F アリヤシーラダンマ 4

4.現代の道徳に関わる問題





1974年6月27日

 タンマにご関心がある善人のみなさん。

 アリヤシーラダンマの土曜講義の第四回目は、現代の道徳に関わる問題という小さな題でお話します。いずれにしても、すべての話を簡単に理解していただくために、いつでも道徳という言葉を復習させていただきたいと思います。

 なぜ誰も話したことがない「アリヤシーラダンマ」という言葉があるのかは、今道徳という言葉の意味が非常に変化し、道徳でなくなった物もあり、「自分の満足による」と言う道徳で、こういうのは聖人の道徳ではありません。だから「庶民の善い道徳」と言い直さなければなりません。「聖人の道徳」と言えば、どこの善い道徳、悪い道徳も必要ないからです。


 「アリヤ」という言葉は特別の意味があります。先ず規定して記憶し、あるいは休まず観察してください。

 アリヤという言葉を良く理解すれば、いつでも、たちまち使い物になります。一つ例を挙げても良いです。それは「シーアーリヤメートラヤ(弥勒)」という言葉です。年寄りは、これは将来現れるブッダの一人の名前で、その方の宗教の名前でもあると知っています。その方の名前ですが、本当はその方の名前でなく、「シーアーリヤメートラヤ」というその方の宗教の名前です。

 「シー」は最高の素晴らしさを表す接頭語で、これは目指す意味ではありません。目指す意味は「アリヤ」一語で、そして「メートラヤ」が一語です。パーリ語はメッテッヤという言葉を使い、タイ語ならメーットライで、サンスクリット語の音をなぞっています。しかしメッテッヤというパーリ語と同じ言葉です。

 アリヤは、今話しているように素晴らしいという意味です。まだ他の意味もありますが、「アリヤなら問題はない」とまとめることができます。まだ問題が終らなければ、まだアリヤではありません。個人の問題でも、全体の問題でも、困窮する問題でも、何の問題でも、アリヤなら問題は終わります。だから最高、あるいは最高に素晴らしいことを表す他の名詞と組み合わせて使います。

 次にメッテッヤは友情という意味で、ミトラという言葉から来ています。聞いても何も重要と思えません。最高に素晴らしい友情。それが将来現れるブッダの名前です。そしてその方の宗教も同じ名前です。シーアーリヤメートライは最高の友情があります。これが、まだ非常に期待されている将来現れる宗教です。

 シーアーリヤの宗教は、特別な何の意味があるか考えて見ると、いろんな角度で考えられます。本当に善い道徳で、人間同士の友情も本当に良ければ最高です。今、現代の世界の友情はどんどん悪くなり、友情が無くなり、どんどん不正で騙す友情になっています。だから現代の世界は、シーアーリヤの宗教から、どんどん遠ざからなければなりません。

 シーアーリヤの宗教、アリヤメッテーヤは最高度の友情があると言います。しかし今世界にあるのは憎悪だけで、どんどん敵同士になります。だからこの世界は、どんどんシーアーリヤの宗教から後退する状態になりつつあることを意味します。


 だからこの機会に、どのようにシーアーリヤの宗教を創れるかと、考えて見てしまうよう忠告します。

 私たちはこの宗教を、どのようにしたら一瞬で創ることができるでしょうか。本当の友情を創ってこの世界に最高に生じさせる以上の物は、何もありません。そして何がこのようにする助けになるかは、道徳だけです。正しい道徳があるだけで、世界の友情は素晴らしいというレベルで最高に生じます。今あるのは道徳の衰退だけで、友情も持てず、人は苦しめ合うだけです。

 友情はどのように重要か、良く考えて見てください。そうすれば、友情は苦しめ合えなくする点が重要と気づきます。それ以上のものはありません。だから仏教の教えは友情に基礎があります。自分を苦しめず、他人を苦しめないだけで十分です。他には何もありません。

 世界全体についても常に聞いている教えがありますが、私たちはすっかり見落としてしまっています。それが「すべての動物は、生老病死の友」という教えです。これは「苦しめ合ってはいけない」と付け足す必要はありません。「すべてが生老病死の友」だけで十分で、苦しめ合えません。代わりに有情が生じます。そして最高の友情でなければなりません。最高の友情になった途端に、シーアーリヤの宗教が現れます。

 みなさん。シーアーリヤメートライ(弥勒)の宗教を持つことは簡単でしょうか。それともどのように難しいでしょうか。一方を見ればすごく簡単と、考えて見てください。つまり全員が友達になるだけでシーアーリヤメートライの宗教があります。それ以上の物はありません。


 次に、私たちはどのように友情を持てるでしょうか。道徳と呼ぶ物以外に方法はありません。

 シーアーリヤメートライの宗教は阿羅漢になりたがらず、友情だけを欲しがると考える人がいるかも知れません。これは「今までのブッダの宗教は友情の話は問題ない。その人はまだ物質主義でない善人だから。これから物質主義の時代になり、友情を消滅させると、つまり誰でも自分勝手になると、前もって正しく推測できるかも知れない。だから阿羅漢になることに付随して、友情を生じさせる部分である系統がなければならない」と見ることができます。

 だからシーアーリヤメートライの宗教は、むしろこのように友情を強調します。

 ブッダなら最高の慈悲があり、シーアーリヤメートライという名前のブッダだけではないと言うのは正しいです。しかし今このように話すのは、むしろ世界の人間に注目します。なぜなら人間が悪くなり、煩悩が強くなり、そして苦しめ合い、友情がないからです。

 だから将来世界に現れるブッダ、つまりシーアーリヤメートライが道徳を持たせることに成功するために、友情の意味を拡大しなければなりません。今私が判断しているような道徳を持って見てください。そうすれば世界に友情があり、最後には自然にシーアーリヤメートライの宗教に至ります。

 道徳がない話はそれ以上の意味があります。ブッダバーシタ、パーリに見られるだけでも、人間集団に最高レベルの道徳がなければ神に嫌われ、雨も降らないので、人間の世界は米やビンロウの値が上がり、たくさんの人が餓死するとあります。このような言葉があります。世界の道徳が衰退して神様に嫌われ、雨が降らないのはいい気味です。

 今道徳は衰退し、森の木を消滅させ、雨が降らない原因である何でも全部消滅させました。人にこの道徳がないので、雨も降りません。これは道徳が衰退したせいです。それが世界に雨を降らなくさせます。道徳という言葉を遊びにしないでください。どうか、私が今詳細に話していることにふさわしく、道徳という言葉にもっと関心をもってください。


 次に道徳面の問題、あるいは今の世界の道徳に関わって生じる問題と話す目的である点を見ます。

 前回も「道徳」と呼ぶ物のあいまいな名前についてと、道徳の意味、道徳の価値と、道徳がなければならない必要性を話しました。今はまだ問題と呼ぶ物を熟慮して見るまで、あるいはいろんな複雑な困難が生じるのは現代社会の道徳の衰退のせいと見直してしまうまで、ハッキリ証明されていません。

 現代の道徳の問題と言うには、過去を見なければなりません。そうすればそれはどのようか、正しく知ります。現代と言う訳ではなく、過去を見る必要もありません。それには過去を取り上げて熟慮して見なければならず、そうすれば現在のことが分かります。

 過去の話は過ぎ去り、それは問題ではありません。過去の話はすべて過ぎ去ったので問題ではないと、良く観察して見てください。しかし当面の問題である現在の話は、問題解決のための道具です。過去の話が現在に関わっていても、それは過去の話で、問題ではありません。それは関係ある物として現在と関わっていますが、問題ではありません。本当の問題は、現在生じている話だけです。だから当面の問題を良く見なければなりません。

 見なければならない「過去」という言葉は、幾つものレベルに分けることができます。大昔である過去も、近い過去も、つい最近の過去も全部違うので見るべきです。つい最近の過去は一つの形で、遠い過去、大昔は遠くなります。現在を知るために過去を見れば利益があり、現在を良く理解する援けになります。

 ずっと昔の話を見ると、ほとんど問題はありません。大昔は自然に暮らし、道徳や何やらの問題はあまりありませんでした。あるいは「無い」と言うこともできます。苦しめ合うことも無いと言うことができます。苦しめ合わなければならない原因、必要がないからです。人はまだ少なく、自然の物はたくさんあり、そして人も苦しめる知識がありませんでした。

 その後少しずつ身勝手が生じ、発展に従って何かが生じ、苦しめ合い、そして苦しめ合いが増え、昨今は最高に苦しめ合います。ね、苦しめ合うこと、友人でないことはどのように経過して来たかと過去を見ます。

 道徳の衰退と言えば苦しめ合わなければなりません。最低でもその人自身を苦しめ、それから他人、あるいは両方を苦しめます。良く見なければ、道徳と呼ぶ物は何のためにあるか理解できません。前の三回の講義のシーラという言葉の意味を、いつでも繰り返し復習してください。シーラは正常という意味で、苦しめ合うことは正常ではないからです。

 静かに安楽に暮らすこと、それが正常です。私たちも同じで、何も妨害する物がなければ正常で、介入して妨害する物があれば正常でなく、正常が失われます。これも正常でなく、自然の道徳がないと言います。


 次に今の世界は、人物の部分に苦しめ合いがあります。つまり自分を苦しめるのも普通以上で、苦しめ合うのも普通以上で、そして誰も見ないので可哀そうではありません。可哀そうでなければ本気で解決する考えがなく、些細なことと見ます。そしてこういうのが重くなり、その後も愚かで、愚かさが重くなり、道徳の欠如と見ないで、経済面の正しくない物があると見ます。

 これをたくさん考えてください。今、どの国もこのようになっています。道徳の欠如という項目を見ないので、多くの危機が生じます。彼らは経済面が正しくないという角度で見、そして一斉に向きを変えて経済面の問題を見ます。だから力を結集して、末端の原因であるこの部分を解決します。

 そして解決すればするほど深くなり、解決できないと証明しています。愚かさで解決し、道徳と呼ぶ物を使って素晴らしい友情をつくる道徳を作らなければならないシーアーリヤメートラヤの宗教に首を伸ばさないからです。

 農民や労働者、そして資本家も、このように双方の道徳が衰退したので、問題が生じます。どちら側にも道徳がありません。しかし道徳、あるいは道徳の衰退の形は同じである必要はなく、道徳の衰退に違いはないので、問題が生じられます。道徳が衰退しなければ問題は生じません。そして一つの方向だけを、正しくなく、気づかずに歪んで見ません。そして経済面の正しくないことを責め、それらの人たちに道徳がないことを見ません。

 人がどんどん貧しくなるのは、賢くなる努力をしないことから、勤勉に努力をしない、自助の気持ちがない、そしてアパーヤムッカ(破滅を招く悪)に支配されるのを放置することまで、彼らに道徳がないからです。直接誰かが何かしているからではありません。

 貧しい人も裕福な人の生活をしたがり、あるいは人がふざけ合ってアパーヤムッカがあると、貧しい人もそのようにしたがります。できない側の人は負け組で、アパーヤムッカで貧しくなり、できる側はアパーヤムッカで天人になります。道徳の衰退はこのように複雑に交錯しています。


 次に、目前の問題はどのようかを先に見る方が良いです。

 現在と過去の時代を比較すれば、この事実に簡単に出合うので、過去と現在の道徳の問題の違いを比較します。

 過去の時代の道徳の問題は、人の知性が少ない、あるいは知性がない、あるいは愚かな人の問題で、現代の道徳の問題は賢い人の問題、つまり道徳がないことに賢い人の問題です。現代人は賢く、そして道徳を持つ賢さではありません。誰が道徳を持つために賢い人か名を挙げて見ると、いるのは身勝手になる賢さ、かき集める賢さ、他人より有利になる賢さだけです。彼らは現代の賢い人と言います。大昔の人はできませんでした。

 道徳の問題は確実に違い、社会には違う問題がありました。昔の社会は他人より得をする賢い人がなく、賢くない人の社会、あるいは愚かな人の社会です。しかし今は、有利になる賢い人の社会です。そして社会の道徳はどのようでしょう。だから現代の道徳の問題はどのようか、分析して見なければなりません。最後にそれは難しい問題と分かります。賢い人の腕であり、昔のような愚かな人ではないからです。

 これを、大昔、人は教育がなく、今人は教育で溢れ、溢れた教育があり、必要を越えていると説明できます。昔は必要に対して十分な教育がなかったと言います。しかし私の感覚では、昔の人も必要なだけ十分な教育があったと感じます。それに自然に自然から学び、必要に応じて十分知ったので、まったく教育がないと言うことはできません。

 今の人は膨張した、あるいは溢れた教育があり、根源は他人に勝つことにあります。誰でも他人に勝つために教育したがり、教育も他人に勝つことばかりで、有利になることを狙います。このように違います。道徳の問題は正反対に違い、次々にこのようです。

 昔の道徳の問題は身勝手でない愚かな人の問題で、今は賢くて最高に自分勝手な人、身勝手に関して最高に賢い人の問題と、もっとはっきり言います。昔は自分勝手を知らない愚かさでした。

 ここでの「身勝手」という言葉は、危機を脱したい、あるいはそのような感覚によるものでなく、他人より有利になりたい種類の身勝手で、恥も外聞もなく有利になります。「私は手に入れた。他人が手に入れなくても構わない」。昔はこれほど進化した賢い考えはありませんでしたが、現代はこれほどです。

 昔は罪を恐れる愚かな人の時代で、今は恐れなければならない罪がない賢い人の時代です。現代人は、彼らの感覚では、恐れなければならない罪がないほど賢いです。私たちの先祖の時代から大昔までは罪を恐れる時代で、恐れる物である罪があり、知る必要がなく、理由がないのに最高に恐れました。現代人は「愚かな人は何よりも罪を恐れる」と言います。

 今は恐れなければならない罪がない賢い人の時代で、昔の人は罪を作りにくいと言う結果がついて来ました。現代は簡単で、罪を作ることが楽しく、何代も経たないうちに、罪を作ることを楽しいものと見るようになりました。他人より有利になることは、善いことになりました。

 次にもう一度、「昔の愚かな人は、どんなに愚かでも物質主義の奴隷にならなかった」と見ます。今私たちは物質主義の奴隷になることに非常に賢いです。中には「もしそうなら、昔の人は美味しさを欲しがらず、肉体的な快適を欲しがらなかったのだろう」と反論する人がいます。それは、この意味の物質主義ではありません。

 ここでの物資主義とは、必要を生じさせる美味しさを意味し、「餌を食う」と言うようなのは、食べ物を食べることではありません。普通に食べ物を食べるのは「まだ正しい」と言い、何かを魅惑する美味しさに関りません。しかしそれを越して美味しさのため、魅惑するために食べれば「餌を食う」と言います。煩悩の餌、魔王の餌、罪の餌。人を子分にする魔王の餌を食べる。それを物質主義の奴隷と言います。

 今私たちは賢さゆえに物質主義の奴隷です。だから賢さは物質主義の奴隷になるためにあり、学べば学ほど、勉強ができればできるほど物質主義の奴隷になります。昔の人は愚かで、すごく愚かと言うこともでき、彼らは物質主義の奴隷になったことがありません。それは変化したばかりで、その後物質主義の奴隷に変化しました。

 昔の愚かな人は神様があり、ダンマがあり、あるいは最高の物であるプラタム(ブッダの教え)があったと、もう一度見ます。愚かな人、あるいはすごく愚かでも、昔は最高のものである神様、あるいはプラタムがありました。現代の賢い人は神様より上、プラタムより上にいて、プラタムを踏みにじり、神様を、つまり道徳を踏みにじります。掻き寄せる人たち、身勝手な人たち、何かいろいろな人たちは、彼らの賢さで道徳を踏みにじり、神様を踏みにじります。


 次に、少しずつ「賢い」という言葉の意味は何か、見えてきました。

 間もなく、この賢さは使い物にならないと自分で知ります。賢ければ賢いほど物質主義の奴隷になり、愚かなら愚かなほど物質主義の奴隷に ならないと言う、滑稽で特別の意味があります。愚かな人は「すごく良い暮らしを知らない。熱心にすることを知らない。美味しさ、楽しさを考えない」と罵られることもあります。

 物質主義の奴隷でない愚かな人でいることに甘んじ、賢い人は自分の賢さの奴隷、肉体の奴隷でいるために賢くなります。勉強して勤勉に働き、お金や何かを持つのは、物質主義の奴隷になるためです。

 次に愚かな人もダンマがあり、最高の神様がいます。今の人は神様を踏みにじり、ダンマを踏みにじってしまい、そして物質主義の奴隷になります。愚かな人は昔の宗教を信じ、プラタムを信奉してきました。私たちの先祖は、何十年でもない昔も、宗教である宗教を持っていました。

 今の賢い人は利益を宗教と捉えます。利益が宗教です。彼らは善く調べず、何も知らず利益を宗教にし、利益があれば善で、それを宗教のように信じ、「宗教がある」と言います。以前に何度も、日立教の人の話をして聞かせたことがあります。その人は日立の会社に勤務していて、日立の会社を宗教のように信じなければなりません。


 次に、それでも問題は生じます。

 昔の人は何も知らず自然任せだったので、煩悩は発展しませんでした。今の人は物質主義の奴隷で、自然の経過を愛さないので、賢くなって煩悩の奴隷になりました。誰でも天人と競うような、あるいは天人以上の生活をしたがります。現代は生活に惑溺し、服装でも何でも煩悩の言いなりです。ね、問題はこのようにあります。

 昔、大昔は、今物質主義と呼ぶものを知りません。昔の人はどのように食べ、どのように暮らしていたか、それから少しずつ発展し、それからお祖父さんお祖母さんの時代、つまり四五十年前になったと、目を瞑って思って見てください。

 つい昨日、私たちのお祖父さんお祖母さんはまだ、物質主義の奴隷でなく、あるいは物質主義を知らず、腰布一枚だけで十分でシャツもなく、毛布も必要ありませんでした。彼らは物質主義である身体面の幸福、楽しさ、美味しさ、物質主義を知りませんでした。今は知る以上で、溢れ、いくら衣服があっても、いくら食べ物があっても、どんなに営養する美味しい物があっても足りません。ず、

 このように次々と今日まで、正反対とも言える人の状況の違いを考えて見てください。昔の人は神様を畏れ、現代は神様を怖れ彼らは「反対に味しくない物、あるいは貧乏を怖れます。このようなのを怖れてしまいます。昔は貧困より罪を恐れ、神様を恐れました。だから「泥棒をするより乞食をする方がマシ」と言いました。

 だから昔の人は神様の人、今は煩悩の人、物質主義の人です。率直に言えば、亡霊の人です。かつて私たちは神様の人間、神様の人、プラタムを尊重するプラタムの人でした。ダンマに反すより死を受け入れる方が良かったので、神様の人でした。

 今は物質主義の奴隷です。神様を捨てたので煩悩の人です。その煩悩は亡霊と呼ぶべきです。だから煩悩を亡霊と呼ぶのは暴言でも何でもなく、煩悩の人なら亡霊の人になります。そして次の言葉は、亡霊の人なら亡霊で、その後人になる必要はないと、勝手に言ってしまいます。

 今、かつてなかった種類の何が生じたか、次々にこのように見てください。昔は、教育すればするほど愚かにする教育はありません。まったくありませんでした。まったく教育がなかったと言う方が良いです。教育すればするほど愚かにする種類の教育はありません。教育は最高に愚かにすると、このように話すのを信じない人もいます。その人は稼ぐ賢さ、掻き寄せる賢さ、有利になる賢さだけを見るからです。

 そうです。現代の教育はそのような賢い人、その様式の賢い人にすることができます。しかしそのような賢さは頑固で、愚かで、自殺し、自分の首を斬ります。人はまだ、自分で自分の首を斬らせる種類の教育と知りません。表面を見ても、大学を卒業しても薬物やいろんな種類のヒッピーになることを好むと、子供でも見えます。

 習慣性薬物は何百万、何千万、何億もの値段で売買されています。教育が発展していると言う大国の大学を卒業した人が売ります。考えて見てください。卒業すると薬物を好みます。これは教育がある人の愚かさです。教育して人を愚かにし、薬物好きにします。学生も愚かになるため、卒業したら自分の好き勝手にするために勉強します。だから薬物を手に入れ、絢爛豪華な衣装を手に入れ、服を着ない新しいファッションになります。

 これは愚かか賢いか、考えて見てください。私が「教育すればするほど愚かにする。お祖父さんお祖母さんたちには、教育すればするほど愚かにする教育はなかった」と言うのは、愚かか賢いか、考えて見てください。今は著しく増え、著しく増えて教育すればするほど愚かにします。煩悩の奴隷にし、道徳がないことの奴隷にする教育、賤しい心にする教育です。教育すればするほど下賤な心になるのは、自分のことしか考えないからです。

 自分勝手なので、正反対に変化しました。大昔は静かさを好み、善を好み、静かさである物を好み、静かである点が良いと見て宗教がありました。今彼らは「手に入れることは善」の種類の宗教があり、「手に入れることが善」で、他の善は知りません。関心がありません。手に入れることが善で、「宗教とは手に入れること」と捉えます。昔は欲しがらず、彼らは唾棄しました。宗教の教えで正しくない方法で手に入れれば善と呼ばず、そして容認しませんでした。

 今私たちは「手に入れる善」である宗教があり、昔は「静かで善い」、あるいは「真実で、清潔で、自分を拝める純潔で善い」宗教がありました。それです。彼らはそのような宗教を遵守しました。今吐き気を催すような、とても拝めない宗教を持つので、この話を考える必要はありません。

 過去と現代の比較は、現代の道徳に関わる問題を理解する援けになります。過去と比較しなければ、「それは善い。正しい。良い経過になる。それは善い道徳だ」と、永遠に寝言を言っているでしょう。しかし人は感覚に逆らって話します。今社会面の静かな幸福があり、満足できると感じている人がいるでしょうか。「今私は、このような社会の状態に慢足している」と、このように本気で言う人がいるでしょうか。

 自分のことになったら、もう一度自分を振り返って見ます。私たちはこのようであることに満足しているか。あるいは吐き気を催す物である彼らと一緒にいなければならない、一緒にするのは我慢できないと、ますます自分が嫌いになっているか。あるいは、自分がそれらの人と一緒にしなければならないことに吐き気を催すか。

 彼らと一緒に間違いをしなくても、自分の環境に吐き気を感じます。大便の山に座っていれば吐き気を催し、誰も、現在の状態に満足していると言えないのと同じです。

 まだ例はたくさんありますが、取り上げる必要はありません。現代の道徳面の問題はどのようか、どのように複雑か見るために、取り上げただけで十分です。過去と比較しなければどんな損害があるか、ほとんど知りません。だから現代に生まれたばかりの子供たちは比較する術がなくて可哀そうです。教育機関、教育管理者もこのような話をしません。そしてこのように比較観察する機会もありません。

 だから子供たちは逃避して、町中、国中がヤクザになります。そして道徳がない人である罰を受けます。私たちの国の青少年は、このようになりつつあります。これはタイばかりでなく、世界中の現代に関わる道徳面の問題です。タイは少し鞭打たれるべきです。彼らの尻を追う小さな国だからです。

 あるいは彼らが「遣い走りをする犬」と言うのも本当かもしれません。タイは彼らの尻を追わなければなりません。だから大きな国、世界の生死に責任がある国は、「世界の道徳の指導者はどこへ行くのか」と批判を受けるべきです。これも講義の最初の回で話しました。


 次によりはっきり見るために、続けて本当の現象を見る方が良いです。

 いずれにしても今日は、道徳の問題を話すつもりなので、全部話します。「今重い問題がある」と見せる現象はたくさんあり、どれも人の道徳の衰退から生じた結果です。道徳はサッチャ(真)の一つで、衰退も発展もできません。自然のサッチャの一つだからです。

 「道徳が衰退する。道徳が発展する」と言えば、道徳の行動をする人が増える、減る、正しい、誤りという意味です。それが道徳の衰退であり、道徳の発展です。衰退がたくさんあってどのように現れても、私は現代の世界の人の、道徳の衰退の結果である現象と言います。

 一番目の現象は、ある親が「昔は母乳を飲んだが、今は牛乳を飲む」と口にします。この子の親は自分自身の子を罵ります。昔は母乳を飲み、今は牛乳を飲むと言うのは事実で、作り話ではありません。みなさん一人一人で憶えておいてください。そして小さな話ではありません。子が両親を敬わないのは一つの段階で、それを過ぎると親不孝、親に加害し、両親を捕まえて地獄に落とし、どう話しても話にならなくなりません。これは、動物のミルクを飲み、母乳を飲まないからです。

 母乳を飲んでいた時代の子は、ミルクを飲む時代の子より親に愛があり、親の恩を知っていました。親の血が子の中に入ったからです。パーリ(ブッダの言葉である経)の、三蔵の聖人言葉、ブッダバーシタの中で、「乳は母の血」と言われています。だから子が乳を飲むのは、母の血を飲みます。だから子が親を愛す何かがあり、親との一体感があります。

 私は述べたような文字で捉えません。私たちは、母乳を飲めば非常に親しさがあり、愛が生じ、助産所で缶の乳を与えるより一体感が生じると分かります。今世界の人は動物の乳を飲み、それには動物らしさがついて来て、どんどん増えます。つまりまったく気に掛けません。母乳を飲めばそのようなことはありません。あるいはそのように増えません。

 つい数日前、有名な医師が「母乳で育てた子供は、ミルクで育てた子より良い結果がある」と主張しているニュースを新聞で読みました。しかしその人が話しているのは身体の面、物質面、肉体面で、心の面の話ではありません。今私は、心の面で「母乳を飲めば、動物の乳を飲むより人の心、人間の心がある」と話します。本当か嘘か、考えて見てください。少なくとも親しさが少なく、(母の)胸の中で温かくいることが少ないと見ています。

 何千年前から言われているか分からないパーリの慣用句に、「親は、胸の上で踊る小さな子がいる」というのがあります。これは、当時はあまり離れる機会がなかったこと、母子は互いに愛し合い、いつでも一体であり、このように恋慕し合っていたことを表しています。だから親を無視する気持ち、あるいは親不孝は有難く、あり得ませんでした。今は母乳を飲むことから動物の乳を飲むことに変わったので、親がこのように口にするほど、現象として現れました。

 二番目。次に見る現象は、お寺で勉強をした時代は何百万もする建物で勉強する現在より、子どもたちに善い道徳がありました。四五十年前、私たちは誰でもお寺で勉強しました。私はお寺のサーラーで勉強したことがあります。しかし多少改善し、今にも倒れそうなサーラーは、今はすっかり無くなり、他へ移築しました。昔私たちがお寺のサーラーで勉強した時代、子どもたちは何百万もする建物で勉強している今より善い道徳があったと話しています。

 良く熟慮して見てください。幾つもの角度で錯綜しています。上の方から愚かさが下りて来ます。上の方から幾重にも愚かさが下りて来ます。彼らは「学校を建てれば子供は善くなる。学校をたくさん建てれば子供は善くなる」と考えます。これは録に調べないで話しています。道徳面の訓練がなければ、子どもが善くなることはあり得ません。

 天人の宮殿で勉強させても善くなれません。誘惑する物しかないので、著しく悪くなってしまいます。今西洋の尻を追って遊び半分の、あるいは勉強よりむしろ遊びの教育制度にし、子供たちを逃避する習性に訓練します。

 お寺のサーラーで勉強した時代の子供は働かなければなりませんでした。手伝いで学校の掃除をしなければなりませんでした。用務員はいません。そして夕方は、学校にとって、あるいは学校を建てたお寺にとって、何らかの利益になる仕事をしなければなりませんでした。レンガを運ぶ手伝いをしたり、砂を運ぶ手伝いをしたり、ロープで木を引いたり、これは日常的にしました。それは他人のことを考える習性を生じさせました。

 今学校を掃くのも、子供はしません。子供は自分勝手で、そして増えています。教育制度を整えるにも、子供が何もしなくて良いように用務員を置くほど愚かです。これは旦那の習性、働きたくない人の習性を植え付け、それが増えて、一斉に成長します。つまり「自分勝手」が生じ、すべてが台無しになります。現代の子供はビルで学ぶので、お寺のおんぼろのサーラーで勉強した子供の時代より悪い道徳があります。この現象を見えるまで考えて見てください。

 第三項。次は虚無主義の子供が増え、現代の子供は非常に虚無主義です。虚無とは「無い」という意味で、無いと捉える人を虚無主義者と言います。虚無主義=虚無と捉える主義で、増えています。現代の子供は親もなく、先生もなく、神様も僧もなく、年寄りも老人もなく、地獄・天国もなく、徳も罪もなく、この世界も次の世界もなく、他の世界もなく、オッパーティカもいません。これらの状態を、ブッダは誤った見解と言われました。虚無である誤った見解を「無」と言います。

 親に対する感覚も少なくなり、親らしい意味を本当に感じません。親は必要な友人か何かのようになってしまいました。述べたような原因のせいです。今の子は動物の乳を飲み、人の乳を飲まないので、子供をうっとりするほど、過剰なほど、膨れるほど我がままにさせる、彼らがした何かがあるからです。

 親を敬う気持ちが減少し、親を殴り、親に加害し、何でもたくさんすると新聞のニュースにあるほどで、そしてそれが増えています。「親はいない」という感覚があるからです。彼らは「俺は俺。貴様は貴様」と感じ、全部「これは彼。これは私」になります。

 先生もいません。先生がどのようにされているか、最近の新聞を読んで見てください。一般的に言えば、「先生は雇われて勉強を教える人」と見なします。彼らは授業料を払わなければなりません。公立学校も、親から集めたお金を先生に払います。尊敬するべき人物としての先生の意味はありませんが、雇われ人としての意味はあります。今彼らは、先生はいないと感じます。

 次に神様僧は、昔子どもたちは神様や僧を普通の人のように感じませんでした。彼らは黄色を見たら拝むよう教えられていたからです。時には、良く見ないで牛を拝むこともありました。黄色を見たら拝みなさいと教えていたからです。しかし子どもは神様や僧がなければなりません。偉大さの象徴だからです。

 私たちが子供に国旗を尊重するよう教えるのは、象徴と見なします。国旗である物、そのような象徴を国と見なし、国旗と呼びます。同じように黄色の布を尊重するのは、神様・僧・宗教として尊重します。

 彼の頭が柔らかく、まだ慚愧があれば、普通より高いと仮定されている人物である神様・僧に対して頭を下げます。だから彼と話すことができる神様・僧は、何かを教え、禁じることができます。しかし最高に重要なのは、彼らには尊敬する物があることです。だから彼らは硬くない人です。今は人を硬くする物ばかりで、神様・僧はいない、そして年寄り老人もいないと言います。

 今まで、大昔は年寄り老人を敬うよう教え、何も知識がない年寄りでも、貧しい乞食でも、年寄りなら、子供は敬意を表さなければなりませんでした。私が子供の頃、ある年寄りは狂人でしたが、彼がお寺の中を通ると、その度に拝まなければなりませんでした。私は寺の子だったので、拝まなければ先生に叩かれました。

 他の年寄りも拝まなければなりません。狂人、あるいは貧乏な人、あるいは何か厭わしい人である部分は知る必要はありません。年寄りであるだけで拝まなければならなかったからです。

 この話には、隠れた複雑な結果があります。しかしまとめれば、頭が硬くない柔らかい(言うことを聞く)人にしました。それです。それに徳があります。狂った人を拝み、老人を拝んで却って徳を得、それが私たちを頭の柔らかい人にしました。そして自分にとって吉祥になります。頑固でない人だからです。人は「天人が祝福してくれる」と言いました。それは本当です。誰でも可愛がります。狂った老人を拝む子供を嫌う人はいません。彼らは「頭が柔らかい子だ」と可愛がります。

 現代の子は「地獄も天国もない」のは本当です。目に見えないような地獄天国と言うなら、彼らにあるはずがありません。しかし今、「地獄は心の中が猛烈に苦しいこと。天国は行なった善で嬉しく、自分自身を拝めること」と教えてしまいません。現代の子は恐怖がなく、罰を受けることを恐れず、刑務所に入ることも恐れません。つまり悪を恐れず、捕まって刑に服すのも受け入れ、刑に服す時、出たら復讐してやると恨みます。

 これが、地獄もなく、天国もない人です。つまり宵になったら自分を拝める類の善を行う考えがなく、宵になったら「今日は人間がするべき最高に善いことをした」と、このように自分自身を拝める行動がありません。昔の人は、この習性を塗り重ねるために考えるよう教えました。昔の人は死んだ時の地獄があり、死んだ時の天国があり、現在の地獄天国もありました。彼らは生きている間の地獄を恐れ、生きている間の天国を欲しがりました。こういうのもありました。

 現代の子は、徳も罪もありません。徳の話、罪の話を信じないという意味です。「手に入れば善。望み通り手に入らなければ悪。望み通り手に入れば徳」と考えます。そのように考えるので、手に入れる話だけに顔を向けます。このような現象もあります。道徳が衰退した、あるいは衰退し始めた結果である現象です。

 第四番目。もう一度その他を見ます。些細な話を思うよう忠告するのを煩わしく思う人がいても、私は恐れません。今道徳が衰退し、大都市、タイならクルンテープ(タイではバンコクをこう呼ぶ)は安全がありません。

 まだ私が出家していない頃、クルンテープへ行ったことがあります。五十年にもなりますが、「ええ? なぜ危害を加える人がいないのだろう。夜更けに何処へでも遊びに行け、恐怖もなく、バンコクノイの電車は子どもでも、一人でも乗ることができ、引いている電車以外に誰もいないので、安全だ」と、見て奇妙に感じました。

 人に聞いても安全と言い、そして本当に安全でした。その時は「え? 私たちの町は却って信頼できない。ここチャイヤーは却って信頼できない。クルンテープはそのように安全だ」と感じました。今は反対です。考えて見てください。首都に安全はありません。

 まだ正反対の物があります。昔は、農民は田んぼの真中の掘っ立て小屋で寝ることもでき、(高床式家屋の)床下で涼しい風に吹かれて寝て、忘れて朝まで眠ることもでき、危険はありませんでした。今はあり得ません。出来事が、道徳の衰退が田舎まで拡大していること、そして都会では酷くなっていることを証明しています。

 だから「寝るにも家の扉を閉める必要はない」というパーリ(ブッダの言葉である経)の言葉は、もうありません。意味がありません。しっかり扉を閉めなければなりません。家の扉や窓だけでなく、すべてを何度も閉めなければなりません。あらゆる防護をしっかりしなければなりません。昔はありませんでした。

 お寺の物も仕舞っておかなければ、今は全部なくなってしまいます。昔は、お寺の物を仕舞う必要はありませんでした。チャイヤーはまだ善いと感じ、あまり仕舞う必要はありませんでした。しかしナラーティワートへ行って見ると、もっと奇妙なことに、なぜか仕舞いませんでした。

 夜が更けて仕事を終わったら、物はそこへ投げ捨てます。いろんな物はサーラーやベランダや何かに捨てておき、仕舞いません。風神ランプ、あるいはいろんな道具も仕舞う必要はありませんでした。しかし今はできません。どこもかしこもできなくなりました。お寺の物はもっとで、仕舞わなければならないほど、彼らは欲しがります。

 昔あった公共の物は、今はありません。ある僧が、チャンタブリにはお盆や金の道具、銅の道具など何でもあり、お寺でなく、ある洞窟に置いておくと、誰も持って行けなく、持って来て使ったら、洗って、拭いて、磨いて、それから元通りに洞窟に持って行って置いたと話しました。

 何百年間か知りません。今はできません。街道沿いのサーラー(東屋)、休憩のため、日除けのための海辺や道端のサーラーでも、昔は鍋があり、壺があり、水瓶があり、米があり、魚の干物があり、与えるために放ってありました。今はできません。道徳の衰退が現れたからです。

 考えて見てください。この出来事は現代の道徳に関わる問題です。そしてたった四五十年しか経っていない現代で、五十年前は今と正反対だったからです。現代と言うのは、四五十年だけの違いです。


 もう一つ、今世界で目につく物、繁栄が目に付く物があるかを見ます。

 それは犯罪、厳罰を受けるべき凶悪なカンマで、刑事事件と言います。今世界は、あらゆる種類の犯罪が異常に多く、非常に溢れています。百種類、千種類も並べて群れごとに分けると、次のようになります。

 第一段階。性の犯罪、あるいは性に関わる犯罪が一つの段階です。最高に発展したという国では、統計の発表によると、七秒ごとに性犯罪があります。初めは軽いものでも、その国には平均で七秒ごとに性犯罪があります。名前を挙げる必要はありませんが、事実です。次に私たちの国を考えて見てください。国中を調査して見れば、何秒ごとに性犯罪があるでしょうか。ここで性の犯罪を一番にします。

 第二段階。窃盗、略奪が二段階目です。豊かさのための犯罪、つまり盗み、略奪。道徳のない有利になることはまだ違法ではありません。膨れ上がった民主主義だからです。智慧のある人はごっそり掻き寄せることができ、そして道徳違反ではありません。しかし道徳面で見れば、これも犯罪です。しかしまだ誰も捕まえて罰を与える人はいません。まだ法律がないからです。

 しかし神様の法律を使えば犯罪で、ごっそり掻き寄せ、貧乏人の血を吸うように搾取するのを、犯罪と呼ぶことができます。しかし法律はこのようにハッキリしていないので、罰を与えられません。まとめれば豊かさのための犯罪で、これも非常に多いです。

 第三段階。ちょっと特別な権力、福分、名声名誉の面の犯罪です。これは丈夫な人が弱い人を苦しめる習性で、力が劣る人に権力を使って苦しめ、いじめます。これもたくさんあります。しかしそれは大きなレベル、つまり大きな国が小さな国、野蛮な国にします。これも、この世界で目につくようになった犯罪です。

 第四段階。更に特別な犯罪で、精神面の中毒に関わる犯罪と呼ばなければなりません。これはあまり聞きません。しょっちゅう聞けば普通になります。精神面の話は珍しく、精神面の中毒は騙され易さを意味します。騙され易さゆえに生じる犯罪。これも多く、呪術の面の騙され易さ、騙され易さである何の面でも、それで殺し合い、あるいは人を死なせなければなりません。

 自分の誤った知識を善と信じるのも、自分を死なせる部分、あるいは他人を死なせる部分があります。そしてほとんどは呪術から来ている騙され易さの話です。世界は教育で発展しましたが、このような迷信も厚くなっているとは信じられません。だから愚かな人の教育と言うことができます。現代は愚かな人の教育を愚かに実施するので、呪術の面の騙され易さも排除できません。正しい対処でないので、人は今後も騙され易さに期待しなければならないからです。

 もう一面、学生、先生、あるいは哲学者の愚かさ。これらを私は「茶碗から溢れたお茶」は何も入らない。海外留学は茶碗から零れ、タイへ戻るとほんの少し道徳の話を入れようにも入らない」と名誉を与えたことがあります。外国で他の物をいっぱい詰めて込んで来たので、タイに着くと、ほんの少しの道徳も入りません。そしてこれらの生徒、先生、教授は、子供たちに道徳を持たせる術がなく、自分自身も道徳がありません。これは犯罪と同じです。誰が「狂っている」と言うのも御勝手に。

 私は、これは犯罪と同じと見なします。精神面の中毒は、意地の執着があり、改善できません。すべての哲学者の茶碗から溢れたお茶です。

 要するに、何十、何百種類の犯罪がありますが、今は大きな種類を、「性犯罪、ごっそり掻き寄せる犯罪、大きな権力の犯罪、精神面の中毒である犯罪」と話しました。つまり愚かさ、迷い、無明が進歩します。教育が発展していると自慢する世界にあるとは信じられません。


 もう少し教育で、あるいは何ででも発展した世界の角度で見ると、時間も丁度良いです。今、世界に平和がないという点で見ます。

 世界に平和がないのは本当か嘘か、世界中を一度に見る方が良いです。それから穏やかな幸福がない個人を見ると、一人の一人も幸福平和がありません。世界全体も平和がなく、地獄である熱い状態があります。熱く沸騰していれば地獄です。そして餓鬼の状態は飢えがあり、腹は山と同じ大きさで、口は針の孔と同じです。こういうのは餓鬼の状態です。

 この世界は地獄の状態があり、餓鬼の状態は世界中強烈になっています。非常に発展した大国は多く、発展が少ない小さな国は少なく、発展が遅れている国はまだマシです。新式の発展に達していない国は小康状態で、まだ地獄が少なく、餓鬼が少ないです。昔からの宗教の威力がまだ維持しているからです。だからこの世界は何の世界か分かりません。高い心がある人間の世界ではありません。つまり犯罪行為が満ちています。

 世界に、困窮しなければならない人が増えています。この種の人と一緒に暮らしているからです。罪を作らず、悪を成さず、道徳を維持して善くする決意の人も困難に巻き込まれなければなりません。一緒に暮らしているので、全部に波及します。お寺は罪を作る部分、カンマを作る部分はありませんが、困難な状況の影響を受けます。「罪を作らずに罰を受ける」と言います。なぜでしょうか。それは周辺の道徳が衰退するからです。そして彼らは「この世界は発展する」と言います。

 私たちもきっと「この世界は発展する」と、人につられて寝言を言います。私も時には寝言を言って、びっくりします。そしてその気持ちを抑えます。最初は発展と考え、必要のない物を作ったこともあります。今は「私は必要のないことを何種類も作った」と感じ、壊したい、止めたい物もあります。この寺にも、造る必要がない物もあります。それは「善く調べない」と言うような発展です。要するに、このような発展をすればするほど、道徳を嫌いにさせます。

 どうか、非常に道徳を嫌わせる発展があると憶えてください。どの発展が道徳を嫌いにさせないか、探してもほとんどありません。海で針を探す方が、道徳を愛させる類の発展を探すよりまだ早く見つかります。今世界にある発展という意味です。

 道徳を尊重すればするほど道徳を愛す発展はどの発展か、良く考えて見てください。それは猶更ありません。あるのは犯罪を増やし、分裂を増やす道徳がない発展だけです。犯罪は満開になって急速に拡大しますが、私たちは発展があると言います。そして誰の罪か知りません。

1.医学の発展を一つの段階として取り上げる方が良いです。医学の発展は死ぬ人を少なくします。これは確かですが、まだ医学が発展していなく、何の話か知らなかった時代よりもヤクザを増やしました。そして今の医療は著しく膨張し、心臓移植や試験管受精など、する必要がないことをします。これは狂った話で、するべきではありません。その時間を、道徳を持つために使う方がまだマシです。

2.すごく良い生活。見てください。天人と競ってすごく良い生活をすれば更に道徳がなくなり、良い生活なら良い生活ほど道徳がありません。正しくすれば、ブッダの教えは「丁度良い暮らし」だけです、道徳を持たせるには。今私たちは一時代前の人より非常に良い衛生があり、(栄養失調などで)腹が膨れて尻が痩せた人はあまりいません。しかし最高に道徳がありません。どのようか、見てください。

3.今の勉強は、学校の校舎は素晴らしく、子どもは胎の中から賢いですが、反対に、今は道徳がありません。子どもは胎内から賢いですが、賢いヤクザになるための賢さです。退治しにくく教えにくい賢いヤクザは、管理しない賢さにする状態で勉強をさせるからです。賢くするだけの教育は道徳面の管理がなく、その人の首を斬る刃物と同じです。

 聞いてください。賢いだけで、今彼らは詰め込むだけ詰め込み、管理する道徳がありません。これはその人の首を斬る刃物になります。今私たちは詰め込むだけ詰め込んで賢くする勉強をさせますが、道徳がありません。教える先生も、今は道徳がありません。

 このように話すのは、非難ではありません。今先生に道徳がないのは本当です。先生は「必要が強制するように知識を押し込む」と言うように教えます。そして自分は正しさがあり、階級が上がります。先生を責めることはできません。彼らが設定したカリキュラムに、先生は従わなければならないので、生徒は道徳を持つ必要がありません。賢くなるためにだけ学び、道徳を持つために学ぶのではないからです。

4.勉強すれば研究が得意になり、研究で普通以上に発展します。この二十年の間に遠くまで飛躍し、月の世界へ行くこともできるほどです。しかし道徳は最高にありません。発展は道徳がなくなるために飛躍し、人より有利になるために飛躍するので道徳がありません。何がどれほどできても身勝手のためで、身勝手で道徳がありません。研求も進歩し、発展しますが、反対に最高に道徳がありません。

5.発明。何を発明するでしょうか。今、天の物に見えます。ラジオ、テレビ、いろんな話は、全部天の話ですが、最高に道徳がありません。特にこれらの発明品を使う人は、反対に道徳のない人です。彼らは掻き寄せるために使い、自分の肉体の美味しさのために使います。これは最高に道徳がありません。普通の人はこれらの物を使う必要がないからです。楽しさのため、物質的な美味しさ、美しさのために発明した物は、普通の人は使う必要がなく、嫌いでもあります。

6.産業の発展はたくさん製造するためで、そして急速に道徳を消滅させます。人の手で夢中になって作っていれば、世界の道徳はまだゆっくり衰退しますが、必要のない物を作って人間に与える産業は、急速に世界の道徳を消滅させ、更に道徳を無くすために生じて増える他の問題を作ります。あるいは問題が多いので、道徳を持つことができません。

7.破滅させることについて話せば、今は殺し合う武器があり、一度に何十万も何百万も殺すことができるので、一人が一つ弓を射ていた時代と違います。これほどの武器があっても、世界に道徳があるようにできず、ヤクザな人間を退治できません。あるのはヤクザである競争だけで、この世界は最高に静かさがありません。破滅させる武器が進歩するからです。

8.外交の舌の面の進歩。外交面で舌を使うことも、最高に達者になり、昔より非常に進歩しました。だから更に嘘の多い世界にし、道徳をなくし、そのようになります。外交交渉は平和のためにしたことがなく、自分の利益、自分たちの利益のためです。外交交渉は丁重な嘘を生じさせて増やすだけで、何もありません。

9.芸術の進歩。今芸術が進歩し、良く知らないために間違ったことを言い、見分けがつきませんが芸術と認めます。しかし芸術が人に道徳を持たせるかどうかを見れば、持たせません。芸術は精神面の麻薬です。

 この世界の最高の芸術と呼ぶ物は何百万か分からない値段で、ちょっと移動させて自慢するにも、その芸術である物質に何百万もの保険を掛けなければなりません。芸術面で非常に進歩しましたが、平和のためだったことがなく、人を愚かにするため、精神面の道徳に反した愚かさのためにあります。

10.いろんな学術面も進歩しました。論理学、哲学、心理学も大々的に教えた結果、哲学の中毒になりました。心理学も騙す話だけで、煩悩をなくすためではありません。論理学も言い訳するためで、誤りをした時、人間を攻撃することが発展、あるいは進歩しました。今非常に発展したのは、特に哲学面です。

11.純粋な学問を見ると、純粋な科学は、生物学、地学でも、バイオロジー、ジーオロジー、何でもいろいろ良く知り、そして一度も世界を平和にしたことがなく、却って道徳がない方向へ振興させます。たとえば性学などは、子どもに道徳を持たせると理解しますが、早く道徳を無くす方向へ振興します。愚かで、子どもは道徳を消滅させる部分だけ受け取り、利益になる部分を受け取れないと知りません。熟す前にもぎ取らなかったお祖父さんお祖母さんたちより、この知識の話では善くないです。

12.最後に非常に称賛している知識、つまり社会学・人類学の面の知識は非常に持ち上げ、どこの大学でも教えています。しかしその大学は、反対に人に道徳がありません。その知識を学んでいる学生の大学は、反対に道徳がありません。徒党を組んで殴り合い、殺し合い、あるいは今複雑な問題になっています。人類学、社会学、法学を学ぶ学生の大学は拠り所がないということです。見えますか。人間の進歩発展から、教育で発展した世界のものまで、拠り所がなくなりました。

 これが見るべき、そして簡単に見え、見えるまで見るべき出来事です。そしてこれから私たちはどのようにするかは、後日ゆっくり話すことにして、今日お願いするのは、見ていただくことです。

 現代の世界の道徳面の問題である道徳面の出来事がどのように経過するか、どれくらい強烈か、どのように悲しく哀れか、見てください。これが見えれば、その後の学習が楽です。これが見えなければ止めます。話す必要はありません。もっと深い物は何も見えないので、今困窮している話も見えないからです。

 私たち人間にとって重要な話の一つと捉えてください。時には現代の最高に重要な話です。それは道徳がないことです。昔の人にはなかった道徳に関わる現代の人間の問題と言います。私たちが「進歩発展がない」と言わなければならないほど、彼らは静かな幸福で暮らし、何をすることも知らず、あるのは静かな幸福だけでした。

 今は天人のように素晴らしい進歩発展がありますが、静かな幸福はありません。そして原因は道徳がないことにあると見えず、経済や政治や何やらに罪を擦りつけます。本当の原因は道徳がない人にあると知らないので、これからは季節の雨も降りません。人に道徳がないからです。

 この簡単な項目だけを、先に考えて見てください。それからこの話を別の角度で判断します。

 今日の講義はこれで終わらせていただきます。




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