1.道徳と呼ぶ物に関わる名前と意味





1974年7月6日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。これからのアーサーラハブーチャー季の土曜定例講義は、アリヤシーラダンマという大きな題で述べます。アリヤシーラダンマとは、人間のいろんな問題を解決できる広い意味があります。そしてどんどん高くなって、最高レベルになります。

 しかし今日は「道徳と呼ぶ物に関わる名前と意味」という小さな題で述べます。これは初めに理解し合わなければならない物で、そうすれば道徳を良く理解できます。

 道徳の話をするのは、目前の理由に関わるからです。つまり道徳と呼ものの衰退、あるいは消滅のために、世界は今心の面で破滅しつつあるからです。心の面の破滅は非常に恐ろしいか、あるいは身体や物質面の破滅より少ないか、先に考えて見なければなりません。しかし誰でも、どんな破滅も望みません。どちらが重要で興味深いか分けなければならないなら、考えて見るべきです。

 発展した身体と発展した物があっても、心の面の道徳がなければ暮らせません。反対に発展した心で暮らせば、つまり本当の道徳があれば、物質面は困窮しても、あるいは身体的にあまり健康でなく、便利でなくても、それはどのようか、そしてどちらを選ぶか、考えて見てください。

 今の世界の教育は、身体面と物質面は溢れるほど発展させますが、道徳面、あるいは心の面はどのようにどれだけ衰退しているか、そしてこの世界は今どのようか、どのように安全快適で、どの種類の社会があるか、何とか見ることができます。

 一つ大変なのは、私たちは百年以上長生きしてないので、現代とニ三百年前、あるいは千年前を自分で比較できません。教育や計算に依存すれば、ブッダの時代は物質的には発展していなかったに違いないと信じなければなりません。

 自動車を知らず、知っているのは荷車だけです。自動車も飛行機もなく、今のような生活はありません。しかし道徳面では最高度の道徳様式がありました。彼らはどのように暮らしていたでしょうか。

 今は物質的に最高で、物質の奴隷になり、目は盲目で道徳に関心がなく、道徳は段階的に衰退しました。タイもニ三十年前から道徳が衰退し、どんどん結果が明らかになっています。特に現代は話になりません。団結できず、恩を知ることがなく、年寄りを敬わないなど、いろいろです。

 何百年も前と比較できなければ、三十年前と比較します。混乱がどれだけ増えたか、身勝手な人が増えたか減ったか。これは何とか見ることができます。身体と命と財産の安全が、どれだけ増えたか減ったか。これも何とか見ることができます。何百年前も、歴史や何かいろいろ学ぶことで推測することができます。

 この簡単な理由で比較しても、私が子どもだった頃は、両親が詩を教え、木を植えて実が成ったら、その詩を唱えなければなりませんでした。

 『鳥が喰えば徳になり、人が食えば布施になる』と、三回唱えてバナナの芽、あるいはパイナップルの芽を穴に植えて土を掛けるのは、どんな意味を表しているでしょうか。彼らは「この果物が実ったら動物が食べても良い。私は徳を得る」と予測しています。人が断らずに取って食べることもでき、布施をすると言い、布施し終わっています。だから動物が食べても、人間が採って食べても問題はありません。

 しかし今はそのようではありません。そのように考える人は誰もいません。鳥が喰えば銃で撃ち、人が食っても銃を持ち出し、あるいは捕まえて警察へ突き出します。心の面の大きな違いを表しています。その時代の人は何をしたでしょう。彼らは他人が食べることを考えていました。他の動物が食べることも考えていました。

 今は誰も、他人や動物が食べることを考えません。自分勝手だからです。これはまだ何年でもありませんが、このように違います。理由を考えると、それは間違う道はありません。遠くなればなるほど伝統習慣規則、あるいは心を清潔に明るく、非常に静かにする道徳がありました。

 その結果を見れば、昔はあまり混乱、困難がなく、今のように頭が痛い話はありません。彼らは(高床式家屋の)床下でも何処でも安全に寝ることもできました。今は頑丈な部屋の中に寝ても安全ではないと言います。物質面で発展すれば、聞く耳を持たないような身勝手が生じるので、自分勝手でないのと反対の結果が生じます。

 これは、道徳があることと身体の発展は同じものでなく、分かれることもでき、同時にあることもできると見せる見本です。物質面で惑溺があれば、道徳も少しずつ消えて行きます。物質面で発展すれば、ちょっと多く注意しなければなりません。名の物(抽象)の話、あるいは心の面の話を消滅させないでください。


 次に世界は今、物質面にパッと飛び込むので、道徳の消滅と呼ぶことができる種類の道徳面の衰退が生じます。このようになっています。

 だから私は、それは世界の生死に関わる話として話します。小さな話ではありません。見れば見るほど「すべての危機は道徳の欠如から生じる」と見えます。

 危機とは穏やかな幸福でなく、混乱があり、あらゆる種類の大混乱がある出来事、あるいは現象です。今世界にどのような危機があるか、簡単に見ることができます。戦争など大きな危機、そしてその下の小さな危機、あるいは大きな危機の結果であるものは至る所にあります。原油不足や物価高の話、あるいはこれらの物は、最初の大きな危機から派生した結果です。そして大きな危機は、道徳がない人間の身勝手から生じます。

 次に「それが道徳だ」と、これらの人の言い訳が生じます。その人が、私たちが「すべき」と考えるようにしなければ、殺してしまい、彼らは「これが道徳」と言います。だから道徳の名前で他人を懲らしめる人になる人がいます。彼は「世界に静かさがあるようにしたい」と言い、誰もしなければ殺してしまい、その人は「道徳」と言います。

 衝突し、抵抗する強硬なグループが幾つもあれば、世界中大混乱して大きな危機になり、小さな危機が付随し、最後には直接その原因に関わらない人も巻き込まれて困窮します。

 私のように森の中に住んでいても、彼らが混乱すれば巻き添えになります。彼らが空の上で戦うと、何かが落ちて来て、このように私たちに当たります。病気の面の危機も、経済の危機も、あるいはそれらに付随する何の危機でも、何百何千種類もの混乱が世界に生じ、管理し切れません。

 だから恐ろしい問題になります。村長、区長、郡長、県知事など保護監督する人がいても、どんどん管理できなくなるばかりで、管理できる方法が見えません。昔は良い知性の訓練をした監督者がなく、現代のように良い道具はありませんでしたが、彼らは安楽に暮らすよう管理できました。生まれつき本性の中に道徳があったからです。あるいは現代のように煽情して道徳を消滅させる物がなかったので、人は自動的に道徳があり、そして宗教の威力が、一般の人の心を管理していました。

 昔は「罪が怖い」という言葉を最高にたくさん聞きました。今も、あの人この人がそのように話すのを聞きます。私は、子供の頃そのように感じたと観察します。現代になるとあまり聞きません。何日何晩も、誰かが「罪が怖い」というのを聞きません。きっといるでしょう。でも私は聞いていません。これはこのように計測する物で、人はどのように違うでしょうか。だから治世には困難、簡便、結果の獲得、結果がないなど、いろいろついて来ます。

 すべての種類の危機は道徳の欠如から生じると、一度まとめさせていただきます。どんな場面に道徳の欠如が生じても、当然その場面のすべての側に混乱が生じます。道徳の欠如によって生じる問題の詳細は非常に多いので、後の講義で詳しく述べる方が良いでしょう。


 次に、変化が生じた道徳という言葉を見ます。

 道徳と呼んでも、その物自体がどんどん変化し、何年でもない間に、非常に変化しました。この二十年ばかりの間に、道徳という言葉は非常に変化しました。百年前の話をする必要はありません。しかし人は関心を持たず、知らないから比較できなければ、その人たちは次々に「私たちは道徳がある」と言います。

 次に確実にするために、頭にアリヤという言葉をつけて、アリヤシーラダンマとさせていただきます。意味は「聖人の道徳」でも、「聖人のための道徳」でも良く、あるいは単に「素晴らしい道徳」でも良いです。アリヤという言葉は素晴らしいという意味で、素晴らしいとは、敵であるすべての苦から去ります。だから「アリヤ」という言葉を聞いたら、一種類以上の意味があると熟慮して見てください。アリヤ、あるいは聖人、あるいは聖人になるための、どれか一つだけと解釈しないでください。

 「アリヤシーラダンマ」と限定してハッキリさせなければならないのは、現代はクルクルと変化して信用できず、特に言葉に関しては変化が著しいからです。言葉はクルクルと意味が変わり、変わってばかりで、それに早くて強烈です。だから道徳という言葉は「アリヤ」と限定させて頂かねばなりません。聖人を生じさせる類の道徳、あるいは聖人の道徳、あるいはそれ自体が素晴らしい道徳でなければなりません。これは流れが終るまで、すべての角度から講義する大きな題です。


 今日は、初めにお知らせしたように、「道徳の名前と意味」という小さな題でお話します。

 名前は作られたもので、作らなければ名前はないと知っておくべきです。次に誰が付けたのかは、欲求に従って、あるいは人物を取り囲む出来事に従って付けました。

 ここのたくさんの木々は、今は全部名前があります。しかし木自身は命名しません。自分のための名前は何もありません。人が人の何らかの利益のために命名した物ばかりです。これが名前です。これもできたばかりで、必ず命名者がいます。これは新しい物です。そして名前だけを掌握することはできません。意味を見なければなりません。

 名前はまだ利益がありませんが、意味は利益があります。あるいは名前と意味の間で、クルクルと変わって信頼できない状態が生じることもあります。時には滑稽な話で、スック(幸福)という名前で食べる米がなく、乞食をして歩く人もいるし、ルアイ(金持ち)という名前で乞食をする人もいます。だからふさわしい意味がない名前に、何も求めないでください。

 「道徳」という言葉も同じで、名前も変わり、意味も変わりました。道徳と呼ばれる物の本体は何かを見る方が良いです。人間はどの道徳があるか。最初の原人は道徳があったか。猿、オナガザル、ヒヨケザル、テナガザルは道徳があるか。すべての動物は道徳があるか。植物に道徳はあるか。そして石に道徳はあるか。道徳という言葉の意味を学んで知れば、石にも道徳があるかという問題が生じ、大混乱することもあります。


 熟慮して見るために、道徳は一般にどのように生まれたか、という角度で見ます。今私は名前を先にし、意味はまだ難しいので、別の部分で詳細に熟慮しなければなりません。

 道徳について話す時、二つの側に分けられると観察して欲しいと思います。つまり人間が規定した道徳と、人間はまったく関心がなく、何も規定せず、自然が包囲して成り行かせる道徳です。

 人間が規定したのを見ると、それです。それもまだ問題があります。今の人間はどのように道徳を規定したか。そして遡った時代の人間がどのように規定したか。ブッダの時代の人はどのように規定したか。もっと前、何万年、何十万年前の人はどのように規定したか。同じ人間が規定しても、風土と人間の知性次第で、同じになりません。

 半人半畜でも規定があり、あるいは他の強制条項があり、人間と捉えない物、人間による規定がないのまで自然に残っています。自然の道徳があると認めなくても良いです。問題はありません。しかし今「人間が規定したものも自然が包囲して強制したから」と、良く見て欲しいと思います。

 道徳は何によって生じたのでしょうか。生じたのは正常でない状態があるから、異常があり、そして正常な状態で暮らすための動きを生じさせる原因になると見るべきです。人間が現代の賢さのようないろんな道徳を規定するのは、社会に異常が生じたからです。だから規定しました。これほどの規模の社会がなく、小さな社会、野蛮な社会でも、同じ原因がなければなりません。つまり異常があるので必死で闘わなければならず、そして大声で知らせ、従わなければ道徳があるよう強制しました。

 次に、畜生はどうするかを見ると、同じ規則があります。安楽に対して何か衝撃があると、畜生も正常であって欲しいので、解決するため、回避するため、あるいはそのようにしないために必死で努力します。なぜ動物は常に噛み合わないのか、なぜ噛み合いたがらないのか、考えて見なければなりません。なぜ動物は回避してしまい、噛み合わないで一人で居たがるのでしょうか。

 なぜ群れになって噛み合わないのかは、噛み合うのは正常な状態でないからです。牛、水牛、馬、虎でも何でも、顔を合わすのを避け、静かに別々の場所にいます。これが道徳と呼ぶ物の深遠な根源です。正常でないのを避けるからです。

 これも「シーラという言葉は正常という意味で、ダンマとは正常に維持すればダンマと言う」点が滑稽です。(註: パーリ語で道徳をシーラダンマと言う)。だから混乱を回避する感覚がある畜生は、正常さを求める感覚があるので、規定しなくても、人間が規定した分けでなく、自然の道徳です。

 このような自然の道徳も人間にあります。顔を合わせた途端に噛みつきたがる人はいません。これも必要がある場合を除いて、顔を合わせた途端に噛みつかない動物と同じです。(相手が)敵なら噛まねばならず、戦わなければなりません。それが食べ物なら、空腹が強制し、危険だと恐怖が強制するので、噛みつかねばなりません。食わなければなりません。

 空腹でなければ噛む必要はありません。あるいは追い詰められなければ噛みません。だから本能と呼ぶこともできますが、自然の成り行きであり、教えて訓練しません。教えて訓練するというなら、自然が教えます。これが道徳と呼ぶ物の本当の根源です。これから、もっと良く見て行きます。

 「正常に暮らしたい。正常さを失わないで正常に」というのが道徳の根源とまとめると、自然は、最高に自然にこのようであると見ることができます。森の虎も噛み合いたがらず、問題を生じさせる相手と遭遇したがりません。

 しかし現代人は休まず噛み合いたがります。直接噛み合わなくても、噛み合いたがり、困らせたがり、優位に立ちたがり、いろいろしたがります。進歩発展があるのは物質面、身体面だけで、心の面、知性の面では苦しめ、有利になりたがります。だから人は動物より正常な幸福が消滅したと見ることができます。動物の方がまだ自然に正常な状態で暮らし、人は少しずつ遠くなっています。


 次も滑稽です。「庶民の善い道徳」という言葉ができた所に滑稽さが生じると、良く観察して見てください。

 これは滑稽な最初の項目です。つまり、それなら庶民でない人は関係ありません。彼らは「庶民の道徳」と言うので、庶民でない人は関係ありません。庶民より高い人、庶民より低い人には関わりません。それでこの「庶民の善い道徳」は何の援けになるでしょうか。特に今は、その規定では庶民が自分を管理しなければしないほど、物質の奴隷になります。

 だから庶民の道徳は心が揺れ動き、どうして良いか分からないので解決し続けます。しかし「庶民の善い道徳」と話す言葉は響きが良く、信頼できそうですが、煩悩の奴隷、物質の奴隷である庶民は、それでこの社会を連れて行きます。

 だから私は「聖なる弟子の善い道徳」と、別にしたいと思います。受け容れても容れなくても自由です。誰でも庶民の善い道徳を受け入れることもできます。私は聖なる弟子の善い道徳の方が良いと、つまり確実だと思います。

 聖なる弟子は身勝手はできません。粗い身勝手はできません。自分の能力を創造して他人より優位に立つ。こういうのは、聖人はできません。しかし庶民は何時でもしています。そしてもっとそのようにしようと努力しています。「庶民の善い道徳」には気をつけてください。噛まれるかもしれません。


 次に「庶民の道徳」について熟慮して見ます。

 この点には問題があります。話す言葉は変化できると述べたように、クルクル変わって信用できない言葉です。言葉が変わり、名前全部が変わり、意味が変わり、変化して混乱します。時には文明と呼ぶこともあり、文化と呼ぶこともあり、時代により、時により、環境によりと言うに近いですが、意味も近いです。

 名前はアーラヤタム(文明)=アリヤであるダンマ、アーラヤなど、どれも響きが良いです。しかしこの言葉は受け継がれていません。 civilization という西洋の言葉の訳語にするために考えられたのは可哀そうです。しかしそれがアーラヤタムになりました。道徳の一分野ですが、全部ではありません。

 文明と言うのは気を付けてください。意味がクルクル変わって信頼できません。アーラヤ、あるいはアリヤは最高に素晴らしいアーラヤタムですが、civilization と一緒にすると、どういう意味にも変化できます。

 今の西洋の裸の文明、あるいは free sex など際限のない欲情、呼び方次第ですが、それは一部の人たちの間で認め合っている文明です。流行り始めたばかりの新しい文明と見なして、布をまとわない時代の原始人と比較することはできません。彼らは違うレベルで、このような考えはありません。

 今は何らかの下劣な意図でわざと服を着ません。布をまとうことを知らない人と同じではありません。だから原始人が布をまとわないのを文明と呼ばないのは正しいですが、わざと布をまとわない、あるいは問題になるほど僅かしかまとわないのも、文明ではありません。それは煩悩の奴隷で、道徳の規則を「気にしない」「構わない」と改悪してしまうほどです。今世界はこの問題がたくさんあります。今タイにも蔓延していて、古い文明、古い道徳を消失せています。

 次にもう一つ、天人と競うすごく良い生活の文明を見ます。西洋人は最高に天人と競うために良い生活をします。そしてタイ人も西洋人の尻を追って、西洋人のように天人と競うすごく良い生活をすることが生まれ、西洋人の負けっ子になりました。天人と競う良い生活に迷うからです。そしてタイは今どのようで、どんな問題が生まれているでしょうか。これは天人と競う良い生活の文明のせいです。ブッダが「ちょうど良い生活をなさい」と教えたように遵守しません。こういうのは、天人と競走しません。

 「ちょうど良い生活」なら、天人と競争になりません。彼らはすごく良い生活をしたがり、天人と競うまで高くなりました。最後に非常に愚かになり、裸に近くなり、非常に困難になり、病気が増え、奇妙になりました。これを文明と呼ぶか、文化、あるいは道徳と呼べるか、考えて見てください。昔祖父母たちはそれを「不吉、不祥」と呼び、現代人は「発展はいろんな文明」と言います。迷って西洋を追っているからです。

 次にもう一つ、他人を虐める文明です。他人を虐める権力がある人は、公正と言い訳をして他人を虐めます。西洋人が未開の土地を占領した時、彼らは「文明を」、どこでも良いですがアフリカの野蛮人に「与える」と言いました。彼らは文明を与えました。そしてそれらの人を奴隷にしました。彼らが与えた物は銃です。当時は銃で十分で、他に何も要りません。核も何も要りません。

 野蛮人が受け取った文明は銃弾、あるいはそのような物で、一時代西洋の奴隷になりました。今は誰でも銃があり、原子爆弾があり、それが彼らの文明で、持っていない人から搾取します。

 まだ有能な総大将の文明があります。他人を制圧することに巧みという意味で、彼らの文明、あるいは彼らの文化と言います。今彼らは「帝国主義」とか何とか言い、これを文明と見なします。彼らの規定では正しく、そして友人としては受け容れられません。

 これは言語の変わりやすさ、信頼できないことです。彼らは文明と言い、そしてなぜ銃弾でしょう。そしてそれ以上に凶悪な物でしょう。言葉は変わり、あるいは意味がクルクル変わり、信用できません。

 まだ最近の物を見れば、抵抗する民主主義などは文明でしょうか。文化でしょうか。道徳でしょうか。一つの分野でも。

 彼らは堅い声で主張しなければなりません。それが道徳で、それが公正です。そうでなければ、デモ行進をして抗議し、権利や何やらいろいろ要求します。どちらの側もこのような主張があり、民主主義とは何かを知りません。あるいは本当の公正とは何かを知りません。権利を主張して抵抗する文明だけで、結局静かな幸福はありません。

 民主主義の本家本元である国は、世界中で持ち上げるほど民主主義が上手で、その国内は平和がありません。大きな国の後を追う小さな国は、猶更平安がありません。民主主義は本当の道徳ではないからです。国民を重要としますが、国民が煩悩の奴隷なら、煩悩を重要とします。身勝手な国民を重要とするのは、煩悩を重要とすることです。何を重要とするかハッキリ限定しなければなりません。そうすればふさわしいです.

 徳とカンマで経過する民主主義の中にも文明はないとハッキリ見えますが、彼らは文明と呼びます。今は更に、民主主義の文明でどうすれば良いか分からないほど発展し、あるのは四分五裂ばかりです。これを「庶民の善い道徳の一つ」と言います。


 次に私たちが文化と呼ぶ物の方向から見ると、文化は文化の形の中にあります。物質から少し離れて心の話になり、心を善の方、美の方へ感化する芸術の話ですが、観察すれば、それも役に立たないと見えます。

 例えば芸術は人を善い方、美しい方へ引いて行く芸術がありますが、その人の心が善くなく、美しくなければ、芸術を使って人を善い方、美しい方へ引張って行くことはできません。だから建築物、あるいは建築、あるいは後の時代のいろんな細密な芸術は、人の心を美しくなくする方へ変化しました。

 ある種の芸術は狂った話で、何も利益がなく、頭を混乱させ、時間を無駄にし、それの奴隷にならなければなりません。さもなければ「それはそのような意味で、それはそのようで、それはこのようで」と勉強しなければなりません。そうすれば、それはどのような意味があるか見分けがつくからです。それは狂人の美で、狂人の心があれば美しいと見えます。

 それも非常に時間の無駄です。それとも利益がありますか。例えば現代の芸術はこのようで、全部しても世界を幸福にできません。あるいは平和か何かにできません。石器時代の簡単な芸術に敵いません。

 分ける時は西洋と東洋に分けます。東洋にも文化があり、それ自身の芸術やら何やらがあり、西洋も芸術、それ自身の文化があります。しかしそれは、二つの側の人の心がどのように違うかを表しています。そのように誘惑し、そのように妥協し、その結果東洋は心の話が最高に多く、西洋は体の話が最高に多いと、一つの大きな真実を発見します。「最高に多い」を基準にすれば、このように気づきます。だから心の面の静かな幸福のためには、西洋の文化は何も利益がありません。

 特に現代は、心を善くするために宗教に関わる、いろんな物に関わる東洋の文化は最高に素晴らしいですが、東洋の人も維持できません。頭を下げて西洋の後を這って追い、それで自分自身の善を消滅させなければなりません。このように道化てばかりいます。

 西洋人たちが東洋の文化に関心を持ち、中国やインドやチベットの深遠な東洋の話を学習するのは、その種の物が西洋にないからです。しかし東洋は反対に、自分自身の善い物に関心がなく、西洋人に差出し、そして西洋の屑である部分で西洋の尻を追います。東洋の文化は少しずつ溶け出して利益がないので、自分自身の意味を失い、何かの状態を失います。

 もしこの文化を道徳にするなら、あるいは道徳の根源なら、最高にグラグラ揺れて変化しているとハッキリ見ることができます。庶民の善い道徳にすることはできません。タイもこの言葉を主張するのは、気づかずに西洋の尻を追っていること、あるいは物質的、身体的な利益、見返りを考えるので、気づかずに志願していことを意味します。

 文明の形の道徳はこのように騙し、文化の形、あるいは文化が根源にある道徳はこのように騙すと、二段階に見ました。


 次に「庶民の善い道徳」を見て善意で考え直し、どうするか良い決意をします。

 それには二つに分けなければなりません。つまり法律面で文字で規定する、哲学的理由を使うと言うのも、見る価値、聞く価値があります。「庶民の善い道徳」。実践的には、つまり実際はどのようかは、そのようでなく、規定してある法律面を避けるようではありません。

 同じように、私たちにはたくさんの法律がありますが、人は善くならず、反対に悪くなるか、法律に対して頑固になり、法律がまだ良くなかった時代より言い訳して法を逃れることが上手になりました。実践面ではこのようになってしまいました。法律面はまた違います。道徳の話も同じです。良く観察して見てください。「庶民の善い道徳」は、法的には美しく描いておき、実践面は反対です。これも一つの問題です。一致する解決をしなければなりません。

 次にもう一つ、「善い」というのは、個人と呼ぶ一人の人間として、あるいはたくさんの社会、大きな集団として「善い」のは、同じでない問題があります。社会に個人が含まれていても、規則は妨害し合います。今は保証できる確かな物は何もありません。民主主義の時代は個人の自由が多く、そのように望み、このように望みます。

 彼らを強制すれば、「私には権利がある」と言います。彼らは民主主義を信じ、従わない権利があります。民主主義下の権利があるので、強制してあのようなこのような規則を守らせ、あのようなこのような理想を持たせることはできません。それは個人の部分にガタが生じ、治まりません。

 次に社会は個人でできているというなら、何も終わらせられない社会で、話になりません。話にならないのに、どうして庶民の善い道徳があるでしょうか。それぞれの人物に、話し、考え、行動し、戦う権利があり、最後には一つの同じところに集約され、同じ物質の奴隷に志願します。身体面のすごく良い暮らしがあることは、全部同じです。

 だから本当に実践的に述べれば、物質面の進歩の道を、心を一つにして歩くことを意味します。それは管理できません。欺瞞に満ちていても気が付かず、永久に地獄にいるように、世界を蒸し暑くし、焦燥させます。

 今世界は、地獄にいるように常に蒸し暑く、混乱させ、四分五裂させ、最高に焦燥させ、いつ何が起こるか知れません。以前に「国に梁がなく棟木がなければ非常に困難」と言いました。今は世界全体に梁がなく棟木がないので、何倍大変か考えて見てください。

 それでも、もう一つ指摘して見せたいと思います。法律面で彼らは考えるのが得意ですが、何人でもありません。道徳面、倫理面に精通した、物質の奴隷でない人もいます。本当にある行動面はこのようではなく、全員が物質の奴隷です。あるいは道徳制度を書いている人も気づかずに、時には物質の奴隷になることもあります。

 しかし彼らが書いた話を見ると、すべての倫理家は、まだ善の部分があります。つまり何が正しく何が誤りか規定する心が身にあり、聞く価値があり、道徳に関わる哲学体系に最高に理由があります。これについては、時間がないので、後日詳しく話します。

 しかし自由に考える人たちは、どの方面にも一定数いると言っておきます。道徳面でも経済面でも数学でも、平和の探求を考える人は一部います。そして彼らの考えは称賛すべきですが、本当にする時になると、できません。そして誰もしません。誰かがすれば、バカみたいと非難されます。誰も勇敢な人はいません。

 今の仏教教団員は、仏教教団員の規定どおりにダンマの行動をする勇気がない人も、行動したくない人もいます。善いと知っていても、教えは正しい、ブッダ・プラタム(教え)・僧は善いと知っていても、ブッダ・プラタム・僧の行動をしたくない人もいます。次に道徳に関わる世界全体も同じです。

 例を挙げて熟慮して見れば、民主主義制度の中の「庶民の善い道徳」と呼ぶ物は十分です。民主主義の世界の、そして庶民の、そして善い道徳。これは首を横に振らせていただきます。

 次に二つ残っているのは、聖なる弟子の善い道徳です。聖なる弟子の善い道徳という、もう一つの部分を熟慮していただきたいと思います。民主主義の時代の庶民の善い道徳と一緒にしないでください。


 聖なる弟子の善い道徳は、聖なる弟子という言葉を先に熟慮します。

 弟子とは従う人という意味です。「従う」とは、同じようにします。同じようにしなければ、従うと言いません。聞いて賛成し、満足しますが、このようにしないのは、従うと言いません。教えの言葉は教えるように実践させたがるので、そのようにしなければなりません。そうすれば弟子、あるいは従う人と言います。耳で聞くだけで弟子にはなれません。そのように実践しなければなりません。

 心の面も同じで、体で、言葉で動かなくても、心でそのようにするのでも良いです。「言われたようにする」と考えるのではなく、本当にそのように心を変えて、言われたようにしなければなりません。それを「従ってする」と言います。そしてそれは体や言葉に現れ、完璧に聞き従うようになれば弟子と言います。

 次に聖なる弟子はアリヤに関わる弟子、聖人になってしまった弟子でも良く、聖人になるための行動をしている弟子も聖なる弟子と言います。あるいは中間で、素晴らしい弟子でも良いです。アリヤは素晴らしいという意味です。苦から去って行くところが素晴らしいので、聖なる弟子と呼びます。少なくとも三つの意味があります。

 最も低い段階なら、準備段階の聖なる弟子と言い、学校の中で準備している段階の聖なる弟子です。勉強をするには、小一、小二と進む前に準備する段階(つまり学校の中にある幼稚園)の勉強をしなければなりません。そういうのも良いです。聖なる弟子にならないよりマシです。どうぞ最初に、十分準備段階の聖なる弟子になり、それを正しくしてください。時にはもう一つ理解し合える言葉を繋ぎ合わせて、アーラヤチョン(文明人)と言います。

 アーラヤチョンとは、一杯食わせなければ、つまり正直に言えば、アーラヤチョンという言葉は使い物になります。しかし今は一杯食わせて、騙すアーラヤタム(文明)があるアーラヤチョンです。本当のアーヤラチョンなら聖なる弟子であるアーヤラチョンです。アリヤとアーラヤの語根は同じ言葉で、言語としては同じ語根があるインドの言葉です。

 アーヤラチョンなら「劣ってはいけない、悪ではいけない、いつでも何とか見られるアーラヤである人でいなさい」という意味です。これを聖なる弟子の準備段階、つまりまだ聖向聖果涅槃に到達していない、まだ初等の聖向聖果にも到達していない段階と見ることもできます。だから準備段階の聖なる弟子、最高に従い、最高に厳しい実践を受け入れると言います。

 在家でも、僧でも沙弥でも、誰でも命と体、全身全霊をブッダ・プラタム・僧に捧げ、最高に善くする努力をすれば、まだどの段階の聖向聖果に到達しなくても「聖なる弟子」と呼ぶべきです。つまり聞き従う弟子で、聖人なるために教えで実践をする人を、他の人たちがアーヤラチョンと呼ぶことができます。しかし一杯食わせないでください。つまり騙さないでください。

 もう一つの言葉を思い出してください。昔は善く、使い物になり、十分な意味があった言葉、紳士という言葉です。私が小さな頃、西洋の国の最高の大学が、欲しい結果は「人を紳士にすることだけ」と言った、この言葉にびっくりしました。普通の人はまだ紳士でなく、そして学校へ行き、最高の大学で何年も薫陶して、本当の目的である結果が出て紳士になるという教えがあります。こういうのだけです。彼らはそれだけを欲しがりました。

 紳士であることは安全を意味します。自分自身にとっても、すべての人にとっても安全な人間の一人で、紳士から生じるどんな危害もありません。だから彼らはそのように学ばせ、そのように薫陶し、そのように行動すれば十分で、尊敬できると見なしました。

 今はすっかり変わりました。教育の目標であるこの種の紳士という言葉はありません。それらの人の現代のすべての大学は紳士らしさを目指しますが、彼らは職業を営んで豊かになることに秀でた人、力を合わせて他人を虐めることを目指します。

 一つの国の人が力を合わせてもう一つの国の人をやっつけるのは、教育の目標になってしまいました。つまり体力、気力、知力、何かいろいろ他人より上にいられる力をつけ、その結果他の人たちが困窮しても、死んでも、何でもしているその時、自分たちに安楽快適があります。だから今私は、「ある国は力があるので困らず、力がない国は困窮しなければならず、そして小さな国でもある」と見ることができます。

 これはつまり、教育の目標に紳士はありません。その意味の紳士が本当にいれば、アーラヤチョンという言葉に使います。アーヤラチョンという言葉は聖なる弟子の準備段階という言葉に近いです。だからいずれにしても私たち仏教教団員は、準備段階の聖なる弟子になりましょう。そうすれば聖なる弟子の準備段階の善い道徳があります。

 次に移動すると有学(まだ学ぶべきことがある)の聖なる弟子です。これは初等の聖向聖果に到達し、一定レベルの身勝手を非常に消滅させるので、有学の聖なる弟子と言います。つまり小学校三年生、四年生、五年生、あるいは中学校の三、四、五年ですが、最後の段階だけではありません。

 最後に身勝手を捨ててすっかりなくす努力をします、今は初等の粗くて劣った身勝手を捨てます。これが悪い貪り・怒り・迷いになるので、それをなくします。全部捨てられるまで、捨てにくい繊細な物だけ残すので、預流、一来、不還を有学とします。

 もっと移動すると、無学の段階の聖なる弟子は阿羅漢しかいません。これはほとんど話す必要はありません。道徳の段階を超えます。しかし西洋の意味の道徳は限定していません。彼らは最終目標をいつでも最高レベルに描いていて、道徳の目標として何も足さないからです。だから阿羅漢になってもこの段階に集約され、最高に完璧な道徳がある人で、他に何も足せません。つまり阿羅漢です。まだ足すことができれば有学の段階で、まだ幾らでもなければ準備段階です。

 この角度で見れば、涅槃も道徳の範囲にあります。西洋人の学生の中には、涅槃は仏教教団員の最高の道徳と、そのように規定する人がいます。涅槃をボロマタムと呼ぶなら、パーリ(ブッダの言葉である経)で「ニッバーナン パラマン ヴァダンティ ブッダー=すべてのブッダは涅槃はボロマタムと言う」と言うように、簡単に見えます。

 ボロマタムとは頂点であるダンマ、頂点である道徳です。広い意味の道徳で、そして頂点です。だから道徳の観点の涅槃、涅槃という言葉はいろんなレベル、いろんな意味があると思わなければなりません。そして涼しくしてください。そうすれば厳格でも厳格でなくても、全部涅槃と呼びます。

 この話は、涅槃に関した講義で最高に詳しく説明しました。「涅槃は涼しい」と知ってください。熱くない時はいつでも、その時は涅槃という意味です。熱いのは煩悩で熱く、煩悩がなくなって厳格に熱くなければ、本当の、あるいは完璧な涅槃です。しかし煩悩が一時的に抑えられて、あるいは一時だけ生じないので一時的に熱くないなら、一時的な涅槃と呼びます。だから一時的な涅槃でも完璧な涅槃でも、道徳の最終目標の頂点と呼ばなければなりません。

 しかし一時的な涅槃、一時の涅槃を目指せば目指すほど、道徳になります。今私たちは、このような状態の涼しさで世界に住むべきです。一時その話があり、一時この話があり、一時あの話があり、一時あっちの話があります。どの話も涼しくできるようにしましょう。そうすれば人間が持てる最高に善い道徳があると言います。つまり熱くありません。人物が熱くなく、国も熱くなく、全員が熱くない時は、どこからも熱さは生じません。だからこの種の人物がいる国は、国中熱くありません。

 だから誰もが、何としても「貪り・怒り・迷い」が現れないように管理すべきです。あっても心の中にあり、誰も貪りで、怒りで、迷いや愚かさで触れなければ、涼しいだけです。煩悩が消滅しなくても涼しくなれます。あるいは全員が煩悩を管理することで涼しくなれ、普遍的な道徳の言葉で、自分自身を管理できると言います。


 この言葉の意味を「自分自身を管理できることが道徳」と掴む方が良いです。簡潔に、最低のことから最高の涅槃まで、自分自身を管理できるのが道徳と言います。自分自身を管理することは、体と言葉と心が誤りをしないよう管理します。そして心だけを管理すれば十分です。心を管理できれば、体と言葉が間違うことはありません。

 次に何が誤りで、何が正しいか、適度に知らなければなりません。しかしこれは難しいです。ブッダが話されたパーリで述べられている、そして最高に理解し易いのは、「間違っている、悪い、下賤なのは、自分と他人を苦しめること」です。ブッダはこのように話されました。正しくて善なのは自分を苦しめず、他人を苦しめません。これしかありません。「私はまだ勉強していない。まだ出家していない。まだ知らない。だから私は例外」。あるいは「許される」と言い訳しないでください。こういうのは不正直な人、気づかない嘘つきです。

 だから「私は善を知らず、悪を知らない」と拒否しないでください。言ってはいけません。道徳で話せば言い訳をする道はありません。自分を苦しめない、自分を困らせない、そして他人を困らせず、他人を苦しめないと自分で分かるからです。

 これが正しさ、これが善で、智者です。その他は「智者が称賛し、智者が実践するよう勧め、聖人が称賛するものは正しい」と説明しています。この言葉は言わなくても良いです。自分を困らせず他人を困らせなければ智者は称賛し、聖人も称賛し、善人はそのような行動をするよう誘います。


 次に自分を困らせるとはどのようか、他人を困らせるとはどのようか、観察して見ます。

 今、私たちは自分のことしか考えず、そして気づく術がありません。自分のことだけを考え、自分のためにし、そしてこれが自分を困らせると知りません。例えば「私は愛している、私は欲しい、何としても手に入れる」などを、私たちは「私は手に入れた。私は満足だ」と言います。彼らは、これが自分自身を困らせると考えません。

 だから人は、これが自分を困らせると知らずに盗んだり、奪ったり、不正や狡いことをし、優位に立ち、何かを横領します。その人は他人のお金を騙し取って手に入れても、自分を困らせると考えません。それは愚かな人の考えです。正真で真直ぐな人、あるいは智慧がある人は、最高に何か、内面の人間らしさを消失させると知っています。

 外部に注目すれば、他人がもっと自分を嫌いになり、町中の人が自分を包囲して嫌悪します。こういうのを、自分自身を困らせないと言うでしょうか。愚かな人は、町中の人が自分を嫌うようにし、友達、祝福する人もいないのに、まだ自分を困らせていないと考えます。

 気をつけてください。「自分自身を困らせない」というのは理解が難しいです。しかし理解できないほど深くありません。

 その行動が、焦燥を生じさせるなら「自分を困らせる」と言います。恐怖、疑念などを生じさせるなら、「自分を困らせる」と言います。あるいは眠っていて、びっくりして目が覚めるのは、自分を困らせることです。次に少し見るのが難しいのは、自分を最高に愚かにすることです。これは知りません。あまり知りません。知るのが難しく、最高に自分を愚かにします。それです。深く自分を困らせます。そのようにしなければ自分を困らせないと言います。

 次に考え、感覚、知性が自分を困らせなければ、他人を困らせることはありません。他人を困らせるには貪らなければならず、怒らなければならず、いろいろたくさん迷わなければなりません。そうすれば他人を困らせます。自分を困らせないくらい善ければ、疑うまでもなく、他人を困らせることはありません。

 しかし今、自分を知らないこともあるので、先回りして話しておきます。自分を困らせるという状態を知らないこともあるので、「人を殺してはいけない。人の物を盗ってはいけない。他人が愛している物を犯してはいけない。他人を騙してはいけない」と話してしまいます。まだ愚かすぎる人に、こう言っておかなければなりません。

 他人を困らせてはいけないとは、そのようにすれば「他人を殺すことはその人を困らせ、自分も困らせること。他人の物を盗むのは、他人を困らせ、自分も困らせること。他人が好きな物、愛している物を犯すことは、他人を困らせ、自分を困らせること」と見えます。何とか考えることができ、だんだん見えてくれば、自分を困らせ他人を困らせる、どちらも止めたくなります。次に、一つの段階の涅槃である涼しさで暮らします。道徳の段階の初めは、一つのレベルの涅槃を創ります。

 僧が戒を与え、「シーレン ニップティ ヤンティ=人が涅槃に行けるのは戒ゆえ」、あるいは「人が涅槃に至るのは戒ゆえ」と功徳をまとめた言葉を聞くのを、勤勉に観察してください。戒があれば一定レベルの涼しさで、最高に涼しくなるまで一つのレベルの涅槃です。

 しかし関心があるのは、戒は消費財を得させ、天国を得、「シーレン スガティ ヤンティ=戒は天国に至らせ」、「シーレン ボーガサムッパダー=消費財で豊かになるのも戒ゆえ」だから関心があるだけです。それでもまだマシです。戒をもってください。そうすれば戒が涼しくするので涅槃へ行けます。

 戒の功徳は、涅槃と呼ぶ物でも、一般の意味のために、道徳の範囲内に引っ張って来なければならないと指摘します。準備段階の聖人でも、涅槃を愛す方が良いです。つまり涼しさを好む方が良いです。準備段階の聖なる弟子は、涅槃に満足しておき、有学・無学の聖なる弟子は、話す必要はありません。その方々は十分満足するので有学になり、無学になれます。だからすべての意味の涅槃は、道徳の範囲内にあると見なします。


 すべてを「聖なる弟子の道徳」と言います。庶民の善い道徳と比較して見るために、対にして見ます。

 庶民の善い道徳はどこに、どの点にあるでしょう。聖なる弟子の道徳とどのように形が違うか、どのように色が違うか、誰が騙し、誰が騙さないか、比較対照して見ます。庶民の善い道徳は変化する文明にもあり、free sex もあり、天人と競うすごく良い生活にもあり、大砲や武器で強圧するのもあり、意味のない民主主義のような抵抗の中にもあります。

 これが庶民の善い道徳です。つまり彼らはこのように受け容れ、そうでなければしません。大きな国がこのようにするからです。あるいは非常に物質の奴隷になります。そして東洋側も西洋の尻を追う種類の道徳で、芸術の角度の庶民の善い道徳も、何の利益のためか分からないほど熱狂します。

 今道徳の名前について話しています。道徳に関わる名前と意味の、二つの項目について話すつもりです。次に時間がなくなったので、名前の話だけで、意味の話は次回に回す方が良いです。

 しかしそれでも、「私たちは、アリヤである聖なる道徳、そして道徳は準備段階の聖なる弟子、有学(まだ学ぶべきことがある)の段階の聖なる弟子、無学(もう学ぶべきことはない)の段階の聖なる弟子に導く」と要旨をまとめ、何としても理解し、何としても規定して記憶してください。私たちには聖なる道徳があります。庶民の善い道徳は頼りになりません。

 このようであるために頼れる方法が見えないので、成り行き任せです。聖なる道徳があればジタバタせず、毒も生じず、何も危険でないことは確かです。このように確実で良いです。騙すことができないこのような名前を、ハッキリと知っておいてください。

 今日の講義は、これで終わらせていただきます。




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