3.道徳の価値と必要性





1974年7月20日

 タンマに関心がある善人のみなさん。アーサーラハ季の土曜講義の第三回目は、アリヤシーラダンマという大きな題の、「道徳の価値と必要性」という小さな題でお話します。つまり道徳の価値と、人間は道徳がなければならない必要性について話します。

 誰が煩がっても恐れません。つまり多くの方が煩わしく思うと理解する道徳の話を小さく分けて、一つ一つ詳しく話します。今日は特に「価値」という言葉について、もっと道徳がなければならない必要性が見えるよう説明します。

 そうすれば道徳に関心が生まれます。我慢して聞いてください。まだ詳細に関心がない話だからです。本当は、詳細に関心があれば、道徳がなければならない必要性はどのようか、誰でも知ることができます。


 「もしこの村に歩く道がなければ、この村の人に道徳がないからですか」と問うなら、道徳がないからと捉える人たちは「身勝手すぎるので、歩く道を作るために力を合わせない。あるいは怠け者で作らない」と見ます。この怠けが、道徳がないことです。

 あるいは、ある人の家の中が不潔で散らかっているのを深く見れば、それも道徳がないからです。これは最高に小さな問題と言います。

 あるいは貧困の人がいれば道徳がないからで、泥棒、強盗などがたくさんあるのは、最高に道徳がないからと見ることができます。

 有利になろうとすること、資本家と農民が闘争をするのは、多かれ少なかれ、双方に道徳がないからです。だから私はどこに紛争があっても、そこには大なり小なり、何等かの形で、直接でなければ間接的に、双方に道徳がないと見なさなければならないと言います。

 今世界は、どんどん問題が増えています。学生も道徳がなく、それはどのようでしょうか。先生も道徳がなく、それはどのようでしょう。段々に高くなる管理者も道徳がなく、商人も道徳がなく、買う人も道徳がなく、弁護士も道徳がなく、警官も道徳がなく、判事も道徳がなく、国の統治者まで道徳がありません。それはどのようでしょうか。

 正常でない物があれば順調にならないのは、どれも道徳がないからと述べることができます。しかし彼らはその問題、この問題、あの問題の解決が正しくないからと責め合い、経済の話を責め、政治の話を責め、何の話を責め、良く調べないで末端の原因を解決するだけで、「道徳がないから」という本当の原因を見ません。どんなに善い統治者がいても、国民に道徳がなければ統治できません。あるいは何かを発展させることはできません。

 最初にこの角度で見なければなりません。それから少しずつ道徳と呼ぶ物の必要性を見るのを増やせば、関心が生じて多くなります。だから道徳の話をすべての角度から、何度も詳しく話さなければならない時、私はみなさんが煩がるのを恐れません。


 前回は道徳の名前と意味の話をしました。道徳と呼ぶ物は混乱するほどたくさんの意味があります。人間はこの名前を次々に変えたので、複雑で何もできず、最高に哀れです。たとえば「庶民の善い道徳」と言わなければならないなどは、一部に庶民の悪い道徳があるのに近いです。

 道徳について話す時「善い悪い」があるべきではありません。それは正しく、利益がなければなりません。人間が複雑な問題を生じさせた結果、善い道徳、悪い道徳か何かになりました。人間がどんどん物質の奴隷になるからです。

 次に「道徳」という言葉の意味も複雑で、次々に変化し、広く狭く、高く低く、次々に意味が変わります。しかし自然の深遠な本当の意味は、あまり見ないので、名前も意味も知りません。だからその名前はどのように騙し、どのように一杯食わせるか話さなければなりません。意味も複雑で混乱し、どうすれば良いか知りません。いずれにしても「パーリ語のシーラ(戒)という言葉の意味を使うのが最高に善いとハッキリ見える」とまとめます。


 シーラ(戒)は正常という意味です。正常、混乱しないためになる物は何でもシーラと呼びます。そしてそのようにするダンマ(もの)を道徳と呼びます。私たちはパーリ語を使っていて幸運です。つまり教えにできる意味があります。他の言語は他の言葉を使い、便利でないかも知れません。あるいは一致しないかも知れません。外国語を観察して見ると、タイ語の道徳という言葉と意味が一致しません。シーラと言う言葉、あるいはシーラは正常という、この重要な言葉を憶えておいてください。

 次に、この正常という言葉の意味も幾つものレベルがあり、すぐに、石のような正常は、石として黙って座っていて、そして何もしないのに道徳があると言うと非難します。こういうのは誤解と言います。それは物質の話です。そのような正常は物質の話で、物質の道徳です。

 今私は、考えや感情、知性がある人の話で、それ以上に深遠な何があるか、つまり正常な心情があり、正常な物言いがあり、正常な行動があるか見なければなりません。

 次に正常という言葉は、黙っている、あるいは話さない、あるいはビクともしない、動かないという意味ではありません。正常とは誰にも衝撃を与えない、自分にも衝撃を与えない、あるいは自分を困窮させないという意味です。誰にも衝撃を与えないとは、他人に衝撃を与えない、あるいは他人を困窮させないという意味です。こういうのを、道徳という言葉の意味の正常と言います。

 次に反対者、反論者は、「夢中になって座って正常にし、衝撃を与えないで国が発展するか」と言うかもしれません。それです。正しい意味を探さなければならない話は。

 国が正常でなく、私たちが助け合ってそれを正常にするのを、道徳と呼ばずにはいられないと考えてしまえば、道路がなくて大変なのは、正常でないと、つまり正常な幸福でないと言います。この問題を解決してしまえれば、それを正常と言います。あまり大変でなく、あるいは全然大変ではありません。あるいは家がゴミで散らかっているのは、正常でないと言わなければなりません。きちんと掃いて、見た目にも気持ち良くし、それらによる危険を無くせば、正常にすると言わなければなりません。


 正常という言葉の意味を良く掴んでください。貧乏なら我慢できません。正常でないので、財産を持つまで働かなければなりません。そうすれば財産面で正常になり、その部分の、あるいはその面の道徳があると言います。だから正常という意味のシーラという言葉は、いつでも道徳の心臓部と捉えておいてください。物質の話なら正常な物で、人、あるいは動物の話なら人や動物が正常で、心の話なら心が正常で、身体の話なら身体が正常です。

 正常は二重になっています。自然の正常は自然の法則があり、食べて、立って、歩いて、寝て、水浴し、排泄しなければなりません。そうすれば自然に正常です。これが一つ。もう一つは人間がしなければならない、互いに善い振舞いをしなければならない、あるいはあるべき物があるようにしなければならない、あるいは善い実践である大きな問題を生じさせる正常です。だから助け合って知るために人間が規定しなければならない部分の道徳と言います。まとめれば、正常という言葉の意味です。


 今日は道徳の価値について話します。つまり規定する種類の道徳、人間が規定した道徳を意味します。道徳の必要性と言うなら、人間が規定し、そして正しく実践しなければならないという意味です。

 最初に価値について話してしまいます。価値という言葉は、最高にたくさん話す言葉で、値打ちという言葉もあり、価値という言葉もあり、財産という言葉もありますが、すべてをまとめて価値と言います。価値と呼ぶ物は何でしょうか。それは人の感覚で「価値がある」「どんな価値がある」と規定した物です。

 周到に見れば、一番の意味の価値は欲求によって、人間の欲求によって生じます。欲求これだけ、それだけの価値を生じさせ、多いか少ないかは欲求次第です。

 二番目の意味の「価値」は深遠な価値が生じ、最高に深遠な自然の欲求に従います。これは人間が規定、あるいは設定したのではありません。

 三番目の意味の価値は、人間が欲求で規定したのが一つ。これは自然が望む最高に深遠な部分で、これも一つです。一部分、自然の法則の欲求で正しく実践しなければならず、そうすれば危機を脱すことができることを忘れるべきではありません。それが深遠な種類の道徳の価値で、深く隠れています。


 今初めに、人間の欲求による価値という言葉について熟慮しています。

 最初の段階の一種類目は、愚かに規定した価値を指摘して見せたいと思います。つまり口、あるいは腹、あるいは肉体美味しさが強制する物質だけの話で、名の面、心の面は見えません。

 物質面の価値は物質の話しかしません。その欲求が基準で、同時に要求が多ければ高く、誰も望まなければ安く、あるいは少なくなります。これを「良く調べないで物質だけ、肉体面だけを基準にする」と言います。そしてそれは一致しません。この人が欲しくても、もう一人が欲しくなければ、この人にとっては高い物が、その人にとっては高くありません。こういう物は千バーツでも万バーツでも買いますが、もう一人はただでやると言っても欲しがりません。

 これは愚かな欲求による規定です。彼らが「雄鶏と宝石」と言うのと同じで、落ちている高価な宝石も、鶏には何も価値もなく、一粒の麦にも及ばないと見ます。あるいは水晶をもらった猿は何も価値がなく、瓜一つに敵いません。あるいは物質や肉体を基準にし過ぎる人は、この仏像はプラトゥー(アジに似た魚)五尾くらいの価値しかないと言います。

 考えて見てください。仏像の価値を知っている人は、聞くことができません。しかし物質を基準にすれば、その仏像はプラトゥー五匹の価値と同じです。これを「彼らは口と腹の愚かな欲求で値踏みをする」と言います。このような価値も一種類あります。

 二種類目の種類は基礎として信仰、愚かな執着に依存する呪術の面の意味の価値です。

 呪術は愚かさに根源があり、神聖な物、霊験がある物に信仰が生じれば、石でも小さな金属の塊でも何でも、何万、何十万で売買することがあります。いかがわしい儀式がある呪術の面の価値なので、何百、何千、何万の価値が出ます。このような状態の価値も一つの価値があるので、良く熟慮して見ます。

 三種類目は本当の欲求、経済学の意味での価値も一種類です。

 経済の価値は需要と供給次第で、需要が多く、供給が十分でなければ高くなり、同じ物でも需要が減れば、供給が多いので価値も下がります。これがいろんな商品、あるいは貨幣である物の価値です。どの集団の何らかの利益のために価値を規定した、今本当に出回っている物に規定した貨幣に代わる価値です。

 いずれにしても良く見れば、「人間が知っているようにすれば、人間が愚かなら、愚かさで規定しなければならない」と見えます。これが、世界のいろんな問題を解決できない経済の愚かさです。本当の根源、つまり善悪正誤の感覚、人の道徳を知らず、惑溺すべきでない物、執着すべきでない物に惑溺するので、経済的な価値に困難を生じさせます。

 今滑稽な問題の例は、ある時のクルンテープのほとんどの人のように、豚が高くてすごく騒ぐ人がいます。なぜそれほど困窮しなければならないのでしょう。それは解決できます。変化します。豚が高ければ、それを食べなければ良いだけです。反対に大騒ぎして複雑困難な話にし、恥を知りません。これを人間の要求によって生じた価値と言います。

 道徳の言葉では、このような価値は騙す物、当てにならない物、人間の欲求で経過すると見ます。

 今人間は道徳を欲しがらないので、道徳は価値のない物になりました。そして愚かさは誰にあるでしょうか。困難困苦は誰にあるでしょうか。道徳が人間にとって必要な時、人間は道徳を欲しがりません。道徳は価値がなくなり、価値が劣り、関心を持つ人は誰もいません。人間集団に道徳がなく、道徳に欠ける人間なので、どんどん複雑で困難な問題が増えます。これは、これらの物に関り、別けることができない例です。人間の欲求で人間が規定した一つの意味の価値です。


 次にもう一つの意味、自然の要求で生じた価値です。

 自然に、しなければならないことを、そのようにしなければならない不動の教えがある時、私たちがそのようにしなければ困難になり、病気になり、あるいは死にます。必要な四つの縁は食べ物・衣服・住まい・治療薬など、これも物質面の自然、無ければならない自然の要求で求めます。時には滑稽で、生き物にとって最高に必要な物は、反対に非常に値段が安く、そしてバカみたいな物が、何故高いのでしょう。

 簡単な例は、米はなぜ、金やダイヤモンドなどのように高くないのでしょう。身体にとっての利益を比較して見れば、これらの高価な物は、コップ一杯の水、あるいは一握りの米の価値もありません。これを、生き物に必要な食べ物と言います。

 次に着る物、それは何か、何があるべきか、本当の利益について思うべきです。そして私たちはそれを誤らせるようにしています。自慢するために美しく、珍しくすることだけを目指し、衣服は自慢する物になりました。それは着る物の話でなく、人間にとって問題が生じ、人間を少なからず困難にします。

 住まいの話は必要なだけ、あるいはふさわしいだけあれば問題は多くありません。今天人と競うような暮らしをしたがり、家を建て、お屋敷を建てて天人と競争するので、静かになれません。

 治療薬の話も同じです。直接薬があるというのは、好きな人はあまりいません。ほとんどは遊びの薬(強壮剤、サプリメント等)で、遊びの薬は本当にの治療薬より良く売れます。

 これを、自然の要求が一つと言います。私たちはこの規則に反すので、自然の道徳に反し、自然が要求する道徳がないと言います。ある程度まで欠けると途端に困難が生じなければなりません。身体面も途端に困難になります。心の面なら最高に被害が大きいです。

 つまり自然はどのような心を持たせたがり、そうすれば穏やかな幸福でいられ、神経の病気にならず、狂わないか。私たちはそれを探してやらないので、最後には神経の病気になり、心の病気になります。自然には道徳の法則のような一つの法則があるが、それは隠れていると考えて見てください。人間は物質と肉体、口と腹の面の規則しか関心がないので、この面で間違いをします。

 自然の価値という言葉はこのように深く、非常に強烈です。体の面が欠乏すれば病気になり、あるいは身体的に死にます。心の面が欠乏すれば心の面の死で、狂い、あるいは善のために何も残っていません。正常な心がないので価値のない人物になり、価値のない社会になります。

 自然の道徳の価値は、自然は人にこのような道徳を持たせたがりますが、人は関心がありません。人は肉体の物、口と腹の物の欲求の価値しか関心がありません。それは身勝手を増やし、他人より有利になりたがり、そして世界中で加害し、困らせ合います。

 今私が話しているのは、価値と呼ぶ物の意味だけです。人間が人の欲求で規定した価値が一つ。そして自然が望む隠された深遠な要求である価値。それも一つです。これを価値という言葉の意味と言います。


 次に邪見が規定した価値と正見が規定した価値の、もう一つの角度を見させる方が良いです。そうすればだんだん見やすくなります。

 邪見の人たちは「これの価値はこれだけ」と規定し、次に正見の人たちは同じ物を、いつでも違う規定をします。邪見の人たちが「非常に価値がある」と規定した物を、正見の人たちは「無価値」と規定することもあります。どうぞ良く見てください。邪見の人たちは肉体を基準にし、口と腹を基準にし、物資を基準にします。正見の人たちは、心の話、精神の話、本当の美徳を基準にします。

 次に何を基準にするかは、誰も強制できません。しかしそれを基準にして正常な幸福が生じれば、それを正しいと見なさなければなりません。シーラ(戒)とは正常、正常な幸福という意味と、何時でもこのような教えを掴んでおいてください。どのような価値をどのような方法で掴んでも、生じる結果が正常で静かな幸福なら、それは正しいです。邪見の威力で規定することに惑溺するのは、混乱を生じさせるだけです。

 簡単に比較して見ることもできます。邪見の人たちは「すごく良い生活」をしたがり、正見の人たちは「丁度良い生活」をしたがります。これだけでも大きな違いがあります。

 すごく善い生活を支持する人は限度がなく、天人と同じになるまで休まず拡大し、それでも「すごく善い生活」と言うには足りません。次に丁度良い生活は自然に適度があり、何をどれだけしても丁度良ければ、より正常な幸福があり、欠乏の問題はなく、身勝手もありません。野望は身勝手だからです。今身勝手でないのは野望がないから、願望で焼き炙る火がないからです。

 「価値」という言葉は最高に騙します。邪見の人たちが規定したのが一つ、正見の人たちが規定したのが一つです。ある人が高価な物を買って、何の利益があるか知らずに食べ、もう一人はバナナや野菜など安い物を買って食べる。こういういうのは問題ありません。正反対ほど違う見方があるからです。邪見・正見は、丁度良いという限界がないほど限度のない生活をさせる原因です。


 話して来たきたすべては、たった一つの話し言葉の意味に興味を持っていただきたいからで、それは価値という言葉です。価値、あるいは値段という言葉は最高に騙します。私たちはどれほぼ愚かで、どれほどこの話に迷ったことがあるでしょうか。それがあまり騙せないよう調整してしまうべきです。

 しかし今、最高に重要な話。つまり道徳という言葉の価値の話をしています。邪見の人たちは道徳の価値を少なくしすぎ、あるいはまったく価値を与えず、正見の人たちは、道徳を最高に重要な物、価値ある物、非常に関心を持つべき物と見ます。

 今、国中の人が道徳の価値を見なければ、「国中の人は邪見」と言います。それとも正見か、考えて見てください。国全体が道徳の問題に関心がなく、道徳の問題を取り上げて判断しないのは、道徳の価値を見ないからです。邪見と呼ぶか正見と呼ぶか、考えて見てください。

 邪見の人が値踏みするか、正見の人が値踏みするかで、道徳の本当の価値も分かれます。私たちはどちらに属すでしょうか。

 道徳の価値を見なければ、あるいは道徳の価値を見るのが少なすぎれば、まだ一部は邪見と認めてしまうのが良いです。正見なら道徳の価値を知っています。なぜ自分の身に道徳があるよう、子や孫、家族に道徳を持たせる、あるいは近所、世界を共にする人に道徳があるようにする努力をしないのでしょうか。なぜ助け合って奉仕し、道徳を振興させないのでしょうか。

 積善と言っても何をするか知らない人に、「最高に素晴らしい積善は、世界の人に道徳を持たせること」と言いたいと思います。これ以上に善い、これ以上に本当の徳はありません。道徳に価値があると見るなら、一人一人が援け合って調整して振興するべきです。社会に、国に、この世界にまで道徳を持たせるようできる限り力を尽くせば、最高に善いです。

 道徳の価値はすっかり暗くなり、良く熟慮しなければ見えません。しかし世界、あるいは人間の生死はこれに掛かっているくらい、非常に価値があります。ためしに一定水準の道徳がなければこの世界は破滅し、絶滅して意味のない世界になります。

 次に見るのは、価値とはいったい何か、更に深遠に見て行きます。

 私は今、価値という物はすべての問題の根源、あるいはすべての問題の基盤と言っています。それに価値がなければ、あるいは利益に関わらなければ問題はありません。私たちに生じる問題は利益が欲しいから、価値ある物が欲しいからです。その価値が欲しがらせます。

 価値がなければ欲しがらず、どのように必要とも感じませんが、価値があると感じれば、途端に欲しくなります。良い方はこのようで、悪い方もこのようで、価値は善い方にも悪い方にもなれます。あるいは同じ原因、つまり価値と呼ぶもので、人は善をすることも悪をすることもできます。

 この話は、「それに世界にある価値と呼ぶ物がないと感じなければ、私たちは阿羅漢になれる」と自分で熟慮できるほど深遠ではありません。阿羅漢になれないのは、何らかの欲求を生じさせる原因である何らかの価値に夢中になっているからです。「欲しい。要る」は愛し、「欲しくない。要らない」は嫌い、愛すか憎むか、二種類しかありません。一つの価値は愛させ、もう一つの価値は嫌わせます。

 この言葉をパーリ語でグナと言い、タイ語ではクンと読みます。価値、あるいは性質があり、良くても悪くても、全部クンと言います。パーリ語はこのように中立です。次にそれは価値があり、危険でも利益でも、何らかの性質があれば価値、あるいは値打ちと言います。

 次に人の心は価値と呼ぶ物で揺れます。善ければ善い性質があり、善に夢中になり、悪は悪い性質があり、悪に夢中になります。私たちは悪を嫌い、善を愛しますが、悪を嫌い善を愛すのは、どちらも執着です。何の執着かは、価値に執着します。阿羅漢は価値、あるいは性質でも、価値と呼ぶ物の威力より上にいる心があるので、一種類だけです。

 このように話すのは哲学的すぎますが、知っておくべき真実です。人間が煩悩のない心、あるいは苦がない心を持てないのは、価値に夢中になっているからです。善くても悪くても価値という物の奴隷になり、中には悪を善と見る人も、善を善と、悪を悪と見る人もいます。それは邪見か正見か、見解次第です。

 しかし善を善と、悪を悪と知るくらい正しい見解でも、心がまだ価値に迷っていれば、それらの支配を脱すことはできません。だから欲求が生じます。つまりあれこれ欲が生じて愛欲・有欲・無有欲になるのは、価値と呼ぶ物が根源だからです。愛欲が好きなら愛欲になり、形が好きなら有欲になり、無形が好きなら無有欲になり、好きな物次第です。

 人間の執着の基盤である種類の「価値」という言葉について、話しすぎました。


 価値と呼ぶ物に、良く注意してください。それです。それがすべての問題です。

 価値と呼ぶ物を誤解すれば、注意してください。それは問題のすべてです。それを誤解すればすっかり混乱し、道徳もなくなります。聖向聖果涅槃までについて言わないでください。価値、あるいは値段、あるいは性質と呼ぶ物に良く注意してください。それはすべての物の執着の基盤の状態があり、一つは嫌わせ、一つは愛させます。大きな原則はこのように二種類あります。

 私たちが愚かなら、その価値に執着します。だから私たちは一つの側を愛し、一つの側を嫌わなければなりません。これを正常さの面で台無しと言い、正常でない心があり、正常でない見解があります。次にそれは体、言葉である物言い、正常でない行動に現れ、それが自分を困窮させ、他人を困窮させ、正常であることをすっかり失わせます。そして価値と呼ぶ物は、私たちに気づかれないように騙す状態にあります。

 私は、この話をするのは、ある人たちには過剰かも知れないと感じますが、道徳がないことの怖さを知らせ、あるいは道徳を持つことに勇敢にさせる何の話をすれば良いか分からないので、このような道徳の話をして道徳の価値を知らせ、どんどん本当の利益になる価値を教え、最後に価値と呼ぶ物の威力の上にいることができるようにさせます。

 執着があれば価値、あるいは値段の威力下にあり、一時好み、一時好みません。つまり何らかの煩悩が確実にあります。だから預流・一来・不還も、これらの価値より上にいません。価値と呼ぶ物の威力より上にいる心を持つことを知っているのは阿羅漢だけです。

 米粒一つの低い価値から、道徳の最高の価値まで価値と呼び、そして執着の基盤です。

 次に、もし「この方法が正しい方法」と執着すれば、高くなる方の取着で、最後には価値より上にいられます。今愚かと言えば、間違った執着をし、必要もなく低くなり、時間を無駄にします。つまり悪の物を価値がある物と惑溺します。その悪の物を捨てることができ、善で暮らせば善の物の価値に迷います。話は終わらず、まだ善に迷います。

 これもまだ、価値と呼ぶ物に抑圧されていて心が重く、心配し、憂慮し、難儀します。だからもう一度しっかりと、善の価値でも、価値と呼ぶ物の威力から脱させなければなりません。これが道徳と呼ぶ物の最後の段階です。

 今この世界はそのようにしたがらず、欲しがるのはすごく良い暮らしだけで、良い暮らしは善の価値があり、正常になる十分良い道徳があります。

 さて、善い道徳の価値をここでの目的にし、道徳の意味の価値があると規定することは、それぞれの人の心を正常にでき、社会も正常にできるということです。何かの群れが集まって暮らす所を静かな幸福にできれば、道徳と呼びます。そして道徳と呼ぶ物はこれだけの価値があります。価値という言葉について、このような状態で見るべきです。


 次に私たちに道徳がなければならない必要性になりました。

 ここでの道徳という言葉は、規定する道徳、規定した道徳で、正しく実践行動をしなければなりません。自然に経過する種類ではありません。

 道徳があるのはどこにあるでしょうか。何を「道徳がある」と言うのでしょうか。話してきたことと繋げて話せば、「価値と呼ぶ物を管理できること、それが道徳」と言えます。価値と呼ぶ物を管理できることこそ、道徳があることです。価値と呼ぶ物を管理できなければ、私たちに、その価値に迷った何らかのことをさせます。

 悪の価値に迷った人は「善」と言い、悪をする方へ引っ張ります。あるいは財産が善いと規定した価値に迷えば、善と言うことをしますが、それには最高の正常さはありません。つまり善を愛して悪を嫌い、まだ愛があり、怒りがあり、憎しみがあり、嫌悪があります。そのようなら善い道徳があると言えるでしょうか。

 世俗面で人々が善と規定したのは使い物になります。あるいは善を愛すことに使えます。善を熱心に探求し、善だけに迷い、善と共に死ぬ。これも使い物になると言います。しかし高度なダンマではもっと遠くまで行きたがり、もっと正常を欲しがります。あるいは愛も嫌悪も生じさせなければ、それを管理できると言います。

 何らかの価値がある物が私たちに愛を生じさせない。あるいは何らかの価値がある物が私たちに憎しみを生じさせない。この二種類しかありません。だからこの二種類を管理すれば、道徳があると言います。

 管理できなければ、それが私たちに悪をさせます。あるいは苦に耐えなければならない類の、最後は、善ゆえに自殺しなければならない類の善をするよう引っ張って行きます。あるいは善の執着が眠れなくし、イライラそわそわし、最後は神経の病気になる。こういうのもあります。これは、価値と呼ぶ物を管理できないからです。だから道徳は純潔ではありません。だから価値と呼ぶ物を管理できる分だけ道徳があると見なします。

 少し管理できれば少し道徳があります。心を強制してあれこれ迷わせる価値がある物を何としても管理し、そして管理できることを、道徳があると言います。

 僧・沙弥である人の例を挙げる方が良いです。高いダンマの行動をする出家なので、価値と呼ぶ物を管理できなければ沙弥でも僧でもなく、愛すよう煽る物を愛し、嫌うよう煽る物を嫌います。二つの意味の価値で出家して僧になり沙弥になることは、心を訓練して価値と呼ぶ物の威力の上にいさせるためです。


 価値の威力を管理できれば、何が起こるでしょうか。それは一人一人に正常であることが生じます。一人が正常で、心・体・言葉が正常なら、社会も混迷しません。正常な人の社会だからです。正常があると言うのは、煩悩がなく道徳がある結果です。誘惑する価値と呼ぶ物の威力を管理できれば、煩悩は生じません。煩悩がなければカンマを作らず、混乱状態にして困窮させる何もなく、私たちは意味として十分な人間になります。

 人間とは高い心があるという意味で、高いとは強制する物がない、欲求を抑圧できる物がないという意味です。心が高いので、善や悪で愛させる物、嫌わせる物に動揺しません。人間は本当に高い心があり、愛させられ、あるいは嫌わせられません。

 今はまだそこまででない人間なので、非常に愛し、非常に嫌うほど惑溺して問題を起こさないだけにしましょう。しかしダンマの面では「価値を管理できれば悪い結果は無い」というくらいまでにし、「死がない方が良い」と言います。体も死なず、心も死なず、死がありません。あるいは非業の死がないということもできます。

 非業の死という下品な言葉を使うのをお許しください。死ぬべきでない死は、人が価値と呼ぶ物に迷いすぎれば、体の面、心の面、精神面、知性考えの面の非業の死もあります。まだ生きているのに知性が非業の死を遂げるような、この種の死もあります。

 人間はこのように高くなる問題があるので、並行するために高くなった物を欲しがります。畜生は問題がないので、そこに止っています。動物の脳味噌はそこに止まり、人間の脳味噌は休まず進歩し、知性や考えも休まず進歩します。だから問題が次々に生じ、休まず変化し、休まず高くなります。今道徳は、このように飛んだり跳ねたりする人間だけに規定しなければなりません。人間が動物のように、まだ一か所に止まっていれば、この部分の道徳は必要ありません。

 この項目を先に見ます。畜生は、自然が要求するだけの道徳があれば十分です。そしてそこに止まっているだけで、それ以上歩いて行きません。十万年前、百万年前はどうかは、それだけの脳があり、それだけの欲求、あるいは何かがありました。

 一方人間の脳は休まず進歩し、何でも知ることが増えました。したいことを知り、望みを知り、創作を知り、どんどんたくさん知り、このように珍しい社会を生じさせることを知ったので、この部分の問題を解決しなければなりません。これです。道徳は休まず走っていて、畜生のように止まっていない人間にとって、なければならない、最高に必要な物と見ます。

 植物を見ると、知性面・煩悩欲望の面、何の面でも、止まっていて進歩しません。動物も同じです。しかし人間はいつでも走り回っているのと同じで、それで道徳面の拡大が追い着かなければ、人間はどうでしょうか。狂った幽霊にならなければなりません。狂った幽霊と呼ばなければなりません。人間と呼ぶ以上です。

 今道徳が欠如している人間は、この問題を解決する道徳がなければ、狂った幽霊の一種です。だからここを見てください。そうすれば人間に道徳がなければならない必要性が多少あると、すぐに見えます。

 これが道徳の必要性です。道徳がなければ、いつでも道徳があることと正反対の重い問題が生じます。道徳があればいろんな物を管理でき、体や言葉を管理でき、価値と呼ぶ物の威力を管理でき、正常な心情があります。身体的にも精神的にも、非業の死のような死はありません。道徳が欠如するだけで、これらのものが全部あります。


 次に、それは誰も我慢できない物です。道徳がなければ困難が生じ、危機が生じ、誰も我慢できません。道徳がない人自身も我慢できません。

 道徳がない人に道徳が全然なければ、この世界に困難を創り、自分自身も我慢できません。それで他人が我慢できるでしょうか。だから新たに我慢できない問題が生じるので、解決しなければなりません。解決しなければならないなら、引き返して道徳を訪ねなければなりません。

 これは、道徳がなければならない必要性はこのようにあり、道徳がなければ全員死ぬとはっきり見えます。特別の意味の死という言葉を使います。この地球にも住めません。生きている人間の話をしなくても、道徳が最高に無ければ、この地球も住めません。地球はすっかり破壊されて価値も意味もなく、何もないのと同じです。人間もいません。人間らしい人間はいません。他の穏やかな幸福もありません。このようにバタバタ走る人間に必要な、道徳が欠如するからです。

 人間にはこの部分の道徳がなければならないと、心の部分、深い部分、名の物(抽象)である自然が強制する最高の必要性を見てください。あれば他の物も危機を脱すことができます。これが、基礎の段階の道徳がなければならない理由です。ここまで走って来た、そしてこれから先も走って変化する人間の特別な段階のために、いつでも間に合う道徳の制度がなければなりません。

 次に記憶するため、あるいは理解し易くするために、私たちに道徳がなければならないのは何の目的のためか、基礎の段階のまとめである状態を、少し見ます。それは「シーラ(パーリ語で戒という意味)、あるいはシン(タイ語読み)という言葉は正常という意味」と、忘れないように百回、千回お願いします。私たちは正常を、つまり正常な幸福を欲しがります。それ以上の物は何もありません。道徳はそのようにするもので、「道徳は正常な幸福にする」と言います。


 次に、すべてはどの形か、まとめてみます。

第一段階。何とか我慢できる状態で暮らしたがります。私たちは非常に残酷な自然を思わなければなりません。まだ闘う問題がない時、何十万、何百万年も前の原初の人間を思うと、危機を脱すのが非常に困難でした。今の私たちは何とか我慢できる、死なない、何とか耐えられる状態で暮らしたがります。

 簡単に見えるのは、仙人、ムニー、森に住んでいるいろんな修行者は我慢できる状態で暮らします。あるいは昔の農民、私たちの先祖は、我慢できる状態だけを欲しがりました。その方々はビルや宮殿を建てる必要がなく、今の私たちのような物は何も必要ありませんでした。今私たちは、必要を超えた何があるでしょう。

 先祖は欲しがりませんでした。何とか我慢できる状態だけ、死なず、病気にならない、何も過剰でない、最初の段階の欲求がありました。これは最初の段階の道徳がこれだけの物を欲しがらせた、簡単に創れ、簡単に実践できる道徳の話です。

第二段階。秩序と美しさを欲しがります。今私たちはこのことに熱狂しているかいないか、考えて見てください。私たちは最高に美しく整えることを望み、この世界はどれくらい熱狂しているでしょう。発展、進歩発展、文明と呼ぶ物はこれに熱狂し、それが最高に美しく整えさせます。だから道徳は変化します。道徳制度もますます美しく整えるために変化しなければなりません。

 今まで私たちは、何とか我慢できることだけを望み、今、美しく整っていなければならない、見栄えが良く、気持ちが良くなければならない道徳が生じて困難になりました。

 次に美しく整えるにはどれだけ投資しなければならないか、そしてどれだけ煩悩を扇るか。それが煽情してヤクザを生じさせ、善良な、あるいは正常な人をどれだけ苦しめるかを見れば、だから道徳の形は非常に美しく整え、そして静かさと、愛と慈悲で暮らすのが難しいように変化した、と見えます。

 昔、私たちは何とか我慢できる生活をし、愛し合い、慈しみ憐れみ合い、苦しめ合いませんでした。百年ばかり前は見られました。今は見られません。美しくしたがり、増やしたがるので、そのようにできません。盗人と強盗がいっぱいだからです。これは、美しくしたがり、増やしたがり、限度のないことをしたがるので、自然に盗人や強盗になるからです。

 道徳は変化し、正常であることが難しくなりました。可能ですが、正常でいることは何百倍、何千倍も難しくなりました。美しく気持ち良く生きることが大変になりました。

 次に最高の第三段階は、宗教の基礎である道徳を欲しがります。最高の段階である宗教面の道徳を欲しがります。この道徳は、私たちが煩悩をなくすようにさせたがります。煩悩がないのは涅槃で、道徳の頂点です。私たちはそのようにする道徳を欲しがり、それは更にするのが難しいです。

 私たちは菩提樹の木の下に座りたがらず、「菩提樹の下に座りたがらない」と言うように、宮殿で形・声・臭・味で完璧に暮らしをしたがります。これはすべての人の肩を持つように話しています。

 私たちは劫波樹の木の下に座りたいか、菩提樹の下に座りたいか、考えて見てください。菩提樹の下に座りたければ、間もなく知性が生じ、知識が生じ、無常・苦・無我が見え始めます。劫波樹の下に座りたければ、間もなく形・音・臭・味・接触・考えのいずれかがあり、どれも五欲の話にすぎません。欲求がこのように交錯します。それらの魅惑的な物の低劣な害が見える過去の感覚がある以外は、静かさ、煩悩がないことである涅槃を欲しがるので、この様式の道徳を欲しがります。

 今、仏教で発展していると言う私たちの国タイは、誰がこのような道徳を欲しがるでしょうか。話せば差し障りがあります。庶民も政府も、このような道徳を考えたことがありません。家で幸福に暮らさせる低いレベルの道徳もまだできません。そしてますます美しくし、ますます美味しくする様式を推奨し、更に遠のきます。

 助け合って煩悩を創り、助け合ってヤクザの種を蒔くからです。だからあまりヤクザを責めないでください。美しくし、善い暮らしをし、非常に誘惑する愚かさ全般を責めなければなりません。それです。やくざの種を蒔く原因は。


 次にもう一度一番の項目、私たちが本当に道徳に求める物は何かを見ます。

 道徳を持ちたがり、道徳を好きになるなら、どのレベルの道徳にしますか。我慢できるだけ、成り行くだけ正常に暮らす道徳は、きっと難しくなく、あまり問題は多くありません。しかしどんどん美しく豪華に暮らす様式の道徳にすれば、それは煩悩を植え付けるので、難しいです。涅槃を信仰する道徳が欲しければ、その方が投資は少なく見えます。あるいは何も投資する必要はありません。

 それ自体で解決でき、改善でき、何百万何千万も、お金やら何やら探して来て国を発展させる必要はありません。正常に暮らせれば十分です。そして心の煩悩を少なくすることを知って、自分も熱くなければ、それは他人を熱くしないので、人を苦しめる人は誰もなく、聖人の世界のように安楽に暮らせます。

 私はこれを「アリヤシーラダンマ=聖なる道徳」と呼び、今回の一連の講義の題です。彼らが庶民の善い道徳と言う時、庶民の悪い道徳でも何でも、私は、投資を必要とせず、あまり大変でなく、安楽や涼しさを生じさせる聖人の道徳、聖なる道徳の話だけをします。この部分を切望すべきかどうか、考えて見てください。

 最後の問題は、どこで停滞しているかに関わっています。私たちは理解できません。あるいは今どのようにしているか、私たちは欲しくない物を却って欲しがり、欲しがるべきでない物を却って欲しがり、よく調べずに、本当に欲しがるべきでない物を作っていないでしょうか。目を瞑って熱狂して作り、目を瞑って欲しがるべきでない物を作り、恋に落ちたように作り、呆けたように作ります。

 欲しがるべきでない物は、身体的物質のような利益を得ることから、私たちを熱くする物まで、頭がイカレたように欲しがります。私たちは道徳を欲しがりません。このように率直に言わせていただきます。欲しがるべき物は欲しがりません。しかし口では道徳が欲しいと話しますが、心は安楽になる物、身体面でどんどん良くなる暮らしを欲しがります。

 この話は以前に、「天国へ行きたいか、涅槃へ行きたいか」と、滑稽な質疑応答をしたことがあります。質問された庶民は「涅槃へ行きたい」と答えました。彼らが「涅槃へ行きたい、天国に行きたくない」と主張したので、私が「涅槃は喜びも悲しみもない心があり、愛す物も嫌う物もなく、私たちを楽しませる物も苦しませる物もない」と説明しました。

 すると、彼らは「それなら涅槃は欲しくない。私たちはこの世界にあるような物で、どんどん増える物が欲しい」と言いました。彼らはそのように欲しがりました。これは、口で言うのは流行で話し、最高に素晴らしいと迷いますが、本心では欲しがっていません。

 私たちは欲しがるべきでない物を欲しがり、欲しがるべき物を欲しがりません。道徳を欲しがらないのはこの理由です。しかし彼らの口は「道徳が欲しい」と言います。これは誰かを皮肉っているのでも、罵っているのでもありません。自分を見てください。道徳が欲しいですかと話すと、全員手を挙げますが、内心では知りません。知れば取消すこともあります。

 二番目に、今私たちは、すべての問題は道徳の欠如から生じると知りません。

 これは、後でもう一度詳しく話す方が良いです。しかし世界のすべての問題は、過去でも未来でも現在でも、すべての複雑な問題は、道徳の欠如から生じると憶えておいてください。私たちがコミュニストを生じさせるのも道徳が欠如しているから、コミュニストと闘えないのも道徳が欠如しているからです。このように全部話してしまう方が良いです。

 私たちはすべての問題、すべての種類の苦は、道徳の欠如から生じると知りません。だから本当に道徳を持つ決意をしません。今私たちは目を瞑って、何千もの方法で末端の原因だけを解決します。この世界のすべての政府が良く調べないで、百種類、千種類の末端の原因を解決し、本当の問題の根源である問題、道徳の欠如を解決しません。今の世界のどこにも、道徳について話し、道徳の話を解決、あるいは片付ける問題として取り上げる政府はありません。

 この世界のすべての政府は、良く調べないで末端の原因だけを解決します。カンマコンスタイルという人は、そこだけで問題解決をし、道徳の欠如から来ていると知りません。あるいは資本家が労働者を虐めると資本家を成敗し、それが道徳の欠如から来ていると知りません。悪い公務員が国民を困らせると、道徳の欠如から生じていると知らずに、公務員を懲らしめます。ほとんどの国民も道徳が無いので、困難が生じるほど間違いをし、そして罪を他人に投げつけます。

 国際間のすべての問題、世界の大きな問題は、人間に道徳がないことから生じます。今世界の人間は結集して突き刺し合い、世界の資源を絶滅させ、世界に一滴も原油を残さず、行く先を見守っています。人間の道徳の欠如はこのように多くあり、良く調べずに末端の原因だけを解決します。問題の根源を解決するなら、人間に道徳を持たせなければなりません。そうすればいろんな物の分裂は止まり、浪費は止まり、世界に永く残る物があります。

 今経済の問題を責め、良く調べない愚かさで経済の問題のせいにします。それが道徳の欠如から来ていると知らないので、世界中最高に愚かな私たちの世界に、国に、家に、経済の問題が生じます。これを「道徳を守れば、他人より不利になる」と言います。今このように愚かな人がいます。失礼。道徳があれば他人より不利になるか、もう一度考えて見てください。

 今私たちは、道徳の意味の解釈を間違い、価値を見間違って道徳を嫌います。道徳を嫌うのは、道徳の意味の解釈を間違うからです。道徳を嫌うのは、私たちの煩悩が他の物を欲しがり、道徳を欲しがらないからです。道徳を嫌うのは道徳を公正に見ないからです。道徳を表面的に、損害のように見ないでください。道徳にとって公正でないので、道徳を嫌います。

 まとめれば、この世界に穏やかな幸福と呼ぶ物があるようにする、最高に重要な物を知らなければ、この世界を静かな幸福にできません。

 それは代わる代わる一杯喰わせ合う問題になります。「私たちに最高に良い治世者いても、国民全員に道徳がなければ何もできない」と私が言うように、国を正常な幸福にできるでしょうか。最高に良い治世者がいても、国民に道徳がなければ、「そら、最高に良い治世者がいるなら、国民に道徳を持たせなければならないさ」と言うかもしれません。私は「道徳を持てれば静かな幸福がある。そのような、このような治世者次第でなく、すべての人に道徳があるかどうかに掛かっている」と言います。

 「このように必要がある。人間には道徳がなければならず、あれば安楽に暮らせる」とまとめてしまわせていただきます。騙して愛させたり嫌わせたりする物質の価値に迷えば、善い道徳を持つ術はありません。迷って愛し、迷って嫌い、崇拝すべきでない物を迷って崇拝し、崇拝すべき物を嫌います。

 だから価値と呼ぶ物は最高に騙す物で、すべての問題の根源であり、阿羅漢は振り捨ててしまえる物と、関心を持ってください。価値と呼ぶ物は阿羅漢の心を支配できないので、重要な物と見なします。それを知って相応しく管理しなければなりません。そうすれば道徳があり、最高に管理できれば最高に善い道徳があります。

 道徳の価値と、道徳がなければならない必要性の講義は、時間になりました。今日はこれだけで終わらせていただきます。




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