12.青少年のためのアリヤシーラダンマ Ⅱ





1974年9月21日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。アリヤシーラダンマの話の土曜講義の第十二回目の今日は、前回話し終わらなかった「青少年のための道徳」という小さな題で話させていただきます。

 みなさん、現代の道徳に関してどのような問題があるか、事実について述べた内容を初めから復習させていただきます。まとめれば、すべての仕事に非常に発展がありますが、道徳面は反対に悪くなり、驚くべきと言うほど消えています。

 私たちは天の物、天国の物のように、何でもいろいろできますが、それは物質の話、あるいは生活の話で、社会の、あるいは人物の本当に静かな幸福は滅多にありません。物質面の発展が休まず興味を生じさせるよう煽るからです。あるいは関心を持ちたくない人の関心を妨害する、こういうのもあります。

 良く熟慮して見てください。高齢の人でも、新しく発明された物を所有する、食べる、使う必要がなくても、これらに無関心でいられず、時間を静かに使わず、正反対に使います。

 次に、この世界で楽しく夢中になる年齢の人は、全身引っ張って行かれ、教育のない人物ほど間違った方向へ、最高に全部引っ張って行かれます。二三日前に共同声明が出たように、犯罪が増えたのは一つだけの理由です。

 つまり女性の服装と、同様のいろんな物。これは道徳面の問題の一つです。人を道徳面で衰退させる物があれば、人間には道徳がなく、人間が少なくなると言います。この世界は道徳のない世界で、この言葉の意味の正常さがありません。


 この言葉、つまり道徳(シーラダンマ。タイ語ではシンラタム)という言葉の意味を文字どおりに捉えるよう、お願いしたいと思います。

 シーラは正常という意味、ダンマは物という意味で、原因でも結果でも良いです。ここでのダンマは原因で、正常さを生じさせる原因という意味で、これを道徳と言います。ダンマという言葉が結果なら、正常な状態という意味で、道徳があることの結果です。

 物質の正常は、自然の物質、あるいは家の中の物質でも、その人に道徳があれば物も正常で、人に道徳がなければ破壊され、あるいは混乱し、正常ではありません。

 物質より高い身体の部分を見ると、道徳があれば身体も正常と見ることができます。正常であることは、病気がないことから自分と他人を苦しめないことまでです。

 心の話まで高く見ると、道徳があれば心は静かです。

 もっと高い知性の話を見ると、道徳があれば知性も正しく、正しい法則で経過します。道徳がなければ知性も正しい見解がなく、智慧があっても他人に不正をするため、あるいは煩悩でするためです。

 その人の知性に道徳がなければ、身勝手にするよう誘う物があるので、身勝手な方へ回転します。そして知性を身勝手な人の利益のために使う訓練をし、世界の奇妙で不思議な進歩ばかり考え、そして走るように進歩します。しかし世界は道徳がなく、静かな幸福がなく、あるのは増える問題だけです。

 これはあまり引き合いにする必要はありません。深く証明する必要もありません。目で見えるからです。タイでも、良いのは物質面の発展で、道徳面は四分五裂がいっぱいで、かつてなかったような虐めまであります。

 要するに物質面は大きな発展をしましたが、道徳面の状態は信じられないほど急激に衰退しました。人に本当に知性があるなら、なぜ世界に、あるいは国に、あるいは自分の家庭に、静かな幸福を生じさせないのでしょうか。

 結局私たちは、どうするべきか次第で、復興、調整、振興、解決、あるいは維持しなければならない道徳面の問題があるということです。問題が生じて物質の話と鉢合わせになり、世界のほとんどの人は道徳の話に関心がありません。道徳という言葉は人間の話す言葉から消え、新聞紙上、あるいは辞書からも消えました。

 新しく発行された世界の辞書には、道徳という言葉、あるいは道徳の話は見つからないと観察して見てください。個人の特別の話にし、世界、あるいは社会の話しとして、一緒に話す話しではありません。


 次は世界に道徳がなくなれば、危機、困難、困苦、四分五裂があり、誰を責めたら良いか分かりません。一方は人間の破滅に引っ張って行き、もう一方は今見られる限り引き止めておけません。だからできるのは、誰もがこの問題に振り向いて、すべての力を合わせてこの問題を解決するか、期待するだけ、あるいは祈るだけです。つまり道徳を生じさせるため全員の能力を、今あるような物質面の惑溺に抵抗する能力にします。

 見た限りでは、まだ問題はたくさんあり、ほとんど絶望するほどです。しかしそれでも、善人の範囲で苦闘する以外に選択支はありません。つまり感覚に反して、あるいは悪であること、自分、あるいは人間にとって危険であることをしたがりません。だから何回も前から前回までの講義で述べたように、まだ一部に抵抗があると言います。

 私は青少年の道徳について、助け合ってどのように調整しなければならないか話しました。だから青少年のためのアリヤシーラダンマ(聖なる道徳)という題で講義し、前回終わらなかったので、今日続きを講義しなければなりません。


 青少年のためのアリヤシーラダンマの講義は、幾つかの言葉を青少年の段階に応じて特別な意味にしなければなりません。

 本当は、それぞれの項目の道徳は青少年だけ、あるいは大人だけに使うよう目指していないので、どちらにも使うことができます。しかし青少年のために、相応しく意味を低くします。

 次に道徳であるダンマの項目を、便利なように八部に分けます。みなさんも二つの部を聞いたように、最初の二つの部はスッディ=純潔、そして智慧=博学、残っている六部は、慈・忍耐・律義・慚・精進・そしてヴッディ、あるいは発展です。これから話します。

 もう一つ、私が八部に分けるのは、教えて訓練する便宜のためです。しかし一つ一つのダンマの名前は、同時に幾つもの部に属すこともできます。例えば戒という言葉は自分を強制し、自分を強制するのは直接戒の部ですが、どの部にするか、律義、慎重にすることでも良く、堪忍の部でも良く、これらは直接です。間接的には発展の項目になります。人は財産や身体、物質、心でも何でも発展し、それは戒とぶ物に依存しなければならないからです。

 曖昧な感覚を生じさせることもあるので、良く観察して見て、この項目を誤解しないでください。一つの項目のダンマの名前を聞いて、一時その部にあり、一時この部にあったら、その項目のダンマ、この項目のダンマは幾つものレベルの意味、あるいは幾つもの分野の意味があるからです。

 次は前回に続いて残っている部、メッター(慈しみ)についての部で話します。青少年はメッター、つまり友情についての部のダンマの薫陶を受けるべきです。


第三部 メッター(慈しみ)

 今私たちは、青少年のメッター(慈しみ)は減少している、あるいはいろんな意味で消滅するほどと観察して見えます。初めに述べたような理由で、あるのは身勝手だけです。要するに自分の幸福、楽しさ、美味しさから生じる身勝手な感覚を煽る物がいっぱいで、寝ぼけた民主主義も子供を身勝手にし、自分の満足で自分の気持ちだけを考えさせます。

 教育やスポーツは、すればするほど勝手になります。教育は、最高に上等な腹と口のことだけを考えるよう教え、スポーツは身勝手を増やすためです。彼らは勝ち負けのために試合をし、衛生のためでも、スポーツマン精神のためでもないからです。

 人間がかつてダンマの利益に使った物は全部、ダンマの敵になりました。芸術と呼ぶ物も、身勝手にする惑溺を生じさせる芸術ばかり好まれ、身勝手を消滅させるためにはありません。メッター(慈しみ)と呼ぶもの、友情、あるいは他人を愛すこと、それも消滅しました。この項目のダンマも段階的にあります。

1.メッターという言葉、つまり友情を題にします。

 「すべての動物は生老病死の友」と宗教が教える深遠な自然の基礎を持ってください。すべての動物とはすべての生き物を意味し、下等でもすべて「生の友、老いの友、病の友、死の友」と見なします。これが、宗教が求める意味の友です。

 次に人は友達を欲しがり、助け合って自分の利益にするだけなので、他人を破滅させる友情が生れます。だから小さな時から友情を知るよう薫陶しなければなりません。小さな畜生から高い人間まで、友達です。

 身勝手は、美味しさや個人の幸福に満足した時に始まるので、良く注意して、その時、その瞬間に、腹や口より高い物があることを教え、薫陶しなければなりません。

 他人を助ければ、自分が受け取る部分は減りますが、他の人は大きく成長します。「一人で食べれば、翌日大便として排泄するだけだが、他人にやれば心に埋めてあり、与えた人の心に何年も埋めてあり、何年も経って思い出しても気持ちが良く、物を貰ったり上げたりした幸福を感じる」と言うようにするべきと、子供に決意するよう教えるべきです。それは本当の友達の感覚で、メッター(慈しみ)と言います。


2. カルナーは憐れみ
 カルナー(憐み)は「すべての人は生老病死の友」と思う時、憐み合うべきです。メッターは友達として愛すという意味で、カルナーは苦の友として憐れに思い、助け合うために犠牲にする準備があります。

 メッターとカルナー(慈と悲)は一緒に話されることが多く、愛があれば憐みがあり、援ける考えがあります。助けるべきことがあったら、助けるよう子供に教えなければなりません。水に落ちて死にかかっているアリを助けるよう教えるのは、言うだけ無駄と考える人がいます。それは助ける憐みを育て、あるいは習性を育てることを目指し、将来その子は、それより価値のある物を助けます。


3.ムディターと呼ぶものについて話します。

 ムディター(喜)は、一緒に喜ぶことで、本当の目的は、妬み嫉みを排除してしまうことです。タイ語で言えばイッチャー(嫉妬)でも良いですが、パーリ語は、イッサーという言葉を使いません。私たちが言うリサヤー(妬み)に相当し、これも危険です。子供は弟妹に嫉妬することを知ります。小さな弟妹も兄や姉に嫉妬することを知り、大きくなると休まず嫉妬し、国を越えて嫉妬するまでになります。

 今世界は大きな危機があり、見ると、「誰も出世させたくない。誰かに世界を支配させたくない。私が世界の支配者になる」という嫉妬が原因にあると分かる部分があります。それもぼんやりしている意味で、本人はきっと「私の方が良くできる」と考えます。しかし本当のことを言えば嫉妬で、他人に利益を受け取らせたくない、あるいは出世させたくありません。

 今普通の人は、必ず嫉妬と呼ぶものがあります。知っておいてください。あまり話す必要はありません。道徳面のムディター(喜)と呼ぶ物だけを話して嫉妬を排除したいです。世界を破滅させる物なので、子供にムディターを教えなければなりません。他人が表彰されたら一緒に喜び、自分の弟妹にも嫉妬しないでください。


4.援助、あるいは布施という言葉を引用したいと思います。時間、あるいは力、あるいは何でもを分配し、私たちは世界の中で一人では生きられないと考えて他人を助けます。

 どんなに小さな子にも、私たちは世界の中で一人では生きられないと教え、そして両親も世界で一人では生きられない、誰でも世界で一人では生きられないと教える努力をします。私たちはできるだけ助け合わなければなりません。誰もが大勢一緒に暮らせば、世界は世界になるので援助します。布施と呼ぶこともできます。

 多くなり、高くなったら、布施、あるいは援助は身勝手の消滅を目指すべきです。今どんなに布施をしても、むしろ利益のため、儲けのためで、こういうのは布施ではなく、交流、あるいは儲けのための投資です。子どもたちに本当の布施を教えるなら、この角度で教えるべきです。

 ほんの少し徳を積めば天国や宮殿が手に入ると教えるなら、こういうのは危険になる部分があります。つまりその子の貪りを増やし、身勝手を増やします。これは布施でも援助でもありません。

 援助するには、身勝手や自分の利益や幸福を犠牲にしなければなりません。私たちはこの世界で一緒に暮らさなければならないという立場で、子どもたちに他人の利益のために自分の物を犠牲にすることを教えます。もっと善くするには、身勝手は自分に苦をもたらすと教えます。


5.徳を分けると言いたいと思います。

 私が子どもの頃はほとんどどこでも、至る所で、毎日何回も出遭いました。「徳を分けてあげるよ」という言葉を、道を歩いていても、このように人が話しているのを聞きました。一人がお寺で説法を聞いて帰る途中でもう一人に出会うと、「徳を分けてあげるよ」と言いました。しかし今は、全部どこかへ消えました。そしてそのようにする人がいれば、他人の笑い種になります。

 人は善くなったか、それとも悪くなったか、後で考えてください。昔式の伝統習慣では徳を分け、徳を交換し合い、比丘や沙弥は常に実践しなければなりませんでした。特に雨安居の日は「あなたが行った徳を、どうぞ私にも分けてください。私が作った徳をあなたも喜び、そしてあなたも受け取ってください」と述べます。今はしても口だけです。パーリ語の意味をあまり知らないからです。

 徳を分け、善を分け、少なくとも善を交換します。徳を上げるのは終わりを知りません。上げれば上げるほど増えます。上げれば、上げた人は却ってたくさん受け取る点が不思議です。徳の部分、あるいは善の部分を分け与えるのはこのようで、物質のようではありません。

 私たちが何かをして徳を得て、そして友達に「善の部分を分けてあげる」と言います。その人は一緒に喜んで徳の部分を受け取るので、もう一人も受け取れ、分けた人は反対に新しい徳が増えます。もう一度徳を分けたので、更に増えるからです。だからこういうのは、不思議と捉えるべきで物です。分けて上げれば上げるほど増えます。

 子供たちにこれを、あるいはこの不思議な物を指摘して教えるべきです。いつでも善の部分を交換し、善を交換し、徳を交換します。小さな子供の時からすることを教えます。


6.互いに連絡を取り合うことは、善い方の意味で、連絡して大変にさせません。

 連絡を取らせるのは種を終らせません。あるいは間を置かず、この人がその人にしたら、その人は応え、そしてその人は十分と考えて終わらせないで、また応えるべきです。そしてこの人もまた返し、このように返してばかりなら終わらず、まだ連絡を取っていると言い、しっかり連絡を取り合う友達の状態があります。

 あどけない子供に、このような状態で友達と連絡を取り合うよう教える努力をすれば、メッターが生じて強く深くなり、薄れにくくなります。それは、助け合ってメッターと呼ぶ物の世話をするのと、あるいは水を撒き、土を掘り返してやるのと同じです。


 次に幾つかアドバイスの状態で話したい細かなことがあります。

7.他人の利益のために、過剰に生産する努力をすると言いたいと思います。

 過剰な部分を取らなければ十分と考えるだけでなく、他人にやるために過剰な部分をたくさん持っておく努力をします。ブッダの時代の長者は、布施蔵を維持するため、布施蔵を保持するために、過剰な部分を生産する努力をし、自分が食べきれなければ布施蔵を維持するために使う例を挙げたように、埋めておくのも、将来布施蔵で振る舞うためでした。こういうのを、他人の利益のために過剰な部分を生産すると言います。


8.何としても過剰な部分を分配すると言いたいと思います。

 人は「他人を助けるにはまだ足りない」と考え勝ちです。私は反対に、「他人のために分けてやれる部分がなければならない」と話します。たとえ僅かでも、分けられないより大きな結果があるからです。子どもたちに、毎日自分の余分を少し分けてやり、何としても他人の利益にすると決意し、誓願するよう教える努力をします。

 例えば、母からその日の昼食代として十サタン貰ったら、本当はそれは非常に少なく、自分もあまり十分ではありませんが、それでもまったくない子に一サタン分けて九サタン使えば、何とか凌げます。このように考えれば分ける部分があります。しかしそのように考えなければ、一バーツ(百サタン)も二バーツもあっても、分けようという考えはありません。

 大人も同じで、同じ教えで、余剰である他人の利益のために何としても分けてやれる部分がなければなりません。その徳は自分に還って報いる、あるいはその人は私を愛すと考える必要はありません。私たちは友情を見せ、あるいは純粋なメッター(慈しみ)を発展させて習性本性にするだけです。


9.理由のある支援と言いたいです。

 メッター(慈)は愛、カルナー(悲)は支援ですが、この支援は理由がなければなりません。つまり受ける人を破滅させません。理由のない支援は、受け取る人にとって害になることもあります。例えばその人を自立できない人にすることがあり、これは多いです。しかし理由のある支援はそのような状況を生じさせません。だから一方的に乞食を禁止する法律を出すなどは、正しくありません。理由がある時は助けるべき部分があります。

 ここでの理由は、彼らが自立できるように支援することを狙い、彼らが本当に自立できない時は、彼らが危機を脱す支援をします。これも理由があるので、彼らが自立する状態の支援をします。

 水に落ちて死に掛けているアリを助けるのは理由があるか。あるいは本当に何もない人が本当に死に掛けていたら、理由があるか。子どもは考えることができます。そうすれば国を助け、宗教を助け、あるいは人間として人間を助けることまで、誰でも、彼、私、何でも順に高くなります。これをメッター、あるいは友情と言います。この項目を間違ってすればメッターでなくなり、その人を殺すことにもなります。だから理由のある支援という原則がなければなりません。


 次の細かな物は、メッターの敵である感覚についてです。

10.「怒りっぽくない」というダンマに言及します。怒らない、あるいは怒りっぽくない、あるいは怒ってばかりいない人は、同じ言葉の中にいます。他の人が怒る物、他人が怒る場合にも、私たちは怒りません。

 子供は、この項目の課題をたくさんするべきです。あるいは他の子が怒りっぽい時、同じことに怒らない練習をするべきです。あるいは相手が怒りで自分にしても、自分は怒りません。私たちは「怒っている時は、最初に怒った人より悪い。彼が私にしたのは、怒りでしなければならないから。私がその怒りを受け取って怒りで返せば、双方が怒りになる」というブッダバーシタを遵守します。

 これも問題と言います。つまり一部の人は公正と見ます。彼がこちらに先にしたので、こちらは返さなければならないので、自分が正しい側になってしまいます。怒り返す人が「正しい側」になってしまいます。しかし宗教の教えはそのように捉えません。反対に怒りで返す人は、最初に怒った人より悪いと見なします。

 子供に「相手より先に怒らず、相手が自分に怒っても、怒って返さない」と、この項目を説明して理解させるのは、ちょっと大変です。私たちは、怒らなければならない話はないということです。「すべての動物は生老病死の友」という項目を、いつも思っていさせます。

 だから時には、あるいはある人がうっかり怒るのは普通の話で、私たちはその人を憐れむべきです。その時その人は愚かになり、うっかりし、あるいは彼に誤解させる何かがあるからです。だから怒らないでおく方が良いです。そして相手が怒っても、怒り返しません。


11.復讐を企てない。憤りを溜め込まないという意味です。

 復讐を企て、際限なく憤り、際限なく嫌い、際限なく加害心に燃えるのは、いつでも火を燻しておいて払い除けようとしないように、自分自身を破滅させる話、と良く見させます。恐ろしい言い方をすれば、自分を捕まえて地獄に入れる、あるいは地獄を自分に被せるのと同じです。

 怒り・復讐・加害の考えは、自分にとって、あるいは誰にとっても良い結果があると考えないでください。誰にとっても良い結果はありません。だから私たちは、そのように復讐しようと狙っているより、死ぬ方がマシです。これはメッターの一つ、一つの種類、一つの状態です。


12.「復讐しないことで復讐に勝つ」という言葉に言及したいと思います。他人が自分に復讐心を抱いて加害心に燃え、私たちを狙っている時、私たちは復讐しないことでその復讐に勝つことができます。多少困難でも、あるいは時間が掛かっても、できる方法があります。復讐しないことで復讐に勝つことを教えます。

 復讐で復讐に勝とうとすればするほど、恨みは増え、勝つ術はありません。たとえ不利な側に、あるいは何か忍耐する側にならなければならなくても、復讐と呼ぶ物は、復讐心を抑えることで勝つことができます。これはその復讐を鎮めるために、受ける側、あるいは不利な側、あるいは何でも最高レベルのメッターです。

 これだけの見本で十分です。メッター(慈)と呼ぶ部類の徳について、際限なく話すことはできます。子供たちがこのようなメッターカルナー(慈悲)の薫陶を受けて習性を熟させれば、道徳の一部はその面、つまりメッターカルナーである面で完璧になると見ます。

 次に苦しめ合うことができず、安眠させる徳が生じ、善が生じ、本当の幸福の感覚が生じ、身体面、物質面の煩悩の話、欲情の話などの幸福を探求しなくても良いのは、関心を持つべき利益がある道徳の一つの部と見なします。


第四部 堪忍

 何十、何百のダンマを群に分け、残りは八部だけと、良く観察して見てください。近い物、関わりのある物を同じ群にまとめる必要があるので、堪忍のグループは、堪忍に関わる話だけをこの部に入れました。

1.部の名前であるカンティと呼ぶ物について述べます。カンティとは忍耐、あるいは堪忍という意味で、忍耐すべき何でも忍耐します。

イ.初めは、触れるものがあると忍耐しなければならなくさせる世界にある自然の経過です。暑さ、寒さ、アブ、蚊風、陽射しでも何でも、それは忍耐しなければならない物です。それが刺すのを放任する、あるいはいつもそれに苦しめられる訳ではありませんが、心が苦にならないよう忍耐しなければなりません。避けられない時は忍耐し、そして成り行きに従って解決しなければなりません。

ロ.病気は忍耐を知らなければなりません。忍耐、あるいは平然とすることを知らなければ、有害な物を食べるのと同じで、気力を無くし、苦である感覚を増やします。これは何も利益がないので、病気に対して忍耐しなければなりません。

ハ.世界で暮らすとヤクザな人や狂人と一緒に暮らすことがあり、避けることはできません。ヤクザな人や狂人は、当然私たちが忍耐しなければならないことをするので、忍耐できなければなりません。彼らが普通に「善い」と言う善人は煩悩があり、煩悩が生じれば狂人ですが、誰も狂人と呼ばない種類の狂人です。

 だから煩悩がある人は当然他人を冒涜し、時には他人を罵り、あるいは他人を見下します。それも忍耐しなければならない話です。二人目の狂人になって喧嘩して殺し合うより、忍耐する方が良いです。

ニ.最高の忍耐の一つで、自分の煩悩の抑圧に耐えます。誰にも煩悩があり、煩悩は煩悩式に望み、それは誤りばかりです。だから私たちは忍耐しなければなりません。タバコを吸いたくても忍耐しなければなりません。あるいは中毒になっていれば、止めるために忍耐しなければなりません。これは小さな煩悩で、それでもこのようです。

 「映画を観に行きたい。芝居を観に行きたい。酒や酔う薬を飲みたい。欲情を探したい」は必ず煩悩の威力で、どれも忍耐しなければならない話です。こういうのを「煩悩と呼ぶ物の抑圧に忍耐することは最高の忍耐」と言います。

 すべてをカンティ(堪忍)と言い、全部忍耐です。私たちは子供に説明して、忍耐を教えなければなりません。そして忍耐できた時には褒め、忍耐がある人の習性を生じさせます。それはすべての種類、すべての状況の人にとって非常に利益になります。在家も出家も僧も、忍耐で危機を脱すことができます。次に、他の意味で話します。


2.ソーラッチャという名のダンマを呼びたいと思います。

 この言葉は「晴れ晴れと笑う」という意味です。忍耐できても、ブスっとした顔では良くありません。あるいは上手ではありません。忍耐できるなら、晴れ晴れと笑うべきです。普通以上に痛みがあり、出血していても、明るく笑うべきです。人に罵られても、明るく笑うべきです。煩悩に抑圧されたら、煩脳を嘲笑すべきです。こういうのをソーラッチャ、明るく笑うと言います。それは最高の結果を現す堪忍で、帰依すべき状態になります。


3.自分を律すというものを明示したいと思います。パーリ語でダマと言います。

 ダマは自分を強制するという意味で、自分を強制するとは煩悩を強制します。しかし私たちは外部の行動を見がちで、例えばするべきでない行動をしないよう強制しますが、本当は煩悩を強制します。最初から、私たちは自分を強制して他人に衝撃を与えないようにすると言います。これは非常に問題がなくなります。

 自分を強制するのは、他人に関わるのでも、悪い感覚が生じて私たちに噛みつかないようにます。しかし望みのほとんどは、行動である外部に出る部分、そして他の物、あるいは他の人に影響する部分を強制します。

 強制は非常に広い意味があり、自分が自分の管理下にあるよう強制します。実践のための教えは非常にたくさんあり、非常に多くのカンマターナ(念処)バーヴァナーの方法で心を強制します。これも自分を強制する中にあります。世界共通の道徳はこの言葉、つまり自分を強制することについて言及します。


4.口答えしないこと、意地っ張りでないことについて言いたいと思います。

 口答えをしないことは、特に練習しなければなりません。人は小さな時から口答えをし、意地を張ってきたので、善くするなら小さな子を頑固、あるいは口答えをする習性がなく、聞き従うようしつけます。

 「いろんな種類の子のうち、最高に素晴らしい子は言うことを聞く子」というブッダバーシタを思ってください。ブッダは賢くて優秀で能力のある子を褒めず、親の言うことを聞く子を褒めています。言うことを聞く子は、善い部分しかないからです。だから子を、言うことを聞く子にしつけなければなりません。まだ理由がなくても話が分かり、口答えしないで、意地を張りません。

 口答えをすること、あるいは意地っ張りは悪の話で、魑魅魍魎の話と見なしてください。意地を張って口答えを口ごたえをする人の心や顔を見ると、魑魅魍魎のようで、人間の子ではありません。だから人間の子は、意地を張って口答えをするべきでなく、人間のように顔を見合せます。


5.受け入れられる。つまり進んで受け入れる人になる。

 誰も受け入れないことに問題があるので、何の話も静まりません。この世界にぶつかり合いがあるのは当たり前ですが、事を治めるために一方が受け入れてしまうことは滅多にありません。だからブッダは、受け入れる人を褒めました。そして自分が正しい側でも、事を治めるために受け入れられます。自分は正しい側で損害も少いですが、いろんなことが静まれば、利益は大きいです。

 受け入れなければ、時には国や町の破滅の話になることもあります。だから幾らでもない利益を失うのを、あるいは名誉でも何でも失うのを受け入れることを、失う話で全体の破滅が消えると言います。これも、基礎の段階の道徳面の最高に良い利益があると言います。

 しかし心や精神の高い部分の道徳の話なら、受け入れることは煩悩を殺すことで、受け入れた分だけ自分の煩悩を殺します。だから受け入れられることは、早く阿羅漢になる援けになります。しかしそれは青少年には過ぎた話なので、しません。


6.責めるのを我慢することと、謝罪すること

 一般の人は叱責するのを我慢しようとしません。責めるのを我慢できる人は、普通より善いと言います。つまり善人だから責めるのを我慢できます。普通の人は「責めるのを我慢しない」と考え、そして相手が冒涜したことから利益を得ようと考え、叱責を我慢しようと考えません。

 いるのは、他人の謝罪と儲けを取引する人だけです。善人なら責めるのを我慢しなければなりません。一方では謝罪しなければなりません。どんなに小さな冒涜でも、謝罪しなければなりません。自分が間違った側なら、謝罪をためらうべきではありません。

 子どもたちに謝罪を習性にするよう教えなければなりません。同時に、他人が謝罪したら責めるのを我慢しなければなりません。これらは忍耐でしなければならない、心の中の煩悩の威力に対する忍耐です。忍耐しなければ、謝罪したくありません。あるいは相手が自分に謝罪しても赦さず、憤りを抱きます。あるいはその冒涜を、くどくどと利益を探求する話と見ます。


7.謙遜と言います。直接カンティ(堪忍)の意味はなく、間接的な忍耐です。

 謙遜すれば、いつでも忍耐がなければならないのは当たり前です。何の意味の謙遜でも忍耐の状態があり、煩悩は自慢をしたがります。謙遜すれば、自慢したい煩悩の抑圧に対して忍耐しなければなりません。謙遜が習性なら、いつでも煩悩に勝利しています。だから自慢するより、一般の人がしているように、謙遜する方が良いです。


8.鎮まることができると言います。

 鎮まれるとは、事を静められる知性を意味し、別の言い方をすれば、鎮まる軌道に乗れます。これも最初に忍耐に依存しなければなりません。そうでなければ私たちは、あるいは他人、あるいは関わり合う誰でも、調整して合わせる術はありません。

 特に仏教のダンマの行動は、いろんな段階のいろんな項目があり、それらのダンマがダンマサマンギーになるには、ピッタリ合って、煩悩を断つまで、絶対に忍耐がなければなりません。そうでなければ、七覚支のダンマなどが捨になるまで待てなければならないように、すべてのダンマが軌道に乗りません。


9.温厚であること。この温厚であることは、忍耐と言うことも、律義と言うことも、純潔と言うこともできます。

 しかし今忍耐の角度で、忍耐して温厚さを維持すると指摘したいと思います。昼も夜も温厚でありたいと願う人なら、自分の温厚さを維持するために忍耐する必要がない人がいるでしょうか。

 だから習性になるまで、温厚なことの中身は忍耐です。そして罵るなど、温厚で無くさせる物があると、再び温厚さを維持する忍耐に依存しなければなりません。みんなで子どもたちに正常さ、あるいは温厚さを維持する忍耐で闘うことを教えてください。


10.ウペッカー(捨)と言います。しかし仏教の高い段階のウペカーではありません。

 この捨はじっとしていられ、待てるだけです。平然としていられる感覚が生じさせる「愛させ、怒らせに来るものに動揺しない努力」をします。それは世界に二つの話だけで、一つは愛させ、もう一つは怒らせます。平然とできるようにするには、忍耐しなければなりません。

 ウペッカーのもう一つの意味は待てることです。今日花を植えて、明日咲かせることはできません。だから子どもたちに、明日や明後日に花を咲かせることはできないので、水を撒き、土を掘り返せば自然に成長するので、花が咲くまで待てる心の正常さがなければならないと教えます。この「待てること」は、堪忍から生じるウペッカー(捨)と呼ぶ状態で、忍耐もあります。

 今、人はあまり待てないので、煩悩の威力で盗み、掠めることが生じます。そこまででなければ、期待に間に合わないので内心でカッカします。人が「期待に間に合わない」と言うのは、この項目の美徳がないからです。するべき部分を最高に善くすれば、この項目の美徳があるべきです。満足があるようにさせ、待てるので安心し、正しくしたと安心します。

 そしてそれは、確実に私たちが欲しがる結果として現われます。正常な気持ちで待っていられること、これをウペッカー(捨)と言います。そして良く見ると、その中にカンティの状態である忍耐があります。


11.良い恰好をしたがらない、と言いたいと思います。

 通常私たちは人が競って良い恰好をし、何をしても褒められ、名誉を受けたがり、善のトップになりたがり、他の人がした善を多くの人に「自分がした」と理解させたがるのを見ます。これはどこにでもある心の病の一種です。初めの段階で解決するなら、栄誉を得なくても良く、良い恰好をしなくても良く、栄誉のない人でいたがるよう忍耐が必要です。


12.仏像の背に金箔を貼る人になる

 昔の人は良く理解していたので、格言としてたくさん話しておきました。「仏像の背に金箔を貼る」は、ヤクザな人はしたがりませんが、善人はしたがります。考えて見てください。仏像の背に金箔を貼るのは、愚かな人、ヤクザな人、欲深い人はしたがりません。彼らは自分が目立つために金箔を目立させ、目立つためだけにしたがります。しかしダンマがある善人ならふさわしいと言います。つまり良い恰好をしたがらず、本当の善だけを欲しがります。

 本当に徳が欲しければ、仏像の背に金箔を貼る方が徳になります。前面は誰でも貼りたがり、後ろはあまり貼りたがる人がいないからです。誰も背に貼りたがる人がいなければ未完のままで、何の利益もありません。だから完成は、仏像の背に金箔を貼る人に掛かっています。

 良く見てください。それには忍耐の糸口があり、智慧の話だけではありません。習慣でしたい煩悩を強制しなければならないので、つまり良い恰好をしたいのを忍耐をしなければならず、そうすれば仏像の背に金箔を貼れます。

 そして「誰にも知られない」という意味もあり、自分が仏像の背に金箔を貼るのを誰にも見られず、誰も見ている人がいない時に、隠れて仏像の背に金箔を貼って完成させ、完璧にします。布施をするのも善行をするのも、戒を維持してダンマの実践をするのも同じで、善くするなら、他の人に知られない方が良いです。つまり人に褒められたくありません。

 今、何かちょっとするにも笛や太鼓を叩いて、私は善行をしましたと知らせるようでなければなりません。仏教のダンマの実践も、自慢せずにはいられません。それは煩悩を増やして困難にします。そして煩悩を捨てる決意をしても、煩悩を増やすことになります。これも大変になります。

 これだけの例で、カンティの話は十分です。つまり直接忍耐、関連のある間接的な忍耐です。あどけない子どもに道徳のこの部の忍耐の基礎があるようしつけるために、憶えて行ってください。


第五部 律義

 次の第五部は、この部はサンヴァラ=(慎重)で、支配強制する、維持、世話をするなどまで意味が広いです。私たちは短くサンヴァラと言い、慎重にするという意味です。「慎重にするとは何か」を知らなければ、「注意する」と知りましょう。失敗しないように注意するのが慎重にすることで、失敗する隙が生じないようにします。これも慎重にすることで、パーリ語でサンヴァラと言います。

1.サティと呼ぶ物に言及したいと思います。

 サティとは思い出せることで、直接であるサンヴァラだけでなく、それは間接です。サティがなければサンヴァラはあり得ません。思い出せなければ、あるいは意識がなければ、こういうのはサンヴァラはあり得ないと言います。「何が何か」を正しく、間に合うように知らせるサティがなければならず、それをサティと言います。失敗が怖ければ、十数えると言うような、サティがもっと素早くなるよう練習しなければなりません。

 十まで数える子どものための話は、サティに機会を与えるよう教えるためで、サティが間に合うよう機会を与える話を教えます。そうしなければ間に合わないので、何か話すより先に怒る話があります。だから話さない習性の訓練、あるいは間を置かず、あるいは完璧なサティが生じるまでしばらく待つ間、何もしない練習をします。

 十まで数えるという状況は、サティと呼ぶ物の初歩に含まれます。それは多くなり、高くなり、煩悩と闘うサティになり、それ自体が煩悩を消滅させるサティになります。サティパターナ(念処)と呼ぶのは堅固で完璧なサティです。サティは非常に広い意味があり、そして「サティは、すべての場合にも使わなければならない物」とブッダが話されたにふさわしいです。「すべての場合」という言葉を使い、例外がなく、サティを欲しがらない物は何もありません。


2.サンパッチャンニャ(自覚)はサティと親友

 私たちはサティサンパッチャンニャという言葉を聞きます。サティは思い出す義務をしなければならない、時間的に間に合って来る知識です。間に合えば維持でき、二度と戻って消えてしまわなければ、基礎の段階のサンパッチャンニャ(常自覚)と言います。

 完璧に話すなら、もう一つの物について話さなければならず、それは智慧と呼ぶ物です。私たちにある教育の機会の中で、正しい知識、その話の十分な知識になるまで教育すれば、その部分を智慧と呼びます。本当に生じた話が目前の物になった時、その智慧が来ることも、来ないこともあります。智慧が来ればサティと呼び、来るのが遅ければ利益はありません。

 サティは素早く来なければならず、来れば「間に合うサティ」と言います。サティとは間に合うように現れた智慧です。そしてサンパッチャンニャ(常自覚)は、その智慧を使わなければならない間だけ維持して置きます。そうすれば知性のため、サティサンパッチャンニャのために関連のある物です。

 サンパッチャンニャという言葉は、一斉に全身で感じるという中に含まれている「智慧」の意味があり、全身同時に感じれば、一斉に感じる動作を意味し、サティサンパッチャンニャと言います。しかしその知識は智慧と呼びます。だからそのサティサンパッチャンニャの中に当然智慧があり、サティは智慧を間に合うように連れて来る人です。

 連れて来るのが間に合わなければ、智慧はないのと同じです。だから智慧のある人が破滅するのは、その人はサティがないからです。だから「サティは智慧より重要」「智慧より価値がある」と名誉を受け、あるいは持ち上げられます。


3.心に注意すると言います。慎重にするとは心に注意します。

 心と呼ぶ物は、時間が足りないのでここでは熟慮しないで、「考えることができる物で、電光より早く考えることができ、良い考えも悪い考えも、正しい考え、間違った考えもできる」と感じているようにします。注意しなければならず、考えを間違った方に加工しないよう、心に注意します。

 パーリにある手本のように遵守すれば、

イ 誘惑して欲情させる物、つまり愛させる物に欲情しないよう心に注意する。

ロ 誘惑して憤慨させる物、つまり怒りや嫌悪させる物に憤らないように心に注意する。

ハ 愚かにならないよう、つまりぼんやりして、ぞんざいにしないよう心に注意する。

ニ 陶酔しないよう、つまり何かの中毒になって抜け出せなくならないよう、心に注意する。

 この四つの内、心に注意するというのが一番重要、あるいは最高に素晴らしいです。子どもにこの四つを教えるべきです。周囲にいつでもあるからです。自分はどのようにすれば心に注意することを知るか。きっとこれも楽しい話で、あまり退屈ではありません。

4.再び、戒と言います。

 これは今回の講義の主題である道徳に戒という言葉がありますが、小さな部分に分かれて、サンヴァラ(慎重にする)と呼ぶグループにあります。慎重にできればまだ戒があり、正常です。

 戒という言葉の意味を、正しく、十分に、完璧に掴んでください。つまり正常という意味と、何百回、何千回も忠告させていただきます。正常でなければ戒はなく、まだ正常なら戒があります。どの種類の戒でも、どのレベルの戒でも、正常である所に戒があると見なします。子供の話なら、五戒と呼ぶ一般的な基礎の戒の話ですが、どこでも教えていると、良く知るよう教えるべきです。

 五戒の第一項は殺生をしない、第二項は財産を盗まない、第三項は間男をしない、第四項は嘘を言わない、第五項は酔う水を飲まない。子供に聞けば、誰でもこのように答えます。学校の先生がそのように教えるからです。正しくは、これらの言葉の意味を完璧に説明させるべきです。

 第一項の戒は、他人の命や身体に危害を加えない。他人の命や身体に衝撃を与えない。こういうのは、殺すこともできず、どういうのもできず、まだたくさんのことができません。(そうしないと)刃物で殺すのは破戒で、他は破戒ではないと理解します。

 二項目の戒は盗みで、これも同じでです。他人の財産に危害を加えなません。

 第三項目の戒は不邪淫戒で、他人が愛している物に危害を加えません。このような意味にし、四五歳の子どもでもこの項目を守らなければなりません。どんなに小さな子でも愛している物があり、人形でも何でも、もう一人の子が愛している物に加害すれば、持ち主である子の心を苦しめ、傷つけるからです。そのように戒を守れば、戒になります。

 次に名前を挙げる必要はありませんが、「子どもは青年になるまで不邪淫戒を持つ必要はない」と、有名な先生が教えるような不邪淫戒を持つ必要はないと子供に教えます。こういうのはブッダが目指された戒に対して正しくありません。ブッダは「カーマと呼ぶものに加害しない」と目指されたからです。

 カーマとは誰かが愛している物、欲しい物でも良く、財産を消滅させるような加害である必要はありません。心情や他人が愛している物を毀損し、相手の心情を傷つければ、この項目の戒を破ると言います。

 第四項目の戒は、言葉を使って正しさ、正義、あるいは公正な権利を消滅させません。

 第五項目の戒である酒は、自分のサティサンパッチャンニャ(常自覚)に加害しません。酔う水を飲むと言っても、酔う水を飲むだけではどんな目的があるか分かりません。しかしこの戒が目指すのは、文字では、自分の常自覚に加害することをしなければ、不注意でないと言います。

 不注意の基盤であることをすれば、不注意でないことを消滅させ、不注意が自分の意識・常自覚を消滅させます。だから「自分の意識の正常さを消滅させることをしなければ十分」と言って、話を終わらせます。子どもたちに五戒を本当に正しく、そして十分に教えてしまってください。


5.お寺の言葉である「勤め」という言葉を使って、私はお寺の言葉を使うのがすごく好きだと、他人をからかいたいと思います。

 戒があれば勤めがなければなりません。だから戒という言葉は謹厳に強制する状態にあり、勤めは解放し始めます。つまり志願しても良く、志願しなくても良いです。しかし本当は勤めがあるよう志願すべきで、礼儀、あるいは義務を意味します。

 義務と呼ぶ物は実践しなければなりません。これを勤めと言います。特に他人に対して、自分に対して、そして関わりのある物に対して行動しなければならない礼儀です。だから善い勤めのある人は、清潔な家があり、整然とした用具があり、衛生のある清潔な体があり、彼らに対して良く行動するので、他人が満足し、尊敬尊重されます。

 こういうのを勤め、勤めの行動と言います。時にはプロットという言葉を使います。プロットとワットは同じ言葉です。注意しなければワットもプロットもないので、勤めは慎重にすることの仲間で、勤めをするには慎重さがいっぱいと言います。


6.規律があること

 規律があることは、本当の規律の中にいることを目指し、勤めと分けます。規律を知っても行動しない人もいます。「勤めは何か」を知って行動しない人もいます。しかし規律の中にいる人と言えば、規律のある人、規律の中に自分を維持している人で、規律でしなければならない義務に例外はありません。これも同じ話で、人物に対して、あるいは自分自身に対して、あるいは物質に対して実践するには、その規律で凛とした行動をしなければなりません。


7.「礼儀正しく話す」と、簡単な言葉を使います。

 礼儀正しく話す人は口に慎みがあります。礼儀正しく話すことをパーリ語では「偽りを言わない。乱暴な言葉を話さない。告げ口をしない。無駄話をしない」と言います。こういうのを正しく話すと言い、誰も破滅させない話し言葉で、誰にも衝撃がありません。

 もっと高くすれば、利益のある言葉でなければなりません。利益のない言葉を人に話させて習性を生じさせるよう誘いません。利益がなければ、黙ってしまう方が良いです。黙って何も知らない人である方が良いです。つまり利益のあることしか話しません。それは最高に善い言葉です。しかし一般の基礎としては「嘘を言わない、乱暴な言葉を言わない、仲違いをさせる告げ口をしない、饒舌な話をしない」とだけ言います。これは利益があることだけを話す項目の中にあります。


8.謙遜。

 これらのダンマの項目は、引き出してグループに入れる話だけと言う状態もあり、主要である話もあり、計る物、試す物として掌握するために現れた状態もあると観察して見ることができます。

 謙遜について話すなら、用心深い人になれば謙遜できます。謙遜しないのは煩悩で、次に煩悩と闘うことを受け入れ、煩悩が自慢しないよう注意すれば、謙遜と言います。これは意味がないように見えますが、本当はたくさん意味があります。謙遜は、その後広い利益がある「可愛げ」の基盤です。

 だから私たちは努力して、子どもたちが謙遜であるようにする方が良いです。扇って高慢ちきにさせません。そして自分も褒めません。本当にあった話のように、先生が生徒に詫びなければならないような行動をさせてはいけません。郡長を訪ね、知事を訪ねて、自分の子の先生に謝らせません。これは全部謙遜でないから負けを認めず、劣る側で居ることを受け入れないからです。


9.根律義

 これは最高のダンマ、最高のダンマの名前ですが、一般のレベルだけにします。

 子どものための初等の根律義は、目・耳・鼻・舌・体・心に注意し、これらに話を生じさせず、目・耳・鼻・舌・体・心の楽しさ故に泣かなければならなくしません。あるいは損害を受け入れ、名前を汚し、名誉を汚し、お金を失い、何でも失うのを受け入れるのは、目・耳・鼻・舌・体・心に慎重に注意しないからです。説明は難しくありません。目・耳・鼻・舌・体・心の奴隷だったら何が生じるか、一つずつ説明し、そのようにならないように慎重にするようアドバイスします。

 この根律義は、煩悩がなくなって阿羅漢になるまで高い意味があります。そのように最高の段階は「目が形を見たら見ただけ、耳が声を聞いたら聞いただけ」と言うほど煩悩を生じさせません。それはその段階の阿羅漢で、低い話ではありません。今家の中にある、日常にある低い話だけにし、目や耳や鼻や舌などに関わる話で損害や困難、お金の被害、混乱など、要するに腹と口の話、美味しい話が生じないようにします。


10.「自覚して食う」と言います

 言葉は「自覚して食う」と、汚くなります。口でも目でも耳でも、鼻でも全部「食う」と言い、そして自覚して食います。普通ご飯を食べるには、サティサンパッチャンニャ(常自覚)で食べます。愚かにならないで、美味しいか美味しくないかに惑溺しないで、それが原因で事が起きないように食べます。

 いつでも自覚して食うのは、食べるべきでない物を避けることができる点が善いです。食べるべき物だけを食べ、無駄でない、害のない、失敗しない、煩悩が生じないように食べられます。耳や鼻で、何で食べるのも同じです。

 私たちは美しく美味しい物があったら、耳でも鼻でも、舌でも皮膚でも、何でもいつでも自覚させます。時には自分で払い捨てて食べたくないこともあり、あるいは時間の無駄をしたくない、それらのアーヤタナの奴隷になりたくないこともあります。こういうのを「自覚して食べる」と言いましょう。だから酒を飲む、タバコを吸う、美しさ美味しさのために塗るべきでない物を塗るなど、悪い食べる話、誤って食べる話はありません。


11.言うことを聞く。これは子供には必要です。言うことを聞かなければなりません。

 言うことを聞くのは慎重にすることの上に立っていて、慎重でなければ言うことを聞きません。あるいは反対に、言うことを聞けば慎重にする助けになると言います。言うことを聞く理由にも、結果にもできます。言うことを聞かなければ、子供はすべてに損害があると言います。小さな子から暴れ回っている大きな青少年まで、話しても話にならず、聞いて意味が分かりません。

 言うことを聞くのは、親や先生、自分より年上の人の言うことを聞きましょう。年上なので、その人の方が経験した物が多いからです。だから取り敢えず言うことを聞きます。信じるか信じないかは別の話ですが、取り敢えずその人の言うことを聞きます。その人が止まれと言ったら一先ず止り、それから、これからどうするか考えて見ます。

 言うことを聞かなければ、正しさの軌道に乗る道はないからです。だから取り敢えず言うことを聞くことに間違いはありません。最後に自分を信じるまで、考えて見るからです。


12.発展している人を敬う

 彼らには、生まれつき(自分より)発展している人、年齢的に発展している人、善で発展している人、学問知識で発展している人、要するに何であれ発展している人は、取り敢えず敬えば失敗はないという教えがあります。

 その人の方が年上なら、必ず何かを自分よりたくさん知っていて、何かを教えることができます。その人が高い家柄でも、社会のダンマ、ダンマ社会の一つとして敬っておきます。高い家柄にいる人は、当然普通より善い教育を受け、しつけを受けているからです。

 あるいは町中の人が尊敬して敬っている時、自分が敬わなければ、正しい部分より、むしろ間違いの部分があります。だから家柄が高いと言う人は、一部に意味があります。寝ぼけた民主主義はここに隙があり、良い知性がある人、より知識が多い人、美徳がある人は、すべての面で敬わなければなりません。


13.習性で拝む。

 昔の人、年寄りは、子孫を、考えずに合掌をする習性にしたがるのは、一種のお守りにするように見えます。慎重で注意深いと言うのも正しくなく、防止と言わなければなりません。慎重にするのは非常に防止する話です。だから拝むのが習性になっている人は、防止する話です。

 私はインドへ行って、いろんなことが目に留まりました。一つは、彼らは拝むのが習性になっていました。知識のある身分の人です。私たちが拝むより早く、彼らは手を挙げて拝みます。彼らは先に拝むのに慣れています。先生方、サワーミーたちも、私たちが拝むのが間に合わないうちに拝みます。「これは意味がなくはない。それには意味がある。心の面の深遠な防止をするものだ」と感じました。

 伝統習慣で敬意を表すことで、子どもに彼らを護る塀を持たせます。「拝む」と言う物は習性で、目が合えば拝んでしまい、そして誰が何をすることもできます。


14.カッとならない。

 カッとなる習性がたくさんある人もいます。ある子は、ある子よりカッとなるのを見ます。これは誰にでもあり、非常にカッとならなければ、少しカッとなると言いたいと思います。私たちが「カッとならない」という教えだけを遵守すれば、自然にサンヴァラが生じます。カッとなることはサティがないことです。だからサンヴァラ(律義=りつぎ)ではありません。

 今カッとなることだけを見、カッとなる話を管理します。カッとなる症状は、ぞんざいでも何でも含まれています。悪い意味のぞんざいなことをカッとなると言い、普通のぞんざいなことをぞんざいと言います。慎重さがあればカッとなりません。振る舞いがカッとならない人なら、当然それ自体にサンヴァラ(律義)をすることがあります。どのようにしても良いです。


15.動揺しない。

 動揺しないことは、阿羅漢らしさの最高の徳です。私たちはそこまで欲しがりません。阿羅漢を真似るだけ、つまり動揺しない、動揺しにくい人になるだけです。本当の意味は動揺しにくいことで、愛させる物、怒らせる物、怖がらせる物、嫌わせる物があっても、簡単にそのようになろうとしないことを「動揺しにくい」と言います。

 動揺しすぎるのは神経の病気で、驚きやすい人のように卒倒します。こういうのは異常で、卒倒するほど動揺しやすい人で、何でも簡単になります。心を動揺させる感情に慣れる練習をし、動揺しないで闘うことを教えるからです


16.正常と呼ぶ物。

 これは本当に動揺しません。あるいは正常でいられ、外部の正常でもまだマシです。内面が動揺し、心が動揺しても身体が正常ならまだマシです。身体が動揺しても心が動揺しなければまだマシで、体も心も動揺しなければ最高に善いです。苦は動揺するからで、動揺しなければ苦ではありません。


17.最後に「生老病死にアヌサティがある」と言いたいと思います。

 私が子供に生老病死の話に興味を持たせるのは、行きすぎたことを教えると考えがちです。今私は、彼らが生老病死の話に興味を持てば、簡単に慎重な人になる結果にしたいと思います。

 彼らを慎重にさせたいなら、常に生老病死について考える人にさせれば、最高に簡単にサンヴァラ(律義)があり、何にでも慎重になれます。その方が簡単です。正しい角度で、善い角度で、つまり彼らを不注意でない人、いろんな物に心を抑えられる人にする角度で生老病死について思わせるべきです。彼らに生老病死の話を教えなければ、彼らを怖がらせ、臆病にし、狂人にします。


 すべては、サンヴァラ(律義)の部の道徳の見本です。まとめて「慎重に注意深くすることは、このような例がある」と言います。もっと多くすることもできますが、必要ありません。要するに彼らを常自覚で暮らさせ、これらのダンマでいろんな物に注意させます。そうすればこれらのダンマは、彼らを護る援けをします。サンヴァラと呼ぶ物は、子供にとって最高に良く危険を防ぐ塀になります。


第六部 ヒリ(慚)

1.ヒリ(慚)、つまり恥

 ヒリとは恥という意味で、人物ならヒリカと言い、恥じる人です。恥とは何か、質問する必要はほとんどありません。恥じるべき物を恥じます。例えば布をまとわなければ何が恥ずかしいか、その恥をヒリと言います。それは子供の段階の初等のヒリです。

 他に、高い恥じるべき物があれば、悪を恥じるまで高い恥を知らなければなりません。誰も見ている人がなくても、自分一人で恥じることができるのが本当の恥です。他人が見ている時恥ずかしいのも恥で、同じヒリと言いますが、最高ではなく、最高になる出発点です。だから彼らに恥を教えておくのは善いことです。身形をきちんとしていないことも恥じるべきです。そしてそれ以上のことをしたら恥じるべきで、悪を行ったことを自分に恥じます。

2.オータッパ(愧)、つまり怖れ

 これは恐れるべき物を恐れます。何かに噛まれるのを恐れるのも恐れと言い、恐れるべき物を恐れなければならない出発点です。だから本当に恐れるべき物である悪まで行き、すべての恐ろしい物の中で、悪以上の物は何もありません。それ以外は恐ろしさが少ないからです。

 ヒリとオータッパ(慚と愧)は、どこへでも一緒に行く親友であるダンマです。慚愧は人を天人にし、この世界が危機を脱すよう護り、人が危機を脱すよう護るデーヴァダンマと言います。慚と愧はこのように重要で、部の名前にしました。

3.自分を敬う

 自分を敬うことは、なぜ自分を敬わなければならないか、子どもが聞いてもあまり意味が分からないかも知れません。私たちは親を敬い、先生を敬い、ブッダを敬うようにだけ教え、神聖な物ばかりです。今自分を敬うよう教えるのは、多少説明しなければなりません。

 どのように自分を敬うのでしょうか。自分を敬えるとは、自分に善があり、素晴らしさがあるという意味で、自分を敬えない人は、悪で無意味な人です。だから自分を敬う努力をさせるのは、自分の中に素晴らしい物があるようにさせるという意味です。自分を敬う気持ちがあれば、その人は確実に善がなければなりません。自分を敬えない人はヤクザな人です。だから自分を敬えることは善があると保証できる物です。

4.欲張り。これは欲張りでない例だけを話します。貪ることを欲張りと言います。

 恥のない人の例は欲張りです。しかし欲張りでなければ恥のある人です。今私は恥の角度で話さず、煩悩の角度で話します。欲張りは危険な貪りで、危険でなくするすべての方法で努力しなければなりません。そうすれば、欲張りは楽しいのは最初だけで、後で必ず困窮しなければならないと見えます。

5.余分を横領しない

 これはわざと変わった言い方をします。誰よりも有利にならない。社会より有利にならない。誰かより有利にならない。普通の人は有利になる機会があればすぐに手を出し、厚顔の人は余分を横領します。余計な部分は他人の物で、他人の物になるべきですが、掻き寄せて自分の物にしようと待ち構えています。恥を知らないので、手に入れるべきでない部分を横領し、自分の物にします。

 子供たちにこの項目の恥を、つまり手にするべきでない部分、自分の物でない物を自分の物にする恥をたくさん教えてください。余計な部分を横領すると話せば、すべての角度で広さを超えることができます。

6.サンガベーダ(破サンガ)を嫌う。これはお寺の言葉です。分裂を嫌い、団結を壊すことを嫌い、愛やメッターの威力で一つに団結できないことを嫌います。

 破サンガを嫌うのは、群れの分裂を嫌い、集団の分裂を嫌い、集団の分裂は恥ずべき凶悪な話と見ます。私たちが善人として集団の中にいれば分裂できず、悪人なら分裂できます。だから私たちは集団の中に悪人がいてほしくありません。あるいは創造できない集団であって欲しくありません。子供たちは時々集団になり、一時喧嘩し、一時仲良くなり、またすぐ喧嘩します。彼らに、仲間割れを生じさせる物である「怒って喧嘩すること」を嫌うよう教えます。

7.ヒンサカダンマ(虐待)を嫌う

 ヒンサカダンマとは苦しめることで、最高に広い意味です。意識して苦しめても、意識しないで苦しめても、どちらもヒンサカダンマ(加害。虐待)と言います。意図があって他人に加虐するのは非常に悪で、意図がなくうっかりでも、あるいは個人的な楽しさだけを考え、他人の苦を考えないのでも、すれば虐待です。

 すべての種類の加虐を嫌わなければなりません。自分に加虐する。他人に加虐する。両方に加虐する。意図して加虐する。意図せずに加虐する。これで加虐の話は全部のように見えます。吐き気を催す物、道徳のない人の物、子どもなら智慧がないと見てください。彼らにこのような気持ちがあれば、素晴らしいと見なします。大人になって、今どこにでもあるような虐待をする道はありません。

8.徳を愛す

 「徳という言葉は何か」を知らなくても、親は小さな子に、徳を教えることから始めてください。親が徳と言えば取り敢えず愛し、少しずつ知り、少しずつ知って高くなり、「徳は、結果なら幸福の名詞で、原因なら罪を洗う物の名詞」と知ります。原因なら罪を洗う物、あるいは罪を洗うこと、結果なら受け取る幸福を意味します。それです、本当の徳は。天国や宮殿の話をする必要はありません。間もなく、再び身勝手に戻ります。徳を愛すとは、誰もが拠り所と崇拝する物を愛します。

9.この世界を清潔にする。これは名誉を愛すことに進みます。これも、徳を愛すことと名誉を愛すことの間で、殴り合いを生じさせないでください。

 私たちは「善人であり徳がある」という名誉がなければなりません。この「名誉を愛す」ことは、間違った名誉を愛し、悪い名誉を愛し、世俗的な名誉を愛す人もいます。そしてそれは、名誉のために悪を行います。こういうのは名誉を愛すと言いません。名誉を愛すなら正しい名誉、あるいは徳から生じる名誉でなければなりません。

10.ダンマを愛す。プラタム(ブッダの教え)を愛し、タンマを愛し、善・真実・美・正しさを愛し、あるいはダンマと呼ぶ物、神様と呼ぶ物まで愛してしまうこともできます。

 神様という言葉が好きなら、本当の拠り所であるもの、そしてすべてを本当に創った人は、ダンマと呼ぶ物以上の物は何もありません。彼らが「世界を創った」と信じている彼らの神様は、知ろうとしません。しかし彼らは人物である神様に注目しているので、聞くと滑稽です。仏教徒のように言えば、世界を創ったダンマが神様で、形がなく、実体がなく、どんな言葉もなく、神様の状態を説明できる言葉はありません。神様はこのようでなければなりません。

 神様は人のような顔をしていると言えば、神様ではありません。神様はどのような状態、どのような能力があるという説明を超えていなければなりません。だから私たちは神様を描写できません。あるいは神様のいろんな定義はできません。それが本当の神様です。このように最高の物をパーリ語でダンマと言います。つまりプラタムです。ね、私たちは神様を愛します。この状態の低いダンマを愛し、神様の状態の最高のダンマまで、次々に高くなります。

11.自分を愛す。これは身勝手と混同しないでください。

 間違って教えれば身勝手になり、身勝手で自分を愛して破滅します。ここでの「自分を愛す」のは、自分を善くしなければなりません。自分が善くなる援けをしなければなりません。俺があっても良いです。初めは俺があり、そしてそれを、俺と感じなくなるまで善くします。真実があって正しさがある時、あるいは「プラタムが自分」の方が良いです。そしてその後は、自分を持つ必要はなく、それは自然です。小さな子の「自分を愛す」は、自分を正しくするよう援けます。これを「自分を愛す」と言います。

12.理想を愛すと言いたいと思います。

 つまり腹と口のことばかり考えません。俺のことばかり考えません。何の理想を愛すかは、何としても人間でなければならない人間であることの理想から、子どもなら親の善い子、弟子なら、先生の善い弟子、友達の善い友達、国の善い国民、あるいはブッダの善い弟子の理想です。これも理想を愛すと言います。要するに人間であることの理想を愛す方が良いです。それはすべての意味が含まれます。

 今彼らは、理想では何かを買って食べることができない、お金には適わないと捉え、理想よりお金を愛します。これは道徳の衰退が世界中に蔓延する出発点です。彼らはどんどん理想を蹂躙し、物質のことばかり考えて物質の奴隷になります。昔は物質を理想の奴隷にし、理想を崇拝しました。反対です。

13.意地を張らない。約束を破らない。これは善いヒリ(恥)の状態です。

 私たちは頑固で、ほとんどの人は約束を翻し、そして言い訳をします。約束を違えなければ頑固でない状態があり、慚、罪を恥じる状態、どの言葉を使っても良いです。子どもは始めに嘘を言い、それから約束を破り、そして意地を張るので、「頑固でない」という一語だけを使います。頑固でなければ嘘は言えず、約束を破らず、何もできません。

14.命を失っても、誠を失わない

 子どもは、よくこの言葉を聞きます。ルークスア(ボーイスカウト)の話などはこの言葉を使い、「命を失っても誠を失わない」。命を失ってもダンマを失わない。宗教ではこのような言葉を使います。ダンマを崇拝する、理想を愛すでも何でも言葉次第ですが、最終的に命と引き換えにしなければならなくても、それを維持することができます。

 今までは仏教教団員の側の話をたくさんし、今は消え始めました。つまりボーディサッタ(菩薩)は真実・正しさを愛し、命を失うことも受け入れられます。今はキリスト教徒の中に、martyrdom(殉教) があり、宗教、あるいは教えを維持するために命を失うことも辞さない人です。命を失えば、彼らは「徳のある人」と認め、最高の名誉を与えます。死ぬまで戦って、あるいは審判されることを赦さず、殉教者と認定された少女もいます。これも、命を失ってもダンマを失わないことです。

 これは、命を失うことを受け入れる「慚」と「愧」と呼ぶ物の頂点です。できるかできないか、考えて見てください。しかし昔はこのように教えました。仏教のボーディサッタの理想です。あるいは現代のある宗教が称賛する物です。ルークスア(ボーイスカウト)が使っているのは口だけで、残念です。


第七部 精進・努力

1.精進、つまり努力。知っているのは名前だけで、本当になると、あまり努力しません。疲れて大変だからです。これは「一瞬で成功する物は何もない。忍耐しなければならず、待てなければならず、休まず努力しなければならない」という同じ規定に関わります。重要な話なら重要なほど忍耐努力を必要とします。だから「努力で成功する」と、努力を崇拝してください。こういうのをパーリ語では「ヴィリヤ」精進と言います。

2.堅忍不抜、あるいは安定

 彼らはティティという言葉を使い、止るという意味です。しかし何もしない「止る」ではありません。闘うのを止る、堅忍不抜、闘う基盤を作ることで、動作、あるいは努力の仲間です。

3.勇敢と言います。

 ヴィーラは勇敢という意味で、精進のグループです。精進は、困難に対して勇敢でなければなりません。あるいはどの種類の勇敢でも、努力の状態になければなりません。

4.戦い、戦争をする。

 敵と戦争をする。敵は障害である物で、特に悪、あるいは煩悩です。外部の人である敵は幾らもありませんが、それでも闘わなければなりません。しかしダンマの方の戦いは、敵である煩悩と闘わなければなりません。

5.マーナ(慢)。この慢は煩悩である自慢でなく、降参しない気力があるという意味です。

 慢は二つの言葉があり、一つの慢は自慢である煩悩で、自分をあのように、このように飾るのは、捨てなければならない煩悩です。ここでの慢は道徳面の意味で「降参しない」慢です。

6.努力。パーリ語ではヴァーヤーマ

 私たちは、ほとんど毎日「サンマーワーヤーモ ワーヤーマ」と唱えています。その言葉は努力です。サンスクリット語で「休まず努力する」。サンマーワーヤーモーです。詳しく勉強すると、この話はとても善い話です。時にはパターナという言葉を使い、四パターナ(四正勤)、四つの努力とは、「悪を生じさせないよう注意する。生じた悪を捨てる。善を行って生じさせる。生じた善を維持する」。これらの言葉の中にあります。

7.後退しない。パーリ語ではアッパティワーニーと言います。アッパティワーニーは後退しないという意味です。

8.止まらない。休まずし、止らないと言います。

9.挫けない。つまり疲労困憊しないで、挫けないでします。

10.パラッカマと言い、休まず前進します。

11.四如意足を思う。チャンダ(満足)・ヴィリヤ(精進)・チッタ(心)・ヴィマンサー(思惟)を、全部使って努力にする。

 チャンダは満足で、満足のための努力をさせます。ヴィリヤはするための努力をさせ、チッタは熱心にする努力、ヴィマンサーは照らして見る努力で、如意足を努力にします。

 これは題目だけで、十分説明する時間がないので、自分で見て、そして子供に詳しく説明して理解させます。


第八部 ウッティ

 最後の部、第八部はウッティ、あるいはパッタナーという言葉を使います。私たちの国では今轟き渡っている言葉で、一時発展し、あちこち一時発展します。これも良いです、正しい方向なら。道徳の最後の部は、発展、あるはウッティという言葉を使い、つまり発展させます。

1.ダンマの名前として現れ、世界を散らかす人ではない。これは基本の教えです。人間に生まれた機会を無駄にしないで、そして世界を散らかす人と見られるほど、何も利益がない人になりません。これも発展と呼ぶ物の基礎です。(註:パッタナーという言葉には散らかすという意味もある)。

2.ふさわしい国の中にいれば発展

 国、あるいは環境に恵まれなければ発展できません。発展する人はダンマの教え、そしてブッダが話された教えで正しく選ばなければなりません。あまり考える必要はありません。

 今項目の順を「相応しい国の中にいれば、彼らは行かなければならない」と、この話をする私たちの望みと一致するよう並べ直します。時には世界を越えて向こう側へ行かなければ、相応しい国に会えません。それは稼ぐ話です。

 しかし心の話、宗教の話なら、相応しい国は善人のいる国、つまりブッダ、あるいはブッダの教えがある国、あるいは精神面の光であるブッダの弟子がいる国です。これらがある国はどこでも相応しい国と言います。相応しい国に行くか、住まなければなりません。物質の話なら銀山、金山、ダイヤモンド鉱山、宝石の鉱山、何の山でも行って、そこで掘ります。それはこの話に関係のない、別の話です。

3.善人と付き合う。相応しい国にいれば、善人、つまり善い先生、善い指導者、善い手本がいます。これを善人と言います。

4.善人の話を聞く。これは知識がある人、善い振舞いがある人、善人らしい人から話を聞かなければならないと理解できます。

5.ヨーニソーマナシカーラ(如理作意)。心の中を絶妙にします。つまり聞いたら心の中を正しくして、正しく理解し、最高に絶妙に、最高に真実を見ます。カーラーマスッタと同じです。聞いたら信じるのでなく、聞いたら心の中を「そのように真実に違いない」と自分を信じて、真実が見えるようにするのではありません。試して見るのも良いです。疑う余地はないからです。もっと善いのは、試して見なければなりません。ヨーニソーマナシカーラがあれば、次の項目がなければなりません。

6.ダンマーヌダンマパティバッティで、ダンマにふさわしくダンマの実践をします。

 この項目の意味は、ダンマにふさわしい点にあります。目を瞑って実践する訳ではありません。闇雲に奮闘努力するのは愚かで、ダンマにふさわしく正しくなければなりません。ダンマにふさわしいダンマの実践は、聞いて意味が分かりませんが、理解できないほど難しくはありません。それは話に合うようにすることです。ちょっと普通に話せば、良く考えて話に合うようにすれば、ダンマーヌダンマパティバッティと言います。話に合うとは時間が正しく、理由が正しく、時代に正しく、何でも正しいです。

7.正しく始め、いつでも正しく維持します。

8.善を積む。

9.すべてのダンマの中で述べてある「過去に作っておいた善がある」を、ここに入れさせていただきます。

 来生の話を信じる人なら、前生、過去の生で善を成したので、今このような部分に賛成する結果になりました。しかし私はそのように信じたくありません。私は、昨日から過去生と呼ばなければならないと見なします。もっと真実は、自分に生じた最後の話が誤りでも正しくても、それは煩悩による最後の話として私に生じたので、一つの生と呼ぶと捉えなければなりません。

 次にどの生も悪を成すことがなく、善だけを成す生にします。こういうのを、過去の生も善を成したので、これは「自分は善を作った」と、気力になると言います。だから失望しません。

10.アパーヤムッカを避ける。発展する人はアパーヤムッカを避けなければなりません。

 今彼らはアパーヤムッカを避けず、反対にアパーヤムッカを崇拝します。クルンテープ(バンコク)では、年々普通以上にアパーヤムッカが増えて溢れ、アパーヤムッカの発生源です。それは発展するダンマの話に反します。酔う水を飲むことから夜遊びをする、芝居等を観る、賭け事をする、悪人と付き合う、仕事を怠けることまで、これらをナックタムの教科書などで読むと、アパーヤムッカは破滅の入り口とあります。アパーヤをしないでください。すれば破滅し、しなければ発展します。アパーヤムッカは見えているようにあります。

11.発展するには、戒や正直があり、不正があってはなりません。他人より有利になって不正をすれば、短い期間人を騙します。戒があり正直があれば、人を信じさせる善い根を張ります。

12.節約。これは説明しないでください。今の人は節約をしないで、必要のない消費をたくさんしているとだけ知ります。彼らが売買している物を見ると、ほとんど全部必要のない物です。それは節約をしないことです。

13.自分に頼らなければならない。自分に頼ると考えなければ、発展する道はありません。私たちは「ウッター ヒ ウアッターノー ナードー=自分は自分の拠り所」と言うのが癖になっていますが、しません。

14.溜めるべき物を溜める

 これも節約の部類に入りますが、彼らは分けて、溜めるべき物を溜めなければならないと見せ、そしてそれは「遅すぎる」と挫けません。白アリが蟻塚を溜めるように、人にそのような教えを持たせます。今人はそのようにしないので狡く、汚職をします。シロアリのようにするのは、つまり溜めるのは期待に間に合わないので、したがりません。

15.「より良い物と交換することを知る」という言葉を使いたいと思います。

 これは、適度を超えた儲けの商売と思わないでください。正しい儲けの商売にし、より良い物と交換することを知ります。普段私たちは少ない価値の物が必ずあります。そして価値の多い物と取り換えることを知りますが、誰にも不正をせず、誰も困らせません。あるいは正しい方法ですべての側に同時に儲けがあるようにします。

 より良い物と交換することを知るのは、腕の力、脚の力、手の力でも何でもこれだけあり、それを、より利益があり、より価値がある物にすることができます。このような財産があるので、聖向聖果涅槃の話まで、他の高い財産を生じさせ、どんどん高くなる物と取り換えることを知ります。

 今愚かな人は欲情を崇拝し、肉体を崇拝し、彼らはこれも同じ価値があり、そして高くなると考えます。しかしそれは愚かな人にとっての高さです。だから愚かな人はアパーヤに落ちなければなりません。価値がない物を価値があると、あるいは価値が少ない物を、価値が多いと迷うからです。

16.養いやすい。子供は誰でも養い易くなければなりません。実際、田舎の子は養い易いです。この習性を、美味しい物や、彼らが話し崇拝しているような良い物を食べなければならないように変化させないでください。汚職をしなければならなくなります。

17.敏捷。身体が敏捷で、心が活発で活発なら発展します。身体が敏捷なら良く働け、脳が活発なら良く考えられ、良く出来ます。

18.善友がいる。これは説明しません。知っているからです。善友がいれば、善だけに取り囲まれるので、何をするにも非常に簡単になります。

19.サンドーサ(知足)。本当の知足は、「知足は国を発展させない」と間違って話し、間違って教えている知足ではありません。それは愚かな人が話し、ブッダは話しません。

 知足は満足させ、その後働く力があるようにします。どれだけできても満足して足り、正しい方法と見るのでその後もします。これが「ある物で喜ぶ知足」です。しかし続けてしなければならない事をするのを禁じません。

20.努力。もう一度発展の部で努力の部を借りて、努力の意味でも、勇敢の意味でも奮闘努力しなければなりません。

21.パダーナ これは安定した奮闘努力です。

22.防止があり、すべての面の善行をする護りがあります。財産も正しく維持し、身体・命も正しく維持し、善も正しく維持すれば、すべて良く維持して防ぐと言います。そうすれば発展します。

23.もう一度ここで、「家で火をつけ、森の火を迎え受ける」と、昔の言葉を借りて挿入したいと思います。

 今この方法を使うことをあまり知らないので、気づかないうちに破滅します。昔の人は森の中で畑を作っていて、ある季節になったら家の周辺に火を点けて(燃やして)平らにしてしまえば、森から火事が来ても被害はありません。これは、力が少ない人にとって最高に賢い防止です。

 タイは小さな国で、大きな国からの危険を防ぐにはこの方法を使わなければなりません。「家の周囲に火を点けて森の火を受ける」ことを知れば、森で火事が起きても何も被害はありません。要旨としては、アダンマを防止できるだけのダンマがあれば、すべての種類の発展が必ずあるという意味です。

24.心の力、あるいは心の発展。最高に力があるのは心の力です。だから心を発展させて、心の力がなければなりません。そうすれば外部、あるいは物質か何かが発展します。

 次は知るべきいろんな小さなことです。

 25.魅力があり、愛すべき物がある。早く発展する人は、一般の人に愛される物がなければなりません。一般の人に憎まれる物があれば、賛成する人は誰もいません。

26.可愛げ。可愛らしさと可愛げは同じではありません。可愛げは力が強く、可哀そうでも良いです。本当に善ければ可哀そうに思う人がいます。本当にし、本当に困難も顧みずに犠牲にすれば、可愛げがあります。

27.信頼に足る。私たちは、自分の子が信頼できる人になるよう、あまりしつけません。これは非常に欠陥です。

 時には勉強ができ、賢く、何をしても賢そうですが、まったく信頼できそうになく、いつでも不正をする準備がある人がいます。関わる人も同じで、良い点はいろいろありますが、一つ欠点があり、信頼できそうでなければ付き合うのを止めます。私たちに信頼できそうにない状態があれば、絶対に発展できません。

28.尊敬すべき。何であろうと尊敬したくなる状態がある。私たちは自分の子に、「小さな子でも善くしなさい。年寄りも尊敬するよ! 年寄りも子どもを尊敬することがあるよ。尊敬される振舞いをしなさい」と教えます。

29.畏敬すべき。子どもの態度振る舞いが善ければ、年寄りでも大人でも畏敬したくなります。

 自分を発展させる人は、自分自身を畏敬される人にできれば最高に善いです。体力、武力で畏敬すべきという訳ではなく、別の畏敬すべき物があります。ある人、あるいは天帝を見てください。武器の力はなく、人を死なせる力もありませんが、美徳があるので恐れる人、怖がる人があり、畏敬すべき状態があります。

 だから子供でも、年寄りにとって畏敬の対象になる行動をします。ハッキリ言えば、態度が善ければ、指導僧にとって畏敬すべき、少なくとも遠慮がある振舞いのある弟子もいます。

30.団結。団結を消滅させないでください。発展はありません。

31.支援。支援はしなければならないことです。

 支援(ソンクロ)という言葉は、与えるという意味ではありません。与えることは布施の部類で、支援は連絡を取ることです。文字では「連絡する」という意味です。クロ、あるいはガハは「掴む」、「持つ」という意味で、全部、あるいは漏れなく、あるいは一斉に全部という意味です。これをソンクロと言います。

 だから何をしても彼らに心で愛されるようにします。それです。私たちが彼らを援助することは、彼らを掴むことができます。例えば私が何かを彼に与えると、私は彼の心に勝ち、彼は私の望みですることを受け入れます。

 支援という言葉は慈悲だけを目指しません。善で繋がるという意味で、ソンクロと言います。だから周囲をソンクロできます。自分より良い人も支援し、劣る人、悪い人も支援し、同等の人も支援します。そうすれば四方を支援できます。

32.ここでの成句は「二頭の水牛を飼う」。

 以前に講義を聞いたことがある人は、どういう意味か理解しています。つまり身体的にも、精神的にも正しさがなければなりません。現代人は身体的、肉体的、物質身体の成り行きである知識、考えの正しさだけで、精神的、あるいは心、あるいはダンマの面の正しさがないので破滅します。破滅しなければ現代のように、いつ終わるとも知れない危機があります。世界中、現代は一頭の水牛しかいません。非常に力がある巨大な水牛は若い狂った水牛で、宗教がありません。

 心に宗教があり、ダンマがあり、精神面の話があれば、一頭目の水牛を引っ張って正しく歩かせる、利益のある二頭目の水牛になります。二頭の水牛で田を耕すように、一頭は力があり、もう一頭は知る力があれば一緒に歩くことができ、田を耕すのも上手くできます。人生の田んぼも同じです。二頭の水牛を正しく飼ってください。

 次に発展になりました。私たちは物質面と心の面の正しさがあり、私たちの子も身体面と心の面の正しさがあり、二頭の水牛を飼うことを知ると言います。

33.最後は人間の義務にアヌサティがある。これは虎の尾のように、間違わないように保証させる教えです。

 アヌサティ(隨念)、あるいは最高にいつでも思い出していることをアヌサティと言います。ブッダを想い、プラタムを想うようなのをアヌサティと言います。

 今、人間の義務にアヌサティがあって欲しいです。人間とは高い心がある、あるいは高い心がある人の子孫という意味で、この項目のアヌサティは低くできません。だから私たちは確実に発展しなければなりません。心が低ければ人間でなく、普通の動物、あるいは普通の人です。だから先ず心の面の発展を願い、何としても高い心がある人間になれば、身体、肉体、物質、財産は、自然に正しい道を歩き、完璧に発展します。


 青少年の発展のための三十三項の見本は、このようです。

 青少年の道徳の項目は、何十、何百もありますが、八部に分けたと、正しく理解してください。

 スッディの部は純潔
 智慧の部は、知らなければならない物を知る
 メッターの部は、人、あるいは生き物を愛す

 堪忍の部は、何の例外もなく忍耐しなければなりません。忍耐しなくても良い物は何もありません。優しい人なら優しいほど忍耐しなければなりません。ヤクザな人といればいるほど、忍耐しなければなりません。今私たちはヤクザな人と世界を共にしているので、忍耐しなければなりません。

 サンヴァラ(律義)の部は、失敗が生じないように防ぎます。

 ヒリ(恥じ)の部は、恥を知り、悪を嫌わせます。それは確実に悪から遠くなります。

 ヴィリヤの部は、奮闘努力は欠かすことができません。いろんな物は、一気に成長して成功しないからです。

 発展の部は、世界を散らかす人になりません。

 八つの部には何十もの項目があり、青少年を薫陶するための十分な見本です。

 なぜアリヤシーラダンマという言葉を使うか、熟慮して見てください。これは曖昧な言葉でなく、聖人の様式の道徳にすることを忘れないでください。現代人の道徳は次々に改革して、どこにあるか分からないほどです。かつて猥褻だった物が猥褻でなくなるほど改革したので、猥褻な芸術が生まれ、次にかつて誤りと見なした種類のことをし、それも正しくなりました。

 現代人の道徳は、今不邪淫戒や何の項目でもたくさん取消している最中です。それは道徳ではありませんが、彼らは「現代の道徳」と言います。だから混同して欲しくないので、私は「アリヤシーラダンマ=本当の道徳、素晴らしい道徳、聖人が保証する道徳」という言葉を使わなければなりません。

 これは青少年の道徳だけを話す二回の講義で、非常に長く、問題が増えている、危機が増えている、今破滅し掛かっている人間を考えるために、少なからず忍耐して話し、忍耐して聞きました。

 そして非常に重要な青少年を解決することで、解決できることを望みます。どうぞ持ち帰って考え、できるだけ青少年の道徳を調整、復興させ、調整、振興してください。不可能ではないと信じます。

 青少年のためのアリヤシーラダンマの講義の、今日は時間になりました。あるいは時間を超過したことをお詫びします。




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