第五章


職業の純潔






 パーリであるこの章の説明は、次のようです。

 比丘のみなさん。みなさんの心をもっと善くしなければならない仕事は何でしょうか。それは「自分の職業は純潔で、裏返すこともでき、公開もでき、突き抜ける機会はなく、良く慎んでいるということだ」と、何としても心に留めなさい。

(マハーアッサプラスッタ 中部 ムーラパンナーサ 12巻498頁464項)





解説

この章の要旨 :

 職業清浄戒は四清浄戒の三番目です。職業清浄戒は、職業の清潔清浄である戒という意味です。ここでの職業とは、比丘が「消費する縁を得る方法」という意味です。善く消費する方法は別の戒にし、パッチャヤサンニッシタシーラ(依安住戒)、あるいはパッチャヤヴェッカナシーラ(省察戒)と言います。これは第五章で順に講義します。

 四依とは衣・食べ物・日用品を含めた住まい・治療薬で、サマナである状態に相応しく、比丘が規定に則って正しく求めなければならない物です。不適切に求めれば、サマナの規則から外れます。俗世の人が求める正しい方法でも、「腐った職業。破戒である職業」あるいは「職業清浄戒がない」と言われます。

 適切な方法で手に入れても適切でない方法で消費すれば、職業清浄戒を犯さなくても省察戒に欠けます。どのような探求が適切か、どのようなのが不適切かは、いろんな教典から集めて説明の言葉とします。同時に幾つかの個所での観察点と推測を説明します。大きな題目に分けると、

1.職業清浄戒とは何か

2.職業清浄戒に関わるその他いろいろ、です。

 説明は項目順に記述します。




1.職業清浄戒とは何か




1.職業清浄戒という言葉の意味は何か

部分で :

 職業=命を維持して生かすこと。清浄=清浄に拭うこと。戒=静かに正常に生活する状態。三語を合わせると正常な状態を意味し、拭き取って自分の命を清潔清浄に維持して暮らさせるという意味です。

 (戒という言葉は、正常な状態と訳しても、体と心の面の経過だけを意味します。心の面を意味しますが婉曲的です。そしてこの言葉は第三章で詳しく説明したので、繰り返しません)。

要旨で :

 嘘を言い、切りもなく喋る、説得する、人の遣いをする、思いがけない儲け物で儲け物を増やすなど、自分の職業のことばかり考えて戒条を犯す比丘が、いろんな低劣な方法でする誤った職業を避けること、これを職業清浄戒と言います。(清浄道論)

他の観察点で :

 心を慎重に維持し、不正に手に入れた物を消費したがらないのは、この戒の状態です。比丘が常にサマナの探求が規則を外れないよう注意する最高の努力は、この項目の戒の成り行きです。比丘がその物を安心して消費でき、吐き気を催すように感じる必要がないのは、これはこの戒の特徴です。

 そして双方の人の穏やかな幸福で、つまり支援者も不正な比丘に騙されず、比丘もその物を消費することで満足します。これはその戒の現像(それがここにあると証明するもの)です。望みどおり体を栄養する食べ物を得、心を栄養する喜悦歓喜を得、この戒で慎重にする比丘のサマーディを支援します。これはこの項目の戒の功徳です。

2.清潔でない職業はどのようか

 よりハッキリさせるために、それらを求める時は誤った職業でなく、当然正しい職業であると、反対の状態を述べるべきです。「比丘のみなさん。この宗教の聖なる弟子は、誤った職業を捨ててしまい、正しい職業で命を維持します。私はこれを正しい職業と言います」。これは保証するブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)です。(大念処経 長部 マハーヴァーラヴァッガ)

 誤った職業、あるいは純潔でない職業は、騙すことで求めたことが一つ、そして直接規則を破ることが一つです。だから手に入れた物は食べるべき(消費するべき)でない物になります。種類を先に述べます。

イ 騙して求める。アッタカター(清浄道論)の著者はこれを「クハナー=だますこと」「ラパナー=グダグダと切りもなく話す」「ネーニッティカター=説得」「ニッペシカター=挑戦的な話し方で傷つける」「ニチグーサンター=間接的に儲けを探す」という名前で説明しています。次のような観察点で説明します。

クハナー=騙すこと。師は三つの例を説明しています。支援者が衣を献じたい旨を明らかにし、その比丘も欲しいけれどわざと辞退し、自分は知足の人で野望がないと支援者に理解させ、「まあ、この方は称賛に値する。何も受け取らない高いダンマがある比丘だ。もしあの方が何かを私たちから受け取れば、私たちはたくさんの徳を受け取る」と、騙します。

 だから最高に上等な衣を探して来て、しつこく献じたがります。彼は受け取らない振りをして、「支援の志だけを受け取れば、支援者は徳を受け取る」と言います。支援者が十分呆けると、興奮して献じるあの人この人から、ひそかに荷車ごと受け取ります。こういうのが一つ。

 もう一つのハーレッサは、自分には最高の徳があると理解せる方法で説得します。ハッキリ言えば、破戒や大罪に触れて嫌われるのを怖れるので、このような態度があり、肌の艶がある人は阿羅漢だと言いう主旨で話すのを避け、彼らに永遠に献じさせます。

 もう一つ、外面の厳格さを塗り重ね、世界が最高に厳格と言って好む状態で食べ、寝、立ち、歩き、見、振り向きます。何も全部話さなくても、徳が欲しい支援者が続々と供物を献じに来ます。この三種類をクハナー、騙すと言います。

 ラパナー=切もなく喋る。つまりおべっかや探りを入れます。著者は次のような例を説明しています。支援者が寺に来たのを見ると「僧を招聘に来たのかね。それなら、私が比丘たちを引き連れて行くよ」と挨拶します。もう一つ、「王とあの名前この名前の家臣が私に帰依している」と自己紹介する努力をします。長者を褒め、機嫌を取り、お世辞を言う、支援者が離れる恐怖は、この話に含めます。

 誰かがサトウキビを持って歩いて来るのを見て、どこから持って来たのか質問すると、「あっちの畑から」と答えます。美味しそうかね? 「試して見れば分かります」。比丘が「私にくれなさい」と言うのはふさわしくないのじゃないですか。だから彼は献じます。

 二人の比丘が一人の女性の家の近くに座って、一人が質問して、一人が答える状態でその女性に聞こえるように喋ります。「その人は誰の子供?」「私たちの支援者の子です。彼女の母は油をお供えしないで、当然いつもバターを僧に献じています。この人も同じに違ありません」。これもラパナーの状態です。

 これ以外にも、真実、プラタム、そして身分相応について考えないで、甘いことを言って愛させるゲーンクアのような話し方(あまり煮過ぎない方が美味しいと好まれるスープ)、そして赤子を抱くことでその家に好まれるようにするおべっかも、この項目に含まれます。すべては自分の職業だけを考えているからです。

 ネーミッティカター=説得をする。支援者に物を献じさせるために誘惑する回りくどい身業、口業を意味します。直接ねだるのは恥ずかしいので(比丘には戒があり、律に反すから)、ニミッタを見せ、あるいは知る機会を与えます。

 家の人が牛の子を飼っていて、母牛が引かれて行って搾乳しているのを見ると、比丘はわざと「これは乳牛の子かね、それとも油牛の子かね」と質問し、彼が乳牛の子と答えると、「私は乳牛じゃないと思ったよ。本当に乳牛なら、私たちは牛乳が飲めるかも」とはぐらかします。
 最後に彼は楽しく思って、あるいは楽しさを買うために、あるいは心が狭い人でないと見せたいために牛乳を献じますが、本当の信仰で献じるのではありません。

 もう一つの話は、自分が欲しい物を手に入れるまで説得する話し方をします。ある比丘が食事をしたいと思って一軒の家へ寄り、家の周辺に座っていました。主婦はそれを見ますが、用意して供養したくないので、わざと「米がないので、米を探してくる」と言って、隣家へ行きました。

 その比丘が家に侵入すると、扉にもたせ掛けて隠してあるサトウキビ、容器の中にサトウキビを煮詰めた塊、籠の中には塩漬けの魚、鍋いっぱいの米、甕いっぱい油があるのを見つけ、出て来て元通りに座って待っていました。主婦は、多分比丘は帰っただろうと考えて戻って来ました。比丘はとっさに「今日は乞食が上手くいかないらしい。私は悪いニミッタを見たから」と言いました。

 「何を見たんですか」。女が聞きました。比丘は「サトウキビの(幹の)ように頭を上げたヘビが扉の所にいて、噛みつこうとしたのを見たよ。殺そうと思って石を探すと、容器の中に煮たサトウキビの塊があったので投げつけると、砕けて散らばって広く零れ、籠の中の魚になり、ヘビはその石に噛みつき、鍋の中の米粒のような白い牙を見た。

そして甕の中の油のように毒の唾液を吐いた」と答えました。これは話して怒らせませんが、滑稽で、そして庶民が「僧にケチる」と非難されるのを恐れれば用意し、逆らえないと見せています。

 ニッペシカター=挑戦して傷つける言葉は賢い言葉です。言って傷つけますが、怒っていないからです。たとえば「私は何人もの比丘がすれ違うのを見た。この村の人は、大きな村全体、誰も信仰がない。僧が百人来ても百人手ぶらで帰ると話していた」と話します。

 何人かの庶民は悔しがり、その言葉を覆すために供養します。当てこすりのように供養しても、比丘はこのように恥もなく、当然いつでも受け入れます。

 ニッペシカターの比丘の話す言葉を、見本として色々説明して見せ、「これかね、徳の田に草を蒔いた人の生活は。本当は草を食べる人だ」「この旦那はどんな支援者と呼ばれるだろう。永遠にどの比丘にも『ありません、ありません』と話すだけ」「あっちの家は、非難されたくないので呉れた。本当の信仰で呉れなさいよ」この種の言葉の基本は、悔しさで献じるまで抑圧して悔しがらせます。

 直接は、賢い怒りの扇情です。門の前を通る度に「あの家は何時も門が閉まっている」と話すだけで、その家の人に聞かせれば、支援者に悔しさで献じさせることができます。そしてこうするのは、自分の職業だけを考えるからです。

 ニチギーサナター=交流して儲けを探す。つまりここでこういう物を欲しがり、それを持って行って、別の物をもらうために他所のもう一人にやり、それをまた他の人にやり、また別の物をもらい、次々とそのようにして、初めの物より高価な、より良い物を手に入れ、貰い物で貰い物を増やします。

 師は、比丘がここでご飯を得ると、持って行って欲しがっている他の家の子供にやり、その時子供が欲しがらないミルク粥などを貰う例を話ています。この種の状況は、現代の私たちが見ないのは事実ですが、隠れて同じような成り行きになる他の状態を見ます。

 たとえば農家からご飯を貰い、漁師から魚を貰ったら農家で貰ったご飯と交換します。当然お金で売っているのを買うよりたくさんもらいます。通常、農家が魚を欲しがるのは、米を欲しがるより強く、そして特に一部分は、黄衣のことを考えるからです。これも職業が原因です。

 述べた例え以外にも、欺瞞、あるいは貰い物を求める道具に使って消費する何らかの不正な方便なら、すべて騙す類の誤った職業です。

ロ ブッダの規約を犯す探求

 ブッダの規定のあり方次第で、この話の規定は一般の出家集団でするのを好まない、国の害になる、低劣、迷信などを規準として依存なさっています。高いのはパーラージカ(偽りの上人法を自慢する)罪があり、その他の部分で明示しているように、破戒まで段階的にあります。

 この話では、一般的に弟子たちが厳格に遵守しているのは、畜生知識、医術、祈願、そして在家の遣いをすることです。次のように説明します。


畜生知識

 畜生知識とは、領域外で、サーカヤ族の子の弟子である比丘が行動すべき物より低すぎ、策略がある人の生業の道具であり、特に在家であるべきです。清潔を愛す人は肥に触れるべきでないように、自分を「高い人、知る人、聖向聖果涅槃を望む人」と宣言した出家は、関わるべきではありません。

 畜生知識の詳細はどのようか、パーリ・沙門果経の中のブッダバーシタで知ることができます。内容は、

 「サマナ、あるいはバラモンのある人は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、今見える畜生知識を使った職業があります。つまり体の状態を占い、善兆、凶兆を占い、落とし物を占い、雷を占い、歯を占い、運命を占い、猫が齧った布を占い、こげた鍋の儀式、招魂の儀式をし、籾殻と米をまく儀式、ローイクラトンの儀式、火を祀る儀式、入魂の儀式、

血を祀る儀式、体の器官を占い、家の建設地、田畑の状態占い、入魂、幽霊遣い、家を祀り、ヘビ遣い、毒消し師、蠍遣い、ネズミに齧られない呪いをし、鳥の声、カラスの声を占い、年齢を占い、矢を防ぐまじない、動物の足跡占いです。この宗教の比丘は、その時見える畜生知識による誤った職業を営むことを避けてしまいます。これもその人の戒の一つです。

 「もう一つ、サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、今見える畜生知識を使った職業があります。つまり宝石の状態を占い、蔦の状態を占い、布の状態、武器の状態、刀、矢、武器の状態を占います。

 女性、男性、少年少女、奴隷の状態を占い、象、馬、水牛、雄牛、牛、羊、ヤギ、鶏、ウズラ、オオトカゲ、亀、鹿などを占います。この宗教の比丘は、今見える畜生知識による誤った職業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ、サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、今見える畜生知識を使った職業があります。

 つまり「その日は兵を挙げるべき、その日は上げるべきでない。内部の王は侵攻し、外部の王は後退する。外部の王は侵攻し、内部の王は後退する。内部の王は勝利し、外部の王は敗北する。外部の王は勝利し、内部の王は敗北する。この方は負け、この方は勝つ」と、王のために兵を挙げる日を占います。

 一方この宗教の比丘は、今見える畜生知識による誤った職業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ、サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、今見える畜生知識を使った職業があります。

 つまり月食を占い、日食を占い、星の食を占い、月を占い、太陽を占い、惑星を占って「順行している、逆行している」と言い、流星、大火事、地震、雷鳴があると占い、月、太陽、星が昇る、落ちる、曇る、輝くのを、こういう結果がある、とこのように占います。一方この宗教の比丘は、今見える畜生知識による誤った職業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ、サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、今見える畜生知識を使った職業があります。

 つまり良いお湿りがある、日照りが続く、食べ物は豊富、食べ物が求めにくい、快適だ、苦がある、病気がある、病気がないと占います。点を数え、計算し、死を編集し、世俗の話を教科書で教えます。一方この宗教の比丘は、今見える畜生知識による誤った職業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ、サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、今見える畜生知識を使った職業があります。

 つまり(花嫁を)連れて来る時刻、連れて行く時刻を見、友情を結ぶ時を見、訣別する時を見、財産を貯める時を見、財産を使う(投資する)時を見、幸運不運を見、胎児を育てる薬を与え、塞ぐ呪文、縛り付ける呪文、払い落す呪文、忘恩の呪文を唱え、霊媒師、山の女神を呼んで質問し、神に質問し、鼻と蝋燭と線香でお天道様を祀り、大梵天を祀り、火を噴く呪文、招魂の呪文を唱えます。

 一方この宗教の比丘は、今見える畜生知識による誤った職業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ、サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、今見える畜生知識を使った職業があります。つまり神様に思いがけない幸運を祈願し、鼻と蝋燭と線香でお礼をし、霊から家を護る呪文を教え、オカマを男にし、男をオカマにし、地鎮祭を行い、家の建設用地を鼻と蝋燭と線香で祀り、聖水を撒き、火を祭ります。

 一方この宗教の比丘は、今見える畜生知識による誤った職業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。


医療

 何も報酬を求めないで庶民を治療する比丘である医師は、パーリ(ブッダの言葉である経)もアッタカター(解説書)も、両親などに対してする例外を除いて、ぴどく非難しています。恥を知る比丘は、医療によって得た縁を消費しようとせず、雇われたと見るのを好みます。

 説教の際に蝋燭に添えられたお金を使うことに注目すると、雇われるのと同じに見えます。ダンマを教えるのは出家の直接の義務であり、彼らが信仰で献じると、尊敬を表す物として消費すると見ることができます。

 一方治療は比丘の道外の話です。義務(職務)でなければ熟練してなく、人を危険にする原因です。稚拙な知識は時間を失う原因であり、三学と学習から遠ざかる原因で、ライバルである他の種類の出家たちから軽蔑されるものです。特にブッダの時代は、どの側も、治療はアナーガリカ(宿なし)である人、出家者がするべきことより低すぎる仕事と言うのが好まれたからです。

 そしてもう一つ重要な原因は、引き受けて自分をその家の使用人に落とす道です。引き受ければその家の医師、その家の専属医師になるに近いです。しかしこれは、普通の庶民でも助け合う範囲で些細な病人を援けるという意味ではありません。自分の近所で、誰かが何かの病気が生じた時、例えば歩いていて倒れている人に遭遇した時、持病の薬を持っていれば分けてやり、適切な解決をします。

 公衆のためにする医療の話は、ブッダの時代は弟子が非常に非難したものでも、今は軽減して行動することがあります。大抵は、人を引き寄せて宗教を信仰させるもの、あるいはより宗教と親密にさせるものである角度に注目しています。

 仏教の領地を最大限に助けることを目指すよう針を向け、そして国に十分な医学がない時代に本当に助けられる知識があれば、慈しみと純潔な心でするなら、何も罪はないように見えます。

 しかし阿羅漢の跡を追うことの進歩を望む人は、この、心を散らかす物を断ってしまうべきです。そして深遠に言えば、比丘自体にも医師の義務がありますが、心の側の病気である煩悩を治療する医師で、穏やかに生きることに暗い病気です。普通の医師は身体、あるいは形の物、物質の医師で、適度にダンマの実践に成功している比丘は、心、あるいは名の物の医師で、反対です。

 協力し、分担してすれば純潔清浄で、侵害し合いません。誰でも心の面の病気になったら、正しい治療を受けるべきです。そして仏教の比丘が形、あるいは体の面の病気になり、現代医学の医師の義務でする病院へ送られれば、多分病気が治るように、本当に快癒します。

 混乱するより、「仏弟子」という言葉の名誉に影響するチャンスを与えて、憂鬱な問題を起こすよりマシです。そして比丘の職業も純潔清浄で、更に自分で自分を尊敬できます。


 次に、自分がすることに知識があれば、比丘である人物が医療をしてやることができ、罪はないと述べます。その人物は二十五あり、三種類に分類できます。

イ 十種類の人。同じ宗教の人五人、出家の準備がある人、執事、自分の母親、父親、合わせて十人。(同じ宗教の人というのは、比丘、比丘尼、学法女、沙弥、沙弥尼です)。この種は許可して非常に許容します。

 彼らの薬がなければ、比丘は自分の物を出してすることができ、自分の物がなければ、他人から貰って治療してやることも許可しています。それでも得られなければ、支援を申し出る書面を出していない人(在家)に乞うことも許可しています。

ロ 親戚十種類。兄、弟、姉、妹、両親の妹、両親の姉、両親の弟、両親の兄、両親の従姉妹、従兄弟です。この十種類は前項の種類ほど多く許容していません。彼の薬で治療してやり、彼の物がなければ自分の物を貸し、彼が返したら受け取ります。

 しかし返さなくても催促すべきではありません。親戚は助けるべき人だからです。婿や嫁は親戚ではないので、親戚にやって、親戚が彼らに与えるべきと提案しています。しかし、多少わざとするように見えます。

ハ 五種類の人。つまりお寺に迷い込んで来た人。あるいは旅人、盗賊、戦いに負けて逃げて来た人、自由人(権力がある者)、そして親戚兄弟に追放された人です。この五種類の人は自分の物でしてやるべきですが、どんな報いも期待してはいけません。

 盗賊、敗戦者、自由人を治療するのを許可するのは、これらの族が怒れば、当然仏教を踏みにじるからです。あと二種類の人たちは、憐れみ、あるいは人道が強制します。

 それ以外の人は許可してないので、すればサーカヤ族の子のサマナの名誉を傷つけるかどうかという観察点で、ふさわしく熟慮して見て、成すべきでない人に成すべきではありません。医療に話のブッダバーシタは、次のようです。

 「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、今見える畜生知識を使った職業があります。

 つまり幽霊使い、ヘビ使い、毒消し師、動物に噛まれ刺された時の医者、吐かせる薬、毒消し薬、下剤、頭痛薬を処方し、耳に垂らす油を炊き、目薬を作り、鼻薬、噛ませる薬、調剤を作り、目薬の薬の看板の医者、外科医、小児科医です。一方この宗教の比丘は、今見える畜生知識による誤った職業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。(沙門果経 シーラカンダヴァッガ 長部)

要求

 要求とは、乞うべきでない人物に、乞うべきでない時に、そして乞うべきでない物を乞うことです。

 率直に口にするのはサマナの伝統ではありません。比丘が托鉢に行くなど、体が行って状態を見せて乞うのが好まれます。言うなら「欲しい」とだけ言い、あるいは直接要求でなく話し、その方は、理由はどのようかハッキリ現しませんが、普通の原則で観察できます。

 例えば直接口に出すのは、彼が喜んで与えれば良いですが、喜んで与えなければしぶしぶ与えなければなりません。あるいは怒りを表し、そうでなければ、その時彼はケチな人という恥に耐えなければならなくさせます。

 粗い煩悩があり、この話を良く知っている要求者は厚顔で乞い、支援者はしぶしぶ与えます。あるいはわずらわしさを買います。聖人はこのことを良く知っているので、直接口にしない伝統があります。援けを必要としている人であることを表すだけで、誰でも、援けることも援けないこともできます。

 このような人は、食べることができてもできなくても、心情的には同じです。だからその方が口に出して乞わなければならなくさせる物は何もありません。それは、時には他人を困らせます。

 通常乞うべきでない人物は、親戚でない、支援すると申し出ていない一般の在家です。親戚とは本当の親戚という意味で、婿や嫁は意味しません。自分を中心にして七段階に規定し、上方の三段階は父・祖父・祖祖父です。下方の三段階は子・孫・ひ孫です。これを請求の範囲にある親戚と言います。

 一方親戚ではありませんが「要求に応じます」と表明している(パワーラナー)ので要求しても良い人。パワーラナーとは、「欲しい物は言ってください」と許容している人です。

 共通のパワーラナーなら物質に限らず、サマナにふさわしい物なら何でも要求でき、時を限定しなければ、四か月で期限切れになります(律の規定で)。その人が永久にと明言している場合は除外します。同じ宗教の友、親戚、パワーラナーした人は、いつでも要求できます。

 普通の時は普通の人に乞うことはできませんが、特別の時はでき、特別に要求すべき時と言います。例えば病気、衣を盗まれた時、あるいはその他本当に必要がある時です。しかしそれでも、必要なだけ乞うのが好まれます。

 例えば泥棒に内衣を全部盗まれたら、下履きと内衣だけを乞うべきで、外衣はまだ乞うのを認めません。後で親戚、あるいはパワーラナーした人に乞うか、もっとふさわしい他の方法で探します。

 乞うべき物は、その時ある物を喜ぶべき人であり、他人に依存している人であるサマナにふさわしい物です。だから乞う時は、何とか食べられ、何とか使うことができる普通の物を乞わなければなりません。病気などの必要がある時以外は、上等な食べ物をねだることを禁じる規則があり、破戒の軽犯罪になります。

 他の物も同じ方針で、輪廻の危険を見る人である比丘は、当然繊細で美しい物を必要とする感覚がなく、体を維持できる物だけを欲しがります。阿羅漢の跡を追う人は、感覚で時間を無駄にするべきではありません。そして繊細で美しくない物を使う努力をするべきです。

良家に仕える

 クラドゥーサナ、あるいは家に害を成すことは、良家に仕える人の代名詞です。良家とは在家の家族を意味します。例えば男女の仲介、養子の仲介、病気の治療、物を預かる、物を作ってやる、日常的に植物を育てるなど、サマナの話以外の仕事を引き受けることです。

 このようにすることを、著者は「彼自身に加害する」と言っています。これらの人々の三宝に対する信仰、尊敬を全部消滅させるという意味です。

 彼は僧として尊敬せず、その上踏みつけて低め、良くて友達、あるいは悪友の一人です。貰い物のためにおべっかを使うので、彼らは尊敬するべき人として献じるのではありません。その良家の信仰が衰えれば徳はなく、ダンマの面の損害を受けると言います。だからこのようにすることを良家に害を成すと言います。

 良家に害をなす比丘、あるいはクラドゥサカである比丘は、良家の人に拝礼させず、その家を拝礼してしまいます。これほど自分を低めるのは、同じ宗教の中で嫌われ、疎まれる人です。自分の職業が破戒で木っ端みじんになり、比丘サンガの名誉を衰退させ、一般の人に非常に蔑視される物にするからです。

 ダンマで正しく、サマナにふさわしく遣いをすることは許可し、そして誤った職業ではありません。人を出家させる按配をしたり、僧を招聘したり、宗教のその他の用事をするなどは、純潔清潔で、追従でも何でもありません。

 良家に危害を与える人は、阿羅漢の跡を追うことはできません。その時心情は良家に身売りした奴隷になっていて、自分自身の自由がないからです。そして行動しているすべての挙措と、口にするすべての食べ物が些細な破戒に触れるので、清潔な心の道具である清潔な職業がなく、あるいは自分自身を尊敬できないからです。

 四種類のふさわしくない職業をアネサナー、すべてにおいて清潔清浄な人、聖人の勝旗である渋染めの布を維持する人にふさわしくない探求と言います。誤った職業の側とします。


3.清潔な職業はどのようか

 正しい職業とは何かという問題までくると、いろんな答えができます。

 清浄道論は「私たちは、何らかの状況に依存するから生きることができる。その状況を職業と呼び、命の基盤である物を探す努力をすることである。清潔清浄であることを純潔と言う。状況、あるいはその努力の純潔を純潔な職業と言い、職業の純潔である」と、言葉の分析をしています。(清浄道論 シーラニデーサ)

 そしてもう一部分の文章を説明するように、特に比丘について「根律義戒は、比丘がサティで十分に満たせるように、職業清浄戒は、努力で十分に満たすことができる。正しく始めた努力がある人は、当然誤った職業を捨ててしまい、本当に明るく楽しくできる。比丘はこの職業の純潔を、正しい探求で十分に満たすべきである。

 つまり純潔でない行動から生じる縁を、毒ヘビを捨てるように厳格に避け、嗜まないことで捨てることができ、純潔から生じた縁だけを嗜む。頭陀をしない比丘は、生じた縁、あるいはサンガ、あるいは比丘たちから得た縁、そしてダンマを説いた彼の徳行に敬意のある在家の家から生じた縁など、これらを純潔に生じた縁と言う。

 一方托鉢して回わる勤めである行動から生じた物は、非常に純潔と言う。頭陀をする比丘が托鉢で得た縁、あるいはその他の頭陀の道にふさわしい物を、純潔な縁と言う」と述べています。

 パーリ・マハーアッサプラスッタ(ムーラパンナーサ 中部)は、「私たちの職業は純潔で、裏返すことができ、公開でき、突き出る機会がなく、良く慎んでいる物」と述べています。最高に純潔という意味です。自分が自分を非難するために探しても憂鬱さは見つからず、外部の人である他人に見えるなど、言うまでもありません。

 純潔は自信をもたせ、公開できるほど、あるいは裏返して他人に見せることができるくらい勇敢にします。他心通、あるいは天眼通のある人が照らして見て、あるいは理論で、あるいはどんな理由で検証して見るよう挑戦しても、憂鬱を見つけることはできないという意味です。

 このパーリのアッタカター(解説書。清浄道論 シーラニデーサ)は「医療、祈願、要求で命を維持する人は、純潔でない職業があると言われるが、これらの物は、禁じている教条とされている」と、別の解説を述べています。一方この経(マハーアッサプラスッタ)では、最高に愚かさを削るという意味で述べ、これらを意味しません。

 つまり目の前で食べる比丘が、サダオ(キニーネ)の芽などを見ると「沙弥諸君! サダオの芽を食べなさい」と述べると、沙弥は「長老は食べたがっている」と知って差し上げるのでも、あるいは若い比丘、あるいは沙弥に「みんな、飲み物を飲みなさい」と言うと、沙弥が察して長老に差し上げても、彼がそれらの物を食べれば、職業は純潔でないと言われます。

 反対でなければなりません。そうすれば純潔です。この話は、本当に高い段階の純潔清浄に至ったばかりと見ることができます。このように遵守する人は、少しも特別な食事を食べようとせず、普通に手に入った縁だけを消費し、手に入った物次第です。

 別の言い方をすれば、食べることについて考えたことがなく、「食べるために生まれたのではない。努力して(自分を)教育し、苦の終わりに出合うために生まれた」と考え、食べ物であるだけで食べることができ、良い悪いはどうでも良いので、珍しい物を食べるとか、少しずつ食べるとか、あるいは溜めておく考えはありません。

 述べたすべての意味で、純潔な職業には普通の種類と、マハーアッサプラスッタのアッタカター(解説書)で述べているように最高に愚かさを削る種類があると見ることができます。実践者が自分の能力の限り最高に十分遵守すれば、パーリの解説で述べたように、その職業は公開でき、裏返すことができ、シミがなく、まだらでなく、突き抜けません。




2.職業清浄戒に関わるその他



1. パーティモッカサンヴァラ戒に隠れている職業清浄戒の隠れた項目

 パーティモッカの戒条で慎むことをパーティモッカサンヴァラ戒と言います。職業清浄戒と違う種類の戒であることは事実ですが、その幾つかの戒条に職業清浄戒が隠れています。どの戒条の話も、自分の職業がその戒条の根源として依存するので、職業清浄戒が直接隠れているのもあり、間接的なのもあります。

 だから学習者は混乱を防ぐために初めから知って、理解しておくべきです。このようにパーティモッカサンヴァラ戒と言う時、パーティモッカの中、あるいはパーティモッカの外にあっても、パーリ(ブッダの言葉)であるいろんな経の中にある教えである物まで、当然直接職業に関わる話を意味します。

 次に観察、そして比較する物として、パーティモッカに隠れている職業清浄戒を説明します。

 はっきり、そして簡単に見えるのは、思わぬ幸運(貰い物など)を考えて上人法を自慢する、男女の仲を取り持つ仲介を引き受ける、良家に加害するなどです。それはその話から明らかに見えます。そしてダンマでない命を維持する物を探求すると言います。

 見えにくい部分は熟慮しなければなりません、そうすれば見えます。例えはたくさんの物を貰って普通以上に大きな僧房を作る。サマナにふさわしくない精緻な食器を、乞うべきでない人に乞う。自分のためにサンガの貰い物を受け取るなど、これらは例です。面前でしても憂鬱な職業とし見なします。これは後で述べます。

 教条を規定なさった原因である、生じた話について、熟考について述べれば述べるほど、たくさんあると見えます。そしてこの職業は、ヤクザな人に下品な行動をさせる威力があると見えます。原因のない破戒で他の比丘を訴えるなど、プラ・メッティヤとプラ・プムマチャカがメッティヤーニー比丘尼にプラ・ダッバマッラプッタを訴えさせたのも職業が原因です。

 つまり自分の職業がひっ迫したので、怒って難癖をつけて他人を排除しました。プラ・デアーヴァダッタが世尊に対してして、そしてプラ・コーカーリカとプラ・カタモラカが振興させたサンガを分裂させる話も、十から十一のサンガーディセサ(僧残罪)教条の話ばかりです。

 職業も十分慎重に、あるいは管理するべき大きな根源の一つと見ることができます。そして明らかに別の種類の戒に分けられたのは相応しい行為であり、非常に賢いと見なします。この重要な話の教育と実践にとって、広く良い結果があり、安全だからです。

2. 直接職業に関わる六教条の破戒の名前

 比丘のものも、比丘尼のものも、職業が原因と言及して規定しているパーティモッカの内外の教条は六教条あります。職業だけを考えて自分にない上人法(自分が聖人であることなど)を自慢するのは根本罪です。男女の仲を取り持つ、遊女と男性が買春をするのを仕事として助けるのは残僧罪に触れます。

 これも職業を考えるからです(その人に好かれたいから)。比丘がクティ(僧房)を建てた施主に「あなたの精舎に住む比丘は誰でも、その比丘は阿羅漢です」と述べる時はいつでもトゥラッチャヤ罪で、これも職業を考えることが原因です。(この罪の名前はパーティモッカ外です)。

 比丘が病気でないのに親戚でない人、支援を申し出ていない人に上等な食べ物を乞うのはパーチタティー罪で、比丘尼ならパーティデーサニーヤ罪です。上等でない食べ物、つまり普通の食べ物を乞えば破戒です(乞うとは、直接口に出すことを意味します)。

 比丘がこれらをした場合は、まだ食べなくても破戒です。そしてパーティモッカサンヴァラの部分も犯します。食べれば当然、職業清浄戒の部分も損ないます。

 世尊は比丘の誤った職業を、ふさわしくない状態と、ふさわしくない人物から乞うことまで広く規定なさったと見ることができます。遵守できる人は誰でも、どれほど純潔で清潔な食があるか、どれほど尊敬すべきか、考えて見れば見えます。

3. 律の好みでは、沙弥は比丘と同じ戒条を遵守する必要はありませんが、それでも衆学作務など、比丘の戒条の中の美しい礼儀に関わるものだけは遵守しなければなりません。そして戒を犯した時は、比丘のように破戒罪に触れると言いません。しかしそのような直接職業に関しては、沙弥は比丘が遵守するように遵守すべきです。

 つまり職業を清浄に拭いて、阿羅漢の足跡を追うことの一部分にするために遵守します。直接比丘の戒であるパーティモッカサンヴァラとして持すのではありません。清潔な職業は、一般の在家も伝統として遵守しているからです。

 沙弥とはサマナの若芽、言い方を変えれば成長して比丘になるので、自分の生活が最大限に按配してくれるだけ遵守すべきです。比丘サンガが使用人として、あるいは自分に訪れる誤った職業を防ぐものとして沙弥を置くのは、あまり美しく見えません。一緒にダンマの行動をする人より有利になることは、多少美しさを越え、そして沙弥に、簡単に不注意になる機会を与えることです。

 ほとんどのパーリ(ブッダの言葉である経)を観察して見ると、ブッダの時代は、沙弥も比丘と同じように職業があったと見えます。つまり同じように托鉢をして歩きました。

 しかしアッタカターの時代になると、沙弥は少しずつ食べることに関して比丘に便宜を与える人になり、もっと後の時代になると、賄い婦になったように見えます。沙弥のこの部分の条件を昔のように戻せば、仏教のダンマの実践の部分の輝かしい発展になります。そして比丘が形式的に食べることを、非常に抑止できます。

 溜めておいて食べる、植物や生き物を取って食べる、自分で調味して食べるなど、これらはパーティモッカと沙弥の戒では、沙弥が自分のため、比丘のためにしても良いのは本当です。しかし私たちが思うのは、沙弥がもっと高いのを守れば美しくなく、あるいは彼の進歩ではないと思うかも知れません。

 規定は、沙弥に述べたことをする機会を与えているのは事実ですが、沙弥はそれ以上に善くすべきでないと禁じる規定はありません。沙弥も阿羅漢に到達できるなら、そして阿羅漢になった人もいるので、するべき項目をより善くする機会である権利を断つべきではありません。

 沙弥は厨で使う人として身分を分けるなら、沙弥を隔離するのと同じです。あるいは阿羅漢である沙弥を主婦の立場にしなければなりません。だから私たちは沙弥の立場に、今よりもっと良く気を配って、口と腹のことばかり考えて沙弥を進歩から隔離し、あまり比丘にとって便利な人にするべきではありません。

4. この話の大長老の厳格さ

 プラ・サーリープッタはブッダの時代のすべての大長老の中の最高の大長老です。プラ・サーリープッタは、この話で知ることができるように、他の人があまり清潔でなく手に入れた物も、厳格に遵守しました。

 差し込んで卒倒した時、以前キーラパーヤサ(牛乳で炊いた飯)を食べて治ったことがあったので、これを住民に話した人があり、その住民が特別に作ってプラ・サーリープッタに献じました。プラ・サーリープッタは食べようとせず、捨てさせました。そして自分の厳格な純潔の喜びで、病気はすぐに静まり、次のように感嘆しました。

 パーヤーサは言葉での説明から生じる。
 私が食べれば職業が原因で、哲学が私を非難する。
 私の腸が(病気、あるいは飢えで)流れ出し、
 死ななければならなくても、
 誤った職業を避けないことで職業を汚しはしない。  おお、ブッダがお嫌いな不法をする人は、  私のような人だろうか。

 プラ・マハーカッサバ長老も、この話の手本である長老で、世尊が「比丘のみなさん。このカッサバはあるだけ、手に入っただけの食べ物を喜ぶ人です。そしてそのような食べ物を喜ぶ人を称賛して述べます。彼は食べ物欲しさで、素晴らしくない、相応しくない探求をしません。

食べ物が得られない時も驚かず、得られても喜ばず、陶酔せず、味に夢中にならず、陶酔の罪について考えて消費する人です。彼は罪を払い捨ててしまってから食べる智慧があります」と称賛して、サンガの集会で明らかにしたほどです。(カッサバ相応 ニダーナヴァッガ 相応部)

 プラ・ウパセーナヴァンガンプッタも、印象深く述べておいたもう一人です。

 「私の腸が切れて、外部にボロボロ飛び出しても、サマナの状態に相応しくない探求はしない。絶対に職業を汚さない」と、このようです。(ミリンダパンハー)

 そしてもう一つの話は、プラ・マハーティッサ長老は、非常に職業を純潔に維持したいと望む人で、長いこと飢えても、心が誤った職業を思うことに傾くのを赦しませんでした。言葉で乞う、あるいは置き引きした物を食べるなど、その他のふさわしくない探求など言うまでもありません。その方の話(ディーカーヴィスッディマッガ)は、次のように話されています。

 その方が道を歩いていて、道々飢えで疲れていて、力が尽きて、鈴なりのマンゴーが一面に落ちている木の下に横になっていました。サマナの作法に反すので、拾って食べようと考えたことはありません。そして一人の清信士に会いましたが、欲しいと口に出しません。その清信士は長老がぐったりしているのを観察して見たので、マンゴーをジュースにして献じました。

 長老の気分が良くなったのを見ると、長老を背負って住まいまで送り届けました。長老は「この人は私の親ではない。仲間でもない。しかし彼が私のためにここまで努力するのは、私が戒のある人だからだ」と心に銘じました。長老は自分の戒に喜悦歓喜が生じ、心が静まってサマーディになり、ヴィパッサナーに励み、すべてのダンマが明らかに見え、清信士の背中で、高い特別な徳に到達しました。

5. 昔の学者のこの話の厳格さ

 ブッダの時代の出家は、仏教以外の人でも直接乞わないことに関した誤った職業の話を厳格に守っていました。ブッダの時代の比丘の規則として世尊が話されたのもあります。例えばブラフマダッタジャータカと、事例として実証したようなアッティセーナジャータカです。


 ブラフマダッタジャータカ :

 仙人ボーディサッタ(菩薩)はパンチャーラ王の懇請を受けて王の庭園で雨安居をしていました。雨季が終る頃、ヒマラヤの森に帰りたいと思い、道が非常に悪いので一重の靴一足と、木の葉の傘一本あるべきと考え、王に乞いたいと思いました。しかし王が断れば召使たちに聞かれ恥さらしになると考え、人気のない場所で話す機会を貰いました。

 王が機会を与えると、反対に王が与えなければ、あるいは与えられなければ、心情的に離反すると考えたので、「別の日まで待たせてください。雨季の十二日すぎまで、いつでもこのように、この話にもう一度納得させてください」と申し上げました。王は非常に怪訝に感じ、しつこく質問したので、望んでいることと、人目のない場所で要求する理由を奏上しました。

 「私ブラフマダッタは! 口に出して乞うことは、当然二つの結果があります。得ると得ないです。乞うことが当然このようなのは当たり前です。哲学者は乞うことを「くださいと叫ぶ」と言い、要求を断ることを「拒否する」と叫ぶと言います。私は、私が要求するのと、王様が拒否なさるのをパンチャーラの人々に見られないよう、人目のない場所で話す機会を頂戴しました」。

 「罪を逃れた方! 千頭の牛を牛飼い共々献じさせていただきます。文明人があなたのダンマがある言葉を聞いて、どうしてあなたに献じない人がいるでしょう」と、王が答えました。

 ボーディサッタが靴と傘以外の物を受け取ろうとしないので、望みどおりに与え、そしてボーディサッタはヒマラヤの森に帰って行きました。

 この話を世尊は、アーラヴィーの人である比丘に話して聞かせました。アーラヴィーの人は何でもねだるので庶民がうんざりして、遠くから赤牛が歩いて来るのを見ると、僧が何かをねだりに来たと考えて隠れるほどでした。


アッティセーナジャータカ :

 プラ・アッテセーナ・ボーディサッタは、バラーナシー王の庭園に住んでいました。王は、望むなら王の財産の一部を分けることでも、すべての物を寄進すると表明しましたが、他の乞食たちが休まずあれこれ王に要求しても、ボーディサッタは何一つ口に出して要求しませんでした。王は長い間、非常に疑念を持たれ、要求しない理由を質問すると、ボーディサッタが奏上しました。

 「乞う人は、乞われた人に愛されず、喜ばれない。乞われて与えない人は、乞う人に愛されず、喜ばれない。だから私は、王様と心が疎遠になるのを恥じないようにと考えるので、乞いません」とこのように奏上しました。

 王はお願すると同時に、反論しました。

 「アッティセーナ猊下。ダンマの振舞いをするサマナ・バラモンは、乞食に依存して命を養わなければなりません。乞うべき時に至ってこのように乞わないのは、支援者の徳を衰退させると言われます。そして自分自身も安楽に命を養えません。一方乞うべき時に乞うサマナ・バラモンは、当然支援者に徳をもたらすと言われます。そして自分自身も安楽に命を養います。

 何が猊下に「疎遠になるのを恥じないように」と言わせるのでしょう。本当は、智慧のある人は布施することの結果を見、当然怒らず、乞われれば、却って喜んでしまいます。あなた様のような梵行の行動をなさる方は、当然私が愛し、非常に満足する人です。遠慮なさらず、要求してください。財産でさえ捧げることができます」。

 ボーディサッタが答えました。

 「博識な出家は、当然口に出して乞いません。賢い支援者も、当然施しを受ける人が病気の時、あるいは元気な時は何が欲しいか知っています。すべての聖人は、当然口に出して乞いません。乞食の状態で黙って立っているだけで、体、あるいは言葉で異常を表しません。これがすべての聖人の状態です」。

 王はボーディサッタに乳牛千頭を寄進すると、ボーディサッタは辞退し、仙人らしく生活し、望みどおりの結果に到達しました。このジャータカを世尊が取り上げて話されたのは、著しくねだるアーラビヴィーの人である比丘について言及したからです。

 溜めて食べるなど清潔清浄でない職業は、世尊もガンダーラジャータカを取り上げて説明され、ブッダの時代以外の出家も五戒だけは遵守し、仙人も食べ物を溜めないと見せるために、プラ・ピリナダヴァッチャの部下である比丘が、揃ってバターやサトウキビ水を溜めて食べたことに言及しました。その話は次のようです。

 ガンダーラジャータカは、王財に倦怠して出家した王です。ヴィデーハ王は、友人が出家したという知らせを聞くと、王財を捨てて追って出家して出会い、二人でヒマラヤの森で、穏やかに住んでいました。

 ガンダーラ仙人は、プラ・ヴィデーハ仙人に、月食を見たことが「満月もまだ、ラーフー(地球の影)による闇があるように、自分も王の義務が山ほどあるので、曇って濁った心がある」と、憐れを生じさせるニミッタになり、「領地全体の領民に教える言葉を与えなければならない」と倦怠したので出家してしまったと、出家した原因について語りました。

 その後二人が村に来て托鉢をすると、ご飯を貰っても塩がない日と、塩がある日がありました。だからプラ・ヴィデーハ仙人は、塩がたくさんある日に塩の食べ残しを取って置き、塩が貰えない日に隠れて食べました。托鉢で塩が得られない日になると出してきて、プラ・ガンダーラ仙人に分けました。

 プラ・ガンダーラ仙人が出所を聞くと、素直に答えました。プラ・ガンダーラ仙人は「ヴィデーハさん! あなたは一万六千の豊かな村を捨て、金の蔵、銀の蔵、宝石の蔵などがある財産の蔵をたくさん捨て、翻って出家し、今更なぜ塩の粒ごときを溜める考えをするのですか」と、厳しく忠告しました。

 プラ・ヴィデーハ仙人は強烈な忠告に耐えられず、怒って大声で答えました。しかし応酬を繰り返すと、プラ・ガンダーラ仙人の理屈に降伏し、師弟のような言葉遣いをすることを受け入れて、ヒマラヤの森へ帰り、リーダーであるプラ・ガンダーラ仙人と同じように修行して、出家して仙人であることの目的である最高地点に至りました。

 出家は、伝統では集めてはならないと信じられています。集めることは庶民の状態なので、集めた物を食べれば庶民のような生活です。このような生活は、本当に純潔でない職業と言われます。心配の種であり、注意深くこれらの物を維持するために、心の力を分けて使わなければならず、それが直接義務に欠陥を生じさせるからです。

 だから出家、あるいは家のない人は溜めません。そしてそれは大昔から出家の伝統習慣になり、非常に多くの話に現れています。

 見本として説明したように、望んでも口に出して乞わない、わずかな塩でも溜めないなど、精緻な段階の職業についてだけ取り上げました。本気で不正な出家について述べているジャータカ、チャビラルアンヒヤなどはほとんどが知っているので、取り上げて話しません。


6. 強く捉えすぎる職業

 パーリ・大獅子吼経(中部 ムーラパンナーサ)とそのアッタカターは、異教の職業に関わる幾つかの成り行きについて述べていて、どれも張りつめすぎ、張り詰める側の極みと見せています。そして私たちの世尊はそのような苦行を試されたことがあるので、すべての比丘の教条として規定なさいませんでした。やり過ぎだからです。ここでは考えの流れの例として引用します。

 異教のある人たちは、自分のためだけに調味した食べ物は、普通の成り行きの食べ物ではないとして受け取りません。献じる時にぶつかり合った食器を使った食べ物は、自分が原因で食器に苦や衝撃があると嫌って受け取りません(これらの人は、粗いか精緻かの違いだけで、何にでも命と感覚があると捉えるので)。

 二人暮らしで一人が献じに来た人の食べ物は、待たなければならないなどで、もう一人を不満にするので受け取りません。胎内の子に苦を与えるにで、母が歩いて来ると、哺乳中の赤子が泣くので、妊娠中の女性、乳児のいる女性から食べ物は受け取りません。男と一緒に行く女が献じる食べ物は、男が喜ばないので受け取りません。

 犬が番をしている食べ物は、犬も欲しいので、そして犬の物を奪うように見えるので、あるいは犬を不満にするので受け取りません。ハエが食べた物を主人が持って来た時、ハエが追われる、あるいは妨害されるので、ハエが飛んで来たのを見た食べ物は受け取りません。そのような状態は嫌らしく、自分もその職業は純潔でないと見なします。

 しかし私たちは当然、これは厳しすぎると見ます。


7. 一般の例から、この話の教えをまとめる

 すべての例、つまりパーリ(ブッダの言葉である経)、アッタカター(解説書)、ディーカー(注釈)を、ブッダの時代もブッダの時代以外も、簡単に憶えるためにまとめることができます。純潔な職業は二種類、普通の種類と非常に愚かさを削る種類あります。

普通の種類 :

 直接強制して守らせる規則として、どこでも遵守しなければならないと好まれている種類です。二種類に分けられ、誤った職業であるものは間接的に騙して、あるいは切りもなく喋ってから食べます。そして直接戒条として禁止規定がないのが一種類です。世尊がパーティモッカの内外に教条として禁止規定されたのがもう一つです。

愚かさを非常に削る種類 :

 この種類は、「純潔な職業はどのようか」という部分で引用したパーリ・マハーアッサプラスッタのアッタカターで述べているように、律より、あるいは戒より教えを重視しています。しかし異教の教祖のように厳格過ぎる捉え方はしません。

 例に挙げたサダオの芽を食べる話と、飲み物を飲む話などは、普通、学習者はあまり知りません。あるいはブッダは誤った職業と見なすと考えますが、詳細に分析して見ると「あり得る」と、そしてブッダが述べたように、本当に非常に愚かさを削る種類と見えます。そのようなら、もっと広く説明すべきです。

 支援者が持ってきて献じたと知っている食べ物を食べることは、愛され親しくなりたくて甘やかす、あるいは徳や天国に酔って、ニャーナが異常になって可哀そうに、本当のダンマがありません。受け取って食べるなら、非常に愚かさを削る種類の誤った職業に入れるべきです。

7. 職業清浄戒の功徳

 比丘が職業清浄戒を、述べた要旨で十分行動すれば、結果は喜ばしく、当然その行動からとめどなく流れ出て、その人自身にとっても、他人にとっても、そして仏教にとっても恩恵があります。

 その人自身は憂鬱を探しても見つからないので、歓喜と喜悦で、喜悦すれば、当然心が静まり、サマーディになります。サマーディになれば、すべての物を真実のままに知る智慧が生じ、最高になれば、前に述べたプラマハーティッサ長老のように、解脱に至って阿羅漢になります。

 まだ最高に到達しなければ、それでも進歩した聖人の後を追うことです。自分と他人に誠があり、法友の手本になり、そしてサーキヤプッタサマナという名誉ある名前を自称するにふさわしい十分な徳行があります。自分で自分を貶すことができません。他人も、天人・悪魔・梵天もできないので勇敢であり、平安、明るさがあり、冷静沈着で本当に純潔な人です。

 他人、つまり世界の人は騙されず、退屈でも煩わしくもなく、勇敢な人で、自分自身を、職業を清潔清浄に維持することに耐える手本にし、死ななければならなくても受け入れられるサマナを見ることができます。

 世界の人の自分への信仰が当然生じ、尊敬する比丘が職業清浄戒を守るために命を落とせば、「どうして私たちが捨てられないだろう。そして尊敬する比丘が厳格に努力を維持している時、一人だけ命を失うべきと現れたことはない。私たちも必ず同じようにできるに違いない」という要旨に傾きます。

 このようなら、世界の人も、職業が原因で罪であるカンマがあることから、自分をもっと高くすることができます。

 仏教にとっては、一般庶民の尊敬や信頼をもたらす道になり、プラ・サーリープッタとスチムキー女修行者の話のように、他の宗教を信仰している庶民と、他の宗教の出家をこの宗教に引いて来ることができます。この話を引用して、この章を終わらせていただきます。(スチムキースッタ 相応部 カンダワーラヴァッガ)


「サマナ様。なぜあなたは、俯いて食べているのですか」。これはプラ・サーリープッタがある岩陰で食事をしている時に質問した、女修行者の言葉です。

 「娘子。私はうつむいて食べていませんよ」。

「それなら、あなたは仰向いて食べているのですか」。

 「仰向いて食べてもいません」。

「それなら、あなたは首を振って食べているのでしょう」。

 「首を振って食べていません」。

「それなら、首を回して食べているのですか」。

 「私は、首を回して食べていません」。

「それなら、あなたはどのように食べているのですか」。

 「娘子。誤った職業である、土を占う畜生知識で命を養うサマナ・バラモンは誰でも、私はそれらの人をうつむいて食べると言います。星で占う人たちを、私は仰向いて食べると言います。在家の遣いであちこちへ行く人たちは誰でも、その人たちを、私は首を振って食べると言います。

 そして人の体の状態を占う人たちは誰でも、私はその人たちを、首を回して食べると言います。私自身は誤った職業、あるいは今見える畜生知識で命を養いません。私は当然、ダンマで正しく食べ物を探して食べるので、うつむいて食べる、仰向いて食べる、首を振って食べる、首を回して食べると言いません」。

 「みなさん! サーカヤプッタサマナは、当然ダンマで得た食べ物を食べ、罪のない食べ物を食べます。どうぞみなさん、すべてのサーカヤプッタサマナに食べ物を献じてください」。

 これはスチムキー修行女がプラ・サーリープッタの感銘する回答を聞いた後、街道で、小路で、集落で、宣伝した言葉です。







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