見つけたので制定でき、制定しておいて、一つ一つの制度を維持しました。だから望ましくない苦や困難は、道徳がないこと、あるいは道徳の欠如の結果です。気づいていることもあれば、気づいていないこともあります。

 物質面でも問題が生じれば、それは物を消滅させすぎる、いずれかの道徳がないからです。私たちの身体という肉体面では、病気、不調、何かの害、苦になったら、身体に関わる自然の道徳に反したと知らなければなりません。調整し、解決し、変えてしまわなければなりません。そうすれば身体の異常は消えます。

 次に心の面は非常に素早い物で、非常に進歩変化し、問題になる機会が多く、危機が多く、苦になることが多いです。「心を正しく持ち、心を正しく維持する」と特別な言葉を規定した宗教の言葉があるように、心の持ち方を誤れば、自然の異常と言います。道徳の角度でも心が焦燥し、あるいは苦です。

 それです。どうぞ関心を持って考え、良く熟慮してください。私たちが愚かでも、あるいは誘惑する物があっても、心の持ち方を誤れば、途端に火になります。火もいろいろあり、貪り・怒り・迷いに分けたのもあります。心の持ち方を誤るからです。

 異常なら道徳に反すと言い、自然の道徳にも反します。これを忘れないでください。他では多分話さないからです。私一人だけがバカみたいに、「戒とは正常。正常でなければ戒ではない。静かな秩序の正常に反せば、戒がないと言う。戒とは正常」と言います。

 次に心は何よりも素早い物で、異常になるのも簡単です。身体は少し変化しても観察が間に合いません。一方心は稲光のように素早く変化するので、正常でない状態、つまり道徳がない方に変化するのは簡単です。そして苦になります。これを「心の面は道徳がない」と言います。

 次に精神面は、これも新しい言葉です。彼らが心という言葉をあっちの方に使ったので、私は定義しなければなりません。私たちには「知性の面に使う心」という言葉がないので、代わりに精神という言葉を使わなければなりません。人間の知性、考え、信じる理由などは、知性の話の中にあります。今は道徳がなく、正常でないので、正常でない原因である異常な考えがあります。

 例えば、幸福・苦・善悪・正誤などに関わる今の世界の好みは、掌を返すようにと言えるほどすっかり変化し、人間の敵である物を尊重します。考えて見てください。今の人間の知性は、人間の敵である物が見えないで、それを崇拝します。こういうのを「知性の道徳は無くなってしまった」と言います。だから物質面・身体面・心の面、そして精神面、つまり知性の面でも、道徳である正常を無くす道があります。

 だから「すべての危機は道徳がないことの結果」を一つの厳格な教えと捉えておいてください。その危機が小さな家に生じても、一つの家の台所に生じても、その台所に何らかの道徳に反すことがなければならず、だから台所に何らかの危機が生じたと知ってください。世界全体でも同じです。これは道徳に関わる事実ですが、人間は感じません。人間はこの角度の道徳面の問題に感覚がないと言います。

 二つ目の事実は、道徳があることは自然の要求です。

 これも信じる人は何人もいません。深すぎて、自然の要求まで行くからです。しかしこれを見ようとせず、これを信じようとしないので、道徳を表面的にしか見ず、道徳と呼ぶ物を何も重要でない物のように見ます。「道徳があることは自然の要求」と見てしまって欲しいと思います。試しに自然の要求に反して見れば、何が生じるでしょう。それはすべての面の破滅、物資面の破滅、身体面の破滅、心の面の破滅、精神面の破滅です。

 本当の自然は正常であること、正しさを欲しがるので、自然は道徳を欲しがると言います。正常でなくなると衝撃、破壊、何かが生じます。それは自然の要求と、人に見えない深い部分にあります。私たちは「私は欲しい」だけを見るので、私たちが欲しがる物が、私たちの正しさになります。

 今人、あるいは人の社会は道徳を欲しがらず、手に入れることだけを欲しがります、人は手に入れることを欲しがり、道徳を欲しがりません。だから得ることが道徳に反すか、あるいは道徳的に正しいか、知る必要はありません。「私は手に入れたい。道徳は欲しくないから」。しかし自然は認めません。だから自然が思い切り罰を与えれば、人はこれに振り向きます。

 私たちの国の、私たちの世界の今のように、この事実を見ようとしません。末端の原因である上辺の話だけに逃避して、根源を見ません。道徳に関心がないこと、道徳の欠如があることは、自然と死闘をすることで、私たちは多分、敵いません。だから誰も自慢しないでください。自然との闘いに勝ち目はありません。この項目の自然について理解する努力をする方が良いです。

 自然は正しさやいろんな正常さを欲しがると深く見て、そしてそれを軌道に戻し、高い心があるように努力します。人だけでなく、生まれただけで、わき目もふらずに腹と口だけを見、腹と口の話だけ、食う話、得る話を見るだけでは、十分ではありません。

 人間が「道徳があることは自然の要求」と、この事実を見れば、道徳と呼ぶ物に対して、今考えているより良く考えます。しかし私たちは最高にバカな人と同じに考え、目を瞑りってしまい、酔う物を嗜みます。それでどうして正しくなれるでしょうか。道徳があることは自然の要求と知れば、神様の要求のように感じます。だから神様の要求に逆らわないでください。何かが欲しいなら、最初に道徳について考えなければなりません。道徳に反せば自然と闘わなければなりません。そして自然には勝てません。

 「自然」という言葉は、物質のように姿を現すよりも広いです。自然はすべての物で、それが自然です。自然と闘うことは、すべての物と闘うことで、勝てる道はありません。

 三項めの事実は、道徳がないことは愚かさ、あどけなさ、純粋な心からも生じると話したいと思います。

 私たちが「正直」と呼ぶ物が、道徳がないことを生じさせることもあります。もうちょっとはっきり言えば愚か、あるいは無知と言います。しかし過ちをすれば、誰も例外はありません。この人は愚かで知らないと特別に免除する以上に、道徳は自然であり、自然の法則だからです。

 この世界の人間の法律も認めません。誰でも知っています。この過ちは法律を知らなかったから犯したと言い訳しても、こういうのは認めません。人が規定した法律も認めません。自然の話はもっと断固としていて、もっと本気で、もっと公正です。人が愚かで無知で道徳がなくても、言い訳はできません。だから過ちとして処理され、そして十分罪を受けなければなりません。

 一般に良いのは、うっかりして、怒りに押されて、貪りで、迷いで道徳がなくても、それはまだ遠く、それでも誤りに違いないと言います。今は「うっかりして」、あるいは「一時怒りに後押しされて」、こういうのは赦されるべきです。しかし自然は認めません。知らなくても、愚かな人は何も知りませんが許しません。だから「私は知りません」「私はうっかりしました」と言い訳に期待してはいけないと、それを教えにしてください。うっかりするのは知らないから、つまり一種のモーハ(迷い)です。

 仏教の教えでは、罪を作るのはモーハゆえ、迷いゆえ、「パーパーニ カムマーニ カローンティ モーハー=すべての動物が罪である行動をするのは、モーハゆえ」と認めています。モーハは愚かさの意業の意図で、モーハなら意図ではないと見なすことはできません。それは意業の一つです。

 モーハと言えば、意図がある煩悩と認めなければなりません。しかし意業の意図で、愚かさの威力がそうさせます。これも十分煩悩、十分誤りです。すべての人が罪を成すのはモーハゆえと言うのは、最高に正しいです。時には「怒りに動かされて」、あるいは「貪りで」と言い訳するように聞こえます。文字でも聞こえますが、中身はモーハの一種です。

 知らない話、うっかりした話、怒りに動かされた話、タンマの流れで誤った物を欲しがる話は、すべてモーハと言わなければなりません。だから「すべての罪を成すのはモーハゆえ」と言うだけで十分です。それには何でも全部含まれます。

 道徳がないことは無知からでも、うっかりからでも生じると、これに対してたくさん感じ、たくさん考えなければなりません。知らなければ、うっかりすれば、罪を成すのはすごく簡単だからです。だから感じなければならない、知らなければならない、非常に責任を取らなければならない物にしなければなりません。これくらい道徳面の問題を知れば、世界は善くなります。あるいは人間も善くなり、道徳の衰退は減少します。

 四項目。提示して見せるもう一つ凶悪な事実は、国を失うか道徳面の国が消滅するかです。これは政治面の国を失うより、遥かに悪いです。

 誰でも国を失うのは怖い、国が消えるのは怖いと見ています。タイもこの話で鼓舞して、国を失わないよう死ぬまで闘わせ、国を消滅させない歌を繰り返し歌わせるのは、国全体の大々的な話です。しかし道徳面の国を失う、あるいは国の消滅はそれ以上ですが、誰も歌を歌わせる人、あるいは道徳面の国を失ってはいけないと心を鼓舞する人はいません。

 簡単な例は西洋の尻を追い、西洋の文化を維持します。そのような道徳が入ってくればタイという国を失い、仏教教団員の国を失い、仏教教団員の国は消滅してスッカラカンになります。これは政治面で国を失う以上です。

 考えて見てください。道徳面で国を失えば、まったく幸福がない暮らしになるからです。政治面で国を失うのはまだ解決でき、排除でき、必死の覚悟で戦うことができます。しかし今、政治面で国を失う時は、道徳面で国を失うこともプラスされる複雑な事実があります。分けることができれば、分けて見れば、道徳面の国を失うこと、国が消滅することは、政治面以上と見ることができます。それなのになぜ、私たちは政治面の国を失うこと、あるいは国が消滅することより、恐れないのでしょうか。

 その国、この国、あの国の奴隷になるなら、私たちは恐れるだけ恐れるというほど恐れます。しかしそれ以上に国を失う、国が消滅することである道徳面の国を失うことは、反対に恐れません。人間らしい国を失う、自由である人の国を失う、苦がない人らしい国を失うことは、生きていても何も利益がないのと同じです。

 仮に政治面で国を失っても、道徳面がまだ善ければ、失っていないと言うこともできます。あるいは、間もなく取り返すこともでき、再び政治面で国を失う必要はありません。もし道徳面で国を失えば全部失います。何もかも失います。道徳面で国を失うのは、政治面で国を失うより非常に悪いです。これも事実です。人間はこのように感じるでしょうか。これは最高に凶悪な喪失と感じるでしょうか。

 だからこれらの事実は、すべて道徳と関りがあります。感じなければ感じません。感じなければ何の問題解決もできません。良く考えてください。

 雨が降って来たので、講義を終わらなければなりません。講義の場所が木陰なので、遮る物がありません。




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