7.技法によるサマーディ・ヴィパッサナー





1956年5月11日
判事になる人のための研修

 判事になられるみなさん、この講義の初日は「仏教は何が何かを教える学問と実践規範であり、それ以上ではない」と話しました。そして何が何かという言葉の意味を噛み砕いて説明しました。

 二回目は「すべては無常であり、苦であり、無我であると知る」という話で、三回目は「すべては無常であり、苦であり、無我であるにもかかわらず、すべての物に人が迷わされて執着しているのは、四つの取の威力によるので、取について詳細に理解しなければならない」という話でした。

 四回目は直接煩悩を断つことを目指す、三学について説明し、そして五回目は取の基盤、執着する物である五蘊の話、六回目は煩悩を断つために、そしてほとんど自然に、あるいは常識的に進めるために、ヤタープータニャーナタッサナ(如実智見)、五蘊の真実を明らかに見ることを生じさせる方法について話しました。

 今日はニャーナダッサナ、明らかな、明確な知識を生じさせる技法、または課程として残されている厳密な規則について話します。今回は「技法によるサマーディとヴィパッサナー」と題させていただきます。

 ブッダの言葉の中にはありませんが、後世のアーチャンが作った物なので、資質が未熟で、自分で自然の苦を見ることができない実践者には向いている方法と見なします。特にそれまで、何も人生の真実を見たことがないのに、ヴィパッサナーをするのを好み、あるいは熱狂する人たちには向いています。現代にもたくさんいます。

 いずれにしても既に説明したように、この技術的な方法は、自然にする、あるいは常識的な物より素晴らしいという意味ではありません。三蔵のパーリ(ブッダの言葉である経)を調べて見ても、講義したような自然の方法について語られているだけだからです。

 中には徳やバーラミーのある人、あるいは資質的に熟している人、あるいは時期が熟している人などは、遊びのように簡単に苦を感じることができる人の話もあります。

 次に高い徳も資質もなく、今まで訓練することがなかった人たちは、どうしたら良いかという問題があります。そこでその方は、性急な、あるいは初めからきっちり実践する方法を作りました。規則にしたがって厳密に、段階的に進まなければなりません。つまりまだ高い資質のない人のために作られた技法に関する厳密な規則なので、知っておくべきです。

 ニャーナダッサナ(智見)、明らかに見ることを生じさせるために本気で実践する規則は、三蔵がパーリ語から他の言語(サンスクリット語)に翻訳された時、直接経典を学ぶことである「カンタドゥラ」に合わせて、新たに「ヴィパッサナードゥラ」と呼びました。

 ヴィパッサナードゥラは内面である心の訓練だけです。内面のいろいろなことを学ぶことであり、経典とは関わらず、最後にヴィパッサナーと呼ばれる明らかに見る力が生じます。

 「カンタドゥラ」と「ヴィパッサナードゥラ」の二つの言葉はパーリ(ブッダの言葉である経)に由来していません。三蔵の中には見当たらないと理解しておいてください。ずっと後の時代の、アッタカターダンマパダ(発句経)などに見られます。

 ヴィパッサナードゥラは、仏教教団員が直接熟慮に努めることで、本気で苦を絶滅させる人の用事、あるいは仕事と規定できるかもしれません。これをヴィパッサナードゥラと呼びます。別の言葉を使う必用はありません。人々がヴィパッサナードゥラと呼ぶもの、あるいはアッタカター(解説書)の時代の人がヴィパッサナーと呼んだ規則について話しているからです。

 ヴィパッサナーという言葉は、多少ぼやけることがあります。つまりサマーディを生じさせるためにする部分が一つ、智慧を生じさせる部分が一つと、心の働きを明確に二つに分ける場合があります。これは前に説明しました。

 それともう一組、サマーディを生じさせる部分をサマタバーヴァナーと言い、智慧を生じさせる部分をヴィパッサナーバーヴァナーと言います。だからヴィパッサナーという言葉の意味を狭めて、智慧の部分だけにしています。

 しかし本来ヴィパッサナードゥラという言葉は、サマタバーヴァナーとヴィパッサナーバーヴァナーの両方の意味を併せていなければなりません。つまりサマーディも智慧もです。

 それ以上に、バーヴァナーでも何でもない戒を部下として、あるいはサマーディの基盤として入れています。ヴィパッサナーの実践を良く理解するために、昔のアーチャンはよく問題提議をしました。初めの項目は、

 ヴィパッサナーの基盤は何か。

 何をヴィパッサナーと観察する物の状態とするのか。

 ヴィパッサナーと呼ぶ物の用事、あるいは仕事、行動は何か。

 ヴィパッサナーの最終的結果は何か、です。

 ヴィパッサナーの基盤は何かという問の答えは、戒とサマーディがヴィパッサナーの基盤であり、拠り所です。ヴィパッサナーとは明らかに知ることだからです。真実を洞察できるのは、心を曇らす物が何もなく、心に喜悦と歓喜がある時だからです。

 これには戒は非常に大きな援けになります。戒に欠けなければ、純粋な戒があれば喜悦歓喜があるので、戒は不可欠です。木こり、あるいは森全体を開墾する人は、地上に立つ場所がなければ仕事ができないのと同じと例えています。

 だからこの場合の大地は戒です。あるいは戒は大地に例えられ、森を開拓する人、あるいは煩悩を断つ人の基盤です。戒がなければ、仕事をする地面がないのと同じなので、立つための大地である戒は不可欠です。

 木を切る力をサマーディに譬えています。働く力であるサマーディが必用です。智慧、あるいはヴィパッサナー本体であるニャーナ、智慧は、刃物、あるいは切ることに例えています。明らかに見ることは、当然闇である無明を断つことです。以上の理由により、戒は必用不可欠です。

 ヴィパッサナードゥラの冒頭で「ヴィパッサナーの基盤」と言っているくらい、森を開拓する人にとって足場と同じです。だからみなさんごが理解しているように、戒はヴィパッサナードゥラの一部として組み込まれ、切り離せない物です。

 このような言葉はパーリ(ブッダの言葉である経)に直接根拠があります。パーリ・中部では、実践の純潔について七段階に分けて述べられていて、最後は聖向聖果に到達します。純潔の七段階の最初に、シーラヴィスッディ(戒清浄)という戒、つまり純潔な戒を挙げています。

 シーラウヴィスッディ(戒清浄)はチッタヴィスッディ(心清浄)である純潔な心を生じさせ、心清浄はディッティヴィスッディ(見清浄)である見解の純潔を生じさせ、見解の純潔はカンカーヴィタラナヴィスッディ(度疑清浄)である懐疑を超える知識の純潔を生じさせます。

 次に懐疑を超える知識の純潔はマッガーマガニャーナダッサナヴィスッディ(道非道智見清浄)を生じさせます。つまり「何が道か、何が道でないか」がはっきり見ることの純潔です。何が道か、何が道でないかがハッキリ見ることの純潔は、パティパダーニャーナタッサナヴィスッディ(行道智見清浄)である、実践に関する知識と見解の純潔を生じさせます。

 行道智見清浄は最後の項目であるニャーナダッサナヴィスッディ(見智清浄)、つまり聖向と対である聖果を生じさせます。聖向に到達すれば、聖果について述べるまでもありません。避けようもなく自然に生じるからです。だから実践の最終段階の説明を、聖向で終わりにしています。

 この段階的な実践を、昔の王様の旅に例えています。旅には速くて良い馬車を使いますが、馬は現代の自動車のように長時間走ることはできません。だから一定の距離ごとに馬と車を用意しておいて、次々と乗り継ぎました。王様に急用ができたら、初めの区間の人は馬車を走らせ、区間の終わりで二番目の人に引き継ぎます。

 二区間目の人は三区間目まで馬車を走らせ、三区間目の人は四区間目の人に引き継ぎ、王様は車を使う現代人と同じように、一日に何百キロも移動でき、区間ごとに乗り継ぎ、その日のうちに目的地へ着くことができました。

 この譬えを、初めに話した七区間あるヴィスット(清浄)、あるいは純潔の譬えに使っています。最初はシーラヴィスッディ(戒清浄)、戒の純潔で、必用不可欠な物です。だから戒はヴィパッサナー一族の基礎であり、働く足場として必用な大地のように、分けることはできません。

 戒は以前の講義でほとんど説明したので、「体と言葉が正常なこと」とまとめることができます。この戒という言葉の「体と言葉の両方が正常なこと、害がないこと」と、短い意味を憶えてください。

 五戒、十戒、あるいは何戒でも、戒を分けることは重要性ではありません。行動と言葉に正常でない物があれば、まだ戒という意味の正しく完璧な戒がないと言います。正常なら、つまり体と言葉に罪や妨害が生じなければ、戒があると見なします。だから私たちは、自分の戒を正しく持すことができ、この原則を踏まえていれば間違いはありません。

 人を殺し、物を盗み、他人が大切にしている物を犯し、嘘を言えば、体や言葉に異常と大混乱、憂鬱が生じます。あるいは礼儀や社交で少し間違ったことをしただけでも、自分に言い訳するだけでも、行為と心に正常でない苦が生じます。これを「戒がない」と言います。

 だからたった一つ戒を持すだけで、三蔵すべての戒をすることができます。体と言葉、両面の正常さを維持し、害が生じないようにすることで、仏教すべてをする道があります。戒にはそういう意味があると憶えておいてください。戒とは正常という意味だからです。しっかり憶えてください。

 正常ならば当然静かさ、つまり体と心のちょうど良い状態があります。あるいはチッタヴィスッディ(心清浄)と呼ぶ心の純潔が生じます。これは三学の講義の時、サマーディについて詳しく説明しました。ごく短くまとめると「サマーディとは、心が内面の仕事をするにふさわしい状態にあること」です。つまりサマーディの状態を表すカンマニヨー(一境性)です。

 一方サマーヒトー、パリストー、パリヨータートーなどは、カンマニヨーほど重要ではなく、心の仕事をするのにふさわしい状態です。これがサマーディの正しい意味です。岩のように体を固くして感覚がなくなることを意味しません。あるいは禅定に入って、禅定の幸福に惚けてしまうことでもありません。

 それは心の面の仕事をするのにふさわしい状態ではありません。心がすっきりと爽やかで満足できる時も「今サマーディの性状がある」と言います。そして心の面の仕事、あるいはヴィパッサナードゥラをすることができます。

 次は五つの純潔、つまりディッティヴィスディ(見清浄)、カンタドゥラヴィスッディ(度疑清浄)、マッガマガニャーナダッサナヴィスッディ(道智見清浄)、パティパダニャーナダッサナヴィスッディ(行道智見清浄)、そしてニャーナダッサナヴィスッディ(如実智見清浄)です。これが本当のヴィパッサナーです。

 もう一度繰り返させていただきます。七つのうちの初めの二つは戒清浄と心清浄で、ヴィパッサナーの入り口です。後の五つ、見清浄から先がヴィパッサナー本体です。

 そこで順番を改め、純潔な見解があるという意味の、見清浄を一番にします。この場合のディッティ(見。見解)とは、何かに執着する時に使う道具である考えという意味で、誰にでもあります。つまり常に心の基盤になっている考えです。

 ヴィパッサナーの初めはディティの純潔と言い、間違った考えのない純潔を意味します。初めから自然に間違っていた、あるいは特に環境によって間違ったのでも、理由もなく妄信する呪術から、身体や心や魂などの自然に関わる誤解まで、これらを誤解して「不変だ、良い物だ」、あるいはその物、動物、人、人間、神、梵天、あるいはすべてを霊験のある有難い物と見ます。

 「それらはただの四大種」と見ることができません。身体の部分、魂(識)は心の部分、そして空は何処にでもある基礎と見ることができません。あるいはすべては形と名、あるいは体と心と見ることができず、その物に見え、神聖な魂、あるいは霊魂が身体に出たり入ったりしていると見ます。

 名形と見えず、五蘊、つまり形・受・想・行・識と見えず、六処、つまり眼・耳・鼻・舌・体・心と見えません。だから感覚は霊験のある物、有難い物に傾いて、次第に恐れが生じ、恐怖を解消するためにいろいろな儀式が生まれます。終いにはそれらの間違った見解、誤った信仰によって、いろいろな儀式に深くのめりこみます。これをまだ純潔でない見解(ディティ)と言います。

 これらの誤った考えを捨てて、純潔にしなければなりません。そうすればヴィパッサナーの一つ目になり、見清浄と呼びます。現代人の言葉で言えば、学術知識のある人、あるいは論理的な人と言うべきです。すべての自然現象に関する正しい理解があれば、ディティヴィスッティ(見清浄)、見解の純潔があると言えます。

 自分自身に関わる物の状態の理解を最大限にし、本当に有益に使ってください。そうすれば自分自身をヴィパッサナーと呼ぶ物、つまり明らかに見ることの入り口に立たせることができます。

 短くまとめると、見清浄とは、自分、動物、人、お前、俺、我々、彼らのような言葉は、部分的な状態にすぎず、五蘊、あるいは形と名、少なくとも体と心に分類することを知る見方と定義しています。

 その物、つまり動物や人間、あるいはそのような分類という仮定に迷わされないでください。さもないと空を見ても神に見え、川を見ても神に見え、木を見ても神に見え、あるいは神が存在すると見えるようになります。

 私たちは水を水と、空を空と、そしてそれらは何のダートゥ(要素。界)で構成されているか、どんな状態かを知らなければなりません。かつて水を神と、空を神と見ていた理解は消滅します。

 これは見清浄を理解する時に比較する物です。人について言えば、チェッタブータ・魂の話、あるいはそのような物と迷わされないでください。自然の要素、あるいはいろんな自然の元素が組み合わさってできた物と理解します。

 そうすればヴィパッサナーの初めの項目、見清浄であり、明らかに見え始めます。この見清浄が、続いて度疑清浄を生じさせます。


 カンカーヴィタラナヴィスッディ(度疑清浄)について詳しく熟慮して見ると、度疑清浄とは、初めに分類した物をもう一段階深く、ある部分の要素について考えることです。見清浄は「人は体と心にすぎない」と見ます。

 次の度疑清浄の義務は、体と心はどんな部分があるか分類することです。だから私たちが体と心と呼ぶ物は、無明、欲望、取、カンマ、食事などによって非常に精巧精緻に作り上げられたと、より深く見ていきます。

 疑義を超える純潔と呼ばれる度疑清浄は、すべての物のダートゥ(元素)を明らかに見るという意味です。私はあるかないか、私の身体はあるかないか、死後再び生まれるか、生まれないか、以前に生まれたことはあるか、これから先また生まれるのかというような疑問を疑義と言います。ヴィパッサナーの規定では、この疑義をおよそ二十から三十に分けています。

 要約すると、自分はあるのか否か、自分はあったのか否か、これから自分はあるのか否かに関した疑問です。これらの疑義を超えるには、自分はなく、あるのはダートゥ、蘊、六処だけ、そして蘊や根を作り上げているいろんな縁、たとえば無明、欲望、取、カンマ、食事などと知らなければなりません。

 自分がなければ、自分がある、自分はあった、これからもある、というような愚かな理解は消滅し始めます。このような疑義がすっかりなくなれば、ヴィパッサナーの二番目と言うことができます。しかし自分と捉える原因である煩悩がすっかり消滅したという意味ではなく、更に微妙なのが残っています。

 心を妨害するこれらの疑義は、いろいろな因と縁によって作り上げられているという知識によって、雑な段階であっても「自分」を引き抜くことができ、これらの疑念は静まります。


 このような疑義を超える段階になると、これから行く正しい道はどれか、行かない道、つまり正しくない道はどれかという知識の純潔である、マッガマッガニャーナダッサナヴィスッディ(道非道智見清浄)を生じさせることができます。この段階に入るのを妨害する物はたくさんあります。

 ヴィパッサナーをしている時生じていると明らかに見えるのは、前に説明した、心がサマーディである時に生じたことがあるいろんな物です。心がサマーディの時は、奇妙で不可思議ないろんな物がよく生じ、しすぎる人の心を虜にします。

 そして眼を閉じていても不思議な光が内面で見えるように、実践者の心を虜にする物を生じさせないサマーディはどこにもない、と言うほどになります。

 もっと見たいと心を傾ければ、もっと凄いことになります。「これがヴィパッサナーの結果だ」と誤解したり、あるいは「これが私の偉大さだ」と喜ぶこともヴィパッサナーの道である、聖向聖果を明らかに見ることを妨害します。だから著者は「道ではない」あるいは「間違った道」と見なしています。

 もう一つの例は、喜悦や満足などが生じすぎれば、いつも心に溢れすぎ、それ以後は何も熟慮できなくなります。あるいは「これが今生きているうちに見る涅槃」と理解します。このようなことも前進を妨害します。これもヴィパッサナーの障害物で、道でない物が生じて前方を塞ぎます。

 他にもニャーナ、つまり名形を明らかに見ることも、時には自分は真実を知る卓絶した人物だと満足し、その明らかに見ることに自惚れて混乱することがあると述べています。これも間違った道、あるいはヴィパッサナーの障害と言います。そうなるべきではありません。

 時には心が静まりすぎて、ただ静かに静まっているだけ、タンマを熟視する方向へ傾かないこともあります。時には体の面になりすぎて、何かを熟慮する、あるいはより高い努力をする前に、体が固く鈍くなってしまうこともあり、非常に大きな妨害と言えます。前進を阻むと同時に、卓絶した能力と錯覚してしまいます。

 だから入定、禅定だけに溺れて満足する人は、智慧の道に進めません。他にもあります。一番陥りやすいのは、それまで出合ったことのない類の幸福や満足の感覚が生じることです。生じて、説明できない不可思議でその人を計り知れないほど満足させます。

 体と心がものすごく幸せで、いろんな問題は心からさっぱりと消えてしまいます。以前に愛していた物の話を考えても愛しくなく、以前に憎んでいた物の話を考えても憎くなく、以前に恐れていた物、気掛りだった物、いろんな心配ごとを考えても、そのような感覚は生じてきません。

 だから誤って「自分はすべての煩悩から解脱した」と理解してしまいます。すべての煩悩から解脱した人の状態と似ているからです。

 そのような状態にある間中、そのような状態に満足していれば、ヴィパッサナーの道を妨げます。そしてすぐにそのような状況は消えてしまい、以前に恐ろしかった物は元通りに恐れ、以前に愛した物は元通り愛し、何もかも元の状態に戻ります。これも一種類、あるいは一つのグループです。

 もう一つ信仰と呼ぶもの、それまでそんなに強くはなかった信仰が、三宝、あるいは自分が信じたい物に対して非常に強くなります。タンマへの満足感も強烈になります。すべての物に対する平然さも強烈になります。心を捕らえて迷わせる物によって、場合によって違います。

 これを書いたアーチャンは、ヴィパッサナーの進むべき道でない物をこのように説明しています。これらの状態に初めて遭遇した人が、これは障害物、あるいはヴィパッサナーを妨害する物と理解するのは、非常に困難で、反対にヴィパッサナーの絶頂だと見てしまう人ばかりです。

 だから難しいです。「これはサンニョージャナ(十分結)を断ち、微妙な煩悩を断つヴィパッサナーを妨害する物」という真実が見える智慧が生じた時、ヴィパッサナーの三つめの、道非道智見清浄である、何が正しい道か、何が間違っているか、見解の純潔があると信じます。

 その人は良く学び訓練して、すべての点で正しいヴィパッサナーの道が、はっきり見える智慧が生じるまで、自分がずっと正しい道を歩み続けるように努めなければなりません。

 正しい道、間違っている道に関して、このように完璧な見識があれば、当然次の段階のヤーナ(智)も、当然正しくなります。そして段階的に進みます。すべてのサンカーラの真実を明確に見ることから、何物にも動じないことまで、心は素晴らしい聖諦に到達する準備が整います。

 実践法に関する知識の純潔であるパティパダーニャーナダッサナヴィスッディ(行道智見清浄)は、ヴィパッサナーの四つ目、あるいは純潔の六番目に当たります。元のパーリ(ブッダの言葉である経)、つまり三蔵にはこれに関する詳しい説明がないので、学ぶ人はウッパティッサの清浄道経を模して、ブッダゴーサ師が書いた清浄道論など、後世の書物にある説明を利用します。


 これらの後世のアーチャンたちは、行道智見清浄を九段階に分けて九ウィパッサナーニャーナと呼びました。


1.ヴィパッサナーで心が正しく進行すると、波頭の泡の発生と消滅でキラキラしている海のように、いろいろな有の発生と消滅だけ満ちている、すべてのサンカーラ(行)の生・老・病・死を見て、これらのサンカーラの発生と消滅の状態だけをしっかり熟慮します。

 このような状態の知識・見解をウダヤッパヤーヌパッサナーニャーナ(消滅随観智)と言います。発生と消滅を熟視するニャーナ、知識という意味です。便宜のために短くウダニャーナと呼びます。これらの知識が安定するまで十分長い時間明らかに見る結果は、次の段階で倦怠する力にするために心を染める、あるいは愚かさを削り、それに対する執着を抜き取るのと同じです。これがヴィパッサナーニャーナの一番です。


2.一度に発生と消滅を同時に見るのは粗雑で、一方だけを見るより、心の力がぼやけます。だからこの段階では一方を捨ててしまいます。つまり発生は見ないで、崩壊、あるいは滅亡を深く強烈に見るために、消滅だけを注視します。すると一帯に豪雨が降っているように、この世界には崩壊、あるいは滅亡以外には何もないと感じます。

 そのような感覚のある心を、バンガーヌパッサナーニャーナ(壊随観智)と言います。崩壊や滅亡を見るニャーナ、知識という意味です。これがヴィパッサナーニャーナの二番目、略してバンガニャーナです。


3.十分に次々に崩壊を見ていくと、三番目でバヴァ(有)、つまり「すべての存在は恐ろしいもの」という明らかな感覚が生じます。欲界も、形界も、あるいは無形界も、どの界も恐ろしさでいっぱいです。あるいはすべての有は、常にすべてのサンカーラの崩壊である恐ろしい状態がいっぱいです。

 だから明らかに見える人の心に、本当に最高の恐怖が生じます。そしてその正しい恐怖は、明らかに見える物の一つとして常に心にあります。毒薬や武器、あるいは凶悪な強盗などのように、恐ろしい物ばかりが、三界にぎっしり詰まっていて、他には何もないと感じます。

 そのような感覚がある時、アーチャンはバヤトゥパッターナニャーナ(恐怖現起智)と呼び、恐ろしさに満ちたサンカーラ(行)を見るという意味です。略してバヤニャーナと呼び、ヴィパッサナーニャーナの三番目です。


4.すべての有は恐ろしさでいっぱいと十分に感じたら、次の段階では、すべてのサンカーラ、あるいはすべての有は、凶悪な害だけがあり、それらのサンカーラと関わる安全などないという見解が生じます。獰猛な動物、ライオンなどがいる森は、森で楽しみたい人にとって休憩するべき場所でないのと同じです。

 すべての有はこのように害ばかりと見える感覚を、アディナーヴァンヌパッサナーニャーナ(過患随観智)と呼びます。すべてのサンカーラの害を見、意識するニャーナ(智)という意味です。略してアーディナヴァニャーナと呼び、ヴィパッサナーニャーナの四番目です。


5.すべてのサンカーラを恐ろしいと見、すべての極微(それ以上分析できない単位。一微塵の七分の一)は害で満ちていることを熟視すれば、すべてのサンカーラに倦怠を感じ、火事で燃え落ちた家の残骸のように見えます。火事で燃え落ちてしまった家には、何の魅力もありません。

 すべてのサンカーラと一緒にいなければならないことに倦怠を感じることを、ニッビターヌパッサナーニャーナ(厭離随観智)と呼びます。倦怠を意識するニャーナ(智)、知識という意味で、略してニッビターニャーナと呼び、ヴィパッサナーニャーナの五番です。


6.このように本当の倦怠が生じると、それらのサンカーラと混じっていることから本当に脱したい気持ちが生じます。ここで言う脱出したい気持ちは本当にあり、十分にあり、私たちが普通に思う「脱出したい感覚」と違います。普通の感覚にはサマーディの力、あるいは真実を見る力の後押しがありません。

 ヴィパッサナーの段階のニャーナのように、本当に脱出したいのではないからです。みなさんは遊びで仏教の勉強をし、遊びで実践でも何でもしています。そこが違います。

 ヴィパッサナーの段階で生じる倦怠は、心全体が全部そのようになり、恐怖を感じた分だけ脱出したく思います。初めに話したように、すべての有は恐ろしい物でいっぱいと感じれば、脱出したい気持も、すべての有の大きさと同じだけあります。だから本当に脱出したがります。

 その脱出したい気持を、蛇の口中でもがいている蛙などの小動物と同じくらい強いと、そのアーチャンは譬えています。どれくらい逃げ出したいか考えて見てください。今ニッピターニャーナ(厭離随観智)がある勤勉な人は、それと同じくらい、すべての有から脱出したがります。

 もう一つの譬えは、鹿、あるいは小鳥でも何でも、罠に掛かってもがいている動物が罠から脱出したいのと同じだけ、サンカーラドゥッカ(行苦。すべてが変転することから生じる苦)から離れたいと言います。

 あるいは捕獲されて柵に入れられた野性動物のように、動物たちが逃げ出したいのと同じだけ、ニャーナの段階までヴィパッサナーを進めてきた勤勉な人も、すべての有から、つまり恐ろしい物で満ちている欲界、形界、無形界から脱出したがります。

 そして昔の人は当時の信仰で、夜叉に捕らえられたお月様の絵を大きな木の板に描いて彫り、お寺の扉に嵌めこんで人々に見せて、お月様が夜叉から逃れたがっているのと同じように、私たちも三界、つまり欲界、形界、無形界から逃れたいと教えました。

 このように本当に、あるいはこれほど強く脱出したい気持を、ムンチットゥカムヤターニャーナ(脱欲智)と呼びます。脱出したい願望を生じさせるニャーナ、知識という意味で、ヴィパッサナーニャーナの六番です。


7.次は、脱出したい気持が強く、十分になれば、脱出する方法を探したい気持も抑え難くなります。だから何とか方法を探したい気持が非常に強くなります。この感覚をパーリ語でパティサンカーヌパッサナーニャーナ(省察随観智)と言います。脱出す道を探すことに注目するニャーナ(智)、知識という意味です。

 この項目を熟慮することは、「すべての有がこのような状態なら、私たちも脱出したい」と、良く調べることです。何か方法はあるか熟慮すると、心を有に貼りつけている煩悩や取がねっとりついているのが見えます。そこで煩悩の力を弱めていく方法を探し、煩悩の力を弱めてから攻撃します。

 アーチャンは、煩悩の力を弱める方法を探すことを、次のように譬えています。ある人が魚のシカケを見に行って蛇を掴んで、蛇と知らず、魚と思い込んでしっかり抱き抱えて持ち帰ります。誰が「蛇だ」と言っても信じようとしませんが、非常に知性と慈悲のある和尚に噛んで含めるように説明してもらうと、やっと魚ではなく蛇だということに気づきます。

 すると恐ろしくなって、蛇を殺して蛇から逃れたい気持になり、蛇の首を掴んで頭上に持ち上げ、巻いているとぐろを解き、衰弱するまでぐるぐる振り回してから手を放すと、遠心力で遠くへ弾け飛び、ぐったりと投げ出されて、そこで死んでしまいます。それでも死ななかったら留めを刺します。

 この譬えは、青ざめるほど恐ろしい有に結び付けている煩悩が明らかに見えた人は、煩悩の力を弱めて、それから殺すという意味です。毎日毎日煩悩を衰弱させる方便や智慧がなければ、煩悩を殺すことはできません。

 煩悩は非常に力があり、まだ弱い、まだ少ない、煩悩を殺すことを教えられたばかり智慧に比べて、比較にならないほど威力があるからです。だから智慧を十分熟させなければならないと同時に、煩悩を苦しめて衰弱させます。

 前に話したように、すべての物は無常・苦・無我であり、欲しくないなりたくないと、常に、もっと強く見ることは、煩悩の餌を断つこと、毎日煩悩の力を弱めていることです。そしてこの時期は、より緻密に巧妙にしなければなりません。

 これが山のように大きな煩悩に、ちっぽけな私たちが勝てる方法です。(著者である)アーチャンは、自分は小さな猫でも、虎の二、三頭を殺すくらいの勇気が必要と譬えています。本気で決意して、小さな自分に合った方法を探さなければなりません。

 正面から戦ったら敵わないので、いろんな策略を使って日に日に力を衰弱させ、それでも常に力を弱めず、追い詰めて殺さなければなりません。このような方便をパティサンカーヌパッサナーニャーナ(省察随観智)と呼び、ヴィパッサナーニャーナの七番目です。


8.煩悩を衰弱させることは、その度いろんな物に動じなくなる原因です。だから次の段階はサンカールベーカーニャーナ(行捨智)、すべてのサンカーラに動じなくなる原因である知識という意味です。

 このニャーナはすべてのサンカーラ(行)がないこと、自分でなく、動物でなく人でなく、実体、つまり永久不変でなく、苦で満ちているので幸福でなく、見ればうんざりするので美しくないと、このように見ることの上に立っています。そして最終的にはすべての有、つまり欲界、形界、無形界のすべてに動じなくなり、かつて愛し溺れた物を見ても、石や土や煉瓦の塊に見えます。

 この項目をアーチャンは、次のように譬えています。以前は非常に気に入って愛し合っていた人が、たとえば妻が愛人を作っていたように、裏切られていたことが判明すると、以前は愛しいと思っていたのに、裏切られたと分かると愛想が尽き、離縁してしまった後は、彼女がその後何をしようと彼女の勝手、まったく気にならないのと同じです。

 八番目のニャーナがあるほど心が高くなると、かつては快適であり、動物にとっていろいろ魅力的だったすべての有、つまり欲界、形界、無形界も、何も意味が無いと知り、裏切られたと知ったので別れた妻に興味をなくした男のように、すべての有に無関心になります。

 このサンカールぺーカーニャーナはヴィパッサナーニャーナの八番目で、略してウベーカニャーナと呼びます。


9.このようにすべての有に動じなくなれば、心は聖向である預流向、一来向、阿那含向、阿羅漢向のいずれかになる真実を知る準備が整います。このような状態の心をサッチャーヌローミックニャーナ(諦随順智)と言います。煩悩結を撃滅して、いずれかの段階の聖人にする聖諦を知るための、最高の準備を整えるニャーナ(智)という意味です。ヴィパッサナーニャーナの九番目、略してアヌローマニャーナと呼びます。

 消滅随観智から始まって最後の諦随順智まで、ヴィパッサナーの九段階が十分に完璧に経過すれば、パティパダーニャーナダッサナヴィスッディ(行道智見清浄)と言います。ヴィパッサナーの四つめ、あるいはウィスットの六番目です。つまりヴィパッサナー、あるいは明らかに知り煩悩を断つ智慧の、進行を見る智慧の純潔です。

 次の純潔の七番目は、智見の純潔という意味のニャーナタッサナヴィスッディ(智見清浄)、つまりアリヤマックニャーナ(聖向智)のことです。最後のヴィパッサナー、あるいはヴィパッサナーの結果は、四つあるアリヤマッガニャーナ(聖向智)で、ヴィパッサナーの四番めです。

 ヴィパッサナーニャーナの九番であり行道智見清浄の最後であるサッチャーヌローミックニャーナ(諦随順智)と、七番目のヴィスッディである智見清浄の間に、凡人と聖人を分ける物であるゴートブーニャーナ(種姓智)が挟まっています。

 しかし種姓智の期間はあっという間に消えてしまうので、行道智見清浄と一緒にしておくのが良いです。このニャーナ(智)が凡人と聖人の間に位置しても、あるいはこのニャーナが涅槃を感情として引きとめておく段階まで来ていても、まだ欲のある善だからです。

 この五つのヴィパッサナーは次のように要約できます。

 一つめは見解の純潔、ディッティヴィスッディで、以後は間違った見解はありません。人や動物をいろんな部分に分けられるからです。

 二つめはカンカーヴィタラナヴィスッディ(度疑清浄)と言い、疑義を超える知識の純潔という意味です。際限なく構成するそれらの物の因と縁を知るからです。

 三つめのヴィパッサナーはマッガマッガニャーナダッサナヴィスッディ(道非道智見清浄)と言い、何が正しいか何が間違いか、どれが道かどれが道でないかを知り、心の精進から生じる普通の人の想像以上に奇妙な不可思議な物に迷いません。

 四つめのヴィパッサナーはパティパダーニャーナダッサナーヴィスッディ(行道智見清浄)と言い、ヴィパッサナーニャーナ(観智)九段階のことです。すべてのサンカーラ、あるいはすべての有を貫通するニャーナ、あるいは智慧で、非常に鋭敏で、煩悩が残れない原因です。

 五つめのヴィパッサナーは預流向など、四つの聖向です。(その後は、当然聖果になり、そしてどれだけ煩悩、あるいは苦が滅亡したかを自覚するニャーナが生じます。ここでは実践と関わりがないのと、大きな問題なので言及しません)。すべては本当のヴィパッサナーの五つの段階です。ヴィパッサナーの基礎の二つである初歩の戒清浄と心清浄を加えると七段階になります。


 ヴィパッサナーを実践するには、先日すでに説明した自然法、あるいは常識的な方法に対して技法と呼ぶことができる、後世のアーチャンが規則として作ったこれらすべてに、興味を持たなければなりません。

 たった一時間、ヴィパッサナーについて説明して分かっていただくのは、とても無理です。本当は何時間話しても足りません。しかし大きな項目と、誤解を防ぐための要点、後で自分で正しく考える指針はこれだけです。

 だから後で、自分自身で引き続き詳しく調べることができる、ヴィパッサナーの初歩的な知識を学んだと捉えてください。以上の理由から、これは仏教の実践の重要な物なので、取り上げて解説しました。

 学習の範囲外の問題と捉えないでください。これらの種類の実践について知らなければ、仏教、あるいは仏教の実践の教えを深く理解できないからです。


 まとめると、ヴィパッサナーの話の教育には段階的な原則があります。

 ヴィパッサナーの足場は何かという問いには、戒とサマーディと答え、ヴィパッサナーに励むために意識する物は何かという問いには、すべての物、すべての世界と言うこともでき、三界、すべてのサンカーラ(行)でも良く、五蘊と言うこともできます。前に述べたように、三界には五蘊以上の物はないからです。

 ヴィパッサナー、あるいは真実を見ることの状態は何か、という問いの答えは、無常・苦・無我を見、三界は発生と存在と消滅で満ちていることを見、そして最後に恐ろしい物、飽き飽きする物でいっぱいと見て、欲しい物、なりたい物はないと見ます。これらの状態は、ヴィパッサナーに現れなければならない状態です。

 何がヴィパッサナーの、用事、あるいは義務かという答えは、愚かさ暗さを排除することです。ヴィパッサナーは明らかに見ることだからです。

 ヴィパッサナーの結果は何かという問いの答えは、明るさ、静けさです。聖向が生じ、すべての物を見抜くことができ、煩悩を滅亡させる明るさ、清潔さです。

 もっと短い項目にまとめると、戒とサマーディがヴィパッサナーの基礎。残りの五段階のヴィスッディ(純潔。清浄)が本当のヴィパッサナー本体。無常・苦・無我を知り、すべての世界、あるいはすべての界、あるいはすべてのサンカーラ、あるいはすべての蘊、呼び方次第ですが、それの知識を探求します。

 仕事は愚かさと、すべての世界へ熱中を断ち、(完璧な智慧で)明るくなることです。その後取は残らないので、心を有に縛りつける物は何もありません。だからヴィムッティ(解脱)、あるいは世界からの解脱、有からの解脱という状態が生じます。

 何も欲望や期待がないので、心に苦はありません。このような状態をアーチャンは「苦の終点、涅槃という聖果への到達、仏教の仕事の極み」と呼びました。

 すべては、私たちの智慧の系統は、関連する七段階の純潔でどのように進んで行くか、そして、あと九段階の世界を突き貫ける智慧が育くまれる状態を表しています。全部まとめて、技法、あるいはテクニックの形のヴィパッサナーと呼びます。枝葉末節の細かいことはいろいろなアーチャンたちの本で学ぶことができます。

 しかし誤解が生じてその誤解に迷わされ、ヴィパッサナーでない物をヴィパッサナーにし、商売のヴィパッサナーが生まれ、新しいタイプの聖人を生じさせる、非常に哀れな、信じさせるヴィパッサナーが生まれるのを防ぐために、大まかな流れはこのようになっていると理解しておいてください。

 事件が起きても、知っていればみんなで防ぐこともできます。あるいは正しいか誤りか、適切に判断できます。

 時間になりましたので本日の講義はこれで終わらせていただきます。



          黒板に書かれたこと

  1.シーラヴィスッディ            戒の純潔

  2.チッタヴィスッディ            心の純潔

Ⅰ 3.ディッティヴィスッディ           考えの純潔

Ⅱ 4.カンカーヴィタラナヴィスッディ      疑義を超える知識の純潔

Ⅲ 5.マッガマガニャーナダッサナヴィスッディ  道と道でないものを見る知識の純潔

Ⅳ 6.パティパダーニャーナダッサナヴィスッディ 修行の知識(九観智)の純潔

   ①ウダヤッバヤーヌパサナーニャーナ     発生と消滅を見る(消滅随観智)

   ②バンガーヌパサナーニャーナ        消滅だけを見る(壊随観智)

   ③バヤトゥパッタ-ンニャーナ        恐怖に満ちていることを見る(恐怖現起智)

   ④アーディナヴァーヌパッサナーニャーナ   害が満ちていることを見る(過患随観智)

   ⑤ニッビダーヌパッサナーニャーナ      倦怠で満ちていることを見る(厭離随観智)

   ⑥ムンチトゥカマヤターニャーナ       強く脱出を願う智慧(脱欲智) 

   ⑦パティサンカーヌパッサナーニャーナ    脱出の道を探す智慧(省察随観智)

    ⑧サンカールペーカーニャーナ        動じない智慧(行捨智)

   ⑨サッチャーヌローミックニャーナ      真実を知るにふさわしい智慧(諦随順智)

Ⅴ 7.ニャーナダッサナヴィスッディ       真実を知る智慧の純潔(智見清浄)

    聖向  :  聖果




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