ちょうど良いという知識のある心と

          ちょうどいい心は

          人間同朋のために大いに働くことができる心

          世界の偉大な利益になる心

          ちょうど良い心は

          常に与える心

          与えることで幸福な心

 

自分を慈しむ

1990年2月13日

 今日みなさんは、混乱した社会で混乱せずに生きるために、利己的な人々の中で利己的でなく生きるために、ますます物質一辺倒に傾いていく社会の中で、解脱に傾いていく人でいるために、意味の無いなものに夢中になることの害を見ることで正しく生きる知識を得て理解するために、時間を犠牲にしてタンマを聞くためにお集まりになりました。

 世界には様々な種類の宗教があり、中東で生まれた宗教について言えば、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などがありますが、これらの宗教は信仰の系統とまとめることができます。良い信徒であるかどうかは、それぞれの宗教の教えや教典への信仰の強さや深さで決まり、聖書を堅く信じていれば敬虔なキリスト教徒と見なされ、コーランを堅く信仰していれば敬虔なイスラム教徒と見なされ、教えに対する信仰と他の考え方に惑わされない強さがあれば、キリスト教徒、イスラム教徒、あるいはユダヤ教徒と呼ばれます。

 しかしこれらの宗教はよく問題が起こります。彼ら自身が信じているものをまだ見たことがなく、まだ知っていないからです。信仰はまだ知らない間だけ役目があり、良く知ってしまったら信仰の役目は終わってしまうからです。

 仏教は信仰を重視する、あるいは固い信仰や揺るがない信仰を実践の目的にする宗教ではありません。しかし私たちは、信仰は忍耐強くし、障害と闘う勤勉さを与え、ある種の煩悩から解き放つことができるものと見ます。しかし信仰はほんの一段階であって、実践の目的ではありません。信仰は行蘊(考え)であり、原因によって生じるものであり、最も崇高なものでも、不変なものでもありません。

 信仰の益も認めますが、同時に害も知っています。信仰を自分の心の利益ために利用することができますが、私たちが本当に目指しているのは信仰ではなく、私たちが本当に目指していることは自由です。

 ブッダの譬えて「海の水はどこの海も同じ味」と言っておられます。つまりどこから汲んできても海水は塩辛いです。海岸だろうと大洋の真ん中だろうと、海の水はみんな同じように塩辛いです。ブッダの教えも同じで、八万四千項の教えのどれをとっても同じ味、つまり解脱の味、涅槃の味がします。

 ブッダの教えでの実践は、布施や持戒の段階でも、パーワナーの段階でも、常にいろいろな物より上にいること、執着を緩めること、そして解脱を目指さなければなりません。

 身近な人との関係や外部の世界が、束縛や締めつけや自由の断絶になり、それによって感情の奴隷になっていると感じれば、それは障害であり、タンマの面の発展を妨害するものと知ることができます。

 タンマは「衆生を苦より解脱させる」と言われる引き抜くもので、私たちを混乱から引き抜きます。とは言っても、タンマによって引き抜かれる人は、智慧が必要です。タンマは既にあります。私たちの周囲のどこにも、いつでもありますが、たちが認めないだけです。だから苦は認めない話です。

 私たちは心を開いて刻々と心に現れてくる真実を受け入れ、そこから学ばなければなりません。しかし心を開いて真実を受け入れ、タンマを認めることは、かなり怖いです。だから大切な徳の一つは勇敢なことで、そしてその勇敢は持戒から生まれます。戒を守っている人は勇敢で幸福で、信念があります。

 今日は自分自身を傷つけるようなことは何も言っていないし、何もしていない。先生や他人に非難されるようなことは何も言っていないと自分に自信があれば勇敢になれます。そして心を開いて何でも受け入れることができます。自分の自信になるものや後押しするものばかりでなく、知りたくないことを知る覚悟もあります。

 実践は平坦ではなく、初めから快適な訳でもありません。自分自身について学ぶと、良いことに気付くことも事実ですが、良くないことに出合う覚悟も必要で、道徳に裏付けされた勇気があれば、それほど苦を生じさせないで、自分の悪いことと向き会うことができます。「捨」(動じないこと)は、もう一つのウィハーラダンマです。

 そのような時忍耐力をすると、悪い習性となって現れます。あるいは心が静かな時自分自身について学ぶと、以前には押さえつけて認めようとしなかった良くないものが、性質や煩悩として姿を現してきます。しかし怖れません。「煩悩は自分だ」とか、「自分のものだ」と勘違いしません。

 つまり実践を始める前には、自分の中に生じる煩悩を無理やり押さえつけ、悪いものと認めませんでした。しかし実践をすることは考えること、自分の罪について考えることです。ブッダが非理作意と言われているように、心が煩悩を作り出せば憂鬱になって後悔し、あるいは実践をして煩悩が増えてしまった、心が憂鬱になってしまったと感じるかも知れませんが、本当はそうではありません。

 今までも存在していたけれど、見もせず、観察もせず、考えもしなかったのを、今は見ます。「何かが生じてくるのは当たり前。生じたものが必ず消滅するのも当たり前。煩悩はずっとあるものではなく、心に潜んでいるものでもない。原因があって生じてくるもの、そして自然のものだ」と正しい見解で見ます。

 だから煩悩が生じても頓着しないで、無渇愛、つまり攻撃したい、自分の煩悩から逃げたい、会いたくない、知りたくない、見たくないという気持ちを生じさせないで、平然としています煩。「悩は外部のもので、元々私たちのものではない。そして煩悩は私たちに何も手出しはできない」と知っているからです。

 つまり煩悩に引き回されたとか、どこかに連れて行かれたとか、一つの言い回しとして言うことはありますが、本当は煩悩が私たちをどうこうするのではなく、むしろ私たちが煩悩をどうこうしています。

 だから拠り所であるブッダとプラタムと僧がいて、静かさを喜ぶ気持ちがあり、その人は不注意に対して怖れと恥があれば、煩悩は心を憂鬱にするものと見ることができ、そして煩悩が餌によって存在することも見えます。煩悩に餌を与えれば煩悩は長い間存在して、私たちと私たちの周囲の人を苦しめますが、喜びや悲しみという名の餌を与えなければ、煩悩はやがて痩せ細って心から消えます。

 煩悩は喜びや悲しみから支援を受けています。だから煩悩を憎むのも正しくありません。煩悩に腹を立てるのも駄目ですし、イライラしてもいけません。煩悩を育て、太らせてしまうからです。煩悩も餌を食べるのが好きです。私たちは安定した静かな心がなければなりません。そして心の静かさが安定すると妙な気持ちになり、喜びや怒りの感情に飽き飽きした気分になります。喜んだり悲しんだりするのが億劫なような気分で、何も欲しくなく、何にもなりたくもなく、消滅させたくもなく、何にも興味がなくなれば、いろんなことを学んで理解するチャンスです。

 しかし喜びや怒りの感情が生じてしまったら資格はありません。喜びや悲しみの感情は、正しい判断を歪め、情報の判断が狂わせてしまうので、喜びが生じた所で仏教でなくなり、その時は異教徒になってしまいます。つまり理性が心を管理していない時は、仏教が失われている時です。だからみなさん、サティのある人であることに尊敬と愛と信頼の気持ちをもち、サティある人になる決意をし、サティを維持し、目・耳・鼻・舌・体・心をサティから離さないで、善や注意深いことと友達でいて、感情の言いなりにならない人、感情に対して忍耐強い人になってください。

 すべてを見る勇気をもってください。すべてはドラマの、輪廻のドラマの中の出来事で、心の問題ではありません。それは心の話ではなく外部のもので、それに溺れなければ、外部のものが私たちをどうこうすることはできません。

 煩悩を見る時、自分自身に腹を立てないように努力し、軽蔑したり、叱ったりしないでください。自分自身を慈しまなければなりません。自分を慈しむとは、悪くなるのを放置することや、善の敵をのさばらせるという意味ではなく、慈しみとは、煩悩があるからといって自分自身を嫌わないことです。凡人の心は、誰でも自由に出入りできる扉を開け放ってある空部屋のようで、善いものも出入りできるし悪いものもで出入りできます。常に善いものと悪いものがいつでも出入りしているので、私たちは不確実な人と言います。

 預流は、部屋に入る人をチェックする守衛が扉の前にいるので、そこが確実であり、不潔なものは入る資格がありません。こういう状態を、涅槃の流れに入ったと言い、あと七回以内生まれ変わるうちに確実に涅槃に達する人です。

 しかし現在の私たちの心には、守衛がいません。だから悪いものが簡単に入って来るので、いつ見ても自分の中に悪いものが見えます。これは因縁に従っているだけなので当たり前と考えるべきです。しかしこれからはもっと注意深くするよう努力しようと決意します。

 ブッダの視線で自分を見るように努力します。これはどういう意味でしょうか。仮に私たちが二五百年前に戻って、ブッダに拝謁する機会があったと仮定し、膝まづいて拝んだ後、自分の罪をすべて告白したら、自分の生涯で一番恥ずかしいこと、とても言葉にできないようなことをすべて話したら、ブッダはどうお感じになるでしょう。ブッダは怒るでしょうか。軽蔑するでしょうか。私たちを嫌うでしょうか。そうではありません。ブッダがそのような気持ちになることはありません。ブッダの心の中にあるのは智慧と、悲と、純潔だけです。

 自分自身を見る努力をし、自分の罪や悪をブッダが見るように見てください。ブッダの視線で自分を見て、そして自分を許します。自分自身を許せなければ、他人を許すことはできません。怒りっぽくてよく腹を立てる人だったら、他人が自分を怒らせているものを観察してみてください。私たちを怒らさせているものはたいてい煩悩です。自分の中にあるのを見たことがあり、自分でもまだ捨てられない煩悩です。自分の煩悩を他人の行動の中に見ると、心が何かに叩かれたように、突き刺されたように感じます。それは否応なく自分自身の短所を思い出させるからです。つまりまだ認めず、まだ実践を始めず、自分の悪を抑さえつけています。これは良くありません。

 私たちは中道を求めます。中道には、悪いものを抑圧し、汚いものを排出して他人に迷惑をかけることはありません。それらの汚いもの悪いものがどう生じてどう消えて行くか、どんな縁に依存して存在しているのか観察して学びます。自分自身を知るためにそれらを知るのは私たちの義務と言います。

 だから仏教の話は自分自身の話で、そして捨てること、満たすことは、私たちを信仰のある人にするために心にあるもの以外の何でもありません。信仰とは、いつでもやり直すことです。まったく失敗をしないこと、何も障害に遭遇しないことなどあり得ないからです。

 タンマの実践はとても大変なことです。しかし道は快適さより困難からの方が生じやすいです。快適な時はつい油断してしまいがちですが、煩悩と闘っている時は実践が進歩する時です。私たちは常に煩悩と対峙しなければならないので、自分の煩悩の上に寝そべっていません。これが正しい実践です。

 実践には抵抗がなければなりません。最近は何か障害を解決するために出家する人が多いと悪口を言われます。本当の僧、本当の実践者は障害を解決するために出家するのではなく、自分を磨くため、煩悩を磨き落とすために出家します。実践には妨害や抵抗がなければなりません。

 だから行き詰まったように感じても、転んでも這っても心配はありません。「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」という言葉のように、実践は苦しい、痛みや困難がなくてはならないと教えています。

 八正道は苦によって生じますが、私たちの道はブッダの八正道というより安直な道、泥だらけの道になります。だから抵抗があるようにしてください。しかし適度な抵抗にし、つまり抵抗に関して自分の基準を知ることです。多すぎても良くありません。ストレスになります。しかし適度な抵抗がなければなりません。そして進んで行きます。歩いて行きます。歩けなくても構いません。這って行きます。しかし後退はしないで、後戻り先頭に立たないでください。いつでも緩めるため、犠牲にするための努力がある実践でなければなりません。

 タンマのすべての項目を、日常生活に応用する努をしなければなりません。一つだけ注意しなければならないのは、自我の話を差別することです。自我について三蔵で学ぶと難しく聞こえますが、いつでも現れている当たり前のことです。つまり自我の感覚、「私」「私のもの」という感覚は最高に悪く、人生でもっとも凶悪なものです。

 利己主義は自分があるという理解から生じ、自分はないと考える人に利己主義は生じません。しかし差別することはかなり下品なことで、そして非常に害があります。

 ある在家から聞いた話ですが、その人はヤソートーン県に住んでいて、両親はスイカを栽培しています。大きくて綺麗なスイカが取れるように、そして良く売れるように、大量の農薬を使い、その人が食べようと思ってスイカを獲って来ると、ちょうどその時父親が家から出るところで、大慌てで止めようと走って来ました。

「だめだよ、だめ! だめ! そりゃあ食えるスイカじゃねえ。売るスイカだ」。

 区別する心のある人はこのようです。農薬をたくさん使っていて体の害になるので、自分の子や孫には食べさせたくありませんが、バンコクへ出荷してバンコクの人が食べるのは構いません。自分の仲間でも身内でもないからです。これを差別と言います。差別は自我から生じます。

 飛行機に乗って窓の外を見ると、どこがタイでどこがビルマか、どこがラオスかなどと見分けがつきません。自然には区別などないからです。タイとかビルマとかカンボジアとかいうのは仮定の世界で、自然は一つで、どこかの国の自然を破壊すれば、世界の自然を破壊することになります。私たちは世界を共有しているのですから。

 このような行為を禁じるには、差別する考えはどこからくるのか、何から生じるのかを見なければなりせん。それは自分という理解の間違い、誤解から来ると見えます。それは心の問題で、自分自身について熟慮しないので自分に迷っています。だから私たちが改めなければならないのは、心と理解と見解を、真実と一致するよう改めなければなりません。

 私たちはパーワナーします。頭と心の間に橋を懸けるためにパーワナーします。現代人は頭の中の知識や理解は既にあります。タンマの話も長いこと聞いていて、もう知っています。しかし私たちの知識はまだ「識」のレベルで、うろうろと頭の中にとどまっていて、敏捷でありません。

 何か差し迫った出来事や難しい問題が生じたとき、知識が頭の中で眠っていれば、煩悩が真先に駆け出して行っても、すぐに飛び出して追いつけません。煩悩は何百回、何千回もの過去世で心を支配してきたので熟練していて、いつでも飛び出して行って働く準備が整っています。

 だから頭と心の間に橋をかけて「識」である知識を心まで沁み込ませ、タンマを心に到達させます。タンマとはしなければならないことです。パーワナーをしてタンマを心に到達させることを忘れないでください。パーワナーとは、ある物事を捉えて止まり、止まって熟慮し、止まって既にある感覚にします。つまりいつも目新しい変わったものを求める必要はなk、ごくありふれた物を明らかに知ることです。

 「智慧」は普通でない物から生じません。普通のものを明らかに認識することから生じます。

 心の訓練をする時は、何か一つの感情(心が捉えるもの)を選び、鼻先の呼吸を意識することでも、腹の膨らみを意識することでも、やりやすい方法で良いですが、一つの感情を継続して使います。自分の念処の感情に対して忠実で、感情に対して満足を知り、欲張らず、移り気を起こさないで一つの手法を続けてください。

 ここで心を一つのことに据え、つまり何か一つの手法を決めたらそれに専心し、例えば鼻先の感覚なら吸う息、吐く息から緻密な知識を得れば、息の初め、息の途中、息の終わりに、智者は絶えず存在します。

 この感情を掴むには強すぎても弱すぎてもいけません。小さな小鳥を掴むように、強く掴みすぎれば死んでしまい、緩すぎれば逃げてしまうので適度な強さでなければなりません。ちょうど良ければ、常に管理する常自覚があります。この感情を掌握することを「ヴィタッカ(尋)」と言います。そして何かを継続して心に懸けていると、それの理解が生じ、それの観察事項が生じます。そして善である何かを掌握することの観察事項を、ブッダは「ヴィチャーラ(伺)」と呼んでいます。

 それには不思議で珍しいことがあり、何かを絶えず適度に掌握していると、それを掌握している時に現れている観察事項を継続して感じ、それを尋・伺・喜悦・幸福があると言います。幸福や清涼さが生じ、喜悦と幸福が生じ、それらの幸福や喜悦は、私たちがそれまで世界の形・声・香・味・触などから味わったものと比較にならないほど上等です。しかしその時の私たちの拠り所は何かは、それは智性です。智性が十分に義務をしなければ、生じた幸福が私たちを溺れさせるからです。

 幸福はただの感覚、感じるだけのもの、実践の目的ではないと熟知していれば危険はありません。それを尋、伺、喜悦、幸福があると言い、幸福があれば心は一つに集中して、私や他人といった感覚は生じません。

 心は一境心で、喜びや悲しみなどの「蓋」、眠気や性の関心、不安定、疑惑や躊躇いなどは心から抜け落ちて無くなります。この時の心は針の先端のようで、いろんな下品な物は心に止まることができません。針の先には居場所がないので、「蓋」はメンツがありません。

 心が鎮まって明るく穏やかになれば、心は益々穏やかになり、そして心はそれの中へ入り、サティと「捨」、最高にて依然とします。しばらくは本当に休息しますが、やがて考えが揺らぎ始めます。でも失われた穏やかさを惜しんで、集中力が衰えたと考えないで、考えが三相の状況を表し始めたと、考えの無常を意識します。

 ヴィパッサナーをすることは仕事をすることで、私たちはしばらくの間仕事をしますが、やがて疲れて、心は静かになります。適度に休息したら、また心が出てきて働きます。仕事と休息の間を行ったり来たりします。

 それは自動的になり、私たちが管理や支配をしているのではありません。それは自然ですが、初めにサティが関わることに依存して経過します。サティは、浮かんでくる考えに溺れないよう安全を保証するものです。

 心が静かな所に入り、出てきて熟慮し、また入り、また出てまた入り、また出る。これが「サマタヴィパッサナーカンマターン(止観行処)」全形です。心が静寂から出て見抜くこと、あるいは考察や熟慮に習熟することで、非常に深遠な考察ができます。日常生活を絶えず観察する訓練をしたことがあり、見ることと考察に熟練しています。

 静寂から出た心は、無常を意識する準備があり、ここで智慧が生じます。智慧が生じれば自我の威力が弱まって消滅し、差別の心もなくなります。他人を責める代わりに、あるいは人間の違いを生じさせる理解をする代わりに、人間を同じにすることを考えがあり、心が一つにまとまって、自分の中に矛盾がなく、周囲に対しても矛盾がない心は、やがてすべてのものがちょうど良い、そういうこと、という気持ちになります。

 そういう気持ちになることは、迂闊でも、義務を見過ごすことでもなく、ただ現在の出来事に無用な感情が生じないようにしています。生じてくる出来事を熟慮判断する障害になる考えを生じさせず、その時現れている問題、その人、その出来事に対して正しく行動すれば、心は晴れ晴れしています。

 考えはありますが、今ある出来事にふさわしい考え、つまり「私、私ののもの」と考えに迷わず、反対に利益になる考えをします。すると考えは私たちを苦しめる権利も威力も失って、大人しくなります。自分の考えをこのように馴らせば、考えは智慧に変わり、そして自分の考えを創造的なものにすることができます。

 創造は静かな心から生じます。心が乱れていると創造はなく、爽やかさもなく、あるのは古い物ばかりです。凡人の心は古い心で、新しいものはなく、清々しい物もなく、瑞々しく明るい物もなく、古い物に埋もれるだけです。すべての物を意識するサティがある人は、新鮮さを感じることができ、そして外部のものに幸福や恒常を求めて焦燥する考えもありません。幸運であれ、名誉であれ、賞賛、幸福、あるいは他人からの尊敬や愛であれ、何かが欠けているという感覚はありません。世界中の誰から何も欲しがらず、何かが多すぎるという感覚もなく、あるのはちょうど良いという感覚だけです。ここです、心がタンマになるのは。

 ちょうど良いという感覚のある心と、ちょうど良い心は、大いに人間同朋を救うことができ、世界にとって大いに利益のある心です。ちょうど良い心はいつも与えているので、与えることに幸せがあり、犠牲にすることに幸福があります。与えること、犠牲にすることで、本当は何一つ失ってはいないと良く知っているからです。無くなったものは重さです。捨てたのは重さであって、何も損をしていません。代わりに得たものは軽さです。捨てたのは不潔なもので、代わりに清潔を得ました。何も損はしていません。愚かさを捨てて、賢さを得、何も損はしていません。

 ちょうど良い心は、いつでも大衆の利益、あるいは幸福のために働く準備があり、これを「徳の田」と言います。徳の田になれるのは僧だけではありません。心にタンマをしみ込ませ、静かさの味を覚えさせることで、私たちも徳の田になれます。徳の田とは、すること、話すことにタンマが滲み出でて、仏教を世界中の人に理解できるよう行動する人であり、他人の拠り所になれる人のことを、神聖な人生と言い、威風堂々としていて、どこで何をしていても、立っていても歩いていても、座っていても寝ていても、多くの阿羅漢の後を、ブッダの足跡を追っているという誇りがあります。

 私たちはアーチャンの善い弟子であり、ブッダの善い弟子で、世界がどんな状態でも、私たちはそれを変えることはできませんが、タンマの方の人であり、ブッダとプラタムと僧に対しての義務を十分に行えば、世界の変化を恐れなくなります。自分のすべきことを最善を尽くしてしているからです。

 誰でも、生きとし生けるものはすべて、自分自身のカンマ(業)、結果をもたらすカンマ、発生源であるカンマ、後を追ってくるカンマ、拠り所になるカンマがあると理解しています。だから私たちがいつでも世界のために働く用意と、人間同朋のために働く用意のある慈悲があっても、世界がそれを必要としなかったり、認めなかったり、あるいは私たちの援助に背を向ければ、それは仕方がありません。私たちはするべきことをするからです。

 仏教とは、人間がするべきことをすることです。ですから仏教徒は、生涯正しい人生だという誇りがあります。タンマは正義だからです。ですからどうぞみなさん、体と言葉と心を、できるだけ正しくする人であってください。

 ちょうど時間になりました。どうかみなさん、タンマを自分の心に取り入れるよう努力し、自分自身を教育し、自分自身に忠告し、あらゆる苦と混乱から離れて、煩悩の威力より上にいる自由な人になるよう努力してください。そして自分自身の拠り所、人間同朋の拠り所になってください。

 


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