4.ブッダダンマに到達するために





 次に、人は通常、自分の心を支配することは難しく、人によってはまったくできない問題があります。もしそうなら、いつも内面の世界を見ることは、難しくなります。この問題を解決するために、心を支配する方法、一般人向けの簡単な方法の概要を知っておく必用があります。

 何処にでもあり得る停滞を解決するためにも、自分自身を援ける物として知っておくためにも、できるだけ知っておくべきです。この年代の学生の要望に応えて、特別にお話します。

 心の訓練、あるいは心を支配することは、すごく当たり前なことと同じで、最高に重要です。しかし関心のある人が少ないので、難しい物、あるいは不可能と見られます。しかし本当は、世界が物質主義に傾いている時代の感覚でしかありません。

 私が当たり前と述べるのは、外部の話、あるいは身体の話のように本気で訓練すれば、段階的に成功できるという理由からです。スポーツの練習などは、正しい技法で練習すれば、変わったこともできるようになります。

 しかしどんなに変わったことでも、よく考えてみると、すごく当たり前と見なさなければなりません。人間として当たり前の体力のある人なら、誰でも練習できます。しかし誰もが運動選手にはらないのは、嫌いで、その必用のない人もいるからです。休まず練習をすれば、ますます珍しく、美しいこ技ができるようになります。正しい方法なら、始めた時満足があり、中間では休まず努力し、最後には成功します。

 心の訓練も身体の訓練のように当たり前の物で、正しい方法でたくさん練習すれば、それに比例して結果があると言うことができます。非常に重要と述べたのは、人間であることを最高に満たす道だからです。それが幸福、あるいは到達すれば非常に満足できる幸福である種の平和にします。

 心を支配する練習の要点は、簡単に言えば、くるくると良く変わる物を注意深く維持することです。理解し易いように例えるなら、最高にありふれた譬えで説明したいと思います。

 ある人が猿に芸をさせてお金を稼ごうと思えば、猿を捕まえて調教しなければならないのは当たり前です。ご存知のように、猿は非常にすばしっこく、凶暴で狡賢く、落ち着きのない動物で、調教することは、つまりその時点で非常に落ち着きがなく見える動物を、厳しく命令に従う動物にすることなので、当然難しく、かつ危急の問題です。調教が難しいからこそ、人が見たがります。それがお金になる理由です。

 この場合の訓練の大原則は、猿を捕まえて最初にする訓練は、先ず命令に従わせる、あるいは望まない行動を厳重に禁止しすることにあります。初めの段階で命令に従わせることができたら、次の段階は、あれこれ変わったことを、命令どおりにやらせる訓練をします。命令どおりにするようになれば、結果は確実に見物人からお金を集めることです。それは確実に期待できます。

 同じように、心もクルクルと変わりやすく、非常に軽く素早い物で、みなさんも聞いたことがあるように、ブッダは猿に譬えています。心はクルクルと変わりやすく、非常に素早いので、とても早く変化します。その上その変化は低い方へ転げて行くばかりで、高い方へ変ろうとしません。

 魚や水棲動物と同じで、水から揚げて土手に投げ出すと非常に転げ回り、低い所へ落ちようと転げます。決して陸に上ろうとしません。

 同じように、心も普通は低い方へ転がって、水、つまり形・声・臭・味、そして接触、あるいは世界と呼ぶ物、そこに落ちます。だから初めに従わせる訓練をしなければなりません。つまり水のような低い感情から離し、自分で決めた何らかの高い感情の中で静かにさせます。このようにサマタバーヴァナーの状態に訓練できれば、猿を脅して、ある程度従わせることができたのと同じです。

 次は二段階めの訓練で、ヴィパッサナーバーヴァナーに相当します。その次は、初めの目的である観客からお金をとることに当たる、聖向聖果の段階です。

 猿を従わせる訓練法は、頑強な杭を打ち込んで、その杭に猿を紐で繋ぎます。心の訓練にもしっかりした杭が必用です。みなさんご存知のように、世尊が奨励なさっていたアーナーパーナサティカンマターナです。一番知られているカンマターナ(念処)です。このカンマターナでは呼吸を杭にします。そして一番便利なカンマターナです。

 人はいつでも、当たり前に呼吸をしているので、いつでもどこでも練習できます。入ったり出たりする息の流れは「猿を繋ぐ杭」で、それに猿である心を、サティという紐で繋ぎます。猿を打つ鞭はサティです。呼吸を意識するサティがぼやけなければ、それだけ猿を繋いでいる紐は切れていません。当然猿は杭から逃れて山、つまり世界の感情へ帰ることはできません。

 もう一つ知っておかなければならないのは、捕まえて来たばかりの野生動物、たとえば象などは、捕まえてすぐに訓練しようとすると、非常に抵抗します。みなさんも見ているように、非常に暴れて、足や首に掛けた鎖が肉に深く食い込んでも、骨まで達しても、まだ暴れます。

 森の中で普通に暮している時は暴れません。捕らえられた時のように、びっくりするような状態はありません。そして調教が終われば暴れなくなり、飼い主のために働く心構えのある、大人しい象になります。

 心も同じで、世界の感情と混じっている時は、それほど凶悪には見えませんが、訓練しようと捕まえて縛っておくと、恐ろしく、そして不思議な暴れ方をします。その人の決意と努力をすべて無駄にしてしまう類の暴れ方で、私にはサマーディの訓練をする資質がないと考えてしまうこともあります。

 捕らえられて鞭打たれている時の心は、当然弱気や動揺や恐れを露わにします。紐であるサティが頑丈でなければ、その時挫折してしまうかもしれません。だから紐、あるいはサティを強くして、興奮させることでも、怖がらせることでも、現れてくる状態に動揺しないようにしなければなりません。

 初めから「捕らえられたばかりの象の行動と同じ」で、当たり前と思わなければなりません。森の中で本能で生きている時の象は秩序があって、訓練される時のようにドタバタしないのは事実です。しかしまだ何の利益もない象です。

 だから人は一時大騒ぎを覚悟で、野生の象を家畜の象にするために投資します。後は快適です。良く訓練された心は、反対の状態になり、つまり支配下にあり、静かな穏やかさだけになります。ころころ変わらないで、純潔で、真っ白で、柔軟で、丁寧で、心の側の仕事をするのに適した心で、踊ったり楽器を弾いたりする心構えのある猿と同じです。

 この従わせることができた状態を、タンマの言葉でサマーディ、あるいはサマタカンマターナ(止業処)と言います。この段階の結果は静かなこと、見苦しくないこと、言うことを聞くこと、そして訓練に慣れていることです。

 次の段階はよく訓練された心で、何かを掌握したり執着することなく、明らかに洞察する特別な智慧が生じるよう、すべてのブッダダンマを熟慮します。これは智慧の段階、あるいはヴィパッサナーカンマターナ(観業処)の段階です。聖向聖果として成功するまで、ローグッタラ(世界を超越した)という種類の幸福に到達し、低さや欠陥が戻らなくなるまで続けます。


 サマーディの状態、呼吸を基本、あるいは感情(意識する対象)として用いる練習について、ここで簡単な流れを話します。最初の段階、サティで呼吸を意識するのは、何かを別の何かに繋いでおくことに似ています。ヴィタカ(尋)と呼びます。

 この場合のヴィタカという意味は、考え込むこと、あるいは余計なことを考えるという意味ではありません。特別な意味がない何らかの感情(意識の対象)、あるいは思考ではない感情を、サティがしっかり意識している状態を意味します。

 一方心が対象である呼吸と、絶えず密接に関わらなければならないことをヴィチャーラ(伺)と言います。この場合ヴィチャーラ(伺)と呼ばれる状態は、原因を探したり、智慧を使って考えることでなく、心が感情から離れないで密着している状態を意味します。

 猿を繋いでおくことに譬えれば、ヴィタカは杭に繋がれていること、ヴィチャーラ(伺)は杭の周りで飛んだり跳ねたりして、いずれにしても杭と繋がっていることです。

 まだヴィタカ、ヴィチャーラ(伺)だけの段階を、ボリカム中、あるいはボリカムと言います。うまくボリカムができるようになり、心が自然に生じるべき原因と結果を生じさせれば「心を支配できた」という感覚が生じます。そしてピーティ(喜悦)と呼ばれるある種の満足感、あるいは全身を駆け巡るような喜びが生れます。

 全身が軽くなったような、全身を巡るような満足感です。停滞や閉塞は感じません。体温も低くなって鎮まり、存在していないように感じます。呼吸はどんどん滑らかになり、息をしていないように感じます。神経の緊張はまったくありません。あるのは喜悦と呼ばれる快い軽さだけ。もちろん内部だけに沁みわたっている安心という意味もあります。散漫や欣喜雀躍するという意味はありません。

 それと同時に、意図しなくてもこの喜悦は幸福の感覚があり、あるいは心がすっきりした気持ちでいっぱいです。この感覚を「スッカ(幸福)」と言います。その後はこの感覚を安定的に維持しなければなりません。猿が踊るのを止めれば、紐またはサティは、二度と引き寄せられることはないので、この状態を一定に維持するだけです。

 本当は最初から溶け合い始めています。際だっている状態をより際だたせ、終始心は一つの感情の中にあると現れるようにします。そして本当に、初めより際だっていれば、その段階のサマーディは、十分に成功に達したということです。この一つに安定した状態を「エカッガタ(一境性)」と言います。

 そして知っておかなければならないのは、この時ヴィタカ(尋)・ヴチャーラ(伺)・ピーティ(喜)・スッカ(幸福)・エカッガタ(一境性)が一つになっていることです。そのサマーディにある間は、その人がサマーディから出るまで、何も介入してくる物はありません。


 次の段階の練習は、早くサマーディになり、求めるだけ長く続くよう、自分で決めた時間にサマーディから出られるようにします。普通にしている時でも、内部が常に喜悦と幸福で満ちていると感じられるくらいまで、習性になるくらい熟達します。

 大きな幸運にめぐり合うと、どこにいても、何をしていても、喜びが体中を巡っているように、どこでどんな行動をしていても、常に喜びが満ちているようにします。この段階に到達すれば、心の訓練は一つの段階の完璧な成果に到達したと言います。それを初禅と呼びます。

 最初の課題である、心を見つめることに習熟しました。これだけでも、次に智慧で熟慮する際の基盤にすることができます。二禅、三禅、四禅の訓練をしなくても、いつかはローグッタラスッカ(世界より上の幸福)に到達することができます。

 たったこれだけでも不可能でしょうか。人間として真の勇気を使えば、普通の人でも難し過ぎることではありません。初禅の段階はそれほど緻密ではなく、まだ粗い段階だからです。高い気力、あるいは根(目・耳・鼻・舌・体・心)がある人なら、当然四禅に到達できます。もっと訓練して無形禅定、つまり心の訓練の頂点である段階に到達することもできます。

 智慧の訓練には、これほど高い心の訓練は必要ありません。ブッダダンマを理解するには、一般人に関して言えば、ほとんど智慧の訓練に依存しています。これは、仏教史の中のほとんどの阿羅漢の方たちが、初禅だけで聖果に到達していることを見ても明らかです。中には禅定というほどの訓練をしないで、阿羅漢になった人もいます。


 ブッダが詳細に説かれた非常に技術的な物より簡単で、一般人に向いているアーナーパーナサティもあります。

 人は通常、普通に呼吸をしています。呼吸を意識するサティがあれば、息の出入りを発見します。どれくらい吸ったら吐き出すのか、どれくらい吐き出したら吸うのか、どこが中間か。これが、最初の課程で意識しなければならないことです。

 全部実践者が意識、または観察しやすい物ばかりです。一々探したり待ち受ける必用はありません。意識し始めれば、身体が静まるにつれて、呼吸も静かに滑らかになります。意識できないほど軽くなってしまったら、もう少し息を強くしてやり直します。次第に呼吸が安定し、呼吸を追い駆けるサティも安定していると感じ、一定の安定が得られたと感じます。

 次は「入り口」だけで、サティで意識します。たとえば鼻先に柔らかい傷があるように意識します。そうすると呼気や吸気が当たった時、感じやすくなります。初めの段階のように息の動きを逐一追う必用はありません。

 分かりやすく言えば、出入り口を見守る守衛のようです。守衛の仕事は、出入り口だけを見守ることで、人がどこへ何をしに入ったのか、あるいは出てどっちへ行ったのかは、守衛の義務ではありません。この段階のサティも同じで、息の出入りを鼻先で定期的に意識します。これは追い駆ける負担をなくすため、あるいはより静かに、より緻密にするためです。

 別の譬えでは、子供を寝かせようと揺り籠を揺すっている子守りと同じです。子供が起きているうちは立ち上がったり動いたりするので、時には揺り籠から転落することもあります。だから子守りは細心の注意を傾けて、揺り籠の動きを逐一見守っていなければなりません。揺り籠が向こうの端へ行っても、こちらの端へ来ても、片時も目を離すことはできません。

 しばらくして子供が静かになるか眠ってしまえば、子守りはそれまでのように籠の動きを目で追う必用はありません。籠が目の前を通る時に見るだけで十分です。初めの頃より静かで緻密です。子供がすっかり眠ってしまえば、子守りはゆっくり休めます。

 サティは、この場合の子守りと同じです。最初のボリカムの段階では心はまだ粗雑なので、サティは休まず息の流れを厳格に追って、心が途中でニミッタ(心が感じている物)から逃げ出さないようにしなければなりません。少し言うことを聞くようになったら、あるいは身体と心が静まってきたら、間隔をおいて、目の前を通る時だけ、いつも前を通る時だけ見守ります。

 述べたように呼吸を意識する二つの方法を「ボリカム(呪文を唱える)ニミッタ」と言います。ボリカムとは、練習を始めるという意味です。このボリカムの時のニミッタは呼吸で、自然にある外部の物です。心がサマーディになりそうな時のニミッタとは違います。

 これはウッカハニミッタと言います。学ぼうとする人はしっかり意識しなければなりません。ウッカッハニミッタとは、古い物から新しい物に形が変わり、心または感覚の中に見える物です。しかしここでは、実践者の意図というより、むしろ意図しないでそうなります。

 サティが守衛のように、あるいは揺り籠で眠っている子を見守る子守りのように意識している時、つまり正常な呼吸を意識している時は、サティの義務は少なくなって、意図しなくても見守れるようになり、心も穏やかで、意図して見守っていた時のように従順と説明します。

 この過程で、サティは外部のニミッタである呼吸から離れ、あるいは開放されます。同じ形のニミッタを作って、同じ所に重ねます。ここだけについて言えば鼻腔です。感覚は同じですが、最初の過程の、意図した覚めた感覚と違って、感覚が半分くらいに減った感じがします。

 この感覚は、サティが鈍っているのでも、管理に欠けているのでもありません。反対にうまく行っている、あるいは安定した、あるいは慣れたサティです。

 この過程でサティが意識する物は、荒い呼吸の出入りではなく、イメージした呼吸、あるいは最初の過程で使った普通の呼吸の代わりに、サティが意識するイメージされた像です。この新しいニミッタを「ウッガハニミッタ」、あるいは、目の内部に焼きついたニミッタと呼びます。

 心がウパチャラサマーディの状態、つまりもう少しで本当のサマーディという時のニミッタです。海や、他のどこかへ旅行した時に見た美しい風景、目や心に焼きついた像は、しっかり見たので、あるいは目に焼きつけるに十分な時間見つめていたので、見たい時に目に浮かべて見ることができます。感情を「半分の感覚」といわれる状態にしておくと、その光景は心の中で非常に明瞭な状態のまま静止します。

 鼻腔の感覚も同じです。心の目、または心に焼きついてウッガハニミッタになっていれば、その課程で意識している物は単なる「感覚の像」です。慣れているので、そして一定の状態で長い時間、あるいは十分な時間見つめていたので、意図しなくても自然に生じます。

 だから第2過程のニミッタ、あるいはウッガハニミッタはボリカムの段階のニミッタと違います。共通点は、特にアーナーパーナサティに励む時、鼻腔の感覚を意識するのと、サティがイメージして作り上げた像と、同じ所(鼻腔の感覚)を意識する、形または状態が同じだけです。

 しかしイメージした像であるニミッタには、ある特徴があります。すばしっこくて変わりやすいことです。非常に活発で、いつでも変化できます。次の段階で考えが傾くと、その考えの傾きに、ほとんど意図がないと言えるくらい意図が少なくても、すぐに変化します。


 次の段階のニミッタの変化は、ウッガハニミッタを正しく意識でき、そして安定するまで習熟すれば、ニミッタは、十分に長い時間静かになります。心はより一層静まり、そのニミッタは一段階、星か円に形を変えます。どれくらい大きいか美しいか、どこに見えるかは、人によって違います。

 意図しないで浮かび上がってくる像は、はっきりした白い固まりだったり、空や木の枝や鼻先にある巨大な月だったり、人によってほとんど違います。思いの自然な傾きでそうなり、時には非常に奇怪なこともあります。

 この新しいニミッタは、時間や、心の中のいろんな原因によって現れて、すぐに大きく、あるいは小さく変化し、あるいは行ったり来たり移動しますが、間もなく安定し、それからは変化しません。それが最後の段階です。

 猿、あるいは心は、快適に静まって、もうどんな変化もしません。ヴィタカ(尋)・ヴィチャーラ(伺)・ピーティ(喜)・スッカ(幸福)、そしてエカッガタ(一境性)の感覚が染み渡って、心の中で溶け合っているのを観察できます。

 そして心は最高のヴィパッサナーニャーナ(観智)に入る準備ができます。この段階のニミッタを「パティバーガニミッタ(似相)」と言います。心には悪い感情、あるいは蓋と呼ばれる物は一切ありません。その上、心がそういう状態である間、あるいは心がサマーディの味に浸っている時は、その人がどんな行動をしても、悪い感情が生じることはありません。

 サマーディの味が全身を駆け巡ると、心に悪い感情が現れるのを防ぐ力が十分あります。そしてその人は「自分は最高に幸福だ」と満ち足ります。

 サマーディ、あるいは心を訓練することの結果は、述べた意味から、二つに分類できます。初めの結果はある種の幸福で、私たちがまだ経験したことがない、新しい種類の幸福で、形・声・香・味・触・心を魅惑する熱い物に依存しない種類の幸福です。サマーディの幸福は非常に穏やかな幸福で、水を撒かなくても涼しい(穏やか)です。涅槃の味見、あるいはすべての煩悩がないことの味見と言うこともできます。

 この段階で、涅槃はまだ現れていない、あるいはその人はまだ到達していないのは事実ですが、原因や縁が勇敢に探求させた分だけ、想像したより不思議な味が現れます。そして、涅槃に到達した味はこの道の先にあり、ただ非常に精緻で高いだけと、推測することができます。

 訓練をしたことのない、あるいはサマーディの味を知らない普通の人が、前もってサマーディの味を推測したいと思ったら、比較すれば推測できます。つまり自分が最高に「穏やかな感情」と呼べる時の幸福がどれくらいかを見て、それに何倍もの緻密さと高さを加えれば、サマーディの味を推測できます。

 同様に、サマーディの味と涅槃の味を比較することもできます。すべての点で一致しなくても、知識、あるいは高い真実に、非常に簡単に近づくことができます。これがサマーディの最初の結果です。タンマの言葉では一種の「生きている間に味わう幸福」と言います。この段階で努力する力が尽きても、それまでして来たことは、それほど無駄ではありません。

 二つめの結果は、心がサマーディになるとヴィパッサナーも上手くいき、すべてのサンカーラ(行)の真実が明らかに見えるようになります。サマーディは刃物を砥いで鋭くすること、あるいは眼鏡のレンズを拭いて透明にすることと同じなので、砥いだ刃物は切れるようになり、磨いた眼鏡は見えるようになり、期待どおりの結果が出せます。

 サマーディの心は、静かに安定した、純潔で純白な心です。そして非常に大きな特徴は、仕事に適していることです。あるいはカンマニヨーと言い、心が働くこと、熟慮などに適しています。普通の人の心はカンマニヨーではありません。働くこと、つまりヴィパッサナーバーヴァナーに適してなく、どんな感情を好むかで「欲しい愛しい」という感情に落ちます。

 だから、多少は心の訓練をしなければなりません。訓練した心は、良く調教された猿や象のように、テキパキと有益に使うことができ、勤勉で忍耐強く、簡単に変化しません。愛情や怒り、嫌悪や嫉妬、その他すべての物に支配され難くなり、あるいはそれらが心に生じ難くなります。

 このような感情が横切ると、それを嘲笑するような感覚が生じるので、心は乱れません。悪い感情が固まって押し寄せても、サマーディの味に浴している人の心を乱すことはできません。心が働ける状態なので、そう見えるので、すべての物の真実を見る効率が上がります。

 以上の理由で、心は簡単にすべてのサンカーラダンマ(行の物。何かに作られ、何かを作る物)を見ることができます。みなさんも実践して見れば、自分自身ではっきりと知ることができます。だからすべてのサンカーラを熟慮するためにこの種の心を傾ければ、簡単な物になり、みなさんがしている間に知ることができます。


 みなさんが心を支配して、この二つの状態に調整できれば、つまり生きているうちに見る幸福と、ヴィパッサナーの段階のタンマを、サマーディの力によってどんどん知ることができる状態の二つがあれば、みなさんは内面の世界を見ることができるということです。机、イス、電気スタンド、本、あるいはその他の物を見ても、それらはすべて同じ状態、あるいはまったく同じに見えます。

 どこを見ても、その人は、誇らしさと爽やかさで、心の中では常に微笑しています。普通の人は見ることができない内面の世界を見ることができるからです。どんな感情の形を見ても、当然、すべて新しい発見のような知識を得ます。その時、新しい真実や偉大な事実を発見した科学者が感じるのと同じ幸福を感じます。

 その時、続いて特別な結果が現れ、その後は、目や耳や舌や体に突き刺さって、怒りや嫌悪や煩悶させる物は何もありません。あなたの目や耳や舌や体を誘惑して愛させ、心に絡みついて心の自由を妨害する物は何もありません。

 世界のすべての物は、嘲笑される物になります。世界全体は一握りのようで、そしてあなたの掌中にあるように感じます。あなたが内面のニャーナ(智)でそれらを見ている限り、このように見えるので、それらはあなたの心に何もすることはできません。

 このように心を維持し、発展させることができれば、歩いても立っても、座っても寝ても、あるいはどこへ行っても、あなたの智慧が薄れて消えることはなく、非常に素晴らしく安定しています。

 しかしまだ習熟が少なく、あなたのニャーナがまだ新しくてひ弱なら、簡単に薄れて消えてしまいます。だからできる限り注意深く、大切に維持しなければなりません。この注意深さについて教典には「臨月の女性のように十分に」と譬えています。

 生まれて来ると信じられている胎内の子は、大皇帝くらい権力があり、偉大な人物である胎児が胎内で死ぬようなことがないよう、最大の注意を払って大事にします。心を支配し始めたばかりの人は、これくらい十分大切にしなければなりません。

 智慧、またはヴィパッサナーに関して、内面の世界が見えるようになったばかりの弱い心は、この段階では、他の物をどれだけ犠牲にしても、心が安定するまで、十分注意をしなければなりません。智慧を護るためには、一部の人との交際を犠牲にし、ある場所へ行くのを我慢し、収入を犠牲にし、あるいは何かの権利を犠牲にします。

 もうすぐ死ぬ重病の時は、それらの物を犠牲にできるように、犠牲にすることができます。そして反対に、付き合う人や場所、接する物を選ばなければなりません。付き合う時は、人や場所や物などがやる気にさせる、心を安定させる、あるいは心を強くするなら、その人と交際するべきです。病人が障る物を避けるように、敵である人や場所は特に避けなければなりません。


 もう一つ知っておくべきは、心を大切に維持すること、あるいは話したように、どこででも意識することによって、一般の人から見て、あなたが普通でない心の持ち主で、信頼できない、あるいは嫌らしい人に見える、あるいはおかしな所作で歩いたり立ったり座ったり寝たりするということはありません。

 それに、どこにでも座ってサマーディをするのは、大変なことではありません。サマーディの状態と味の感覚は、熟達すれば自然に身に沁みた物になるからです。

 初めてでも、その人の不注意によって消えてしまうまでは、長い間心に染みています。一般の話と同じで、莫大な果報を得たとか、何かに成功して高い名誉を得たなどの大きな喜びがあると、その喜びはどんな挙措の中にも、いつでも染み渡っていて、寝ても良い夢を見ます。道に出ても人込みに出ても、自然にそれが消えてるまで、あるいは後に薄れるまでは染み渡っています。

 サマーディの味であるピーティ(喜悦)、あるいはスッカ(幸福)も、良く訓練した時は非常に満足します。その後本性になり、あるいは本性にいつでもあり、記憶、あるいはある種の思い出だけの物になるので、すぐに呼び出すことができ、思い浮かべるだけで染みこんだ味が広がり、たちまちサマーディの状態になります。

 だからその後は簡単に、以前より早く、非常に幸福になれる機械を手に入れたようなものです。いろんな悪い感情、欲情や恋に落ちること、怒り、嫌悪、嫉妬などに心が支配されません。あるいは簡単には支配されません。

 政治家なら注意深く強い心で討論するのにふさわしく、宗教を教える人なら、信仰のない人の悪意に満ちた反論や、人まねをして小馬鹿にする人に対処するのにふさわしいです。あるいはどんな仕事に就いても、自分自身の拠り所と言えるように、常に自分をしっかり維持して行くことができます。

 みなさんは自分のサティを維持する力があります。あるいはどんな社会、どんな場所に行っても、十分な心の平静さ( Equilibrium )があります。述べただけでも安定した心、あるいはカンマニヨーであることは、世界でも、タンマの面でも、どれだけ義務である仕事にふさわしいか、見ることができます。


 最後にまとめさせていただきます。いま見ているように非常に安定するまで訓練した心は、みなさんを生きているうちに見る幸せにする準備が整っています。あるいは幸せにすることに慣れています。そしてみなさんを、すべての点で非常に高度なブッダダンマを理解させるにふさわしいです。

 すべての物を明らかに見ること、あるいは内面の世界を見ることでブッダダンマを理解するには、このサマーディが標準として依存しなければなりません。つまりこのサマーディがあればあるだけ、早く簡単に理解できます。この時最高レベルのタンマに達しなくても、この道を一年中、一月中、寿命が尽きるまで生きる道にすれば、近いうちに、理解する後押しになります。

 これがサマーディの概略です。


 この説教を終わる前に、もう一度繰り返させていただきたいことがあります。ほとんど熟慮することによって、あるいは別の言い方をすれば、サマーディより智慧によって、あるいはサマーディを増やすより、智慧を増やすことによって解脱するパンヤーヴィムッティ(智慧による解脱、慧解脱)という人たちの道です。

 だからサマーディについて知り、十分心を支配することを理解したら、重要なのは、智慧の系統にすることです。それ以後は大部分を、述べた意味の熟慮することです。

 ちょっと上へ移動して、新しい流れを掴む努力をしなければなりません。つまり心を自由に維持します。かつて容赦なく反論し合っていた類の、それまで執着していた哲学や教義に夢中になりません。外部の記号や商標にすぎない宗派を信じません。本当のタンマを理解することは、宗派に分類できません。できるのは、真実に合った正しい行いをする人が、素晴らしいタンマに到達するだけです。

 内面の問題であり、個人的な問題なので、市場で売っている日用品と違って、本当の品質に合った商標を貼ることはできません。

 教義や宗派への執着は、却って心の曇りを強くし、誤解や執着のない自由ではありません。宗派や哲学として信じていた物を、他人から「真のない人だ。以前はこう主張していたのに身を翻した」とそしられるのが怖いという理由で、無理して背負わないでください。

 頑固なタイプの誠実な人は、以前に言ったことが間違っていても、その言葉を変えようとしません。無意味な真を死ぬまで背負っていきます。誠実な人ではありません。

 ブッダタンマを理解するには純潔な真が求められます。心が自由で、善と正しさを宗派とし、聖向聖果に到達することを宗派のマークにします。他の行動規則や神がかったものを宗派のマークにしません。だから初めの段階として、このように頑固な気持ちを完全に払い捨て、排除しなければなりません。

 (頑固な気持ちを)勇敢に犠牲にし、以前はこういう意見や見解があったが、今はどうして捨ててしまったのかと、恥じることも恐れることもありません。

 それは、誤った見解に執着していた心の汚れを、きれいに洗い落とすためで、心は簡単にサマーディの状態で安定します。あるいはそれらの不潔な曇りを拭えば、途端に、自然にそうなります。その安定状態を維持するのも簡単です。本当にすっきりとそうなります。自分が通り過ぎてきた汚い頑固さを振り返って見れば、爽やかに微笑んでしまうにちがいありません。

 宗派や教義への強い執着を引き抜くことは、当然、外部の人や物にも執着しないという意味です。その人に帰依するために「この先生は阿羅漢だ。私の師はどの段階の聖果に到達した」などと信じないことも意味します。

 これは非常に危険です。このような執着は、執着する人の魂を閉じ込める鳥篭で、その人を進歩させるより、か弱い小鳥の雛にしてしまいます。その先生に熱狂しすぎれば、破廉恥な、あるいは世界を騙すアーチャンに騙される機会になります。

 自分が信じている人が本当に阿羅漢でも、信仰することには何の利益もありません。自分が阿羅漢になる以外には、阿羅漢を知ることはできないからです。「私の師」と信仰することは、阿羅漢の正しい捉え方ではありません。愚かな見解による、あるいは何らかの弱さによる信仰でしかありません。最高に良く解釈しても、阿羅漢の皮を掴むことです。利益があるとすれば道徳の段階だけで、解脱に関してはまっ暗です。

 だから「あの人やこの人は阿羅漢だ」と信仰するより、タンマ、あるいは本当の阿羅漢が見えるよう努力しなければなりません。僧を拝むのはその人への執着によってでなく、阿羅漢の旗、あるいは標を拝みます。

 同じように、仏像を拝むのはブッダの代わりで、ごく当たり前に言えば、国民の誰もが国に代わる標である国旗に敬意を表すのと同じです。他にも明らかに見える美徳があれば、知っているだけの美徳を拝みます。

 しかし阿羅漢狂信者のように、無暗にあの人は阿羅漢だと決めてかからないことです。その人のように行動したら、世界、あるいは苦から脱すことがきるかどうか、自分自身で熟慮します。その人に従って行動したら、行動した項目だけでも、本当にどれだけ煩悩を捨てられたかを見ます。

 だから一般に拝むべき物を拝むには、心を閉じ込める鳥篭のような執着なしに、取るべき行動が分かる智慧で拝みます。


 仏像や記念碑など、石や煉瓦だけを拝むのは、知識のない人、あるいは愚かな人の行動と見なされます。本当は、ブッダは記念碑になっている人の徳だけを拝むよう望まれました。その人が存命中はその人の身体を、威徳の代わりに拝みます。

 その人が亡くなったら、その人の身体の代わりに拝む対象として、みんなで記念碑を建てます。だから肝腎なことは石や煉瓦でなく、その人の遺徳と行ないを拝むことにあります。そして執着する必要はありません。

 他人の徳に執着することはできないからです。できるのは公正な心情で崇拝すること、あるいは威徳のある人の手本にするだけです。しかし良く観察して見ると、ほとんどの人がこの真実を無視して、強い執着の支配を放置しています。

 仏教徒の中にも、少なからずいます。煉瓦と石膏の仏像を、本当に生きている人のように、そして欲深い人のように仕え、黄金で装飾するヒンドゥーの神のように、色とりどりの布で飾り、季節に応じて着せ替えをし、精霊に祈願する時のように、仏像に料理やお菓子を供え、水を掛け、その他いろいろ、枚挙に暇がありません。

 これらを熟慮して見ると、誤った執着以外に、何も理由はありません。そして美しい道徳とは大きな隔たりがあります。最悪なのは、心を閉じ込めてしまい、弟子たちが理解するようブッダが望まれた、タンマを理解させません。

 教祖である世尊の在世時は、仏像を作って祀ることはありませんでした。像を拝むことはしませんでした。あったのは聖地と呼ばれる場所に行った人が、教祖を偲ぶため、善のために建てた仏塔だけです。しかし現代は、どこも彼処も仏像だらけです。精霊、あるいは子供の人形遊びのようです。

 世尊が今もご存命なら、あるいはこれほど変わってしまった有様をご覧になったら、イスラム教の教祖モハメッドと同じだと思われるでしょう。偶像を造って拝むことを禁じている中、迷信させるために建立するのは、タンマを理解することとはかけ離れています。きっとそのような信仰が広まるままにし、遺志に背くことを禁止なさるでしょう。

 私たちは、非常に知り難いこと、あるいはタンマを発見なさったので、澄明な心で世尊を拝みます。私たちは意味深い言葉と、純潔で完璧な理論と、初めも中間も終りも美しいブッダが公開なさった教えを聞くことができ、本当にこれをすれば苦が滅すと、ブッダの言葉を信じなくても、自分の中に確信が生まれます。

 この段階では、ブッダは、私たちの行く道を照らしてくれる灯火以上の物と執着しないで拝みます。そしてその灯火の光は、自分ではっきり見えています。この意味から、精霊信仰が好きな人のように、ブッダを精霊にしてしまい、いろんな物を供える信仰をしません。

 同時にブッダが助けてくださるとか、導いてくださるという信仰もしません。ブッダは「自分で歩いて行かなければならない」と言われているからです。私たちのために道を照らしてくれる灯火が世尊です。私たちにブッダのタンマを理解させるために、照らしている灯火をブッダと見なせば、その人自身がブッダという意味です。だから外部の物を信仰する、あるいは「ブッダがこうしなさいと教えている」と理解する理由はありません。

 この説明は、お聞きのようにかなり長く話しました。すべての仏教徒がタンマを理解することが、憐れな状態で引き伸ばされているからです。最近は、いろんな勢力が、あちこちに疫病のように広がっていて、解決困難な、差し迫った問題ばかりです。

 そしてもう一つ、こうした例を挙げて話すのは、智慧の力でブッダタンマを理解すること、あるいは智慧による解脱(パンニャーヴィムッティ)は、自分の智慧を滞らせないために、いかに信仰から開放されなければならないか、はっきり指摘するためです。

 智慧になる心と、サマーディになる心は、依存している力の種類が違うと、ハッキリ見えます。ここでは智慧だけに頼る方を目指すので、自分の智慧を山頂に到達させ、すべての現象を漏らさず見えるようにする行動をしなければなりません。

 智慧でブッダタンマに到達するパンヤーヴィムッティは、心の力でがむしゃらに実践するチェトーウィムッティ(心解脱)と違って時間が掛かります。あるいは智慧が熟すのはゆっくりです。だからこの人たちにとって日常生活の過ごし方は重要な問題です。この問題を正しく片づけられれば、犠牲に見合う利益があります。

 すべての仏教教団員は、ブッダタンマのために犠牲にする人です。出家の方たちは、家と、世界のすべての快楽を犠牲にします。これは何のためでしょう。楽しいからでしょうか。物質的な果報のためでしょうか。売名のためでしょうか。長期的な勉強のためでしょうか。教典から文学や歴史としての楽しみを求めるためでしょうか。熟慮して見ると、どれも違います。

 それらが欲しいならもっと簡単で、自分を尊重する、別の方法で探すことができます。財産などを犠牲にする本当の目的、本当の望みは、ブッダタンマを理解するため、枯れることのない瑞々しい生き方を見つけるため、特に、智慧と平安のためです。


 自然が厳格に規定した命の理想は、少しずつ進歩して最後にブッダタンマ、あるいは仮定で「苦のない快適な生」「不滅の生」「永遠の生」と呼ぶもの、向こう側にある生老病死のない、神様も含めたものに到達することです。自然が規定したものは、当然当たり前の物なので、ブッダタンマを理解することも、ありふれた普通のことの一つです。

 違うのは、心の面、精神面で、人々が揃って物質主義に偏っている時代に見過ごされ、捨て去られ、そして困難な物、人間には不可能で不可知な物にされてしまいました。現代は「誰もがタンマを気に掛ける時代ではない」と、大きな誤解も生じています。時代に背いて関わる人がいれば、世界の妨害をする人になります。

 人がどんな理解をしても、自然の法則は厳格な真実を変え、人の期待どおりにしてくれません。だから人は精神的な混乱に遭遇し、あるいは人間として十分な恩恵を受けられません。

 ブッダタンマを理解するために大切な道具が、もう一つあります。それは他人の便宜を図ることです。ここでは特に他人を援けること、あるいは他人がタンマを理解できるよう教えることです。

 自分がある程度心の訓練、あるいは心を支配できるようになったら、自分に知識や熟練があるだけ、他人にアドバイスできます。世尊は自分ができない物を教えるのを非難なさいましたが、自分が本当に出きる物を教えるのは認められました。

 ブッダ自身も教え、他人を援助しました。他人を教えることはブッダタンマを理解する道具と言うのは、教える人の智慧と慈しみを鼓舞するからです。そして手本の一つとしてご自身で行動した世尊の道です。

 ブッダの他人への援助は、二種類に分けることができます。弱い動物に対しては「囲いの中に入れ」、勇敢な動物に対しては「飛んで行く方向」を示しました。囲いの中に入れるとは、枠の外に出ると猛獣である悪の餌食になるので、道徳の枠内にいるよう教えられました。

 しかしブッダは、このタンマは海を渡るためにだけ使う舟や筏と同じで、岸に着いたらを、舟や筏を担いで行く必要はないと譬えられました。それは陸に上がれなくしてしまう信仰です。

 飛んで行く方向を示されるとは、内面をどのように見ても、執着しないで、世界に夢中にならず、タンマに熱中しないで、ローグッタラ(脱世間)状態へ渡るために、世界を捨てるよう教えられました。ローグッタラでは、すべての苦の基盤である、生も有もない状態を維持することができます。

 道徳に浸っているよう教えるのは、安全な道を行くよう、とりあえず信仰させ、保護のある道を歩かせるため、あるいは頑丈な柵の中にいさせるためではなく、そこにいる間に自分の能力を高め、柵から出られるアヒル、あるいは飼い主に頼らないアヒル、天国のアヒル、天国の鶏、あるいは自由な空へ飛んでいける鳥にするためです。

 だから自分が脱出できた分だけ、同胞である動物が脱け出すのを支援します。その慈しみは、サマーディや心を、非常に清潔で勇敢にします。

 智慧を増やすという項目は、自分が質問攻めに遇うことなので、当然ブッダタンマに関して、より詳しく、より深く熟慮しなければなりません。これが自分に返ってくる反応( reaction )で、自分自身を非常に進歩させます。

 パーリ(ブッダの言葉である経)解脱経には、他人の質問に答えようと努力している時に、最高の聖果に到達する人もいるとあります。中にはちょっと変わったタイプの人がいるからです。つまり普通の時には考えや歓喜がなかなか生じないで、他人に教えるために、必用に迫られた時は簡単に生じる人です。こういう場合は考えながら気づき、話している間中喜悦に浸り、高いタンマが染みこみます。

 だから質問攻めにあった時、他人に教えるために考える努力をすることは、人間同胞の精神の段階を引き上げる手助けであるだけでなく、自分自身のタンマの理解を容易にすると言うことができます。だから努力しなければなりません。

 そしてタンマを理解する方法は、述べた方法で実践行動することが重要で、他人を援けることは、進歩を促す道具です。このように二重に重なっています。


 この話の最後にまとめさせていただきます。脱出、あるいはタンマを理解する道は、世界の物も、宗派の教義も、自分自身も、自分が信仰していた物を捨てること、あるいは弛めることにあります。

 無知、あるいは無明による執着は、複雑困難を生じさせるだけです。執着は、考えることができる動物の本能で、考えれば考えるほど執着は巧妙になり、強くなります。考えるといろんな感情の珍しい味を知るので、味を知れば知るほど、執着が強くなります。

 形・音・臭・味・触への執着は、人間より動物の方がはるかに少ないです。動物の考えは少ないので、受け取る感情も少なく、短い時間です。それに自然に与えられるだけで、人間のように、煽って溺れるために次々に作り出しません。

 今は動物の話が目的ではありません。考えるという行動を、人間にふさわしいもっと価値のあることに使うのが目的です。つまり考えれば考えるほど迷いが減り、賢くなるようにします。発明や考えができる物を主人にしないで、下僕にしてください。つまり考えられる物は、重宝な道具として使います。惑溺する物、苦や困難を増やす基盤ではありません。

 人間はたくさん考えられ、考えを正しく利用できる点で、動物より優れていなければなりません。「知りすぎれば苦が長い」と言われるように、知れば知るほど複雑になりません。

 美しい物や美しい音への人間の執着で、はっきり見ることができます。美しさや美しい音は、執着によって少しずつ生じます。訓練されてない人は、美しいとか良い音色と感じません。

 美術や音楽など、芸術に関した教育を受けていない田舎の老人などは、現代の都会の若者の服装や音楽の、どこも美しいと見ません。時には目障り、あるいは耳障りに感じます。しかし昔式の服装や読経の声などを美しいと見るかも知れません。捉え方が違うからです。

 すべての感情は、どのようにも捉えることができます。子供の頃からどんな環境で、どれだけ長い期間染められたか次第です。つまり「これが美しい」「これがいい音色」と、陶酔が塗り固められた長さです。内面をよく見ると、美しいという感覚は、塗り重ねられてきた陶酔の類の色彩があります。本質の中に塗り重ねられたものと違えば、どうしても、美しいと見ることはできません。美しい音も同じです。

 人間の目が感じる色は、本当はいろんな波長の光が反射した物です。まやかしで、述べたように、本物ではありません。しかしそれらのまやかしが「美しい」という陶酔になり、本性に塗り重ねてきた感覚と一致すれば、その美しいという感覚は、即座に心を支配します。

 人はそれらの色を、分析して真実を探求する目で見ないので、反対に真実の面が見えず、嘘の面、つまり一時的な執着、あるいはいろんな色と規定した物が見えます。そして全部を、いろんな色の調和や組み合わせを美しいと、あるいはすべては美しくないと見、自分の執着次第です。

 美しい音楽は、頻発する( Frequency )いろいろな音の組み合わせです。それぞれの音が美しいと仮定されていて、それが美しいとされている技法で組み合わせれば、仮定の基準では最高に美しくなり、それらが組み合わされた音を聞くと、楽しい気持や悲しい気持が生じます。しかし真実は執着の結果です。犬に悲しい音楽を聞かせて悲しませることはできないからです。

 しかし人間は無明、あるいは自分の執着を、教育、あるいは芸術と呼ぶ物にでっちあげるので、期待した結果が得られます。しかしでっちあげて、執着しない賢さがありません。

 人は虎の絵を描いて自分で怖がり、愛の絵を描いて自分で愛し、嫌いな絵を描いて自分で嫌います。自分で創造しておきながら、恐れたり、愛したり、憎んだりする物ではないと知りません。常に無明に支配さているからです。

 執着を抜き取ることは、明を作ることです。無明を洗い流すと同時に、内部で作られます。執着がなくなれば、同じ色と形は、違う結果、正反対の結果になります。それは虚偽を見せる代わりに、真実を見せます。そして愛や悲しみを感じないで、それらに対して正しい行動ができ、身体的には便利と安楽を、心の面では安心をもたらす本当の教育です。

 以上述べた理由で、タンマを理解する一般的な方法、あるいは主流である系統は、覆っている皮である、執着を剥ぐことです。剥ぎ取れた時、ブッダタンマの光が自分に射していることを、自分自身で感じます。みなさんは、世尊が到達なさり、そして人々に説かれた物に到達します。

 人間であることを完成させるために、誰でもしなければなりません。これが梵行の最終段階です。人間であることの素晴らしい課題、真実の、そして本当に必用な課題です。  その後は、世界全部はみなさんの支配下になります。出家も在家もなく、女性も男性もなく、子供も大人もなく、形も音も匂いも味も触れる物もなく、この世界もどの世界もなく、何もかも、心を少しでも乱す物は一切ないと言うように、みなさんにとって複雑な問題は何もありません。

 そこには変わらない物、生まれることも老いることも、病むことも死ぬこともない「ある物」の状態が、ありありと現れています。あるのはただ衰退することのない爽やかな笑みだけです。笑んでいる人はいません。しかし完璧で満ち足りた命です。それは、いつでもそれを願っている、ブッダの教えで努力する人、全員の目標です。

 時間になりましたので、今日の私の話は、これで終わらせていただきます。最後まで一所懸命に聞いていただいたみなさんに感謝します。どうかみなさんが、タンマとメッター(慈)で、いつでも発展しますよう。

 穏やかな日々だけが続きますよう。




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