2.道徳という言葉の意味





1974年7月13日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。アーサーラ季の講義の、アリヤシーラダンマの第二回目は、終わっていない第一回目に続いて「道徳という言葉の意味」という小さな題でお話しします。あの時は名前だけについて述べ、今日は意味について述べ、予定した主題を全部揃えます。

 「名前と意味」と呼ぶ物は、いつでも一緒でなければなりません。名前だけでは曖昧なことが多いので利益がありません。その名前のためにはっきりした意味がなければなりません。しかし便宜のため、簡便のために長ったらしい意味でなく、名前で短く呼びます。だからいつでもこのように関わっている状態を理解しておいてください。


 前回名前について述べたのは、私たちはずっとその名前で呼んできたという真実、あるいは一つの事実を見せるためです。しかし道徳の意味はいろんなレベルに変化し、状態が変化し、あるいは時代によって変化します。特に現代は人間が道徳に対して本気でないので、劣化と呼ぶような変化があります。人は実践するより話す方が好きで、そして膨れ上がる、あるいは過剰な方向に話が拡大するので、道徳と呼ぶ物に関して新しい名前がたくさん生まれます。

 例えば文明という言葉が生まれ、そして最後には道徳の哲学だけになり、直接何の実践も現しません。そして何の利益のためにどのようにしなければならないという際限なく広い問題を定義し、哲学の話、あるいは膨張した学問の一つになります。

 分野が分かれて文明になり、ほとんどの人間の煩悩欲望で文化になり、文明と呼びます。これは非常に良い名前、高い名前ですが、本当の行動はまったく善くなく、名前にふさわしくありません。煩悩のある人が、その人の望みで勝手に言うからです。例を挙げれば、

 裸の文明はわざと裸になります。未開人はわざと裸になりません。彼らはまだ服を着ることを知らないからです。服を着たことがあり、たくさん着て、ぴったりと包み隠したことがある人が、今はわざと解放し、わざと裸になり、新しい文明と言います。心の面の衰退、煩悩に対する敗北から生まれました。

 まだ他にも、天人と競う暮らしの文明があります。彼らはこれも文明と呼びます。彼らは道徳に反しないと見なしますが、道徳が静かさや正常さを求める時、混乱と四分五裂を増やします。文明の部分は混乱や動揺を増やしますが、彼らは受け入れます。つまり彼らは道徳に反しないと捉え、一般の人も文明の奴隷、あるいは道徳に欠ける奴隷なので、受け入れます。

 今も民主主義文明があり、今世界を最高に混乱させています。今のタイも抗議する文明、抗議することに熱中する文明があると言います。遭遇したことがない、見たことがない、食べたことがない人は、当然嬉しくて興奮します。彼らは抗議する民主主義に興奮し、新しい文明と呼び、そして道徳に反さないと言います。しかし本当の意味は、道徳の目標である静かさをもたらさなければ矛盾します。

 文化と呼ぶもう一つの名前があります。これは前にたくさん話したことがあります。今神様を知らない、ダンマを知らない、どんどん滅苦を知らなくなっている現代世界の人間の要求に応じて変化しています。だから発展も煩悩の要求に応える物質面だけになりますが、彼らはまだ間違いと見なしません。

 庶民の善い道徳という奇妙な言葉になりました。これは滑稽です。庶民の善い道徳、あるいは庶民の善い道徳を生じさせる原因がなければなりません。善くない道徳があり、庶民のもう一つの道徳と分けなければならないみたいです。

 だから「善い」という言葉を使う必要がない、聖なる弟子の道徳である、別の物を提案したいと思います。善いという言葉を使う必要はありません。何かを付け足して複雑にしません。庶民の善い道徳はどのように善いか比較して見れば、それはまだ肉体の奴隷と見ることができます。庶民の善い道徳はどこまで善いかは、最高に善くてもまだ肉体の奴隷です。

 つまり「煩悩欲望の奴隷である」と公正な心で熟慮して見てください。聖人の道徳は煩悩の奴隷でなく、肉体の奴隷でなく、肉体の感覚の奴隷でもありません。少なくともその感覚を管理できます。これを聖なる弟子の道徳と言います。

 これだけでもかなり複雑です。名前が多く、そして一つ一つの名前が、時代によって意味が変化します。タイ、あるいは東洋で使っている意味は、西洋で使っているような意味と違います。あるいは西洋の意味を東洋に持ってきて使うのは、使い物にならないと見たことがあります。その上吐き気を催す物でもあります。

 今でも変化してばかりいます。東洋は物資面で敗北した側なので、つまり欲望煩悩の威力に負けたので、西洋文化、あるいは西洋の道徳の後を追い、何も残らないほど変化しました。

 一度まとめれば、名前の話は何も確実でないほど混乱するので、意味を見て、善い意味にしなければならないと見させます。だから意味を見て、正しく良い意味にしなければなりません。新しい名前にできれば、あるいは前から使っている名前でも、正しい意味にすればもっと良いです。だからこれから、道徳という言葉の意味について話します。


 「意味は自然に広い物」と話しました。一つの言葉に文字で、綴りで、あるいは言語で分解できる意味があります。そして隠れていて見えにくい意味もあり、まだ一段階、二段階、三段階の意味があります。要するに「意味」と呼ぶ物は、普通以上に広い物と捉えなければなりません。

 次に三種類、あるいは三つ熟慮して見ます。言語的な意味、自然の行動面の意味、宗教などの規定の意味です。

 言語的な意味、あるいは文字面の意味で道徳という言葉の意味は、パーリ語をタイ語として使いました。この言葉の言語としての意味はどのようか良く見ます。これも意味の一つです。

 次に道徳という言葉を、行動面の意味でどのように自然にある物なのか、もう一度見ます。ある人たちはこのような熟慮の方法を受け入れないかも知れません。しかしそれは文字より深い意味であり、自然にある一つの状態と熟慮して見るようお願いします。文字面の意味も、自然にある意味を解釈しました。

 宗教、あるいは伝統面でも、人間が規定した物は、意識してもしなくても人間に必要な規則がありますが、いずれにしても、自然の規定から逃げることはできません。これも一つの意味です。

 まとめて見ると、「意味は自分自身もお互いにも、物質的にも抽象的にも、意図的にもうっかりでも、正常な状態に衝撃を与えない」という意味にます。これは、すべての分野の道徳と呼ぶ物の最高に良い意味と見ます。これから一つ一つ詳しく見て行きます。

1.言語面、あるいは文字面では文字を基準にします。シーラ(戒)が一語、ダンマ(物)が一語、合わせてシーラダンマ(タイ語ではシンラタムと発音する。道徳という意味)です。ある人は、シーラはどういう意味かまだ知りません。多分私たちが信じているような意味と理解しますが、シーラという言葉はどんな意味か質問すれば、この言葉の元の意味に至ります。

 シーラという言葉は、本当の文字では「正常」という意味で、正常に維持している物何でもシーラと言います。あるいは正常にし、特異でない物をシーラと言います。異常ならシーラと言いません。実践の名前をシーラ(戒)と呼ぶのは、正常にすることです。殺し合いは正常でなく、殺さなければ正常と言います。

 一番のシーラは、他人の身体や器官に危害を加えるのは正常でないので、止めてしまわなければなりません。そうすれば正常と、簡単にまとめます。

 二番目のシーラは、他人の財産を盗んで危害を加えるのは混乱した状態、衝撃がある状態なので、止めてしまえば正常です。

 三番目のシーラは、他人が愛している物に危害を加えません。つまり性的な誤りを犯すのも正常でないので、して見てください。内部も外部も大混乱し、外部の問題が生じ、それが原因で殺し合い、あるいは内部は煩悩で熱くなり、正常になれません。止めてしまえば正常です。

 四番目のシーラは嘘を言うこと。これも正常な話ではありません。止めてしまえば正常になります。

 五番目のシーラはすべての種類の酔う物を嗜むことで、これも正常な話ではありません。複雑困難、混乱、困窮を生じさせ、心も行動も、体も言葉も異常になります。

 述べたようなすべての行動を止めてしまえば正常と言い、シーラ(戒)があると言います。


 戒という言葉の意味を知っている人は、簡単に戒を持つことができて便利です。つまりそれを正常にすることを目指せば戒があります。五戒、八戒、あるいは何戒にも言及する必要はありません。人間の自然の、原初の状態を失わない努力をすれば途端に戒があり、どのようにも、幾つの戒を規定することもできます。戒という言葉は正常を意味します。

 次にダンマという言葉の意味になりました。ダンマという言葉はいろんな意味があります。一般の意味は「維持している」という意味です。ダンマという言葉は維持しているという意味です。だからシーラダンマ(道徳)は正常に維持するという意味だけです。だから言語としては、すべての物の物質と抽象を表す現象の中に正常さがあるというイメージを得ます。

 自然にあるそれ自身の正常でも良く、あるいはそのようにする誰かの意図でも良く、偶然自然になるのでも良いと、もっと詳しく見ることもでき、これも同じだけ利益があります。正常は衝撃を与えず、グラグラ揺れず、大混乱になりません。だから言語面、あるいは文字面ではこのようなので、「形の物(物質)も名の物も、正常な状態を消滅させてはいけない」と、この意味で実践しなければならない教えをハッキリ見させます。

 形の物のは身体や物質で、それを正常な状態にあるようにすれば理解し合えます。そして家の中の物もきちんとしていなければ、正常でなければ我慢できません。私たちが見ているような自然の至る所にある物は、正常なら見事です。これを外部の物質面と言います。内部の形の物、体は正常な状態でなければなりません。病気でなく、いろいろ何でもなければ、妨害して正常さを消失させる物は何もありません。

 名の物(心)のは、本当の自然では煩悩は生じません。煩悩が生じる話なら、自然に反す話と見なさなければなりません。目が形を見、耳が声を聞くのでも何でも、それで普通の感覚考えが生じ、貪り・怒り・迷いに加工されなければ、これを正常と呼ばなければなりません。食べ物を探しに行かなければならなくても、あるいは食べ物を食べなければならなくても、何でもしなければならないことをしなければならなくても、煩悩が生じなければ、「身勝手」と呼ぶ貪り・怒り・迷いが生じなければ、すべて正常です。

 これが文字面、あるいは言語の意味の正常です。


2.自然の状態での意味は、本当の自然現象を基準にします。

 自然について話せば、ここでは至る所にある普通の自然に注目します。これは命がない物も含め、自然に経過すれば正常です。自然の法則があるのが一つ、つまり正常な状態に至らなければ、あるいは命は無くても正常であるべき物は、それがいられる最高に正常と呼ぶ状態になるまで、押されて転がり、止まりません。

 石、土、砂でも、土の上の何でもいろいろ、すべては強固で安定して正常な状態になれば、止るという状態になると熟慮して見てください。そうでなければ流れて変化します。水などは正常にする状態がなければ、海で一緒になって止まるまで流れて行きます。

 次にそれ以上の植物、あるいは動物は、安定、あるいは正常と呼ぶ状態になるまで自分を調整します。そうでなければ、正常と呼ぶ一つの秩序が生じるまで必死の努力をします。人も同じです。人は動物から移動して来、動物は最低の生き物である植物から移動して来、植物は命のない物質から移動して来、それらは自然に乗り換えてきたので、自然でない物は何もありません。命のある物と命がない物は正常な状態、あるいは秩序があるという「居られる状態」でいたがります。

 このような正常を「正常で秩序があるようにしたい自然の意味の正常」と言います。良く見れば、本当の自然は正常であることを狙い、異常になると分かります。つまり自然に反せば混乱しなければなりません。

 次に正常でない食べ物を食べる、正常でない服を着る、正常でない家があるなど、私たちが正常でなくすれば、非常に混乱しなければなりません。混乱しなければ正常と見なします。

 道徳とは自然である正常を維持するもの。このように見せる意味があります。見えれば満足が生じ、自然の状態を愛し、自然の状態に満足する実践法が生まれます。ここでの「愛す」という言葉は、煩悩欲望による執着を意味しません。欲望煩悩、あるいは執着で自然は愛せません。

 自然を愛すのは、それに自然があるから、自然の静かさの意味が満足を生じさせるからです。自然を正しく愛す人は自然の性状を愛し、そのような状態も愛し、そしてそのような状態を注意深く維持して支援します。

 ここ、この場所のようなのを、自然に満足し、自然を支援する努力をし、自然を最高に私たちの利益になるよう改善すれば、静かさ、涼しさ、静寂、正常以外に何の意味もありません。この部分は自然の部分の意味で、何としてももう一つ、自然に正常でいるという二番目の意味を掴んでください。そして物質面・身体面と心の面を、心の自然に反す煩悩が生じて介入しないよう、介入させない十分な賢さがあるようにします。これは文字の意味より良い、よりはっきりしている道徳の意味です。

3.宗教の規定による意味です。どのように規定したか、何が規定しなければならない原因か、そしてどのような目的で規定したか、規定を熟慮して見なければなりません。

 良く見れば、規定は文化、道徳、伝統様式の形でも何でも、それは規定の話と分かります。いろんな段階があり、いろんな時代があるので、形が変わり、様式が変わり、レベルが変わっても、道徳は静かさを目指すことを忘れないでください。規定しなければならない原因は、静かでなく、その衝撃によって混乱が生じることです。これが規定しなければならなくさせ、規定するのは静かさを生じさせるためです。

 人間の最初の時代に規定した道徳について思うと、何千年、何万年と言うことはできません。人がまだ原人であった時代なら、なおさら詳しく明示するのは難しいですが、要旨としては難しくありません。集団の中に静かでない変化が生じたので、我慢できなくなったと見えます。少なくともそのままにするより正常な幸福が生じるので、規定しました。

 「最古の時代の原人が規定した道徳は何か」は知り難いですが、何とか知ることができ、彼らは静かさを欲しがったと分かります。あるいは最高に静かな状態を欲しがったので、五戒など、困らせず、盗みをさせず、何かいろいろさせない、それまでより良いダンマまで、基本の戒を規定することが生じました。この方面の学生は非常にたくさん研究しました。大昔の原始人の制度は、今の人が好む、あるいは認めているのと同じいろんな物を規定をすることを知っていたと主張します。

 興味深いのは幾つもあります。「必要を超えた愛欲は罪であり、タブー」という項目です。その時代はタブーという言葉を使いました。罪、あるいは悪、あるいは不吉で、どれも使い物になりません。見てください。まだ布をまとうこともほとんど知らない時代の原始人の話も、研究者は考古学などの証拠から研究できます。この制度は、タブーを使う原始人の時代から守っていたと認めています。

 つまり道徳か何かを規定するのは、「我慢できないから」ということです。静かさを消滅させることが生じた、あるいはより静かさを受け取れると見て規定します。次に宗教の規定の意味の道徳は、どこへも消えない、どこへも駆けて行かない静かさにあり、すべての意味のすべてのレベルの静かさを目指しています。

 世俗のレベルの道徳は世界で暮らし、ロークッタラ(脱世間)の道徳は世界から脱させてしまいますが、意味はどちらも静かさで、最高の静かさは涅槃です。庶民の静かさは苦しめ合わない、何し合わない、どのレベルでも静かさという点に重要性があります。形(体)の物も名前(心)の物も、本当は分けることはできません。身体と心の話は分けられません。

 命がない物質だけに分ければ規定に関りません。しかし規定すれば静かさの話です。あるいは自然が規定することも、自然が強制することもあり、それもきちんとした秩序、あるいは静寂のための成り行きです。小川や河川の中、あるいは海岸の石を見ると、正常であること、あるいは海や川が配した正常な静かさが見えます。そのような状態の中にいなければ止りません。「それは静かさだ」、あるいは「それは秩序だ」と見える状態になるまで変化しなければなりません。これを形だけの物はこのようと言います。


 次に分けなければならない物は、個人と社会です。

 他人について話さず自分についてだけ話せば、個人も静かさがなければならないと言います。身体の面も心の面も、あるいは一人の中にある何でも静かでなければなりません。だから私たちは、行動でも生活でも、人物の部分にも、他人に関わる部分にも静かさを欲しがります。だから他人と関わる時に使わなければならない様式がなければなりません。これを社会の部分と言い、規定はこのように揃っていなければなりません。そうすれば良い規定と言います。

 この目的を見る時の実践の仕方は、誰でも他人の気持ちを考え、理解しなければならないと認める広い心がなければなりません。そうでなければ静かさが生じる道はありません。他人のことを考えないで勝手に言い、勝手に規定して自分の利益を得る。こういうのはできません。私たちは「生老病死の友」として平等と認めなければなりません。この規則に立たなければ、その規定は使い物になりません。あるいはその人は煩悩欲望で、何としても使います。これは別の話ですが善い規定でなく、善い道徳ではありません。

 命のあるすべての物を見る方が良いです。どのレベルの命もすべての生き物は、植物から動物、人物まで「生老病死の友」であり、正常な状態を失うほど衝撃を受けるべきではありません。このように考えれば、いたずらに地面を掘ってミミズを困らせません。

 あるいは、雨季の間安居する律の目的は、雨季に成長する目であまり見えない多くの小さな植物を踏まないという項目があります。地面がこのように湿る季節は、比丘は遊行するべきではありません。それらの生き物を消滅させすぎるからです。これも一か所に安居させる一つの理由に含まれます。私たちは律に関わる話も、すべての段階の生き物は静かさを欲しがると、良く考えるべきです。だから私たちは認識するべきで、消滅させるべきではありません。

 すべては、意味で述べれば言語の意味、文字の意味も一つの意味で、自然の現象面の意味と、人間が触れないで自然に経過する物も一つの意味で、少なくとも三つの意味が得られると見せています。すべてのレベルの生き物のために最高に正常を維持しておくために、規定する人が規定した規定の面の意味で、植物も認め、あるいは命のない物まで認めます。


 「仏教では、正常であることを失うのを防ぎたがる。土や砂、石でも何でも悪化させてはいけない。正常であることを消滅させてはいけない」と話して誰かに罵らせてしまいたいと思います。これは道徳という言葉の三つの意味です。

 次にこの三つの意味を合わせて、本当に応用しなければならない、実践しなければならない道徳にします。どのようか、教えとして話すだけではありません。取り上げて教えにするのは難しくありませんが、実践するのは難しいです。

 一番の意味は、正常であることを維持する一般の教えを捉えます。誰もが関わらなければならない一般の意味は、物質面も心の面も、個人的にも社会的にも、困難困窮がなくなるまで正常さを維持しておくとあります。そうすれば意味は自然の法則で経過し、自然に許容でき、規定する人も自然の規則を受け入れて規定します。自然は話す言葉を生じさせ、言葉は自然の法則と一致する意味があります。

 これが、道徳と呼ぶ物に関わるまだ理解できない問題です。自然自体も道徳だからです。

 次に規定する道徳も自然であることから逃れられません。自然の現象、あるいは自然の法則の規定、自然のための規則だからです。あるいはもう一度言えば、自然でない物は何でしょうか。仏教の教えで話せば問題はなく、自然でない物は何もありません。自然である形の物(物質)、名の物(抽象)、それらの消滅である涅槃も自然で、自然でない物は何もありません。何が静かかと問うなら、自然は静かと答えます。加工する自然なら加工の自然の静かさで、加工が終れば、それ以上に静かに静まります。

 まだ知らない人は愚かな人と呼ばせていただきます。彼らは、捕まえて棺に入れて世界の中で固くなって寝るという、「テーサン ヴーパサモー スコー。棺の中で寝て死んでいる人は静かな幸福」というのは、普通以上に愚かです。そのような意味ではありません。テーサン ヴーパサモー スコー=すべてのサンカーラが静まるのは最高の幸福。それは涅槃を意味しますが、死体がある時、死体を棺に入れる時に、テーサン ヴーパサモー スコーと、最高の教典を唱えます。

 私たちは間違って勉強するので言葉を誤解し、間違って自然に注目するので、間違った意味を掴みがちです。それらのサンカーラが静かに静まった自然が最高に静かで、最高に幸福です。それは最高に静かだからです。しかしサンカーラである自然はサンカーラ式の静かさで、加工して背を押す物があっても静かにします。他へ行けないので、二度と落ちることができない所へ落ちるのと同じなので、静かになります。

 あるいは熱いのも同じで、涼しくならなければなりません。熱くいることはできません。熱いのは正常でないので、正常な物でないので、正常な状態でないので、熱さは無くならなければなりません。そうすれば正常な状態です。だから熱さと呼ぶものは自然に涼しくなります。自然が静かにならなければならないのは、最高に正しいと見なします。自然に反せば混乱し、混乱の原因と縁が終れば、再び静かになります。

 「海を見て風がなければ静か」というような簡単な例を見ると、原因である風が吹くと海は波立ち、あるいは縁が終るまで狂ったようになり、因と縁が終れば止って再び静かになります。これを正常な状態、あるいは静かな状態と見なします。これが本当の自然です。他に介入する物があって元の自然に反せば、一時混乱の自然になります。

 だから道徳(シーラダンマ)は静かな自然です。シーラ(戒)は正常という意味を忘れないでください。正常でも良く、正常であるための探求でも良いです。それがシーラです。正常である時はいつでもシーラがあります。戒を授かっても授からなくても、関心がなくても、お願いするのは正常であり、戒があることだけです。戒を授かって正常でなければ、戒はありません。戒があるのは体と言葉に、あるいは戒とは何かと規定したように正常さがある時です。

 二番目の意味は正常であるための熱心な探求で、正常に向かって流れて行きます。これも戒と言います。あるいは戒である部分に含めなければなりません。正常を維持できれば、その間中戒があると言います。今はイロハを憶えられない勉強のように、休まず勉強していなければならないので、それも大変です。

 ダンマという言葉は維持しているという意味です。これは一般的な意味です。加工する因と縁があって維持できる物もあり、加工する因と縁がないのもあります。これを「維持しているという意味のダンマ」と言います。本当の意味でダンマが維持していれば、正常であることがあります。そして戒という言葉と合わせればぴったりし、正常を生じさせる行動、あるいは支援する同じ状態です。

 しかしこのダンマはたくさんの意味があります。最高に善い意味のダンマは義務という意味です。ダンマは義務です。だからこの場合のダンマは静かさを生じさせなければならない義務です。シーラダンマ(道徳)と呼ぶものは、道徳という言葉の一般の広い意味です。


 次に多少詳しく見ると、人の道徳が一つ、動物の道徳が一つ、植物の道徳が一つ、命がない物、石や土の道徳が一つです。それには正常があり、あるいは意識的にも無意識にでも、どれも正常を目指しているからです。

 人は本当に自然に道徳があるかと問うなら、煩悩で呆けてしまわなければ人も道徳があり、自然の正常があります。しかし、反対に人に道徳がないのは、間違った加工をする環境があるからです。何が原因かは言わせないでください。それはたくさんあり、誰かを責めれば厄介です。両親を責めるのは最高に正しいですが、責めるべきではありません。また他の問題が生じます。

 両親が子に、良くするため、美しくするため、豊かにするためにあれこれ教えるのは伝統習慣だからです。直接教えなくても「俺、俺の物」と執着を生じさせる物と、貪り・怒り・迷いが四方八方にあります。

 人間は自然に正常な道徳があるべきで、そうすれば消えます。貪り・怒り・迷いが増えるのは、人間に自然の道徳がないからです。だから人間が本当の道徳を持つまで、あれこれの規定で道徳を規定しなければなりません。そうすれば尊敬すべき人間らしさがあります。

 次に動物には道徳があるでしょうか。あるならどっちの意味でしょうか。「動物は自然のままなら自然の道徳がある」と前回の講義で話しました。動物は殺し合いをしたがらず、盗みたがりません。そのようにできる考えがないからです。噛み合ったり何かし合ったりするのは空腹だから、あるいは自然に反す他の理由で、介入したばかりの非常に小さないことです。

 通常動物は静かに、あるいは正常に暮らしていますが、空腹になればまた別の話です。動物は他の動物を餌として食べなければなりません。あるいは植物を食べ物にするのは、それらの物を消滅させます。これは道徳に反すと言いません。考えて、あるいは善悪を知ってするのではないからです。

 自然の動物は一つのレベルの道徳があり、自然の静かさで暮らします。捕えて良く訓練した動物も、少しだけ増えた道徳があると言います。それらに自然にある道徳ほど多くはありません。

 植物という言葉になりました。植物とは大小すべての木で、それには道徳があるでしょうか。どれの意味でしょうか。これはたぶん、反論がたくさんあると思います。道徳という言葉の定義が違うからです。私たち仏教教団員は、元からの規定で、自然では静かでなければならず、すべての植物は自然に静かさを欲しがると主張します。だからまだ自然に静かでいられれば、道徳があると言うべきです。

 木が罵り合うのを聞いたことがある人はいますか。木は喧嘩しますか。木が泥棒をしますか。それはありません。木にある自然の道徳はこのようで、このような意味です。下等な生物で感覚が低く、行動による、あるいは加工による道徳を持つことはできませんが、自然にあります。木にも静かさがあり、植物の世界と呼ぶ一つの世界の正常があります。

 次に命のない物について話します。石などは道徳があるか。これも簡単に見ることができます。植物の意味をなぞれば、植物よりも正常があります。石はすべての植物より、このような意味の正常があります。シーラは正常という意味で、ダンマは維持するという意味で、シーラダンマ(タイ語読みではシンラタム。道徳)、シーラダンマは正常に維持するという意味です。

 正常でない動きは、心の面の動きの話である道徳を消滅させる部分です。注意してください。心と呼ぶ物に良く注意してください。心です、種々雑多な問題を生じさせる犯人は。自然の角度で見れば、石は何よりも正常さがあります。命がなく、感情がないからです。


 次にもう一度、これらの物は関りがあるか、熟慮して見ます。

 これらすべての鉱物は、もっと良い物を作る基礎で、土・水・火・風が加工し合って命のある物になり、植物になり、木になり、それからもっと高い畜生になり、それから人間になります。このようです。

 いろんな物は深い基礎で関わり合い、それから高くなります。だから関わりがある意味があり、それぞれのレベルの正常さがなければなりません。戒の状態である、高さに違いがある正常さがあります。どちらが多く正常な状態を損なうかは、非常に発展し、脳、あるいは心の面の発展なので、考えるのが達者なら元の状態を非常に失い、間違った感覚である貪・瞋・痴を生じさせる機会が生じ、道徳を消滅させます。

 これは石から人間まで、この意味で関りがあると見ることができます。つまり正常な状態という意味がある道徳です。私たちはどのようにして道徳を持つことができるか、この真実を見なければなりません。


 次に道徳を生じさせるために道徳と呼ぶ物を生じさせる角度、あるいは道徳を探求する角度で見る、もう一つの系統で見ます。

 「本当の道徳の基礎は、すべての生き物は生老病死の友として認める」と、いつでも内心で思っていなければなりません。この教えが基礎としてなければ、道徳を持つのは困難です。

 有利になる、殺し合うなど、道徳がないと呼ぶもののも、「すべての動物は生老病死の友」と認めないからと、簡単に見ることができます。過去でも未来でも現代でも、何でも道徳がないことはこの感覚がないことから生じます。だから「すべての動物は生老病死の友」と認めることを、良く考えてください。

 人同士を先に思えば、多少見やすく、弱者、あるいは困窮者などより有利になりません。畜生を思えば、それも死にたくなく、死を恐れているので生老病死の友であり、広い意味では、輪廻に耐えなければなりません。

 次にこれらの木々を護る道徳を持つべきかどうか、木にも命があると認めるなら、どのように木に実践すべきか、すべての植物や木を思わなければなりません。

 木に命がある話は、人が道徳を持ちにくくし、理解できなくする幾つかの問題があります。僧の律を見ると、木は動物と同じ価値があると認めるに近く、動物を死なせても木を死なせても同じ罪です。そして木と動物は命の価値は同じと認め、動物を慈しむように木を慈しむべきです。他の宗教の中にも仏教と一致するのもあり、インドには、仏教よりもっと木を尊敬するのを認めるのもあります。

 どのような状態で木を熟慮すれば、道徳にとって利益があるか、と言って終わらせいただきます。ここは、利益になる方へ成り行かせないために、反論する人がいます。私たちは静かな幸福の利益があれば、それが正しいと捉えなければなりません。木をどのような状態で知れば、人間に静かな幸福があるか。この意味を受け入れるべきです。木に命があり、感覚があると認めるなら、それらを慈しみ憐れまなければなりません。

 こういうのは、それらの人の道徳は善いでしょうか、悪いでしょうか。強固でしょうか。強固でないでしょうか。仏教のライバルである教義は、このように認めていると見えます。その人たちの道徳は、生き物に注意深くする角度で、仏教より非常に善いです。

 今、新しい科学的な証明は、昨日という言葉を使う方が良いでしょう。植物も感覚があると、つまり識があると認める方に傾いています。命があると言わず、その命は生きていると言います。しかし今まで、あるいは一般の人は、それには識はなく、愛の感覚もなく、恐怖もないなど、感覚はないと否定していました。

 しかし今彼らは、非常にたくさんこの話を研究し、証明し、今まで知っていたこと、信じていたことと正反対と分かりました。そしてそれはブッダの時代の話と一致します。つまり植物に感覚はないと言うより、むしろ植物に意味を与えて認めた仏教の律の教えがあります。だから今後良い道徳の基礎になるものとして、今日話してしまいます。

 多くの人が新聞で読んだことがあると思います。つい最近、田んぼで静かでゆったりした美しい歌を流すと、稲は実りが良く、信じられないほど収穫量があるというニュースが載っていました。それにいろんな実験があり、まだ何日でもありませんが、バンコクポストがこの話を取り上げていました。非常にたくさん発見でき、次々に報道し、四月にはもっと実験した人がいて、Herbert Kretzmer という人は、育てている植物に優しい言葉で話しかけると良い実が成り、花が多く、どっさり実が成ると主張しています。

 もっと研究した人は、生徒で実験しました。先生が生徒に、一人二枚ずつ皿を配り、一つの皿に三粒の豆を蒔き、生徒が各自家に持ち帰って同じ部屋に置きました。しかし一つの皿はまったく気に掛けず、もう一つの皿は、弟妹に接すようにしなければなりません。歌を歌って聞かせ、学校へ行く時は「待っててね、すぐ帰って来るから」とか何とか、言葉を掛けなければなりません。

 一週間後に持って行って先生に見せました。次に、これをした小さな生徒は、証拠である現象を撮影して書類にして残す記録班を呼びました。生徒が気に掛けなかった皿は芽が出ないで枯れ、あるいはひょろひょろとした芽が出て最後には枯れて、生徒が可愛がって気を配った皿は、どの種も芽が出ました。

 だから同じ温度、同じ光がある同じ部屋に置いても、愛された豆の種は良く発芽し、愛されない豆の種は枯れるか、落ちてしまったこの事実の根拠を、カリフォルニアの Pato Alto と呼ぶ場所で作りました。

 今彼らは、graphic evidence という生き物の感覚、動揺を測定する機械を発明し、木は今どのような感覚の動揺、感情があるかを測定しました。針で量を示す機械があり、このような機械で測定します。psychic phenomena 研究協会は今、大々的に研究し、不思議な結果が出ています。

 つまり植物の感覚を主張します。木は周囲のすべての種類の生き物に対して感覚があると説明し、考え、愛、怒り、嫌悪、恐れとして流れ出す感覚があり、音楽を愛し、犬を嫌うと説明しています。周囲に害意や殺戮などがあると、木は非常に衝撃を受けると、木の感覚を計測する機械の針で知ることができます。

 Cleve Bachster という人は非常に有名な人で、この研究のために設立した研究所で、木にはこのような感覚があると証明することができました。しかし最初の、primary perception と呼ぶ最高に基礎の段階です。最低レベルの感情に対する感覚で、まだ最高を発見していないので、いろいろ規定することはできません。

 しかしそれは木にある、相応しく感じることができる一つの能力と認めます。そして特に、一つ一つの細胞の中にあり、一つの細胞は生きていて、たくさんの細胞が集まって、人や動物の身体や器官になります。一つ一つの細胞は生きていて、primary perception はここの細胞の中にあると言います。それが、そこに命がある物の感覚の基礎です。

 そしてこの人は、昔のアメリカンインディアンは、これらの科学者よりも先に、「木にはこのような感覚がある」と信じていたと主張しています。そしてミスターバグスターは、物質の影響はあまり意味がないと分かりました。私たちが水を木に注いでも、あるいは木の枝の一つの葉を熱湯の中にいれても正常ですが、私たちが殺そうと考えると、つまり火で炙ろうと考えると、考えただけで、まだマッチで火を点けないのに、木は途端に反応である感覚を表します。

 私たちが何かを恐れると体が震えるように、「木は恐れている」と計器の針が教えています。まだ火を点けて炙っていないのに、燃やそうと考えるだけで、マッチを摘まんで点けようとするだけで恐怖で体が震えますが、水を撒く、あるいは熱湯に入れるのは何も感じません。

 次に彼は六人の人で調査しました。木に危害を加えたことがある最高に木を嫌いな人がいて、木の敵であるその人が部屋の中を歩き回って、実験のために置いてある鉢の傍に来ると、木はその度に驚き、その度に怖れ、他の五人が来ても、何も感覚はありません。

 ミスターバクスターは、常に計測していました。幾つもの部屋に別々に置いてある木は、彼が生きているエビを熱湯に入れる時、どれも恐怖で体が震える症状を示しました。手を使って入れるのでないので、(震えるのは)その人の心ではありません。これは茹でられるエビの感覚を、木がこのように受け取ったということです。そしてこの人は、十五マイルの距離で、考えの面ですぐに木を元気にすることができると言います。

 ある日彼の友人が、一緒に勉強するために彼の実験室を訪れ、友人がこの部屋に入った途端、どの木も危篤という症状を計測器が表したので、友人の顔を見て「何故だ、君は何をしたのだ」と言うと、この友人は「重量の研究のために、さっき生の木の葉を燃やした」と答えました。彼は友人を「鬼。木の敵」とからかい、その人が出て行って一時間ほどすると、木は元の状態に回復しました。つまり危篤状態から回復し、元の状態に戻りました。こういうのはたくさんあり、話しきれません。

 最後に道徳家であるヴォーゲル博士は、私たちが子供にこの話に関わる事実を教え、すべての生き物に慈悲を教えることができる十分な根拠であると言っています。

 次に宗教の話にふさわしく話している人がいます。彼は「すべての鉱物の中に神様はまだ眠っていて、木や植物の中で神様は目覚め、すべての畜生の中で神様は歩き、人間の群れの中で神様は考えている」と言っています。これは自然の進化です。人間の群れの中で神様は考え中で、畜生の中で神様は歩いていて、木の中で神様は目覚め、すべての鉱物の中で神様は眠っています。ね彼は、生きている物に思い遣りを生じさせるよう教える道徳の基礎に使います。

 だから道徳の話は、すべてのレベルの生き物に広く機会を与えるべきと捉えてください。植物にも愛や怒りの感情があると証明されつつあります。このように考えれば、「すべての生き物は生老病死の友」と認めない問題はなくなります。

 時間が無くなりました。雨も落ちてきたので、これで終わらせていただきます。

 要するに、人間が続けて見なければならない道徳面の意味はまだたくさんあります。これは後の機会に講義します。




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