8.アーナーパーナサティスッタの話





 アーナーパーナサティは呼吸の出入りを意識するだけでなく、各部ごとに意識する対象が変わります。つまり身・受・心・タンマ、それぞれの部で、一息ごとに注視します。このような行動からアーナーパーナサティと呼ばれます。

 この経は三蔵のサンユッタニカーヤ(相応部)にあります。学ぶべき経ですが、誰も興味がなく、反対に他のヴィパッサナーに興味があります。

 アーナーパーナサティをする上での妨害、小さな問題はいろんなことから生じます。特に大きな問題は、している時と、し終わった時に生じます。それにその人だけの、その時だけの問題もあります。

   正常な身体、正常でない身体に関して。

   静寂は妨害ではない。

 場所の安全に関しては、風俗習慣が十分あるので心配はありません。猛獣がいるような危険な、安全でない場所は避けてしまいます。虎や象などの野生動物のほとんどは、肉食動物でも危害は及ぼしません。しかし危険に遭う前に安全に注意します。

 人の歩く道、水汲み場、果物を獲る場所、市場など、要するに、そこに座るべきかどうかという、みなさんの常識の問題です。木の根元でもいいです。草を敷いて、その上に敷き布を敷いて座ります。草を敷くのは(ブッダに倣った)儀式ではなく、柔らかくして骨が痛まないようにするためです。固い土や岩に座るとくるぶしが痛みます。眠気を誘うので、木などに寄り掛かるべきではありません。

 座り方は、ぐるっと脚を曲げて、体を真っ直ぐにして座り、サティをしっかり維持します。インドでは男も女も結跏趺坐の形に座ります。スリランカ式がきちんとしていて良いです。体を真っ直ぐに、しっかり立てて楽に座ります。何にも寄りかかる必用はありません。慣れるよう努力してください。何日もしないでできます。

 椅子に掛けるのは、体調が悪い時か休憩する時だけで、通常は座るべきではありません。本当にやるには、正式に座らなければなりません。柔らかいイスやソファーでサマーディをするのは、勝手にしています。体を強制できれば、心を強制できる部分も多くなります。

 結跏趺坐がふさわしい座り方です。一般にヨギーの人たちは望み以上に体を厳格に調整してしまいます。つまり体を鍛えます。結跏趺坐など難しくも何でもないと言います。慣れています。彼らは何でも練習しておきます。食べること、寝ること、ハッタバーサ(特定な座り方の規則)から、片足の親指だけで立ったり、刺の上に寝ることができるようになるまで練習します。

 難しい型が何十種類もあります。中腰で脚を組み、片方の親指だけが地上に触れているというのもあります。もっとも簡単なのから最高に難しいのまでできます。技巧を自慢するためにするのではなく、ヨギーにとっては体を鍛えることです。

 しかし一般の人にとって、それは多すぎです。ブッダはそこまでは教えていません。しかしそのような練習を禁じてもいません。脚を交差して腰を下ろし、体を真っ直ぐにして座り、現前にサティを維持することを「サマーディをする」と言います。体を真っ直ぐにすることは不可欠です。体が曲がっている時より呼吸が安定して良いので、座る練習をしてください。


 サマーディをする目的は、知っておかなければならない規則で、そうすれば自然にそうなります。サマーディの目的は四つあります。

1.聖人の味見である、生きているうちに見る幸福のため。

2.アーローガサンニャーに励んで、天耳、天眼になるため。

3.完璧な常自覚のため。

4.漏を終わらせるため。


第1項 現在の幸福

 一時的にいろんな煩悩の妨害がないことは、できないより良いので、ブッダは初めの項目と言われています。目的はこうです。一般人のように言えば、その時だけみなさんは聖人に達しています。普段は世界が私たちを支配ています。心がサマーディになった時、その世界は剥がされ、心がサマーディになれば、神様に到達が何処にでもあります。それが神様の味です。

 『涅槃と神様は同じ』というのは、マハトマ ガンディーの言葉です。仮定でない言い方では「ティッタタム(この目で見た)」と言い、ルーパチャン(形禅定)とアルーパチャン(無形禅定)だけです。まだ煩悩を絶てなくても、する価値はあります。サマーディをしている時に神様の味を味わえば、サマーディをすることに満足します。形・声・臭・味・触より、味わうべきタンマの味と見なします。

 「サッパロッサン サンマロソー ジナーティ=タンマの味はすべての味に勝る」というブッダの言葉があります。すべての味とは形・音・臭・味・触のことで、タンマの味は根の味よりも素晴らしいという意味です。これだけでも興味深いです。そして実践することに信仰を生じさせる味にするべきです。

第2項 卓絶した透視力、聴力のため

 こういうのは不思議で、凄くて、神秘的ですが、私は欲しくないので、それについての話はしません。カシナ(十遍処)やアーローカサンヤー、ティワーサンヤー(超能力のようなもの)から千里目や地獄耳まで、こういった種類のサマーディは、物質的な利益を求める目的に使われがちです。正しい話なら心の能力であり、頑固な人を苦しめることもできる神通と見なします。この種のサマーディは自分自身の敵です。

第3項 完璧な常自覚のため

 心に生じて来るいろんな物、ヴェーダナー(受)、サンニャー(想)、ウィトック(考え)を、受がどのように生じ、どのように消滅するか意識します。苦の受、苦でない受、苦でも幸でもない三種類の受がどのように生じ、どのように消滅するか、想蘊、あるいは記憶がどのように生じ、どのように衰えるか、良い考えと悪い考え、良くない考え、悪くない考えはどう生じどう消滅するかを、呼吸を追うように、考えを追います。

 そうしていると、常自覚は体から逃げ出しません。体の動き、心の動きは、常自覚が消えないようにする訓練は、何でも深く考えられ、良く記憶できるようになる道具であり、利益があります。考えがどう生じてどうなるか、サティだけでなく、人の考えが読めるようになります。

 「脹らんだ、萎んだ」(呼吸の出入りを腹の脹らみで感じる手法)の人は、受、想、尋を見、お腹が脹れるのと萎むのを見、脚を上げるのを見、そして小刻みに詳しくしていきます。食べるのを見、取って、持ち上げ、入れて、噛んで、いろいろな細かいことを見ます。勝手に取り上げてもいいです。パーリ経典にはありません。

第4項 漏を断つため

 取がある五蘊の発生と消滅を熟慮し規定します。五蘊とは形・受・想・行・識、あるいは体と心、俺の物という取でいっぱいの体と心です。形・受・想・行・識の取は、私たちを困らせる鬼や悪魔です。要するに無常であり苦であり無我である五蘊の崩壊を熟慮して見て、無執着にします。

 これらのサマーディは、実践項目を停滞させないために、どこの団体がどの種のサマーディをしているか、どの種類がブッダの意図されたとおり危機を脱せる種類かを知る尺度です。

 パーリ(ブッダの言葉である経)に話があります。大きな鳥、亀、蛇、狐、大トカゲを一匹ずつ捕えて、五種類をそれぞれ紐で繋いで、紐を一つにまとめて縛っておくと、それぞれ動き出します。

 大トカゲは水に入ろうとし、鳥は空へ飛び立とうとし、蛇は隙間へ入ろうとし、狐は墓地へ行こうとし、亀は池へ行こうとします。面白いかどうか、目を閉じて考えて見てください。力の強い一匹が力尽きれば、力のあるのが引き戻し、交代で勝ったり負けたりするので、幸せはありません。

 望みどおり餌を探しに行く目・耳・鼻・舌・体と同じです。目・耳・鼻・舌・体は一日に何回私たちを引っ張っているでしょう。一時形を求め、一時声を求め、一時味を求め、一時接触を求め、どうしたらじっとしていられるでしょう。そわそわしないでじっとしていることとは現生の幸福で、神様に到達し、目・耳・鼻・舌・体の威力に支配されません。

 「俺」と「俺の物」が支配しないで、一時休めることを、神様に到達すると言います。アーナーパーナサティの第一部をしていると、呼吸が非常に少なくなって、「現生の幸福」と呼べるようになります。難しくはありません。練習できるはずです。アーナーパーナサティ第一部の定でも結果はあります。

 手探っていけば第二、第三、第四段階と順々に高い定が得られ、緻密になって、粗雑さはどんどん剥がれ落ち、最後には四段階目になり、残りは半分もありません。非常に静かで、妨害する物はありません。「ブッダの言葉によるブッダの伝記」の中に、牛車が五百台通っても何も聞こえない人がいたとあります。ブッダはもっとすごくて、近くで雷が鳴っても聞こえませんでした。

 禅定に入ると涅槃の味見という儲けがあります。しかし厳密な物ではありません。ディッティタンマミッカスッカとは、自分で見たタンマの幸福という意味で、自分で見たタンマとは、タンマが見えてもまだ生きている、つまり「自分で感じることができる現在の幸福」という意味です。

 練習して結果を出すには、時間と強い意志と、本気であることが求められます。長く座っていると静かではいられないこともあります。世界も自分も忘れて呼吸だけを見る練習をすれば、俺、俺の物の毒はありません。

 初めは脚を組んで(結跏趺坐)座ります。結跏趺坐は、自然に体を真っ直ぐにします。普通は、人の呼吸は長くありません。できるだけ長い息をして、それから自然な長さに戻すと、長いか短いかが自然に分かります。

 どれくらい長い息、どれくらい短い息を意識するのか、初めはまだうまく調節できません。初めは鼻先から臍までの、どこで、どのくらい長い息をするか、二つの基点を設けるべきです。鼻と内部の臍の感覚をできるだけ長く(最長で五、六十秒)、息が長く力があれば、鼻を洗い肺を洗い、気管を洗うのと同じです。身体と血と皮膚を整えるために、まずこれをします。

 初めには心とタンマの両面の結果があり、調整できると、今まで経験したことがないような不思議な快さを感じます。中には最初の段階で、体が気持ち良くなる喜美に溺れてしまい、サマーディの第一部で満足してしまう人もいます。体が爽快なのは一時だけ、まだ第四部に届いていませんが、それだけでも山ほどです。

 他の物に求めることはできませんが、アーナーパーナサティには求めることができます。心がすっきりして爽快になり、その不思議な味に飽きることはありません。どこでもできます。一銭の投資も必要ありません。他の徳を積むには資本が必用で、本堂を建立するには何十万も必用です。煩悩に妨害されない静けさを経験したことがないからです。


 正しいサマーディをすれば「俺」「俺の物」がしばらく消滅するので、これを味わう方が素晴らしいです。細かく指示するアドバイスを期待しすぎないでください。機械になってしまいます。原則を知ったら一人で静かに座れば、教える言葉より多くを知ることができます。

 神通を求めれば狂います。ディッタタム(現生で見る幸福)の種類のサマーディは、そのような危険はありません。奇妙な物があっても無視し、求めるのは静まることだけです。勤勉に実践して、勤勉に観察し、小さな問題は観察し、本当に手に負えないことは質問します。このようにすれば危険はありません。

 狭い方の鼻で呼吸する練習をします。手で片方の鼻を穴を塞ぎ、もう片側で呼吸をします。両方をやってみると、両側が同じでないことに気づきます。片方が狭いか詰まっていれば、掌で水を掬って吸い込み、何度も手鼻をかみます。怖がらなくても良いです。何ともありません。それを練習し、水を吸っては噴出します。

 風邪の予防、治療にもなります。身体が丈夫で気血が十分あり、鼻が良くて呼吸が良ければ、アーナーパーナサティは難しくありません。心の軽快さという結果が得られれば、期待以上と見なします。本を読めば俊敏に良い考えが浮かびます。身体が快調ですっきりしているので、仕事や考えることがたくさんできます。つまり能力が向上します。

 誰でもこれについて知って、是非実践するべきではないでしょうか。年をとった人なら尚のこと良い機会、必用な時間と考えるべきです。しなければならない、あるいはタンマを受け取らなければならない段階になったからです。


 何歳になったら解脱するタンマに興味が出るでしょうか。パーリ(ブッダの言葉である経)には、白髪の初めの一本が出た時が、他の世界の幸福、そして世界を越える物全般の利益を求める境目で、特別の人間だけができることとあります。ブッダの提言ではなく、その時代の人の習慣です。読んで分かるのは、無常・苦・無我は毎日の話で、理解できる人もいました。要するに穏やかな幸福を求めていました。

 どのような幸福を穏やかな幸福と呼ぶでしょうか。穏やかな幸福とは、笑うことも泣くことも、嫌うことも怒ることも、愛すこともなく、何も欲しがらないことです。

 体を硬直させるサマーディの練習法を知っていて、望みどおりにできれば、それはサマーディ、あるいは一種の入定、つまり何らかの段階に止まっていることで、智慧とは関係ありません。ブッダより前の時代には、体を固くして祈祷したり、心の鍛錬をしたり、心の能力を最大限に探求する種類のサマーディがありました。

 (入定とはサマーディの力という意味です。入定であるサマーディはディッティ=片意地。自惚れの一種です)。しかしそのサマーディが漏を消滅させなければ誤ったサマーディで、何かを得ることです。正しいサマーディなら手放します。

 何も得ず、何も放らない、静かな状態のサマーディは(一つめのサマーディ)、形・声・味・臭・触より高いです。両方を知っていれば選ぶことができます。

 心がなかなか静まらないで、動揺して狂いそうになったら、このような幸福で解決できるので、知らないより良いです。これらについてたくさん勉強していれば、こういった問題の時、大いに利益があります。ブッダは「書くならばたくさん書きなさい。そうでなければ、まったく話してはいけない。まったく書いてもいけない」と言われています。

 一つめ三つめ、四つめのサマーディは練習するべきですが、二つめは必要ありません。一つめと三つめは世俗的にも良いです。述べたようにサマーディの幸福を求めるなら、家の外へ危険な幸福を求めに行きません。家の外に静かさはないので、大変な思いをして戸外をさ迷う必用はありません。

 危険であり、散財であり、自分自身と他人にとって妨害、虐待です。サマーディをすれば穏やかな幸福があります。森の中でも、どこでも良いです。そこは別世界で、梵天界、素晴らしい世界です。(梵天とは素晴らしいという意味)

 ブッダは『世界はどこにでも築くことができる』と言われています。そして「ブッダの言葉によるブッダの伝記」の中の四座の話、つまり聖人・梵天・天人・人間である、その人の心はどこで座ったり寝たり、立ったり歩いたりしてもそのようで、その人の心に他の物は入って来ないとあります。心が罪なら地獄です。絶妙なタンマは、人間それぞれに好きな世界を築かせます。

 木の根元に座って心を静めていれば、しばらくは低い梵天界です。

 「死ねば梵天界に到達できる」と、人々はふざけて騙し合います。ここで、ここに座っていてできないのに、死んでどうして心を梵天に、つまり世界より高いと言われる梵天にできるでしょうか。

 年の少ない人は小さな世界を見て、大混乱に満足しています。適度に多くの混乱を経験しなければなりません。そうすれば混乱を嫌い、静かさを学びます。節度を越えることがなくなり、あるいは減るので、学ばないより良いです。混乱は粗いことでも、中間でも、微妙な物でも、すべて「俺」「俺の物」から生じます。

 広すぎる善を惜しむのは、微妙な混乱である疑いが残り、望みを捨て、自分を捨てて大梵天になる勇気がありません。

 粗雑な混乱は欲界から生じます。

 中程度の混乱は形界から生じます。

 微妙な混乱は無形界から生じます。

 私たちは混乱が好きで、求めて騒動に近づき、何もなければ自分で問題を起こします。これになりたい。あれになりたい。あれが欲しい。これが欲しい。出世したいからです。

 次の三種類があります。

  粗雑なもの       性的欲望      最も混乱する

  中程度のもの      出世欲       性的なものとは無関係

  微妙なもの       隠れた出世欲    形がないので隠れている

 私たちは何重にも敵がいます。この敵に勝ってもその敵がいて、その敵に勝ってもあの敵がいるので、すべてを追い払うことはできません。心は変わるので、高くなっても、再び低くなります。

 だから実践は、謎絵に描かれた蛇の口中の蛙のように、本気でしなければなりません。蛙は蛇の口から逃れたいと、鹿は罠から逃れたいと、野生の鶏は籠から逃げたいと必死です。混乱に勝つには、私たちもそれくらいの努力が必要です。

 しかし人は、反対に混乱に進んで関わり、進んで一つの混乱からもう一つの混乱に移動し、自分自身をますます困窮させ、ますます苦しめます。自分で罠にかかっているので、断つのは困難です。

 ヨーギーには自分自身のために努力を譬える言葉があり、誰かに抱きかかえられて水に沈められた時、助かるために藻掻くのと同じと言います。それくらい努力をすれば、苦を滅し、混乱を無なくすことができます。

 ここに座っていると、水に沈む時はどんなか分からないので、自分で体験しなければなりません。想像で済ませないでください。誰かに水に沈めてもらって試してください。どれくらい必死になるか分かったら、俺をなくし、俺の物をなくし、苦を消滅させたい気持を、それくらい必死にしてください。

 少し苦や害を見れば、実践する力も少ないです。小さなネズミが大虎を殺すくらいの気持で努力を続けなければなりません。「俺、俺の物」は大虎くらい大きいので、知性と智慧を十分働かせ、非常に努力をしなければなりません。そうすればネズミも虎を殺すことができます。心の能力はネズミくらいで、重要なのは気力と、智慧と正しい見解を増やす努力です。

 寝る前と朝目覚めた時に、これらの項目をしなければならないかどうか、復習する努力です。


 なぜアーナーパーナサティをしなければならないのでしょうか。心で見たい物を見たいだけ長く注視するためにしなければなりません。普通では、常に知識を維持できません。だから本性の奥にある煩悩を順々に殺し、最後に滅尽に到るために、無常・苦・無我の知識が、常に心にあるよう知識を管理するために、アーナーパーナサティの練習をしなければなりません。

 どうすれば煩悩を殺すことができるでしょうか。

 成功するには、知るだけでなく、知ったように実践しなければなりません。猫の首に鈴をつけるのと同じで、知っているだけでは成功でなく、鈴を猫の首に結ぶことができれば成功します。

 無常・苦・無我を明らかに知るために、これらの知識が明らかに心にあるよう、毎日毎月十分に長い時間、アーナーパーナサティの練習をします。心の自然はくるくるとよく変わり、非常に変化が速いので、新たに練習しなければなりません。世界の仕事をするにも、力のある、つまり熟練があり、安定したサマーディのある心が要求されます。

 タンマの仕事なら尚更です。頭に浮かんだら、一呼吸ごとに無常・苦・無我を見る練習をします。それは難しいので、簡単な物から練習します。まず呼吸をしっかりと意識します。

 ほとんどの所は第一部だけしか教えていないので、呼吸を意識するだけと理解してしまいますが、本当のアーナーパーナサティは、意識したい物、何でも意識できなければなりません。


アーナーパーナサティスッタ

 第一部 カーヤーヌパッサナー(体を見る。身随観)

 第1段階。長い呼気と吸気を意識して、どう長いかを知ります。

 第2段階。短い呼気と吸気を意識し、どう短いかを知ります。

 第3段階。長い短いと規定しないで呼吸を意識し、全部をどのようかを知ります。

 第4段階。静まって滑らかになった呼吸はどのようかを意識します。

 この部はカーヤーヌパッサナーサティパターナ(身随観念処)です。


   第二部 ヴェーダーヌパッサナー(受を見る。受随観)

 第1段階。 静まったことから生じる喜悦の感覚を意識することを、サマーディから生じたサマーディの味であるヴェーダナー(受)を意識すると言います。味である喜悦を意識します。よく習熟して、一呼吸ごとにしっかりと染み込むように意識します。

 第2段階。 歓喜につづいて生じる幸福の感覚を意識します。

 第3段階。 心が味に触れていることを意識します。この心は変調した物で、心が心を変調させた物を意識して「このように上手く変調させるのか」と、一呼吸ごとに意識して感じます。

 第4段階。 心を変調させる受を意識し、それを抑制します。


    第三部 チッターヌパッサナー(心を見る。心随観)

 第1段階。 心はどのようか、心を意識する。苦や散漫、貪欲、怒りなどを味わっている心はどのようかを知ります。

 第2段階。 心の状態を知ったら、それからタンマの歓喜を生じさせ、その歓喜が強くなっていくことを意識します。

 第3段階。 心が歓喜すると、心が非常に安定するので、その心の安定を意識します。

 「サマーヒトー」は安定という意味です。安定とは、静かにしていることではありません。ここでちょっと、誤解しないために差し込ませていただきます。「サマーヒトーヤターブータ パチャーナーティ」とは真実を知ることができる状態で安定している心という意味です。

 心が静まれば、何かを自然に知ると考えている人たちがいます。「サマーヒトー」とは何かをしたり、知ったりするのにふさわしい安定という意味で、静かに座っているだけではありません。

 第4段階。 安定した心を更に静めます。静まった心を意識して、それは自然に過ぎず、心は心だけ、(執着するべき物ではない)と知ります。つまり自我が少なくなるのが見えます。最後に、心は実体がある物と見ないで、ただの自然に見えることを規定すると、心が自分であるという理解は途端に減ります。

 この時心は働ける状態にあります。頑固さがなくなり、「俺」という思い込みがなくなります。この段階で受は堪らないと、執着を学びます。つまりこれらの物は変化し、どこにも実体がないのが見え、受も心も、休みなく変っているのが見えます。


第四部 タンマーヌパッサナー(タンマを見る。法随観)

 第1段階。 体の無常を意識します。つまり呼吸、受、心が不変でないことを見、アニッチャーヌパッシー(無常随観)と言います。

 第2段階。 ヴィラーガーヌパッシー(離欲随観)。倦怠し、世界のすべての物に淡白になります。このようになったのを一呼吸ごとに意識します。これ以前はこのようにできません。他を見る必要はありません。体と受と心を見ます。第四部第1段階で無常を見ることによって、どこにも希望がないので、心は自然にヴィラーガ(離欲)に傾きます。

 第3段階。 ヴィラーガ(離欲)、あるいは倦怠、欲望が弛むことで、心は滅尽へ傾きます。涅槃を愛させるために滅尽(ニローダ)を意識します。この第3段階をニローダヌパッシー(滅尽随観)と呼びます。

 第4段階。パティニサッガーヌパッシー。心にはパティニッサッガ(捨離)、すべての物への執着を振り払うことがあります。


 この全四部は、最高に完璧な経であるアーナーパーナサティ経にある四念処です。アーナーパーナサティ経は、誰がアーナーパーナサティの教えを学ばせてくださいと言っても、完璧な四念処であり、完璧な七覚支であり、完璧な解脱であるこの経を教えたと思います。

 みなさん、この教えをこの方法を特別な道具に、性質を矯正できる方便に、分厚い随眠(潜在的な煩悩)を捨てられる道具にしなければならないと、しっかり理解してください。

 もっと短く言えば、本当に一呼吸ごとにすれば、世俗の面にもタンマの面にも使うことができ、良い考えがひらめき、記憶が良くなり、非常に理解が深くなります。


アーナーパーナサティ経のまとめ

 第一部 四種類の状態の呼吸(カーヤサンカーラ)を意識する。

 第二部 第一部の結果である、四つの受を意識する。

 第三部 心を四つの角度から意識する。

 第四部 タンマを、最も重要な角度である、無常随観・離欲随観・滅随観、そして捨離随観で意識します。

 これは、タンマは捨てることと指摘して見せることができます。世界の面は、取り込んで愛着するような正しい行い、良い行いで、タンマは反対に捨てることで、捨てるべき物から先に捨てて、世界の人は取り込むだけです。

 どうしたらこれを実践できるでしょうか。これらの物は捨てるべきで、持っていてはいけないと知らなければならない教えがあります。世界の真実を知ることは、世界の苦を減らし、喜んだり泣いたり笑ったりするのを減らします。

 こうなるだけでも良いことです。捨てるべき物を捨てることを知らないので、パティニッサッガを知らない、憐れむべき人です。つまりすべての欲しい物、愛好する物、満足する物は、本当には欲しがるべきでなく、愛好するべきでなく、満足するべきではないと知りません。正しい状態で関わることを知ってください。

 愛や満足の基盤である物は、蛇であって魚ではないと知れば、関わりを止めることもできます。関わるなら最高に賢く、できるだけ安全に関わります。しかし苦がないようにすることはできません。


 『愛は悲しみで買わなければならない』という言葉があります。

 体の快楽を求めれば、心の楽しみは消えます。反対に心の楽しみを求めれば、体の楽しみは消えます。

 どちらをどれだけ求めるかは、その人の智慧次第です。無常随観・離欲随観・滅随観、そして捨離随観の四つの知識が、何をどれだけ求めれば苦が減り、最後には嫌になって、蛇と遊びたく無くなるかを教えます。

 この方法を知っていれば、試験に合格します。落第しません。涅槃の最高の意味は一つですが、世界の面でもタンマの面でも使われます。子供も大人も適度に知っておくべきです。

 アーナーパーナサティ経の初めの三部は、ブッダが『この純潔は段階的に傾いていく』と言われたように、最後の部を知るために、涅槃に至るまで段階的に実践する行動の部です。(段階的な学習、行動、実践という意味です)。

 初めに、何か一つを練習素材にしてしっかり練習します。道具の練習でなく、練習のための道具です。練習は、時には何ヶ月も時間が掛かります。暇な時間があればいつでもできるので、少しの休憩時にもするべきです。

 アーナーパーナサティで眠れば、心を妨害するもの、曇らすものがある時より爽快です。アーナーパーナサティをすれば、それらは消えてしまいます。疲れていると呼吸が詰まり、アーナーパーナサティをすれば洗い流して疲れを取ることができます。悲しんでいる人、疲れている人を観察して見てください。息が詰まっています。アーナーパーナサティをして見れば、洗い流すことができます。

 子供の遊びの段階のアーナーパーナサティでも、疲労回復や心のリフレッシュには、非常に援けになります。狂わないよう体を管理するサティが生じて、呼吸がゆったりします。普通の「ゆったり」ではなく、ブッダの「ゆったり」です。

 第一部の呼吸は他の部の呼吸より簡単です。呼吸が滑らかになると幸福が生じます。第一部と第二部は誰でもできます。読んで見て、良く理解してから練習すれば、自然に知ります。自然が教えます。仕事や車の運転と同じで、初めには読んで理解し、練習を始めれば自然に知ります。こうしなければ駄目、ああしなければ駄目と、練習自体が教えます。このやり方で何ヶ月練習しても良いです。


 第一部の第1段階から第4段階まで、順に呼吸を滑らかにします。それを意識できるだけで、心と身体の具合が良くなり、それまでより爽快で、心の調子も良く、頭が壊れにくくなります。

 第二部第1段階は喜悦、満足で、それまで出合ったことのないものに出合い、それまで満足したことのない物に満足し、しばらく喜悦します。

 第2段階の幸福は、煩悩・蓋に妨害されない幸福を、どれだけ長く味わっても良いです。

 第3段階では、「心に考えを生じさせるのはこれだ」と知ります。つまりチッタサンカーラを意識し、心を変調させる物を意識して「このように心を変調させる。喜悦、幸福、受が犯人だ」と、このように見ます。

 心を変調させ、「善・不善・善でも不善でもない物」を生じさせる犯人である、友人の中に隠れている敵を見ます。受には心を変化させる義務があると見ます。この段階では、俺が俺をやっつけるために態度を見ます。

 第4段階では、心の変調がどのように静まるかを、一呼吸ごとに見ます。この部も凄いです。

 第一部と第二部を試しにして見て、可能な限り良く理解する努力をします。

 第三部は心を見ます。難しくありません。心はどんなか、姿形や表情を何通りに変えるか、全部見ます。他で細かく分類していますが、全部を知る必要はありません。悲しい心、清々しい心、小さい心、大きい心、怒りや貪りのある心、賢いあるいは愚かな心など、このように一呼吸ごとに見ます。

 順番で言えば九番目、あるいは第三部はいい加減にしないでください。使い物になりません。何をするにもゆっくりと綿密に、緻密で完全にし、何事もいい加減にしなければ、忍耐強い性質になります。その場しのぎでデタラメで、まとまりのないやり方は使い物になりません。この部は四つの角度から心を見ます。

 第1段階。心はどのようかを見ます。

 第2段階。歓喜の心を見ます。歓喜を生じさせて、それを見ます。

 第3段階。安定した心を見ます。

 第4段階。俺が減少して、静まった心を見ます。

 第四部タンマの部では、以前に使った物を、全部投げ返します。ブッダはすべての部で、第4段階を目標になさったと観察して見えます。初めに、どのような状態か見、次にそれが何をするか全部見て、それからそれがどのように減少していくかを見るのは、とても良い logic です。

 体・受・心の話も全部同じで、すべての状態を見れば、それがどのようか見え、それからどのように静まるか見ます。これがブッダの煩悩攻撃法です。蛇使いが自分自身は怪我することなく、じゃれ合うようにして蛇を捕まえるように、良く相手の状況を読んでから、正しく確実に捕らえる賢い方法です。




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