6.自然のサマーディとヴィパッサナー





1956年5月11日
判事になる人のための研修会講義

 判事になられるみなさん、今日の講義は私の個人的な話から入ることをお許しください。今朝目が覚めると、前に「我思う、ゆえに我ありと言ったのはベルグソンです」と申し上げたことがあるのは、間違いだという考えが生じました。本当はデカルトで、原著はラテン語で「コジット エルゴ サム」と言うことまで思い出しました。

 正しく発音できません。知っているのは「我思う、ゆえに我あり」という訳だけです。近くに泊まっていた人に辞書を借りて調べたら、そのように出ていました。知りたい方は調べてみてください。チェンバーの辞書なら巻末の特別語の所にあります。

 この個人的な話は、誤りを正すためであり、「四足にして躓くことあり、大学者にして誤ることを知る」と言われるように、記憶違いだったことを告白することでもあります。私はまだ大学者ではないので、まだしょっちゅう間違っています。いつものことです。それに、あまり憶えたくないことに関しては間違いが多いです。あまり信じないので、憶えたいと思わないこと。そういうことはよく間違います。

 デカルトの言った言葉は、心身を自分と捉えるインド人たちの間では、二千年以上も前から言われています。デカルトはまだ十七世紀の人です。そんな訳であまり関心がありません。あまり興味がない、あるいはあまりその人を信じていないことが、しっかり記憶しない理由です。

 このことから、人は信じない、あるいはあまり信じない人、あるいはその理論は、良く憶えられないと観察するようお願いします。だから憶えたければ、信じられるまで良く理解しなければなりません。とくに仏教のいろんな教えに関しては、良く勉強して、信じられるまで理解しなければなりません。そうすれば憶えられます。

 もう一つ観察していただきたいのは、心が落ち着いて瑞々しく明るい時は、タンマを理解できる時ということです。あるいは悟ると言われる、つまり何もしないで簡単に悟れるのかもしれません。ぼんやりした記憶もはっきりと浮かび上がってきます。何かの原因で苛立っていたり、疲れていたり、あるいは気が散っている時は、記憶も錯綜します。記憶の話はそれほどです。

 だからタンマの真実を知るためにサマーディがあるようにする話は、それ以上です。冒頭の個人的な話はそれを証明しています。この例は、何かを話したり考えたりすることにサマーディがあるようにするには、喜び、または清々しさがなければならないという実例です。この機会に、タンマの真実を明らかに知るにはどうするか、とうい方法を講義させていただきます。


 最初に、仏教は「何が何か」を知る学問、あるいは知る実践法ですと言います。次に「何が何か」とは、無常・苦・無我と言います。そして動物が無常・苦・無我である物に迷うのは取の威力で、だからそれらに夢中になっていると言います。

 次に知らせたいのは、三学は執着を断つことができる実践法で、最後に知っていただきたいのは、五蘊、あるいは世界を構成している五つの部分は執着の基盤です。

 だから五蘊、あるいは世界全体を、真実のままに知るために学ばなければなりません。そうすればニャーナダッサナ(智見)、すべての物を知る知識が生じ、手放して解脱することができます。ブッダにはこれまで話してきた実践法があります。戒は行為と言葉を正しくすることで、それからサマーディになり、心を心の面の仕事にふさわしい状態にし、それから智慧である熟慮をします。

 もう一つ知らせしたいことがあります。いろんな問題が心に溜まって日に日に増えても、みなさんは幸い教育があるので、いつか心が安定している時、あるいは心がンマニヨーと言われる状態、働く状態にある時に、自然に答えが出てくることがあることです。

 今私は、心をサマーディにするのは、儀式的な方法や、いろんな技法の一つを実践することではないと教えたいです。本当は以前にお話したように、人間が規定した技法を用いなくても、自然に生じることができます。

 だから自然に生じるサマーディと、特別な技法で実践をした結果生じるサマーディの二つがあり、求めれば同じ結果が得られます。つまりサマーディになったら、それを使って熟慮します。あるいは自然に簡単に熟慮できます。

 しかし注目すべき点は、自然に生じたサマーディは熟慮する智慧の力にふさわしいですが、特に技法で生じさせたサマーディは強すぎることがあり、持て余したり、霊験に溺れてしまう原因にもなり、サマーディだけに満足してしまうこともあるという意味です。

 心が十分安定すると、当然一種の幸福、一種の心地よさがあるので、それから満足が生じ、それを聖果と思って惑溺し、陶酔してしまうこともあります。

 以上の理由から、熟慮するのに向いている自然のサマーディは、注意深く生じさせ維持し、利用する術を知っていれば、技術的に生じさせたサマーディと比較しても何の遜色もありません。

 三蔵のいろんな項目には、自然の方法で、それぞれの聖果に達した話について語られています。ブッダ゙と対面している時もあり、他の人に説いているのを、傍で聞いている時のこともあります。後世になって作られた経にあるような技法で、森へ行って形式的に座り、何かを熟視したのではありません。

 特に五比丘、あるいは千人の行者が無我相経とアーティッタプリヤーイ経を聞いて阿羅漢果に達した時は、技術的な努力は一切していなく、本当に自然に悟っていると非常によく見えます。

 これは自然のサマーディは明らかに理解しようとする努力の中にあると、良く理解させる例です。そして明らかに見ることとぴったり重なっていて、分けることはできません。計算をしようとするだけで心が自然にサマーディになるように、あるいは銃を撃とうと狙いを定めれば、自然に心がサマーディで安定するように、自然にそうなります。

 みなさんが今、私の講義を聞いている場合も、講義の内容がしっかり理解できれば、あるいは講義の内容を逐一、しっかり熟慮できれば、当然そうした行為の中にサマーディがあるということです。

 これが自然に経過するサマーディの状態です。あまり有難くも見えず、あまり神聖にも見えず、あまり奇跡的にも見えないので、つまり少しも不思議ではないので、普段は見過ごされていますが、我々が危機を脱して来られたのも、ほとんどこの自然のサマーディの威力によっています。世尊の面前や別のいろんな場所で、多くの阿羅漢が聖果に達っしたのも、この自然のサマーディに依存しています。

 だからみなさん、この自然のサマーディを見損なわないでください。この方が早くできるかも知れません。早くでき、あるいは、ほとんどはできています。注意深く正しい方法育て、最善の経過にすれば、ほとんどの人は、新しいいろんな技法をまったく知らずに阿羅漢果に到達した人たちと、同じ結果が得られます。

 次はこの話に関連した自然の秘密です。五蘊、または世界を明らかに見るまでの、心の感覚の段階は、黒板に書いた順序をご覧ください。(文末に掲載しています)

 歓喜と喜悦。このプラモートとピーティという言葉はタイ語で使うのと同じ意味で、瑞々しい心、あるいは満足という意味です。これを初めの項目にしたいと思います。パーリ(ブッダの言葉である経)の多くがそうなっています。ここで言う歓喜、喜悦は、タンマの意味の、あるいはタンマがある歓喜、喜悦という意味です。

 多少幸運なのは、この歓喜や喜悦という言葉は、官能的な話に使われたことがないことです。少なくとも普通の話に使います。あるいは本来の意味から見て正しく言えば、喜悦歓喜はタンマから生じる物です。何らかの善をしたこと、特に「自分は善いことをした」、あるいは「悪を行なわない純潔と明るさがある」と、自分で自分を尊敬できることから生じます。

 そして現在も、自分自身を拝めるほど満足できる善を行っています。この歓喜と喜悦はなければならない物で、そうした行為や状態に例外なくあります。

 何らかの善を行えば、初等の善と見なされている布施でも慈善でも、歓喜や喜悦が生じます。戒の段階では、言葉や行為に汚点が無ければ自分を尊敬する気持が生じ、喜悦歓喜は増えます。サマーディの段階では、喜悦がなければなりません。しかしそれに関わる禅定や何やら、技術的なサマーディに関しては話しません。自然のサマーディについての話を続けます。

 もったくさん、自然に生じる喜悦、歓喜について熟慮してください。風景の良い、空気の良い、いろんな環境の良い静かな場所に座っていると心が瑞々しくなることも、この場合の喜悦、歓喜の状態の一種です。

 自分で「本当に善だ」と明らかに見ていることをすると、喜悦は最高度になります。寝ても熟睡し、爽やかで心地良く、喜悦と歓喜の恩恵があります。これはずべて自然に生じる喜悦、歓喜です。

 パーリ(ブッダの言葉である経)には、この種の喜悦についての記述が不思議なほどたくさんあります。法座、説教をする台座ですが、そこに座って説法している比丘にも喜悦があると述べています。法を説いて己の務めを果たしていることが喜悦、歓喜を生じさせます。これが原因で段階的に聖向聖果に到達した人もいます。

 この喜悦歓喜は、それ自体に一つの威力があり、パッサッディ(軽安)と呼ぶものを生じさせます。パッサッディ(軽安)とは静まるという意味です。普段私たちの心はあまり静まっていません。始終考えの奴隷、受の感情の奴隷、いろんな物の奴隷になっているので、内面は乱れていて静かではありません。

 タンマでいう喜悦、歓喜が生じて心を覆い、ある程度の力があれば、必ず心は静かになります。つまりパッサッディ(軽安)になります。パッサッディ(軽安)が多いか少ないかは、喜悦歓喜が多いか少ないか、どれくらいタンマかタンマでないか、どれくらい智慧があるかないかによります。

 このように心が静まると、当然サマーディと呼ぶ状態が生じます。つまり心は自然に、前に説明したカンマニヨーの状態になります。カンマニヨーという言葉は、現代人が好んで使うアクティブという言葉に一番近いと思います。軽快で手慣れていて、便利で、望みどおりに動く準備があるという意味です。アクティブ゙という状態はカンマニヨーという言葉の意味と同じです。

 心がパティパダー(道)、ニャーナダッサナ(智見)、ヴィスッティ(純潔)、パッサッディ(軽安)という状態で静まれば、本当のサマーディの状態です。つまり心の仕事をするのにふさわしいです。煩悩を絶つ実践の本当のサマーディは、心を岩のように静め、頑固に静めて体を鈍く固くすることではありません。

 本当は他にもたくさん普通の状態があります。しかし心には、知るにふさわしい特別な静かさがあり、最高に澄みきって非常に穏やかで、この上なく落ち着いていて、カンマニヨー、つまり知る準備が整っています。これが私たちが求めるサマーディです。

 石の人形のように固くて鈍い入定、禅定の中にはありません。そのような禅定の中にいては、何も熟慮、熟視できません。禅定から生じる幸福に溺れていては、タンマを熟慮できません。いつまでも禅定に陥っているだけで、熟慮に使うことができません。

 実に、熟慮する直接の障害と言えます。タンマを熟慮しようとする人は、禅定から出なければなりません。そうすれば定と言えるほどのサマーディがある心の威力は、熟慮の力、あるいは熟慮する道具です。

 ここでは禅定に入る必用はありません。サマーディである心、あるいはヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)と呼ぶ物を生じさせる、つまりすべての世界を真実のままに見る知識を生じさせるカンマニヨーの特徴が欲しいだけです。つまり自分が疑念の蔵に溜め込んでおいた問題に対する答えを、生じさせることができる知識です。

 タンマを説かれる世尊の面前に座っていた知者のように、あるいは後でどこかで熟慮して分かった人のように、儀式的なもの、あるいは執着や惑溺の基盤である奇跡など何もなく、自然な方法で答えを生じさせることができます。

 しかしこれは、すごい速さでニャーナダッサナ(智見)が生じて、すぐに阿羅漢になれるという意味ではありません。時にはヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)の初歩が生じるかもしれません。サマーディの力次第で、もっと特殊な場合には、ヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)が生じないこともあります。つまり真実と合致しません。

 それまで間違って学んで来たか、あるいは非常に誤った考え方の環境のせいです。しかしいずれにしても、生じる明確な知識は普通以上の特別な物です。たとえば非常に澄んでいて奥深く、理由があり、何でも普通以上の物があります。あるいはいつでもヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)と同じ力があります。

 次にその知識が真実で正しく経過すれば、つまりタンマで経過すれば、真実に向かって発展し、やがてヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)になります。つまりすべてのサンカーラ(行)に関わる知識が真実と一致すれば、僅かしか生じなくても初等の聖人になれます。

 もっと少なければカンラヤナープトゥチョン、つまり上級の凡人です。ふさわしい環境と、前から積んでいるいろんなバーラミー(涅槃に到達させる徳)が十分にあれば、すぐに阿羅漢になることも有り得ます。すべてケース次第です。

 しかしいずれにしても心が自然のサマーディなら、必ずニャーナダッサナ(智見)と呼ぶ物が生じます。そして多少は真実と一致します。仏教徒のみなさんは、真実を聞いたことがあり、考えたことがあり、学んだことがあるからです。

 特にほとんどの人は真実を理解したいと願って世界を見、蘊を見、サンカーラ(行)を見、いろいろ見たことがあるので、心が静まった時に生じる感覚には害がなく、当然利益になることばかりです。

 ここで「ヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)が生じる」という言葉は、すべての物の真実が見える、知るという意味です。特に以前の講義で、真実が見えれば「何も欲しい物、なりたい物はない」という感覚になると、短い言葉で述べたように、無常・苦・無我を見ます。

 だから仏教の教えを最高に短く要約した言葉、あるいは三相の三つの項目を明確に理解しなければなりません。パーリ(ブッダの言葉である経)には『サッべー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ』とあります。パーリ語で憶えにくければ、『すべてのタンマは、執着するべきでない』という意味です。

 タンマ、あるいはすべての物、何もかも執着するべきでないという言葉は、「これは私、私はこれ、私の物、良い悪い、あるいは普通、欲しい欲しくない、好き嫌い」などと執着するべきでないという意味です。

 何らかの感情があれば、満足する物も、不満な物も、それに執着すると言います。これは、自分の物として、ごっそり家に貯め込むという意味ではありません。考えるだけ、あるいは思うだけでも、愛着や満足、不満、心配、いろんな気掛かりで考えれば、ここでは執着と言います。

 「欲しくない、なりたくない」という項目も、何も執着するべき物はないという教えからきています。執着するべきなら、欲しいなりたいです。「欲しい」例を挙げれば、財産や金銀、動物、物、いろいろな満足をもたらす物。「なる」は私はこれだ、私はそれだということ。

 男・女、夫・妻、父・母、子・孫、金持ち・貧乏、勝者・敗者、扶養者・被扶養者、加害者・被害者、善人・悪人、人間・動物、天人・梵天、何だかんだというすべてを「なる」と言います。

 自分自身であること、あるいは自分であることも、良く熟慮すれば「自分はこの人だ」と執着することは楽しくなく、うんざりすることに見えます。苦の基盤だからです。「この人」と捉えて執着しなければ、苦はありません。これらを「なりたくないと見える」と言います。何でも、それなりの苦がある、という点が重要です。

 何かであることは、それであることに耐え、それを維持することに耐え、それであり続けるために戦わなければならないからです。自分がその何かであると執着し続けるために、少なくとも心の面の戦いがあります。これも戦いと言います。

 自分、あるいは自我があれば、自分の外部に必ず自分の物があります。つまり自分の物である別の自分があります。だから私の子、私の妻、あれやこれや、いろんな「私の物」があり、その結果、夫として妻としての義務があります。雇用主であること、被雇用者であること、あれでありこれであることのすべては、何であれ、それであり続けるために戦い続けなければならないと、「何かである」ことの真実を示唆しています。

 その立場を維持するために戦わなくても良い物は、何もありません。その戦いは、いろんな物やいろんな立場に執着する煩悩の結果、あるいは反応です。

 もう一つ理解できないのは、欲しがったりなりたがったりしてはいけないなら、どうして生きていけるだろう、ということです。これは、この問題について考えたことのない人にとって、大きな疑問かもしれません。この場合の「得る」「なる」は、述べた状態で、心で執着して手に入れ、なるという意味です。

 煩悩や欲望で「欲しい。なりたい」と執着し、そして心は本当に煩悩や欲望や取で執着します。だから心が重く、苦しいです。心は休みなく叩かれ、刺され、炙られ、最初から永遠に絡まれて支配されます。これが取で所有すること、何かになることの自然な苦、あるいは重圧、虐げです。

 この真実を知っていれば、それらの物と関わる時は道具として関わります。この項目で関わるので、自分の心がいろんな物の奴隷、あるいは「取の威力で得ることなること」の奴隷にならないよう護ることができます。知性がいろんな物より上に、得るなることより上になあるからです。

 本当には欲しがる価値はない、なりたがる価値はないと思っていれば、得ることなることが避けられなくて、所有しなければならず、何かにならなければならない時には、取の量に応じて、注意深く、それらの欲しがるべきでない物、なりたがるべきでない物と適切に関わります。つまり中道です。

 そうすれば愚かにも、良く調べもせずに手に入れて、何かになって、最後には自分の無明と取の沼に陥ち、自殺や、そのようなことをする人のように困ったことにはなりません。これは、得ることなることに執着しないで生きることはどのようかを表しています。

 それらの無常であり、苦であり、無我である、欲しがる価値もなりたがる価値もない物を、ブッダの智慧で所有し、なれば、つまり「本当は欲しがる価値もなりたがる価値もない」と知っていれば、それらに勝つために近づくのであり、それらの物に負けるため、あるいは奴隷になるために近づくのではないと言います。

 たとえば虎や毒蛇は高く売れる動物で、他にする仕事がなく、虎を捕まえて売るには、正しい方法で虎を掴まえなければならないのは当たり前で、だから虎を売って、そのお金で暮すことができます。方法が間違っていれば、虎で死ななければなりません。

 世界、あるいはすべての物、特に五蘊は、無常・苦・無我の状態があり、初めから、つまり欲しいなりたいと思った時、得たりなったりした時、そして所有したり地位を得てしまった時も、つまり「する前、している時、し終わった時」いつでも、欲望や取で執着する人を焼きつけ突き刺します。

 それらの無常であり苦であり無我である、欲しがる価値もなりたがる価値もない物に、良く調べもせずに頑固に執着すれば、愚かな凡夫のように、めいっぱい苦があります。

 誰もが崇拝する「善」も、間違った関わり方をすれば、そして執着しすぎれば、善からも苦が生じます。それらの自然がどのようか知って、それらにふさわしい形で関わる場合以外には。それならば「目が開いている人」と言います。「欲しくない、なりたくない」という、毒が隠されているすべての物と賢く関わる知性があります。

 みなさん、繰り返し述べている「欲しくない、なりたくない」という言葉の意味を忘れないでください。それは、欲しがる物、なりたがる物はないと知らずに、得たりなったりした人に苦をもたらします。何らかの理由で所有したり、なったりしなければならない時は、特にまだ煩悩を絶っていない状況では、「それらは欲しがったりなりたがる価値はない」と知っている智慧で、得るか成るかします。

 そういう行動に誤りはありません。過剰も不足もありません。適切で、それを所有することによる、それになることによる苦はなく、平安があります。

 欲しい物、なりたい物がなかったら、どんな職業にも就けないし、自分が持っているいろいろな財産を維持できないじゃないか、と疑問に思う人がいるかもしれません。これは、まだ十分理解していないうちは、いつでもある問題です。十分理解すれば、「正しく理解をしてからいろんなことをする方が、何も知らず、愚かさと騙され易さと貪欲でするよりも良い」と見えます。

 「知性でいろんな物と関わりなさい。欲望や取で関わってはいけない」と、このように短い要旨があります。欲望煩悩でいろんな物と関われば、何でも全然違う、智慧で関わったのと反対の結果が生じます。

 ブッダを長とするすべての阿羅漢の方たちが最高の聖果に到達したのも、煩悩や欲望や取がないからです。その方たちは、私たちよりずっと多くの利益のあることをしました。考えてみてください。これが理解できないのは、自分の無理解で、ブッダが間違っているからではありません。煩悩欲望を絶滅させるという言葉が理解できないからです。

 ブッダのように煩悩欲望を絶滅させた人は、みなさんたちよりももっと、終日終夜働いていました。毎日どんなことをしていたか、ブッダの伝記を読んでみてください。四時間眠るだけで、その他はずっと働いていたことが分かります。私たちよりたくさんのことをしています。私たちは休憩だけでも四時間以上です。

 なりたい、欲しいと思わせる煩悩が滅尽した後、何の力でしたのでしょうか。智慧プラス慈しみの力です。

 阿羅漢になる前、あるいはブッダになる前に、智慧と慈しみが生じるよう、常に自分を訓練し、鍛錬し、支配し、しつけし、自分自身を熟させました。だから毎日毎日その力は強くなり、煩悩の滅尽に到達しました。智慧の威力で煩悩が滅したことは事実ですが、智慧の力はまだ残っていて、尽きてはいません。慈しみもまだ力として残っています。だからブッダが大悟した後の、あるいはいろんな阿羅漢の方たちのいろいろな行動は、残っている智慧と慈しみの力に依存しています。

 それは残骸のように残っています。家主として飛び回っていた煩悩欲望がすべて死んで干からびてしまったので、残っているのは身体と心、あるいは純粋な五蘊、つまり煩悩欲望のない五蘊だけです。しかしこの純粋な五蘊には、智慧と慈しみが残骸として少なからず残っています。だからその後も智慧と慈しみの力で「走る」ことができます。

 こういう状態をエンジンを止めてしまった舟、または車に譬えることができます。それでも舟や車はモーメント、あるいは慣性と言われる残っている速度で、しばらくの間走ることができます。どれくらい走れるかは、当然それまで走っていた速度次第です。

 阿羅漢も同じで、智慧や慈しみの力で煩悩や欲望が滅尽しても、智慧と慈しみの慣性はたくさん残っているので、智慧の力で成すべき多くのことを為すことができます。

 ブッダはそれまで誰もなし得なかった種類の、非常に困難に満ちた遊説をしました。賃金や給料、あるいはそのような報酬のために働く人は、残っている純粋な慈しみと純潔な智慧で、何も期待せずに働いたブッダのように困難な仕事はできません。

 身体が自然に求める物、たとえば食べ物は托鉢に行かなければなりませんが、同じように残っている智慧の力で出掛けました。あれのため、これを得るためという煩悩欲望はありません。しかし善悪正誤を見分ける残っている智慧が、身体をして食べ物を探しに行かせました。違う点と言えば「あれば得るだけ」です。

 病気の時はどう治せば良いか知る智慧が残っているので、智慧が教えるだけの養生をしました。多すぎる話なら、崩壊しなければならないのは当たり前です。ブッダは快復したいという欲望が少なかったからです。

 生きていることも死ぬことも、ブッダにとっては意味はありません。あるいは価値は同じです。しかしあるだけの、できるだけの、するべき解決法を知る残りの智慧は、苦がないための最高の正しさです。

 話の主人である自分はどこにも必用なく、あるのは自然に経過していく身体を支配する智慧と、すべて形と無形のメカニズムだけだけです。自分が介入していないので、自然な成り行きになります。だからブッダは、特別な薬が欲しいとか、お金を作って特別な治療をしたがるほど、欲はありませんでした。

 しかしまったくない訳ではありません。良識が勧めるに任せ、非常に難しいことなら望まず、自然に治るまで、あるいは涅槃に入るまでそのままにしていました。これは当たり前です。

 しかし煩悩が滅亡したら、病気の治療に関わる気持ちがなくなるという意味ではありません。ブッダは智慧の力で生活し、飢えで死ぬ必用はありません。病気になっても、何も治療しないで死ぬ必要もありません。

 だから残っている純粋な智慧と純粋な慈しみの力で、阿羅漢の方々は生存し、あるいはこの世界で暮し、純粋に他人の利益を成すことができると見ることができます。その上、まだ煩悩のある人よりたくさんのこと、より高いことができます。何が欲しい、何を自分の物にしたいという欲望や煩悩のある人は、当然利己主義なので、自分の得になることしかしません。

 一方ブッダは純粋な慈しみと純潔な智慧でするので、そこに利己主義はなく、だからこそよりたくさん、より広く、より高く、より純粋です。

 阿羅漢を例に考えて見ると、欲しい物、なりたい物がないと明らかに見える人は、欲しいなりたいという人より、却って良い仕事ができると見ることができます。そしていろんなことに本当に正しく実践する人です。欲しいなりたいというのは、闇の一種です。闇と言うのは迷っていて、何が何か知らず、蓮の華と思って転輪(地獄の責め具)をかっさらって来るからです。

 人は闇に覆われています。あるいは闇に導かれています。それで行けるかどうか、考えて見てください。

 だからみなさん、職業である勤めも、何の勤めも、いつでも「欲しい物なりたい物はない」という知性で、あるいは「執着するべき物はない」という知性で、自分の義務をしてください。もともと欲しくない、なりたくない物にふさわしい対処をしてください。それらと関わらなければならない時、あるいはまだ所有し、何かにならなければならない時は、正しく、適切に関わってください。

 この項目は私たちの心を常に清潔で明るく、穏やかに維持します。そしてすべての物、あるいは世界と関わっても、毒や害にならないようにしてくれます。

 普通の人が「欲しくない、なりたくない」という言葉を聞くと、うんざりしたり、あるいは倦怠の基盤と感じます。しかし本当の意味が分かれば、反対に勇気と明るさ、あるいはすべての物の主人である心、自由な心になり、どんな物にも、それの奴隷にならない気持ちで近づくことができます。

 つまり暗い顔をして煩悩や欲望で近づき、それらの奴隷になることはありません。何かを所有しようとする時も、何かになろうとする時も、本当には得られない物を得ようとしている、なろうとしていると、常に自覚してください。自分の期待どおりに本当に得られる物などないからです。本当になれる物はないからです。

 それらはいつでも、無常であり、苦であり、無我です。欲望や煩悩で、私たちの愚かさで執着しているだけです。だからそれらに誤った扱いをしています。真実を知らないで関わるから、苦が生じ、すべての困難が生じます。

 それぞれの人が、自分の義務を純粋に潔癖に行えないのは、自分の煩悩や欲望の威力で真実の範囲以上に、あれが欲しい、こうなりたいと思うからです。だから自分自身を善や美、正しさや正義の枠内に維持できません。

 本当の原因はそれらの奴隷に陥っていることにあります。だからすべての物を真実のままに知ること、ヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)と呼ぶ物は、仏教の最高に重要な要旨であり、すべての物から救う道です。

 名誉や財産などの結果を望むことや、友情や社交交際など、あるいは天国に生まれたいと来生に期待するなど、世界の利益に関わることも、あるいは世界から解脱することである聖向聖果涅槃の話も、すべてはこのヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)と呼ばれる知識、正しい見解に依存しなければなりません。

 人は誰も輝きと明るさ、つまり智慧で発展する人でなければなりません。これはいつでも「智慧で純潔になる。他のもので純潔になるのではない」と述べているように、仏教の重要な要旨です。私たちの脱出口は「身も心も捧げて執着するべき物があるだろうか」と、つまり「欲しくない、なりたくない」と、すべての物を明らかに見る智慧にあります。

 今所有している物、今なっている物は「仮定とは何か。規定とは何か」と先日説明したように、仮定だけにしください。「私はこれだ、私はあれだ」と仮定するのは、名前を知るため、役割分担を知るため、社会的便宜のためです。

 人の仮定で「私はあれだ、これだ」と迷って執着しないでください。コオロギのような小動物に塗料で印をつけると、印をつけられると分けが分からなくなって、死ぬまで闘うのと同じです。

 人間も印をつけられて騙されると、同じように酩酊して、普通ではできないこと、殺人などを犯してしまいます。だから仮定に迷わされないで、それは社会に不可欠な仮定と自覚してください。この身体と心の真実、特に無常・苦・無我とは何かを感じなければなりません。自分は、いつでも自由な状態に維持しておかなければなりません。

 財産その他のいろんな所有物、どうしても必用な物についても、「仮定」と明らかに見てください。風俗習慣がこの人の物、この家はこの人の物、この田はこの人の物と見なしているままにしてください。心で私の物と執着しなくても、法律が私たちの所有権を守ってくれます。

 だから心の主人にするためでなく、便宜上だけ所有するべきです。このように明らかに知れば、これらは私たちの僕や奴隷になり、私たちは主人になります。もし反対の感覚、取と欲望があり、強い執着で所有し、なれば、それらは私たちの頭上にあり、私たちが僕、奴隷になります。正反対です。

 だから世界より上に、すべての物より上にいて、自由な状態でいられるよう、注意深く扱わなければなりません。でなければ私たちは、哀れな物の中でも最も哀れな状態に陥らなければなりません。これ以上哀れなことはありません。そうなる前に、少しは自分自身を哀れむべきです。

 ヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)があり、欲しい物、なりたい物はないという真実が見えれば、涅槃と呼ぶもの、つまり倦怠感が、見える度合に応じて生じます。涅槃は倦怠という意味です。世界のいろんな物にある旨みという意味のアッサータと反対です。

 ニッビダー(厭離)は、かつて自分が旨いと感じていた物に飽き飽きするという意味です。昔は自分も、煩悩ですべての物に関わり、煩悩の威力でそれらを味わったので、アッサータと呼ぶ物でいっぱいでした。ヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)が生じると、自身の中に味わう人がないので、味わう物もなくなり、どちらも無常・苦・無我の意味はありません。

 どちらも欲しくない、なりたくない物ばかりなので、涅槃と呼ぶもの、つまり倦怠が生じます。迷って関わり執着することが揺らぐという意味です。あるいは長い間奴隷でいることを強いられていると、奴隷から抜け出そうという動きが起こるのに似ています。

 これがニッビダー(厭離)です。つまり奴隷でいることに嫌気が差すこと。ニッビダー(厭離)と呼ぶ物は、「欲しい、なりたい」と誤解していろんな物に執着する自分の愚かさが嫌になること、あるいは飽き飽きすることです。

 ニッビダー(厭離)と呼ぶ物があれば、自然に、何もせずに倦怠が生じ、当然ヴィラーガ(離欲)と呼ばれる物があります。ヴィラーガとは、強く縛っていた紐が解けるように、弛む、または薄れるという意味です。あるいは染料で濃く染まっていた布を、染め抜き剤液に浸すのと同じです。弛んだ執着、あるいは世界、あるいはすべての物への執着が薄れることを、ヴィラーガと呼びます。

 この部分を一番重要な部分と見なします。最後ではありませんが、解脱するために最も重要な部分です。このように弛んで薄れ始めれば、脱出すこと、あるいはヴィムッティ(解脱)が確実に生じるからです。

 奴隷であることから脱出、あるいは抜け出せれば、再び世界の奴隷になることはありません。ヴィスッティは純潔という意味ですが、そういう状態になります。この場合の純潔とは、憂鬱でないという意味です。かつてはどの方向も憂鬱でした。世界と関わり、奴隷になって沈んでいたので、体も言葉も心も、あるいはどこを向いても憂鬱でした。世界の味の奴隷であることから抜け出した後は、純潔な状態、つまり憂鬱でない状態になります。

 このように本当の純潔があれば、続いてサンティと呼ぶ物、つまり本当の平安が生じます。混乱や妨害のない、あるいは戦いや苦闘、いろんな忍苦がない穏やかさです。これらの混乱や悩みが無くなることを、まとめて『サンティ』寂滅と呼びます。

 つまり心身のほとんどすべてが穏やかに静まり、ほとんど最終段階、あるいは涅槃と呼べるほどです。本当は平安と涅槃はほとんど判別しがたく、分けるとすれば、静まった時が涅槃と見させるためです。


 涅槃という言葉を綴りで解釈すると、「ニッヴァーナ」とは突き刺す物がないという意味です。「ニ」とは無いこと。「ヴァーナ」とは突き刺す物。こういう解釈もあります。もう一つは「ヴァーナ」は行くこと。「ニ」は無いこと。行くことがない。つまり滅尽です。

 だから涅槃は、大きな二つの意味があります。つまり再び苦を生じさせる種になる物がないこと。これが一つ。そしてもう一つは、突き刺す物がないこと。焼き炙る物がないこと。いろんな縛りつける物が一切ないこと。これが涅槃の状態です。

 要するに苦がまったくない状態を表しています。涅槃という言葉の大方の意味はこのようです。涅槃という言葉を広く見ると、他にもいろんな意味や目的で使われると理解しておいてください。苦が滅すという意味のこともあり、煩悩の滅尽という意味もあります。タンマ、あるいは道具、あるいは領土、あるいは苦や煩悩やすべてのサンカーラの、いずれかが滅尽した状態を意味することもあります。このようにいろんな意味があります。

 涅槃という言葉は借り物です。ブッダの時代の宗教者は、昔からあった涅槃という言葉を借りて使いました。それからずっと使っています。最初は市井の言葉を借りて使ったと理解しています。街の中で使う言葉なら、涅槃は冷えること、熱い物が冷めるという意味で、直接苦が滅すという意味です。

 いろんな宗教や教義が涅槃という言葉を使っていても、意味は同じではありません。ある教義では禅定、入定で静まることを涅槃と言います。もっと凄いのもあり、官能にどっぷり酔い痴れることを涅槃と言うのまであります。ブッダはそのような意味の涅槃を否定なさっています。

 涅槃という言葉の意味を、世界を見ること、すべての物の真実を見ることで、欲望・煩悩・取を消滅させ、煩悩と苦に突き刺されること、炙られること、締めつけられることがない状態と明言なさっています。

 だから、ヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)と呼ぶ、すべての物の真実を見ることの偉大な価値を見なくてはなりません。二つのうちのいずれかの方法でそれを生じさせる努力をするべきです。私たちがするべきであり、かつ可能なのは、自然にしていく方法です。昼も夜も、いつでも潔癖で正しい生活をし、喜悦を生じさせることを大切にし、最後に述べたように段階的な徳行を、自然に生じさせます。これが一つの方法です。

 もう一つの方法は性急な強制力であるサマーディやヴィパッサナーの、技術だけの実践法を学んで実践します。習性とふさわしい六根がある人は、正しい技法とその他良い環境があれば、早く進歩します。

 いずれにしても、今日詳しく説明した自然の方法でできるという所に、すべての人に機会が開かれています。避けてはいけません。老人の話だから、年取ってからお寺へ行ってしよう。あるいは三四ヶ月仕事を休んでしなければならない、と考えてはいけません。

 私たちは、一呼吸ごとにする努力をしなければなりません。今日から日常生活が明るく純潔になるよう注意し、普通の日常に喜悦を生じさせ、パッサッディ(軽安)、サマーディ、ヤターブータヤニャーナダッサナ(如実智見)、ニッビダー(厭離)、ヴィラーガ(離欲)、ヴィムッティ(解脱)、ヴィスッティ(純潔)、サンティ(寂静)、涅槃の味見を順々に生じさせれば、毎日、毎月、毎年、本当の仏教に近づきます。


 まとめると、自然のサマーディとヴィパッサナーは、世尊の前に座って説教を聞いていた人を聖向聖果に到達させることができ、誰にも向いている方法です。毎日「欲しい物、なりたい物は何もない」という真実を熟慮する基礎に依存します。

 この結果を望む人は自分を清潔にし、自分に満足できる物があり、自分自身を拝めるように、働いている時も、寛いでいる時も、いつでもタンマの面の喜悦、歓喜で満ちているよう努力しなければなりません。

 喜悦と歓喜が爽やかさや明るさを生じさせ、心を落ち着かせ(パッサッディ。軽安)、自然のサマーディを生じさせる原因です。そして欲しい物、なりたい物は何もないという真実が見えるようになります。強力になれば、心がかつて執着していた物への欲望が弛んで、かつて執着していた物、「自分、自分の物」も抜き取ることができます。

 その後は煩悩で何かを欲しがることはありません。苦は居場所がないので滅亡します。その人は、苦から抜け出す実践の終わりに至った人と呼ばれます。その後は、滅苦のためにするべきことは何もありません。自然がすべての人に用意した、本当の贈り物です。

 時間になりましたので、今日の講義はこれで終わらせていただきます。




(黒板に書かれた内容)

プラモートとピーティ(歓喜と喜悦)   : タンマの満足

パッサッディ(軽安)          : 心を静める

サマーディ(三昧)           : 心が熟慮できる状態

ヤターブータヤーナダッサナ       : 真実に則して知る

ニッビダー                : 心が飽きること

ヴィラーガ                : 心が弛む

ヴィムッティ(解脱)           : 心が脱すこと

ヴィスッティ                : 純潔

サンティ                  : 寂滅

ニッパーナ(涅槃)            : 苦がないこと




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