5.サマーディバーヴァナー





1960年3月4日
判事になる人のための研修講義

 判事になられるみなさん。第九回目の今日の講義は、サマーディバーヴァナー、あるいは空と一体になることについてお話します。仮定で話せば、最終目標に到達した場合、最終地点にある物と一体になるにはどうするかという問題です。ここでは便宜的に「サマーディバーヴァナー」と呼びます。空と一体になるためです。

 みなさん。常々言っている「一人の人物に一本だけの道。一点に向かって歩き、一歩も踏み出す必要はない」という言葉を忘れないでください。一歩も踏み出す必要はないというのは、足で歩くことではないので、どこへも歩いて行けないということです。

 しかし掌を返すように、閉じていた目を開くように、山を隠していた髪の毛を引っ張るように正しい方法。これが一歩も踏み出す必用はないという状態です。

 述べた状態をサマーディバーヴァナーと言います。サマーディバーヴァナーを正しく完璧に実践すれば、最終地点に到達するのと同じです。そしてこのサマーディバーヴァナーに関する講義は、一歩も踏み出さなくて良いことの確認でもあります。

 そしてもう一部分の、特別なねらいは、サマーディバーヴァナーについて良く知っていただくことです。それは仏教の重要な話であり、何かの機会に、できる範囲で経験したことがある人もいるからです。これが今回の講義のねらいです。

 次に詳しく理解するために、サマーディバーヴァナーという言葉について、判断します。「サマーディバーヴァナーとは何か。サマーディバーヴァナーにはどんな効果があるか。サマーディバーヴァナーはどうするのか」と、いつも言っている規則を使うのを忘れないでください。

 初めは「サマーディバーヴァナーとは何か」です。この言葉を前から聞いて知っている人の中には、間違って理解している人がいます。神通力の話、普通の能力外の霊験のある物と考えるから興味がなく、驚いたり怖がったりするために名前だけ憶えていて、古臭いとか、自分には関係がないと言います。

 しかしすべてを理解すると、サマーディバーヴァナーは心を有益に使えるよう訓練すること、心を最大限に有益に活用することと、自身で知ります。だから一般の教えで言えば、サマーディバーヴァナーは心を有益に使う訓練であり、訓練した心を可能な限り有益に働かせることです。

 サマーディバーヴァナーとは心の訓練と、心を使うことです。たったこれだけで残らず意味を汲み取っています。心の訓練とは、それまでの心は訓練されたことがない野生動物と同じなので、何もしなければ使い物になりません。訓練して従わせ、いろんな規則を憶えさせなければなりません。訓練すれば、後は、何をさせることもできます。

 だからサマーディバーヴァナーの前半は心の訓練で、後半は訓練した心を使って人間として最高の仕事をします。これをサマーディバーヴァナーと言います。

 次は、どんな原因があればサマーディバーヴァナーが生じるかという問題です。述べた理由から、「歩むべき道は八正道」と答えることができます。サマーディバーヴァナーは八正道の中に、重要な物として入っています。つまり一番初めの項目と、最後の項目です。

 最初の項目は正しい見解で、最後の項目は正しいサマーディです。この二項をサマーディバーヴァナーと呼びます。これについて判断すると、サマーディバーヴァナーは道と呼ぶ物に含まれる項目なので、道の項目として必用不可欠と分かります。

 みなさんの人生は旅で、八項目の道を歩いて行かなければなりません。サマーディバーヴァナーはその最初と最後にある大切な項目です。他に歩く道はありません。この道を行かなければならないので、サマーディバーヴァナーは避けることはできません。

 だからサマーディバーヴァナーと呼ぶものは、旅であるみなさんの人生の中にあります。自然に経過するので、自分で気づかないだけです。今は良い結果が出るようにします。あるいは自然に最高にそうなるまで、発展させます。

 サマーディバーヴァナーがあることは、いろんな物事を詳細に注意深く見守る、安定した心があることです。みなさんは生まれた時から、子供の頃から今までそうしてきましたが、自然な形で、まだ完璧にする訓練を受けていません。みなさんは揺るぎない安定した心がなければなりません。広く注意深く調べる鋭い心がなければなりません。

 みなさんは冗談を言い、数学を学び、法律を学び、最後は、生涯裁判官や判事になります。だからサマーディバーヴァナーは、旅である人生になくてはならない話です。

 次は「何のために」という問題です。最高に広く言及しているパーリ(ブッダの言葉である経)で、四つの結果のためと答えることができます。

 一つは生きているうちに見る心の幸福のため。休まず空の味見をするという意味です。

 二つめは神業のような特別なニャーナダッサナ(智見)があるため。

 三つめは間違った行動をなくす完璧な常自覚のため。

 四つめは漏、つまり煩悩を無くすため。

 これが大原則で述べた結果で、全部で四つあります。少なくとも心が静まり、前もって涅槃の味見ができます。心がそうなると、眼も耳も、その他も敏感で非常に鋭くなり、神業のようなニャーナダッサナ(智見)と呼ぶものがあります。

 完璧なサティに関しては、ほとんど説明はいらないくらいです。完璧な常自覚は誰もが求める物であり、当面の問題でもあります。漏を無くす話は最高の話で、これ以上崇高な話はありません。

 だからサマーディバーヴァナーは、この四つの結果のためということができます。誰でも、今ここに座っているみなさんが得なければならない最も低い物は、涅槃の特徴の一つである穏やかな幸福です。

 二段階めは神業のような知性を身につけ、見たり調べたり、熟慮したり、洞察する時に使えることです。これだけでも十分なように、最高のように見えます。

 次は「どんな方法で」です。四項目の問題は、どのように成功させるかです。それには特別な練習法があります。初めの「生きているうちに見る冷しさ」は、心が非常に静まってサマーディになり、アッパナーサマーディ(安止定)になり、最後には禅定になる練習をしなければなりません。つまり静かなサマーディになる練習法という意味です。

 二つめの神業のようなニャーナ(智)、ニャーナダッサナ(智見)を身につけるには、「アーローガサンヤー」「ティワサンヤー」と呼ばれる光の方の練習をしなければならないので、どんどん明るい方を見つめる練習をします。これもまた一つの練習法です。

 三つめの最高に完璧な常自覚は、ヴェーダナー(受)とサンニャー(想)とヴィタカ(尋)の、発生と存在と消滅を観察する練習法があります。私たちを心の面で混乱させる最大の問題は、この三つと見なします。目が形に触れ、耳が声を聞いた時などに生じる、愛らしい、憎らしい、好き嫌い、快い不快などの感覚をヴェーダナー(受)と言います。

 サンニャー(想)とは過去に遡って感じる思い出、記憶などを、サンニャーが生じたと言います。外部から形や音などの刺激がないのに、心がいろんな方向に引っ張られたり変調したりすることです。それも人を夢見心地にし、取り乱させ、苦しませ、喜ばせることができます。それを想(サンニャー)と言います。

 三つめヴィタッカ(尋)は出来事や触れてくる状態について考え、思い、熟慮し、熟考することです。

 三つとも常に生じている物で、私たちの心の極めてありふれた物です。そして私たちにとって最も厄介な問題を起こす物でもあります。だからこれらについて良く知り、その発生と存在と消滅を詳細に意識します。それは、ヴェーダナー(受)とサンニャー(想)とヴィタカ(尋)が何かしないよう、私たちの平安を奪い、自分を失わせるほど悪戯をするのを放置しない、私たちにとって危険なことをさせないという意味です。

 タンマの言葉で言うと、ヴェーダナー(受)とサンニャー(想)とヴィタカ(尋)が煩悩の威力に曝さないよう、常自覚の支配下にあるようにします。常にヴェーダナー(受)とサンニャー(想)とヴィタカ(尋)を支配できるようになれば、常自覚を訓練をしたのと同じで、間もなく最高に完璧な常自覚のある人になります。

 魅惑的な受が誘惑して惚れさせようとする時、常自覚が十分でなければ管理できず、管理できなければ低い方へ引っ張られて行ってしまいます。次に怒らせる側の受が怒らそうとした時、常自覚が十分でなければ腹を立ててしまいます。腹が立てばどうなるかは自分で分かります。

 サンニャー(想)とヴィタカ(尋)も同じで、常自覚で管理できなければ、生き地獄へ連れて行かれ、管理できれば常自覚があり、生き地獄に落ちなくて済みます。常にそのようにできれば、完璧な常自覚のある人です。

 サマーディバーヴァナーの四つめ、漏を無くすことは、特別の実践法があります。取がある五蘊の発生と変化と消滅を観察し、熟慮します。どのように執着が形・受・想・行・識に生じ、どんな結果に向かい、そして最後にどのように消滅するかを見つめるという意味です。

 もっと簡単に率直に言えば、そして今までの話の流れに合せた言い方をすれば、生じてくる「俺」あるいは「俺の物」という感覚を支配することです。生じた俺、あるいは俺の物はどうなるか。消滅する「俺」、あるいは「俺の物」は、どう消滅するか。次に生じるまでの間はどんなか。これは非常に微妙な、。つまり意識し難い問題です。

 述べただけでも、私あるいは私の物と執着しないよう管理することはいかに難しいか、いかに微妙か、指摘して見せるものです。炎天下、激流に逆らって舟を漕ぐ人のように、その人に俺という感覚がない間は、ずっと鼻歌を歌っていられます。

 漕いでいる間中口笛を吹いていられますが、うっかり「俺、俺の物」という取が生じてしまったら、当り散らし、腹を立て、イライラし、煩わしさを感じ、あれを責め、これを叱り、神や精霊のせいにし、罪や徳にも腹を立て、大混乱します。

 これです。俺は「あっという間に」という早さで生じ、消えて行く時はほとんど気づきません。そして存在している時も、自分の中に悪霊が入りこんでいると感じません。だから「俺」または「俺の物」の発生、「俺」または「俺の物」の維持、「俺」または「俺の物」の消滅を見つめるサティ、あるいはサマーディバーヴァナーは、最高のサマーディバーヴァナーです。これが四番目です。

 サマーディバーヴァナーとは何か、何故、何のために、どんな方法でと、四項目全てについて判断すれば、私たちは、サマーディバーヴァナーとは何か、知ったことです。

 次に理解を更に深めるために、後いくつかの言葉の意味を理解していただきたいと思います。サマーディバーヴァナーという言葉を文字どおりに訳せば、サマーディを発展させる、あるいはサマーディで発展するという意味ですが、後の方が正しいです。つまりサマーディによって発展させる、心を発展させる、心を最高に進歩発展させることです。

 しかし人々はブッダが使われたような意味で使いません。ブッダは「チャタッソー ビッカヴェー サマーディバーヴァナー」というようなサマーディバーヴァナーと言われました。このような行為をサマーディバーヴァナーと言われました。

 しかし現代の人はカンマターナ(業処)という言葉、「カンマターナをする」という言い方を好みます。ヴィパッサナーをすると言う人もいます。それでは言葉によって混乱するので、新たに意味付けする必要があります。「カンマターナ」という言葉はブッダの言葉には見られません。見られるのはサマーディバーヴァナーだけです。それでも現代は「カンマターナをする」と言います。

 サマタカンマターナをするとは、心の訓練をすること。ヴィパッサナーカンマターンナをするとは、心を働かせること。それを合わせてカンマターナをすると言います。時には短く「バーヴァナー」と言うこともあります。バーヴァナーをするとは、サマーディバーヴァナーをすることです。

 趣きのある言い方で「心のことをする」という人もいますが、これもサマーディバーヴァナーをすることです。短く「内面のこと」と呼ぶ人もいます。これもサマーディバーヴァナーをすることです。しかし「内面」という言葉は、いろんな超能力や加持祈祷、病気の治療などの狭い世界で使われてしまうこともあります。これらの言葉は、正しくは、すべてサマーディバーヴァナーを意味します。

 述べたように、サマーディバーヴァナーは心の訓練と心を働かせることの二つの部分に分けることができます。心を支配下におくよう、従わせるよう訓練する部分をサマタ、あるいはサマーディの部と言い、心を働かせる部分を智慧の部、あるいはヴィパッサナーの部と言います。智慧とはすべてを知ること、ヴィパッサナーとは明らかに見ることです。

 さて初めはサマーディと呼ばれる心を支配すること、あるいは心の訓練についてです。、関連した言葉はたくさんあり、短くサマーディをすると言います。心を動じなくさせるでも良く、禅定にするという言い方もできます。これはすべて、サマーディのことです。生じる結果はサマーディに届かぬ程度のこともあり、安定した状態もあります。禅定で安定して変化しなければ入定と言います。

 その道に習熟している人なら、最高に思いどおりに心を支配することができ、アッチャリヤマヌッサヤ(超人的能力のある人)です。こういう人をチェトーワシーと言い、心を支配する強い力のある人です。心を支配する力に導かれて、つまりサマーディに導かれて解脱すれば、チェトーヴィムッティ(心解脱)と言います。

 もう一つ「不善な考えを妨害する」という面白い特殊な言い方があります。つまり不善な考えを妨害することを知り、心の中からすっかり出してしまいます。これはサマーディの意味です。

 心を使って働かせる段階、あるいはヴィパッサナーの段階、あるいは智慧の段階は知る話で、止まることや静まることではなく、明らかに知ること、あるいは周到に知ることです。結果として生じるのはニャーナ、知識です。もう一つは見解です。ニャーナというのは知識、ダッサナは見解です。時々一つにしてニャーナダッサナ、つまり知識と見解です。これがヴィパッサナーの結果です。

 初めには心を静かに強くし、威力があり、仕事にふさわしくします。後半は広く明らかに知り、神業のようなのまで、いろんな智見を生じさせ、結果は解脱です。前半の訓練に力を注いで前半の力で解脱すればチェトーヴィムッティ(心解脱)と言います。

 後半の方に力を注いで、サマーディより智慧に力を入れて解脱すれば、パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)と言います。以上知っておくべき言葉についてまとめて話しました。本当はもっとたくさんあります。これだけ規定するだけでも結構たくさんです。しかしこれは、この問題を理解するために知っておくべき、初歩の言葉です。


 次に誤解しがちな項目について話します。私が観察して、誤解されていると見る一つめは、注目することです。ジャーナ(定)という言葉の本当の意味は注目することです。ジャーナは注目すること、注目することはジャーナ。注目して定になればすべてサマーディと誤解されています。

 しかし本当は注目することには二種類あります。注目してサマーディになることもあり、注目してヴィパッサナーになることもあります。

 感情である、何らかの注視の素材にした物、たとえば水晶玉や呼吸、あるいは死体、その他何であっても、自分が感情にする物を注視すれば、結果はサマタ、あるいはサマーディです。次にある様相を注視し、それらの中にある無常や苦や無我、あるいは空の様相が見えるようにすれば、様相を注視すると言います。

 感情を注視するという言葉と、様相を注視するという二つの言葉をしっかり憶えてください。それを目に焼きつけるため、サマーディの感情であるサマーディのニミッタにするために注視します。これを「感情を注視する」と言い、生じる結果は静かな心です。

 様相を見るにはそれの状態、不確実であり、苦であり、無我であり、空であるありようを見ます。これを様相を注視すると言い、結果として生じるのはヴィパッサナー、あるいは智慧である、明らかに知ることです。

 だから注視することには二つあり、ジャーナという言葉には二つの意味があります。サマーディとして、感情として注視するのが一つ。智慧として、あるいはヴィパッサナーとして様相を注視するのが一つです。だから感情として注視すれば静まり、最後は入定で、石塊、丸太になります。最高に良くて静かな幸福、涅槃の味見という類の穏やかさになります。

 ヴィパッサナーのように注視すれば、すべての物に関する真実の知識で、世界全体を空と見、自分自身も空と見、手放して解脱できます。だから後者の注視、つまり状態を見ることが、今私たちが目指しているものです。何日も長々と話しているのは、この意味の注視です。

 ブッダは熟慮と言われず、注視と言われました。注視と言ったことを良く観察してください。それは意味があります。注視しないで熟慮するには、理論の状況で考えなければなりません。だから先に熟慮してしまい、どのようか知ったら注視します。自分が見たい真実を注視します。

 だから本当のヴィパッサナーは、直接考えることでなく、熟考した後で注視することです。熟慮して見、熟考して見、見て、見て、見ること。この見ることは、見れば見るほどはっきり見え、見る力が強くなります。熟慮している時は当然熟慮するので力が弱まり、あるいは考えることで揺らぎ、安定していません。しかし真実を見る時は、その真実がいつでも明らかに見えるように、その真実を注視しなければなりません。

 たとえば空の話を理解しようと考えると、空は消えてしまい、心の中にありません。だから考えられるまで考え、見えるまで、理解するまで熟慮した空を、もう一度明らかに見なければなりません。それで初めて本当の結果を出す物になります。

 その空を注視する時、煩悩は炙られ、燃やされ、あるいは衰弱させられるからです。というのは、そのようにしている間中餌がないので、時が来れば煩悩は絶滅します。しかし考えれば揺らぎます。理論で考えればいつでも揺らぎ、煩悩を突き刺すことはできません。

 だから、広く熟慮すればヴィパッサナーと理解しないでください。熟慮して要点を掴んだら、それから注視しなければなりません。

 みなさん。「注視する」あるいは「ジャーナ(定)」という言葉は、サマーディにした後、静止することではないと理解しなければなりません。それは真実を注視することであり、明らかな智慧が生じるまでタンマを注視ことでもあります。

 これが「サマーヒトー ヤターブータン パチャーナーティ」というもう一つの言葉の誤解を生じさせる原因です。「心が磐石になると、すべての物の真実が見える」というようなことが、非常にどこでも言われています。パーリ(ブッダの言葉である経)を学んだことがない人、あるいは間違って教えられた人は、心を岩のように、丸太のように安定させれば、自然に明らかに知ると誤解しています。

 「サマーヒトー」はサマーディ状態になること、「ヤターブータン パチャーナーティ」は真実のままに知るという意味です。こういうのは、そうではありません。

 サマーヒトーは、岩や丸太のようにサマーディのように安定することではなく、裏の意味があります。つまり注視すること、状態、あるいはタンマを注視する意味があります。そしてそこに止まる、状態やタンマを注視することに止まるからヤターブータン パチャーナーティ、つまり真実のままに見えます。

 岩や丸太のような静かな禅定、入定の類のサマーヒトーでは、ヤターブータン パチャーナーティの日は訪れません。ブッダもそういう意味で言われたのではありません。

 似たような言葉「サマーディ ピッカヴェー パーヴェータ」という言葉もそうです。比丘たちよ、サマーディに励みなさい。そうすればすべての物を真実のままに知る。この場合の「サマーディに励みなさい」というのは、禅定に入ることでも、四つの禅定を作ることでも、初禅でも第二禅でも第三禅でも第四禅でもなく、その定に止まることでもありません。

 このサマーディという言葉はサマーディバーヴァナーを意味しています。つまり禅定から出て注視します。あるいは定の力で状態を照らして見ることで、もう一度状態を注視することを意味します。そうすればこの場合「サマーディをする」と言います。

 そうすればいろんな状態から、つまり無常・苦・無我、あるいは空の状態から真実を知ります。そうすれば、ヤターブータ パチャーナーティと言えます。だから、ほとんどの人が言っているように、「心を静めれば、自然に浮かび上がってくる」と理解しないでください。

 だから「サマーディという言葉を誤解している。心を静めることがサマーディと誤解している」とまとめることができます。本当は、もっと深い意味があり、智慧をする、あるいはヴィパッサナーをすることをサマーディと言います。

 私たちテーラワーダは、好んで智慧、あるいはヴィパッサナーという言葉を使いますが、本当は「サマーディバーヴァナー」という言葉に含まれています。サマーディバーヴァナーの四番目、漏を終わらせることです。

 パーリ増支部の中の「ブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)」を開いて見てもいいです。どこででも、四つの働きをサマーディバーヴァナーと呼んでいます。取がある五蘊の発生と消滅を見つめることも、サマーディバーヴァナーと呼び、サマーディバーヴァナーの第四項としています。

 だから学生のみなさん、「サマーディに励みなさい」という言葉は、心を静めることと理解しないでください。心で二つの状態を見つめること、つまり感情を注視することができたら、状態を注視します。心の訓練が良くできたら、その心を働かせて、すべての物を真実のままに見ます。このように話すのは、危険な誤解、あるいは道の大きな妨害になる誤解を正すためです。


 次にサマーディバーヴァナーの種類について少し話します。初めにサマーディバーヴァナーには、大きく四項目あると話しました。初めは注視して静かさを生じさせ、二番目は智見をもたせ、三番目は完璧な常自覚があるようにし、四番目は漏を絶滅させます。これをサマーディバーヴァナーの四種類と言います。

 また別の分類について話したいと思います。静める部分と明らかに知る部分で、静める部分は注視する感情の種類で分けます。

 たとえば揺れるカシナ(十遍処で用いる小道具)、あるいは星です。カシナとはいろんな色の円、または球という意味で、緑や赤や黒、透明のもあります。外に向けた穴などは空気なので、この空である球もカシナと呼びます。泥を固めて丸めた球も、パタヴィーカシナと言います。この円、あるいは球をカシナと言います。

 これらの円、あるいは球を注視することは、サマーディバーヴァナーの一つで、心の静かさや熟練を生じさせます。心の普通の状態では、カシナの状態に応じて静まり、特殊な結果が生じます。円や光の色を用いれば光のある方向の心の訓練、千里眼や地獄耳などが簡単に生じます。

 反対の物、あるいは闇を使えば、暗い方へ行きます。水の円を使って注視すれば、水が主体の奇跡などを起こすことができます。火でも土でも、何でも同じです。これもサマーディバーヴァナーの一種です。

 次は醜い物、腐った物を注視することをアスパと言い、ます。これも十種類あり、どれもアスパと呼びます。美しくない物、不潔で腐って臭いを放つ物を注視するのは、いくつかの特殊な目的のためです。特に情欲の強い人の習性本性を直すため、あるいは理解が難しい智慧を生じさせるためです。

 私たちは美しい物、清潔な物のことで手一杯です。これを「世界を知っているといっても一面だけ。臭くて汚い裏面のことは知らない」と言います。だからバランスをとるためにそれらを注視して愚かさを無くすことが一種類です。


 次はカンマターナバーヴァナー、あるいはサマーディバーヴァナーの一種をアヌサティ(念)と言います。思い浮かべることで、布施のことを思い、戒を思い、ブッダを思い、タンマを思い、僧について思います。こうして思うことは、思ったことを好むようにする、あるいは喜びを生じさせる種類のサマーディバーヴァナーです。こういう種類もあります。

 ブッダの徳が染みこむように、ブッダの教えで生きる勇気が身につくように毎日ブッダのことを思っている。こういう種類もあります。あるいは布施を思い、布施の徳を思い、戒、または戒の徳を思えば、心は布施の方向、持戒の方向へ引かれていきます。これがアヌサティと呼ばれる種類です。

 次は、サマーディバーヴァナーのもう一種類はブラフマヴィハーラ、つまり梵天のように高い心でいることです。これはつねに慈(他人を幸福にしたいと思うこと)、悲(他人の苦を除いてやりたいと思うこと)、喜(他人の幸福を喜ぶこと)、捨(執着を捨てること)を思います。

 「梵天のように」とはこういうことです。慈しみの心を広げ、悲の心を起こし、快適で穏やかな幸福を味わっている動物と共に喜び、どう仕様もない場合には動じません。

 まだあります。形のない物を注視するサマーディバーヴァナーです。空気、あるいは空(くう)が一つ、識である名、あるいは心が一つ、何もないことが一つ、そして何も感じないこと、つまり「死んでいるのでもなく生きているのでもなく、想があるのでもなくないのでもない」このような状態を感情にするのがもう一つです。

 この四種類を無形の部、つまり形のない物と言い、無形の物だけをサマーディの状態で注視します。心はより繊細で精緻な状態で安定します。これをアルーパジャーナ(無形禅定)と言い、形のない物を注視します。サマーディとしても安定という意味でも、形のある物より高いです。

 まだあります。四元素を見つめること、あるいは自分たちが消費している衣服や食事の汚れを見ます。これは惑溺や思い上がりをなくし、段階に応じたヴィパッサナーに備え、智慧にする準備のためです。どれもサマタ、あるいはサマーディと言います。

 もう一つのヴィパッサナーと呼ぶ物は、蘊を見、ダートゥ(四界)を見、六処(目・耳・鼻・舌・体・心と、形・音・香・触・法)を見、いろんな名形の物を分類して、無常と苦と無我を直接注視します。このように大きな種類です。


 さて残っている時間で、見本として、サマーディバーヴァナーの手法について話したいと思います。と言っても、最もふさわしい方法、つまり一般人誰にも向いている方法を選ぶと「アーナーパーナサティバーヴァナー」です。

 アーナーパーナサティバーヴァナーは、サマーディバーヴァナーです。アーナーパーナサティは、呼吸の出入りにあるサティです。「吐く」という言葉を「吸う」という言葉より先に使います。それをアーナーパーナサティと呼びます。この種類のサティでサマーディに励めば、アーナーパーナサティバーヴァナーと言います。

 アーナーパーナサティという言葉を理解しなければなりません。「サティが呼吸の出入りを意識する」と理解してしまいましょう。

 アーナーパーナサティをする人で、精神病院へ送られる人がたくさんいます。その人はアーナーパーナサティの仕方を知らないからです。つまりやり方が間違っていて、正しい方法を知りません。そしてアーナーパーナサティが原因で、精神病院へ送られるほど病んでしまいます。

 最も効果のある、最もふさわしい、最も知られているカンマターナ(業処)です。初めは行動し、それから伝わる過程で変化して誤った物になり、最後には評判だけになり、そして執着し、のめりこんで、最後には詐欺の被害者になります。誤解して自分を騙すことで、神通力や奇跡を起こせるようになって、何か物質的な得をすることを期待してサマーディバーヴァナーをします。

 こういう人は初めから狂っています。だから結果は精神病院へ行きます。当たり前です。サマーディバーヴァナーは「一歩も踏み出さなくて良い」という種類の旅のためにする物だからです。述べたように空に向かう旅です。目的をこのように正しく定めなければいけません。

 呼吸の出入りを意識すると言うだけでも、重要な意味があります。ある状態の心を見つめることは、本当に休まず続けなければなりません。ずっと続けられるということは、本当に息を吐く時も、息を吸う時も、つまり間を置きません。

 だから一呼吸ごとに何かをしっかり注視し、あるいはしっかり考え、あるいはしっかり意識するには、間欠を入れず継続して、心を支配することを知らなければなりません。

 だから自然にある呼吸を練習素材にするのは、簡単で便利です。どこかへ探しに行く必用はありません。誰でも身体で呼吸をしています。

 カシナ(十遍処)を注視するには、土を固めて穴を開けたりして、カシナを作らなければなりません。アスパ(不浄)を注視するには墓地や、その他の場所へ行かなければなりません。外部のことをしなければならないので、散漫になり大変です。アーナーパーナサティは身に具わっている物を使います。つまり呼吸ですが、それを練習素材にします。

 次に最初の練習は、呼吸をしっかり意識します。一呼吸ごとに吐く息、吸う息を意識できれば、心はどこへも逃げません。後で呼吸を他の物に替えます。意識する物を替えますが、一呼吸ごとに意識します。たとえば無常を意識するなら、吐く息でも無常、吸う息でも無常です。苦を意識するにも、無我、空を意識するにも、その他の何を意識するにも、一呼吸ごとに、しっかり意識します。

 だから最初の段階の練習は、吐く息とと吸う息が体にあるように、規則正しい形を維持するように練習します。それから何かを呼吸に預けます。そうすれば呼吸に預けた物、あるいは状態、あるいはその真実はしっかり呼吸にあります。これをアーナーパーナサティと言います。

 段階的に難しくなります。最初の段階は呼吸の練習で、次の段階は呼吸の練習から生じるいろんな感覚を、一呼吸ごとに練習します。次は一呼吸ごとに自分の心を熟視します。次は一呼吸ごとに、呼吸や感情や心に生じる無常・苦・無我などを熟視します。

 このように、アーナーパーナサティは段階的に高くなっていき、最後には呼吸が無常・苦・無我になるまで、一呼吸ごとに欲望が薄らいで倦怠するまで、一呼吸ごとに心が解脱し、心が解脱したと感じるまで高くなります。この全課程をアーナーパーナサティサマーディバーヴァナーと言います。呼吸の段階から聖果に到達するまで、すべてを「アーナーパーナサティバーヴァナー」と言います。

 その過程を秩序立てて、より明瞭に言えば、次のような段階に分けて説明することができます。


 第一課程。呼吸を感情として注視する。

 呼吸がどのような状態か、呼吸を感情として、心が静まるまでしっかり注視します。心が静まると、サマーディから幸福が生じます。これが初めの段階で、呼吸を感情にして、心が静まって幸福を感じるまで呼吸を注視します。これを第1段階と言います。

 第二課程。幸福である感覚を熟慮します。サマーディから生じた幸福を、無常・苦・無我と感じ、「この受は無常であり、苦であり、無我である。幸福、幸福と言われるこの幸福は、無常であり、苦であり、無我である。つまり結果は、受である幸福はどんな種類でも、必ず無常であり苦であり無我である」と明らかに見えるように熟慮します。

 財産や名誉、名声、あるいは欲情から生じる幸福、あるいは何であろうと、幸福の受と名がつく物は何でも、無常・苦・無我です。人が問題に遭遇するのは、幸福の受に支配されているからです。だからこの幸福の受を、無常・苦・無我で一呼吸ごとに熟慮します。

 第三課程。サマーディバーヴァナーをしている時の心はどうか、幸福の受がある時の心はどうか、苦受はどうか、安定した心はどうか、不安定な心はどうか、執着している心はどうか、執着していない心はどうか、「俺、俺の物」がある心はどうか、「俺、俺の物」がない心はどうかを観察します。このようにいろんな角度から間接的に、一呼吸ごとに注視します。これが心を見る段階です。

 第四課程。すべての物に隠れている真実を見ます。心、あるいは受、あるいは呼吸は、本当は何なのか。すべての物には加工する原因と縁があると、真実を発見します。それを加工した原因も縁も、加工された物も、すべて不確実で一定でなく、「無常であり苦である」と見えれば見えるほど驚嘆し、哀れを感じ、厭わしさを感じます。

 だから無常と苦と無我と倦怠を見、無常と苦と無我を見ることから生じる倦怠を見、心が少し退くのを見、愚かさや迷いや執着が二度と生じないことを見、「俺、俺の物」が再び現われないことを見ます。これらを全部ひっくるめて「すべての物に一呼吸ごとに、つまり休みなくタンマを見ると言います。

 第五課程。心がそのように見れば当然倦怠があり、欲望が弛み、掴んでいた物を放します。

 第六課程では、脱すこと、放すこと、滅すこと、放棄すること、空などが、どうしたらいつでも永続的に、あるいはどこでもあるようにできるかを見ます。

 これを、このように連結し関連している、各部分に分けられた実践課程と言います。

 さてこれから、理解しやすいように、見られる物を熟慮します。最初は呼吸です。呼吸をパーリ語で「カーヤ(体)」と言い、呼吸と体は同じと言います。体は形(物質)の側の物で、呼吸によって涵養されているからです。だから呼吸を「カーヤ」と呼びます。

 体を見るとは呼吸を見ることです。長い息を見、短い息を見、体を変化させる呼吸を見、体を変化させる呼吸が少しずつ静まり滑らかになるのを見ます。この四つの状態を見ることを「体を見る」、あるいは、カーヤーヌパッサナー サティパターナ(身随観念処)と言います。 

 次は受を見ます。受とは幸福の感覚、サマーディの幸福、つまり呼吸が少し繊細になり、静まって禅定で安定した時に生じる幸福を意味しす。呼吸が穏やかになって静まると、サマーディ、あるいはジャーナ、禅定になります。そのサマーディから受が生じるので、次にその受を見ます。喜悦である受、つまりその時の行動から得られる満足と、非常に幸福を感じます。それは前もってする涅槃の味見だからです。

 喜悦と幸福の二種類は心を変調させます。「チッタサンカーラ(心を変調させる物)」、喜悦と幸福が考えを涵養し、いつでも深く考えさえ、心を変調させていることを明らかに見ます。次に心を変調させている喜悦と幸福が練習によって抑制され、最後に心がまったく変調しないこと、「俺、俺の物」という感覚がまったく生じないことを見ます。

 これが受、あるいはチッタサンカーラを見ることです。心への影響が止まったこと、あるいは少しずつ治まって変調が減り、最後にはまったく変調しないことを見ます。これを「受を見る」と言います。喜悦を見ることも、幸福を見ることも、喜悦と幸福が心を変調させるのを見ることも、喜悦が心を変調させることが減ってまったく変調しなくなることを見ることも、この四つの状態を見ることを「受を見る」と言います。

 これをヴェーダーヌパッサナーサティパターナ(受随観念処)と言います。

 次に、三番目に見るのは心です。今心はどのような状態か、あるいはもっと遡って、以前心はどのようだったかでも良いですが、あまり確かではありません。現在の心とは比較になりません。現在の心がどのように振り舞わされて変化しているか、心全体を先に見ます。それから喜んでいる心を見ます。喜び楽しんでいる時の心はどのようかを見ます。

 それから静かに安定させた心はどのようかを見ます。それから「俺、俺の物」という感覚、あるいは蓋(煩悩の一種。五種類ある)、あるいはいろいろな随煩悩(心を曇らせる物。十六種ある)からすっかり開放された心はどのようかを見ます。心をたわめて熟慮し、あるいは感情と状態のどちらも注視し、四種類の心について熟知します。こうすることを「心を見る」と言い、チッターヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)です。

 四番目はタンマを見ることです。ここで言うタンマは真実という意味です。初めにはすべての物にある無常と苦と無我、あるいは空を注視し、次に無常・苦・無我が見えることから生じるヴィラーガ(離欲)と呼ばれる倦怠、欲望の弛緩を見ます。正しく無常・苦・無我が見えれば、必ずそこにヴィラーガ(離欲)、つまり倦怠と欲望の弛緩があるので、それをしっかり見ます。

 このように倦怠と欲望の弛緩が現れれば、加工しません。だから心や考えが、煩悩や欲望を「俺、俺の物」に加工しません。この、考えが加工し、煩悩が加工することがないことをニローダ、滅尽と言います。滅尽のこの点を見ます。つまり煩悩や欲望が生じないこと、「俺、俺の物」が生じないこと、「私がある、私の物がある」という感覚が生じないこと。これを滅尽と言います。

 もっと見て行くと、パティニッサッガと呼ぶ「振り払ってしまった」という状態に出合います。振り払うとは、俺を振り払い、俺の物を振り払うことです。初めに「俺の物」を振り払います。何でも「俺の物」と執着していた物を振り払うと、最後には「俺」も振り落とされてしまいます。

 ブッダの言葉に「スンニャトー ローガン アヴェッカッス=この世界を空の物と見なさい」とあります。世界のすべてを「空の物」と見る時、世界を見る人である我見を抜いてしまい、もう一度空にします。初めに「俺の物」を抜き取り、後で「俺」を抜き取り、きれいさっぱりしてしまいます。これをパティニササッカと言います。考えが加工しなくなった後に、この状態が生じます。

 無常と欲望の減少と、滅尽とパティニッサッガの四つを見ることを「タンマを見る」と言います。こうすることをタンマーヌパッサナーサティパターナ(法随観念処)に励むと言います。

 この四つをまとめて、人は「サティパターナ」と呼ぶのが好きです。しかし、本当はサマーディバーヴァナー、あるいはアーナーパーナサティをすることです。全四部で、それぞれ四段階あり、合計十六種類あります。

 十六種類のどれも一呼吸ごとに呼吸でするので、見る物も四種類。一種類に四つの見方、四つの部分、四つの状態があるので、十六です。だから「アーナーパーナサティ」と呼びます。

 さてこれから、見る時のコツのような物、あるいは丁度良い仕方について話したいと思います。正しくできなければ、間違っていれば期待通りになりません。サマタニミッタ、あるいはサマーディニミッタの状態を見すぎると、眠気が差し、眠くなり、続けられなくなってしまうので中止しなければなりません。

 パッカーハニミッタの状態を見ると、つまり凝視する状態を心で熟視すると、非常に心が乱れます。つまり散漫になって安定しません。ウベカーニミッタの状態を見ることは、できても静まるだけで、煩悩を滅すことはできません。つまり無常・苦・無我、欲望の減少や滅尽が見えません。いつまでも捨のままです。

 だから見る時静まりすぎれば眠くなり、凝視しすぎれば混乱し、淡々と見すぎれば煩悩が断てません。だから丁度良い程度に、すべて良しと言えるように、均衡がとれるようにしなければなりません。バランスがとれていれば眠くならず、混乱もせず、停滞もしないで段々見えるようになります。

 これです。呼吸を見るにも、感情を見るにも、心を見るにも、タンマを見るにも、何を見るにもこのように適度に見なければいけません。

 残りの時間もわずかになりましたが、この機会に、多少時間を超過しても、どうしたらアーナーパーナサティの仕方、その方法に関する問題をなくせるかを、最後まで話してしまいます。アーナーパーナサティに限らず、どのようなサマーディバーヴァナーでも、心の訓練をする人は、最初の心の準備として心配事を断たなければなりません。

 私が完璧な実践者の規則を話すのは、在家である学生、あるいは公務員も、それを使えると思うからです。

 初めの項目は心配事を断つことです。この心配をパリポートと言います。みなさんは住まいに関する心配をなくさなければなりません。住いの問題があってはいけません。これではまだ練習はしません。それではまだしません。

 扶養に関する心配を断たなければなりません。幸運を祈願することや当てにしている幸運の気掛かりを断たなければなりません。関わっている団体や集団、あるいは保護者、あるいは扶養者の問題を断たなければなりません。今関与している仕事の心配を断たなければなりません。つまり仕事に没頭しすぎないこと、溺れないことです。

 これから行く旅行の心配も断たなければなりません。親戚のこと、病気のこと、勉強に関する心配も断たなければなりません。最後に何か良いこと、奇跡を起こす力を得たいなどという気掛かりも断たなければなりません。このように心配事を断つことが、最初の良い心の準備です。

 次は適度な良い場所へ行きます。ブッダは『静かな場所』と言われています。僧ならば墓地や木の根元、あるいは空家、廃屋が良いと明示していますが、要するにできそうな場所なら良いです。空家についてブッダは、積み藁の側、あるいは荒れた小屋、洞窟、あるいは山、岸辺、あるいは軒先と言われています。

 どこでもできる所なら良いです。次に正しく座ります。心のことをする作法のほとんどは座り方で、非常に便宜を与えます。それから場所を選び食事を選び、ふさわしいいろんな物を選びます。

 五欲の強い人は扇情的、享楽的な場所は避けます。怒りやすい人は怒りを誘うような場所へ行かないで、道具類がきちんと整頓されているような、広々としてすっきりした場所を選びます。これも事前に準備しておく話です。

 事前の準備が十分整ったら、アーナーパーナサティを始めます。第一部で話したように、真っ直ぐ座って、通常の呼吸はどのようか、呼吸を意識します。長い息というのは、自分で長いと感じる長さです。短いというのは、自分で短いと感じる短さです。長いと短いは、どのように比較するのでしょう。

 気分が良い時、心が平常な時は息が長いです。疲れていたり、怒っていたり、正常でない時は息が短いです。しかし呼吸が通常の長さの時でも、喜びがあると、あるいは呼吸を意識し始めるだけでも、息は長くなります。だからどのように長くなり、短くなるか、観察して見てください。長い時はどうか、短い時はどうか知ります。

 呼吸を意識し始める段階から示されている観察事項を、正しい技法で意識すると、その行為から満足と呼ぶものが生じます。これを最初に観察します。呼吸を意識しても、その行為から満足が生じなければ、仕方が正しくありません。正しくすれば、観察する行為に満足を感じていることを、簡単に観察できます。

 あるいは何かを意識している呼吸が、満足でいっぱいに見えます。このように満足が生じれば、息は長くなります。この時満足が非常に強くて、心を楽しませるほどになれば、成功したことによる喜びはより大きくなり、息はより長く、あるいはより滑らかになります。このくらい緻密になれば、心が呼吸を意識できているという意味です。

 このように呼吸を意識できる心は、意識できなかった初めの心と違うと見なさなければなりません。だから「呼吸から生じた心」、またはエッガガターチッタ(一境心)が見え始めたと言います。呼吸が唯一の感情(意識の対象)である心です。これが人の言うところの呼吸から生じた心、あるいは最初に生じたエッガガターチッタ(一境心)です。


 次にこのように心を管理していると、「捨」であるサマーディの物、現れた定と呼ぶ状態になります。その時ニミッタと呼ばれる物、つまり呼吸ですが、それが一呼吸ごとにはっきりと現れ、最後にその呼吸はイメージになります。呼吸が滑らかで、呼吸そのものを意識することができないので、代わりに星や円やその他何らかのイメージが生じます。これをニミッタが現れたと言います。

 この段階までできれば「サティがある」と言います。呼吸の代わりに、生じた円やニミッタである呼吸を意識できるからです。この意識できることをサティがあると言います。心がそのように呼吸を意識し、呼吸はどのようか、心はどのようか、サティはどのようかを意識していると知ることを、ニャーナ(智。真実を知る智慧)と言います。最初のニャーナが生じます。

 体は体として、つまり呼吸として現れると言います。かつて見えた荒い呼吸も滑らかな呼吸として現れ、呼吸でなくなり、代わりに星やその他の徴が現れます。それでもまだ体、あるいは呼吸と呼びます。しかしニミッタと呼び、呼吸から生じた心と呼びます。この段階までできれば、カーヤーヌパッサナーサティパターナ(身随観念処)が現れたと言います。つまり完璧なカーヤーヌパッサナーサティパターナの形です。

 概念であるニミッタ、ニミッが生じるほど呼吸が穏やかなので、抑制とサマーディがあります。サティも安定し、知識も安定しています。意識される感情も、意識するサティも、常自覚である、絶えず自覚することも安定しているという意味です。意識される物が呼吸、つまり体なので、カーヤーヌパッサナーサティパターナと言います。


 さて次は、呼吸をより滑らかにするにはどうするか、という点だけについて判断して見ます。どのように呼吸を滑らかにするか、あるいは繊細な物を意識するサティを繊細にするか、あるいはより繊細な物を意識するサティにするかという規則があります。

 通常の息を意識している時、呼吸はまだ普通の呼吸です。しかし少し難しい物を意識すると、たとえば四元素、土・水・風。火は繊細なので、呼吸も一同時に、自然に滑らかになります。四元素よりもっと微妙な物、たとえば四元素に関わるいろんな状態を意識すると、繊細な物を意識するサティと同時に呼吸も滑らかになります。

 次にもっと難しいことをして見ます。土・水・風・火の四元素とそれに関わる状態を意識し熟慮すると、それらはより繊細なので呼吸も自然に繊細になります。これは、騙して呼吸を滑らかにするようなものです。

 それではもっと繊細な物を意識してみます。つまり無形と呼ばれる形のない物、述べたような空気や精神や無や、考えているのでもなく、考えていないのでもない、抽象と呼ばれる物を熟慮することは、呼吸を自然に、より滑らかにします。

 もっと難しい、形と無形を同時に意識します。これはもっと繊細です。形より無形より、もっと繊細な物を意識します。つまり形と無形を変化させる縁を意識します。それはより繊細で深いので、サティも深く繊細になります。深く繊細に意識することで、呼吸も繊細になります。こうすると、禅定、あるいはサマーディも繊細になります。

 最後に最も繊細な物を意識します。つまり形を変化させる縁の状態を意識します。これが繊細な物の最後です。これは呼吸を滑らかにするために繊細な物を意識する手法、あるいは方便です。こうして話したのは、呼吸を穏やかにする方便として、いろいろな方法があると説明するためです。

 呼吸が滑らかになればなっただけ、体を乱す物(カーヤサンカーラ)が静まった、それだけサマーディも深くなったと言います。禅定も生じます。


 次は全過程について手短に述べます。呼吸を意識し、受を意識し、心を意識し、タンマを意識するこの過程を、ブッダは、このように段階を追って経過していく過程をよく観察するよう言われています。

 つまり最初には呼吸を部分部分と言われるように、吸う息、吐く息を意識します。吸う時は吸ったと意識し、鼻先から出発して真ん中辺を通り、臍に到ります。吐く時は臍から出発して胸の中間を通って鼻先に来ます。それは部分部分になっています。

 あるいは呼気の時も吸気の時も、一から五まで数えます。多ければ一から十まで数えることもあります。これを部分部分と言います。この部分部分の方法で呼吸を意識することを「カンナー(数える)」と言い、まだ粗雑です。

 次はもう少し細かくするために追い駆けます。部分部分のようには意識しませんが、呼吸の面倒を見るように、吸う息・吐く息を道々追い駆けて行きます。これを「アヌパンタナー」と言います。後の部分は方便です。そのように追い駆ける必要がなくても、入り口である鼻先で意識しなければなりません。息が入ってから出るまでの間に心が逃げ出さなければ、入る時から出る時まで、呼吸を追っているのと同じと言います。

 ここは子供を揺り籠に入れて寝かせている人に譬えることができます。子供がまだ眠らないうちは、揺り籠の動きに合わせて左、右と首を振りますが、子供がだんだん眠くなってくれば、揺り籠が目の前を通る時だけ見ていれば十分で、効果は同じだけあります。だからアヌパンタナーはカンナーより繊細です。

 つまり息の出入りを追って、入り口で見張っていると感じることは、守衛が入り口で見張るのと同じで、そこでしっかり見張っていれば、入った人が街へ行くのを、あるいは出た人が山へ行くのを、追っていく必用はありません。それは全部を管理することです。これが、繊細になっていく呼吸を意識することです。

 次に「プサナー」というものが生じます。触れること、あるいは息の当たる所を「プサナー」と言います。ここでは鼻の先の息の当たる所で見張ります。そこを「プサナー」と言います。プサナーでしっかり意識できれば「タパナー」と言い、サティがそこにしっかり居ついているという意味です。

 まだ出たり入ったりする呼吸を意識しているうちは、あるいは数えて意識している時、呼吸は唱えるニミッタと呼ばれる状態のニミッタ、初めの段階のニミッタです。

 だからプサナーが鼻の先に現れ、そこで意識していると、そこにサティが生じて呼吸が滑らかになり、白い円や赤い円、あるいは霧のように曇ったり、綿毛のようになったり、水晶玉のようになったり、いろいろな形に変わります。その像は重要ではありません。滑らかなので、それが呼吸に代わるニミッタになっただけです。

 呼吸が滑らかになって呼吸を直接意識できなくなくなることを、「ウッガハニミッタ(取相)」と言います。だからどこか一ヶ所で意識していて、タパナーと呼べるまで安定してくると、そこにウッガハニミッタ(取相)があります。

 そのようにイメージしたニミッタをしっかり支配できるようになったら、もっと上手になる練習をします。つまり心を傾けてイメージしたウッガハニミッタ(取相)を大きくしたり、小さくしたり、遠くへ後退させたり、喉の奥や胸の奥に入れたりします。これはすべてイメージした像の話です。

 考えの傾きに合わせてニミッタを変えることを「パティバーガニミッタ(似相)」と言います。最後にそのウッガハニミッタ(取相)と呼ばれる物は、何らかの状態で停止し、以後変わることはありません。ニミッタの形が定まったということです。

 パティバーガニミッタ(似相)と呼ばれる最後のニミッタを引き止めておいて、禅定が生じるまで、それを感情(意識する対象)にします。禅定が生じるまでの間、心はこのパティバーガニミッタ(似相)を拠り所とします。この段階まできた人は、食事や環境に十分注意を払って、気持が動揺したり体調を乱したりしないようにしてください。

 つまり環境や人的環境まで良くさせ、幾つか実践しなければならない規則があります。最終的には、いつか禅定といえるほど心を静めることができます。つまりヴィタッカ(尋)・ヴィチャーラ(伺)・ピーティ(喜)・スッカ(幸福)・エッガガター(一境性)の感覚を引き留め、完璧にできます。五つを一つに溶け合わせて、禅定、初禅にすることができます。サマーディの話は禅定で終わります。

 五つあるというのは、その時の深いサマーディの感覚を意味します。感情を意識する感覚があり、感情とぴったりと重なっている心の感覚があり、喜悦の感覚があり、つまりその行為に満足し、そして涅槃の味見のような幸福の感覚があり、それから心が感情と一体になっている状態があります。この五つの感覚を一つに管理できれば初禅と呼びます。

 これらの五つを出してしまえば、もっと緻密になり、二禅、三禅、四禅になります。それに関する詳細は、とてもこのように短い時間では話せません。これがサマーディの部分ですとまとめるだけです。


 次は「サラッカナー」と呼ばれるヴィパッサナーの部分です。心がサマーディになると、清潔で静かで活動的に、つまりカンマニヨーになります。このカンマニヨーを何と訳したら良いか分からないので、Active、働くことに積極的と言います。

 このような状態の心を使って、前に説明したように受や心やタンマを意識します。これをサラッカナーと言い、意識するという意味です。状態を意識する。(ここでは感情を意識するのではなく、無常・苦・無我、あるいは空である状態を意識します)。

 このように明瞭に見えれば、欲望が薄れて倦怠が生じます。前に説明したように、滅と煩悩が生じないことを「ウィワッタナー」と言います。つまり煩悩を断つマッガの時です。それから「パリスッティ」と呼ぶ、つまり煩悩がないことから生じる結果が生じ、最後は「パティパッサナー」で、最初から最後までやってきたことを眺め、「今心は煩悩が無い状態だ」と見ます。

 これが概要です。サマーディの部分はカンナーと呼ぶ部分部分を意識すること、アヌパンタナーは入ってから出るまで全部を意識すること、プサナーはどこか一ヶ所に止まっていること、タパナーはそこに安定すること、ニミッタは変化して、最後には禅定を生じさせる形になります。これでサマーディの話は終わりです。

  ヴィパッサナーの話は、サラッカナーは熟慮で、聖向の話はヴィワッタタナー、結果は純潔、熟慮の結果であるパッチェカナニャーナはパティパッサナーです。これがアーナーパーナサティの全過程です。

 このようにできれば、ブッダの言葉に直接ある、ブッダ式のアーナーパーナサティバーヴァナーをする人と言われます。マッヂマニカーヤ(中部)にも、サンユッタニカーヤ(相応部)にもあります。それに精神病、あるいは誰かさんがなっているような病気にならないことは保証します。

 少なくとも心が静まり、正しい方法でできれば、明らかな見解と放下が生じます。これらを「一呼吸ごとに」というほど緻密にするので、アーナーパーナサティと言います。

 アーナは吐く息、パーナは吸う息、サティは意識する道具です。アーナーパーナサティとはサティで呼気と吸気を意識することです。これがサマーディバーヴァナーです。これをした人は四つの結果のうち、少なくとも三つが得られます。つまり生きているうちに心が安定することが一つ。天の物のような智見があることが一つ。完璧な常自覚があるのが一つ。煩悩を無くすことが一つです。

 この様式のアーナーパーナサティをすれば、一項と三項と四項は必ず、そして完璧に得られます。残る二項、天の物のような智見は望み次第です。しかし聖人方はそうした物を期待しませんでした。だからが滅苦だけに言及している時、述べません。


 私がサマーディバーヴァナーについて話したのは、これから判事になられるみなさんに、一つの目標に向かって実践することは、一歩も踏み出す必要がないこと、そしてすべての人に多少は関係があること、誰もが自分の心を素晴らしくすることができる方法であること、そして自分を簡単に完璧な道徳と誠実のある人にするために、世界の話、庶民の話にも合理的に使うことができることを、知っていただくためです。

 空へ行く近道、空を求める人の話なら、これが空へ直行する道、あるいは初めから空と共にいることです。呼吸を意識する最初の第一段階から、「俺」はないからです。そして十六段階まで、より空になって行きます。だから私は、空と一体になることは、足で歩苦く必要がない実践と見なします。


 まとめます。このアーナーパーナサティバーヴァナーは、それ自体がサマーディであり、智慧であり、聖向聖果、涅槃と言うことができます。もっと欲張って言えば、このように実践には帰依もあり、布施もあり、持戒もあります。これを実践することは、ブッダとプラタム(教え)と僧と一体になることだからです。

 これを実践することは完璧な戒を持すことです。呼吸にこのように細心の注意を払うには、当然体と言葉とその他すべてに注意を払うので、戒に反すことは何一つありません。

 そして「全部布施する」と言われます。その時感覚の中に、完璧に自分がなく、自分の物がなく、すべてを犠牲にしているからです。そのように暮らすことは、サマーディであり、智慧であり、聖向である煩悩を断つことであり、聖果である煩悩が生じないことであり、そして涅槃の味見でもあります。

 だからこの実践法全体、つまりアーナーパーナサティバーヴァナーを近道と見なします。非常に便利で偉大な成果があり、どこでもでき、誰にでも向いているサマーディバーヴァナーです。そして危険がなく、他のある種の念処のように危険がないので、注意しなくても良いです。。

 時間になりましたので、今日の講義はこれで終わりにさせていただきます。




次へ ホームページへ 法話目次へ