13.道徳を促すものと功徳





1974年9月28日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。アリヤシーラダンマの講義の最終回、土曜講義の第十三回目の今日は、道徳を促す物とその功徳という小さな題でお話します。

 今回の講義は最終回で、話すことはあまりありません。全部のまとめのように述べます。しかし道徳を促す物、あるいは道徳の実践をする気力を生じさせる物を提示し、同時に道徳の功徳の説明をします。道徳の功徳が見えれば、当然実践行動をする気力を生じさせる動機を促すからです。

 その行動をする、あるいはそれが生じるようにする気力を生じさせる物を、短い共通の言葉で motive と言います。短く簡単な言葉で、時間の節約です。要するに今日私は、道徳の motive と呼ぶ物について述べます。


 みなさん、前回の話を復習してください。道徳と道徳に関わる物を、いろんな角度から述べた前の十二回を、「今私たちの世界は、世界中問題があり、あるいは各種の危機があり、永遠の危機と呼ぶほど、今静かな幸福の形がない。欠乏、各種の犯罪が世界に溢れていて、これらの危機を解決するために困難を受け取っている」とまとめる事ができます。

 私たちは原因を見間違っているので、これらの問題を解決できません。つまり末端の原因を見て、それを根源と考え、ほとんどこのようです。時には根源を見ても、まだ解決できない場合もあります。他の問題が何層にも複雑に山積しているので、今時の世界の青少年の教育などは、道徳を振興する成り行きにならないで、道徳に欠ける成り行きになります。

 これを「私たちは世界の危機を解決できないのは、道徳に対して間違った実践をし、そして重要な物と見ないで、政治、経済など末端の原因を見るから」と言います。その部分は私たちに道徳がないことから生じていると考えないで、夢中になってその部分ばかり解決します。だから私は、本当の原因である問題を解決するために、ほとんど道徳を解決することを考えます。そして前回青少年の道徳についてたくさん述べたように、何より先に青少年を思います。


 今、その問題解決の援けになる物、つまり道徳を生じさせる物について話すことができます。だから何が道徳を実践する動機か、熟慮しなければなりません。直接の動機は一つあり、間接的な動機も一つあります。良く規定し、良く判断する努力をしてください。人間誰にも責任がある、この世界の道徳がない状況を解決する援けになります。

 この話に関わる問題は、繰り返し取り上げて述べる、あるいはもう一度今回の講義の例とするためで、幾つかの話は良く理解するために、述べただけでもたくさんあります。

 今、考えが二つの側に分れ、一つの側は「道徳が重要で、人間の生死に関わる本題であり、根源であり、主役」と見ます。もう一つの側は道徳と呼ぶ物を知らず、道徳と呼ぶ物について話したことがありません。道徳と呼ぶ物と反対の物を、夢中になって見ているからです。

 例えばある人たちは、人間は腹と口が満腹する状態がなければならないと言い、経済が良いなどが先で、そうすれば道徳がある、あるいは世界に危機、苦、貧困は無くなる、あるいは悪をすることが止まり、いろんな犯罪も止まると言います。要するに彼らは、腹と口を満たすのが先で、そうすれば困窮の問題はなくなると言います。

 私は、腹と口が満たされない人は道徳がないから、根本の段階の道徳がないからと言います。道徳があれば腹も口もいっぱいになり、豊かにもなり、豊かにならなくても道徳面の問題を作らないと言います。私は、人の腹と口が満たされても、道徳がない状況を防ぐことはできないと見ます。道徳がないことは他にもまだたくさんあり、そして本当は、腹と口が満たされないことから来るのではないからです。

 私は、道徳の問題を解決できれば、他の問題は同時に解決すると見ます。道徳省を作って、幾つもの省を合わせたような大きな省にすればふさわしいと話したように、今あるすべての省の問題を解決できます。教育省の問題も解決できます。しかし道徳省がなければならないと思う人は誰もいません。作れば最高におんぼろの省で、一斉に嫌います。

 彼らは、腹がいっぱいになれば、つまり物質が豊富なら、心は自然に善くなると考えます。それは物質主義の哲学で、自然の真実ではありません。私は善い心が先で、そうすれば体の面も良くなり、物質も良くなり、困窮させる原因はないと見ます。これは道徳主義の人と道徳を好まない人の間に抗争がある見本です。

 まだほやほやの問題、例えば今政府を妨害し、誰もを妨害して暴れている農民の問題を解決するには、生産量を増やし、高く売る方法を探してやらなければならないと言います。物質の角度だけを見る人は、このように見ます。

 私はもう一方から、農民に道徳を持たせなければならないと見ます。貧困は道徳がないことから来ています。アパーヤムッカがあることもあり、幾つもの迷いがあることもあります。だから彼らは困難で、貧しく、いろんな物が欠乏します。生産量を増やし、高く売らせることだけで解決すれば、今よりもっと道徳がない間違いをするに違いありません。それは追い着く方法はありません。あるいは更に道徳の衰退を振興します。

 この根源を断つには、農民を道徳がある人、昔のように道徳に厳格な人にしなければなりません。詳しく話します。

 彼らは道徳がないので仕事が楽しくなく、金持ちの真似をして欲情の物で楽しみたがります。昔の農民、何代も前の先祖の時代は、仕事を楽しむことができました。田んぼの仕事ですよ。あるいは何も散在する必要がない、何もアパーヤムッカがない、徳や善の話でも楽しくなれました。

 アパーヤムッカで貧乏人を騙す現代の徳や善を積む話と違います。それは心の損傷が増え、農民のような貧乏人は貧困にならなければなりません。このような状態に落ちていない農民は、間もなく貧しい状態から脱します。

 彼らが検討してハッキリ見えるまでアドバイスをし、彼らが道徳を持つ援けをするべきです。そして自分の職務は職業のためだけではない、あるいは金持ちになるためではないと、普段から道徳の実践をします。そのように考えないで、それ以上と考えます。つまりそれは「徳であり、善であり、煩悩を消滅させ、身勝手を消滅させ、あるいは世界の人間を助けることもできる」と考えます。

 現代人にとって「働くことは善」、あるいは「ダンマの実践」と言うのは、聞いて意味が分からないかも知れません。しかし昔なら、心に埋め込まれた伝統、血統でしていました。彼らは農民であることに満足し、忍耐しなければならないことを楽しんでいました。その忍耐することはダンマの実践です。彼らは行動した時に満足があり、行動の結果を受け取る前から幸福がありました。人間の義務で善いことをしたと満足するので、正常な幸福がありました。

 今彼らはお金を欲しがり、物質的な幸福、あるいは欲情と呼ぶ物を欲しがり、常に欲情面の渇きに耐える感覚があるので、働くことに倦怠します。あるいは仕事が楽しくありません。それです、彼らには、どの場合にも幸福の感覚で暮らせる、人間の心の深遠な根としての道徳がありません。

 最後の項目である、なぜ彼らが悪事をする人になるのかを見ると、彼らは道徳を知らないからです。道徳の話を適度に理解すれば、誰も悪い事件を起こす人になりません。そしてなぜ悪事をする人を征伐できないかは、征伐する人に道徳がないか、あっても少ないか、あるいは道徳の方法でしないからです。道徳の問題は根が深く、人間の危機の流れのすべてに枝を広げています。

 これは、私たちは本当の原因が見えず、その原因を解決できないのは、その問題を排除できる物を使わないで、夢中になって末端の原因だけを解決するからです。だから蟹を捕まえてザルに入れるほどにもなりません。


 次に、見ると、今道徳は変化した形にあり、権力のある人は不思議な力でいろんな物を生じさせると分かります。

 今一種類の威力があり、ほとんど世界中の人が同時に好むことは、武器より、何の威力より大きな威力です。多くの人、ほとんど世界中の人が何かを同時に好めば、それには変化させる威力があります。だから道徳制度は気づかずに変化し、誰も抵抗する人はなく、そして危険と見る人もいません。

 次に昔の道徳は本当の道徳で、社会を正常にし、現代の道徳は偽の道徳で、正常にする物という意味の道徳にふさわしく社会を正常にできません。昔は誰でも食べることや、幸福を愉快に楽しむことに陶酔するのは、これだけでも盗みと同じだけ道徳に反すと認めました。

 今彼らが食べることと性の話を愉快に楽しみ、天人たちを愚弄するのを、道徳に反すと捉える人は誰もいません。本当の道徳の教えでは、「食べること、性、名誉」の三つの話に異常があれば、道徳に反すと見なさなければなりません。今は反対に好まれ、褒められるべき話と見ます。

 それは政治の話と繋がりがあります。国民である人、あるいは世界の民でも、このように道徳の角度で誤れば政治面の問題を作ります。あるいは政治的に大きな変化があります。彼らはそれを道徳の話と見ないで、全部政治の話と見て分裂します。

 本当は政治の話は道徳で、社会の道徳と言います。社会を正常にすれば、正常にする物という意味の道徳で、社会の道徳(シーラダンマ)と言います。シーラとは正常という意味です。戒のある人は正常な人と、みんなで憶えていただくよう、繰り返し忠告させていただきます。

 社会が正常なら社会の道徳と言い、それが政治です。世界が正常なら、世界中に道徳があることを意味し、道徳は世界の政治です。どの角度から見てもこのようで、文字もこのようで、意味もこのようです。

 もう一度表面的に見れば、政治の話にも、彼らには平和を構築する理想がありますが、できません。それは政治という言葉の意味、あるいは理想、あるいは意図を履き違っているからです。政治という言葉は道徳を意味し、世界、世界中でも、一つの社会の物です。これは自然の望みで、あるいは神様の欲求で正しく、誰も妨害する人はいません。今人は神様が望む教えに反すので、神様は妨害する人で、人間の平和の探求を成功させないようにします。人が過ちを犯し、道徳を踏みつけるからです。


 次に見る重要な要旨は、すべての人間は今、一番と呼ぶような、あるいはそのような何か最高の敵がいます。それは物質主義です。

 「人間には病気、あるいは文盲、飢餓などがあり、それが敵であり問題である」と理解しないでください。それは、子供のような表面的な見方です。人間の本当の敵は、物質主義に惑溺すること、物質の奴隷であることです。ダンマの言葉で言えば六処である目・耳・鼻・舌・体・心の奴隷で、これが世界中の人間の一番の敵です。

 私はこのように見ません。だから一番の敵を受け入れて最高に善い友にします。あるいは尊重、崇拝する物にします。そうしたら人間はどうでしょう。人間はどの種類の人間か、何の人間か、考えて見てください。本当の人間は、言葉の意味では「高い心がある」という意味です。

 人間という言葉は高い心という意味で、心が高ければ、何も支配する物があってはなりません。しかし今、欲情が支配し、愚かさが支配し、各種の問題が支配しています。それで心は高いでしょうか。

 なぜ心が高くないのでしょうか。発展して自分を悪の道に踏み込ませ、酩酊させ、すべての物質の撒き餌の中に沈ませるからです。私たちは一番の敵を受け入れて、崇拝する神様にします。物質に溺れれば溺れるほど、物質面だけ発展し、「体が良くなれば、心も自然に善くなる。腹がいっぱいになれば、自然に道徳を持つ」と叫びます。そのようになるかどうか考えて見てください。そのようになったら、ほとんど道徳は無いと言うことができます。

 今、物質を非常に崇拝し、抽象的な、あるいは心の清潔・静寂の面は、すっかり消えてしまいました。時にはそのような状態を「涅槃」と言ってしまうこともあります。そのようなら、それは「後退して」何千年も前の「流れに入る」ことです。パーリ(ブッダの言葉である経)で述べているように、ある時代の人、つまりブッダの時代以前の人は、一時代、欲情面の完璧さを涅槃と見なしたことがあると言っています。

 このようでは解決できません。そして現代は、問題を増やして解決を不可能にするだけで、更に解決できません。いつまでも火の塊の中で耐えなければならないという意味です。

 もう一度短く「世界中に生じているすべての危機は、道徳がないことから生じ、首都でも田舎でも、至る所にある困窮、貧苦は、すべてのヤクザに関わるので、道徳がないことから生じ、それは幾重にも、あるいはいろんな人たちと複雑に絡んでいる」と、もう一度短く繰り返させていただきます。


 次は、道徳面の問題解決について考えます。

 この項目の真実を見る時、道徳の問題の解決は、何十年も間違って来、そして正反対に解決し、掌を返すようにはできません。ニ三十年間、迷って道徳の話で誤りをしたと言うなら、真実と一致させます。まだそれが少ない時から、多くなり、そして今まで、間違っていたのは、きっと一生涯からニ生涯でしょう。しかし最初は非常に少しで、明らかに見える危険はありませんでした。

 今、ハッキリ見える危険があります。三四十年間違いがあり、ニ三日で解決することはできません。一二年でもできません。同じくらいの時間をかけて解決しなければなりません。そしてそれ以上に、子供たち、あるいは今大きくなっている青少年を解決しなければならないと思わなければなりません。

 今私は、青少年の問題はたくさんあり、道徳がないことが証明しているので、青少年の問題を取り上げて熟慮すれば確実と、明らかに見ています。

 最初は「罪」という言葉です。今の子は罪という言葉を知りません。罪という言葉を知らないので罪を恐れず、罪という言葉を聞いてもハッとしません。あるいは罪という言葉を聞いた時、毛に触れたようにむず痒くなりません。しかし罪という言葉の意味を使って話せば、時には感じることもあります。例えば「不運になる」、あるいは「生涯ツキがない」など、こういうのは結果があります。罪という言葉より琴線に触れます。

 罪という言葉はからかう言葉になりましたが、それでもつい最近、「生涯ツキがない」という言葉を、子供は恐れません。物質崇拝がどんどん強くなるからです。昔は「罪」と言うと子供は止め、あるいは言うことを聞きました。今は止めず、言うことを聞きません。「不運になる」と言えば何とか言うことを聞き、怖れを感じましたが、非常に物質を欲しがれば、運が良いも悪いも知らず、切望する欲しい物を欲しがるのが最高に良いです。

 これが今ある問題で、「罪」という言葉を誰も恐れません。何日もしないでこれらの子は大人になり、その大人も罪を恐れず、罪という言葉を恐れません。罪という言葉は意味がありません。道徳の本拠は崩れたと言います。罪という言葉を恐れる人は誰もいないからです。

 話せば誰でもハッとする、この言葉の代わりになる言葉があるべきです。私はまだ想いつきません。祖父母たちがこの言葉を聞いてびっくりしたように、話すと人がハッとし、話せば青少年が止める、あるいは一般の人でも止める言葉。彼らが道徳面で間違いをした時に、立ち止まって少し考えさせる、罪という言葉に変わる何か。何か考えがあったら、一緒に考えてください。

 この項目をもう少し見ると、子供にとって、罪という言葉に関して、なぜこれほど多いのかと見ます。今、例えば罪という言葉など、すべての道徳の言葉の意味を消滅させる何かがあると言います。

 二項目は、彼らが話して非常に持ち上げ、子供にそれに溺れるよう教えている物を見たいと思います。それは民主主義です。正しい意味がないのに、子供たちに民主主義に溺れ、崇拝するよう教え、西洋人の真似、あるいは、ぴったりした、あるいは正しい意味がない民主主義に酔うよう教えます。

 だから私たちは、青少年のいろんな問題を解決できません。子供が先生を敬わない問題は、子供が民主主義だからです。時にはだから民主主義になってしまうこともあります。子供が先生を敬わないことだけです。基礎にするために、道徳の様式で美しい気持ちを作るために、何が残っているか、考えて見てください。慚愧など、何も残っていません。

 更に、証拠である事実があります。ある先生が、権力のある人の子である小さな生徒に強制されて、赦しを請いました。公的にも知られ、みんな知っています。こういうのも世界のどこかにあったことがあります。昔から世界のどこかにあり、最近タイでも増えています。

 それは、人が民主主義に酩酊しすぎ、子供は社会主義の意図がなく、国の財産を愛さず、全体の利益を愛しません。彼らが怒ると火を付けたり、何でもいろいろ壊すこともできます。これらの子は、もしかしたら自分の命より寝ぼけた民主主義を崇拝しているかもしれません。しかしこの子たち自身の首を斬って死なす種類の民主主義で、一度生まれた利益がありません。

 これは寝ぼけた民主主義で、子供たちはこの種の民主主義を受け入れるべきでなく、限度内にある民主主義であるべきです。あるいは最高に正しくするなら、正しいダンマである独裁主義の下にいるべきと見てください。

 学校で鞭を使うのを止めたのは、バカみたいな話と感じます。民主主義でなく、善い心理学でもありません。今生じている、今現れている結果で、それはどうか検証できます。

 子供たちに、ブッダ・プラタムの奴隷になるよう教える方が良いです。ブッダ・プラタム・僧の奴隷、あるいはダンマの奴隷は、実践しなければなりません。ダンマの実践をすれば大変で、忍耐をしなければならないので、ダンマが抑え付けるのを受け入れます。子供たちを迷わせてダンマの奴隷にする方が、子供たちのために準備した、今非常に話されている寝ぼけた民主主義に迷うより良いです。

 次に先生たちを見ると、一部の先生たちは、先生と呼ぶ物の精神が残っていません。そういう人が増えています。つい最近、これらの先生が起こした出来事を見ることもできます。こういうのは、道徳が残っていないと証明しています。道徳は、教えてノートにメモさせて、それで終わりです。「学問は国民の義務」と言うのも同じで、ノートにメモするためで、それでノートを閉じたら行動する必要はありません。試験になったら、思い出して答えを書けば十分です。

 今酩酊している民主主義を止めてしまうべきです。規律のある、ダンマによる強制項目による、あるいは宗教による独裁主義にしてしまうのは善くないでしょうか。私たちは、彼らをまだ子供と見なすべきです。大学で学んでいてもまだ子供で、道徳の話を知らない子供は、自分を強制する話を知りません。人間にはどんな意味があるか、人間の話が分からないので、子供と見なすべきです。まだ子供なら、規則による、ダンマによる独裁を使うべきです。

 敢えてこのように放置すれば道徳も何もなく、あるのは寝ぼけた民主主義に酩酊するだけで、間もなく畜生の方が人より道徳があるようになります。気づかなければなりません。この項目を自覚して、人間らしいプライドを維持するために動きます。民主主義なら、ダンマがある様式のような正しい様式でなければなりません。そして他人のことを考え、自分のことだけを考えません。

 今私たちは自由民主主義があり、どれだけても、どちらも身勝手にしたいだけ身勝手ができ、間違った人も正しい人も、お金持ちも貧乏人も、自由に身勝手にできる主義があります。こういうのは、自然が求める平等で正しくありません。それは神様の望みでも正しくありません。よく考えて見てください。

 三項目 もう一つ響きの善い言葉で、彼らが人権と言うのは、聞くと響きが良く、意味の規定が良いです。しかしそれに道徳がなければ、使い物になりません。道徳を好まなければ人権を行使できず、困難な成り行きになります。あるいは間違って経過します。人権と自由民主主義の二つの言葉を繰り返し説明し、錯綜して、理解が混乱して実践できないほどで、子供は実践できず、先生も実践できず、庶民も実践できません。

 先生が学校で生徒の手紙を調べると、先生は人権を尊重しないと非難されます。これは目を瞑って民主主義に酩酊することで、このように多いです。つまり道徳が残っていないようにし、道徳を管理する機会をなくし、子供の道徳をなくす機会になります。だからこれは人間に発展をもたらすか、あるいは確実に沈没をもたらすか、良く考えて見なければなりません。

 私が述べられるのは、道徳のためにならない、道徳を持つためにならない人権は、道徳がないことが潜入する普通以上の欠陥なので、利益があると見ないと言うだけです。元に戻らなければなりません。正しい、本当の道徳がある状況を見て、そしてその部分で助け合う努力をします。

 「他人の権利」という言葉も尊重すべきです。しかしその種の権利は誰の物でも、道徳を消滅させてはいけません。それはその人自身も含めて誰にも必要です。今私たちは子どもに、自分自身を破滅させる物に酩酊するよう教えるので、道徳面の問題を作ることが増え、道徳面の問題解決に困難があります。いろんな種類のいろんな問題が、行く手で待ち伏せているからです。

 結局今は、道徳の問題はなければならない必要な話で、世界のすべての物の基礎と見ると仮定します。どの分野の仕事も、あるいはどんな物品も、静かさ、道徳という言葉の意味の静かな暮らしを切望しない物は、何も世界にないからです。智慧がある人は考えて見てください。これ以外に、私たちが欲しがるべき物が他にあるか、何の理由でも探して見てください。

 私はブッダなどの昔の学者、多くの智者の方々の言葉を述べ、それらの方々は「本当の目的は一つ」、あるいは「最終目的は静かさを欲しがる。そして「静かさ以外に幸福はない」と、このように述べています。非常に静かなら非常に幸福で、少し静かなら少し幸福で、本当に静かなら本当に幸福で、偽の静かさなら偽の幸福です。

 静かさの他に幸福はありません。そしてこの静かさは道徳(シーラダンマ)という言葉です。シーラとは正常、あるいは静かという意味だからです。だから即座に「道徳以外に幸福はない」と言うことができます。目的として道徳がなければならないということです。

 原因としての道徳は、静かにする物という意味で、結果である道徳は静かな状況です。静かさの原因である道徳があれば、結果である道徳、つまり静かな暮らしの状態があります。他のどんな物があっても、道徳の道具でなければならず、政治制度、経済制度、軍事、何の制度も、道徳の道具でなければなりません。つまり静かな幸福があります。

 静かな幸福がなければ道徳はありません。他のすべてを道徳の道具にするため、道徳の状態である結果があり、道徳があるため、道徳がある暮らしにするために、道徳を基礎にしなければなりません。


 次に、どうすれば道徳を持つことに愛が生じ、道徳が欲しくなるか、道徳の動機と呼ぶ物を見ます。

 初めに、彼らが原則として述べておいた、世界の一級の倫理家の倫理の教えである、普遍の倫理規定を借りたいと思います。彼らは、道徳の動機は大きく三つの部類に分けられると結論しています。

 最初の部類は宗教に関わり、これも一つの部類で、苦を恐れ、幸福を受け取ることを望み、fear of misery, hope happiness. 苦を恐れ、幸福になる期待。これが、人が道徳を実践する動機です。熟慮して見ると真実が見え、そしてそれは次々に真実で、現在までと見え、宗教の話なら、宗教を信奉している人はこのような教えがあり、彼らは苦を恐れ、その宗教の意味の、あるいは方法の幸福になりたがります。

 二番目の部類は国家の話で、politicと言い、罰せられるのを恐れ、発展を希望します。fear of punishment, hope of advancement. これは、人間の規律で大勢で暮らすことに関わる庶民の話と見ることができます。彼らは罰を受けたくないので、法律や伝統規則も含めて道徳の行動をします。彼らは人間の方法で発展進歩したがるので、道徳を生じさせ、あるいは道徳を守ります。

 三番目の部類。社会の角度から見ると、彼らは社会から追放されること、パッバチャーニヤカンマ、尊敬されないことを恐れ、人間同朋から協力、支援を受けることを期待します。fear of social ostracism。 彼らはこの言葉をパッバチャーニヤカンマと訳します。

 彼らは社会から追放され、尊敬されないことを恐れ、hope of finding favour with one fellow 同じ社会の友人から利益を受け取り、何でもいろいろ受け取り、社会の人たちから喜びと歓迎を受けたがります。このように期待すれば威力があり、道徳の行動をさせる力があります。

 これらの物は「まだ見えている。まだできるはずだが、なぜ人は道徳がないのか」と言うことができます。

 宗教の話は取り消されたように見えます。彼らは地獄の役人と交渉し、あるいは供え物をして祈願ができます。彼らは誹謗中傷されるのも、罰を与えられるのも恐れず、願うのは金持ちになることだけです。そして道徳を守らなくても、道徳がなくても、金持ちになれれば金持ちになることを進歩繁栄と見なします。

 次に社会が罰を与え、誹謗中傷し付き合わないことは、更にあまり意味がありません。彼らは「今お金があれば誰でも尊敬し、喜んで交際する。お金がなければどんなに素晴らしい善でも、交際する人はいない」と言います。このように腐っています。そしてその人が同じような行動振舞いの友達を持つと、道徳がない友達同士で一緒に行動できません。道徳の規定は不毛になることができます。

 しかしいずれにしても、熟慮して見ると、この共通の倫理の規定は真実であり、彼らが規定した正しさであり、使い物になると見えます。人が実践行動を真似るかどうかの部分は、また別の話です。彼らが苦を恐れ、幸福を欲しがるのは正しく、理由があります。彼らが罰を与えられるのを恐れ、進歩発展をしたがるのも正しく、理由があります。彼らが社会から称賛され尊敬されたがるのも正しいです。しかしそれだけの利益は、まだ初歩の道徳、世俗の道徳に見えます。


 私たちは、これらの物に依存する必要がない、それ以上の正しさに依存し、共通の倫理以上に公正さに依存する動機まで、遠く見るべきです。それは述べたように世俗の話で、そしてまだ身勝手だからです。

 私は、身勝手から脱させる、あるいはロークッタラの話と見ます。それなら道徳の動機である感覚を、一般庶民のような世界の範囲の動機、本当のダンマのような動機、ロークッタラダンマまで、三つに分類することを知りなさい。一般によく知られている主義、つまり三種類の主権主義で比較すれば簡単に見えます。

 主権は三種類あります。自分を重要と見る自我主義、世界を重要と見る世界主義、ダンマを重要と見るダンマ主義です。

 一つ目は自我主義で、二つの意味があります。

 自分を重要と見る。これは世俗的に見れば俺のことしか考えず、俺の煩悩、俺の利益収入しか考えません。これも道徳を実践させる動機で、その人が「道徳は利益をもたらす」と信じ、そのように見れば、その人は自我主義のような道徳を実践します。しかしそれは悪い自我、世俗の自我で、俺のことだけ、俺の煩悩のことだけを考えます。

 しかし高い自我主義であるダンマの自我主義は、ダンマである俺、ダンマである自分でなければなりません。自分をダンマにし、ダンマを自分にします。そしてその種の自分しか考えないのは、素晴らしいです。こういう自我主義は全部正しいです。「ダンマを自分にし、自分をダンマにする」のは、今私が規定したのではありません。ブッダも規定されました。「みなさん、拠り所である自分を持ち、帰依する自分を持ちなさい」と。つまり拠り所であるダンマがあり、拠り所である自分があります。

 拠り所である自分があり、帰依する自分があることは、拠り所であるダンマがあり、帰依するダンマがあることです。だから自分に頼ることはダンマに頼ること、ダンマに頼ることは自分に頼ることです。本当に善い純潔な自分だけを考えるのは、自分であるダンマ、あるいはダンマがある自分だけを考えます。「ダンマである自分を考え、その種の自分であるために道徳を実践する」人は誰でも、自我主義と呼ぶことができます。だから自我主義は低いのと高いのとがあります。

 二つ目は、世界を重要と見る世界主義です。

 この世界も、低い世界と高い世界の二種類あります。世俗的な世界主義もダンマの実践をするなら、世界の人から非難されるのを恐れるからです。善を行うのは、あるいは道徳でも何でもあるのは、世界の人から非難されるのを恐れることが動機で、無いよりマシです。

 しかしもっと善い、もっと高い世界主義なら、「私が善をするのは、世界の動物の、すべての世界の利益のため」と言います。世俗の範囲でも世界のことを考え、すべての世界の人の利益のために道徳の行動をします。世俗の領域でも世界の人から非難されるのを恐れて善行をするのは、こういうのはまだ高いです。

 世界主義も低いのと高いのと二つの意味があり、道徳を実践する動機も二つあります。

 三つ目はダンマ主権

 低いのは本当のダンマでなく、人にかぶれて、ダンマにかぶれて、人に追随してダンマの実践をし、こういうのは「彼はダンマを重要と見る」言わなければなりませんが、騙され易さでします。しかしその人にダンマを持たせる力がある動機です。

 高いダンマ主権なら本当にダンマを考え、本当のダンマの成り行きになり、多くも少なくもなく、過不足もなく、ダンマにふさわしくダンマを実践します。これは本当のダンマ主権です。

 三種類全部に、それぞれ対があるのを一度に見てください。

 世俗の自我主義は「俺、俺の物」のことだけを考えてダンマの実践をします。ダンマの自我主義はダンマである自分だけを考え、そしてダンマの実践をします。

 世俗の世界主義は、世間に非難されるのを恐れてダンマを実践し、高い、本当のダンマである世界主義は、世界全体の利益のためにダンマの行動を目指します。

 低いダンマ主義はダンマを知らずに、ダンマにかぶれてダンマの行動をします。本当のダンマ主義なら知性があり、正しい見解があり、ダンマにふさわしいです。

 これは、三種類の動機は対、つまり高低に分かれていると見ることができます。聖人の言葉で、三つとも正しいのと誤りがあると言います。

 次に私たちは、仏教で話されている教えで道徳の動機と呼ぶものが三項あります、自分を考えるのもあり、世界を考えるのもあり、ダンマを考え、最高に遠くまで行くのもあり、限られた範囲内で述べてある世界の話、世俗の話であり、むしろ社会の話である共通の倫理の規則と違います。

 苦と話しても庶民が注目するような苦で、幸福と話せば庶民が注目するような幸福で、煩悩やら何やらが終った本当の幸福まで行きません。このような規定がある時、みなさん一人一人が良く見て、道徳の動機と呼ぶ物を正しく、ハッキリと、前進するよう、助け合って片付けてください。どの項目を教えにするか決めたら、その項目を最高に良くしてください。


 もう少し動機の状態で分類した道徳の話を続けます。凡夫のような道徳が一つ、聖人の、あるいは聖人のような道徳が一つと、二つに分類しなければなりません。

 この講義の題は「アリヤシーラダンマ」で、聖人レベルの、あるいは聖人の、あるいは人を聖人にする道徳について述べることを目指します。しかしまだ凡夫の、普通の俗人の道徳が一つあり、もしかしたら彼らが「庶民の善い道徳」と常に話している言葉と一致するかも知れません。一致するかしないか、庶民の善い道徳はどこまで高いか、熟慮して見ます。

 この話をする時、仕事、あるいはしなければならない義務である物を見なければなりません。個人の仕事もあり、全体の仕事もあり、趣味もあり、義務である必要な仕事もあります。そして誰でも仕事をしなければならない義務があります。命は仕事であり、仕事がなければ命、あるいは命があると呼ぶべきでないからです。

 しかし次に仕事をする時、凡夫は一つの目的でし、聖人ならまた別の目的でします。ダンマの実践も仕事と呼び、義務と呼ばなければなりません。だから凡夫の道徳と聖人の道徳は目的が違い、分ける規定、つまり動機が違います。

 凡夫の道徳も動機があり、それは身勝手です。身勝手、「俺、俺の物」は凡夫に道徳を実践させる動機で、悪い俺、俺の物、あるいは善い俺、俺の物、あるいは最高に善い俺、俺の物の話でも、全部俺のため、俺の物のための身勝手で、それはまだ拡大できます。

 腹と口のことだけを考えて、我慢して道徳の実践をする。  お金のことだけを考えて、我慢して道徳の実践をする。  妻・子・夫のことだけを考えて、我慢して道徳の実践をする。

 権力のことをだけを考え、権力・名誉・名声を欲しがることも、身勝手な俺の話を教える人として道徳の実践をします。それは最高の名誉を得るために、我慢してダンマの実践をする話です。

 親、先生、国、宗教のことだけを考える、あるいは彼らがそのように委ねた義務だけを考えても、忍耐してダンマの実践をします。これもまだ身勝手の話と言わなければなりません。あるいは自分の親、自分の先生、自分の国は、身勝手、あるいは「自分の物」だけを考えてしなければならない種類の中にあると言わなければなりません。

 だから凡夫の道徳は低いのから低くないのまであり、両親、先生、国、宗教、強制的に任された義務のためにします。こういうのでも十分で、道徳の実践、道徳があると言います。その人が罪を恐れ、そして正しい行動を探してすれば、完璧な道徳です。口のため、腹のため、お金のため、子のため、妻のため、夫のためにしても道徳です。

 次に述べたようでないもう一種類は、ダンマのためのアリヤシーラダンマで、ダンマの成り行きになり、俺のためにする、あるいは身勝手な感覚でする最初の部類と反対です。そのようなら高い方へ跳び上がるので、神様のことだけを考えます。彼らが神様と見なす宗教の教えで、神様のためにします。その人は神様に命を捧げているからです。

 私たちの仏教では、神様はプラタム(ブッダの教え)で、最高のプラタム、すべての物の法則であるプラタム、規範であり、正義やいろんな善美であるプラタムです。あるいはブッダ・プラタム・プラソン(僧)と呼んでも良いです。ブッダ・プラタム・プラソンを考えて、ブッダ・プラタム・プラソンのためにするのは身勝手ではありません。

 そしてまだ人類、あるいは人間であること、あるいは人類の理想を考えてすると分類することもできます。人間でありたければ、人間という言葉の意味と一致させなければならないからです。

 どのようにしなければならないかは、高い心があり、身勝手のため、何らかの思いがけない利益のためにしません。もう一段階は、人間に生まれたことの理想を崇拝すれば、人間の意味がある人間のようにします。ある人たちは全体である世界のためにします。彼らは全体である世界の利益のために善美の振舞いをし、すべてのダンマの振舞いをします。

 「すべての動物は生老病死の友」と捉えれば、すべての動物のためにします。こういうのはダンマのためにするレベルで、身勝手のためではありません。

 自分があることに戻れば自分であるダンマがあり、ダンマである自分があります。こういうのは最初の「俺、俺の物」ではなく、「自分はダンマ、ダンマは自分」で、自分であるダンマを考えて道徳を実践します。こういうのは、聖人の道徳の種類に分類しなければなりません。

 だから道徳があることは何が原因で何が動機か、このように段階的になっていると見てください。普通の凡夫のようなら必ず身勝手で、聖人のようならダンマだけを考えます。しかし自分勝手の話でも、どの種の自分かで分けることができ、世界のことを考えるのも、どの種の世界かで分けることができ、ダンマだけを考えるのも、どの種のダンマか、本当のダンマか、かぶれたダンマかで分けることができます。

 すべてを、ダンマの実践を生じさせる威力がある物と言います。私たちにある問題なら良く片付け、そしてそれ以上に助け合って解決します。あるいは調整、振興し、他人に関わる物は相次いで善くし、助け合ってこの世界に道徳があるようにします。すべては直接動機についての説明です。


 次に動機と呼ぶ物について見ますが、間接的な動機です。

 この項目は、道徳があることの利益、あるいは功徳を一緒に見なければならないと話しました。道徳の功徳を見れば、ダンマの行動をしたくなる動機になります。

 今の国の複雑困難な話についてなら、危機、あるいはすべての悪を見ます。そして次にこれらの悪は、道徳があること以外、つまり道徳を戻す以外の方法では退治できないと見ます。私たちが利益を受け取るには熱心に道徳の行動をし、あるいは互いに誘い合い、忠告し合って道徳の行動をします。

 例を挙げ手も良いです。それは過ぎた物の復習になります。

 青少年に今のようにダメでない教育を与えたければ、教育を道徳に、あるいは道徳があるようにしなければなりません。

 あるいは、今あるすべての種類のマスコミは毒を撒き散らし、病原菌を撒き散らし、傲慢と、考えや主義の中毒を創り、妬みと加害心を創るマスコミで、少なくとも詰まらないことを喋り続けるので、これらすべてのマスコミに道徳があるようにしなければなりません。つまりそれらのマスコミの局内に道徳を入れます。

 あるいは今失敗している役に立たないことを見ると、経済面、政治面、軍事面、農業、工業、何でもすべてに関わっている人に道徳がないので、何種類でも失敗します。試しに道徳があれば、これらの物は良くなり、正しくなり、一斉に揃って発展します。経済の話などは、善い農民がいて、善い百姓がいて、善い商人がいて、善い係官がいて、何でも善く道徳があるだけで問題はなくなります。今は問題が増えるばかりです。

 次に、今話し合いにならず、合意できない問題を見ます。狭い範囲、家庭でも町でも国でも、世界全体については話す必要はありませんが、話にならないのはどちらの側も道徳がないからです。あるいは彼らは彼らの新しい道徳があり、「得るは善で、有利は善」です。だから自分たちが有利なのは自分たちの道徳です。述べた人の名前は言わないでください。

 最近、世界で最高の人がこのように言いました。もし彼がそれらの人を殺さなければ、彼は道徳があると言われない。その人はこのように言いました。道徳の系統が変化したからです。

 今私は真直ぐ、率直に「話にならないのは、どちらも道徳がないから」と見ます。次にどちらも掻き集める自由があるので、あるのは危機だけです。道徳があればこれは消えるので、私は渇望し、この問題を排除するために道徳があって欲しいと望みます。

 もう一つ、私が新聞で読んだ滑稽な例は、智慧のある人が「物価高は主婦の精神衛生を衰退させる」と話しました。なぜ彼は「物価が安ければ、精神衛生が良くなる」と言わないのでしょうか。このように言を翻して騙します。物が安くなっても、主婦の精神衛生は良くならないからです。

 彼が、物価が高くなる度に主婦の精神衛生が衰退し、神経の病気になり、何になると話すのは公正ではありません。それは忍耐する、あるいは解決する、あるいは何か色々する道徳がないからで、精神衛生があるのは、あるいは良いのは道徳があるからです。物が高いか安いかは、道徳があるかないか次第です。今私たちは物質だけを見、物が目に入り、他の物が見えません。


 次に道徳の話は、それよりもっと深い物があるので、物質の話だけに注目しないで、心の話に注目しなければならないと話させていただきます。

 心の面の道徳は道徳の本物です。道徳があれば心の問題を解決できます。つまり物質の抑圧より強い心があり、物質の問題は何もできません。できても少なく、いずれにしても耐えられ、神経の病気にならないという意味です。

 次に、今ブームになっているサマーディと呼ぶ物について話したいと思います。

 西洋人はサマーディの話に興奮し、ここへ来る人は誰でも、サマーディの話の質問をします。しかし彼らが理解しているか、あるいは本当にサマーティを知っているかはまだ疑問です。本当は、これは重要な話で、非常に利益があります。

 この機会に話させていただきますが、みなさんは「サマーディであるよう良く訓練された心は、非常に多くの問題を解決する」と、つまり「彼らが苦の物も私は苦でなく、彼らが泣く物も私は泣かず、彼らが愛す物も私は愛さず、彼らが迷う物も私は迷わず、すべての感覚より上にある」と、私が話すようなのを信じるとは信じません。心がサマーディで良く管理されていると言えば、これほどたくさん道徳の問題を解決できます。

 短く「サマーディの味」と言う物は、心の側の道徳の素晴らしい味で、二種類に分けることができます。

 第一項は、最高に普通のサマーディの味、あるいは利益、あるいは功徳は、一つの分野です。サマーディがあれば子どもは勉強ができ、良く考えられ、良く記憶できます。大人も同じで、お金を投資する必要がない種類の幸福を味わい、国の経済を破滅させない幸福を味わい、仕事にも病気にも、病気の予防にも、すべての戦いに心の能力の高い人になります。すべてを「普通の利益は誰でも見ることができる」と言います。

 第二項は、誰も信じない話をしたいと思います。サマーディの威力は問題を解決し、犯罪や、すべての犯罪行為のような問題を解決し、心をサマーディにできれば、本当のサマーディの味を受け取ります。他の幸福の満足より、サマーディから生じる幸福に満足します。この事実が見え始めた人が書いています。私も賛成します。例えばヘロイン中毒の人に鎮静剤を飲ませても、機会があれば再びヘロイン中毒になることはあります。

 次に普通の人より賢い医師は、成功すると非常に幸福を感じる類のサマーディをさせます。ヘロイン中毒者が薬を飲んで、一度ヘロインを捨てて、もっと遠くへ行き、そしてサマーディに関わる幸福を味わって夢中になると、その幸福の方が美味なので、再びヘロインを吸う機会があっても吸いません。

 率直に言うとこのようです。つまりサマーディの味は、有益に使うことを知っていれば、酒、アヘン、ヘロインまで、酩酊している物の味を支配することができます。サマーディがある話は、道徳の話の中に入れなければなりません。

 他にもにたくさんの話があります。特に彼らが「息が詰まる」と言う欲情に熱狂する話です。若者でも年寄りでも、欲情面の息が詰まる話がある人が関わりのあるサマーディの味に依存すれば、抑圧が緩み、あるいは圧倒的に勝利できます。

 聞く人がもっと信じられないのは、クルンテープ(バンコクのこと)でもどこでも、町や路地に群れているヤクザたちも、もし彼らにサマーディができれば、サマーディの味を知り、ヤクザらしさが緩みます。サマーディの味は休憩させ、満足させ、喜ばせ、犠牲にさせ、食うや食わずでもサマーディの味を欲しがり、ヤクザらしさは溶けてしまします。

 あるいは女性が売春の仕事をしなければならないのは、ほとんどは心の抑圧ゆえです。もしダンマの味がその抑圧から脱す援けをし、そして貧しさに耐え、疲労困憊に耐える気力があれば、道徳に反さない職業をします。

 人が自殺し、このように自分自身の命を害すのも、愚かで燻ぶっている物があるからです。もしダンマの味を知っていれば、その道へ踏み入れる考えはありません。あるいは自殺する時、プラタムの味、サマーディの味を味見する機会があれば、自殺を思い止まります。

 要するにサマーディの味の形の中にあるプラタムを食べれば、あるいは味見をすれば、いろんな悪の考えは止めることができます。だから私が「心の面の道徳の素晴らしい結果は誰も信じない」と述べたように、いろんなヤクザの問題を解決できます。


 次に時間が許す限り、幾つかの道徳の利益を見ます。宗教の教えで捉えれば、どの宗教も社会主義の状態があり、つまり身勝手はできません。これは宗教の意味で話しています。

 身勝手でなければ他人のことを考えると言い、他人のことを考えれば社会主義と言います。すべての道徳体系は、どの宗教のどの体系も、他人のことを考える体系ばかりなので社会主義です。だから道徳の本当の本質は社会主義です。メッター(慈しみ)が最初で、自分のことを考える前に他人のことを考え、少なくとも同時に考え、自分のことだけを考えません。

 「すべての動物は生老病死の友」という文を忘れないでください。これはすべての宗教、特に仏教の理想です。このような感覚は社会主義で、彼らが話すような自由主義ではありません。自由主義は煩悩の要求で、袂を別ち、誰が何と言っても考慮する必要はありません。道徳がこのように社会主義なら、世界に問題を作りません。

 今世界には、終わりを知らない慢性的な大きな問題があります。それは「資本家と労働者」と言う、貧乏人と富豪の問題です。世界に道徳があり、世界が社会主義なら、資本家も労働者も作りません。

 ちょっと熟慮して見れば、資本家は道徳がないと見えます。資本家は煩悩の奴隷で、アパーヤムッカの奴隷なので、酔う水を飲み、夜遊びをし、見世物を見、賭け事をし、悪人と友達になり、仕事を怠けますが、レベルが違います。

 いろんなアパーヤムッカを求める歓楽施設は、資本家のために作られました。あるいは資本家が資本家のために作るのは、レベルの高いアパーヤムッカです。すべての資本家はアパーヤムッカの奴隷で、道徳がないことを意味します。すべての労働者もアパーヤムッカの奴隷ですが、レベルが違い、これも道徳がありません。

 道徳があれば資本家は生まれず、労働者も生まれず、全部同じ善い人が生まれ、持っているお金の多寡は違っても、資本家、あるいは労働者である意味はありません。「道徳はこの世界から労働者と資本家の問題を無くす」と言います。このように見れば「助け合って道徳と呼ぶ物を世界に生じさせる」と、目が輝くでしょう。


 最後に「この世界を一瞬で弥勒の世界にするには、道徳だけあれば他には何もいらない。もし一瞬で道徳がもてるなら」と、またまた誰も信じない話をしたいと思います。先ず道徳がなければなりません。そうすれば弥勒の系統があります。仮に世界に一瞬で道徳を持たせられれば、弥勒の系統がこの世界に、一瞬で現れます。

 仏教の教えの道徳は社会主義で、自分のことだけを考えず、他人のこと、すべての人のことを考え、そしてダンマである正しさがあります。

 これは社会を考え、正しく考え、そして独裁の状態があるという意味です。ブッダが何かを実践する時は独裁のように実施し、愚図愚図もたもたしないでダンマに独裁をさせ、正しさに独裁をさせたのと同じで、誰が何をすることもできる寝ぼけた民主主義ではありません。道徳の結果は、一瞬で弥勒の体系をもたらすことができます。本当にこのように見る人は、大きな動機が生じ、道徳があることを希求します。

 今彼らは、このようにできると信じません。時には「際限ない欲情主義とは比較にならない。弥勒の体系も現代の物質主義には敵わない」と考えてしまいます。彼らがこのように考え、このように信じてしまえば、道はありません。それは物質主義者式の道徳を欲しがるので、どうしようもないと言います。神様も誰も助けられません。人間が自分を愛そうとせず、自分を尊重尊敬しようとしないので、助けようがありません。

 これが静かな幸福、永遠の幸福を生じさせる道徳の功徳です。見える人は渇望が生じ、ダンマの実践をすることに熱心になります。だから私は間接的な動機と呼びます。つまり二段階に見なければなりません。あるいは二段階に実践をしなければなりません。そうすれば結果があります。

 直接なら見えています。例えば警官に捕まるのを恐れて道徳をもつのは、警官に捕まる恐怖が道徳の行動をさせる動機と明らかに見えます。これは直接の動機の例と言います。

 要するに直接でも間接でも道徳を持つ動機は、何でも一緒に二種類を使うことを目指せば、結果があります。


 最後に、アリヤシーラダンマの話を十三回講義してきて、いろんな角度からできるだけ詳細に熟慮してきた、すべては道徳の問題に関わると復習してください。だからみなさん、持ち帰って自分や他人にどのように有益に使えるか、つまり道徳があるようにできるか、熟慮して見るよう希望します。

 そしてすべての青少年にこれを教えて知らせます。そして彼らが恐れない「罪」という言葉の代わりに、使って彼らに怖れを生じさせる言葉を思い付く人はいませんか、とお願いしたことを忘れないでください。それは道徳を生じさせる動機の基礎になります。

 今年最後の講義を、これで終わらせていただきます。これから雨期の三か月間、土曜講義は一旦休み、一月になったら別のシリーズを始めます。時間になりましたので、今日の講義は終らせていただきます。




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