得たのは想蘊だけ

 

アメリカに行った時のことです。

在家の人たちが、その人が考える風光明美な所、

興味深い所へ遊びに連れて行ってくれました。

 

ある人が高い山の風景を見に連れて行ってくれ、

あちこち指差して、あそこは昔恋人と行ったことがある、

あそこも昔恋人と行ったことがあると説明しました。

私には自然しか見えませんでしたが、

同じ時その人は、記憶の中の恋人との光景を見ていました。

 

真実、この世界はこれだけです。

形・声・香・味・触・考え、これしかありません。

どこの世界もこれだけです。これ以上はありません。

 

出家する前、

私はいろんな場所の珍しい経験を求めて旅をしました。

智慧が生じるだろうと思ったからでしたが、

本当に得たものは想蘊だけでした。

 

 


タンマに到達するための実践

199061

生き物にとって休息は欠かすことのできないもので、時には行動し、仕事をする方がふさわしいこともありますが、時にはじっとして何もしない方がふさわしいこともあり、たとえば騒々しいことや煩わしいことから離れ、自分自身を振り返り、内面を見つめることも必要です。私たちの人生の発展は、外面的なものと内面的なものと並行しなければなりません。内面的なことを無視して外面的なことばかり考えていれば、その発展はバランスに欠け、然るべき成功は望めません。

タンマの話を聴くのはとても大切なことです。信仰や自分自身を教育する方法は、タンマを聴くことから得られるので、意味が理解できなくても、智慧のある人にとっては何かの利益がかもしれません。

スメトー師は、ノーンパーポン寺でルアンポー・チャーの弟子になった初めての白人僧で、お寺へ入ったばかりの頃は、まだタイ語があまり話せず、東北の言葉はまったく分かりませんでした。当時はまだルアンポー・チャーがお元気で、夕方の集会で勤めの後よく説教をしました。二時間、三時間、時には四時間も説教をします。しかも東北の言葉でです。スメトー師はとても苦痛に感じました。西洋人には慣れていない横座りをしなければならないので、座り難く、痛くて苦痛で、次第にイライラと不満がつのってきました。

「苦から脱しようとわざわざ遠い国からやって来て、今強い信仰に燃えているのに、私には意味が分からないのに、なぜ和尚はお説教を聞かせるのだろう。もっと座ってサマーディをしたい、経行(きんしん。足の疲れをとるために境内などをゆっくり散歩すること)がしたい。一生懸命努力したい。他のお坊さんは深く理解しているが、私には分からない。ときどき他の人たちが笑うことがあっても自分は笑えない。だって意味が分からないのだから」。こんな風に思いました。     

なぜルアンポーは、自分が僧坊へ帰るのを許してくれないのだろうと考えました。僧房へ帰ればサマーディもでき、経行もでき、そして智慧が得られるかもしれないと思うと、座っている間中、内心不満を抱えていました。毎日毎日、師が言われるには怒りと不満を抱えて二時間も三時間も座っていました。

なぜ外で努力させてくれないのか、なぜ無理に私を座らせるのかと、ルアンポー・チャーに対して怒りを感じていました。ある日説教を終えると、ルアンポーがスメトー師の方を振り向いて慈しみ深く微笑み、そして愛でるように聞きました。「どうだね、スメトー。我慢できるか」。

ルアンポーのこの一言を聞くと、スメトー師の心を占めていた泰山のような怒りが、一瞬にして氷解しました。自分が怒っている時は本物だと思っていた怒りが、ルアンポーのたった一言で消えてしまうなんて、不思議でたまりませんでした。師は考えました。

自分は怒りっぽい。俗人でいた頃も気短かだったが、出家してもまだ気が短い。昔は世俗的なことで、あれが欲しいこれが欲しいとイライラしていたが、今は実践をする中でああしたい、こうしたいとイライラしている。こういう短気な性格は良くない。適当でない。それにタンマでない。それに説教を聞いて緻密な「止業処」に励むことはできなくても、少なくとも自分の苛立ちと戦うことはできる。忍耐を養う良い機会だ。これからは説教を聞いても腹を立てまい。怒りに翻弄されないように我慢しよう。        

それからは説教の時間を、忍耐力を養う時間にしようと努めました。すると次第に苦痛も消えました。

ルアンポー・チャーは、実践するにはつぎの二つを守ることが肝心だと、いつも繰り返しておられました。実践家で最も大切なことは忍耐であり、次に熟慮だと。堪えて、堪えて、そして熟慮すること。実践はそこにあります。いろんな感情に堪えることができなければ、感情に振り回されてしまい、喜びが生じたり不満が生じたりした時に、感情の真実を見抜く機会を失ってしまいます。だから忍耐がなければなりません。

実際、一番良いことは手放すことです。つまり執着を手放してしまいます。しかしまだ手放せない時はどうしたら良いでしょう。手放すことを目指しますが、とりあえず忍耐しなければなりません。忍耐にはいろいろな功徳があります。

感情が生じたら、その感情を不善と見るサティがあれば、その感情の威力に至る代わりに、心にそれを追いかけさせ、忍耐し成さずて話さず、忍耐、忍耐すれば、間もなくその感情は消え、そして「感情は不変のものではない。感情が生まれれば苦になり幸福ではない。それに感情は私たちの支配下にない」と明らかに見えます。

忍耐することで真実、つまり無常・苦・無我が見え始めますが、手放すには、感情を真実のままに見る過程を通過しなければなりません。それには静かな心と、我慢して物事を見ることに依存しなければなりません。だからいつも心を静かにするよう努めなければなりません。これはとても大切です。

ブッダは、煩悩は憂鬱にするものと熟慮しなければならないと教えています。心を憂鬱にするものの憂鬱を見れば、それらのものにうんざりして手放す気持になります。しかし憂鬱にする煩悩と言っても、安定している心、一心不乱の心は一つの感情しかないので明るく澄んでいます。煩悩の悪いことを考えないからです。いろんな感情を比較する、あるいは判断する基準にするために、努めて心をサマーディにする訓練をすべきです。感情は心の隙に潜入していつも心を曇らせるので、心をサマーディにする訓練をしなければなりません。

しかし心のサマーディは過ちのない人、つまり持戒をしている人に生じます。持戒をしている人は当然、言葉も行動もきちんとしているので、他人に迷惑をかけることを慎むからです。これは努力しなければなりません。

実践者は努力家で、執着を手放すことを目指します。みなさんはまだ手放せないので、努力してください。しかし努力が原因で解脱が結果と誤解しないでください。つまり善いことを努力するのは、それ自体がバーラミー(波羅密)という結果で、それは私たちの心を温め、自分は正しい道を歩いていると誇らしくさせます。羅針盤を持って暗闇を歩いているように、時折稲妻のような光があれば心強く安心です。しかし大切なのは羅針盤に対する信頼、つまり信仰です。

信仰を例えれば人工衛星のロケットのようなもので、人工衛星は概して小型ですが、地球から飛び発つ時は大きなロケットの力に依存しなければならず、地球の引力から脱したらロケットを外して自力で飛ぶことができます。

信仰も同じで、私たちの俗世の引力から脱するために、信仰の力を借りなければならず、信仰がその義務を終えた時、智者が噴き出します。信仰のある人は当然努力があり、自分の信じるものを検証するために精進努力し、努力はサティを生じさせ、サティが生じれば、実践者の心はサマーディになる準備が整い、サマーディになった心は熟して煩悩を突き抜ける智慧が生じる準備が整い、発生と消滅を当たり前に生じて消えるものと見て、常に生じて消えるものに掴まっていれば本当の幸福にはなれないと明らかに知ります。

説教も同じで、真実だけを話すなら、僧は説教台に座って「生じては消え、生じては消え、生じては消え」と言うだけで、聴衆は何度も聞かないうちに飽きます。だから説教をする人は、エピソードや解説を交えて、聞いて楽しくなるように味付けをしなければなりません。

しかし本当は、世界に関わる最高に深淵な知識は、発生と消滅についてどれだけ理解しているかだけです。実践者はサンカーラ(行)の発生と消滅を明らかに知ることができる人で、当然いろんなものへ執着には倦怠し、崩壊の外にあるものに心を傾けます。

私たちは仏教徒なので、その名に相応しい義務を行わなければなりません。つまりブッダの状態を作らなければなりません。ブッダの状態とは、知ること、目覚めること、晴朗なことです。ですからどんな仕事をするにも、知性と覚醒と明るさでその努めをしてください。

子を持つ親なら良い親とは何かよく理解して、親として目覚め、親として明朗でいてください。夫あるいは妻、雇用主、従業員、いずれの立場でも、知性と目覚めと、そして明るさでその義務を行ってください。       

そのように目指せば、心はその方向に傾き、成功も難しくありません。傾いた木を切ければ、傾いている方向に倒れるように、みなさんの心が善の方へ傾いていれば、心が消えてこの命から離れる時、心は傾いていた方向に倒れ、心が悪の方へ傾いていれば、死ぬ時悪の方へ行きます。

上手にできなくても大丈夫です。心には自分で調整する力があるからです。私たちは心をより良いものに高める権利があります。心が病気になったら心を健康にする方法があり、心が良い状態になったらより良くすることができ、より良くなったら最も良く、つまりどんどん良くしていきます。大切なことは、心を幸福に溺れさせないことです。       

かつて味わった数々の幸福はどこに行ってしまったのか、それは今どこにあるのか、自問してみてください。もし今の生活に何か問題が生じれば困窮混乱し、かつて享受していた幸福は問題解決の助けになるでしょうか。それは自分の拠り所にできません。だからブッダとプラタムと僧を心の拠り所にしなければなりません。三宝は生涯私たちの心の支えになります。疑うまでもありません。しかしそれ以外の当てにならないものは、本当には何の役にも立ちません。

時には頼れることもありますが、最終的には逃げていってしまいます。去って行ってしまいます。それらはすべてサンカーラ(行。有為)なので、必ず離れていきす。だから私たちは生老病死の上にある無為と呼ぶものに到達する実践をする努力をしなくてはなりません。

以前にたくさんのお弟子さんがいるアーチャンがいて、ある日説教で弟子たちに向かって、この実践は漉し笊に水を満たすようなものですと言いました。そう言うと他には何も説明しないで説教を終えました。聞いていた人はみな、注いだ水は笊の目から漏れてしまうので、笊に水を溜めるなんてできる訳ないないと納得できませんでした。

ある在家は「アーチャンは、在家はどんなに実践しても大した成果はないと貶して、からかわれたのだろう」と言いました。ほんの少し知識や理解が生じても不注意から流失させてしまい、高いタンマに達することはできない。そう言われたと理解して、すっかり気落ちする人もいました。

ところがある人は考えました。「私たちが良い実践をすれば、この世界に聖人が絶えることはないとブッダは教えられている。だから私たちは正しい実践をするように努力しなければならない。アーチャンの言葉はブッダの教えと矛盾しない。私たちが理解できないだけだ。私たちは実践をさぼっている暇はない。休んでいる暇も怠けている時間もない。自分の勤めと思って励まなければならない。成果があろうとなかろうと気にしないで、何も期待しないで続けよう」。そう言って実践を始めました。アーチャンはそれを見て褒め、海へ連れて行って自分の教えを解説しました。

アーチャンは海に突き出た大きな岩の上に立って笊を海水に投げ込み、そして笊を引き上げると、水はすっかり流れ出ました。二、三度同じ動作をして、水が溜まらないことを見せてから「凡人の実践はこんなものです。多少タンマが心に入ったと見えると、すぐにまた流れ出してしまう。しかしそれは凡人が岩の上、つまり自我の上に立っているからです。常に自我という基盤に執着している実践。私の実践。私の進歩。私の幸福。私の苦悩。自我という基盤に執着している実践では、深いタンマを理解することはできません」と言いました。

説明し終わったアーチャンが笊を海に投げ捨てると、笊の中にはいっぱい水が溢れて、そして沈みました。

 「見えましたか。笊には水がいっぱいです」アーチャンが言いました。

つまりタンマを私たちの心に取り込むのではなく、私たちの心をタンマに傾けます。自我への執着を、海つまり真実の海に捨てます。すべての愛着を海、つまり真実の海に投げ捨て、真実を認めます。考えを捨てれば心がタンマで満ち、タンマと一体になり、私たちがタンマになります。十分に正しい見解に達すれば、何をしても、何を喋っても、何を考えても、すべてがタンマになり、人生とタンマが一つになります。水がいっぱいになって沈んでいった笊が、海と一体になったのと同じです。

みなさんも同じです。自分の、あるいは自我を飾りたてる実践をしないで、それらを真実の海に捨ててください。体はただの体、心はただの心と見てください、という意味です。形・受・想・行・識の五蘊は自然のものであって、私たちのものではありません。感情を味わう人の、幸福を感じる人の、苦を感じる人の、その感じているものが受で、憶えている人の、意味を理解する人の、その記憶し理解するものが想で、良いことや悪いことを考える人の、考えているものが行で、形・声・香・味・触を感じるもの、それが識です。このように見れば返却と言い、本当の所有者、自然に返します。

ここで私たちはまだ自分の五蘊を背負い込んで、心や体を自分と、あるいは自分のものと思い込んでいるから重いのです。背負えば背負うほど重く、あまりに重いですが、手放せば重さのない人になります。国土の負担と言うほど重い、現代はそういう人が大勢います。どうすれば良いでしょう。

五蘊を背負い込むことの害を見て手放す努力をし、手放せるものは手放し、手放せないことには堪え、それらに従わず、言いなりにならず、そしてこのようにできれば段々軽くなって、国土の負担でない人間になり、最後には手放すことができ、重さのない人になります。これが私たちの目標です。このように努力しなければなりません。

自分は徳が少ない、バーラミーが少ないと考えないでください。みなさんは言い訳のために徳やバーラミーを引用するのが好きで、中には、パーワナーをする徳もバーラミーもないと言う人がいます。悪いことをする徳やバーラーミーばかりあり、なぜ良いことをする徳やバーラミーがないのでしょう。悪いことをする徳やバーラミーは、誰にもいつでもあるように見えます。みなさんはなぜ善いことをする徳やバーラミーがないのか、自問しなければなりません。サティを訓練して、サティを忠告者に、心人生の守護者にしてください。自分自身を忍耐がある人にするには、サティがなければなりません。

しっかりしたサティがあり、日常生活の善悪正誤を弁えることが、本当の意味のパーワナーです。パーワナーとは目を閉じて座ってするだけでなく、常に自分のしていることを自覚するサティを鍛えることも意味します。自分が話していることは正しいか間違っているか、これは自分と他人のためになるか、それとも自分や他人を困らせることになるか、自分がすることに常に責任を感じること。これもパーワナーです。

人が何かを話す前、何かをする前に当然意図があります。話す、あるいは行動するには、必ず後押しする考えがあります。しかし普段は自分の意図に気付かなかったり、見過ごしたりしがちです。しかしサティのあり、自分自身を見つめることに習熟している人は、行為と意図の隙間を広げて見ることができます。この隙間こそ自分を守るものであり、自分自身に責任を持つものです。

ここにサティをあればサンパチャンヤ(自覚)が迫い駈けてきて、何が善で何が不善か見えます。そして不善を遠ざけ、まだ生じていない不善を未然に防ぎ、善を生じさせ、生じた善を成長させることもできます。それは行為と意図の間にサティがあるからです。

サティ(知識である教えを、現前の状況に間に合うように思い出す働き)は命です。サティのない人は狂っていると、五分サティがなければ、五分狂っているのと同じと、ルアンポー・チャーが教えたことがあります。一時間サティがなければ一時間狂っています。だからどうぞサティを持ってください。サティのある人生は確かなものになり、自分自身を信頼でき、拠り所にすることができます。

呪文を唱えて霊験を込める祈祷や、厄払いの儀式をする必要はありません。他人に何かを貰う必要もありません。何かをお願いして叶えてもらうために神を祭り上げる必要もありません。自分で自分を援けることができます。神を祭れば神様は神様の勤めを果たさなければなりません。つまり世界を創ります。しかし私たちにサティがあれば神様を祭り上げる必要はありません。神様がなければ世界はなく、世界がなければ輪廻も苦もありません。なぜなら世界は苦であり、闇なので、サティのある人、明かりのある人は闇を創り出す必要はありません。

パーワナーは自分の愚かさを減らすことです。パーワナーをする時間がないと言う人は、自分の愚かさを減らす時間がありません。信じられないことです。私たちは愚かになるために生まれて来たのではありません。特に仏教徒は賢さのため、自分自身の拠り所になるため、人に頼らず生きるために生まれ、ブッダも方向を指してくれていますし、アーチャンも助けてくれますが、いつでもつきっきりで教えることはできません。常に自分を教え導くことができるのは、サティで自分を管理している自分だけです。

今自分は何をしているか。説教を聞いているなら心は興味を持っているか、それとも退屈か、眠いか、今自分はどんな調子か、身体はどうか、ストレスはあるか、心配事はあるか、それとも快調か、常に自分自身を観察します。

友達と大切な約束がある時は、何をしていても今何時? 今何時? と終始時計を気にします。もうすぐ出かけなければならないということが常に頭にあるので、時計から目が離せないように、日常生活の中で常に気づく度に実践し、自分が今どういう状態にあるか、常に見なければなりません。善をしているか、あるいは不善か。幸福のためになるのか、役に立つのか。それとも不幸の元になり、何の役にも立たないのか。一瞬も目を離すことなく見守ります。これは何度も何度も、気をつけて時計を見るのと似ています。

暇な時間があったら、暇潰しなどしないで自分の内面を見つめます。現代人の生活には暇潰しが多すぎます。暇潰しをしながら暇潰しと認めたがらないで、趣味と呼んだり、スポーツと呼んだり、事業と呼んだりしていますが、大部分は暇潰しです。

自分自身と向き合うのが怖いから、いつも外出し、いつも外部の感情に揺られていないといられません。だから外部のものの奴隷になっています。外界のものは上がったり下がったりしているので、私たちもその動きにつれて上がったり下がったりしなければならず、私たちの心は休みなく揺れ動いています。その結果休みなく揺れ動いていることを普通と思っています。

 「こんなもんだ。人生はこんなもんだ」。しかしこういう状態が苦です。そしてこれこそが、私たちが脱出しなければならないものであり、また脱出できるものです。

 「如行があなた方に、悪を遠ざけ自分の心を純潔にし、善で満たすように言うのは、あなた方はそうすることができるからです。あなた方にできないことを、如行は教えはしません」と、ブッダは主張されています。だから「悪を遠ざけられない」「私にはできない」と言うことは、強情にもブッダを信じないことです。そしてブッダの教えに逆らうことです。

私たちにできるとブッダは教えておられますが、当然努力をしなければなりません。善や徳はただ生じないので、生じるようにしなければなりません。そう願うことは善や徳を生じさせ、大きく育て、何でもより良くします。私たちにはきます。日常生活に知性と覚醒と明るさがあるよう努力しなければなりません。

今日しなければならないことは何か。理性的に生活するにはどうしたらよいか。どうしたら不注意を避けられるか。どうしたら今日一日ぼんやりすることなく、憂鬱にならず、心の明るさを維持できるか。あるいはどうしたら心を覆っている曇りを最小限にすることができるか。もっと自問し、もっと熟慮しなければなりません。

このように決意すれば、自分の実践が正しい実践と呼べる段階でなくても、少なくとも実践好きでいてください。実践好きなら、不善を避けるための実践と、心を純潔にし善で満ちたすことに喜びと楽しさと満足を感じれば、そうすることに知性と目覚めと明るさが生じ、そして最終的には、かならず晴々と明るくなければなりません。そして実践も正しい実践でなければなりません。正しい実践にしてください。正しくし、それを正しいと見ればすべてが正しくなります。

自分は今何のために実践しているのか、何かを求めて、秀でた人になりたくて実践をしているのではないかを知らなければなりません。ルアンポーは「何かを得るために実践をしてはいけません。ブッダにも、阿羅漢にも、アナーガミー(不還)にも、サカダガミー(一来)にも、ソーダーパンナ(預流)にも、何もならないでください」と常に教えていました。なれば苦が生じるので、何もならないでください。何かにならなくても良いこと、何も得なくても良いところに、快適さがあります。

実践して「損した得した」という感覚がなくなり、平然とするまでパーワナーします。外部のものは上がったり下がったり、常に浮沈していますが、それと一緒に浮き沈みしないで、智者として平然としています。幸福の状況も苦の状況もありますが、それは外部にあり、私たちの心には入ってきません。

心は感情でなく、感情は心ではありません。これは重要な教えです。空は雲ではなく、雲は空ではありません。空は飛行機ではなく、飛行機は空ではありません。空は空として存在し、雲は流れ、飛行機も飛びかっています。暑かったり寒かったり、雨が降ったりするのはお天気です。しかしお天気は空ではなく、空がお天気でもありません。

心は感情ではなく、感情は心ではありません。嬉しい、悲しい、満足、不満足などは感情です。しかし感情は、本当は心の問題ではありません。心は静かです。感情と心を区別することを知り、感情は感情、心は心と認めます。そこに私たちの快適さがあります。

だから、感情に執着することに飽き飽きして、感情を手放すまで、もっとティを訓練して強く育ててください。いつも楽しく実践することはできません。初めは楽しくない段階を通らなければなりません。初めはよじ登り、転げ落ちなければなりませんが、ほとんどの人がそうですから大丈夫です。たくさんの先達僧たちも目を白黒させながら、艱難辛苦を経験してこられました。

みなさんも受け入れなければなりません。それは苦を減らすための苦だからです。苦を受け入れても挫けないでください。落伍者の先頭に立って、努力を投げ出さないでください。努力すること、努力について考えることは、体の問題よりは心の問題です。つまり欲や怒り、あるいは迷いに到らないよう努め、害あるものの害が見えるよう努めます。熟慮し、忍耐し、感情を喜ばせてはいけません。悲しませてもいけません。忍耐し、感情に耐え、そしてその感情を取り出して、ブッダが「捉えて囚われない」と言われるように、よく見、熟慮します。

捉えることを「ヴィタッカ(尋)」と言い、捉えたら把握しておき、注視することを「ヴィチャーラ(伺)」と言います。私たちが物事の真実を知る意図で、何かを熟慮すれば、最後には「ピーティ(喜悦)」が生じ、喜悦の後には必ず幸福が繋がっています。

刹那、近行、根本、ヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)、ピーティ(喜悦)、スッカ(幸福)、エーカッガタ(一境性)の定すべてが揃えば、心は静かさに入ります。その時、それぞれの段階を初禅、第二禅、第三禅、第四禅と名づける必要はありませんが、それぞれの段階の味を味わってください。

非常に澄みきっているか、それとも少し澄んでいるか、性的欲求はあるか、努力の状態はあるか、眠気はあるか、心は乱れているか、どうしたらそれを克服できるかを、見て味わってください。

煩悩を殺す、蓋を殺すには、殺すという意味をよく理解しなければなりません。殺すという意味は熟知し、熟知することで殺します。知ることと捨てることは同じ意味です。知ると捨てると殺すは、入れ替えて使うことができます。知ること、理解すること、真実を知ることで煩悩を殺してください。

どの段階の実践も、何かになるため、何かを得るためにしないでください。その様な実践は池の中で舟を漕ぎ回ることで、向こう岸へ渡ることができません。池の中で舟を漕ぐのは、界(心のレベルにふさわしい世界。三界)のため、生(今世、来世などの生)のための実践、あれこれ欲しくて、立派な人になるために実践することです。しかし立派であること自体は障害ではありません。問題は立派であることに埋もれ、陶酔して楽しむことです。

実践は立派であることを自分のものにするためでなく、立派でないことを知り尽くして、立派でないことの害を見ます。立派でないことの害を見れば、タンマ、あるいは神聖さが生じ、タンマ、つまり真実以上に神聖なものは何もありません。

真実に満足し、真実を見ることを目指し、真実のために実践し、本気で布施をし、本気で戒を守り、本気でパーワナーをし、真実のために真実を目指します。真実を目指さない人の欠点は、喜悦や幸福が生じると、その喜悦や幸福に溺れてしまい、心がその静かさから離れなれなくなり、その状態の中毒になって、明らかに知ることであるヴィパッサナーに発展しないことです。だからどこにいようと、誰といようと、私たちのすべての行動は真実を明らかにするため、自分の義務を明らかに見て本当に知るためでなければなりません。

実践の助けになることは、人間同朋の安楽のために努力することです。それは、実践で自分を手放させる方便の一つです。時々実践は、私たちを上品な利己主義者にします。つまり自分の実践のことばかり考えて、自分の実践が一番大事で、以前は自分の楽しみが一番大事だったのと少しも変わりません。今は自分の実践が一番大事になっただけで、自分の進歩、自分の後退が、最大関心事です。

それは大事なことですが、「自分」「自分の」という点に注目しなければなりません。時には自分はサティがある、心も集中していると思っていても、そのサティやサマーティが不注意で散漫なこともあります。サティは周囲三百六十度に、つまりサティに励む結果や影響にまで気を配り、注意を払わなければなりません。

たとえば台風を見ると、台風の中心は静かで何もありませんが、その外側では強風が吹き荒れて、とても危険な状態です。時には私たちの穏やかさが、台風の目のように周りの人たちの犠牲で成ろ立っていることもあります。この点に注意すれば「実践をすると利己的な人になる」という、事実ではない批判を防ぐことができます。

正しい実践は副産物として必ず四無量住、つまり慈・悲・喜・捨を生じさせます。智慧と慈悲は切り離すことができず、正しい智慧は悲であり、正しい悲は智慧だからです。

だから智慧を生じさせるため、あらゆる物事を真実のままに知るために、心を鎮めて実践をし、すべての物への執着を手放せば必ず心に悲が生じます。みなさん、自分の心を覗いて見た時、何が見えますか。自分の煩悩が見えます。自分の煩悩や苦を見たら、その苦や煩悩は自分だけのものではなく、感情に溺れているすべての生き物のものと考え、苦の残酷さや煩悩の醜さを見て、世の常、輪廻に付きものと見れば、当然悲が生じます。

「すべての生き物には煩悩があり苦がある。恐ろしいことだ。四六時中苦しめられている」と考え、その苦の様子を見れば、すべての生き物に哀れを感じます。こういうのが正しい実践です。

こういう気持ちになるには、真実に対する本気さを求め、そして涼しい木影を提供する樹木のように人間に涼しさを与える努力をします。私たちが外ににいると暑いので、人は樹を、木陰を探します。その時私たちは、その樹が美しいか美しくないか、高いか低いか、白いか黒いかなどと考えません。樹の形などどうだって良く、ただ涼しい木陰さえあればそれで満足です。そして木陰を提供してくれるその樹は、すべての人間にとってのオアシスのように感じます。

男でも女でも、タイ人でも西洋人でも、賢くても賢くなくても、美人でも美人でなくても、性格がどうあれ、民族や身分は何でも、慈悲によって多くの人間に涼しい木陰を提供することができます。

出来ないことを努力してください。できないこととは、自分より他人を愛すよう努めます。こう言うと、途端に反論されることがあります。そんなことは不可能だ、自分の気持ちとかけ離れすぎていると。それは認めます。しかし自分より他人を愛すことを目指し、他人の陰を探さないで他人に陰を提供するよう心掛ければ、少しずつ利己主義の害が見えてきます。それは利己主義の醜さを見せる光であり、実践によって利己主義に陥るのを防ぐ一つの方法でもあります。この問題は生じ得ることですが、避ける智慧があれば必ず生じることではありません。

だからみなさん、実践する機会に恵まれ、自分を磨く練習で自らを苦しめることができて、幸福と見なしてください。自分を磨くには心の準備が必要です。磨かない実践は実践ではなく、古い考えや自分の習慣に逆らわない実践は、威力がなく、真剣になることがない、仕方なくやっているどうしょうもない実践になります。もしそんなだったら、悪魔の首かせから逃れることはできません。

抵抗する努力をしますが、あまり抑えつける必要はなく、毎日少しずつ、少しずつ抵抗します。運動と同じで、最初の日にやり過ぎると体が痛くて毎日続けられないので、賢い人は少しずつ増やしていきます。

試しに自分の欲に逆らってみると、逆らわなければ欲望が友達のように見え、あるいは当たり前に感じてしまって害が見えませんが、逆らえば欲望から生じる苦が見えます。欲望に堪えなければなりません。そうすれば、ああなりたい、こうなりたい、あれが欲しい、もっと良くなりたいと、いつも上ばかり見てイライラしている状態が見えます。欲望がはっきりと見えれば害も見え、害が見えたら実践して手放す、このように践すれば正しくなります。

愛欲から出るバーラミー(ネーカンマバーラミー)を積むのは、僧だけの話ではありません。たとえばみなさんのサティがぼんやりして何かに夢中になってしまい、夢中になっていることに気づいたら我に返る。それがサンパチャンヤ(自覚)です。

サマーディをしている時だったら、自分の念処の感情を意識し、プットーに戻ります。ほとんどの人は、しょっちゅうぼんやりし、サティがぼんやりしては我に返り、ぼんやりしては我に返り、最後には挫けたり僻んだり、あるいは実践に飽きてしまいます。しかしみなさん、この問題を見直してください。つまりぼんやりしては我に返る時、我に返ること、自覚を取り戻すことは出家することであり、信仰で出家することです。それは遠離波羅密を積むことです。

たとえば三十分座ってサマーディをして、心が外部のこと、たとえば将来のことなどを三十回考え、そして三十回我に返ったら、我に返るたびに出家したのと同じです。三十分サマーディをして三十回出家したのです。何回も出家したことを、たくさん波羅密を積んだことを、誇りに思うべきです。間違っては気づき、現実に戻り、自分の念処に戻ることは、遠離して波羅密を積むことです。

私たちはこの世界に生きて、たくさん波羅密を積む努力をしなければなりません。ブッダは涅槃に入ってしまわれましたが、ブッダをブッダにしたタンマは今もあります。布施、持戒、五欲を捨てることが智慧のある人、忍耐のある人にします。

安定した忍耐力を精進と言います。努力、誠意、願い、慈愛、捨、波羅密を築くことは心にタンマがあるようにすることです。ブッダをブッダにしたタンマは、私たちを本当の仏教徒にし、布施・持戒・禁欲・智慧・忍耐・努力・誠実・慈・悲・捨が心にあるようにします。すると、みなさんの心に、今後智慧と目覚めと明るさが、現れるよう望みます。

 


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