1.アーナーパーナサティの基本





(一般人のための簡単な基礎知識)

通常の場合

 上体を真っ直ぐに座り(背骨の関節の一つ一つが、すべてぴったりと接合するように)頭を立て、目は何も見えないくらい視線を鼻先に集中させます。他の物が見えても見えなくても構いませんが、ただ鼻先を注視してください。慣れてくれば目を瞑るより良いし、眠気に襲われにくいです。特にすぐ眠くなる人は、目を瞑らないで目を開けてください。

 続けていくと、目を閉じなければならない段階になると、自然に目が閉じます。あるいは初めから目を閉じていても、それは自由です。しかし目を開ける方法には、結果として良い点が幾つもあります。しかしやりにくいと思う人、特に瞑目にこだわる人は、目を開ける方法ではできません。

 手は力を抜いて膝の上に置きます。脚は組むか、安定して体重を支えられる、座りやすく倒れにくい方法にします。普通の胡座か、やり易い姿勢で座ります。肥っている人は、いわゆる結跏趺坐、金剛禅坐のような組み方はできませんし、その必用もありません。

 バランスよく体重を支えられ、倒れにくいように脚を組むだけで十分です。本格的で難しいいろんな脚の組み方は、ヨギーのように真剣に取り組む時までお預けにします。


特別な場合

 病人、病弱な人、疲労している人などは、寄り掛かるか、椅子に掛けるか、あるいは少し傾斜のある帆布張りの椅子に横たわり、あるいは病人なら寝たままでもできます。空気がよどんでいない、気持ちよく呼吸できる場所を選びます。妨害する物があまりないこと。やかましい騒音がないこと。そして意味がない音であることです。

 波の音や工場の音などは妨害にはなりません(妨害と捉えないかぎり)。人の話し声のような意味のある音は妨害になります。静かな場所を見つけることができなければ、何も音がないということにして、心して始めましょう。だんだん慣れてできるようになります。


 目はぼんやりと鼻先を見つめていても、同時に感じたり思ったり、お寺の言葉ではサティ(自覚するもの)で、自分が息を吸ったり吐いたりするのを自覚できます。(目を瞑るのが好きな人はこの段階から瞑目します)。目を開けているのが好きな人は、集中が進んで自然に目が閉じるまで、ずっと目を開けています。

 練習の初めの段階で、簡単に呼吸を意識するために、吸う息も吐く息も、呼吸をできるだけ長く伸ばすよう努めます。気管を出入りする自分の呼吸が何に触れ、あるいはどのように通過するのか明確に知るため、そしてお腹のどこまで行くのかを意識するために、何度も何度も繰り返します。

 その振動の感覚を基準にし、事実を基準にする必用はありません。内部の末端を決め、外部の末端を決めることで、できるだけ呼吸を意識しやすくすることができます。

 普通の人は鼻先の息が当たるところを、外部の末端とします。鼻が低くへこんで上唇が出ている人は、息が上唇に当たります。こういう場合は上唇を外部の末端とします。鼻先が一つ、臍が一つと決めることで外部と内部の点が定まります。そして呼吸は常に二つの点の間を行ったり来たりしています。

 ここでは呼吸が上ってくる時も、下がっていく時も、サマーディをしている間中、心が呼吸を追いかけて見失なわないようにします。これが訓練の一つの段階です。分かりやすく「常に追いかける」段階と言います。


 初めは呼吸の両端と中間を探すために、息を出来るだけ長く、強く、荒く、繰り返し繰り返し練習すると述べたように、心(またはサティ)が息の出入りを意識できるようになったら、息がどちらかの末端まで届いて、引き返し引き返しするのを自覚できるようになったら、呼吸を少しずつ自然な普通の状態に戻します。

 しかしサティ(自覚。意識すること)は常に息に固定して、追いかけ続けます。わざと息を長く荒く強くしていた時と同じで、内部の臍(あるいは下腹部)から外部の鼻先(状況によっては上唇)まで、息の通り道すべてを意識します。呼吸がどのように静かか、あるいは滑らかかを、サティは常に木目細かに意識します。

 もし呼吸が滑らかすぎて意識できなければ、もう一度息を荒く、強くしてやり直します。(初めほどではなくても、ハッキリ意識できる程度で良いです)。意識が呼吸にあり、一時も離れないようになるまで意識します。

 つまり無理にする呼吸でなく、普段の呼吸を常に意識できるようになるまで。どんなに長くても短くても知り、どんなに重くても軽くても知ります。サティが呼吸を待ち伏せして拘束し、後を付け回すからです。これが出来るようになったら「呼吸を追いかける段階に成功した」と言います。

 成功しないのは、サティ(または考え)が常に呼吸になく、気がつくとぼんやりしていて、いつから意識が離れたのかも知らないからです。このような状態でも、気がつく度に意識を呼吸に連れ戻し、この段階を終了するまで練習します。最低一度に十分以上続くようになったら、次の段階の練習に進みます。

 次は二番目の「どこかで待ち伏せする」段階と言います。初めの段階を終了しているに越したことはありません。(初めの段階を飛び越えてこの段階へきても構いません)。この段階ではサティ(または考え)が呼吸を追い駆けるのを止め、どこか一点で待ち伏せします。

 息が体内の一番奥(臍)に届いた時意識し、そこで一旦放すか無視して、一番外の出口(鼻先)に当たる時もう一度意識します。そして再び体の一番奥(臍)に届くまでは、呼吸から離れるか、あるいは手放します。

 このようにずっと続けます。できるようになると、意識が呼吸から離れている時、あるいは手話している時も、心は家や田畑やその他の場所へ逃げて行きません。サティ(意識又は自覚)が体内の一番奥と一番外で意識しているということです。その二点の間は放っておきます。このようにできるようになったら体内で意識するのを止め、外部、つまり鼻先だけで意識してもいいです。

 息を吸う時も吐く時も意識し、「戸口だけで見張る」と言います。息が通る時だけ意識して、その他は暇、あるいは静かです。暇、あるいは静かな中間にも、心は家やどこかへ逃げて行くことはありません。これができるようになれば、「どこかで待ち伏せする」段階に成功したと言います。

 うまく行かないのは、心がいつ逃げ出したのか分からない点で、入り口に戻って来ても、中に入っても、どこかへ擦り抜けてしまうこともあります。それは暇で静かな中間がうまくできないのと、この段階の最初から出来ていないからです。だから初めの段階、つまり「常に追い駆ける」段階から、しっかり正しく練習するべきです。

 最初の段階、あるいは「常に追い駆ける」段階と言っても、誰でも簡単にできるわけではありません。そして出来るようになれば、体の面も心の面も、思った以上の結果があります。

 だから是非ともやってください。体操のように遊びになるくらいまで、しょっちゅうします。二分でも時間があればします。強く息をして背骨が音を立てればなおいいです。ハアハア息の音がしても構いません。だんだん軽くなって、普通のレベルになります。

 人の普段の呼吸は、普通のレベルではありません。自覚はなくても、普通より低すぎたり少なすぎたりします。特にいろんな仕事をしたり緊張した動作をしている時、本人は自覚していなくても、呼吸は通常あるべき状態より低いです。だから初めは強い息から始め、しばらくしてから通常の状態に戻すべきです。

このようにすると、呼吸を真ん中のちょうど良い状態に、同時に体も正常な状態にすることができます。アーナーパーナサティの初歩のニミッタ(相)を意識するのにふさわしい状態です。繰り返しますが、最初の段階はどんな機会にも、誰にとっても正しい遊びになるくらいまで習熟してください。心身の健康にとって非常に良い結果があります。そして第2段階へ続く階段でもあります。

 本当は「常に追い駆ける」段階と「どこかで待ち伏せする」段階の違いはそれほど大きくありません。緊張を緩めて緻密に、つまり意識するサティを少なくしても心が逃げていかない状態を維持します。

 分かりやすく譬えれば、揺り籠の側にいる子守りのようです。最初に子供を揺り籠に入れますが、子供はまだ眠くないので、揺り籠の中で寝返ったり、立ち上がろうとします。この段階では、子守りは揺り籠から目が離せません。子供が籠から落ちないように、揺り籠が右に揺れたり左に揺れたりするのを、絶えず目で追っていなければなりません。

 子供に少し眠気が兆してくると、あまり動き回らなくなるので、子守りは揺り籠の動きに合わせて目で追う必用がなくなります。籠が自分の前を通る時に見るだけで十分です。自分の前を通過する時に定期的に見るだけでも、子供が籠から落ちる心配はありません。子供はもう眠ろうとしているからです。

 だから初歩の「常に追い駆ける」段階の呼吸を意識することは、揺り籠の動きに合わせて見張らなければならない子守りに譬えられます。鼻先だけで呼吸を意識する、あるいは「どこかで待ち伏せする」段階である第2段階は、子供が眠くなり始め、子守りは自分の前を通過する時だけ揺り籠を見守れば良い段階です。

 第2段階まで十分に習熟したら、一般人のための簡単で初歩のサマーディを脱し、より意識するサティを緩めて緻密にし、禅定の段階の安定したサマーディを生じさせる、いずれかの段階の練習に入ることができます。しかしここで一緒に話すことはできません。細かくて緻密なので、その段階に興味のある人だけが勉強する複雑な規則があります。

 この段階では基本的な段階だけに興味をもって、当たり前なころ、普通に慣れるまで習熟してください。それらを後になって一つに集めると、順次高い段階になるかもしれません。

 在家のみなさん。戒・サマーディ・智慧の三つがある人になるため、あるいは八正道の各項目で生きる人になるために、どうぞ、初歩の段階である、体と心に利益のあるサマーディをする機会を持たれますよう。

 たとえ初歩でも何もないより良いです。ただ普通に生きていた時より、ずっと体が静まります。順次高いレベルに向けてサマーディの練習をするだけで、「人間が出合うべきもう一つのもの」に出合えます。それでこそ生まれてきた甲斐があります。

 「プッタタート比丘小品集」より
 アーナーパーナサティに関する、より高度な講義
 http://buddhadasa.hahaue.com/houwa1.html



次へ ホームページへ 法話目次へ