11.青少年のためのアリヤシーラダンマ





1974年9月14日

 ダンマにご関心がある善人のみなさん。アリヤシーラダンマの土曜講義、第十一回目の今日は、青少年のためのアリヤシ-ラダンマという小さな題でお話しします。

 私はアリヤダンマについて、名前を知らせることから、異なる理解ゆえに曖昧であるこれらの物の意味、そして時代による変化、違う社会、あるいは他国からの伝承と交流まで、道徳であるいろんな角度、いろんな状態についてたくさん話して来ました。

 最後にこの世界は、本当のアリヤシーラダンマにとって敵である状態になり、人間は道徳でない側を選ぶことが増えています。だから世界の人間に問題が生じて苦になり、困窮になります。しかし誰も「道徳が衰退したらから」と見ないで、反対にこれらの問題の別の解決を目指します。たとえば経済面などは、最高に問題を山積させて増やします。

 道徳の問題は解決されません。見えないので、他の角度の問題解決をするので、成功しません。本当の基礎は道徳の問題にあるので、世界は混乱状態にあり、心の面、道徳面の闇に落ちているので、どのような復興、調整、振興がなければならないか、前回の講義で話しました。


 今日もこの問題について、特に、非常に必要である青少年に関わる角度で話します。

 将来人間が道徳面の善い立場になるには、青少年の道徳が善くなるからです。そうでなければ世界に人間はなく、道徳もありません。この話は「人間は道徳があるから生きていられる。道徳がなくなれば人間はいない」と忠告し合い、常に思っておくべきです。

 人間(パーリ語でマヌッサヤ)という言葉については、「マヌッサという言葉は、マナ+ウサヤという言葉がらきていて、心が高いという意味で、心が高いから人間と呼ぶ」と、文字の意味を掴むよう、繰り返し忠告しました。人間という言葉の意味を「マヌーの子孫」と解釈する人もいますが、それも同じで、人間はまだ高い心があり、特に高いです。マヌーの子孫、あるいは自分自身が高い心のある人でもどちらでも良いです。だから人間と呼びます。

 今私たちは、物質だけが発展し、心の面は発展していません。物質面は高くなり、どの分野も非常に不思議なほどです。病気の話も、食べ物、住まい、遊び、楽しい話も、仕舞いには愛欲まで物質の角度の発展をし、走るように高くなり、心の面の話は発展がありません。あるいは何とか元の状態を維持しているだけ、というのもまだできません。

 心は関心を持たれないので低く落ちます。物質面の話、あるいは肉体面の話だけに酩酊陶酔するので、魔王の側の自然の落とし穴に落ちると言います。

 物質がこのように高ければ心は高くなく、心が高くなければ人間と呼ぶことはできません。それです、今「人間がいないのと同じ」と述べるのは。心を高くする道徳がないからです。物質の奴隷である人は物質に迷い、物質の発展だけを目指し、彼らは「体が健康なら、心も自然に善くなる」と言い訳し、好く言えば照れ隠しをします。

 みなさん、それはあり得るか、思って見てください。彼らが言うように、身体が良い物を食べ、良い生活、楽しく美味しく陶酔する天人のように豊かな暮らし、あるいはみなさん知っているように、天人以上に遊ぶべき物、使うべき物、楽しい物がある現代の人間は、天人以上のこともあります。それで現代人の心は高くなったか、熟慮して見るべきです。

 良く見れば、仏教の教典で知られている話の天人も、天人は心が高くなく、形・声・臭・味・接触の話に惑溺し、まとめて簡単に「アーヤタナの奴隷」と言います。

 私はこの言葉を何回も、あるいは何十回も述べません。だからアーヤタナの奴隷と憶えておいてください。これは仏教教団員にとって最高に凶悪な物です。目の奴隷、耳の奴隷、鼻の奴隷、舌の奴隷、体の奴隷、体に関わる心の奴隷。これをアーヤタナの奴隷と言います。

 このようなら、心は高いでしょうか、高くないでしょうか。心が高くなければ、どこが人間でしょう。人間という言葉は心が高いという意味なので、心が高くなければ人間ではありません。どこに道徳があるか探しても見つからないので、道徳がないということです。道徳がなければ人間らしさはありません。だから短くまとめると、道徳がなければこの世界に人間はなく、いるのは自分の煩悩で何でも衝動的にする人だけで、人間と呼ぶにはまだ十分ではありません。

 しかし彼らは大昔から、「人間とは高い心がある。そしてそのようでなければならない」と規定しています。ある時は本当にそのようであり、人間は道徳のある心がありました。しかし今は非常に変化して物質主義になり、人間は物質の話だけに酩酊します。だから元の道徳を認めるか、道徳を新しく解決して正しい道徳制度にします。つまり現代の人間の要望と一致させる問題があります。

 今観察した限りでは道徳は変化し、人間が、本当は現代人だけですが、道徳と認めない項目が幾つもあるほどです。例を挙げれば、食・住の話に酩酊するのは、道徳にはありません。それは盗みと同じだけ道徳に反しますが、現代人はそのように認めません。食・住に酩酊する話、ふざけることは、したいように、煩悩欲望のままにどのようにでもでき、彼らは道徳に反すと認めません。

 しかし道徳の規定で見ると、それはあり得ません。道徳に反します。食べること、住むことに酩酊するのは、盗みと同じだけ道徳に反すと言うことができます。正しくしなければ、食べる話、住む話、名誉の話に混乱が生じ、十分道徳に反します。

 人間の問題は三種類あり、「それは非常に問題」と憶えておくよう繰り返し忠告しました。食べることは最初の問題で、満足すれば愛欲の話になり、愛欲に満足すれば名誉の話で、三つです。食べる話、愛欲の話、名誉の話で、三つです。これらの話が混乱すれば道徳がないと言います。それがすべての角度、すべての面で静かできちんとしていれば、まだ道徳があると言います。

 だから食べる話、愛欲の話、名誉の話に自分の好きなようにして、法律に反しなければ道徳に反しないと言うことはできません。法律は食べる話、愛欲の話、名誉の話に迷っている人が作ったので、道徳のない食べる話、愛欲の話、名誉の話を法律違反とせず、個人の話にしたからです。

 しかし仏教教団員は「生活に異常な物がないよう、食べる話、愛欲の話、名誉の話の異常な幸福がないよう」良く思わなければなりません。物質である身体、心から高い段階の知性まで、道徳の話の意味を広くしてください。

 家の中の物も秩序がなければなりません。秩序がなければ道徳に反し、正常でないと言います。

 身体も正しくなければなりません。つまり異常がないようにします。

 食べる話、住む話、水浴の話、排泄の話も正しくなければなりません。そうすれば正常さがあると言い、身体の道徳と言います。

 体と言葉に関わる行動の部分の話も、正常でなければなりません。

 心に関わる部分は正常な気質があり、知性に関して、つまり考え、信仰、いろんな望み、それも正常でなければなりません。こういうのを道徳があると言います。

 もう一つ大きな損害である失敗があります。例えば道徳の話をすべての話と分けてしまったことです。

 本当は、すべての話の正しさが道徳です。私たちはこの角度を見ません。意図的に分けた例は政治の話で、政治は道徳と言いません。機会、あるいは意味を護って、政治を騙して嘘を言い有利になろうと転げまわる話にしても、政治家式の何でも、道徳違反ではありません。

 本当のことを言えば、よく考えて見ると、政治は道徳の一つ、社会の中の道徳です。どの角度を見ても細部と意義で正しければ、政治は道徳である正常、あるいは社会の関係の正しさです。つまり一つの集団の大勢と、もう一つの集団の大勢に正しい振舞いがあり、同じ国、同じ世界で安楽に共存できれば、それが政治です。

 だから政治は深い意味、つまり社会的な意味で道徳です。今私たちはこのこの規定を認めず、政治に道徳は必要ないというほど別になったので、そのようになりました。この世界は走るように変化し、物質面の発展が走るように変化すると、他の物も走るように変化し進歩します。

 身勝手でない人が考えなければならない問題は、この世界はどの形に行こうとしているのか考えることです。最高に重要な物、「身勝手」という一語に集約できるすべての煩悩を見ると、「この世界は非常に心配がある。世界の人は誘惑するため、自分を酩酊させるために人間が製造した物の発展に並行して、今身勝手が多くなった」と感じます。

 この罪を最高に多く受け取るのは青少年です。子供たちはこの世界に生まれて来て、まだ何も知らず、この世界で関わる物次第だからです。

 子供がどのような状態で生まれたかは、その子の環境次第です。その子が生まれると環境で経過するので、その子は少しずつ身勝手になったと気づきません。どんどん身勝手になって、今気づかずに、言うことを聞かないで狂暴になる青少年、若者の形の中にいます。しかし身勝手で、道徳と呼ぶ物を知りません。

 だから青少年の道徳について話してしまうのは、ふさわしいです。あるいは取り上げて話さなければならない理由があります。

 現われていることを観察すれば、重さはどれくらいか、危なっかしさ、あるいは恐ろしさはどれくらいか。この話を判断する標準として使うには、本当に現れている物を見る方が良いです。

 私たちにはまだ、学生、生徒が闘争する問題があります。学年が高くなればなるほど、武器を使い、校舎やその他の物を使うくらい闘争が多くなります。これは道徳と呼ぶ物の本当の意味を思わないからです。百年前の子なら、このようにする智慧はありません。これを「青少年の心を覆う誤りが知らないうちに増え、身勝手が増えている」と言います。

 次にもう一つ学生の教育に密着している物を見ると、スポーツをすることはスポーツマンらしさを消滅させ、スポーツマンでなくします。話せば滑稽です。「スポーツマンらしくなくするために」スポーツをします。スポーツは道徳の訓練をする物と知らないので、スポーツの道徳を知りません。彼らは道徳の訓練をするためにスポーツを使いません。煩悩である身勝手が目いっぱい関わるので、煩悩のためにスポーツをし、道徳の訓練のためにスポーツをしません。

 一般にスポーツは三種類あります。自分の煩悩による勝ち負けのためのスポーツが一つ、名誉のために勝負するのが一つ、保健衛生のためがもう一つです。しかし最高のはスポーツマン精神を持つためです。つまり赦す気持ち、相手が自分を侵害した時も根に持たないためにスポーツをするのは、本当のスポーツの意図、あるいはスポーツマン精神です。

 今は、赦す人であるスポーツマンの心情でスポーツをしません。保健衛生もあまり期待しないで、自分と仲間の名誉のために勝ち負けだけを期待するので、道徳のためのスポーツでなく、道徳であるスポーツでもなく、最初の目的であるスポーツである道徳でもありません。この種のスポーツを調整して、正しくスポーツの中の道徳にしなければなりません。そして広く他の道徳があるよう振興し、スポーツマン精神があることで国の道徳があるようにします。

 私は道徳に結果を、赦す気持ち、苦楽を共にする友情、生老病死の友まで、このように期待します。このような気持ちでスポーツをすれば最高に素晴らしいスポーツマンになり、聖人のスポーツになります。そして高い心がある人間のスポーツと呼ぶべきです。野生動物の噛みつき合いではありません。野生動物が異性に対して、つまり応援団に対して自慢するために噛みつき合うのではありません。応援団は異性の状態があり、噛み合う人を元気づけます。

 スポーツはこのように変化し、名誉のために、そして身勝手な人の力で、いろんな規則に違反し不正に使う力で勝つようになりました。

 私たちの青少年はどの意味のスポーツをしているか、自分で見てください。それは自分自身を告訴することであり、それ自体が証拠であり、その選手はどのような出来事を現したか、それ自体が厳格な判定です。青少年のスポーツは殺し合うほど、あるいは校舎を焼くほど喧嘩の原因になると見えています。

 いろんなマスコミで知っているように、それらはスポーツから始まっています。これを「私たちの青少年に今、その種のスポーツがあるか。その中に道徳があるか」と言います。今回それを見るべきです。

 次に、青少年に非常に好まれている民主主義を見ると、誰にも反対させない、批判、批評させない、衣食住や異性間の交際、何でも自由にするいろんな種類のヒッピーらしさです。彼らは際限のない自由を欲しがります。私たちの青少年が全部このようなら、将来、世界はどのようになるでしょうか。

 そしてもう一つ、今問題が増えているのは、性教育、あるいは産児制限などです。

 今広く行われているような物理的な産児制限は、道徳を振興するか、それとも確実に道徳を消滅させるか、熟慮して見てください。そして青少年にどのように関わるでしょうか。今、あるいは将来シャツのポケットの中、ズボンのポケットの中が避妊具でいっぱいになったら、それで道徳はどんな形になるでしょうか。

 産児制限はいろんな方法でできます。薬もあり、メカニックである道具を使うこともできます。そして他にもたくさんの方法がありますが、物理的と言わなければなりません。つまり身体的、物質的で、道徳面と関わりません。このような物理的な管理は、その後どうでしょうか。

 私はどれも使えませんが、身体面、神経系統、心の系統まで、その後病気の問題が増えると、愚かな感覚で信じます。そのような薬を一年中、一生涯飲む本当の身体面は、必ず新しい何かを創ります。それは身体の問題で、身体的な、神経系でもある統新しい問題と呼ぶことができます。

 心の部分は確実です。この種の道具を使わせる原因である煩悩の意図で、初めから間違いをしているからです。これは至る所に併発する問題、併発する病気があります。常に心を妨害する深い煩わしさがあり、自然の心の安楽はありません。そしてそれは、今まであった他の問題を増やします。それで人間はどうでしょうか。私たちの青少年はどうでしょうか。

 この話は後退を認めず休まず前へ押すので、「人工中絶は違法ではない」、あるいは「何をしても違法ではない」と言うまで道徳面の解決をします。そして最後は、目の前で自分の子を殺してしまいます。これも違法ではありません。人口を管理したいからです。これは将来の道徳がないことです。それは今道徳がないことから拡大し、心が損傷し、気づかずに心の病気が増えます。

 先祖が使ったような心の面、あるいは道徳面の産児制限を好む人は誰もいません。罪を恐れさせ、カンマを恐れさせ、何でも色々恐れさせ、性の面、愛欲面に埋もれることは罪の一種と知り、必要を超えれば超えるほど言葉にできない罪と知らせます。このような感覚は忍耐を生じさせ、他の出口を探させ、心が道徳の範囲にあるよう強制します。だから反対の問題であり、物理的、物質的な産児制限と反対の結果になります。

 心の面、あるいは道徳面の産児制限を十分にすれば、善い道徳を持たせる助けになり、出生を減らすことができることを思うべきです。善い道徳がある人は、道徳に惑溺すればするほど、煩悩の言いなりになるのを嫌います。今は煩悩に従うのが好きなら好きなほど、道徳を嫌います。

 青少年の時から、人にパラマッタム(涅槃を目指す教え)をたくさん学ばせるには、この面の心を強制することを良く知らなければなりません。愛欲に関してできるだけ知足の人にし、道徳に反さないいろんな方法を探し、自分の感覚に逆らわずに出生を管理します。

 しかし今、世界の人はできません。気持ちに間に合わず、非常に変化している変化に間に合いません。そして私たちの青少年はこのような感覚の最中に、このように許容する最中に生まれて来るので、将来青少年の道徳はどのような形になるかという問題があります。つまり宗教が残っているかどうか。道徳があるかどうか。私たちが目を瞑って西洋の文化の尻を追えば追うほど早く、道徳がない、あるいは宗教がない状態に至ります。

 滑稽な話があります。ここでお話しする機会を頂戴したいと思います。今月十二日のある日刊新聞に、アメリカのフロリダ州は、教会の僧が布施をするよう、そして「布施をすると発展があり、神様の加護がある」と誘ったと、損害賠償を請求しました。次に彼は三年も待ちましたが、何も善い結果がなく、何も生じません。そして彼は自分の収入の十分の一を布施しました。

 だから彼は、布施をするよう誘った僧を詐欺師と、そして神様も詐欺師と、つまり彼らが布施したお金に何も報いがないと訴えました。訴えを認めた裁判所は、前代未聞の奇妙な裁判所と言わなければなりません。一人ある富豪が、被害額を全額補償するので訴えを取り下げるよう仲裁すると、原告は告訴を取り下げて決着しました。

 私たちが見なければならないのは、今神様とは何か、裁判所とは何か、布施とは何かを正しく知らない人がまだいることです。その人は「神様は詐欺師で、彼が布施したように助けてくれない。住職は誘惑して布施させた詐欺師」と訴えました。裁判所という言葉も熟慮するべきです。現代の裁判所の義務を行う人は、このような場合も訴えを受理します。これはどんな種類の裁判所でしょうか。いろんな物が変化しているので、この世界にあるに違いありません。

 この話をするのは、軽蔑して悪口を言うためではありません。世界がどれほど変化したか、そして今後、世界は神様を知らず、宗教を知らず、布施をする意味は何か、そして世界はどのようかを知らないほど変化すると知らせるためです。将来、私たちの子供はどのようか、どうぞ考えて見てください。思っておいてください。

 取り上げた例は、将来青少年はどうなるか、心配、憂慮するに十分です。だから今日の講義の目的で、青少年の道徳の話について熟慮してしまいます。

 今私たちは成長して世界の、あるいは特にこの国の人間らしさを維持する善い大人になる青少年を目指しています。善い青少年だったことがない大人は聞くべきです。あるいは道徳を持ったことがない、善い青少年だったことがない大人は、青少年はどのような道徳があるべきか、子供に話す話でも、話を聞くべきです。あるいはどのような感覚、規則の知識がなければならないか標準の知識がなければ、既に白髪頭になった青少年もいます。

 青少年の道徳は、これからも今まで通りアリヤシーラダンマという言葉を使わなければなりません。頭にある「アリヤ」という言葉を捨ててしまえば揺れ過ぎ、曖昧過ぎ、「庶民の善い道徳」と言うのと、「煩悩の言いなりのすごく良い生活は道徳に反しない」と言うのと同じです。だから私は、アリヤという言葉を頭につけてアリヤシーラダンマとし、特別に大切にする機会をいただきたいと思います。

 だから子供のため、青少年のための道徳でも、アリヤという言葉を付け加えなければなりません。聖人の正しい道徳という意味で、まだ聖人にならない子供でも、聖人だけの教えの系統と実践を知らせます。

 道徳について話す時、一つ悲しいのは、この言葉に意味を与えるのが少なすぎることです。私自身もそのように理解したことがあり、そのような誤りをしましたが、あまり多くはありません。つまり道徳の範囲を人間が得るべき最高に善い物まで拡大したので、あまり少なくありません。

 しかし今道徳をすべての物質の、畜生の、すべての階層の人のすべての話にしたいと思います。シーラは正常な状態、ダンマは物、シーラダンマは正常な状態、正常な幸福という意味です。あるいはここでのダンマという言葉は原因を意味し、正常な幸福、つまり正常な生活をもたらす実践行動を意味するなら、石から植物、畜生、人間、正常にいることができる誰についてでも正常な状態と言い、シーラという言葉に相当します。シーラダンマはこのように正常を生じさせる因と縁です。

 昔は狭い世界で意味を与え、そして子供のための道徳と呼ぶ幾つでもないダンマの項目を明示しました。そして大人に関わらないのもあり、社会の奴隷の話もあり、ほとんどは自分に関わりませんでした。特に戒・サマーディ・智慧・聖向聖果涅槃はこの意味に含まれません。しかし今私は青少年について話し、目前の問題であるだけ、問題にふさわしいレベルで話すべきですが、元より広い意味にします。

 青少年のための道徳は何があるかと問えば、答えは真っ暗でした。私も暗いことがありました。「何がある」と、ハッキリした系統として規定する人がいないからです。今でもハッキリした系統として指摘するのは答えにくいですが、この話に何十年も関心を持って来て、あれこれ見えているのが増えたので、勝手に言いたいと思います。

 いずれにしても、何をしても「勝手に言っている」と、「勝手にしている」とたくさん罵られ、非難されています。この話も、もう一度勝手に話す機会を戴きます。青少年のための道徳の系統、あるいは部に分ければ、子孫に話して訓練するのに便利です。


 まだ確かな系統がない時は、自分が最善と見る系統にする機会があります。私は、道徳の大きなカテゴリーである項目を八つにしたいと思います。そして私の口癖になっている言葉を思うのが一番良いので、そのまま使えます。

 ボーディサッタから普通の人まで一般に使える四項目の教えは、「スッディ・智慧・慈・堪忍」と、いつでも話して聞かせています。この四項は最高に強調させていただきます。どうぞ憶えて、青少年の物だけでなく、すべての場合の問題解決のために実践してください。スッディ・智慧・慈・堪忍が先です。スッディは純潔で、非常に拡大できる意味があります。智慧は知るべき知識で、慈は他人への愛、堪忍は忍耐、この四項目はずっと前に話しました。

 あと四項目は、律義・慚・精進・ヴッティです。律義は自分を強制すること、注意深く慎み、慚は罪を恐れることで、精進は精進努力、ヴッティは発展、進歩、あるいは開発です。

 純潔・智慧・慈・堪忍・律義・慚・精進・発展と、音声の面で押韻するちょうど良い言葉を選ぶのも、簡単で憶えやすいです。八語は八つの部分の名前ですが、部長であるこの八語の意味を理解しなければなりません。そうすれば他の項目を簡単に理解できます。

 スッディという言葉はどこまで意味するか、みなさんは自分で思うことができます。スッディは、文字では奇妙なところがあり、純潔でも良く、純粋でも良いです。これはタイ語もパーリ語も、外国語でも同じです。何も混じっていない、つまり「全部そのよう」という意味がある言葉があり、彼らはその言葉を昔から使っています。庶民の言葉を宗教で使い、スッディ、つまりパリスッティになり、要求次第で体・言葉・心の純潔です。


 第一部 スッディ。純潔は道徳の小さな項目になりました。

1.私たちの子供はダンマがある子でなければなりません。ダンマがあるとは、宗教がある、何がある、と呼び方次第です。私たちの青少年に「タンマがある、宗教がある」という状態に自分を維持することを教え、十分な年齢の親は、子にダンマがあるようにする宗教の教えを知るべきです。これをダンマがある人と言います。ダンマがあれば一つの意味で、あるいは一つのバランスで純潔な人です。これは子どもたちを、身についている教えであるダンマがある人にします。

2.肉体に勝つ。子どもたちに、美味しさだけを考える感覚を禁じることを教えます。このダンマは曖昧で他の部まで意味が広いです。しかし今私は、肉体に負けた人は純潔でいられず、すぐ盗み、すぐ不正をし、すぐ他の過ちをすることに注目します。だからその人に、低い自然の要求に勝つ教えを守らせなければなりません。

 百年くらい聞き慣れ、昔から言われている普遍的な倫理で「自分に勝つとは肉体に勝つこと。低い感覚に勝つこと」と言われている、それです。これを肉体に勝つと言います。その人は途端に純潔になり、目・耳・鼻等々の美味しさに勝った子は誰でも、途端に純潔な子になります。

3.恩を知る。恩を知る気持ちは、他人の恩を忘れるほど身勝手でなく、純潔で罪がないことを表します。

 タイ人の伝統習慣はたくさんあり、この項目に厳格であると安心できます。祖父母に徳を積むなど、恩を知り、恩返しをすることについて繰り返し話しました。恩を知っていれば「まだ心は純潔」と言い、恩知らずになれば純潔は終わります。だからこの部分に注目して、純潔がある道徳に仕分けします。

4.正直。生まれ子供は正直でなければなりません。私は自分で観察して見ました。小さな子はまだ嘘を知らず、他人の物を盗ることを知らず、鉛筆をやって、書き終わると返します。なぜ返すのか聞くと、和尚様の物だからと答えます。その子は泥棒の仕方を知らず、横領の仕方を知らず、まだ正直です。そして利益を知り、利益から得るべき美味しさを知った時、不正が訪れます。

 考えも身贔屓に傾くので正直でなくなり、その時嘘をつき、泥棒ができます。小さな子に、休まず正直であることを教えなければなりません。そうでなければ大きくなった時に大変です。嘘を言ったことがあれば、泥棒をしたことがあれば、大変に違いありません。

5.静寂を愛す。これは非常に問題が多いです。子どもは休まずカッとなって騒いでいるので、彼らに静寂を愛させる意味があります。私は「静寂を好まない人は自然に反す物、正常でない物、あるいは純潔でない物を愛す」と、静寂を好むよう教えます。静寂、あるいは静かさを恐れるべきではありません。

 静かな場所に座ること、そして静かな場所で何かを考えることを好むのは、幼い時から静寂な場所を好む方が良いという意味です。簡単に映画館や劇場を嫌い、迷って煽情的な娯楽に狂う人になりません。

6.静かさを愛させる。これは感覚についてで、場所についてではありません。静寂な気分を愛し、静かな幸福を愛して兄弟と喧嘩しません。喧嘩をしたら、親は「どちらが正しく、どちらが悪いか」聞く必要はありません。どちらも静まりを愛さないから喧嘩になるので、双方を罰します。一方が静かさを愛せば喧嘩になりません。片方の手で叩いても音はしません。

 静寂を愛し、静まっていることを愛すのは自然の純潔で、これと違えば純潔でないに違いありません。

7.両親を尊重させる。これはたくさん説明しました。親とは何か。正しい見解は「両親はいる」と教えます。間違った見解は両親はいません。ブッダは「親は子の最初の先生。子の梵天。子の阿羅漢」と教えています。自分でその話を探して詳しく読んでください。私たちは「命をくれた人。そして食べ物の食べ方から座り方、歩き方まで、何でも与えてくれた人」と親を敬わせることから始めます。だから親を敬うことは自然の規則に則った正しさなので、子どもの純潔と見なします。

8.三宝にアヌサティ(隨念)がある。ここでの三宝という言葉は、宗教の心臓部、あるいは基礎と広い意味にします。すべての子供は宗教がなければなりません。宗教に対する気持ちがあり、宗教があると認め、いつでも宗教の心臓部である物を思っていなければならないこと、それをアヌサティ(隨念)と言います。

 だから子どもは「ブッダ・プラタム・僧」と話すことを知らなければなりません。そしていつでもブッダ・プラタム・僧を思い、何かが私たちを見守っているように、それのない隠れた場所にいると感じません。神様、あるいはブッダ・プラタム・僧が昼も夜も私たちに話しかけているのと同じと見なし、そして私たちは尊敬し、罪や何かを畏敬し、その子の年頃で思えるだけ常に三宝を思います。

 親が怠け者でなく、愚かでなく、身勝手すぎなければ、ブッダ・プラタム・僧について子と話す時間がなければなりません。少なくとも一日一回、寝る前などでも、どんな意味でも良いです。それも道徳の一項です。それを三宝のアヌサティと言い、純潔にします。あるいは考え、話すこと、すること、何でもその子の純潔のためになります。

 その子は、いつでも後ろで見守ってくれる人がいると感じ、神様を信じる人たちが「神様がいつでも守っているので過ちはできない。あるいは困った時はすぐに神様が助けてくれる」と信じるように、私たちの子供も困った問題があれば、すぐにブッダが助けてくれると信じ、期待できます。ね、私たちの子供は純潔な心があります。

9.「平らな心」という言葉を使います。空っぽの心と言えば、子どもには多すぎます。子供も平らな心を持つことを目指し、自然はどのようか、私たちはどのようか、両親をどのように愛すかを教え、自分たちは自然に経過しなければならない物と知ります。愛や何かがあっても「俺、俺の物」であるほどではありません。そのようなら多すぎます。それは空の心の話すぎるので、平らな心にし、愛、怒り、嫌悪、恐れが生じるほど、何かに執着しません。

 子供の問題は愛が一つ、怒りが一つ、恐れが一つ、嫌悪、嫉妬などいろいろあり、これらは身勝手、あるいは平らでない心から生じるので、心を平らにして、心が平らな時間を多くすることを教えます。怒りが生じたら、「心が平らでない」と忠告し、怖くなって泣いたら「心が平らでない」と言い、急いで振り払ってしまいます。平らな心があることは、純潔の一つです。

10.偏らないこと。偏りをアガティと言います。アガティでなく、アガティにならず、そっち側、こっち側の肩を満たず、自分自身の肩も持たず、間違ったら責任を取り、他人と関わる時はあっち側こっち側を助けて偏りを生じさせません。兄弟喧嘩は偽証をせず、些細なことから他人に関わること、証人や何かに関わることまで、偏ってはいけません。この偏りを「罪」「汚れた物」と見なし、子どもは偏りを善くない物、自分にあるべきでないと恐れるべきです。

11.意地っ張りでない。簡単にちょっと話して、意地っ張りであることは不潔と見せます。他の親の他の子が意地っ張りで、鞭で打たれ、叩かれ、何か非常に大騒ぎしている光景を自分の子に見せ、傍らにいる自分の子に、意地っ張りはどのようか見せて教えれば、子の心は意地っ張りを嫌う方向に傾きます。

 意地っ張りでないことは純潔の一つで、体と言葉と心の清潔を生じさせると見なさせます。意地っ張りを崇拝しないのは、両親は比べる物がないほど自分を愛し、自分に悪くすることは何もないからです。だから両親には何でも譲り、青少年になっても、若者・娘になっても意地っ張りでなく、両親の望み通り何でも犠牲にできます。これはスッディの部類、つまり純潔と仮定しておきます。

12.清潔に食べなければならない。これらの言葉は、憶えやすいように新しく作りました。不潔な物、例えば盗んだ物を食べるのは不潔な物を食べます。あるいは不正に手に入れても、それは不潔な物を食べます。だから食べる物は「正しく手に入れた」と言うことができ、主張できなければなりません。不潔な物なら食べません。この説明は遠くまで行くことができ、すぐに他の人に支障があります。

 青少年の道徳の最初の部であるスッディ、純潔、あるいは正しさについての十二項目は、これだけの例で十分です。次に第二部を見ます。すぐに時間が無くなります。


第二部 智慧。知るべきことを知ります。

 短く言えば行為、あるいはすべての行動が「何のために生まれたか」という人間の目的で良い結果になることに賢くします。正しい知識があれば、あるいは自分の状況に十分な知識があれば智慧と呼ぶことができます。そして膨れ上がらず、何も溢れません。

1.子に、苦になりにくい智慧を持たせる。つまり子に、他の子が苦である時も、自分は簡単に苦にならないよう教えます。これは二番の「簡単に幸福になる」と対で、「苦になりにくい」は、普通の人が何かの話で座って苦しみ、座って泣いている時、例えば物を失くして泣く、思うようにならないで泣く、親が死んで泣くのまで苦と言い、子に苦になりにくいよう教えます。つまり考えることを知り、思うことを知り、悟ることができる智慧があれば、苦を知らないほど最高に苦になりにくくします。

2.簡単に幸福になれる。他人が有益にできない、あるいは幸福にできないことを、我が子はできなければなりません。だからお金を浪費せず、苦労をせず、何かたくさん必要とせずに幸福になれます。有り余る物が無く、有り余る物を買うためにお金を探す必要がなく、カヤツリグサの茣蓙に寝ても、彼らがマットレスや何かを買って来たのと同じ幸福になれます。

 我が子は茣蓙に寝たことがあり、あるいは茣蓙もなく床に寝ることもでき、幸福になれます。簡単に幸福になれます。だから何を食べるにも高価な物である必要も、苦労する必要もありません。小煩くなく食べることができ、何かで遊ぶにも高価な物を買う必要がなく、楽しく遊ぶことができます。これも「簡単に幸福になる」というもので、非常に多いです。しかし苦になっても、苦になりにくいです。

3.4.本当の智慧があれば低い暮らし、あるいは低い生活で、第四項の「高い行動」と対です。第三項の低い生活は、苦になりにくく、幸福になり易く、高価な物を食べる必要も、豪華な形式で食べる必要もないのとにていますが、いろんな健康衛生の知識で正しいです。高い生活なら健康衛生に良いと理解しないください。本当は自然の簡素な生活の方が正しく、衛生に適い、自然に適い、利益があります。

 だから教え、提案し、誘い、あるいは低い生活の手本を見せます。そうでなければ毎日少しずつ、我が子の首を絞める親です。つまり低い生活は、低いのは暮らしだけで、体・言葉・心の行動は高く目指します。何のために人間に生まれたのでしょうか。だから身勝手でなく、最高に高い物のことだけを考え、そして犠牲にできます。これを「高い行動を目指し、今回生まれたからには、人間にできる最高に善くしなければならない」と言います。

5,理由のある人という意味です。理由の威力の中にいて、愚かで信じ易くありません。だから智慧がある人で、大騒ぎをしません。どうするべきか、どれだけすべきか、どれだけ持つべきか、何を信じるべきか理由が教え、理由の威力の中にいます。理由の威力下になく、話が通じないより良いです。

 聖向聖果涅槃に到達するまで、取り敢えず理由の威力下にいて、それから理由の上にいるようになります。しかし普通の凡夫の段階、特に子どもは理由の威力下にいてください。そうすればいろんな問題はありません。たとえば恐れるべきでない物を恐れる、あるいは将来に宮殿を建てるので節度を超えるなど、あるいは今迷信か何かをするなどは理由がありません。自分で見てください。

6.人物を教える。「目を見れば分かる」などから、人物を観察する智慧を持たせる。賢い子は目を見るだけで、この人は自分を好きか嫌いか分かり、近づくか、話すか、付き合って連絡を取るべきか。このように人を知ることを教えます。本当はこのダンマは、サップリサダンマと呼ぶ高いダンマですが、子どもにもできるように下げて、将来善人になる基礎にするのに最高に善いです。

7.社会、あるいは集団を知る。つまりこの群れは今どのようか、施設、団体、群れを知ります。離れて見ていて理解させます。それから連絡をし、あるいは何かが欲しければ、人でも社会でも協力を求め、あるいは交際し、生死を共にする付き合いをしても良いです。人物を知り、そして人物の集まりと社会を知らなければなりません。

8.時を知る。子供は「話すべきか、まだか」、母の邪魔をするべきか、他の人の邪魔をするべきか、時をあまり知らず、そしてあまり時を維持しません。時という物はどのような価値があるか、どのように維持しなければならないか、どのように実践しなければならないかを教えます。

 時を誤れば何も利益がなく、すべてが水の泡になるので、いつでも時に間に合うようにしなければならない、最高に重要と教えます。中にはあまり真面目に勉強せず、時間の価値を知らない子もいます。時間の価値を知っている子は急いで学びます。他人に遅れるのを恐れ、あるいは学ぶ時間が無くなるのを恐れるからです。

9.自分を知らなければならない。自分を知れば、自分以外のその他のいろんな物を知るのが簡単です。子どもに自分を知り、「自分はいったいどのようか」自分を見るよう教えます。自分の肩を持たないで、自分が間違ったら間違いでなければならず、自分が正しければ正しくなければなりません。自分にどれだけ能力があっても喜ぶべきです。

 親の子である自分はどのように貧しいか、あるいは豊か、自分自身を知るべきです。そうすれば丁度良くなります。自分を知らず親を知らない子は、親に対しても自分自身に対しても、すべて間違います。

10.敏捷でなければならない。敏捷さがあれば賢く素早いです。機知は素早い智慧で、彼らは、機知は瞬時に正しく答えるほど素早いと言います。混同しないでください。智慧は知識ですが、間髪を入れないという意味はありません。機知、あるいは俊敏は、間髪を入れないことを意味しますが、智慧でも機知がなければそれも大変で、あまり成功しません。

 時間に間に合わない、あるいは正常でない、あるいは平らでないからです。それは敏捷でなく、智慧が奥深くにあり、遅く、亀のようにノロノロ這うからです。しかし智慧があるのは同じで、大地のように厚い智慧があることもありますが、遅いです。

 だから考え、決断する速さの特徴を、パーリ語でパティバーナ(機知)と言い、タイ語ならワイプリップと言います。間髪を入れずに問題に答えられるように、子どもたちを訓練します。子どもなりに小さな問題を推測するのも、全部機知があります。先祖が作っておいた伝統習慣は、子どもが機知で答えて楽しく遊んだことがあり、満足し、道徳を消滅させません。今それは変化し始め、現代は道徳のない話をするので、機知を創造する援けになりません。

11.正しい見解がある。この話は意味が広いですが、誰でも「正しい見解とは何か、誤った見解とは何か」良く知っています。子どもの正しい見解を広く拡大し、特に道徳と宗教に関わる話は、正しい見解という言葉をこのように大切にします。だから正しい見解という言葉を学んで、話の形に合うように調整します。

12.信仰という言葉に言及したいと思います。正しい見解があれば、信仰と呼ぶ物が安全にあるのは確実です。誤った見解なら信仰も誤りがあり、誤れば大変なことになり、迷って信仰が誤り、間違って歩きます。私たちは正しい信仰がなければなりません。そして正しい見解、あるいは正しい見解と呼ぶ智慧の後を追わなければなりません。

 次に信仰と呼ぶ言葉をあらゆる角度に拡大します。仏教の信仰、信仰すべき人物への信仰。私たちは智慧があるので見分けがつき、自分自身への、自分の能力への信仰まで、自分を信じ、自分を確信し、あるいは何でも自分を信じることがあります。ほとんどの子は、私が質問すると恥ずかしがって、話す勇気がありません。自分自身の信仰がないからです。だから自分自身に信仰があるよう訓練します。

13.繊細、14.周到、15.熟考好きと言います。この三項は入れ替えて使えるほど似ていますが、同じ意味でない物にして、本当に揃えたいと思います。

 繊細は深いという意味で、周到は四方に広くという意味で、知識があること、知性、浅くしたがらない、表面的にしたがらない深い何か、このようなのを繊細さがある、繊細な智慧があると言います。周到と言えば四方に広いです。これはどんな予備の教育があり、どんなしつけを受けたか、その子の環境次第ですが、無限に拡大できます。だから小さな時から静かな場所、静かなことを喜ぶよう教えれば、簡単に繊細、周到になります。

 熟考好きと言えば衝動的でなく、熟考に熟考を重ねます。子どもは熟考好きでないので、心に合わないので、私たちは習性を良く訓練しなければなりません。

 繊細、周到、熟考好きは似ているので、彼らが混同すれば十分な利益がないので、区別を知らなければなりません。

16.は食べることの適量を知る。この「食べる」は、食品だけでなく、何でも適度に、丁度良くします。これも本当の智慧です。過ぎるのは善くなく、不足も善くなく、太るのも良くなく、痩せるのも良くないと言うように、何でもそのように、17.は暮らしに、あるいは食・住に、あるいは何を使うにも適量を知る人にします。

18。自分を拠り所にすることを期す。これも智慧の一つです。外部の物に頼る人は智慧がある人ではありません。両親に頼らなければならないのは初期で、結局本当の意味は全部、誰でも自分に頼らなければなりません。これは良く説明しなければなりません。ブッダに頼ると言い、それでなぜ自分に頼るのでしょうか。

 ブッダに頼るとは、自分に頼るために教えを受けるので、要旨は自分に頼ることにあります。ブッダは自分自身に頼るよう教えました。それが「ブッダは私たちの拠り所」です。聞くと滑稽です。ブッダは私たちに「自分に頼る」よう教えることで、私たちの拠り所になります。

 だから子に、自分に頼ることを期待するよう教えます。そして自慢せず、親にも誰にも高慢ちきにならず、「見ててご覧。もうすぐ自分に頼らなければならないことが追って来て増えるので、今から準備しておいて、精霊に頼ってはいけない」と承知させておきます。こういうのを外部の物に頼らないと言います。

 外部の縁に頼らず、内部である自分に頼るという広い意味があります。精霊や神々などはたくさんあります。精霊と言う言葉は意味が広く、各種の外部の物に頼りません。分類する時間は無駄なので「外部の因と縁に頼らない」と勝手に理解しても良いです。

 外部の因と縁に頼らなければならないなら一時の話で、何らかの物に依存しなければならないなら、自分に頼る道具です。例えば船に乗って行くのは船に依存するのではなく、自分に頼って何としても向こう側へ渡る道具として船を使います。言葉は錯綜し、曖昧です。よく注意してください。自分に頼るのは、良く教えなければ子どもは高慢になり、大混乱になり、愚か者になるので、正しく理解させ、正しく自分に頼る話でなければなりません。

19.運を信じない。つまり星、運、何でも呼び方次第の外部の頼る物に自分を預けません。それをカンマに頼らないと言います。自分に頼ればカンマに頼ります。自分に頼らなければカンマに頼らず、外部を頼りにします。そのような物に頼るのは、すべてを集約した言葉がなければなりません。

 正しく言えば理解しにくい物である外部の縁で、昔から人々が使っている「宿命」という言葉です。若者もまだ信じていて、そこが愚かです。宿命と言うならカンマ、あるいは以前にした自分の行動の結果という意味にしなければなりません。

20.人間の理想を教える。「人間とは何か。何のために。どのように高ければ人間としての理想と呼ぶか。一度生まれて人間になったら、どのようでなければならないか。しょっちゅう泣いてはいけない。あるいは困窮するのは、愚かさ、迷いを振り払えないから」と、人間らしさを教えます。人間らしさを知っていれば、人間に生まれたのは、苦にさせる物が何もなく、永久に安楽であるためです。苦になり難く、幸福になり易いと最初に話したのと似ています。

 だから理想は、苦がまったくないことです。苦が訪れたら、それだけで、原因も何も探さなくて良いです。「俺は苦になるために生まれたのではない」と知り、「俺は何のために生まれて来たのだ」と考え直せば、間もなく、俺は何のために生まれたか、とどんどん気づきます。

 だから最初から苦を受け入れて座って泣いている人は、人間であることの理想を知らない人、愚かな人です。人間とは、述べたように高い心という意味で、泣く必要はありません。だから子どもたちは智慧を持つよう、人間という言葉の理想を知るよう、アドバイスを受け入れるべきです。

21.自分の中の世界を知らせる。学校では丸い土の塊である地球の外側に私たちが住んでいる話しか教えません。地学や科学で教えるのは、丸い地球ばかりです。私たちは子どもに、自分の中にある世界を、ブッダの意味で教えます。何がどのようか考えた途端に、それは自分にとって存在します。

 美しい世界、醜い世界、苦である世界、穏やかな世界でも何でも、心が創ったようになります。だからいろんな世界は自分の中にあります。過去の世界を知れば有利になり、自分の中にある世界をブッダの教えで知ることで、自分が得るべき最高に良い世界に住むことができます。

22.アパーヤ(悪趣)とアパーヤムッカ(悪趣の原因)を教える。これもたくさん話したことがあります。簡単に見ることができるアパーヤは、地獄・畜生・餓鬼・阿修羅です。心が焦燥すれば地獄、愚かになれば畜生、飢えて渇望すれば餓鬼、臆病になれば阿修羅です。

 一般庶民にアパーヤの話で見えるのは、アパーヤムッカ=アパーヤの門です。酔う水を飲む、夜遊びをする、演じて見せる物を見る、賭け事をする、悪人と友達になる、仕事を怠ける。この六つをアパーヤムッカ、悪趣の門と呼ぶと、自分で学んでください。

 アパーヤムッカのいずれか一つに近づけば、アパーヤである地獄・畜生・餓鬼・阿修羅のいずれか一つに落ちます。子どもにアパーヤとアパーヤムッカをセットで教えなければなりません。文字で教えないで、彼らが受け取っている彼自身で教えます。あるいは近所にいるアパーヤに落ちている見本である人を指摘して見せても良いです。これは良く注意します。

23.天国と天国への階段を教える。天国とは、純潔な安心で、自分自身を拝むことができます。これを天国と言います。いつでも、その時正しい面で自分を好きになれれば、天国と呼びます。そして天国への階段は正しくすることです。これは非常に詳細にあります。体・言葉・心が正しいのは天国への階段です。アパーヤにアパーヤムッカがあるように、天国には天国への階段があります。

24.欺瞞を知る。25、サッチャ(真)を知る

 欺瞞も、私たちが知らない間は真実で、一時の真実です。そして事柄が生じ、結果が生じ、いろんな物が生じます。だから欺瞞は騙している間は真実と言います。本当の真実は永久に真実です。私たちは一時的な真実、あるいは欺瞞に、今まで休みなく騙されたことがあります。良く見てください。小さな時、私たちが知っただけ、子どもは知るだけ真実と信じていました。

 大人が教えても信じようとせず、自分が大人になるとたくさん知り、真実は、仏教の教えで本当の真実を知るまで変化します。それです。一時的な真実を「欺瞞」と言います。それは真実で、真実と感じ、本当にありますが、次々に変化する欺瞞で、本当でなければ嘘です。サッチャ(真)を、行動したら本当に結果がある状態の真実と言い、騙しません。

 次に、子どもが毎日大きくなり、毎日大きくなって青少年になって、若者になった時のために高くし、高い話を知る時の準備をします。

26.一般の意味の聖諦を教える。「それは何か。原因は何か。何のために。どんな方法で」を知ります。聖諦の教えは論理的で、苦とは何か、苦が生じる原因は何か、滅苦は何のためか、滅苦の道はどんな方法か。これも「それは何か、それは何から生じるか、それは何の利益のためか、そしてそれはどんな方法で成功するか」を知らなければならないと、四聖体の話が分かります。

 こういうのを「聖諦を何の話に使うこともできる」と言います。どんな話もこの四つの規則でなければなりません。これは非常に、最高に理由のある話ですが、私は「聖諦を知る話は聖人の真実の話で、他の物に託さない」と分けます。

 次は、順に高くなる文章、あるいは言葉を知らせます。

27.サンカラという物を「それだけで、それとして存在する物は何もない」と教えます。それはいろんな原因と縁でできているので変化します。それがサンカーラです。だから目の前にある何か、あるいは今体である物、あるいは食べている物、使っている物に、あまり執着してはいけない、それはサンカーラであると教えます。

 サンカーラは加工する物で、加工する原因と縁で変化しなければなりません。私たちの周りはサンカーラがいっぱいです。私たちの内部もサンカーラ、身体もサンカーラ、心もサンカーラ、心の考え感覚もサンカーラです。サンカーラを知るのはこのように知ります。しかし子どもを阿羅漢にすると早合点しないでください。私はそのように叱られたことがあります。クルンテープで彼らに「阿羅漢の話を庶民にする」と叱られました。

28.29.30.は三相の法則を知ります。これは最高に高く、無常・苦、無我の三つです。子どもも分かります。分からなくはありません。「それは変わらなくはない。そして変わるのは嫌らしい。不変でない物は嫌らしいから苦。そして無我は、自分、あるいは自分の物と考えない」。このように知れば賢い子です。十五歳で阿羅漢になっても自由です。なってください。なれるなら。心配しないでください。

 「どっと流れて渦になり、変化する」と彼らに無常を教え、「それは厭わしいので、愛してはいけない。無理に愛せば苦になる」と苦を教え、「それは思いのままにならないので、それが変化してこのように厭わしい時、どこにも自分はない」と教えます。

31.イダパッチャヤター(因果。縁生)の法則を教えます。これはたくさん説明しました。いろんな物は単独では存在できません。例外は涅槃、あるいは空だけです。いろんな物とは「これがあれば、これもある」という流れです。それがあればそれがあります。こういうのをイダパッチャヤターと言います。こういうのは大変ではありません。彼らは高校程度の高い科学を勉強しているので、イダパッチャヤターはどのようか、簡単に知ることができます。

32.カンマの法則を教える。カンマの法則を「行動には必ず報いがある」と、明らかに教えます。行動があれば反作用があります。その行動が、心がある物の行動で、そして意図のあればカンマと言い、意図がなければ動作と言います。意図がある動作をカンマと言います。良い経過だけになるよう注意してください。

 意図がなければ動作・行動と言い、それが苦でも幸福でも、意図がないので責めることはできません。意図があってした行動だけ責任を取ります。これをカンマの法則を知っていると言います。「この子は間違いをしない」、あるいは「するべきでないことをしない」と保証できる物です。

33.輪廻の法則、つまり循環する物の循環を知ります。これはたくさん説明しました。仏教教団員である人は、たくさん聞いたことがあります。煩悩・カンマ・報い。私たちの日常生活では誰でも輪廻があります。何かをしたがるのは煩悩で、それをするのはカンマで、行動の結果を受け取るのが報いです。

 報いを受け取ったら、別の物を欲しがり、まだ続いて煩悩があり、そして行動し、そして結果を受け取ります。人の中に輪廻があります。日常的に、毎日。これも注意してください。非常に重くなれば、泣かなければなりません。正しくすれば、期待通りの結果があり、輪廻の法則を知っていると言います。

34.ダンマの言葉でダンマヴィチャヤと言う「選ぶこと」を知る。いろんな物はたくさんあるので、あるいは実践、あるいは実践規範はたくさんあるので、物質面でもダンマの面でも、あるいは実践面でもたくさんあるので、選ぶことを知らなければなりません。たとえばブッダは八万四千のダンマを話され、私たちは実践しきれません。

 あるいは世界の正しさ、善美などもたくさんあり、全部は実践しきれないので、自分に関わりのあるものだけ、あるいは人間にとって本当に必要な物を選ばなければなりません。今このような状況で、どのダンマが自分にふさわしいか。子供である自分は、何を選んで学ぶか。こういうのを選別と言います。

 愚かな子のほとんどは、学問を学ぶべきでないのに勉強します。それも出鱈目になり、両親も苦労します。選ぶことを知らないからです。しかし子を責められないこともあります。それは協力しなければならない親次第ですが、子どもが大きくなって、中学生になって進学する時、自分自身で選ぶことを知らなければなりません。親に反抗しないでください。親を騙さないでください。

 ダンマの面も同じです。ダンマのどの項目をどのように、どれだけしっかり実践するか。これも選ぶことを知らなければなりません。次に心が選ぶことを知っていれば、研究も知ります。集めなければ何を選ぶか分かりません。だから全部を研究して見なければなりません。まだ見たことがない物、見つけたことがない物を探求して研究したら、それを選びます。

35.教育を愛す。教育という言葉は何を意味するか、もう説明しました。「あいうえお」を勉強するのも教育で、知識や職業を学ぶのも教育で、聖向聖果涅槃の実践も教育です。教育を愛さなければなりません。人間は正しい教育によって進歩するからです。

 だからすべての段階の教育という言葉に関心を持ってください。あいうえおの勉強も、学ぶことを愛さなければなりません。そうすれば知ります。あるいは便利、あるいは楽しいです。今彼らは教育を愛させる方便で騙します。私はほとんど話す必要はありません。

36.知るべき物を知る。細かい物を詳細にまとめると、実にたくさんあります。知るべき話の見本を挙げます。

イ 子は、親と呼ぶ物は何かを知らなければなりません。これは、子を胎内にいる時から哲学者にする規定に近いですが、本当はそれほど多くありません。少しずつ彼らに理解させる努力をし、適度まで成長すれば、「親とは何か。どれくらい愛さなければならないか。何を、どれくらい、どのようにするか」を知ります。

 「それは何か、親とは何か」と同じで、小さな子は全部は知りません。それは深遠すぎます。心の面の親の状態、あるいは価値はたくさんあり、深遠で広範ですが、子に「親とは何か」を知る努力をさせなければなりません。

ロ 先生とは何かを知る。今子どもは先生を知りません。先生に対する態度を見ると、「おーい」とか「やい」とか呼び、先生に危害を及ぼすことまであります。何種類も、幾つも絡み合った原因による誤解があります。例えば、先生は政府から給料をもらっていて、それは私たちから集めた税金であるなど、こういうのは、先生の意味がすっかり変わってしまいました。

 昔の人は、人の精神を高める類の人物がいなければならないと、誰でも知っていました。だからその人にこの義務をさせ、自身で作って食べる必要はないので、私たちが食べ物を差し上げなければなりません。それが給料です。商売のような交換の話にしないで、親は生まれさせた人、先生は精神を高める人と教えます。

ハ 友という言葉の意味を教える。友と呼ぶ物は何か、友人なしには暮らせないと教えます。特に生まれる友、老いる友、病の友、死の友、これは避けることはできない自然の友です。

 昔の人は、ジャータカの中の長者の息子四人が、猟師から肉を貰う話のように、友という言葉に重要性を与えました。「おい猟師、俺に肉をくれ」と頼んだ人は水掻きを貰い、「兄さん、儂にもくれ」と言った人は肉を貰い、「父さん、儂にもくれ」と言った人は心臓を貰い、「友よ。私にもください」と言った人には全部やりました。

 人は、輪廻の中の生老病死の友を意味する「友」という言葉が好きです。このように友を教えます。今は偽の友で、それは友ではありません。しかし愚かな人は偽物を友と見ます。だから悪い友を持って悪を行うので、一緒に地獄へ落ちます。地獄へ連れて行く友を知らないでください。天国へ引き上げてくれる友を知る方が良いです。

ニ 国とは何かを教える。今子どもたちは国を知りません。大きな人も国を知りません。いろんな場合、国と敵対することから始めます。国でも政府でも何でも、「彼」と「我々」という言葉を使います。子どもたちに「国とは何か」を先に教えるべきです。生老病死の友である私たち全員の中で、散らばらないように掴んでおく基礎である何か。こういうのもまだマシです。国はこのようと言えば、人は国を愛し、国を助け、振興し、支え、助け合って維持防護し、片付けます。

ホ 善・真実・美・正義と呼ぶ物を子供たちに教えなければなりません。彼らは暗唱できますが、何がどのように善か知りません。彼らは「善とは何か」を知るべきです。偽りを事実にしないでください。美、本当の美しさとは何か。彼らを迷って騙さないでください。正義とは何か。今彼らは身勝手で、それが正義です。今世界はこのようです。子供だけでなく、世界を支配する権力のある大人も、自分の望みどおりにできることを正義と言い、大きな権力を使います。

へ 子供はスポーツマン精神、「赦す、愛す、友情」を知らなければならない。

ト 子どもは美しく見えるだけのお寺だけでなく、段階的に多くなって「宗教とは何か、どのように必要か」を知らなければなりません。それは知識を越え、滅苦できるまで実践します。

チ 子供たちに、神様とは何かを教える。神様とは、私たちが避けることができない最高の物で、本当にあり、いろんな物を創り、いろんな物を支配していて、いろんな物を破壊できます。しかし彼らが描いて神様と教えているように、長い髭を蓄えて杖を持っている必要はありません。絵で表すことができない物で、抽象以上に抽象です。それが世界を創れる、世界を壊せる、世界を支配できる神様です。ほとんどはカンマの法則、自然の法則に注目します。

リ 神様を知ったら「人間とは何か、神様とどのような関りがあるか、宗教とどのように関りがあるか」と話したように人間を知り、人間らしさを知らなければなりません。

ヌ 人間を知ったら、命と呼ぶ物を知らなければなりません。命とは一体何なのか。何種類あるのか、何段階あるのか、どの段階がもっとも重要なのか、身体的な命も一種類、心の面も一種類、知性の面も一種類、命を正しく教えます。

ル 次に命と繋がりのある物を知ります。例えば欲情は何か、どれだけの意味があるかを教え、本当に知れば欲情面に迷わず、嫌います。そして生殖とは何か、それは欲情ではないと知ります。生殖は自然が与える物の一つです。彼は欲情を賃金にして人間とすべての動物に、生殖の義務をさせます。それは大変で、不潔で、見っともなく、いろいろですが、良い物で、つまり欲情で騙されて雇われます。このように知らなければなりません。

オ 最後に、涅槃とは何かを十分知ることで、涅槃で暮らすと言えるまで、社会の平和と、人の静かな幸福と呼ぶ物を知ります。私たちには、何十項目も話したようないろんな知識があり、それは正しさなので涼しさです。涼しくなければ熱く、熱ければ涅槃ではありません。熱くなければ涼しく、涼しければ涅槃です。本当に最高に確実に涼しければ、完璧な涅槃です。今は取り敢えずの涅槃で、知らないより良いので、涼しさの中で自分を維持することを知ります。

 智慧に関する、つまり知識についての道徳の部は、何かを知っても全部ではありません。私が見本として挙げたのは、我慢できないくらい多いかも知れません。まだありますが、見本としてはこれで良いです。智慧と呼ぶ三十六項目の最後は、十二種類もあります。

 時間もなくなり、この話を終わらせることもできません。半分話して、取り敢えず終わらせなければなりません。いずれにしても、持ち帰って熟慮してください。青少年のための道徳は普通以上で、口で話す、些細な一項か二項だけで十分ではありません。

 そうではありません。私たちが青少年を人間にするには、すべての道徳の項目を思わなければなりません。スッディ、つまり純潔という言葉は十二項目、智慧という言葉は三十六項目、そして最後の項目はたくさん小さな項目があります。

 さて、今日は終わらせる時間ということです。これで一先ず終わらせていただきます。




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