第五章 各国における仏教の繁栄

インド 

 

 まだ仏教が栄えていた頃のインドには、タンマと律を厳格に実践し、自らを世界の手本とする比丘が絶えず存在した。インドから近隣諸国や国内の遠方へ遊説する比丘も、自国での正しい実践の手本にするために、いろんな国々から「ダンマ・ヴィナヤ(教えと律)」の勉学を求めて集まってくる比丘もいて、インドの技術と文化は、中国、チベット、ビルマ、そして東南アジアの国々に広まった。東南アジアとはインドシナ半島のビルマ、モン、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムのことで、チョンプータヴィーパ(インド半島)の最果てと呼ばれ、現代では大インド、あるいは外インドと呼ばれている。この地域には何百年にもわたってインドの文化が広まり、この地域の文字や言葉にも、インドの影響のあるものがたくさんある。

 その後アショーカ大王が仏教を布教した後にも、アショーカ王に倣って仏教を擁護し布教に努めた王はインドの各時代、各地に存在した。

ガンダーラ時代

 仏暦663−705年(西暦120−162年)頃、ガンダーラ地方のプルシャ国(現在のペシャワル)のカニシカ王は仏教への信仰が厚く、北部の僧を集めて結集を行い、仏塔や仏像を建立し、大乗の教義を大々的に広めた。この大乗教義の布教規模は、アショーカ大王の声聞派の仏教の布教に匹敵するもので、これによって大乗は中央アジア、中国南部、そしてスリランカに広まり、大乗仏教と声聞派仏教はインドのすべての地で混合した。

アマラワディ時代

 仏暦663−725年(西暦120−182年)頃、アマラワディと呼ばれるインド南部のクリシュナー川とゴータワリー川に挟まれた辺りは、もう一つの仏教の中心地で、仏足石や仏塔などの仏教遺跡が発見されている。

 アマラワディの美術は大インド全体に広まり、タイではナコンパトムで初転法輪を描いた大きな石碑と初転法輪像が、ポントゥックで衆生救済像が、ナコンラーチャシマでトウリ天からの降下像が発見されている。アマラワディ時代の仏像は、他にもフランス領インドシナ、マレー、スマトラ、ジャワからシリビス島まで各地で発見されている。これらはすべてアマラワディ仏教(声聞派と大乗の混合したもの)が大インド地域全体を覆い尽くしていたことを表している。

グパタ時代

 仏暦860−1042年(西暦317−499年)、インドではグパタ王朝が偉大な権力を持ち、政治の中心があり、マガタ国では声聞派と大乗が共に繁栄していた。この時代の重要な仏教美術には、非常に美しい石窟寺院アラームアージャンタがある。

仏教大学

 この時代、アラームナーランダー(ブッダガヤ近郊)は非常に発展し、タンマの教育と実践の中心地で、何千人もの比丘学生がタンマと律を厳しく順守していた。する外国人留学生比丘も多く、留学生比丘のための特別受け入れ施設も用意されていた。仏教とその他の学問の教育が非常に盛んで、現代の世界の発展した大学のようにアラームナーランダーには最高の知識のある比丘がいて、仏教のすべての宗派の教典があり、何でも学ぶことができた。

 この教育施設は手厚い庇護を受けていて、留学生比丘たちは各国から定期的に寄せられる生活物資(衣食住薬)の支給を受けることができた。

 大インドの各地にグパタ様式の仏教美術が残っている。これはグパタ時代にインドと大インド地域の間に直接交流があったことを表している。

バーラ時代

 仏暦1237−1740年(西暦694−1197年)頃、バーラ王朝がマガタラーダを中心としたインドに勢力を持っていた。この王朝は大乗仏教を庇護し、インド全域と大インド全帯の大乗を支援し繁栄させた。

 チャイヤー(タイ南部の町)ではバーラ様式の観音像が発見されている。バーラ様式の仏像は他の時代の仏像と同様、北はチエンセン、南はスマトラ、ジャワまで、インドシナの各地で見ることができる。アラームナーランダーの仏教大学はこの時代にも仏教教育とタンマの実践の中心地だった。

 仏暦1800年(西暦1257年)頃イスラム勢力がインドに侵攻して比丘たちは殺害され、あるいはチベットやネパールなどの近隣諸国に避難し、仏教大学や仏塔や寺院は壊滅した。インドの仏教はこの時滅びたと言える。

 現在のインドでは、マハーポーティ協会がインド国内での仏教復興に努めている。ブッダガヤとイシパタナマルカターヤワン、カルカッタに大きな事務所を設置して比丘を常駐させていて、同地に仏教大学を建設する計画もある。

 

スリランカ

 アショーカ王の時代にマヒナダテーラが仏教を立教して以来、スリランカでは現在まで仏教を繁栄させている。インドの仏教が絶滅した後は、仏教発祥の地インドに代わるタンマの実践と教育の中心地として、大インド地域の仏教の純潔な繁栄を支えている。

 国が混乱している時代には偽りの人が出家して仏教を衰退させたが、混乱が治まると仏教の支援者である国王が結集を行って偽の比丘を純潔な比丘がいるサンガから追放し、タンマと律に従って規則を作り、一つの教義に統一し、同じ「ダンマ・ヴィナヤ(教えと律)」を尊重してきたことが、本来の純粋な仏教を今日まで繁栄させている所以である。

 スリランカの各時代の王は、永遠に純潔な仏教を維持するためにアショーカ王に倣って随時結集を行い、破戒僧をサンガから追放した。

 ビルマとモンはスリランカサンガの実践様式を受け入れて立教し、タイもシータマラート時代、スコタイ時代、ランナータイ時代にスリランカの仏教を受け入れている。スリランカでタンマの実践が盛んな時代にはタイから沢山の比丘がスリランカへ勉強に行き、また比丘を招聘してその教えを受け、タイ、クメール(現在のカンボジア)、ルアンプラバン(ラオス北部にあった国)、ランナー(現在タイのチエンマイにあった国)は、スリランカに倣って仏教を復興させた。

スリランカの仏教復興

 新しい仏教復興の動きは、ブラヴァッキーというロシア人女性とH.S.オルコット大佐というアメリカ人の二人が仏教の研究のために「Theosophical Society」という協会を設立し、一八八〇年にスリランカのゴールで五戒を守る清信士、清信女であると表明したことから始まった。Theosophical Societyは仏教普及のために英語の本をインドで次々に出版したので、学生たちが仏教に興味をもって学習できるようになった。

アナーガリカ ダルマパーラ

 ドン・デーヴィッド・ヘワヴィターロンは敬虔な仏教徒の家に生まれ、わずか十四歳で仏教に関心を持ち、Theosophical Society のことを知った。Theosophical Society のメンバーがスリランカを訪れ、ゴールで仏教徒であると表明すると、ドン・デーヴィッド少年は歓迎のために出向いて面識を得た。

 1885年、十六歳になると、ブラヴァッキー女史の勧めで仏教に身を捧げる決意をし、少年は純潔を守り、仏教普及のために Theosophical Society と共に活動する許しを父に乞い、家を出たその時から「アナーガリカ・ダルマパーラ」と名乗った。

 1891年、仏教の聖地であるブッダガヤを維持し、インドに仏教を普及させるために「マハーポーティ協会」を設立した。この協会は現在も世界の仏教の中心的な存在となっている。スリランカでの仏教教育は、アナーガリカ・ダルマパーラが中心であるマハーポーティ協会スリランカ支部の努力によって発展した。

 1893年、シカゴで宗教会議が開催され、その際仏教の代表として招かれ、全身白衣という仏教者の服装で会議に出席して講演を行い、その後シカゴからイギリスへ渡り、聖書の編者であり、キリスト教の最高知恵者であるマックス・ミュラー オックスフォード大学教授と会談した。

 1920年、マハーポーティ協会はインド政府から寄与された仏舎利を安置するために、カルカッタにシータマラージカ寺院を設立し、協会の本部とした。

 1925年、イギリスへ渡り、イギリスでの仏教布教拠点とするために、マハーポーティ協会の支部を開設し、ニューヨーク支部、ドイツ支部も作られ、ロンドンには三人の比丘が派遣された。

 1931年、イシパタナマルカターヤワンのサーラナートに、インド政府から寄与された仏舎利を収めたムーラカンダクティ寺院を建立し、仏教布教の本拠地とし、ヒンディー語の書籍「仏教使節」を刊行した。寺は人民救済のための薬房と学校を併設している。

 1932年、出家して沙弥になり、1933年、具足戒を受けてシーテーワミッタダルマパーラ比丘となり、同年四月二九日、同地で没した。

 アナーガリカ・ダルマパーラは大乗式の誓願をしていた。必ず具足戒を受けて出家し比丘になること。そしてインドに仏教を布教するために、仏暦五〇〇〇年(西暦4457年)までの間に、あと二十五回生まれて来ることの二つである。

 スリランカには高学歴で一般教養の豊かな仏教教団員が何人もいて、マハーポーティ協会の設立時の会長であるスマンガラ長老は、イギリスの研究協議会であるロイヤルアジアンティックのメンバーであり、コロンボにあるヴィッタヨータヤ大学の創設者でもある。この大学では多くの比丘に高等教育を受けさせ、外国人に対する布教活動を推進させることができる。

 マハーポーティ協会はスリランカの比丘と沙弥たちをサーロビンソナータタゴール大学に留学させたこともある。この時の留学生たちは、卒業後アナーガリカ・ダルマパーラの仕事を引き継ぎ、仏教の伝承と布教のために尽力した。スリランカの仏教界は仏教の初期から現在に至るまで、純粋な仏教の維持と繁栄に重要な役割を果している。

 

ビルマとモン

 モンはスワンナプーム時代(仏暦300−700)に仏教を立教し、今日まで続いている。アヌルッダ大王の時代(西暦1057年)に、比丘サンガを清浄にし、「ダンマ・ヴィナヤ」で比丘の規律を定めたことで、再び純潔な仏教が繁栄している。

清信士ピダカドン

 タンマチェディー王(西暦1476年)の時代に、仏教を拭き清めさせ、その詳細を「カンラヤニー録」と呼ばれる記録にして残した。

 「一つ。僧のみなさん。世尊が定めた教条(学習すべきこと)にふさわしく「ヴィナヤ(律)」で正しい実践をするよう努めなさい。モン国にはいろんな宗派があるので、仏教に汚濁や危険が生じた。マハーヴィハーンワーシ派の比丘より続いているシンハラ(スリランカ)の具足戒を受け継いでいる僧のみなさん、十分な信仰がある方はシンハラの長老のように、すべての僧は剃髪して僧衣を纏い、そして全員一つの宗派にしなさい。

 ラーマティボディ王はこのようにモン国のすべての比丘たちに三務を発布する。金銀財宝、象や馬、牛や水牛や奴隷を所有しているすべての比丘に対して、王は王族の子息たちにも、他の比丘とまったく同じ規律に従うことを求める。もしみなが純潔な信仰があると言うなら、そして自分の財宝を捨てることができるなら、象、馬、牛、水牛、奴隷たちを捨てることができるなら、すぐにそれらの財産を捨て、規定された教条で正しい実践をし、己の財産を捨てることが出来ない者は、望みどおり還俗しなさい」。

 この時完璧な信仰のある比丘たちはすべての財産を捨て、戒条にふさわしく正しい実践に努めた。一部の長老たちは自分の所有する財産のすべてを捨てることができず、自分の事情により還俗した。

 「破戒、中でも重罪を犯したことが表沙汰になった比丘、つまりこれらの比丘に還俗して在家の暮らしをするよう懇願する。重大な破戒行為を犯したと他人に噂され非難の的になっているが、まだ表面化していない者は、払拭して純潔にすることが難しいなら還俗して在家になりなさい。

 薬の処方や占いを業とする比丘は、後は述べたことと同じである。

 比丘が在家のように代書屋などの職業を営むのは、不正な職業で生活すると言われる。

 説教して献じれらた供物を売り、貯めて財産にしているすべての比丘、この他のいろんな営業をするすべての比丘は還俗して在家の暮らしをしなさい。

 ラーマティボディ王がモン国内の仏教の汚れを排除した後は、このようにすべての比丘は一つの宗派になった」。

 ビルマとモンの仏教は今日まで繁栄を続けている。ビルマでは多くの団体と人材が、現代の布教活動をしている。

 

中国と日本

 仏暦608年(西暦65)、中国への使節団は、カサヤパマダンとゴーバラナの二人の比丘と、様々な仏像と経文を中国へ持ち込み、漢武帝は使節を歓迎して中国で最初の寺、白馬寺を建立した。その後も続々と、布教のためのダンマ使節団がインドから中国に送られ、唐時代には中国の仏教は非常に繁栄した。仏教の寺院は学問の場であり、高い知識のある比丘が中国各地に存在した。

 唐時代には、インドで「法・律」に則った実践について質すため、そして中国国内で役立てるために、中国からインドまで旅をした比丘が何人もいた。この比丘は旅の様子、タンマの実践、通過した国々の仏教の繁栄の様子などを詳細に記録している。これらの記録は歴史を調べる上で非常に価値がある。

 仏教は中国から朝鮮、日本へも伝えられた。中国と朝鮮、日本の仏教は大乗であり、多数の宗派に分派している。

 現代の日本では仏教教育と布教が盛んである。仏教大学や仏教学校がたくさんあり、何人もの教授が日本語や中国語の経典を英語に翻訳し、英語の仏教書も数多く出版され、欧米に仏教を普及することができる比丘や学生も多数いる。

 中国の仏教教団員も日本のような近代的な教育に目覚め、仏教大学や学校を創設した。仏教に身を捧げ、世界で布教活動をしている中国人比丘も何人もいる。

 

その他の国々

 ジャワやスマトラでは、西暦657−957年頃はシーウィチャイ様式の仏教が栄え、その後イスラム勢力がこの地域に進出し、仏教徒の多くはイスラムに転向させられ、転向に応じない人達はバリ島やフィリピン、その他の島々に逃がれ、それらの島には現在も仏教徒の末裔が残っている。

 アフガニスタン、トルコ、シベリアには仏教遺跡が残っていて、西暦元年から千年くらいの間、それらの地で仏教が栄えていたことを表している。中国の比丘が「法、律」を求めてインドの北部へ旅した記録の中に、それらの地域の仏教の繁栄の様子が数多く記されている。その後イスラム教勢力が起こって、仏教は絶滅した。

 


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