勝手に考えないで

 「自然に知ったこと」と「自分で考えたこと」は違います。

 しかし想像を加えると、この二つが一緒になります。

  たとえば誰かが私たちに何か被害を与えたとします。

 そして自分はその人の意図を知らないので、

  もしかしたらわざとしたのかも知れないと思います。

 「もしかしたら」にもっと想像を加えると「たぶん」になり、

  そして最後に「たぶん」は確かな情報になります。

  つまり自分の考えの中で変化し、

 「もしかしたら」から「たぶん」に、

 そして「そうに違いない」に発展します。

 そしてその人がわざとやったという確かな証拠もなしに、

 勝手に推測しただけで、怒りや恨みが生まれます。

 私たちは、自然に知る智慧が生まれるよう、

 サマーディで落ち着いた強い心になるよう、心を訓練します。

     

 心、あるいは智慧を使って最も善い結果を出すための条件は、

 心に満足や不満足、喜びや怒りの感情がないことです。

 これがサマーティパーワナーの役目です。





3.どのように実践するか





1993年11月5日
 本日は、実践に関する提案と励ましをするために、カンマターン(念処)をなさるみなさんをお訪ねする機会を得たことを嬉しく思います。通常在家の方がお寺へ行って、あるいは正しい実践をしている大物僧に拝謁すると、当然清々しく感じます。しかし同時に、私たち僧もブッダの教えで実践するために、時間を割いてお出でになった在家の方を見ると、同じように清々しく感じます。

 だから「自分が清々しい気持ちでいる時は、他人の心も清々しくすることができる」という仏教の正しい教えと一致しているはずです。私たちには、体と言葉と心で他人に分けてやる清々しさがあります。自分の利益と他人の利益は、結局同じなので、私たちが正しく自分のためになることをすれば、当然、同時に他人の利益にもなります。

 このような集まりに参加されると、初めての方は束縛されているような圧迫を感じるかも知れません、しかし最後にはきっと、規則に反しているのでも強制しているのでもない、本当の自由と認めなければならないでしょう。反対に、一度も訓練を受けたことのない、あるいは自分の欲望に逆らったことのない心は、真の幸福に到達することはできません。

 音楽に例えれば、洋の東西に関わらず。古典音楽と呼ぶものを聞くと、実に自然に感じます。ベートーベンの曲、あるいは人々が最高と言う物、名曲と言われる物は、三百年以上も前の、最も厳格な形式的な物ですが、演奏者たちが束縛を感じ、あるいは演奏する上での自由が足りないと感じているようには見えません。そして演奏者の自由は表面的な規則では規制されないということは、非常に意味深いです。

 宗教は自然な物であることは確かですが、自然の中には善である自然と、不善である自然、中くらいの自然があるので、良く自然を知らなければなりません。自然ならすべて良い訳ではありません。

 赤ん坊を例にお話しすると、赤ん坊の自然は、排泄したくなったらどこにでもしてしまうのが自然です。元々は人間の自然もそうでしたが、赤ん坊の自然に逆らって、おしっこや便をする時はトイレに行かなければならないことを教えなければなりません。

 トイレの使用は人間の自然ではなく、自然に逆らっていますが、この自然に逆らうことには意味があると認められています。私たちの自然は、まだ真っ暗な自然で、自分や他人や環境に、苦や困難を与える自然なので、ブッダはこういう自然には逆らうように教えられています。静かさのための実践は、智慧は心の静かさに依存して生じ、初めのうちは当然、七転八倒します。

 でも、実践をする中でいろんな問題に突き当たるのは、自分が下手だからとか、手法が悪いとか、手法が自分の性格に合っていないと捉えないでください。そうでありません。どんな方法でしても「蓋」、あるいは問題を避けることは出来ません。問題にぶつかることは事実であり、真実であり、解決できません。この基礎である智慧はとても重要です。何を解決するべきか、何を受け入れるべきかを知らなければなりません。これは「正しい見解」の一つの段階です。

 解決しなければならない問題を誤って受け入れ、受け入れるべき問題を解決しようとすれば、私たちの実践は不毛で進歩がなく、最後には挫けます。実践に対する自分の姿勢を、何のために実践するのか、目的は何か、誠実に、常に自問すべきです。

 今アメリカやイギリス、ヨーロッパではパーワナーが流行っています。十五年前と比較すると、非常に関心が高まっています。その頃私は在家としてサマーディパーワナーの練習を始めたばかりでしたが、友達や知人のほとんどから、私は変わっている、変人と言われました。時折夜、寝室でサマーディをしていると、母が心配して呼びに来ました。「こんな暗い所で何しているの。下で一緒にテレビを見ましょう」。

 それまでのように私が外出しなくなったので、母が心配したこともありました。「あなたの好きだった娘さん、この頃姿を見せないけど、お母さんが電話して暇かどうか聞いてあげるわ」。私は「そんなことしなくてもいいよ」と言いました。

 私が実践者であることなど母には理解できないと思ったので、実践をしていると言うのが恥ずかしかったからです。見ず知らずの人の元で実践をして来たとは人に言えませんでした。しかし自分自身は非常に変化してしまっていました。

 出家してから三度帰国しましたが、その度に人々の関心は高まって行き、今では大型トラックの運転手やスーパーマーケットの店員までが、パーワナーの話をすると途端に興味を示してきます。そしてほとんどの人は、ストレス解消、あるいはリラックスの方法としては最高と見ています。ストレスを感じた時にはどうすれば良いかということに、とても関心があります。

 アメリカでは、精神障害で医者にかかった人は一年で六百万人に達し、精神安定剤や鎮静剤の売上は、年に何千万錠、何億錠か知れず、アメリカもイギリスも同じようだからです。ちょっと変だと思ったらすぐに薬を使うのは、ある程度の効果はありますが、望ましくないことも発生します。

 だからパーワナーは、乱れた心を鎮め、ストレスを解消する自然な手段と受け止められています。おまけにまったくお金がかからないのですから、関心が高くなるはずです。

 このような形で実践をしても、間違いではありませんし、害もありません。心の緊張が解けることはいろんな実践の結果であり、副産物と言うこともできるからです。心の静かさと快適さのためにだけ実践をするなら、教典の言葉で言う「天国へ行くための実践」になってしまいます。望んでいるものは幸福で、幸福のために実践するからです。ブッダはこれを非難したことはありません。

 ブッダは「人はより高くなるべき」とおっしゃっています。何のために実践をするのか。すべての煩悩から解放されるために実践するのか、それとも自分の好きな煩悩はそのままにして、自分の嫌いなことや、食傷している煩悩だけから解放されることを望んでいるのか、あるいは聖果である涅槃のために実践をしたいのか。これは私たち全員が、常に自分自身に問い続けなければならないことです。

 私たちが涅槃のために実践をしたいと望み、あるいは誓願をしても、あるいはこの人生で涅槃に到達したいと願っても、願うという行為は行蘊(考え)で、生じては消えるものです。心で何かを願っても、その願いがずっと心にあり続けることはなく、次第に変化します。

 例えば座ってサマーディをしたとして、必ず智慧を生じさせてサンカーラ(行)のすべてを理解しよう、自分の心を執着から解放しようと決意しても、理論としては分かっても、心の底で望んでいるのは幸福だけで、サマーディになってある種の喜悦を感じると、喜びや幸福が生じればもうそれで十分と感じてしまいます。

 あるいは心が静まると、その静まりと幸福が楽しくなってしまい、「これは素晴らしい、私はみんなより偉い、私は凄い」と思い込んでしまいます。つまりサマーディは、危険が見えないのでとても怖い、傲慢や自惚れを生じさせる泉です。実践する時の煩悩にもいろんなレベルがあり、実践をすればするほど微妙な煩悩に出会います。つまり、私たちの実践を完全な物にしてくれる障害が、休みなく挑みかかって来ます。

 何か挑戦する物を望む気持ちは、私たちが観察し、認めなければならない人間の自然の一つです。日常生活があまりに便利になりすぎた社会では、生活のために苦労することがありません。そういう社会では、心の興奮や刺激を求め、人生を味わいのある物にするために、あるいは生活に挑戦する物を求めてスリリングなスポーツや、何か変わった珍しいことを好んでするように見えます。

 何も挑戦する物のない人生は味気ないものです。挑戦にもいろいろありますが、仏教徒にとって最高に良い挑戦もあります。それは生活の中で知性を維持して、欲や怒りや迷いの威力に負けないようにする挑戦で、毎日毎日、形・声・臭・味・触があり、煩悩はあらゆる物から刺激を受けているので、心が悪の世界に落ちないように守るには、ブッダの教えを心の拠り所にすることです。賢くなければ難しい話です。

43  残念なことに私は、森の中のお寺に一人で住み、継続して実践をする良い機会がなく、仕事は山ほどあって、たまに師とカンマターン(念処)をする以外は、慌ただしいことばかりと言わせていただきます。

 いつも忙しいのは私の業の報いだと思いますが、ちょっと角度を変えて、これが私の実践だ、これが私の成すべきことであり挑戦だと考えて見ると、あなたの実践はどこにあるのかと聞かれれば、苦がある所に実践があると答えます。自分の家が燃えている時と同じで、どこに水を掛けるかと言えば、燃えている所に掛け、今ここに問題があればそれを挑戦と受けとめ、そこで実践します。

 仮に私が怒りっぽい性格だったら、今日の挑戦は怒りや恨みの心を起こさず、心を平静に保つことです。それが今日の私の実践です。体とサンカーラと心の動きを、目を離さずに観察します。

 幸福を感じ、苦を感じ、無感動を感じる受と、認識、様々な考え、あるいは将来の考え、あるいは何か起こったことを認識し、できるだけ現在にいるようにします。実践の秘訣はここにあります。神秘的なものなど何もありません。いつでも自分のしている行動と、自分の義務に関係のあるすべての原因と縁を感じてください。

 サティに励むとは、いつも何かを注視するという意味ではありません。私たちが義務を行なえば、他の人、他のことにも当然影響を与え、そして同じように自分自身も他のものの影響を受けるので、サティで自分のしていること意識するだけでなく、私たちは自覚を育てなければなりません。それは自分が現在していること、目指していること、今現在自分がしていることの適正さに関わる知識で、自分の行動が他人や他の出来事に与える影響について、熟慮します。

 ワットパー(寺の名。直訳すると森の寺)の例をお話しすると、あるお坊さんはよく夜中にパーティモーク(二二七戒)を音読します。それもサティを育てる一つの方法ですが、時には窓を開けたまま音読し、その声が大きいので隣の僧坊にいるお坊さんには喧しくてたまりません。隣のお坊さんがサマーディをしているのを、その声が妨害します。誤りは本を読む人にあるはずですが、どこが間違っているのでしょうか。

 タンマのどの項目のサティが欠けていてもサティは良く、経を唱えるサティはあります。しかし自覚が欠けています。今自分がサティを育てている行為が、他人や周囲にどんな影響を与えるのか気付く自覚が欠けています。だからサティと自覚がなければなりません。そして中立の心で、現在に生じていることを常に認識していることです。

 「捨」とは無視することでも無関心でも物事を受け入れないことでもなく、知っていながら平然としていることです。知らないから平然としているのではなく、知っていて平然としています。正しいことを導く能力のある平然で、いつでも行動でき、あるいは話せ、あるいは利益になることを考え、あるいは利益にならないことを我慢できる状態のことです。

 考えに迷い、感情に迷っている心は弱い心で、自分や他人を真実のままに見る能力のない心で、何か嬉しいことや悲しいことがあれば、受け止め、検討し、決断する何もかもが、感情に支配されて歪んでしまいます。だから良い結果を生むために心や知性を使う条件は、心に満足や不満、好き嫌いがないことです。

 つまりこれはサマーディパーワナーの役目で、念処から生じた安定した心があれば、好き嫌いもなくなり、そして、生じている出来事に向き合うことができます。他人を引きずり下ろしたり蹴落としたりという反応はありません。良い感情も悪い感情も、そして恐怖も、発生から消滅まで見つめることができ、知ることができます。興奮し恐れることなく、感情を一時的なものと見、輪廻と見、智者と無関係なものと見ることができます。

 空をイメージして見ると、飛行機や鳥やその他の飛行物体、それらは空ではありません。また空は飛行物体ではありません。心が集中してサマーディになると、感情が雲のように見え、鳥や飛行機が飛び交っているのが見えますが、それだけです。感情はただそれだけのものと感じ始めます。行きたいと思うのもそれだけ。居たいと思うのもそれだけ。好きもそれだけ。嫌いもただそれだけ。

 ただの感情でしかありません。小さな邪魔者にすぎません。白象が子犬に出合うと、子犬が白象の足に噛みついても白象は痛いともうるさいとも感じません。子犬を見下ろし、子犬の群れが噛みついているのを見て可愛いと感じるように、強い心があれば煩悩が耳元で囁いても、無理やり私たちに何かをさせようとしても、あるいは手を変え品を変え攻撃しようとしても、白象が子犬を見るように「可愛い。楽しい」と思えます。

 象がなぜ子犬を恐れるでしょう。煩悩はすべて子犬です。何か問題が起こると、私たちは自分が白象であることを忘れてしまい、自分の体は小さいと思って、子犬の元気が良いのを大暴れと見てしまいます。自分を忘れてしまうからです。

 お願いですからみなさん、静けさの権利の上で眠ってしまわないで下さい。到達する権利は初めから誰にもあるのに、私たちは感情を愉しみ、いろんな考えや気分を愉しみ、「私は。私のもの」と考えるので、ずっと変わらないものと見、人生の幸福の安定はそれらにあると見てしまいます。それを人生の価値と見、それらがなければ自分自身もないと見ます。これこそが大きな考え違いです。

 悪い感情、たとえば他人を殺害しようとか危害を加えようと考えると、自分は悪いと理解します。あるいは自分を犠牲にして他人を助けようと考えると、自分は善人だと誇らしく思います。しかし感情は「それだけ」です。残虐な感情もそれだけ、人情に厚い感情もそれだけです。

 感情を真実のままに見れば、人間の利益になる善の感情だけを、その所有権に惑わされずに選ぶことができます。公共のもの、大衆のものを所有するのは当然違法なので、すべてのものを真実のままに知って、良くないもの、醜いものは殺してしまいます。どうやって殺すかは、それがどんな結果を招くか洞察することです。それだけで十分です。何もしなくても勝手に死んでしまいます。

 読んだことがある経に、こんな話がありました。ブッダがサマーディパーワナーをしておられると、悪魔たちがいろんな者に変身してブッダを騙しにやって来ました。ブッダは目を開いて「悪魔よ、お前の姿が見えたぞ」と言われました。それだけで十分です。悪魔は何も手出しができず、首を振って逃げて行きました。経の中では悪魔を擬人化しています。

 智者とは、飾りや変装に使った小道具に騙されず、悪魔を悪魔と見ることのできる人のことです。悪魔を真実のままに「それだけのもの」と見れば、悪魔は何も手出しができません。闘う必要はありません。何もしなくても良いです。「悪魔よ、お前の姿は見えた。帰ってよい」と答えるだけで十分です。

 だから日常の実践で生じる感情を恐れないでください。私たちは自分で作り上げた自分のイメージに合わない感情を抑え込んでいて、あまり認めたがらないで、抑圧しがちで、長く抑圧しつづけると重圧になります。サマーディパーワナーをした時に、どこから現れるのか知りませんが、「お寺に来てサマーディをする前は、今よりずっと心は静かだった。今は以前より心が乱れて騒がしい」と嘆く人がいるほど恐ろしい形で現れることがあります。

 そうではありません。実践は、今朝したように、暴露するために閉じ込めます。煩悩を箱に入れると、初めのうちは抵抗して私たちの前に現れますが、欲望、怒り、迷いなど、どんな種類の煩悩も発生して成長して消滅し、煩悩は自分自身ではありません。

 「当てにはならない」と「それだけ」、この二つを覚えていれば十分です。実践は安全です。一人で実践しても、師から離れていても何も怖がることはありません。生じて来るものはすべて、良いもの善のものも、良くないもの恐ろしいものも「当てにはならない」「それだけ」と判を押してしまいます。

 サマーディをしている間にニミッタ(像)が現れ、ブッダが救済に来るのを見てもそれだけです。まして悪魔が現れて粉々に踏みつぶされたとしてもそれだけです。ただの映像です。考えること、像として見えることは、ただそれだけです。何かが発生するのも当たり前、それが消えて行くのも当たり前。これは三年も五年もかからずに凡人を聖人に変えることができる知識です。

 学位も必要ありません。小学校一年修了でも到達できます。生じたものは消滅します。私の師であるルアンポー・チャーは、小学校一年で修了でしたが、真理を理解していました。博士課程を修了した人より深く、人生の真実を理解していました。何かが生じるのも当たり前。何かが消滅するのも当たり前です。感情の中身を見ないで、感情の流れ、あるいは感情が感情であることを見なければなりません。

 つまり感情から出て、それを感情と知ります。これだけでも知識です。感情から出るには感情に対して何もする必要はありません。知っているだけで、感情は生じて消えます。「自分ではない」「自分のものではない」。この言葉をみなさんは何百回、何千回、何万回聞いて、飽き飽きしています。しかしこの言葉が意味する真実に触れたことがありますか。そこが重要です。

 最も私たちが理解し難いこと、最も理解し難いことは既に知っていることです。だから古い人にならないで、いつでも新しい人でいて下さい。「これは知っている。何度も聞いたことがある。耳にタコができる程だ」。これはまだ知らず、まだ良く理解していません。理解するほど心が強くないからです。だから心を鍛えなければなりません。心を鍛えて強く美しく熟させます。

 心が美しく熟せば、何を見てもタンマに見える一つの点に達し、いつもブッダの教えを聞いているのと同じです。どこを見ても、何もかもブッダのタンマに見えます。お寺へ行かなくても、遠離しなくても、形・声・香・味・触に触れることが、心の遠離です。

 だから本気で煩悩を手放して下さい。「結局これらの煩悩には価値はない。捨てられないのはまだ利用価値があると思っているからだ」と考えて手放してください。それらから何か良いことがありましたか。価値はないと見なければなりません。鼻水と同じです。鼻水を惜しむ人がどこにいるでしょうか。どこにもいません。私も惜しみません。煩悩は鼻水と同じと思わなければなりません。

 鼻をかむのは煩悩を捨てるようなもの。惜しむことはありません。何の役にも立たない体の異常の症状です。煩悩も心の異常なのでかんで捨ててしまいます。惜しむ必要はありません。捨てれば捨てるほど豊かになります。よく理解して、日常的な習慣になるように手放さなければなりません。

 手放すことは結果の話で原因ではありません。これをよく憶えておかなければなりません。つまり何をするにも、精一杯できるだけのことをすること。最善を尽くすことですが、最善を尽くしても結果は予測できません。保証はできません。自分で管理できないいろんなものがあるので、私たちの行為の結果がどうなるかは、まったく分かりません。是が非でもこうしたい、絶対こうなりたいと強く願えば、必ず苦になります。

 ですから良いことをすれば善を得、悪いことをすれば悪を得るという正しい見解に立たなければなりません。良いことをすれば、間違いなく善を得ます。しかし形になって現れる結果は、期待とは違うかもしれません。しかし期待外れに見えたことも、後になって期待通りの結果を生むこともあり、望み通りだと思ったことも、後になって苦悩や困難に変わることもあり、禍福は常に反転を繰り返しています。

 ですから結果も手放して、多くを期待をしないで下さい。智慧による信仰があれば「善いことをすれば必ず良い報いがある。しかし良い報いというのは良い物を得ることではない。善いことをすると良いものではなく、善が得られる」と理解できます。時には悪事を働いて良いものを得ている人もいます。しかしそれはまったく別の問題です。これはあまりに物質面だけを見すぎています。

 今日の社会は物質社会で、何でも物と見ます。女性は男性を物として見、男性も女性を物として見て、何でもかんでも物になってしまいました。社会の価値観も変わってしまい、昔は良いとされた物も今では価値がなく、かつては良くないと言われた物も今では普通になりました。ですから社会の価値観を生きる基準には出来ません。

 バンコクへ来て今の道路傍の広告を観察すると、「贅沢」という言葉が元の意味と変化しました。最近まで、あるいは十年くらい前までは、贅沢という言葉はかなり悪い意味に使われていましたが、今では褒め言葉になりました。分譲住宅の看板に「贅沢なまでに美しい」などとあるのは、良い意味と言うことでしょう。昔贅沢という言葉は「行き過ぎた、適度を超えた」という意味でしたが、今の社会は適度と言うことを忘れてしまい、この言葉に何も感じません。

 多ければ多いほど良いと思っているからです。だからまだ「発展」という言葉を使います。かつて発展という言葉は、質が向上することを意味していましたが、今では量が増えること、つまり散らかることを意味します。昔より増えたものを発展と呼び、昔静かな遠離と呼んだものを、今は「不毛」発展しないと言います。

 私たちは何を心の基準に生きれば善いでしょうか。それは自分の心の中に、罪と徳に触れることのできるお寺を探すことです。徳も罪も、仏教では理論ではなく、自らの心の中に常に現れている真実なので、興味をもって自分自身の心に注目すれば、心と体の関係、行動と言葉が心に与える影響、行為や言葉に対する心の状態や影響などが、互いに深く関係し合っていることが分かります。

 そしてカンマの法則を信頼する気持ちが生まれ、罪と徳の話を理解するでしょう。「私はいる」「私のものがある」という自分の感覚で何かをすれば、何をやっても自分と他人に迷惑がかかると観察します。心は憂鬱になって重く暗く沈む、これを罪と言います。本当に自分を捨てて何かをすれば、自分の利益は微塵も考えず、他人の利益、他人の幸福のためにすれば、自分の心が明るく澄んでいるのが見える、これが徳です。

 罪を捨てて徳を満たして心を純潔にする前に、罪とは何か、徳とは何か、不純とはどんなことか、純潔とはどんなことか、感情のない心はどのようか知るため、感情のある心を計るものを得るためのサマーディパーワナーの練習はどちらがいいのか、感情に迷った心と、感情に迷わない心はどちらが良いのか、どちらが立派なのかを知らなければなりません。

 これをブッダは、パッチャッタン、ヴェーディタッポー、ヴィンニューヒ、すべての人が必ず自分で知ることと言われました。

 みなさんが、聖人とか阿羅漢と噂されるアーチャンの弟子でも、師の徳は師の徳であり、私たちの徳ではありません。ブッダ在世の頃、どうにもならない人、嫌われ者、憐れむべき僧も、大勢ブッダと同じお寺に住んでいました。現代の聖人と名高いお坊さんがいるお寺にも、素行の麗しくない人がたくさんいるかも知れません。

 だから自分の心を高めるには、師に近づくだけでは十分ではありません。師はただ方向を指さして教えてくれるだけで、実践は私たち自身の問題で、結局自分で舟を漕いで、流れを遡らなければなりません。師は舟を出してくれますが、私たちのために漕いではくれないので、自分で漕がなければなりません。

 それを挑戦と見、人生を意味あるものにし、味わいあるものにしてくれるものと見て、煩悩の身勝手と欲望の流れに逆らわなければなりません。心の実践をスポーツの試合のように捉えて、煩悩に負けるたびに減点し、煩悩に勝つたびに得点を入れます。こうすれば毎日の生活が楽しくなります。タンマで楽しくなります。

 みなさん、楽しく、気持ち良く実践をして下さい。まだ正しい実践と言える段階でなくても、実践が好きであってください。本当に実践が好きなら、疑うまでもなく自然に楽しくなります。実践の楽しさを見つけなければなりません。あまり真剣になり過ぎないで、あまり緊張しないで、適度な実践を心掛けてください。

 これは常に調整しなければなりません。気持ちが緩んでいると感じたら気持ちを新たにしなければならないし、緊張しすぎているようなら、他人を煩わしく感じたり、イライラしやすかったら、リラックスしなければなりません。

 心が怒りに傾いたら、慈悲の心を育て、人間同朋に慈悲を持ちます。心が貪欲に傾き、美しいものに惹かれたら、身体の三十二の状態(日本で言う五体のように、人間の体を三十二の部分に分ける考え方)について考えます。このように自分の心を解放して、実践行動で自分を変えます。

 ブッダの教えに従って三宝を敬うこと、師を敬うことなどは、教えを説く僧たちは見返りとして望んではいません。策略や秘密がなく、自分とすべての生きものの利益のために力の限り尽くす目的以外には何もない、適度に真剣なみなさんの行動以外には。




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