3.アーナーパーナサティの完全技法と自然法





1962年1月26日
タイ仏教協会有志の会合にて

 滅苦は智慧で消滅させなければならいという最初の項目は、仏教には、智慧、あるいは正しい見解で滅苦をする教えがあると理解してください。「サンマーディッティサマーダナー サッベー ドゥッカン パッチャッガン=すべての苦は正しい見解で消滅する」という教えがあろように、すべての苦は正しい見解で消滅させます。これは智慧と同じです。

 あるいは「パンニャーヤ パリスッチャティ=当然智慧で純潔になる」。そして「パンニャー ヒ セーッター クサラー ヴァダンティ=すべてのブッダが、揃って智慧こそ最も素晴らしいと述べるとまとめています。最後の最後にもう一度、「アティローチャティ パンニャーヤ サンマー サンブッダサーヴァーコー=サンマーサンブッダの弟子たちはみな、当然智慧によって輝く」と言われています。当然智慧によって輝くとは、智慧の力によって初めて滅苦が可能になるという最初の項目です。

 次は智慧とは何か、智慧はどのような物かという問題です。特にここでの智慧は、何も「自分」「自分の物」と強く捉えない、もっと沸騰すれば「俺」「俺の物」と執着しないことです。

 これは「サッベー ダンマー ナーラン アビニヴェッサーヤ」とパーリ(ブッダの言葉である経)で繰り返し話された仏教の心臓部である項目です。何物も「自分、自分の物」と執着しない。ブッダは「この短い言葉は八万四千項目あると言われる教えのすべてを包含している仏教の心臓部」と主張なさっています。八万四千項目すべては、この短い「何物にも、私、私の物と執着しない」という一語に集約されてしまいます。

 「教えのすべてを一つにまとめたらどのようになりますか」と質問する人があった時、ブッダはそう答え、更に「これを聞いただけですべての項目を聞いたのと同じ、この項目を実践するならすべての項目を実践したのと同じ、この項目の結果はすべての項目の結果と同じ」と付け加えられました。

 だから、この短い言葉に是非是非、興味をもってください。何も「私、私の物」と執着しないという言葉は、どのようにも拡大できます。たとえば何らかの間違いをしでかすのは、自我に執着しているからです。何らかの苦があるのは、すべては自分、自分の物に執着しているからです。私、私の物とこだわることから苦が生じるので、私、私の物と強く捉えなければ何も誤った行為をする道はありません。

 直言させてもらえば、執着しなければ、何かを自分の物と執着しなければ間違いはありません。戒を破ることもありません。盗めないし、殺せないし、性的に過ったこともできないし、何か悪いことも言えません。過ちは自分に執着することから生じるからです。執着してはいけないという真実を心に教え、たった一つ心の中を改めるだけで、完璧な戒が自然に生じます。

 それが本当の戒です。本当の戒が守れる訳は、心が何も「私、私の物」と執着しないからです。もし常に私、私の物と執着していれば、戒は心の流れに逆らうことで、非常な妨害なので続きません。純粋でなく、欠陥ばかりで、自分にはとてもできない、臼を転がして山を登るように大変と感じます。

 しかし心を正しくし、一呼吸ごとに「何にも執着するべきでない」と理解するようにすれば、戒は簡単に、自然に生じます。自然に生じて自然に維持できます。心の中に自生した戒なので完璧に守れ、臼を転がして山を降りるように簡単です。これは難易さの譬えです。

 サマーディをするのも同じです。執着で混乱していれば、心をサマーディにできません。どんなにやってもうまく行かないので、形式的に、その場しのぎでやっているだけで、儀式である瞑想に過ぎません。

 しかし心を執着しない方向へ向き変えれば、自然にサマーディになります。それ自体がサマーディです。何をしていても、話していても、歩いていても、食事をしていても、何をしていてもそれ自体がサマーディです。つまり執着のない心は自然にサマーディになります。幸福があり、機敏があり、いつでも考えたり心を使って働くことができる状態です。だから山を降りるように簡単にサマーディになります。

 次に智慧と呼ぶものは、それが最高の智慧です。何も私、私の物と執着しないことが最高の智慧です。どうか「何も私、私の物と執着するべきではない」という智慧、一般の教えを憶えてしまってください。それを一呼吸ごとに明らかに自覚していれば、苦や煩悩が生じるのを防ぐことができます。これが「智慧で純潔になる」「智慧で苦を滅尽させる」一般の教えはこのようにあります。これが第一項です。


 次は智慧で、智慧と呼ぶ物は、明らかに知り「何も私、私の物」と執着しないこと。それが智慧です。どうしたら一呼吸ごとに明らかに智慧を維持できるかは、二番目の問題です。何もしないで、普通にしていて、非常に難しいです。その人に一呼吸ごとに「何物にも執着するべきでない」という智慧を維持させるのは、難し過ぎる、あるいはかなり難しいです。

 そこでアーナーパーナサティと呼ぶ、本気で実践する技法が生まれました。すべての課程が技法に関した物です。四部がそれぞれ四段階に分かれているので、全部で十六段階あります。全部技法だけです。

 こういうのをアーナーパーナサティの完全技法と言います。ブッダが直接アーナーパーナサティ経で説かれています。他の一般の経にも、三蔵にもあります。それがアーナーパーナサティの完全技法です。完全技法は技法だけです。

 この完全技法で練習できない人は、十六段階すべてに関してあの段階この段階と言わず、後半で話す自然法にしてください。ブッダの時代のように簡単に話します。当時は誰にでも十六段階のアーナーパーナサティ完全技法を教えていた訳ではありません。

 比丘でも、全員が完全技法を実践していたのではありません。だからブッダが、できる弟子たちに自然法を噛んで含めるように教えられたこと、賞賛されていたこと、そして自分で努力するよう導かれたことは、言うまでもありません。

 一般の人で完全技法ができなければ、できるようにする方法があります。つまり「何にも執着するべきでない」という感覚を生じさせます。タンマの実践を二つの系統、二つの流れに分けた時、非常に難儀で困難な方法である、アーナーパーナサティ完全技法と呼ぶ手法から先に話したいと思います。

 一呼吸ごとに「何も私、私の物と執着するべきでない」という思いを明らかにするにはどうしたら良いかと、今まで話してきた話と繋がりが良いからです。




 アーナーパーナサティ完全技法



 執着するべきではないと見るほど高いタンマを意識するのは、つまり空や無常、苦、無我を見るのは非常に難しく、まだ何を見たら良いのかも知りません。だから最初の段階、一番初歩から練習しなければなりません。先ず一呼吸ごとに何か一つの物を意識して、意識が呼吸から逃げ出さないようにする練習をします。

 これを最初に練習します。通常一呼吸ごとに、心に何か一つの物を意識させようとしても、言うことを聞かず、すぐに逃げ出してしまうので、一呼吸ごとに執着しないこと、空を意識するなど不可能です。

 そこで簡単な練習課題、つまり一呼吸ごとに呼吸を意識する簡単な方法を、熟達するまで練習します。これができるようになったら、つまり一呼吸ごとに何を意識しようとしても意識できるようになったら、段階的に、順々に難しい物に替え、最後に一呼吸ごとに無常・苦・無我、あるいは空を意識します。目的、あるいは全体の流れはこのようです。


第一部 体を見る

 初めは一番簡単に意識できるもの、呼吸を意識します。常に吸ったり吐いたりしている呼吸を、長ければ長いと、短ければ短いと意識することから始めます。第1段階は長い息を長いと、第2段階は短い息を短いと、第3段階はいろんな息を、第4段階は息を静めることを意識します。この四つの段階を呼吸に関わる練習と言います。

 「長ければ長い、短ければ短い」というのは、人間の呼吸は通常、安定していないという意味です。強い感情があれば呼吸は荒く短く、心の中の感情が穏やかなら、感情が激していなければ、呼吸も静かで長いです。怒っている時は短く、怒っていない時は長い息をしています。観察を続けていくと、長いというのはどのようか、短いというのはどのようか、いつ長く、いつ短いか知ります。

 自然の状態の呼吸はたいてい短く、意識し始めると長くなります。長い時は短くなることもあります。これで呼吸の自然の状態が変転極まりないこと、無常を見ることができます。これだけでも「無常」という知識です。しかしまだこの段階では、それは目的ではありません。

 ここではしっかり呼吸を意識する練習です。駈け込んできて駈け抜けていく呼吸を追い駆けるような状態です。ここでの私という言葉はサティ(自覚)、サティである状態の心、サティと呼ばれる物がある心、サティのある心で、そのサティを使って駈け込んできては駈け抜けていく呼吸を意識します。

 もう少し緻密に、あるいは綿密にするために、どこが発端か、どこが終点かを知ってください。たとえば息が入る時の初めを、そこで感じるので鼻先と仮定します。そこから気管を通って移動し、腹まで到着したと感じるので、臍を意識することにします。そう言われています。事実がどうかは気にしないで、簡単に感じる感覚を基準にします。

 それをサティが、今どこまで来たか、スタートしてどこまで行ったか、お腹を出発して外へ出たかを追い駆けます。呼吸の全過程を追い駆ける状態です。これが練習しなければならない第1段階で、まだ粗い段階と言います。

 だから意識しやすくするために呼吸を荒くすることもあります。もっと意識し易くするために音を立てて呼吸することもあります。この粗い段階では、確実に詳細に意識するために、ハアハア息の音を立てても構いません。それから少しずつ自然で正常な状態、安定して音を立てないようにしていきます。

 しかし時に意識できなくなってしまったら、穏やかすぎて意識できなくなってしまったら、それだけしかできなかった初歩の時のように、息を強くして、できるようになるまで練習します。何日掛かっても構いません。長い息と短い息の両方ができるようになるまで練習します。

 時間が十分あれば、長さを調節する練習をします。短くても一から五まで、長ければ一から十までです。一度息を吐き終わって、あるいは吸い終わってからでもよいです。一、二、三と十まで、息のリズムと一緒に数えます。一の時息を吸い始め、十で奥まで到達します。

 この方法だと、数えることで呼吸を一定に管理することができます。短くしたい時は早く数え、早く数えても十まで数えることには変わりません。数える時間が短くなるので息も短くなります。長くする時はゆっくり一から十まで数えます。すると呼吸も通常より長くなります。

 これが数を数えることで呼吸の長さをコントロールする練習です。最後には数を数えてもサマーディを損わなくなります。短く数えても、細かく数えてもサマーディは失われず、意識できます。数えなくてもずっと意識できます。これをこの段階に熟達したと言います。

 もっと詳しく言えば、粗雑なことを考えると呼吸は荒くなり、緻密なことを考えると呼吸は穏やかになるという規則があります。粗雑な土・水・風・火などを意識すると呼吸が荒くなりますが、土・水・風・火の無常・苦・無我を意識すれば、緻密な話なので呼吸も穏やかになります。このように比較して見てください

 粗い心で何かを見つめたり見張ったりすると呼吸も荒くなりますが、見られている物が恐怖を感じないくらい、非常に注意深く注目すれば、その人は非常に慎重なので、息の音がしないくらい静かな呼吸になります。すると心臓の鼓動の音が聞こえます。

 これを「どれも互いの原因となり縁となって関連し合っている」と言います。心の中の感情と呼吸は、特に関連が深いです。心の中で考えたり思ったりしていることと、呼吸は非常に深く関連しています。微妙なことを考えると呼吸は滑らかになり、粗いことを考えると呼吸も荒くなります。こういう知識はこういう規則があります。少し喋りすぎたかもしれません。こうしてお話したのは理解していただくためです。

 長い息も短い息も、どちらも常に意識できるようになったら、呼気も吸気も追い駆けられる、つまり一番最初の段階が終わったということです。次は少し緻密に意識します。全区間で追い駆けるのを止めて、一ヶ所で待ち伏せて意識します。鼻腔などで意識し、吸ったり吐いたりを追い駆ける代わりに、鼻腔一ヶ所で息が通過する時を見張って意識します。

 この方法も同じ結果があります。息が全部出るまでに、必ず鼻腔を通るからです。しかし荒い息を道々追い駆けるより難しくて繊細です。だから鼻腔一ヶ所だけで意識するのは、すべてが緻密になるという意味です。意識する方法が繊細になるにつれて、呼吸も繊細になります。

 だから鼻先一点で意識すると、何でも繊細になるという意味です。意識するのも繊細な方法で、呼吸も繊細になります。だから一か所だけで意識すると、そこが一番微妙に感じる、一番敏感に感じるというような感覚があります。ほんのわずかな息でも感じます。まるでそこが一番柔らかい粘膜のようで、一番感覚が敏感のようです。そしてそこの一点の感覚が強くなってきます。

 そこに何らかのニミッタ(心が感じているもの)を意識することもできます。白い点や黒い点、あるいは何かの星などを生じさせるにも、簡単にそこにイメージすることができます。以前のように過程のすべてを追い駆けないからです。

 だからほとんどの人が、鼻先と呼ぶ鼻腔のところを、息の当たる一番外側とします。人それぞれの鼻の形によって違いますが、一番息が当たるのを感じるところを意識してください。これを緻密になったと言います。

 それからそこに何か、星があるように、綿毛があるように、あるいは大胆に月や太陽などがそこに停まっているように意識することもできます。しかしそこまで練習する必用はありません。時間の無駄です。そこで意識できる、意識する心が安定している、それだけにします。あまり大きくする必用はありません。緻密にそこに集中していれば、体も心も簡単に静かになります。これが第一部第2段階です。

 次の第3段階では、呼吸の出入りを意識しません。呼吸が身体を変調させる事実を意識します。そしてそこで、呼吸が身体を変調させたり涵養したりする主体という真実を発見します。呼吸が荒いと身体は乱調で、呼吸が滑らかだと身体も順調です。呼吸が荒いと考えることも粗雑で、呼吸が滑らかと考えることも緻密です。これらの物は関連しています。

 そこで、呼吸は体を変調させるという真実を得、パーリ(ブッダの言葉である経)では「カーヤサンカーラ=身体を変調させる物」という言葉を使います。身体を変調させる物とは呼吸のことです。ここでは「呼吸は体を変調させる物」という真実を、一呼吸ごとに意識します。呼吸がどのように体を変調させるか、乱れた時、静まった時、どう関連しているかを、全身に注意を行き渡らせて見守ります。この真実を知ることを第3段階と言います。

 第4段階は、息が静まったこと、呼吸が静まったことを意識します。つまり身体への影響、あるいは身体の感覚が少なくなり、それまでのように強く感じません。身体を変調させる呼吸の力を弱めると言います。つまり呼吸も体力である感じる感覚も、あるいは身体が感受するいろんな Impuise を静めます。

 これを「体を静める」と言います。呼吸を静めるので、カーヤサンカーラを静めるとも言います。カーヤサンカーラとは呼吸のことなので、身体も静まり、呼吸も静まり、心も静まります。

 だから初禅など、禅定と呼べるほど本当に正しいサマーディです。その時ある種の静まった感覚、ある種の純潔な感覚が生じるので、喜悦、あるいは幸福と呼ぶ禅定の物と規定されている感覚が生じます。喜悦も幸福もあるので、サマーディの練習に成功したと見なします。

 詳しく言うと、ヴィタッカ(尋)・ヴィチャーラ(伺)・ピーティ(喜悦)・スッカ(幸福)・エカッガタ(一境性)の五種類があります。これは余計です。慣れていない人にはただ遠回りなだけです。聞いてだいたい意味が分かるなら話します。

 今私たちはヴィタッカ(尋)があります。つまり一呼吸ごとに呼吸を意識します。ヴィチャーラ(伺)があるとは、呼吸の出入りを明らかに知ります。ピーティ(喜悦)があるとは満足で、呼吸を意識することに成功したことから生じる感覚です。そしてスッカ(幸福)があるとは非常に快いこと。エカガタ(一境性)を知るとは、今意識しているのは一つだけ、呼吸だけを意識していて、他の物は意識しません。

これをエカッガタ(一境性)と言い、鋭どく細い物の最先端という意味です。この五つが揃えば初禅に達したと言うことができます。本当のサマーディで、最初の段階を初禅と呼びます。これでアーナーパーナサティ第一部の4段階が終わります。

 まとめると、初めは長い息・短い息を一呼吸ごとに意識します。次は一呼吸ごとに身体の変調を意識します。次は体への影響が弱まること、つまり静まることを一呼吸ごとに意識します。呼吸の出入りを意識するので、そのような技法をアーナーパーナサティと言います。他の物、他の状態を意識していても、呼吸の出入りを意識しているので、アーナーパーナサティと呼びます。これが四段階ある第一部です。


第二部 受を見る

 第二部ではヴェーダナー(受)を意識します。この感覚は他の物でなく、一部のサマーディから生じた喜悦と幸福を使います。第一部の最後までできれば初禅で喜悦と幸福があり、受として感じます。それが喜悦と幸福である受です。第二部ではこの受を意識します。この受を感情にして、「この受は本当は何なのか」見えるように意識します。最初に受である喜悦と幸福を意識します。

 第二部も四段階あります。第1段階は一呼吸ごとに喜悦を意識します。第2段階では一呼吸ごとに幸福を意識します。第3段階では、一呼吸ごとに喜悦と幸福が心を変調させることを意識し、最後にヴィタカ、ヴィチャーラが生じ、サンヤー(想)が生じ、いろいろな考えが生じるまで続けます。そして第4段階は受が心を変調させる力を弱め、静まった心を意識します。

 この四つの段階では、まだ無常・苦・無我の受を意識しません。しかし受が心をどう変調させるか、受の影響を最小限にするにはどうしたら良いかを意識します。この部は受を意識する部と言い、喜悦はどのようか、どんな感覚か、どう心を惹きつけるかを意識します。

 座って一呼吸ごとに喜悦の影響を意識するのが第1段階です。第2段階は喜悦、満足を感じる代わりに、幸福を感じます。幸福に替えます。喜悦は、成功させたと感じることに基盤があり、幸福は本当に幸福だと感じることに基盤があります。だから喜悦と幸福は違います。

 そこで第3段階では受である喜悦と幸福がそのような考えを生じさせること、あるいは記憶、つまり想の基盤であることを見ます。この受が「ああなりたい、こうなりたい」と欲望の考えを生じさせるのを感じます。

 「心を変調させることを知る、」と言います。だからこの段階では他のことに関心を持たず、受がどのような考えを生じさせるかだけに関心をもってください。つまり「どうしたいか、どんな方法で、どんなタイプを欲しいと考えているのか」。

 愛欲、有欲(こうなって欲しいという欲)、無有欲(こうなって欲しくないという欲)、ヴィタカ(尋)なら性、愛欲のヴィタカ、加虐ヴィタカ、復讐ヴィタカ、復讐心のないヴィタカと、このように対になっています。それがどのように心を変調させるかを見て、この項目の真実を知ってしまいます。今まで知らなかったからです。

 第4段階で実践することは、先ほどのように簡単に、受が心をあれこれ変調させないように支配します。つま変調を抑えます。受は受だけにし、変調させません。あるいは変調を少なくします。このようにすることを「受がチッタサンカーラになるのを(心を変調させるのを)抑える」と言います。これが第4段階です。

 この第二部は受を意識します。なぜ一部のように呼吸を意識しないで、代わりに受を意識するのかと問われれば、それは受が一番凶悪だからです。受に執着があるので、欲望、取である望みが生じるからです。だから最高にマヤカシで、騙す物である、受の真実を熟慮して意識します。

 それは、今後受への執着を少なくするためです。だからこの段階で受について熟知し、何としても支配する練習をします。

 これには秘訣があります。ヴィパッサナー、あるいは念処の実践法は、何かを熟慮する時には、そのものを本当に熟慮するという原則があります。たとえば受の無常・苦・無我を熟慮する時は、受を本当に生じさせなければなりません。

 学校の授業で教えているように、受という名前を取り上げるだけではありません。ナックタムの(僧試験のための学校)でも、他の何の学校でも、「受は無常、受は苦」と、そのようなのは、説明して教えるだけで、受そのものを意識させません。だから受という名前を使って、「無常・苦・無我」と言うだけです。それで説明だけ長々としても何にもなりません。

 受は現れてこないし、意識されることも、熟慮されることもありません。だからどんなに時間を掛けて説明しても、学校では聖果は得られません。その物自体を熟慮の素材にしないからです。だからみなさんは、本当に、受そのものを「無常・苦・無我」を見る素材にしなければなりません。

 このやり方で熟慮するには、他の受は不向きという真実があります。愛欲などの受、あるいは他の受を熟慮の対象にすると、非常に混乱します。だから適切な方便として高い受を意識の対象にします。

 高い受はサマーディから生じる最高の幸福で、それを規定する物にします。高い受の執着を妨害できれば、当然それより低い受、粗雑な受への執着を妨害するのは簡単だからです。もう一度述べると、このように最高の受への執着を妨害できれば、もっと低い受、粗雑な受への執着は自然に妨害されています。

 最も高い物も攻撃できるからです。だから高い受であるサマーディから生じる幸福を受にする、秘訣めいた規則があります。すべての受の中で、幸福の受が最も心を惹きつけるからです。

 そして次の段階で無常・苦・無我を熟慮する時、それを捉えて熟慮するのは容易ではないので、受を現す段階で、しっかり意識する練習をしなければなりません。

 そして、何としても受を適切な状態に管理する練習をし、それをこの後の第四部で取り上げて、無常・苦・無我を熟慮します。第二部も4段階あります。受を熟慮するのは、理解と、知識と能力の範囲内にあるよう支配するだけの練習です。


第三部 心を見る

 さて第三部、チッターヌパッサナー(心随観)に入ります。この部では、一呼吸ごとに心を見ることを目指し、心は今どのようか、今どんな感覚があるか、心について知り尽くします。心が沈んでいたら明るくでき、歓喜にすることもできます。心を支配できると言います。そして心がどのようでも執着しているのを見たら、心を執着から開放することができます。

 何かを欲情していたら、その物への欲望を緩めることができます。これを「心を解放する練習」と言います。そして一呼吸ごとに、心が感情を解放するのを意識します。だから心がどのような状態か見ることも、一呼吸ごとに意識します。どのように支配することも、一呼吸ごとに意識します。

 感情を解放し、心が何らかの感情、何らかの物に止っていたら解放し、そして解放すること、何であれ追い払うことを、一呼吸ごとに意識します。

 だからこの第三部は、心を見る練習と、心を支配する練習と、心がどんな状態かを一呼吸ごとに見る練習です。これもいろんな受を感じている心を見ます。あるいは初めの第1段階まで戻って、長い息を意識している時の心はどのようか、短い息を意識している心はどのようか、すべての呼吸を意識している時の心はどのようか、呼吸を静めている時の心はどのようかを見ます。

 第一部に戻って練習するのではなく、心を見るために第一部をするだけです。それから第二部に戻って受に関わる四つの段階全部をします。しかし受を意識する訳ではありません。受を意識する時の心、あるいは受に関わる練習の段階はどのようかを見るためです。これが同じく4段階ある第三部の練習です。


第四部  タンマを見る

 ここでは、すでに呼吸を意識することに熟錬していて、受を意識することも良くでき、心を意識することも良くできています。第三部まで来たので、残っているのは最後の第四部だけです。つまり真実の法則、あるいはタンマと呼ばれる真実の状態を意識します。それらは、呼吸でも受でも心でも見ることができます。

 だから第四部で最初に意識するのは、無常、不確実であること、呼吸のいろんな状態が不確実であることを見、受が不確実であることを見、受を見、それから心が一定でないこと、刻々と変わっている心を見ます。これは、最初に戻ってアーナーパーナサティ第四部、十二段階の真実、タンマを見るという意味です。呼吸にある、つまり体・受・心にある無常、特にすべての物の無常を見るためです。

 だから長時間呼吸が不確実であることを観察すると、確実に無常が見えます。このように確かな無常を見ると、ヴィラーカ(離欲)と呼ばれる新しい状態が生じます。つまりかつて執着していた物への執着が弛んできます。これが第四部の第2段階で、執着が弛むこと、薄れることを意識します。

 第四部第1段階では執着の軽減が生じるまで無常を意識します。そして執着が緩むのを意識することを「ヴィラカーヌパッシー(離欲を見る)」と言って、これが第2段階です。一呼吸ごとに弛んでいくのを見ます。それから滅、あるいは執着が止むと呼ばれる状態が生じます。これを「ニローダ(滅)」、「ニローダヌパッシー(滅随観)」と言います。一呼吸ごとに執着が消滅すること、あるいは煩悩が消滅することを見ます。これが第四部第3段階です。

 次は第四部第4段階、この部の最後で、かつて執着していたすべての物からすっかり解放されたことを見ます。これが最後で、パティニサッカーヌパッシーと言います。すっかり払い落とすことは、すでに聖果に到達したことと同じと見ます。

 払い捨てること、パティニサッカとは、世界を放棄し、サンカーラ(行)を放棄し、それまで執着していたすべての物を放棄し、どれくらい放棄できたかなので、心がどの程度まで、どんな状態まで解脱したか知ることができます。

 有身見・疑・戒禁取を捨てることができれば、預流果です。サンヨージャナ(十結)のすべて、すべての煩悩を放棄する段階まで、煩悩、あるいは何というサンヨージャナ(十結)、つまり今まで執着していた物をどれだけ捨てられたかが分かります。このように第四部でタンマを意識するのは、聖人のそれぞれの段階があります。あるいは聖人でなくても、このように素晴らしい凡人も有り得ます。

 このように素晴らしいレベルの凡人は、無常、不確実であることを見、離欲、執着が薄らいでいくことを見、滅が見え、つまりある程度の執着が消滅します。今、執着したことがある物を捨てるのはパティニサッカーヌパッシー(捨離随観)で、こういうのも一部あります。この技法を凡人が普通に使うこともできます。直接聖果に到達するために用意されたものでも、この技法を凡人が使うこともできます。

 これが、完全技法と呼ぶアーナーパーナサティです。このように全課程が技法です。詳しくは「アーナーパーナサティ」という本に書いてあります。このような流れをしっかり理解する必要があります。でなければ、その本を読んでも、まったく意味が解らないに違いありません。なぜ最初からこんなことをしなければならないか、訳が分かりません。

 だから今このようにしなければならないのは、今のように何もしない状態では無常・苦・無我を意識するのは難しいので、「初めに呼吸を意識し、受を意識し、心を意識し、そうすれば無常・苦・無我・離欲・滅を意識できる」と解るよう説明する努力をしています。


 次に、なぜこのような技法で滅苦をしなければならないか、明らかに解るよう説明します。答えは明解で、最高に簡単です。心の中で休まず作っている感覚は、どんどん濃くなると、誰でも考えて見れば分かります。反対の例を挙げる方が良いです。理解し易いです。

 たとえば誰かを非常に嫌っているとして、大嫌いな人の顔を思い浮かべると、大嫌いな人のしぐさや行動を思い浮かべると、一呼吸ごとにその人への嫌悪の感覚を感じます。この手法では、嫌悪が骨の髄までしみ込んで抜きがたくなります。「一呼吸ごとに嫌悪の感覚を作る」と言います。だから嫌悪は普通より多くなり、最高度になります。

 誰かを愛しても同じです。愛らしい話、愛す訳、あるいは愛しいと思う気持ちででも、一呼吸ごとに感じていれば愛は骨の髄まで達します。これは実践と関係のない譬えです。

 次は実践の話で、無常・苦・無我を見たい、「何も私、私の物、と執着するべきでない」と見たい。このように厳格に一呼吸ごとに思います。だから一呼吸ごとに見ることは最良の方法であり、一呼吸ごとに見え、一呼吸ごとに濃くなり薄れません。

 そしてその間、煩悩と呼ぶものは、目・耳・鼻・舌・体を通じて餌を得られないので、煩悩を攻撃する期間でもあります。このように呼吸すること、このようにタンマを感じる感覚で呼吸をすれば、結果として、一呼吸ごとに無常・苦・無我、あるいは「俺、俺の物」と執着するべき物は何もないと見ることに成功します。

 最高に素晴らしい結果は、苦がありません。まったく苦はありません。これを、その人が時間と力を捧げて、全課程を規定どおりに練習しなければならない技法の形の、すべてが技法の話であるアーナーパーナサティと言います。




アーナーパーナサティ自然法



 次は、そんなことやっていられないと考える人のために、普通の人の能力にふさわしい方法で「俺、俺の物と執着するべきでない」と意識します。技法は厳格に一つしかありませんが、こちらはいろんな方法があります。

 自分の好きなものを自分の常識で心で意識する、いろんな方法は、たとえば「何も欲しい物、なるべき物などない」でもいいです。これでも十分です。しかし一呼吸ごとに「何も欲しい物、なるべき物はない」と意識してください。「俺、俺の物と執着して苦にならない物が何かあるだろうか。何もない」と詳しく見ていきます。

 たとえばお金、財産、名誉、名声などを「俺、俺の物」と執着で手に入れれば、執着している間中即苦になると、このように見ます。次に「なりたくない」は、何であれ「私は何々だ」と執着で捉えれば、即、苦という意味です。

 「私は母親だ」と強く捉えれば、母親としての苦があり、「私は子供だ」と強く捉えれば子供としての苦があります。夫であることに執着すれば、夫としての苦があり、妻であることに執着すれば、妻としての苦があります。人間に執着すれば人間の苦があり、天人に執着すれば天人としての苦があります。善人に執着しても、善人としての苦があります。良く見なければなりません。良く見れば見えます。

 みんなが善と仮定していることも、見てください。何にしても善人としての何らかの苦があります。意味が分かれば良いですが、意味が分からない人のために、観察して見ます。つまりもっと詳しくします。

 「私は徳がある」、あるいは「罪がある」とか捉えれば、とたんに徳がある人として、あるいは罪がある人としての苦が生じます。徳があると言われている人を見て見てください。財閥になるほど徳のある人、国王になるほど徳のある人でも、徳のある人なりの何らかの苦があります。だから徳があると思わないでください。罪があると思わないでください。「私は何々だ」と強く捉えなければ苦はありません。

 もっと微妙なのは、幸福と感じることと不幸と感じることです。不幸と感じると、そう強く捉えると、不幸な人としての苦があります。しかし幸福と感じることにも幸福な人の苦があります。執着があるからです。だから良く見ましょう。

 人でも天人でもいいですが、幸福とされている人や天人を見ると、幸福な人の苦、天人の苦があります。幸福な国王を見てください。幸福な人の苦があります。サマーディによる幸福、禅定による幸福であるヨーギーやムニー(行者)は、最高に幸福、最高に高尚と言われていますが、彼らも良く見れば、善人は善人の苦があり、徳のある人は徳のある人の苦があり、幸福な人は幸福な人の苦があります。

 だから何にもならないのがいいです。「何々だ」と思わないでください。「何々だ」と執着しないでください。何にもならなければ苦はありません。一呼吸ごとにこのように見れば、心は何もほしがりません。何にもなりたがりません。何かを手に入れたとか、何かになったと感じません。そうすれば「一呼吸ごとに何もない心」と言います。一呼吸ごとに心が空なら、幸福です。一呼吸ごとに本当に苦がなければ、本当の幸福です。

 だから「涅槃」という新しい名前をつけなければなりません。つまりまったく苦はありません。普通の人が言う普通の幸福は「幸福、幸福」と言っても、この幸福の受は、それ自体の中に苦があります。しかし涅槃である幸福はそのようでなく、まったく苦がない幸福です。「何もない」ことから生じる感覚だからです。

 私は何々だと思わない、私は悪人だ善人だと思わない、私は徳がある罪があると考えない、私は苦しい楽しいと感じない、私は人間・天人と考えない、あるいは何も私は何々だと考えない心を「空っぽの心」と言います。だからまったく苦がありません。このまったく苦がないことを「涅槃」と言います。

 その時「俺、俺の物」、あるいは俺、俺の物という感覚がまったく現れないこと、「俺、俺の物」と常に感じていた物がすっかり消滅したことで、簡単に見えます。俺、俺の物という感覚が消滅することを「涅槃」と言います。

 涅槃とは滅亡すること。何が滅亡するのかと言えば、執着している感覚にすぎない「俺、俺の物」が滅亡します。

 次に、欲しい物も、なりたい物もない。つまり「私、私の物」と強く捉える物は何もないと、全身全霊で、知性の限りに明らかに知っているので、心がどんな方向へ傾いても、欲しくないなりたくない物だけです。

 だからいつも「何もいらない、何でもない」という感覚があり、何も欲しい気持ちがありません。何も欲しがらなくても良いです。はっきりと知れば、自然に欲しがらなくなります。だから「心は残らず消滅した」と言います。「俺、俺の物」が次々に消滅し、このように厳密になれば、最高の聖果に到達します。

 ある程度できれば、少しだけなら少し低い聖果に達します。これを「生きているうちに涅槃に達する」と言います。死んで棺に入る必要はありません。今でも「生まれない」と言われ、生・老・死はありません。

 私が生まれたという感覚がないので、生まれて死ぬことはありません。生まれて生きて死んでいく「俺、俺の物」がないからです。このように俺という感覚がなければ、棺に入らなくても、死ななくても完璧な涅槃です。棺に入る必要がないのは、生まれず、老いず、死なないからです。

 これです。ほとんどの人が聖果に到達するのはこの方法です。

 ブッダの時代には、ブッダに拝謁に行って、何分も、何時間も会話しないうちに、その場で阿羅漢果に達した人もいます。あるいはその後、幾らも実践しないで到達した人もいます。すべてこの方法ばかりです。前半で話したような「アーナーパーナサティ技法」で到達したのではありません。

 結果は違います。このように自然で常識的な実践をした人を『スッカヴィパッサカ(乾観者)』と言います。つまり煩悩を滅亡させただけで、サマーディをする人のように、心に関して精通していません。だから、どちらが自分にできるか、できる方を選んでください。

 普通は「何も欲しくない。何にもなりたくない」と一呼吸ごとに思う方法です。理論的に言えば、アーナーパーナサティの初めの三部を飛び越えてしまい、第一部、第二部、第三部の12段階の練習に時間を費やすことなく、直接第四部をします。つまり無常・苦・無我を見ます。

 「欲しくないなりたくない」が実に初めのテーマです。それを常に一呼吸ごとに意識して無常が見えるまで続けます。そして倦怠が生じ、薄れてくればヴィラーカ(離欲)で、俺の消滅が生じればニローダ(滅尽)で、世界からすっかり解放されればパティニッサッカ(捨離)と言います。これを常識でする自然のアーナーパーナサティと言います。

 だから教えは、仏教の心臓部である「サッベー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ=何も私、私の物と執着するべきではない」と、一呼吸ごとに感じる点にあります。最高にたくさん説明したことがあるのは、誰でもできると見たからです。

 今朝、「何かを所有するなら所有の仕方を知りなさい。そうすれば苦はない」と言ったのは、お金でも金塊でも財産でも、何かを所有する時は、所有の仕方を心得なさい。執着で所有してはいけないという意味です。

 執着しないで所有します。所有することに執着しないでください。仮定に従って、つまり法律が保証する範囲で、あの人はあれを持っている、この人はこれを持っていると風俗習慣が認める範囲で所有します。しかし自分の心の中では、本当に「持っている。私は持っている」と思いません。所有者である自分はいません。あるいは自分の所有物はありません。

 このように、いつもあるがまま自然の物にしておくことを、所有の仕方を知っていると言います。苦はありません。つまり私が所有している、私の物という執着なしに持ちます。自分が所有者と感じません。そして自分の所有物と執着することはありません。しかし便宜のために、とりあえずぶるさがっていると言うような所有の仕方で、頭上に置かずに足の下に置きます。

 もし「私の物、俺の物」と執着すれば、あるいは俺が持っていれば、頭上にあります。所有の仕方を知って執着しなければ、足の下にあります。だから所有の仕方を知っていれば苦はありません。所有の仕方を知らなければ最高に苦です。これが「所有するなら、所有の仕方を知っていれば苦はない」という利益です。

 次は「何かを手に入れるなら手に入れ方を知りなさい。そうすれば苦はない」です。これも同じです。執着で手に入れないで、自然に手に入れます。表面だけ、あるいは仮定するだけ。心は「俺は手に入れた。俺の物」と考えるほど愚かに溺れないでください。それは、手に入れ方を知らないと言います。そうすれば苦です。苦になるために手に入れるという意味です。

 しかし執着しないで正しく手に入れれば、いくら手に入れても、苦のために手に入れるのではありません。むしろ便宜のため、快適な生活のため、広範囲の利益のためで、苦になるためではありません。

 三項目は「何かになるなら、なり方を知りなさい。そうすれば苦はない」です。子供、母親、夫、妻、雇用主、使用人、敗者、勝者、人間、神、それから徳のある人、罪のある人、幸福な人、不幸な人、金持ち、貧者等々になる時は、なり方を知ってください。他人がそう仮定するから、そうなっているだけにしておきます。心は本気で信じないでください。本気で執着しないでください。

 何かになる時は、何になるにも、なり方に関して不心得でなく、なり方を知ってください。タンマの正しい作法を「なり方を知っている」と言います。そうすれば苦はありません。

 母親なら、愚かに執着しないで、なり方を知ってください。そうすれば母親としての苦はありません。つまり執着がなければ、どのようでも苦はありません。心は苦から開放され、執着から開放され、非常に高い知性があり、子や孫を正しく良い方向へ導くことができます。苦は一切ありません。なり方を知らなければ、初めから苦です。何もしないうちから苦で、ずっと苦です。これを、なり方を知らないと言います。

 何かを所有するなら、所有の仕方を知ること、何かを手に入れるなら、手に入れ方を知ること、何かになるなら、なり方を知ることの三例だけ話したのは、これで十分だからです。もっと話すこともできますが、三例で十分です。よくあるのはこの三つです。

 ある年、ある日、ある晩混乱するのは、所有する話、手に入れる話、何かの立場になる話だけです。だからこの三つについて正しく対処すれば苦はありません。

 だから知性があり、一呼吸ごとに注意深いことに関心をもってください。迷って所有すること、手に入れること、何かになることに執着しないでください。これがみなさんの最高のアーナーパーナサティです。常識で自然に実践します。簡単で、普通の庶民の知性でできます。そして滅苦に関しては同じ利益、同じ価値があります。しかし特別な能力の点では違いがあります。それはなくても構いません。必用ありません。

 しかしすべてに滅苦をしてください。これを一般庶民のためのアーナーパーナサティと言います。それほど大変ではありません。一呼吸ごとに「俺、俺の物」と執着しないことに止まり、「何も執着で手に入れるべき物、なりたがるべき物はない」と見ます。

 要するに、本当に欲しい物、なりたい物など何もないというのは、本当には欲しがるべき物、なりたがるべき物はないということです。だから手に入れ方を知って、仮定で、世間の人が言う仮定で手に入れてください。しかし心では、本当に所有しません。

 心が明確に、欲しい物なりたい物はないと見ていれば、あるいは感じていれば、心はどこへも駆けていきません。どこかへ何かを求めに走り、何かになるためにどこかへ駆けていかないことで、簡単に証明されます。

 このような状態をブッダは、パーリ(ブッダの言葉である経)で『駆け回らない』と言われました。人はその形を見、臭いを嗅ぎ、味を味わえば執着し、俺が生じ、お前が生じ、それで走り回ります。つまり欲望であれを手に入れ、これを手に入れます。これを走ってばかりいると言います。全部輪廻で、涅槃ではありません。

 見たら見るだけ、聞いたら聞くだけ、臭いを嗅いだら嗅ぐだけ。肌に触れたら触れるだけ、あるいは舌が味を感じたら味わうだけ。これを「それだけ」と言います。こうできるようになれば「俺はない」、あるいは「あなたはない」と言います。二人称で言えば「あなたはない」です。ブッダが弟子に言った時は、こう言われました。

 『あなたが形を見た時は見ただけ。声を聞いた時は聞いただけ。臭いを嗅いだ時は嗅いだだけ。舌で味を感じた時は味わうだけ。あるいは皮膚に触れた時は触れるだけ。心で感情を感じ、考えた時は、普通に自然に感じ考えるだけ。こうできるようになれば、その時あなたはいません。あなたがなければ走り回ることも、どこかに止まることもありません。これが苦の終わりです』。

 これは、一呼吸ごとに「欲しい物、なりたい物はない」と意識できるようになり、それが内的基盤になったということす。目が見ても、耳が聞いても平然としています。つまり「俺、俺の物」から開放されます。しかしこれには、いろんな物にどう対処するべきか、最高の知識と、最高の知性があります。そして「私、私の物」と執着することなく、然るべき対処ができます。

 あるいは、これは何もする必要がないと知性で判断すれば、何もしません。関わりません。感じたら止め、触れたら止め、何か対処する必用があると判断したら、知性で対処すれば、苦はありません。食べても、立っても、歩いても、寝ても、何をしても苦はありません。何が目・鼻・耳・舌を通して接触しても、苦はありません。

 煩悩に関わる難しい問題で働かなければならない時、論争する時や、裁判所で争う場合なども、「俺、俺の物」と執着することなく、怒らず、嫌わず、恐れず、沈まず、俺に関わる何もなく、最高の知性があれば、討論や裁判所での争議に勝つことができます。ここでの討論とは、行動や発言が相反するという意味です。

 心が自我に支配されれば、真っ暗なので負けしかありません。何を考えてもうまく行きません。十分な常自覚がなく、敏捷さがなく、機転がきかないので完敗します。だから言葉での戦い、例えば裁判所へ行っても完敗します。真っ暗だからです。

 通常の生活だけでなく、このような闘いにも、俺、俺の物がからっぽの心が必要という例を話しました。普通はこのようです。

 だから何かが目・耳・鼻・舌・体・心に触れた時は、知性があり、心を空にすることを知っている空の心で戦わなければなりません。次に、何も触れる物がなければ、自分がしていること、仕事なども、心を空にするよう管理します。何かの感情が触れても心を空にし、何も触れる物がなくても心を空にします。

 そうすればいつも知性があるので、楽しいだけです。仕事も楽しく、苦はありません。疲れたら寝てしまいます。疲れたのは身体だけ。心は疲れを感じません。退屈もなく、倦怠もなく、嫌悪も怒りも、愛も憎しみも何もありません。

 身体は疲れても寝れば間もなく回復し、また働けます。しかし俺、俺の物が強れけば、疲れ切ってしまい、三日三晩寝ても、まだ回復しないこともあります。これは疲れないように、苦しまないように、是非知っておかなければならない、死でも揶揄できる話です。

 さて次の項目は、普通では、人は苦にも煩悩にも勝つことができないという点で、実に絶妙な項目を熟慮します。本当に死ぬ時、身体の終焉が来た時に、もう一度チャンスがあります。その時、どうか「何も、どこにも欲しい物、なりたい物はない」という気持ちに傾けてください。

 病気が最高度になって、身体が本当に崩壊する時は、心は何もすることがありません。ただ砦を作って戦うだけです。「何もない、この世界にも、どの世界にも、人間界にも天人界にも、悪魔の世界にも、梵天の世界にも、どの世界にもなりたい物はない」と戦います。

 心がこのように空なら、身体が滅亡すればすべて終わります。あるいはもう一つの涅槃です。心に「俺、俺の物」がなく、同時に身体が滅ぶからです。

 どこかへ何かを求めに行きたいと思いません。どこかへ何かになるために行きたいと思いません。最期の、もう一つの格好の出口です。この方便を「階段から落ちて上手く跳び、苦しむことなく頂点に到達する」と言います。

 階段から落ちるというのは、身体が病で壊滅しようという時、つまり確実に死ななければならない時、身体が階段から落ちる時、心も一緒に上手く跳んで、身体と一緒にすべて消滅するという意味です。どこにも欲しい物、なりたい物がないからです。だから死ぬ時正しい死に方ができれば、誰でも阿羅漢になれる希望があります。

 阿羅漢であることは、すべての苦から脱すことです。この方法を「チーヴィタサマシーシー」と言い、形が滅びると同時に阿羅漢になります。これも一つの方便です。この方便を有効に使いたいと願うなら、今のうちに勉強しておかなければなりません。今から仕方を教えておかなければ、その時、間に合いません。その時「阿羅漢」とか「涅槃」とか叫ぶというのは滑稽です。そんな体力はありません。

 だから良く理解できるよう、今から学んでおきます。心がどこかへ「欲しい物、なりたい物」を求めに行きたいと願わず、いつでも知性で心を空にしておけば、本当にその時が来ても簡単です。わずかの時間でできるくらい簡単です。

 たとえば不穏なことが起きて、密かに銃で狙われたとすると、残された時間は二分の一秒か四分の一秒です。さっと感じたら「どこにも欲しい物も、なりたい物もない」と、精一杯思ってください。簡単に言えば、そう考えるのが間に合えば、つまり「滅尽」と納得して滅尽を願えば、銃弾が飛んで来ても、何がどうあっても、常に滅尽できる一刹那のチャンスがあります。

 どこにも私、私の物という感覚のない滅尽です。自然に滅びるに任せます。これは、まだ完全に苦を滅すことができる、あるいは高度の聖果に到達する希望があるという意味です。路上で車に轢かれる時でもできます。あるいは爆弾が落ちて来て村中、街中が粉々になってもできます。

 他の人は全員非業の死を遂げても、同じ状況下で、一人だけ阿羅漢になれます。だからこのタンマは非業の死にならないよう防ぐことができ、反対に阿羅漢になります。

 このようです。だからこの種のすべての場合のために、周到に備えておいてください。このような偶発的な事故でも、惨死する必要はありません。


 次は普通の病気、または自然死の場合です。これも話したように、前から備えておきます。昔からブッダの時代のように、良く理解できるように教えられてきました。本当に死ななければならない時は、あれこれ心配する必要はありません。

 孫子に渡す遺産のことなら、生きている間に、病気になった時に片付けておきなさい。揉めないで済むから。あるいはある程度病気が進んだ段階で片付けてしまえば、本当に死ぬまで残された時間は、滅尽のことだけに集中できます。そして薬や治療の心配はしません。そこまではっきり書いてあります。

 あと四、五日で死ぬのが確実になったら、昔の人は食事の話も考えませんでした。たぶん水だけで十分楽です。身体が求めなくなって食事を摂れば身体が乱れ、そして心も乱れるだけだからです。

 だから「何も欲しくない、何にもなりたくない、何にも執着しない」と意識するのも難しくなります。無理に食事を摂らないで、身体を楽にします。たぶん水だけ、あるいは正常を保てるように、少しの水か薬を口にします。そうすれば心は常に、「欲しい物はない、なりたい物もない」、あるいは「執着しない」、あるいは「滅尽」を強く念じることができます。

 いよいよ死ななければならない日になったら、水も薬も飲みません。身体を混乱させないためです。心は滅尽ゆえに明るく澄んでいます。仏教徒なら滅尽だけを目指さなければなりません。それは涅槃という意味、涅槃と同じだからです。

 ヒンドゥーや禅の人たちは、大我、あるいは天界、あるいは神を目指します。禅の人たちはそうします。何日も断食をするのは、彼らにとって簡単です。一回に二、三日断食する練習を、定期的にやっているので簡単です。食事も摂らず、薬も飲まなければ、心は滅尽を強く目指すことができます。

 身体が滅びていく時は、何もかも衰弱しています。今が朝か昼かも分からないほどです。しかし心の中の感覚は残っています。まだ消えていません。そして今何時かなどは、気にする必用はありません。滅尽のことだけを考えます。

 その時経文やら何やらを唱えるのはすべて間違いです。あるいは他人が唱えて聞かせるのも喧しいだけです。効果があるとしても、そんな状態になる前です。ブッダの徳を唱えたり、お坊さんを呼んで説教をしてもらったり、誰かに道を教えてもらって利益があるのは、別の時です。臨終の際には何の利益もありません。

 残っているのは滅尽だけです。滅尽以外に、どこにも何もありません。その滅尽には、ブッダも、教えも、僧も、聖向聖果も、涅槃も、戒も、サマーディも、智慧も、何もかも揃っているからです。つまり「私、私の物」がない心が滅尽へ傾いていきます。「何もいらない、何にもならない」の中に、ブッダも、教えも、僧も含まれています。だから心が滅尽の望みだけを感じていれば、滅尽します。

 あるべき物は揃っています。それ自体に純潔・清潔・明るさ・静けさがあります。煩悩を断つことも含まれます。だから身体も心も本当に滅尽します。輪廻の、名形の、本当の終りと言います。正しくできれば非常に簡単と言います。やり方を間違えば、困難を極みです。このような概略を理解してください。

 だから今一呼吸ごとに『滅尽』で呼吸します。他のもので呼吸しないで、いつでも滅尽を心に銘じします。これは一呼吸ごとに滅尽を意識することと同じです。そして本当に滅尽します。これを『死に勝てる』と言います。私と執着し、私の物と執着する気持がなく、心が空で『完璧に生老病死に勝てる』と言います。

 こういうのを、言うならば『死に方を知っている人』と言います。これ以外の人は、死に方を知らないので、非業の死もあります。あの死に方、この死に方は苦ばかりです。そして死に方を知っている人は、全員涅槃へ行きます。だから、どうか死に方を知ってください。

 最後のアーナーパーナサティである最後の話は、『滅尽』があるので、呼吸をしている間は何も執着がないので、人生最期の呼吸は、このように完璧なアーナーパーナサティです。

 一度に二つの話をしました。アーナーパーナサティの一つは、静かな場所で完全技法を本気で実践する人のための物で、大方は出家して静寂な場所にいる実践者に向いています。もう一つは自然な方法、あるいは普通の人が普通の状態で感じられるようにする物です。

 つまり、よく言われているように「俺、俺の物」と執着しないで、どこにも欲しがる物、なりたがる物がなければ、心に欲しい物、なりたい物がなければ、自然に滅尽に傾いていき、自然に納得し、自然に悟ります。

 二つの方法のどちらも正しい物、正しい真実を一呼吸ごとに心で意識することにあります。だからどちらのタイプもアーナーパーナサティ呼びます。正しい真実が、一呼吸ごとに心にあるようにすれば、どんな技法でもアーナーパーナサティと呼びます。

 それをしなければならないのは、その真実が煩悩を断つのに十分なだけ、煩悩の餌を断つのに十分なだけ強固でありたいからです。餌を食べなければ、煩悩は自然に餓死してしまいます。だからアーナーパーナサティをします。

 まとめると、徹頭徹尾そのように生きることは、智慧で生きることです。あるいは最高に正しい見識です。『サッペー タンマー ナーラン アビニヴェーサーヤ』、何にも執着するべきでない。誰も「俺、俺の物」と執着するべきでない。これは、ブッダの弟子は、このように智慧で明るくなれるという項目です。

 すべての点で、生・老・病・死より上で生きることを、仏教から最高の物を受け取ったと言います。どうぞこれに関心をもって憶えていって、良く考え、そして可能な限り実践してください。今日の話は、これで終わらせていただきます。




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