道は険しい

     実践の道は険しいですが、道は快適さよりはむしろ困難からの方が生じやすいのです。

     快適さは人を油断させますが、煩悩と闘っている時こそ実践が進歩するからです。

     だから壁に打ち当たって足掻いたり、七転八倒の苦しみにあっても心配はいりません。

     それはみなさんの実践が止観に入っている証拠です。

     マッサージのツボのように、痛くないところは揉む必要はありませんが、

     押して痛いところがあれば「ああそこだ、そこがツボだ」となります。

     痛いから分かるのです。

     実践もこうでなければなりません。

     痛みがあり、辛くなくてはなりません。

     「楽を求めれば苦を得、苦労は福を得る」という東北地方の諺のように。

     

      仏教の本質はその人の人生の本質にあります。

      なぜなら仏教はお寺の話でも、他の外部の話でもなく、

      私たちの話だからです。

何のために実践するのか

1990年暮

   ほとんどの在家の方は、正しく良い実践をしているお坊さんのお寺へ行くと、気持良く感じます。私たち僧も同じで、本気でタンマを実践している在家を見ると気持が良いです。

 今日私は、ブッダの教えで自分を訓練をするために、お忙しい中、ご都合をつけておいでになった百人を越すみなさんを励まし、考えるヒントと実践原則を差し上げる機会に恵まれまれたことを嬉しく思います。

 このような行事を、私は塩を食べる会と名付けたことがあります。塩の近くで灰汁を食べると言われるように、みなさんはほとんど灰汁しか食べたことがないからです。何年も灰汁ばかり食べていると、塩が少し足りないと思うので、塩を食べる会が必要です。私たちの塩を食べる方法は、自分の煩悩を研き落とす以外にありません。

実践行動に関して大事なことは、その行動をよく理解すること、仏教の言葉では正しい見解と言い、正しい見方、考え方を持つことです。私の戒師であるルアンポー・チャーは「忘れないでください。何かのために実践してはいけません。何かを手に入れるため、あるいは何かになるために実践してはいけません。手放すため、手放して下すために実践するのです」と常々言っておられました。もし何かいいものを習得して家に持って帰ろうなどと考えて実践をしたら、がっかりします。尾籠な例えで失礼ですが、実際お寺は厠のようなものです。

「お寺へ行って何か得るものがあった? 何か得る物があるかと思ったら何もないなんて、トイレへ行くのと変わらないじゃない」と言う人がよくいます。しかし汚物を排泄できるのですから、役立つことに変わりありません。

 ですから実践は何かいいものを得る機会と思わずに、仏教に善を供える機会だと思うべきなのです。というのは、現代のタイのみなさんは日に日に仏教から遠ざかっていて、知識人でも仏教の教えを理解していないと明らかに分かる言動をする人がいるほどです。例えば大物官僚が「僧には森を護る義務はない」などと発言することです。

パーリ(ブッダの言葉)を読むと「僧や実践者が喜んで森に居住するかぎり、仏教がこの世から消えることはない」というブッダの教えに出合います。ですから森で暮らすこと、木々の近くにいることは重要なことなのです。私たちはもっと仏教の理解を深めなければなりません。

 今年、私はアメリカから招待されて仏教の布教に行くと、「タイは仏教を信仰しているのに、なぜ汚職やいろいろな問題があり、殺人事件が世界で二番目に多いのか、どうしてそんなに犯罪が多いのか」と質問する人がいました。

 私は冗談半分に、「もしかすると、国の重要人物は子供の時からキリスト教の学校で学び、アメリカの大学で学位をとるからかも知れませんよ」と答えました。つまり仏教を責めることはできないと。タイは仏教が多いと言っても、仏教は少なく、私たちはまだ仏教の要旨を理解しておらず、まだまだ仏教の外皮だけで満足しているからです。

 仏教の要旨を理解する方法は私たちの行動にあります。ブッダは「苦は無明から生じる。苦は愚かさから生じる。苦の原因になること、つまり行為によって無明を作らないことである」と教えておられます。簡単に俗世の言葉で言えば、タンマの実践とは自分の愚かさを減らすことです。だからタンマの実践をする時間がないと言う人は、自分の愚かさを減らす時間がないと言うのと同じです。実際にあってはならないことです。

 時間はあります。私たちの生活は体と言葉と心で成立していて、これらはじっとしていることが苦手で、常に動きがなくてはいられません。仏教でいう身業、口業、意業です。だからこの世界に行動がないということはあり得ません。

 私たちはみんな何らかの行為をしています。しかし大切なことは何をしているかということです。私たちには行為するかしないかという選択はありませんが、善である行為をするか、善でない、あるいは悪徳行為をするかを選択することはできます。

 今日私は、みなさんがスアンモークの塩を食べる会にお出でになり、仏教の要旨を理解するために自分自身を研く決意をなさったのを見て、喜ばしく思います。

 仏教の要旨はどこにあるのかは、仏教の本質は自分の生活の本質にあります。なぜなら仏教は私たちの話で、お寺や外部の人の話ではないからです。私たち一人ひとりの話です。私たちは誰でも苦があり、欲望があり、集(苦の原因)があります。だからそれらの苦を滅す方法を探さなければなりません。私たちは苦のない状態をよく理解しなければなりません。私たちはそれを人間が理解できるもっとも崇高なものと見なします。

男でも女でも、どんな国のどんな階級の人でも、煩悩の威力から逃れる機会と力と潜在能力が、多かれ少なかれあります。

 だから実践して少しずつ自分の愚かさを減らします。多くなくてもいいです。焦らないで少しずつで良く、少しずつ減って行きます。

 それに、実践の過程を他の人と比較しないでください。苦しくなるだけで愚かです。他人を見ないで自分を見、自分の体と心の動きを良く観察して、生きるとは何かを理解しなければなりません。それが楽しく、そこに幸せがあると言います。

 しかし実践がそのように順調にいくのはごく僅かの人だけで、実際には簡単ではありません。ほとんどの人は七転八倒しなければなりません。しかし智慧は障害と闘うことから生じ、障害が多ければ多いほど智慧が生じる機会が多いという真実を熟慮すべきです。だから多くの障害を抱えた人は、福分の多い人、羨ましい人です。

 私の師であるルアンポー・チャーは、たくさんの障害に遭遇した人で、忍耐でそれらの障害を乗り越えて来られました。師はとても立派な方で、現代のタイで広く国民の尊敬を集めています。それというのも自分で苦を経験しているから、相談者が遭遇している問題を詳細に理解できるので、弟子たちを指導する時不思議なほど弟子の心にふさわしい言葉やタンマを選べるからかもしれません。もし師の実践がもっと楽だったら、これほど人に教える智慧がなかったかもしれません。

 自分自身を見つめる場合も同じで、今問題の真只中にいても挫けないで、怖じ気ないで、諦めずにじっと耐え続ければ、いつかその障害を乗り越えられると自分を励まします。なぜなら、良いことをすれば良い報いがあり、悪事を働けば悪い報いがあると、ブッダが確認されているからです。信じる信じないに関わらず、これは自然の不変の法則です。

 最高の善、あるいは徳は、パーワナーです。苦しい時もパーワナー、問題に遭遇した時もパーワナーします。私たちは問題を恐れはしません。それはバーラミー(波羅密。悟りに到るための徳や持戒)を積むことであり、自分の心を洗い清めることで、そしてその問題を乗り越えた時、同じ問題を抱えている人を助けることができます。こう考えれば気力になります。

 心の訓練は子供のしつけと似ていて、叱るだけでもだめ、褒めるだけご機嫌をとるだけでもだめです。どちらか一方だけでなく、どんな時に励ますべきか、どんな時に叱るべきかを判断する知性がなくてはなりません。この中道には右折も左折もあります。つまり中道というのはずっと同じようにすることではありません。ちょうど良い程度を知る繊細な感覚を養うことが重要です。このちょうど良いということは、煩悩を濯ぐのにちょうど良いということで、私たちが目指すのは智慧の希求と、すべての執着からの解放です。

 ブッダの教えには分かりやすいものもあれば、聞いてもよく分からないものもあります。ある教えを聞くとしみじみと感動し、ある教えは聞いても意味が分からず、ある教えは聞いても無感動だったり、いい感じがしなかったりします。しかし実践者の生活にとって非常に重要な一つの教えがあります。それは「滅」、つまり消すこと。もしこれを実践の目標に据えたら、多分たくさんの方はあまり面白味のない目標だと思われるかもしれませんが、何としてもこれを理解しなくてはなりません。

 鋸を例に説明させていただくと、木を切っている時の電動鋸は非常に大きな音を立ててうるさく、長時間聞かされているとストレスを感じ、そして最後に機械が止まります。その時のことを想像してみてください。どう感じるでしょうか。これが「滅」です。苦を滅すことはこのような状態です。その後のことを想像してみてください。電動鋸がとまった後、音が何もなくなってしまう訳ではなく、音はあります。たとえば鳥の声、風の音など、自然の音が聞こえてきますが、自然の音は耳障りではなく、味わっている静寂の妨害になりません。

苦を滅した後には何もないのではなく、その後にあるのは清涼感です。私はあまり「空」という言葉を使いたくありません。この言葉はかなり危険だと思うのです。誤解をする人がいるので、清涼感と言った方が良いです。

 たとえば大きな部屋、あるいは集会所があったとします。窓や扉をすべて開け放つと、外気が流れこみ、光が差し込んできます。するとその部屋が空でなくても、机やイや人やその他にもいろいろな物があっても、それをごちゃごちゃしているとは感じません。とても清々しいと感じます。私たちの心も同じで、苦が滅してしまったら心は空っぽで、人生は味気なく乾ききってしまう訳ではありません。不潔を取り除いた後には何があるでしょう。清潔があります。混乱が消えた後には平安があります。そしてそれは智慧でできた平安で、長続きする平安です。

 それによって私たちは完璧な真中、つまりあるレベルの「捨」に達することができます。それは無関心や生じた真中ではありません。外部のものを受け入れた訳でも、障害物を回避している訳でもないので、智慧に依存した真ん中、すべての物事は不変ではないという真実を知っている真ん中です。

 喜びも束の間、悲しみも束の間、望みが叶うのも失望するのも、進歩も後退も、ある場所にいることもみんな常に変化していくこと。ずっといたいと願ってもどうなるか分かりはしないし、家へ帰りたくても先のことは分からない。何かに興奮しても逆に飽き飽きしても、すべて一時的なことでしかない。これが正しい見解による静かさです。

 この静かさは「サマタ=止」(心を鎮めること)から生じる静かさであり、勇敢で善です。しかし私たちに不可欠なものは鋭敏な智慧、あるいは煩悩に打ち勝つ力のある智慧で、当然基本である静かな心から生じる快活なものです。しかしサマタパーワナ(止業処)から生じる静かさは壊れやすい静かさで、実践で目指すべき静かさは、すべての物事を真実のままに知ること、弁えることから生じる静かさです。

 私たちは人生の真実を理解するために実践をするのを忘れないで下さい。人は現世で真実を知りたいと望み、この生での解脱を望んでいます。現代人の心に生じる欲望の多くは、人間の根源的な欲求である、自由の欲求を抑えていることが原因です。

 何十年も前にフロイトというユダヤ人哲学者がいて、現代の西洋の文化に大きな影響を与えた人ですが、もしかしたら東洋の文化にも、大きな影響を与えているかも知れません。その人の説いた有名な説があり、それは信仰や宗教への関心は性的欲求不満から生じると言います。しかし私は正反対の考え方をしています。性的耽溺は宗教的な要求が満たされないから生じます。真実の要求、真理の希求、貪りや怒りや寂しさから脱したい自分自身の欲求を見なければなりません。

 智慧は誰にでもありますが、たいてい元々の智慧は心が作った不安定に覆い包まれ、あるいは積み重ねられています。人は表面的な命で生活していても、心の奥底には家への郷愁があります。ルアンポー・チャーの口真似をすれば、本当の家への郷愁です。一般の人の日常生活は、当然表面的な、あるいは生老病死の流れの中の幸福を追求しています。しかしなぜ私たちは一度も満足しないのか、どうして寂しさを感じるのかと懐疑を抱き、時には胸が詰まるように感じ、何かが欠けているように感じますが、何が欠けているのか知りません。これは宗教的欲求を抑えていることの現れです。

 あらゆる信頼できないものたちとの交遊に背を向けて、自分の利益と他人の利益を考えます。「形」も裏切るもので「声」も裏切るもので、「臭い」も「味」も「感触」も裏切るものです。形・声・臭・味・触・考えはただの友達であって刎頸の友ではありません。刎頸の友はただ一方、ブッダだけです。それで人は人生に何を求めますか。ただの友達、それとも刎頸の友。刎頸の友を望むなら、ブッダとタンマと僧を心の拠り所とし、宗教のタンマのために奉仕しなければなりません。

 今私が観察する限り、みなさんの多くは宗教のために何でも捧げる用意があるように思います。たった一つ自分の利益を除けば。こういうのを身びいきと言って、まだ宗教に達していません。私たちはブッダの味方になり、真実の味方をし、正義の味方をしなければなりません。

煩悩の誘惑に耐えられる強さと信仰があり、お気に入りの物も犠牲にする覚悟が必要で、自分の好きなことが自分や他人の苦になるなら、あるいは自然環境に害を与えるなら、自分の楽しみを犠牲にしなければなりません。しかし犠牲を払えば払うほど幸福になれ、重いものを捨てれば捨てるほど軽くなり、汚いものを掻き出せば出すほど、清潔さで明るくなります。

 私たちが「私」「私の」という気持ちに塗れていればタンマは生じません。この感覚の害について考え、これに勝つために実践をしなければなりません。

 命とは何でしょう。「私」という言葉はどんな意味でしょう。私という言葉の使い方を観察して見ると、様々な意味に使われています。私は疲れた。私はお腹が空いている。私は幸せ。私は傷心している。私は憶えている。私は憶えていない。私はこう考える。私は好き。私は嫌い。私は見た。私は聞いた。「私」という言葉は変わりませんが、意味するものは何時も変化しています。

 注意して見ると「私」という言葉が意味するものはブッダの言われる「五蘊」(人間の心身を五つに分けたもの。形・受・想・行・識)のことで、私は空腹だと言う場合は体(形薀)が空腹という意味であり、私は幸せとは、幸せな感情(受蘊)が生じたという意味で、私は憶えているというのは、記憶(想蘊)が蘇ったということで、私は好きというのは、好きという感情が生じたという意味で、私は見た、あるいは聞いたというのは識蘊の働きです。このように深く考えることで智慧が生じます。

 私たちは自分の心を安定した心にするためにサマーディパーワナーをしますが、それは実践の目的ではありません。通常私たちの心は、風に曝されている蝋燭のようで、蝋燭が風に曝されていればそれを頼りに仕事をすることはできないので、蝋燭を風のない静かな場所に移さなければなりません。そうすれば本も読めるし仕事もできます。

 私たちの心も同じで、想念の風に曝されていたら風のない静かな所に移さねばなりません。絶え間ない想念から隔離し、性欲や蓋を避けた静けさの中で、清々しい心で自分の中にあるものを見つめます。遠くのものを見る必要はありません。素材はもう十分揃っているので、それ以上買う必要も注文する必要もありません。まだ見えないだけ、十分な関心を寄せていないだけです。

 私たちはまだ囚人で、外部の愉しさという鉄格子の中に囚われています。外部の愉しさは、当然人間の心を覆い隠してしまいます。愉しさの鉄格子に囲まれている以外に、私たちは他人を非難することで苦しんでいます。他人を叱り非難することが好きで、あの人を非難しこの人に怒り、親に腹を立て子や孫を叱り、政府や経済に憤慨し食べ物に文句を言い、この世界に怒りの対象になるものは数えきれません。けれどもそういうものから苦は生じません。これらはただの条件、あるいは縁、あるいは刺激でしかなく、苦は心にあります。

 でずから自分自身を観察してください。怒りの心が起こりそうになった時、他人や外部のことに腹を立てそうな時、それらの感情を抑え、何がどう生じてどう消えて行くか、自分の内面を見つめて下さい。こういう話の理解が欲しいです。

 平和は揉め事を避けること、降り掛かって来るものを避けることにあると考えてはいけません。何かが降り掛かってくるのは当たり前のことです。しかし降り掛かってくるものに応戦しないで、そのままにすればやがて消滅します。

 人生をお寺の鐘のようにします。お寺の鐘は打たれることで利益が生じます。打たれる度にゴーン。綺麗な音ですね。それに利益もあります。しょっちゅう打たれているのでストレスが溜まると、泣きごとを言う鐘はどこにもありません。役立っていることに誇りを感じています。心にぶつからせておきましょう。ぶつかって来るのを止めることは出来ないのですから。でも心に届いたらどうするか。その時こそ自分で対処できます。そこに実践があります。

 みなさんの生活は複雑にからみ合っていますか。どうしたらもつれないでしょうか。私たちの周りに複雑な問題があるのは当たり前です。しかし向こうが私たちに近寄ってきても、それを相手にする必要はありません。心に理性があり、今自分の心がどんな状態にあるか、善か罪か、徳か悪徳かを自覚するサティがあれば、自分で防ぐことが出来ます。

 今自分は何をしているのか。今何のためにしているのか。今自分は何を喋っているのか。何のために喋っているのか。意味あることのために喋っているのか、それとも暇つぶしのために喋っているのか。実際この暇つぶしというのは五戒の殺生を禁じる項に触れるもので、悪ですよ。(注・暇つぶしをタイ語では時間殺しと言うので殺生になるという洒落)悪いことなんです。小さなことでもその害を見てください。私たちの時間は非常に少ないです。

 実践者の見解は、サティがあり智慧があり自分を失わなければ、すべてをタンマと見ることができ、二度とこれは善い、これは悪い、あれは幸運、それは悪運などと考えることはありません。降りかかってどんなことも、すべて自分の知性に対する挑戦と考え、人生を挑戦と見ます。

 愛すもの嬉しいことに遭遇して笑うばかりでなく、望まないことに遭遇して泣いていたら、こういうのは人生に振り回されるばかりで苦が尽きません。しかし、いつでも真実と向き合う準備があれば平坦になります。

 このように強い心はサティに育てられた心です。そしてそのためにはサマーディパワナーがとても重要です。サマーディパーワナーをしていなkればサティが敏速に働かないので、煩悩に間に合わないからです。煩悩はとても敏捷なので、ときどきサマーディパーワナーをしてサティを鍛えなければ、サティは煩悩に適いません。

 サマーディパーワナーで培ったサティは、利己的な社会の中で利己的でなく生きること、欲深い人々の中で足ることを知って貪らずに生きること、怒りっぽい人々の中で慈心で生きること、他に対して寛容で友愛で他人を許す、そういう生き方を支えてくれます。「この恨み晴らさずおくものか」という中国のような考えは採り入れず、恨むより許さなければならないという仏教の考えを採用し、迷いばかりの人の中で常自覚があり、自分自身を知って生きます。

 そのような生き方を実践することで、私たちも仏教を広めることができます。つまり、僧衣を身に纏わなくても「僧は世界の徳の田。僧より偉大な徳の田はない」と僧を賞賛する経文を唱えることで布教することができます。

 私たちが本気で実践して清々しい心を維持し、人を好き嫌いで分け隔てせず人間同胞に対して慈悲があれば、私たちと会話し、触れ合った人たちも清々しい心になり、とても気持ち良く感じ、私たちが原因でその人の心も善である幸福になります。ですからこの場合、私たちはその人にとっての徳の田と呼べます。徳の高いお坊さんのように偉大な徳の田でなくとも、誰かにとって小さな徳の田になれます。それだけでも誇らしいです。それだけでも家族にとって、社会にとって、世界にとって大きな利益があり、仏教にとって最高の宣伝になります。

 しかし今、人はあまり宗教的でなく、仏教徒と言うより説教徒で、話すことは達者でも実行が伴いません。他人のことを批判して自分も同じことをしています。人が自分を尊敬してくれないとか、今の子供は昔と違って祖父母を尊敬しないと、愚痴ばかりこぼし、人の文句ばかり言います。人を責めてばかりで、自分が尊敬に値するかなどと考えません。尊敬してくれないと他人ばかり責めて僻んで自分自身の価値を省みません。

 仏教は自分に責任をもつ話で、都合の良いことだけ受入れ、都合の悪いことは拒否するのではなく、どちらの責任も取りま、善だけを行う人になるよう常に自分自身を改革する努力をします。しかしそれは善のための善で、善が好きだから善を行うのであって、善人になるためではありません。善人になれば苦になります。

 何年もまえのことですが、ルアンポー・チャーがイギリスのチットホース寺を訪れたことがありました。大乗仏教の教えを受けたことのある一人の在家信者が、「阿羅漢になるために実践するのと、菩薩になるために実践するのと、どちらが良いのですか。どちらが立派なのですか」と、実践についてルアンポー・チャーに質問をしました。

 ルアンポー・チャーは「何にもならないで下さい。阿羅漢にも、菩薩にもならないで下さい。ブッダにさえならないで下さい。何かになれば、なった途端に苦が生じます」と答えました。

 つまり、善人になるな、善人のレベルになるな、ということです。善人になったら悪人を煩わしく感じ、現代は善人より悪人の方がはるかに多いので、どこへ行っても憂鬱で不満ばかり感じます。喫煙を止めた人が、まだ煙草を吸っている人に対してお説教するようなもので、これを善中毒と言います。ルアンポー・チャーは中毒になってはいけないと言っています。たとえ善でも中毒になってはいけません。中毒になったら苦しいだけ、心を苦しめるだけです。

 仏教の教えは論理でも哲学でもなく、実践者の心に現れた深遠な真実を、人間の言葉で表したものです。しかし話しているものがタンマではありません。タンマとは私たちが知らなければならないこと、見なければならないこと、心の中で明確に触れなければならないことです。

 タンマへ到達した時に、智慧が生じたと言い、続いてかならず心に生じるのが「悲(他人の苦しみを理解し、取り除いてやりたいと思うこと)」で、自分が好きなことは他人も好き、自分が嫌いなことは他人も嫌いと考えることです。自分を観察して見ると、煩悩は自然に湧いてきて、自分では誘っても招いてもいません。長くは居続けることもできないし、追い払っても去らず、消えてどこへ行くのかも知りませんが、私たちを支配します。

 私たちが腹を立て、他人のことに腹を立てたくないと思っても、相手の出方によっては我慢できなくなります。自分自身を観察すると、怒っている時怒りは自然に生まれ、自然に消えていくのが見えます。ここで他人が自分のことを怒っている時は、自分がどうだったかを思い出して下さい。相手も同じで、きっと私たちのことを怒りたくはないのです。でも怒りが自然に生まれて、そして自然に消えて行きます。

 これがヴィパッサナーです。日常生活にも応用することができます。煩悩は常に変化するものであり、苦であり、実体がなく、生じては消えてゆくものと見ます。そして自分の煩悩がそうなら他人の煩悩も同じ、何も違いはないと見ます。

それから自分自身を「良い実践者であろうと勤め、良い仏教徒であろうと努力しているのに、時々誤ってしまう。良いと分かっていることを行わず、悪いと分かっていることも、我慢できずにやってしまう」と見ます。あの人もこの場合の私たちと同じなのです。他人も自分も同じです。私たちの心はまだ強くないので、自分自身を許し、自分自身を慈しんで、そして他人も慈しまなければなりません。

 私が観察した限り、怒りっぽい人のほとんどは、自分自身に慈愛がないからです。自分自身を正しい意味で愛していません。自分に対して慈しみがなくて、どうして他人を愛せるでしょうか。施しをしたいと思った時にお金がないのと同じで、自分の心に慈しみがなければ、他人に優しくできません。

 今は国中の誰もが、年末年始の祝福カードを送り合っています。祝福カードを送る人は、他人に分けてやるほどの幸福があるのでしょうか。説教徒は喋るだけですが、タンマを実践する私たちは、自分の心に幸福があるからこそ、他人の心に幸福にすることができます。これはとても人間のためになることです。

自分を利することと他人を利することには何の矛盾もありません。群れから離れてタンマの実践をすることは、社会にとって有益であり、世界を救うことです。実践から得た心の静かさ、あるいはここでの実践中に生じた自分への理解を個人のものとして仕舞っておいてはいけません。私たちは一人の世界に住んでいるのではなく他人の中で生きているので、私たちの善も悪も、他人に、普通の人に波及しなければならないからです。

 他人を助けたかったら自分を助けなければなりません。自分の利益と他人の利益は同じだからです。結果が出るまで本当の意味で他人を援助したいと思ったら、煩悩と戦うことに賢くなければなりません。善意だけでは足りません。善意は歪みやすく、それでも自分では気がつかないからです。煩悩の策略、計略に気づかないので、自分の心を信じないで下さい。自分を欺いてばかりで一番信用できません。自分の考えを信じないで下さい。一番当てにならないのですから。

 生じて来るものは何もかも不確実で当てになりません。正しい見解の話はここにあります。簡単に言えば「当てにならない」です。好きも当てにはなりません。嫌いも当てになりません。行くも当てにならないし、居るも当てにはなりません。自分の心の中に生じて来るものを滑稽と見てください。真剣になりすぎてはいけません。

公共のものに所有権を持とうとしないでください。感情は公共のもので自分のものではありません。感情には権利書がないのですから買うことはできません。感情は自然のものです。自然のものは自然のものにしておいてください。関わり合いになってはいけません。誘いに乗ってはいけません。そうすれば感情を困らせることができます。たくさん自分を見つめ、心の中で生じては消えていくものに関心を寄せれば智慧が生じ、そしてその智慧を世界の利益のために、誇らしい人生のために、日常生活に応用します。

 私たち全員が仏教を継承していく一翼を担っています。タイの良いところは仏教があることで、タイの悪いところは仏教がないことです。私たちが自分の体と言葉と行動で仏教を護り育てて行くならば、現代であれ未来であれ、すべての物事を善い方向へ変えることができます。

 


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