9.最高に短いアーナーパーナサティ経の言葉の定義





第一部 呼吸を意識する

 1.長い息を意識する

 2.短い息を意識する

 3.すべての息を「体を変調させる物(カーヤサンカーラ)」と意識する

 4.静まっていく呼吸(カーヤサンカーラ)を意識する。

第二部 受を意識する

 5.呼吸(カーヤサンカーラ)が静まったことから生じる受である喜悦を意識する。

 6.喜悦に続いて生じる受である幸福を意識する。

 7.心を変調させるもの(チッタサンカーラ)である状態の受を意識する。

 8.正しい方法でき、チッタサンカーラが静まったことを意識する。

第三部 心を意識する

 9.心の状態はどのようかを意識する。(今欲情しているか、欲情していないかなどで、何十種類もある)

 10.タンマの喜びを生じさせていることを意識する。つまり自分で支配できる物である喜びを意識する。

 11.常に自分が支配することで、心が安定していることを意識する。

 12.心が自然に開放されることを意識する。つまり心そのものが次第に減少していくのを感じる。(「心」と見ることが減少すること)

第四部 タンマを意識する

 13.過ぎてきたすべての物、特に呼吸・受・心の無常を意識する。

 14.無常を見ることから生じる欲情や執着の薄らぎを意識する。

 15.心が滅尽に傾いていくことを意識する。あるいは滅尽そのもの(つまり涅槃)を目標として意識する。

 16.心にあるすべての世俗的な物を、返却し始めたことを意識する。


 どの段階も忘れないでください。どの段階も一呼吸ごとにするので「アーナーパーナサティのそれぞれの段階」と言います。

 このようにすることを「完璧な四念処がある」、あるいは「完璧な七覚支がある」と言います。その後は聖向・聖果・涅槃のいずれかの段階です。

 すべてが解りやすく、読みやすく、頭が痛くならないように定義されています。時には訳しにくくて誤解します。せっかくパーリ(ブッダの言葉である経)から正しく訳しても、理解しにくいです。第三部の心がどのようかを見ることは、見れば見るほど、無常・苦・無我を理解するのにふさわしい、タンマの喜びが自然に生じます。心が雑で、落ち着きがなければ見えません。


 第一部  体を静まらせる。

 第二部  受による変調を少なくする。

 第三部  心を捕えて繊細に、働けるようにする。

 第四部  心にタンマを見させる。あるいはタンマをたわめて見る。

 一般的な言い回しの「心を撓める」という言葉は、どのようにタンマをたわめて、心と出合わせても良いです。二つを出合わせます。

 概略としてはこのようです。ブッダのアーナーパーナサティはこのようです。精神病になったり狂ったりしません。錯乱してしまうアーナーパーナサティは、ブッダが意図した正しい物ではありません。

どの部分がサマーディか。

 第一部  サマーディ

 第二部  サマーディと少しの智慧

 第三部  智慧が多くなる

 第四部  最高に完璧な智慧

 第一部は、正しくやってください。長い息を長いと知り、短い息を短いと知り、どのように長いか、どのように短いか知れば、正しい方法が段階的に生じます。ならなければ正しい方法でないという意味です。呼吸が滑らかになると、体も快適に、心も快適になります。本当は形禅定で、ヴィタッカ(尋)・ヴィチャーラ(伺)・ピーティ(喜悦)・スッカ(幸福)・、エーカカター(一境性)があります。

 第二部は二禅です。しかしブッダは定について言及されていません。定と呼べるのは4段階からですが、引き抜いて智慧にします。初めは定ですが智慧に格上げします。

 [ターン・プッタタートは、このアーナーパーナサティ経は何頁でもないので、読んで記憶するべきと言っています。アーナーパーナサティ経について質問されることが多いので、みんなが誤解していると見て、印刷するよう指示されました。]

 「ミッチャー」という言葉は、ミッチャーディッティ(誤った見解)からミッチャーサマーディ(誤ったサマーディ)まであります。

 「シッカティ」とは「意識すること、つまり心で学ぶことです。呼吸を意識するのはこの部の第4段階で終わります。どんどん静かになるので、呼吸を意識するだけ意識します。

 アーナーパーナサティはヴィパッサナーか。

 第一部から第三部まではヴィパッサナーの準備段階で、第四部がヴィパッサナーの本体です。

 ヴィパッサナーニャーナの9番がヴィパッサナー本体で、9番より前の部分はヴィパッサナーの準備です。

 どのような衣食住が、ヴィパッサナーの準備として良いか。「出家をする」と見なすよう提案します。いつでも常自覚で暮す練習をし、立ち、歩き、水浴し、排泄するにも、心を集中させて、食事や睡眠に恍惚としないようにします。それは自分と他人を苦しめる行為だからです。これがヴィパッサナーをする準備です。

 このアーナーパーナサティは外国に誇るべきです。フィジカルな結果、つまり身体に良く、肺に良く、胸に良く、何にでも良いです。メンタル(体に直結した心の部分)では神経に良く、心が善く強くなります。精神(体と関連のない心)的には苦がなく、貪りがなく、怒りがなく、恨みがなく、執着がありません。

 サッチャダンマ(真)は、論理学のように考えることではなく、推測することでもありません。サッチャダンマについて離す規則でまくし立てること、あるいは話すことは、サッチャダンそのものではありません。本当のサッチャダンマは実践することにあり、苦を溶かして本当の聖諦にし、あるいは何としても苦を捕らえて殺します。

 高い技術は(実践の)考えにあり、形ではありません。この身体を良く維持管理すれば、明を生じさせる泉になり、反対に維持管理が悪ければ、無明を生じさせる泉になります。

 ブッダは「世界も、世界を生じさせる道も、世界を消滅させる道も、この体の中にある」と言われています。ということは、苦も涅槃もこの体の中にあるということです。

 このようなアーナーパーナサティは、どのように滅苦ができるのか、アーナーパーナサティは八正道か否かを理解します。これらの問題にたくさん興味を持って、考える練習をしてください。

 変わらない教え、消すことができない大きな教えは、「苦・苦の原因・滅苦・滅苦に至る実践項目あるいは道」です。苦があったら、どのようにアーナーパーナサティで消滅苦させるか、はっきり見なければなりません。

 アーナーパーナサティをするのが好きなら、すべてを学んで、これらの問題に正しく答えられるようしなければなりません。

 アーナーパーナサティをすることは八正道です。正しく理解すれば、正しい見解があり、最後の部は、最高に正しい見解で、正しいサティであり、非常に正しい見解です。無常・苦・無我を見るのは、高い正しい見解です。

 望んですることは正しい意志です。話すことや仕事、職業も正しく、十分努力をします。している時は悪は生じません。もし生じたら捨て、善を生じさせ、それを維持して発展させます。十分な努力と見なします。

 アーナーパーナサティで本当に滅苦ができると見るからするのであり、人がしているから、人につられて、流行でするのではありません。そういう行動はヴィパッサナーではありません。ただ噂に踊らされているのであり、禁じられています。逆らってするのは馬鹿です。

 アーナーパーナサティの実践は聖諦を捨てません。苦は欲望から生じますが、アーナーパーナサティの最初の段階では欲望を脅して、働く機会を与えません。最後は欲望の根を断ちます。サマーディは煩悩を脅し、智慧は煩悩の根を断ち、戒は煩悩が暴れるのを防ぎます。病気に譬えられる苦は三つの場所にあります。

 1.体と言葉に現れる粗雑な病気。戒は体と言葉の病気を治します。

 2.心の病気。安定しようとする心に、寄って集って噛みつくいろいろな蓋。サマーディは心の外側の病気を治します。

 3.心の奥にある本性の病気。智慧は一番深い本性の病気を治します。

 アーナーパーナサティをしていることを、「正しい言葉・正しい行動・正しい職業に、揃って戒がある」と言います。アーナーパーナサティの初めから中程まではサマーディで、心を支配しているいろんな蓋を除き、最後は智慧で、最も深層にある本性を攻撃します。病気がすっかり治るか否かは、その人の能力次第で、治らなくても、一時的に良くなるか、部分的に良くなる利益があります。

 アーナーパーナサティをすることは、心の中で「執着しない」と念じるのと同じで、三帰(ブッダ、教え、僧に帰依すること)があります。布施はすべてを捧げること、すべてを犠牲にすることができます。心がサマーディの状態であれば、俺、俺の物という執着が静まり、全世界、あるいは権威と呼ばれる物は、一時すっかり掃き出されてしまうので、布施です。

 アーナーパーナサティをする最初の段階は、胸と肺と呼吸を一つにさせなければならないという問題。

 なぜブッダは、強制するように「長い、短い」と述べたのでしょうか。そう述べたのは、すべての呼吸をしっかり意識し、どう長いか、どう短いかを学ぶためです。人は普通は短い息をしています。そういう呼吸は身体の望みと出合わないので、疲労や憂鬱を感じたら、しばらく長い息にします。長い息・短い息はこのようになっています。

 これを課題にして観察し、謎を解いてしまえば、息は少なくなって、ちょうど良いところに落ちつきます。短ければ簡単に知ることができます。サティが追いかけているので「知る」と言います。意識していなければ呼吸は自然より短くなりがちです。

 たくさん息を吸い込むことは体にとって良いことです。気息、つまり普通の命を吸い込むと言って、頭の古い人の衛生に適っています。現代の科学は、酸素をたくさん吸えば体に良い、健康に良いと言います。

 アーナーパーナサティの初歩でも結果はあります。世界の話としてしても良く、世界はタンマの助けになります。長い息ができれば長くします。健康や衛生が衰えることはありません。本当のタンマは長いのと短いのと、どちらも意識できます。全部を見ればタンマの結果があります。

 長い息、短い息がどのようかを意識するのは、あまり重要ではありません。長くすることにしましょう。長い息を長くし、短い息は速くします。観察し易いのはお腹です。胸やお腹が大きく脹らみ、大きく萎めば長い息です。胸やお腹が小さく脹らみ、小さく萎めば短い息です。この問題はあまり気にしないでください。

 時間でも、体でも、観察するようにします。パーリ(ブッダの言葉である経)では「長い・短い」という言葉を使い、「脹れる・萎む」という言葉はありません。何時間も何日も、長い息、短い息を観察すれば、自然に知ります。誰にか教わる必用はありません。これが第1項、第2項の説明です。

 第3項はすべての体を熟知した人になります。すべての体とは呼吸です。体中という意味でも良いです。呼吸がどう体を変調させるか、体を変調させる面を見ればカーヤサンカーラ(身行)と言います。

 アーナーパーナとは、呼吸が体を変化させることで、変化させなければ死にます。昔の人式に言えば、命、あるいは気息が入って体を養います。

 物理的に見れば、酸素が供給されなければ血液が損傷して毒になります。傷んだ血液が肺に集まったのが静脈血です。酸素は静脈血を動脈血にします。傷んだ血液を良い血液にして送り出して、再び体を営養します。呼吸が停まった人に酸素を送って助けられるケースもあります。初めに心臓マッサージをしてからすると、動き出すこともあります。

 酸素が体をどのように変化させるか、カーヤサンカーラの意味を理解すれば、カーヤサンカーラである呼吸には名誉です。あまり呼吸に体を変化させないでください。呼吸が滑らかなら、呼吸が静まると同時に体も静まります。一呼吸ごとにそれを見、それを知り、静まっていくのを感じるのが、第一部第4項です。

 すべての呼吸について、たくさん変化させているか少しかを見、変化させる力が弱まっていくことを見、疲れている時は呼吸が強く、あるいは静かでなく騒々しいことを観察します。愛や怒りや嫌悪などで乱れたら、これらの症状を静めたいと思ったら、呼吸を滑らかに調整して静めます。第一部第3項は「長い・短い」という観察項目を設けないで、どのように変化させるかを見ます。

 第4項はどのように治まるか、どのように静まるかを一呼吸ごとに見ます。呼吸が静まるのを見るのであり、呼吸自体を見るのではありません。本当の呼吸を見るのは第1項、2項、3項です。

 チャトゥとは四、カとは部、チャトゥカは四部、あるいは四種を一つの部にまとめたという意味です。

 第一部。カーヤーヌパッサナー(身随観)は体を見ること。これができるだけでサマーディになり、ウパチャラサマーディ(近行定)が得られます。あるいはアッパナーサマーディ(根本定)のこともあります。煩悩や欲望を脅して働きを止めることができます。次の段階の結果を望むなら、次の段階をします。

 第二部。体と呼吸が静まると、ピーティ(喜悦)が生じ、ヴィタッカ(尋)は意識すること、ヴィチャーラ(伺)は呼吸を熟慮し、ピーティは満足で、エーカカターは心が一つに集中します。このようにできれば、多かれ少なかれピーティが見えます。ピーティが多くなったら、呼吸よりピーティをたくさん意識して、力を明らかにします。

 古い様式では「お坊さんを招く」と言い、お坊さんがいると染みるようないろんな喜びが生じます。よく注意して喜悦を意識してください。霊験ある物にしないでください。馬鹿です。保証できません。そういうことにあまり興味をもって欲しくありません。錯乱します。どう感じても興味を持たないで、受を知るために喜びを生じさせるだけにします。

 この受は悪玉です。ブッダは受について知るために「是が非でも受に勝たなければならない。世界に意味があるのは受があるから。執着も受でする」と言われています。サーリープッタは、基本として受を熟視し、熟慮して阿羅漢になりました。

 これは、なぜブッダが「受に勝てば苦を捨てることができる」という教えを入れたか説明している教えです。受に勝てなければ道はありません。目・耳・鼻・舌・体を通した受は体の旨味であり、厚く強く貼り着いていて、取るのが困難です。五欲は捨てるのが難しく、五つ方向の受は熟知するべきなので、それを熟慮します。

 受の味は上等でも下等でも幸福です。サマーディから生じた緻密で上品な幸福の方が、天の物より良いので、そっちにします。しかしこれはある種の天の物と見ることもできます。最高級の受を感情(考える素材)にします。

 喜悦と幸福を知るのは、まだ涅槃ではありません。「心に何も生じないとこのように幸せだ」と知ることは、受であって涅槃ではありません。似ている部分はありますが、涅槃の方が高くて緻密です。

 受の働きは何か、どうしたら静められるかを知るために熟慮する時、受を良く知るとは、受の味を良く知ることです。呼吸が体を変調させるように、受は心を変調させます。受はチッタサンカーラ(心を変調させる物)という栄誉を受けます。

 受がどう心を変調させるか、五蘊について学んで知ります。受が生じて幸福、苦、満足、不満足、愛、嫌悪を生じさせ、これらの考えや感覚を生じさせ、受が心を変調させる面を見て、変調させる原因と縁を知ると、非常に賢くなります。このように心を変化させる受を見ることを「チッタサンカーラを熟知する」と言います。

 「ヴェーダ」とは知るという意味で、味を知ることです。識のように知ることではありません。ヴェーダはヴィダ、あるいは聖ヴェーダー(バラモン教の聖典)からきています。このヴェーダと同じです。

 受のように知れば、幸福なら愛させ、苦なら嫌わせ、苦でも幸福でもなければ、愛すか嫌うか確かでない気持にさせ、幸福とも不幸とも分けられない感覚、躊躇、逡巡、錯綜、疑いの気持です。


 ローパ(貪)・トーサ(瞋)・モーハ(痴)の違い

 ローパ(貪り)   引き寄せて自分の物にすること。掻き獲ること。

 トーサ(怒り)   突き放すこと。放棄すること。

 モーハ(痴)    引き寄せるか突き放すか良く分からないこと。

 受と名がつけば、心を変調させなければなりません。その顔つきをよく見知って、それが何物か、何のため、何が原因か、これからどうなるのかを知り、心を変化させる物について知り尽くします。何かを知悉したいと思ったら、次のよう流れで知ります。

 1.それは何か。

 2.何が原因か。

 3.何のために。

 4.どのように消滅するか。 → 四聖諦の系統で知る

 どうすれば何としても結果、あるいは最も良い物、あるいは滅苦に至るか。

 受が繊細になって静まるのを、正しい方法で静まるの観察し、恩恵と害を、倦怠が生じるまで見て知ります。しかしここでは、受の影響が減少するのを見せたがっています。

 調整して微妙にし、初めのように強くないよう、弱くします。見れば見るほど弱くなるという教えを掴みます。第一部第4項と同じように、喜悦と幸福が消えるまで、つまり変調させなくなるまで意識します。結果は受を知り、変化することを知り、受が維持できないことを知ります。それを次の段階で使います。

 第三部。心自体を見、受は見ません。何かを感じている心の状態はどのようか、知ります。大念処の中でたくさんに分けていますが、たくさんあって憶えきれません。いろんな角度から見て知ります。一言で言えば心はどのような状態かを、聖諦の要領で、つまり「それは何か、なぜ、何のために、そしてどう消滅するか」を熟知します。心がどのようかは、受による変調に関連しています。

 次は心を歓喜させて、タンマの中にいさせます。自然に歓喜になるのを待つのは堪らないので、歓喜するようにしなければなりません。つまり、自分自身が善い物を得たとか、あるいは善い物があると満足することで、喜悦と幸福が自然に生じ、禅定から満足が生じます。この項目には知識が必要です。智慧があれば、その歓喜が、心をより深いサマーディにします。

 時には誤った使い方をすることがあります。これは非常に説明しにくいです。アッタカター(解説書)でも曖昧です。自分でやってみて、そしていろんな知識を集めなければなりません。貪りや怒りや迷いのある心は歓喜ではないので、いつも歓喜するよう大事にします。心を歓喜にする方便で心を大切に護って歓喜にします。

 以前に悪事をしたことがあると考えるなら、ここで清算しなければなりません。何らかの方法で、それらを取り除きます。仏教の懺悔です。罪や悪事を犯していたり、恨みがあれば、どうしたら歓喜にできるかよく勉強してください。勉強しなければなりません。

 善で帳消しにします。以前にした善行があるなら、「凡人に生まれれば当然過ちをする。これからは正しい事をしようと願おう。間違ったのは無知だったから。誤りを認めさせてください。今は賢くなったので、善悪を知り、二度と悪い事をしないと確信できるので、罪を認めて清算し、償いをします」と懺悔します。

 慈しみを広げることは罪を思うことであり、過ちを償うことでもあるので、歓喜にすることができます。三業を思い出してください。八正道は善業、悪業の終点です。慧能の経にも罪を思って心を歓喜できれば問題はないとあります。

 正しく、強く、敏捷で、上品で、知ることができる状態。このちょうど良い状態のためには、まず執着を抜き取ります。下品さも薄れ、心が静まったのを感じます、あまり「俺」を感じなくなり、心に執着することも少なくなり、自分という理解をしません。要するに心が小さくなります。

 心が乱れればまだその段階ではなく、ふさわしくなく、まだ無理です。心がギラギラしていれば自我です。心が大胆でこの部に執着しているなら、智慧は半分くらいです。

 第四部。アニッチャーヌパッシー(無常随観)、ヴィラーガーヌパッシー(離欲随観)、ニローダヌパッシー(滅尽随観)、パティニサッカーヌパッシー(捨離随観)。

 初めはアニッチャーヌパッシーで、無常を見ます。それは休みなく加工されていて、実体はありません。くるくる変化し、かなり気まぐれです。変わらない実体があるなら、気まぐれのはずはありません。それは流れだけで、自然にそうなります。確実でなければ苦です。休まず変化している物は、満足できない、気まぐれな自然があります。私、私の物と捉えるべきでしょうか。だからそれは無我です。

 アニッチャーヌパッシーは無我を含んでいると理解してください。三人組、つまり無常・苦・無我はどこへ行ったのかは、一緒にいます。別れていません。無常には、苦と無我が含まれていなければなりません。苦と言ったら、無常と無我が必ず含まれていなければなりません。

 この初めの項目は、一呼吸ごとに三相を見て、何を見ても首を横に振ります。このように見れば何も欲しくありません。以前は握りしめていた手が弛み始め、ヴィラーガ(離欲)の状態、弛むこと、薄れることがあります。

 ヴィラーガ(離欲)とは欲望が薄れることです。以前は、蛇を魚だと思っていましたが、魚ではなく蛇と分かると執着が緩むように、強く捉えていた執着が弛みます。何も執着するべき物はないと、いつでもこのように見れば、滅尽に傾き、つまりニローダ(滅尽)で、何も望む物はないと見ます。

 ニローダを、これは拠り所になると見ます。ウパサマーヌサティと言い、煩悩と苦の滅尽である涅槃を感情として意識します。

 最後の項目はパティニッサッカ、振り払うこと、掴まないことです。これはサッチャーヌローミックニャーナ(諦随順智)で、振り捨てるのは、それまで掌握していたものである世界です。心身と呼ぶことも、五蘊と呼ぶこともできます。

 誰が捨てるのでしょうか。因と縁と知性が捨てる人で、最高の知性が、飛び出します。

 自分がなければ、誰が苦から脱すのでしょうか。答えられなければ苦からの解脱を知りません。

 大抵の人は、こういう話について話したくありません。タンマでない角度で反論されるからです。つまり必用でない話、誰も良く理解できない話、神秘的な話をするのが好きで、急ぎの話や必用な話をしません。


 全四部のタンマの話は述べたとおりで、そして順に次の部が生じます。それは完全な四念処です。四念処の新しい名前は「涅槃に直行する、占有一級道」です。苦を根絶させる物であり、アピチャナー(欲)とトーマナッサ(憂。体まで害の及ばない苦)を全部追い出します。

 愛も憎も尽き、それ以後は泣くことも、笑うこともありません。これがアーナーパーナサティ経を遵守する人の功徳です。それは四念処を完璧に行うことであり、七覚支も完璧になります。

 ボッチャ、あるいはボーディは悟ること。

 ボーディ、ボッチャ、ボッジャンガ(七覚支)は悟った七項目のことです。


 アーナーパーナサティの中の完全な七覚支はどのようか。

 アーナーパーナサティの中の完全な七覚支は、

1.サティ  常にある。一呼吸ごとにしているので、非常に良いサティ。

2.択法   いつでも広く調べている。

3.精進   休まず忍耐努力する。

4.喜    同時にある。

5.軽安   静まること。体が静まり、受、最も重要な心、取で執着しないことにあり、最高に穏やかになる。

6.定    ブッダが称賛する類のサマーディ。

       オーラハンタリックサマーディはアーナーパーナサティのどの過程にもある。

       心が智と智慧の中にあれば、最高にサマーディに達した。

       第一部  全部サマーディ

       第二部  智慧が混入する

       第三部  智慧が非常に覆う

       第四部  智慧が覆い尽くす

7.捨   すべてのサンカーラに動じないこと。「欲しくない、なりたくない」と見える種類の捨。サンカールベーカーヤーナ(行捨智?)になると、愛していた妻が浮気をしているのを見れば、捨てることができ、それ以後は妻と見なさないことに譬えられます。

 執着がなくなるので振り捨てることができ、平静でいられます。これは向こう側に注目しているので、高くなった捨です。これが本当の捨で、オーラハッタニャーナ(阿羅漢智)の中にあります。執着しないで平静です。いろんな状況、いろんな種類の平静がありますが、七覚支の捨は他の捨と種類が違います。

  七覚支の捨は、無常と苦と無我が見えることによる平静で、魅力を感じません。ヴィラーガ(離欲)、ニローダ(滅尽)、そしてパティニサッカ(捨離)へ傾きます。

 「病人が七覚支を聞けば病気が治る」と言われているのは、七覚支が素晴らしいので、タンマの喜びが受を支配して、タンマを求め、非常に強い喜びがあります。タンマによる満足で、それ以上の喜びはありません。その人が経験した満足や喜びがまだ残っていても、それは受を静めることができます。

 以前にあった他のこと、純粋な戒などについて考えると、喜悦で蛇の毒を覆うことができます。その人が持戒をしていればそうなります。その感覚は非常に強いので、蛇の毒を無効にすることができます。こうでも説明しなければ、他にどう説明したらいいか知りません。

 苦は、かつてした善行を考えることで癒されます。ほとんどの人は善行より悪行をすることの方が多いので、思い出して受を支配できる善がありません。だから受は、受を支配することができる強力な善を手配し、善に執着して死も辞さなければ、こういうのは非常に強烈なので、蛇の毒と勝負できます。要するに上手くいくかどうかは心次第です。

 心を正しい方法で訓練するのは非常に不思議です。間違った方法でも正しい方法でも、期待以上になります。正しい方法なら涅槃に到達することもできます。阿修羅の隊列が神の隊列から逃げて、蓮の茎から降りてくるのを見た人は、心で何か特別のことができる証拠です。しかしそのような特別なことは道ではないので話しません。私が話すのは、無常・苦・無我から滅尽までの話です。

 喜悦歓喜がなければ心が乾いてしまいます。アーナーパーナサティをして心を歓喜にすることを知っていれば、正しく生きられます。

 私たちの義務は、脚と脛の力で地を蹴って、橋の一番高いところへ到達することです。そこに到達したら、もう努力する必要はありません。「涅槃は無料。お金で買う必要はない」とブッダが言われています。お金を出して買う信者たちは気の毒です。

 彼らは喜んでお寺にお金を使います。鶏が卵を生んでも要りません。飼い犬に食わせます。犬が飼えます。(鶏とは宗教)

 鶏を飼えば飼うほど欲深くなり、取が強くなります。その人たちは私たちがしている実践に興味を持つべきです。

 鶏の卵について言えば、卵は犬に食わせ、誰も満足する人がいません。

 法話、あるいは説法の内容を変えて、多少は智慧について話すべきです。

 アーナーパーナサティの実践は、このようにすれば期待どおりの結果が得られると捉えないでください。各部で段階的に心を静めれば、最後に倦怠、欲情が減少し、「欲しくない、なりたくない」と見て振り捨て、最高の結果が得られれば正しい方法です。そのとおりにすれば問題がなくなるのではありません。良く理解してください。

 教えについて思うのは、アニッチャーヌパッシー(無常随観)、ヴィラーガーヌパッシー(離欲随観)、ニローダヌパッシー(滅尽随観)、パティニサッカーヌパッシー(捨離随観)を見て、執着しないことです。無常と、薄れることと、滅亡を見てタンマを尊重し、そして常に振り捨て、常に取を振り捨てます。美しい物、楽しい物を、美しい楽しいと捉えれば、パティニサッカと言いません。美味しい、美しい、楽しい、上手などは、言葉だけにしましょう。

 アニッチャーヌパッシー(無常随観)、ヴィラーガーヌパッシー(離欲随観)、ニローダヌパッシー(滅尽随観)、パティニサッカーヌパッシー(捨離随観)が見えれば、キリマーナンタ経の中の「要らない、ならない」になります。この実践項目にはいろんな名前がありますが、全部同じで、要するに「要らない、ならない」です。

 毎晩アーナーパーナサティをすれば、昼は完璧なサティがあり、心は堅忍不抜で、少なくとも常に爽やかです。十五分の休憩時間も、散歩や他のことをするより、アーナーパーナサティをする方が良いです。利益があって健康に良いです。これは初歩の利益ですが、次第に「俺、俺の物」が薄くなります。

 アーナーパーナサティをすればするほど「要らない、ならない」になります。すべてがたった一つの結果、つまり振り捨てること、「いらない、ならない」に導き、取がなくなり、滅尽に傾きます。




次へ ホームページへ 法話目次へ