尖った石 刺のある言葉

 

山の上の鋭く尖った石も

沢を流れ下っていく間に

あの岩に当たり この岩にぶつかり

右に転げ 左に転げ

最後には丸くすべすべした砂利になります

心の実践も同じで

絶えず感情とぶつかることで

智慧が生じます

 

この世で最も不思議なことは

この世に生まれた人は一人残らず死んでいるのに

今日自分が死ぬと思う人は一人もいないことです

これは実に不思議なことです

 

 

 

 

  

 

1994年雨安居

世界で一番不思議なことは何か。ある人がインドの哲学者にした質問です。私たちは今何と答えたら良いか分かりません。いろいろなテクノロジーについて話すかも知れませんし、多くの人は物質について語るでしょう。

仏教に興味や信仰のある人は、聖人の奇跡を話すかもしれません。しかしインドの哲学者は、世界で一番不思議なことは、この世に生まれた人はすべて死んだことがあるのに、誰一人、自分が今日死ぬと考える人がいないこと、これが不思議だと答えました。

もし一度も人が死ぬのを見たことがなく、人が死んだ知らせを聞いたこともなく、天人や梵天のように「死」という言葉を聞いたことがなければ当然です。知らないことを恐れたり、考えたりするのは、たぶん難しいでしょう。しかし人間は「死」の直中にいます。この世に生まれてきた人は一人残らず必ず死に、誰もこの自然の法則の例外はいません。

ある人は両親や祖父母、友達などを亡くし、ある人は子供や孫を亡くしたかもしれません。たくさんあり、テレビや新聞でも死人を目にします。それなのにどうして、自分はそうならないと思うのでしょうか。いつかは死ななければならないと認めても、これをある程度認めたと言いますが、詳しく本気で自分について考えると「いつかは死ぬに決まっているが今日ではない」という気持ちになるようです。

ここが重要なところです。私たちは、今日は死なないと思います。考えたり意識したりしていなくても、心の中にはいつもあります。「今日はまだ死なないよ。もしかすると明日かも知れないし、明後日、あるいは来月、来年かもしれないけど、でも今日ではない」。これが油断です。

ブッダは、私たちに、すべての煩悩の真実の姿を見せるために、煩悩は心を憂鬱にするものと公表しました。その煩悩は私たちではなく、私たちのものでもありません。だから油断をすれば怖いです。

心や人生を守るいろんな善は、罪を恥じること、罪を恐れること、サティと自覚もあり、もっとも重要なのは、油断しないことです。確実に死ななければならないと知っているのに、今日はまだ死なないと思っていること。その後に続く理解や誤解は「まだ時間がある」です。自分がしたことがある悪や不徳の数々も、まだやり直す時間がある。まだやっていない善も、これからぼちぼちやって行く時間がある。でも今日はまだしないかも知れない。まだ都合が悪い。まだ支障がある。まだ難しい。まだいろいろ差し障りがある。しかし「することはする」と言います。するけれど今日ではありません。

これが悪いのです。悪がどのように生まれのるかが分かります。悪は、自分はまだ死なないと考えることから生じます。まだ時間があると思うから、何をするにも不注意でいい加減になります。細心の注意を払わず、あまり我慢せず、大したことじゃない、考えすぎない方がいい、ノイローゼーになるから放っておこう、と考えます。こういう「手放すこと」は愚かな放置で、聖人の「放下」ではありません。

聖人の放下は理性や智慧、人生と世界の真実の理解から生じます。真面目に考えない放置の結果はどうなるか。考えないほうがいいです。それは油断ですから。

正しい手放すことは行為の結果です。世俗的なことでもタンマの実践でも、何をするにも自分の行動は、いろんな因と縁の影響を受けると良く知っています。ほとんどは自分でその結果をコントロールできないので、善意や鋭い智慧で何かをしても、期待通りに成功する保証はありません。

だからみなさん、理性と智慧で吟味した正しい原因を作る決意をし、努力しなければなりません。強い心で挫けることなく、しかし自分の行為の結果を期待しすぎません。自分の責任は放棄しないで百パーセント負いますが、自然のこと、他人のことは手放します。そうすれば苦はありません。

何をするにもタンマに、自分の実践に、煩悩を磨き落とす実践にし、自分の生活や身の回り、社会、そして環境に対して徳や善を積みます。成すべきことを成している喜びと誇りをもって、ずっと続けます。成すべきことを成すことがタンマだからです。

何をするにもあまり決意せず、サティに欠け、十分に配慮しないで形だけ良い格好をするためにしても結果はあります。手抜かりだらけのいい加減な気持ちで何かをすると、大抵は自分と他人のどちらにも害になる結果があります。それで自分で自分を慰めて「大丈夫、悪気でしたんじゃないんだから。気にしない気にしない。放っておきなよ」。

こういう考えは正しくなく、タンマではありません。私たちは注意深く、誠実でなければならないので、タンマのいろいろな項目を引用して自分を慰め、自分の悪を隠し、悪いものを良いと、良くないものを良いと、あるいはとても害のあるものを害が少ないと、害の少ないものをまったく害がないと、自分を騙さないでください。これは自分に対して罪のカンマです。

だから何をしても自分で責任を取らなければなりません。いつか死ぬ、そのいつかは今日だと、真実を自覚しなければならないと常に考えてください。今日はまだ死なないと考えている時間はありません。それは煩悩であり、間違った考えです。人間の命は非常に軽く脆いものです。壊れやすく、水の泡のようにちっぽけで、安定していません。だからこそ価値があります。体と言葉と心を尊重して大切に護らなければなりません。

体を尊重するとはどういうことでしょうか。身体に対して、サンカーラ(行)に対して正しく行動することで、体を苦しめません。食べるには適量を食べます。感情を満足させるために食べるのではなく、味で食べるものでもなく、どんな食物が身体に良いか、どんな栄養があるか、どんな食物が体に悪いかを勉強し、社会の流行に惑わされず、企業の宣伝に惑わされず、その食品が農薬を大量に使っているか、どの食品は添加物を使用しているかを知って、危険な食品は美味しくても食べません。食べれば自分の命を尊重しないこと、自分の身体を尊重しないことだからです。

身体は貪りや怒りや迷いに勝つために、煩悩の支配から自由になり、人間が到達するべき最も崇高なものに到達するために、完璧な人生、意味のある人生にするために、私たちが使わなければならない道具です。だから自分の身体を尊重しなければなりません。

栄養のあるものを、多過ぎず少な過ぎずちょうど良い分量だけ、規則的に、食べる意味や目的を良く考えながら食べ、食を管理する智慧があり、眠りも多過ぎず少な過ぎず、身体が要求するだけ眠ります。目覚めた時にイライラして元気がないのは眠りすぎです。夢をたくさん見るのも眠り過ぎです。眠る時間が適当な人はあまり夢を見ません。適当に眠り、適量を食べ、運動も適度にする。これを身体を尊重すると言います。自分自身に対して正しく行動することで自分自身を尊重します。

言葉を尊重すること。善人の言葉は人間の宝であり、ブッダは「不死」、死なないと言われています。真実を言うことはこの上なく素晴らしいことです。

昔食べることに夢中になっている王様が、お触れを出して世界一美味しい料理の競技会を開くと、その中に非常に王様の口に合う料理人がいたので、王宮の料理人にしました。毎日美味しい料理ばかり食べていると王様は飽きてしまい、もっと美味しい物を探さなければならなくなりました。料理人はどうしたら良いかと考え、この人はタンマの実践者だったので、牛の舌をスープにして出し「この舌は世界一素晴らしいものです。後日世界一悪いものを召し上がっていただきます」と言って去りました。

そして別の日に牛の舌を持って来て「これが世界一悪いものです」と言いました。王様が理由を聞くと、料理人は王様にタンマを教えました。「この舌は良いことに使えば世界一良いものですが、悪いことに使って嘘を言ったり、告げ口や乱暴なことや無駄口を言えば、これこそ世界一悪いものです。ですから舌の利益を知ってご自分の舌を尊重していただき、ご自分の言葉を尊重していただくために舌料理を差し上げました」。

良い言葉、つまり本当のことだけ、役に立つことだけを、穏やかに、時と場所をわきまえて、聞く人に合った言葉を選んで聞いて分かるように話すことを知ること、これを言葉を尊重すると言います。

自分の心を尊重するには、心が闇に落ちないよう、欲望や煩悩で汚れないよう、悪友たちと群れていろんな悪と交わらないようにすることで尊重し、人間には潜在能力があり、いつも取り乱して不機嫌でいる必要も、いつも煩悩に苦しめられる必要もないと確信してください。それは自分次第です。星でも運命でも、何か遠くにあるもののせいでもなく、私たち次第です。自分の心を尊重するなら、心を闇にするものを捨てる努力をしなければなりません。

部屋があれば、寝室でも僧房でも、自分の住まいを尊重するなら毎日掃除をしなければならないように、心は私たちの住まいなので、毎日掃除をしなければなりません。心を善に慣らし、何としても静寂に至るよう訓練する努力をしなければなりません。

そうすれば内部の純潔で澄み切った味を味わうことが、「喜悦」あるいは欲望や物質に左右されない幸福がどんなに不思議か、どんなに美しいのかを知ることができます。私たちは知る権利があります。人間に生まれて、聖人の正法を聞いて、少しは聖果に到達するために修行する権利があります。煩悩の奴隷にならないだけでもまだ良いです。恥が生じ、恐れが生じ、煩悩と係わりたくなくなるだけでも、良いです。

実践者とはどのよう、静かさはどのようか、智慧があるとはどのようか、自分自身であることにサティがあること、智慧とサティで目・耳・鼻・舌・体を管理することの利益を見、恩恵を見ます

これこそが私たちが関心を持たなければならないことです。どうしたら自分の心を鎮められるか。どうしたら智慧のある人になれるか。どうしたら古い習慣や古い煩悩に勝てるか。私たちは何世か、何生か分からないほど煩悩と一緒にいて、それで何を得たでしょうか。

ブッダは、私たちが流した涙の量は世界の四大洋を合わせた水量より多いと言われました。誰でも何百リットル、何千リットルの涙を流したことがあるのに、私たちは憶えていないので恐れません。苦の怖さを知りません。「そうすると後で苦労をするから止めなさい」とお坊さんが教えても、我慢できずにやってしまいます。そしてその結果どうなるでしょう。泣きます。お寺へ来て、お坊さんに聖水を掛けてください、厄払いの祈祷をしてくださいと、あれこれお願いばかりです。しかししないよう、止めるよう教えた時には聞きません。今はとりあえず地獄に落ちるに任せて、後でゆっくりタンマを学ぶ。こういうのを「油断」と言います。

どうしてこうなるのでしょう。それは、まだ自分には時間がたくさんあると思うからです。「まだ自分は若い。まだやり残していることが一杯あるから、だから私はまだ死ねない」。

私たちは愚かな人でいたいのか、賢人のようでいたいのか選ばなければなりません。自分次第で、自分で選ぶことができます。賢人のようでいたいなら、体と言葉と心を尊重し、煩悩を苦しめ、欲望の流れに抵抗して、自分自身の人生の本質に達しなければなりません。煩悩の言うなりにならず、煩悩の考えに乗らないでください。煩悩につられて想像を膨らませている時も、幸福かも知れませんが、その幸福には毒があり、幸福を味わっている時も、自分では気づかず、苦の元を掻き集め塗り重ねているので、間接的な自殺行為です。

ですから人生には価値があること、命は脆いものであることを忘れないでください。

 


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