(282)
私はこのように聞きました。
世尊が、最初の目的地であるサーヴァディーにほど近い、ミカーラマートゥパーサータという精舎にご滞在していらっしゃったある時、広く名の知られている長老である弟子たち、たとえばサーリプッタ、モッカラーナ、カッサバ、マハーカチャーヤナ、マハーコッティダ、マハーカッピナ、マハージュンダ、レーワタ、アーナンダ、その他大勢の名のある長老達も一緒でした。
その時、長老たちの誰もが、多くの比丘たちに繰り返し教えを説いていました。十人の比丘に常に教えを説いている長老たちもあり、二十人の比丘に教えを説いていたる長老たちもあり、三十人の比丘に教えを説いている長老たちもあり、四十人の比丘に常に教えを説いている長老たちもいました。新参の比丘たちは、長老たちが繰り返し教えるのを聞いて、偉大なダンマ、素晴らしいダンマを、それまでより知り尽くすことができました。
(283)
雨安居の月の十五日、望月の菩薩日(太陰暦の毎月八日、十五、二十三日、三十日のこと)の夜、世尊は月明かり下で、比丘たちに囲まれて座しておられました。その時世尊は鎮座している比丘たちを見渡して、次のように話し始められました。
「比丘のみんなさん、私はこの道を確信します。比丘のみなさん、私はこの道を確信する人です。だから比丘のみなさん、まだ到達していないものに到達するため、まだ達成していないことを達成するため、まだ明らかに見えないものを明らかにするため、全員が、更に一層努力することを考えなさい。私はここサーヴァディーの、紅蓮の花咲く所で、雨季が終る四月まで待っています」。
田舎にいる比丘たちは、世尊がサーヴァディーの紅蓮の花咲く所で、雨季が終わるまで四ヶ月間お待ちになるという知らせを聞いて、世尊に拝謁するために続々とサーヴァディーへ押し寄せてきました。
更にすべての長老である比丘たちは、非常にたくさんの比丘たちに教えを説き、十人の比丘に教える長老たちもいれば、二十人の比丘に説法する長老たちもい、三十人の比丘に繰り返し教えを説く長老たちもいれば、四十人の比丘に教えを説く長老たちもいました。長老の教えを聞いた新参の比丘たちは、それらの偉大なダンマ、素晴らしいダンマを、それまでより知り尽くすことができました。
(284)
雨季も終わりの四月目の十五日、望月の菩薩日の夜、世尊は月明かりの下、紅蓮の花咲く所で、比丘たちに囲まれて座しておられました。世尊は静まっている比丘たちに視線を投げ、次のように話し始められました。
「比丘のみなさん。この教団はくだらないものではありません。比丘のみなさん。この教団はめちゃくちゃではありません。比丘のみなさん。この教団は純潔なダンマを維持しています。比丘のみなさん。この比丘サンガは、迎えられるにふさわしく、尊敬の言葉を受けるにふさわしく、布施を受けるにふさわしく、合掌して拝まれるにふさわしい教団員であり、世界の徳の田であり、これに優る徳の田はありません。
比丘のみなさん。この比丘サンガは、人々が僅かな布施をしても大きな結果を受け取り、大きな布施は更に大きな結果を受け取ることができる教団員です。
比丘のみなさん。この比丘サンガは世界でも珍しい教団員です。
比丘のみなさん。この比丘サンガは、人々が食べ物を持って、連れ立って会いに来る価値のある教団員です。
(285)
比丘のみなさん。罪悪を消し去り、終わった梵行があり、成すべきことを成し遂げ、重荷を下ろし、有のサンニョージャナ(十種類の煩悩。十結)が無くなり、正しく知ることで解脱して阿羅漢になった比丘もこの集団にいます。比丘のみなさん。この比丘サンガにはそういう比丘もいます。
比丘のみなさん。サンニョージャナの初めの五項目を消滅させてアナーガミー(不還)になり、やがて化生し、その有で完全に消滅し、その世界から再び戻ってくることのない比丘が、この比丘サンガにいます。比丘のみなさん。この比丘サンガには、そういう比丘もいます。
比丘のみなさん。欲と怒りと愚かさを軽減させて、サンニョージャナの三項目をなくし、サキターガミ(一来)になり、この世界にもう一度だけ戻って来て苦を消滅させることができる比丘が、この比丘サンガにいます。この比丘には、そういう比丘もいます。
比丘のみなさん。サンニョージャナの三つがなくなり、落ちて普通の人に戻ることはなく、将来確実に悟りに至るソターパンナ(預流)もこの比丘サンガにいます。比丘のみなさん。この比丘サンガにはそういう比丘もいます。
比丘のみなさん。常に四念処に励む努力をする比丘も、この比丘サンガにいます。比丘のみなさん。そのような比丘もこの比丘サンガにいます。
(286)
比丘のみなさん。四正勤に励む努力をする比丘、四如意足に励む努力をする比丘、五根に励む努力をする比丘、五力に励む努力をする比丘、七覚支に励む努力をする比丘、八正道に励む努力をする比丘、悲を念じる努力をする比丘、慈を念じる努力をする比丘、喜を念じる努力をする比丘、捨を念じる努力をする比丘、不浄を念じる努力をする比丘、常に無常を見ることに励む努力をする比丘もこの比丘サンガにいます。
比丘のみなさん。このような比丘もこの比丘サンガにいます。
(287)
比丘のみなさん。常にアーナーパーナサティに励む努力をする比丘もこの比丘サンガにいます。
比丘のみなさん。アーナーパーナサティに励めば、当然偉大な成果、偉大な功徳があります。
比丘のみなさん。アーナーパーナサティに励めば、当然四念処も完璧になります。
比丘のみなさん。四念処に励めば、当然七覚支も完璧になります。
比丘のみなさん。七覚支に励めば、当然明を生じ、解脱も完璧になります。
(288)
比丘のみなさん。ではどのようにアーナーパーナサティに励めば、偉大な成果、偉大な功徳が得られるでしょうか。
比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、森へ行っても、木の根元へ行っても、廃屋へ行っても、結跏趺坐し、体を真っ直ぐに立ててサティを安定させ、その比丘は息を吐く時サティがあり、息を吸う時サティがあります。その比丘は、
1) 息を長く吐いた時、「長く息を吐いた」と余すところなく自覚し、長く息を吸った時は、「長く息を吸った」と全身を自覚し、
2) 短く息を吐いた時、「短く息を吐いた」と余すところなく自覚し、短く息を吸った時は、「短く息を吸った」と全身を自覚し、
3) 当然「すべての体はこのように息を吐いている」と知ることを課題とし、当然「すべての体はこのように息を吸っている」と知ることを課題にし、
4) 息を吐いて「当然カーヤサンカーラ(体を作るもの。呼吸)を静めること」を課題とし、息を吸って「当然カーヤサンカーラ(呼吸)を静めること」を課題とします。(四半分の終り)
5) 息を吐いて、当然同時に、喜悦を知ることを課題とし、息を吸って、当然同時に喜悦を知ることを課題とし、
6) 息を吐いて、当然同時に幸福を知ることを課題とし、息を吸って、当然同時に幸福を知ることを課題とし、
7) 息を吐いて、当然同時にチッタサンカーラ(心を作るもの。受と想)を知ることを課題とし、息を吸って、当然同時にチッタサンカーラを知ることを課題とし、
8) 息を吐いて、当然同時にチッタサンカーラを静めることを課題とし、息を吸って、当然同時にチッタサンカーラを静めることを課題とします。(半分の終り)
9) 息を吐いて、当然同時に心を知ることを課題とし、息を吸って、当然当然心を知ることを課題とし、
10) 息を吐いて、当然同時に心を最高にに喜ばすことを課題とし、息を吸って、当然同時に心を最高に喜ばすことを課題とし、
11) 息を吐いて、当然同時に心を安定させることを課題とし、息を吸って、当然同時に心を安定させることを課題とし、
12) 息を吐いて、当然同時に心を解放することを課題とし、息を吸って、当然同時に心を解放することを課題とします。(四分の三の終り)
13) 息を吐いて、当然常に無常をありのままに見ることを課題とし、息を吸って、当然常に無常を見ることを課題とし、
14) 息を吐いて、当然常に薄れる(離欲。ヴィラーガ)のを、ありのままに見ることを課題とし、息を吸って、当然常に薄れるのを見ることを課題とし、
15) 息を吐いて、当然常に滅尽(ニローダ)をありのままに見ることを課題とし、息を吸って、当然常に滅を見ることを課題とし、
16) 息を吐いて、当然常に返却(自分の物と執着していた自然の物を、自然に返却すること。パティニサッカ)をありのままに見ることを課題とし、息を吸って、当然常に返却が見えることを課題とします。(全部の終り)
比丘のみなさん。アーナーパーナサティに励めば、当然このように偉大な成果、偉大な功徳があります。
(289)
比丘のみなさん。どのようにアーナーパーナサティに励めば、四念処が完璧になるでしょうか。
比丘のみなさん。いつでも比丘は
(1)長く息を吐いた時、「長く息を吐いた」と全身を自覚し、長く息を吸った時、「長く息を吸った」と全身を自覚することであれ、
(2)短く息を吐いた時、私は短く息を吐いたと全身を自覚し、短く息を吸った時、私は短く息を吸ったと全身を自覚することであれ、
(3)息を吐き、息を吸って、当然すべての体を知ることを課題とすることであれ、
(4)息を吐き、息を吸って、当然カーヤサンカーラ(身行=呼吸)を静めることを課題とすることであれ、比丘のみなさん、その時、常に体のすべてが見える人と呼ばれる比丘は、煩悩を焼く努力があり、自覚があり、サティがあり、世界の貪りと憂いを取り出すことができます。
比丘のみなさん、私は吐く息と吸う息は、すべての体の一つだと言います。比丘のみなさん、この理由により、その比丘はその時、常にすべての体が見える人と呼ばれ、煩悩を焼き払う努力があり、自覚がありサティがあり、貪りと憂いを出すことができます。
比丘のみなさん、
(5)息を吐き、息を吸って、当然同時に喜悦を知ることを課題とすることであれ、
(6)息を吐き、息を吸って、当然同時に幸福を知ることを課題とすることであれ、
(7)息を吐き、息を吸って、当然同時にチッタサンカーラ(受と想)を知ることを課題にすることであれ、
(8)息を吐き、息を吸って、当然同時にチッタサンカーラ(受と想)を静めることを課題にすることであれ、
比丘のみなさん、その時「すべての受の中の受が見える人」と呼ばれる比丘は、煩悩を焼き払う努力があり、自覚がありサティがあり、世界の貪りと憂いを出すことができます。
比丘のみなさん。息を吐き息を吸うことで心を良い状態にすることを、私はすべての受の中の一つの受と言います。比丘のみなさん、以上の理由により、その比丘は、「すべての受の中の受を見る人」と呼ばれ、その時煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の貪りと憂いを出すことができます。
比丘のみなさん、いつでも比丘が
(9)息を吐き、息を吸って、当然同時に心を知るのを課題にすることであれ、
(10)息を吐き、息を吸って、当然同時に心を非常に喜ばすのを課題にすることであれ、
(11)息を吐き、息を吸って、当然同時に心を安定させるのを課題にすることであれ、
(12)息を吐き、息を吸って、当然同時に心を解き放すのを課題とすることであれ、比丘のみなさん、「常に心の中の心が見える比丘」と呼ばれる比丘は、その時煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の貪りと憂いを出すことができます。
比丘のみなさん。いつでも比丘が
(13)当然、息を吐き、息を吸って、常に無常をありのままに見る人であることを課題にすることであれ、
(14)当然、息を吐き、息を吸って、薄れること(離欲)をありのままに見る人であることを課題にすることであれ、
(15)当然、息を吐き、息を吸って、滅尽をありのままに見る人であることを課題にすることであれ、
(16)当然、息を吐き、息を吸って、返却をありのままに見る人であるのを課題にすることであれ、比丘のみなさん。「常にダンマの中のダンマが見える比丘」と呼ばれる比丘は、その時煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の貪りと憂いを出すことができます。
一つだけに注目できる比丘は、智慧で自分の喜びと憂いを捨てられるからです。比丘のみなさん。だからこれは、常にダンマの中のダンマが見える比丘と呼ばれる比丘は、当然、その時煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の貪りと憂いを出すことができます。
比丘のみなさん、その比丘は以上の理由で「心の中を見る人」と呼ばれ、その時煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の貪りと憂いを出すことができます。
比丘のみなさん。比丘がこのように励んでたくさんしたアーナーパーナサティは、当然四念処を完璧にします。
(290)
比丘のみなさん。それではどう四念処に励んでたくさんすれば、七覚支が完璧になるでしょうか。
比丘のみなさん。その時常に体の中の体が見える比丘も、常に受の中の受が見える比丘も、常に心の中の心が見える比丘も、常にダンマの中のダンマが見える比丘も、全員煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の貪りと憂いを出してしまうことができ、その時比丘が維持しているサティは、忘れない自然です。
比丘のみなさん。その時比丘が維持しているサティが忘れない自然である時はいつでも、その時七覚支のサティも、その比丘に現れているということで、その時その比丘は、当然七覚支に励む努力があると言われ、その時七覚支のサティは揃ったと言われます。その比丘は、そのようなサティがあるればいつでも、当然智慧でダンマを選び、当然熟慮します。
比丘のみなさん。比丘にそのようなサティがあり、ダンマを選んで熟慮する時はいつでも、七覚支の択法もその比丘は始めているということです。比丘が七覚支に励んでいると言われる時、その比丘の七覚支の択法が成熟したと言われ、その比丘が智慧でそのダンマを選んで熟慮している時、弛まぬ努力は、その比丘が始めているダンマと言われます。
比丘のみなさん。智慧でそのダンマを選んで熟慮している比丘が、弛まぬ努力をする時、その時その比丘は、七覚支の精進も始めているということです。その時比丘は、当然七覚支の精進に励んでいると言われます。その時その比丘の七覚支の精進は成熟したと言われ、その比丘が弛まぬ努力を始めている時、餌のない喜悦が生じます。
比丘のみなさん。努力を始めている比丘に餌のない喜悦が生じた時、その時その比丘は七覚支の喜悦も始めているということです。その時比丘は、当然七覚支の喜悦に励んでいると言われ、その比丘の七覚支の喜悦は成熟していると言われます。その比丘の心に喜悦がある時、体も静まり、心も静まります。
比丘のみなさん。喜悦がある比丘の心と体が静まっている時、七覚支の軽安(抑制されて静まること)も、その比丘は始めているということです。その比丘が当然七覚支の軽安に励んでいると言われる時、その比丘の七覚支の軽安は成熟してると言われます。その比丘が静まって幸福な時、当然心も安定します。
比丘のみなさん。体が静まっている比丘が幸福で、当然心が安定している時、七覚支のサマーディ(三昧)も、その比丘は始めているということです。その比丘が七覚支のサマーディに励んでいると言われる時、その比丘の七覚支のサマーディは成熟していると言われます。その比丘は、当然、そのように安定した心を見つめています。
比丘のみなさん。その比丘がそのように安定した心を見つめている時、その比丘は七覚支の捨を始めているということです。その時比丘は、当然七覚支の捨に励んでいると言われ、その時比丘の七覚支の捨は成熟していると言われます。
比丘のみなさん。このように四念処に励んでたくさんすれば、当然七覚支も完璧になります。
(291)
比丘のみなさん。七覚支にどう励めば、明と解脱が完璧になるでしょうか。
比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、ヴィムッティ(滅)に依存して、ヴォッサッガ(返却)に傾いていくために七覚支のサティに励む努力をし、
当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して、返却に傾いていくために七覚支の精進に励む努力をし、
当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して、返却に傾いていくために七覚支の喜悦に励む努力をし、
当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して、返却に傾いていくために七覚支の軽安に励む努力をし、
当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して、返却に傾いていくために七覚支のサマーディに励む努力をし、
当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して、返却に傾いていくために七覚支の捨に励む努力をします。
比丘のみなさん。このように七覚支に励めば、当然明と解脱を完璧にすることができます。
世尊がこのように説明なさると、すべての比丘は世尊の言葉に聞き惚れ、深く感銘しました。
参考 この経の詳しい解説
http://buddhadasa.hahaue.com/anapana/kunren.html
http://buddhadasa.hahaue.com/anapana/saisyuubi.html
http://buddhadasa.hahaue.com/anapana/sizenhou.html
http://buddhadasa.hahaue.com/anapana/teigi.html
http://buddhadasa.hahaue.com/anapana/kaisetu.html
http://buddhadasa.hahaue.com/anapana/samaati.html
http://buddhadasa.hahaue.com/anapana/kyou.html
http://buddhadasa.hahaue.com/anapana/sizenno.html
http://buddhadasa.hahaue.com/anapana/gihouron.html
http:/buddhadasa.hahaue.com/anapana/toutatu.html
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