2.アーナーパーナ式の
心の訓練と心の働かせ方





1968年12月20日
スワンモークで開催された全国仏教協会の会合にて

 この念処の系統の実践法は、心の行為を意味すると理解してください。無常・苦・無我に関わる自然の真実を、常に心の中で明らかに見たいと願う点が重要です。しかしまだ心が支配下にないので、心は、自分が見たいように見、考えたいように考えようとしません。

 だからもう一度、もっと初歩の訓練をしなければなりません。つまり心をしっかり支配する練習です。そのため四念処の訓練は二つの部分に分けられます。前半は心を支配するため、後半は支配できる心で熟慮したい対象、つまり無常・苦・無我を熟慮するためです。

 最初の訓練である心を支配することを、サマーディ、あるいは「サマタ」の訓練と言います。心を支配下におくことが出来るようになったら、その心で無常・苦・無我を明らかに見るよう熟慮することを「ヴィパッサナー」と言います。サマーディとヴィパッサナーはそこが違います。

 サマーディの練習にもいろんな方法がありますが、どれも使い物になります。「プットー」、「オラハン」、あるいはその他の呪文を唱えても良く、あるいは何も唱えずにカシナ(十遍処で使う十種類の小道具)や死体、不浄物など、外部の物を意識するのも良く、あるいは呼吸のような内部の物を用いても良いです。

 だから、どの方法が良いとか間違っているとか、考えたり捉えたりしないでください。それは人それぞれに合っていることもあります。一番良いのは、いろんな方法を試して見れば、自分に一番合った方法が見つかります。

 私が好きな方法はアーナーパーナサティと言って、課程のすべてを「アーナーパーナサティバーヴァナー」と呼びます。サマーディのためにする部分もアーナーパーナサティ、智慧のためにする部分もアーナーパーナサティ、どの部分もアーナーパーナサティです。

 完全形でサマーディ、あるいは「サマタ」のためにする部分は、呼吸を意識すること、感情を意識すること、心を意識することで、四念処の最初の三つの部分です。そしてタンマーヌパッサナーサティパターナで智慧を熟慮するヴィパッサナーは最後、四番目です。


 初めの、呼吸を意識し呼吸を注視する段階を、カーヤーヌパッサナーサティパターナ(身随観念処)と言います。呼吸も体の一種だからです。呼吸を意識する部分を四つに分けます。

  1.長い息を意識する

  2.短い息を意識する

  3.呼吸が体を変調させる、あるいは体と関連があることを意識する。

  4.呼吸を滑らかにして、体を穏やかにするために、呼吸を意識する。

 もう一度復習すると、アーナーパーナ式の四念処は四つに分けます。

  1.長い息を意識する

  2.短い息を意識する

  3.呼吸が体を変調させる、あるいは体と関連があることを意識する。

  4.体を穏やかにするために呼吸を滑らかにする。

 最初の「長い息を意識する」とは、「呼吸が長い」と観察するという意味です。長い息の時は体が気持ち良く、気分が悪く、胸が詰まるような時は、呼吸が短くなっています。最高に気分の良い時は、呼吸が長いです。

 だから呼吸を長くできることは、身体を快適にできることです。だから衛生の面でも利益があり、身体を健康にします。

 一方短い息は、心が正常でない時は呼吸が早く短いです。イライラしている時は息が短く、怒っている時は呼吸が早く、欲情に囚われている時も息が短いと知らなければなりません。だから心が正常でなく、身体も気分が悪い時、心が正常でない時は、呼吸が早いと知らなければなりません。

 次に、どういう呼吸が長いか、どういう呼吸が短いか。なぜ長いか、なぜ短いか。長い息と短い息の両方を意識して知悉します。短い息をしている時に気づくことができれば、心を正常に戻すこともできます。だから呼吸を長くすることで解決することもできます。そうすれば長い息も短い息も、呼吸の自然な状態について知悉した人になります。

 この長い息は荒いこともあるので、静かで長い息にし、短い息が荒いこともあるので、できるだけ静かになるよう努力します。自在に制御できるようになれば、短い息も長い息も、呼吸について知識のある人と言います。

1.長い息を意識する。長い息だけを見張って意識し、長い話だけを学びます。

2.どうして短いか、どうしたら長くすることができるか、短いことを学びます。重要なことは、体を荒らくしている短い息を静かで長い息に変えられる点です。

3.呼吸が荒れている時は体も荒れていて、呼吸が滑らかな時は体も穏やかという真実を注視し意識します。呼吸が荒れている時は体も荒んで、体温も高く気分も悪く、呼吸が滑らかな時は体も穏やかで、体温も下がり気分も良いという、この自然の神秘が分かるまで、十分な時間をかけて、本気で学習しなければなりません。

 この項目は特に良く理解できるまで学ばなければなりません。でないと次の段階に進めないからです。

4.体を作るのを知るとは、呼吸を静めることです。呼吸を念入りに意識できれば、体を静められるのと同じです。だから呼吸を静められる分だけ、体も静められると学びます。そしていろんな方法の中から一つを選んで、呼吸を静めることで体を楽にできるようになるまで、呼吸をより滑らかにします。

 続けていくと、サマーディと呼べる状態、つまり体も穏やかで心も穏やかになります。これだけでも、サマーディから生じた穏やかな幸福を味わうことができ、非常に満足できる幸福の一つです。これだけで、呼吸を静めることができたサマーディ、あるいは静まったサマタと言います。これらの穏やかさを四段階に分けて、初禅、二禅、三禅、四禅と呼びます。

 練習の概要はこのようです。呼吸がどのようになっているか、呼吸の自然を知ったら、呼吸の練習の第1段階である、カーヤーヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)から始めます。



    第一部 体を見る(カーヤーヌパッサナー。身随観)

 第1段階の呼吸に係わる心の訓練は、「追い駆ける」と言う状態です。初めの状態である「追い駆ける」という言葉を憶えてください。息が出入りしたり移動している時、心、または意識するサティが追い駆けます。初めは意識しやすいように息を強くします。息が出たか入ったか、どこまで届いたか、どこまで出たかなどが観察しやすくなります。

 だから内部と外部の二点で意識します。外部の点は鼻先で、内部の点は臍と仮定します。吸気は鼻先から始まって臍まで、呼気は臍から始まって鼻先までで、それらがどう違うか、反対になっていると知ります。

 いずれにしても重要点は、出たり入ったり、出たり入ったりしている呼吸にあり、心、あるいはサティで、出たり入ったりしている息を追い駆けます。ここで良く意識できなければ、もっと息を荒くすれば、どこまで息が到達したか、奥まで届いたか、出口まで出てきたか分かりやすくなります。

 常に呼吸を追い駆けているような状態であるこの段階は、子供を寝かせるために揺り籠を揺すっている子守りに譬えます。子供が寝ないうちは動き回るので、左右に揺れる籠の動きを逐一見守っていなければなりません。

 追い駆ける状態と同じで、出たり入ったり、出たり入ったりしている呼吸を心で追い駆けて意識します。追い駆けるこの段階をしっかり習熟します。


第2段階。追い駆ける練習が良くできたら、次の段階は、もう追い駆けません。この段階にふさわしい一定の場所、鼻先で見張る段階に入ります。ここでは鼻先が最もふさわしい場所で、そこで意識するだけで十分です。息を吸えば入り、吐けば出、必ず鼻先を通過します。これを「一ヶ所で見張る」と言います。

 もう追い駆けないで、鼻先で意識します。これに習熟しなければなりません。まだ鼻先に達する前に心が他所へ逃げ出すかもしれないので、一段階難しくなります。しかし第1段階の、追い駆ける段階が良くできれば、鼻先だけで意識する練習も難しくなくできます。

 うまく行かないようなら、もう一度追い駆ける段階に戻ってしっかりやり直してから、鼻先だけで意識する練習に入ります。どっちみち最後にはできるようになります。吐く息も吸う息も、息が鼻先を通過する時、息が鼻先に当たる一番端で意識します。この場合、鼻先をニミッタ(心が意識するもの)にします。このニミッタは呼吸で、まだ直接繋がっていると言います。

 吐く息も吸う息も、鼻先から臍まで、追いかける段階はずっとニミッタです。全過程がニミッタです。しかし一ヶ所で見張る段階に入ると、残っているのは意識する場所、つまり鼻先だけです。これからは通り途全部(つまり鼻先から臍の間)では意識しません。鼻先に当たる息、それがニミッタです。これを一ヶ所で意識すると言います。呼吸はニミッタとして存在します。


第3段階。この段階に習熟したら、第3段階の練習に入ります。つまりニミッタ(心が意識する物)を呼吸から概念(イマジネーション)に替えます。呼吸は自然にある実物で、概念ではありません。ここで概念に替えます。鼻先の息が当たる場所を概念の形で新たに作り替えます。

 わざと作ると言えば正しくありません。本当に自然に作ると言っても違います。「鼻先の息が当たる一つの場所を、概念としてイメージするのに近い」と言っておきます。鼻先の息の当たる場所は、呼吸が滑らかになれば体も緩やかになり、意識する物が繊細になれば、心が感じるのは半分だけ、半分感じるだけになります。

 感覚が半分になれば、息が当たる部分がどのようか、何らかの概念、たとえばそこに綿毛が付いているというようにイメージするのは簡単です。その時は呼吸を意識しないで、新たにイメージした概念を意識します。

 時には綿毛の代わりに蜘蛛の糸でもいいです。あるいは露、蓮の葉におく露でもいいです。星でも太陽でも月でも、自分がイメージした物なら何でもいいです。しかしイメージしやすいのは綿毛や光る水晶玉のような小さな物です。

 それが上手くできるようになったら、太陽や月のような大きな物に拡大し、それができるようになったら月や太陽をもっと大きく拡大しても良く、小さく縮小しても良いです。

 それができるようになれば、心を支配することに成功したという意味です。そしてそこ(鼻先の息が当たる場所)にふらふら浮かんでいる太陽でも月でも、何でもイメージした物を見ることができます。しかしそこまでする必要はありません。何かイメージした像であれば十分です。

 そしてイメージした像を自在に支配し、色を変えたり、形を変えたり、均整を変えたり、場所を変えたり、何でも変えることができます。いろんなことをやって見るのは、より心を支配できるようにするためです。しかし心をより繊細にするために、最終的には適度なところに戻ります。これを第3段階の、ニミッタを自然の像からイメージした像に換えることに成功したと言います。

 念のためもう一度復習すると、最初の実践は追い駆け、出たり入ったり、出たり入ったりしている呼吸をニミッタとして、息の流れのすべてを追い駆けます。

 それができるようになったら、鼻先に当たる息をニミッタとして、鼻先一か所だけで意識するように変えます。

 それができるようになったら第3段階、息が当たる場所にイメージしたニミッタ、たとえば綿毛や水晶玉、あるいは説明したような物を置きます。これをニミッタをイメージした物に換えると言います。まとめます。

    第1段階、追い駆ける

    第2段階、一点だけで意識する

    第3段階、イメージしたニミッタのあるところで意識する

 十分熟練して本当に支配でき、その段階のことは何でも意図したとおりにできまで習熟しなければなりません。イメージしたニミッタを完璧に支配できるようになったら、次の段階の練習に進みます。

第4段階。少しずつ禅定の新しい感覚を作ります。しかしイメージした良いニミッタがあれば、ヴィタッカ(関心を維持すること。尋)である、ニミッタを意識する感情があります。そのニミッタについて周到な感覚、つまりヴィチャーラ(熟慮。伺)と呼ぶ感覚があり、ニミッタがうまく作れれば、ヴィタッカ(尋)、ビチャーラ(伺)と呼ぶ禅定は、すでにその行為の中にあります。

 まだ残っているのはピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)の感覚を生じさせることです。この喜悦と幸福は、成功することから簡単に生じます。人は成功したと感じれば喜悦が生じ、喜悦が生じると幸福の感覚が生じます。喜悦があれば必ず幸福があるので、喜悦、幸福と呼ばれる禅定が生じます。

 その時心に一つの物、つまり意識している物しかない状態を、エッガガター(一境性)と呼びます。だからその時ヴィタッカ(尋)・ヴィチャーラ(伺。熟慮)・ピーティ(喜悦)・スッカ(幸福)・エッガガター(一境性)のすべてが揃います。それは禅定の一つ、初禅と呼ぶものです。

 私たちは注意深く、しっかり実践しなければなりません。良く進歩させ、それを維持し、急いで他へ進むことを考えないでください。このような状態で練習に練習を重ね、訓練に訓練を積み、繰り返し繰り返してください。イメージしたニミッタを意識することをヴィチャーラ(伺)と言います。

 喜悦を感じて心が満たされ、幸福を感じていれば、そのような状態には当然エッガガター(一境性)があります。つまり心は一つの感情になります。

 これは人間にとって不可能ではないと見ることができます。時間が十分あれば、普通の人でも当然訓練できます。最高地点に到達できなくても、全部揃ったと言えるところまでは行きます。まだ十分ではないにしても、一応全部揃います。全部が揃っていれば、後で少しずつ熟練して、強くすれば良いです。

 本当に熟練すれば「物質に勝つ力がある」と言います。つまり「自分に勝った。物質に勝った。それらを支配できる」という意味です。それらに勝ったということは、呼吸などと繋がっている心を支配できるということです。

 この初禅だけでも十分です。一般の人にとっては十分すぎるかも知れません。初禅のレベルに達しなくてもがっかりしないでください。これから実践をしていくのに十分なサマーディを受け取ったのですから。初禅にある物全部、ヴィタッカ(尋)・ヴィチャーラ(伺)・ピーティ(喜)・スッカ(幸福)・エッガガター(一境性)のすべてを受け取れば、大きな徳、あるいは幸運と見なします。その先は簡単になります。


 カーヤーヌパッサナーサティパターン(身随観念処)のまとめ

     長い息を意識する

     短い息を意識する

     呼吸が体を変調させることを意識する

 そして呼吸を支配することで心を支配します。禅定、あるいは初禅と呼ぶものが生じるまで呼吸を滑らかにして心を穏やかにし、体を緩やかにします。これを四念処の第一部、カーヤーヌパッサナーサティパターン(身随観念処)を修了したと言います。



    第二部 受を見る(ヴェーダーヌパッサナー。受随観)

 第二部に入る前に、カーヤーヌパッサナーサティパターナ(身随観念処)の段階を十分熟練しなければなりません。意識が身にあるようにし、逃がさないようにします。つまりしっかり支配できるという意味です。そうなってから少し進んで第二部、ヴェーダーヌパッサナー(受随観)に入ります。ヴェーダーヌパッサナーの部とカーヤーヌパッサナーの部は繋がっていなければなりません。サマーディで生じさせた喜悦と幸福を感情(意識する対象)にします。

 ヴェーダーヌパッサナーサティパターナの練習を始めるには、サマーディから生じた喜悦と幸福(ピーティとスッカ)を四念処第二部の感情、あるいはニミッタにします。そうなるとまた初めからやり直さなければなりません。長いのを意識し、短いのを意識し、体への影響を意識し、変調を少なくして意識し、喜悦と幸福が生じるまで緻密に意識します。そして喜悦と幸福を、第二部で意識する感情として残しておかなければなりません。

 喜悦はどのようか、幸福はどのようか、受を意識します。つまり今まで以上に緻密に、喜悦はどのようか、どんな状態か、幸福とは何か、どのようかを意識します。喜悦と幸福に関わる前に、喜悦と幸福が今あることを、明らかに緻密に自覚し、この二つの物の自然を知り、生まれを知り、これに関わる何もかも知ったと言えるようにします。

 ヴェーダーヌパッサナーサティパターナ(受随観念処)の部は

  第1段階は喜悦を意識します。できるようになったら、

  第2段階は幸福を意識します。できるようになったら、

  第3段階は、受を意識します。喜悦と幸福は心をいろいろに変調させる主犯で、チッタサンカーラ(心を変調させるもの)と言います。その感覚を意識します。この心を変調させる犯人が受です。ここでは喜悦と幸福で、この受がどのように心を変調させているか、心がどのように変調しているかを、この段階ではずっと意識します。

 この段階ができるようになったら、第4段階で、受が勝手に心を変調させるのを妨害し、受の影響を次第に少なくしていき、最後に受が心を変調させようとしてもできないようにする練習をします。そして第二部第4段階の実践を成功させます。これをチッタサンカーラを鎮められたと言います。

  復習します。第二部、ヴェーダーヌパッサナー(受随観)の部は、

 第1段階 喜悦を意識する。

 第2段階 幸福を意識する。

 第3段階 喜悦と幸福が心を変調させることを意識する。

 第4段階 受、または喜悦と幸福が心を変調させるのを妨害し、最後にはまったく不可能にする。

 これは、人は心を変調させる原因を制御できるということです。だからそれは私たちの掌中にあります。その後は、自分で自分の心をどのようにでもできます。これをヴェーダーヌパッサナーサティパターナ(受随観念処)に成功したと言います。つまりサティパターナ第二部が終ります。



    第三部 心を見る(チッターヌパッサナー。心随観)

 次にチッターヌパッサナーと呼ばれるサティパターナ(念処)の実践に入ります。みなさん、実践は最初の段階からずっと繋がっていて、どの部分も欠けてはならないことを忘れないでください。カーヤーヌパッサナー(身随観)から始めなければならず、それからヴェーダーヌパッサナー(受随観)になり、最後の段階で、心を変調させる受を制御し、変調を止ることができるようになります。

 ここで変調させたりさせなかったり自由に制御されている心を、この段階のサティパターナ(念処)の感情、あるいはニミッタにします。

 第1項は、その時心はどんな状態か、貪欲があるか、怒りがあるか、もっとすごい心があるか、もっとすごい心はないか、心は晴れ晴れしているか、落胆しているかなど、心のいろんなありようを意識します。心がどんな状態になっても、それを意識します。心のいろいろな状態を意識し続けていくと、最後には心の状態のすべてを知り尽します。これを心の状態を意識する第1項と言います。

 次は第2項です。このように心を支配できるようになったら、心を歓喜の状態にします。この歓喜とは、喜悦と幸福という意味です。しかしより上品で高尚で、禅定に依存しません。つまり喜悦と幸福は、途端に心を歓喜に変えることができます。第2項は心を自在に歓喜の状態にすることです。それができるようになったら第3項に進みます。

 第3項は、心を磐石にします。この磐石という言葉が、本当のサマーディです。完璧なサマーディと言うには、次に挙げる三つの特徴がなければなりません。純潔(ボリストー)が一つ、安定していること(サマーヒトー)が一つ、義務に対して俊敏であること(カンマニヨー)が一つです。

 ボリストーは、純潔で清潔で蓋(がい)、妨害する物がないという意味です。サマーヒトーは、安定して断固として、強く堅固なこと。そしてカンマニヨーは己の義務に敏捷であることです。己の義務とは、いつでも、どんな状態でも熟慮したい時に熟慮できることです。それを己の義務に対して敏捷と言います。

 心がこの三つの特徴を備えていれば、つまり純潔で堅固で義務に対して敏捷なら、ここでは「磐石な心」と言い、心はヴィパッサナーの基礎にするための完璧なサマーディの状態にあります。

 次の第4項は、その時心を支配している物から開放します。その時心は何かに支配されています。貪りも、怒りも、迷いも、他の貪りも、恐怖、緊張、嫉妬、落胆なども、その時心を妨害しているもの何でも、即座にそれを払いのける訓練をします。これを「心を開放する」と言い、第4項です。

 チッターヌパッサナーサティパターナ(受随観念処)の部をもう一度復習します。

 第1段階 その時心がどのような状態にあるかを意識します。

 第2段階 心を歓喜の状態にします。

 第3段階 心を磐石にします。

 第4段階 心を覆っている物から開放します。

 ここでみなさん。「もう心に熟達した専門家で、心を熟知し支配できる」と、熟慮して見てください。このようにできるようになればアーナーパーナサティのチッターヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)に成功したと言います。この三部全部、つまりカーヤーヌパッサナー(身随観)、ヴェーダーヌパッサナー(受随観)、チッターヌパッサナー(心随観)をこのように実践できれば、高いサマタ(止業処)に成功したと言います。

 次にタンマーヌパッサナーサティパターナ(法随観念処)と呼ばれるサティパターナの第四部に進みます。これは完璧なヴィパッサナーの段階です。



    第四部 タンマを見る(タンマーヌパッサナー。法随観)

 第1項 確実でないことを意識します。無常と呼ばれる不確実なことがどのようにあるか、その不確実な物の様々な有りようについて熟慮しなければなりません。そしてそれは自分の感覚の中に本当にある物でなければなりません。

 土くれや、石ころ、木の株や山など外部の物を熟慮するのではありません。それは話にふさわしくなく、完璧ではありません。本当に自分の心にある物の、不確実性を見なければならなりません。

 だからまた初めからやり直す必用があります。長い息を意識して長い息が不確実であることを熟慮し、短い息をして短い息が不確実であることを熟慮し、呼吸が体を変調させることを熟慮し、そして呼吸が体を変調させることが不確実であることを熟慮し、呼吸を支配して体を変調させないこと、つまり体が静まることを熟慮します。

 そして変調の過程と変調しない過程の両方、それらすべてが不確実であることを熟慮します。それらのどれも不確実であることだけを見せているからです。

 それから受随観の部分、つまり喜悦が不確実であることを熟慮します。幸福も不確実、心を変調させる喜悦と幸福も不確実、喜悦も幸福も心も、みんな不確実で、受を支配して心を変調させないようにすることも、すべて不確実な状態を呈しています。つまりいつでも変化します。

 どんな場合にも変化しないで確実不変なら、何も変化することはできません。不確実だから変化でき、私たちも望みどおりに変えることができます。

 次に後戻りしてチッターヌパッサナー(心随観)の段階を熟慮します。心はどんな状態でも不確実な様相をしています。心を歓喜で満たすことも不確実で、心を開放することも不確実です。これらは現前のことで、心の中に本当にある物は、結果が出ます。

 外部の物を「あれは不確実、これも不確実」と表面的に検討するのと違い、現在内面に浮び上っている物が不確実であることを熟慮すれば、深く無常が見え、倦怠が生じ、欲が減ります。あるいは憐れみが生じるかも知れません。

 以上のような理由から、不確実性、つまり無常を熟慮するには、すべて内部のものを使います。このように無常を熟慮し続けることが、タンマーヌパッサナーサティパターン(法随観念処)の第1段階です。無常を熟慮できれば、自然に、ヴィラーガ(離欲)である倦怠感、憐憫、それまで執着していた物への欲情の弛緩が生じます。

 第2段階はヴィラーガ(離欲)です。欲望が弛んでいく様子がどのようか、執着が薄れてゆく様子はどのようかを熟慮します。これをヴィラーガ(離欲)、欲望の減少を熟慮すると言います。

 第3段階はニローダ(滅)です。欲望が次第に減少していくと、滅、あるいはニローダと呼ぶものが生じます。(ニローダとは滅すこと、苦が滅すことを意味します。欲望が弛み、執着が弛めば、苦もなくなります)。苦がどんどん減っていく状態がニローダの状態で、それを熟慮します。それが滅苦、完全な滅苦です。

 最後の第4段階は、この滅がすべての苦を払い捨てることを見ます。すべての苦を払い捨てることをパティニッサッガ(捨離)と言い、それを熟慮します。


 もう一度タンマーヌパッサナーサティパターナ(法随観念処)の部を復習します。

 第1段階はアニッチャーヌパッシー(無常随観)と言い、すべての物に現れている無常の状態を注視します。

 第2段階はヴィラーガーヌパッシー(離欲随観)と言い、心の執着が弛んでいくことを注視します。

 第3段階はニローダヌパッシー(滅随観)と言い、苦が消滅していくことを注視します。

 そして第4段階はパティニッサッガーヌパッシー(捨離随観)と言い、心が苦を振り払えること熟慮します。

 出来事を中心に言えば、心は「俺」「俺の物」という感覚を振り捨てることができ、純潔な心になったと言います。かつては俺、俺の物に執着して、自然の物を俺、俺の物と執着してきたので、泥棒であり強盗でした。

 今は元の持ち主、自然に返し、自然の物にします。これからは「俺、俺の物」はありません。これをパティニッサッガーヌパッシー(捨離随観)と言います。これで終わりです。

 アニッチャーヌパッシー(無常随観)の段階では、倦怠が生じて欲望が弛むタンマを熟慮します。ヴィラーガーヌパッシー(離欲随観)の倦怠と欲望の減少は聖向の状態です。欲望を減らして苦をなくすことができれば、聖果の状態です。このパティニッサッガーヌパッシー(捨離随観)は涅槃の恒常的な状態です。つまりすべての物を払い捨て、以後、俺、俺の物という気持ちにさせる物は何もありません。だからそれが実践の終りです。


 述べたように良く理解できるまで、良く度復習しなければなりません。

 第一部はカーヤーヌパッサナー(身随観)と言って長い呼吸を意識し、短い呼吸を意識し、呼吸が体を変調させることを意識し、体への影響を制御できることを意識し、呼吸による体の変調を支配できることを意識します。

 ヴェーダーヌパッサナー(受随観)では、呼吸が体を変調させないように支配できることから生じる喜悦と幸福を感情にし、喜悦を意識し、幸福を意識し、喜悦と幸福が心を変調させることを意識し、喜悦と幸福が心を変調させないよう支配できることを意識します。

 チッターヌパッサナー(心随観)の部まできたら、心を歓喜させる状態、堅固にする状態、開放する状態を見ます。このような手法で心の扱い方に熟達したら、最後の実践に入ります。

 タンマーヌパッサナー(法随観)では、自分の支配下にある心で、執着していた物に興味が薄れて欲望がなくなるまで、生じている苦が消滅するまで、苦をすべて払い捨てたと実感できるまで、無常である物の無常について熟慮します。


 これをアーナーパーナサティのそれぞれの段階のそれぞれの部分であるカンマターナ(念処)と言います。一呼吸ごとにそれぞれの状態が明らかに現れるようにしなければなりません。それをアーナーパーナサティと呼びます。

 長い呼吸の出入りを逐一意識する。

 短い呼吸の出入りを逐一意識する。

 呼吸が体を変調させていることを一呼吸ごとに意識する。

 呼吸が体を変調させるのを阻止できるということを意識する。


 一呼吸ごとに喜悦があることを意識する。

 一呼吸ごとに幸福があることを意識する。

 一呼吸ごとに喜悦と幸福が心を変調させていることを意識する。

 一呼吸ごとに受が心を変調させるのを阻止できることを意識する。


 そして心のありよう、心はどんな状態かを、一呼吸ごとに意識する。

 それから一呼吸ごとに作為的に心を歓喜で満たせることを見る。

 そして一呼吸ごとに心を堅固に安定させられることを見る。

 そして一呼吸ごとに心に絡みついている物を払い除けることを意識する。


 それから一呼吸ごとにすべての物に現れている無常を意識する。

 ヴィラーガ(離欲)が生じたら(淡白になってきたら)、一呼吸ごとにそのヴィラーガ(離欲)について熟考する。

 ニローダ(滅。苦が滅していくこと)が現れてきたら、一呼吸ごとにそのニローダを意識する。

 「俺」「俺の物」という気持をすべて払い捨てられたら、一呼吸ごとに払い捨てることを意識する。


 一呼吸ごとに心を支配するので、この実践法の初歩から最後までどの過程も、アーナーパーナサティと呼びます。アーナーパーナサティと呼ばれる念処は、私が好きな実践法なので、みなさんの智慧やサティにふさわしい練習を試していただき、検討していただくために披露しました。

 しかしあの方法より良いとか、この方法より悪いとか比較しないでください。そんなことは無用です。どの方法もみんな良いはずです。いろんな特徴があって、人それぞれに合っていて、利益があります。

 しかしこのアーナーパーナサティは、私が特に好む手法なので話しました。そしてブッダも、簡便で大きな成果があり、功徳のある手法と推奨なさっています。自分の中にある物だけを観察の素材にするので、複雑で難しくないからです。

 どこに座っても呼吸はあり、どこに座っても熟慮できるので、何も持って行く必用はありません。どこに座っても、どの木の根元に座っても呼吸は意識できます。

 こんなに便利で、そのうえ難儀な移動をする必要もなく、危険で恐ろしい情景に遭遇することもありません。死体を観るなどは、恐ろしい情景に触れる経験です。手法が誤っていれば危険なこともあります。

 しかしこのアーナーパーナサティの実践には、そのような問題はありません。恐ろしいこともありません。どの段階のどの部分も、終始一貫してあるのは静けさだけです。だからブッダは他の方法よりも推奨なさっていました。みなさんもこれを試してみてください。良い機会があったら、段階的に練習を始めてください。

 今日は実際にやってみることはできません。今日は、あとで自分自身で試せるよう、とりあえず教えと全体の流れがどのようか、説明しただけです。これで終わりにさせていただきます。




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