第六章 タイの仏教





スワンナプーム時代(仏暦300-700年)

 アショーカ王がソーナとウダタラの二人の阿羅漢を布教のためにスワンナプーム地域に派遣したことで、仏教はこの地にしっかりと根づいた。タンマチェディー王(ピドックトン)のカンラヤニー碑文には「長老が説法を終わると、男子三千五百人、女子千五百人が仏教に帰依して出家し、残りの六万人も三宝に帰依して戒を持した」と刻まれている。

 カンラヤニー碑文は、シリマショーカ王のスワンナプーム国はラーマン国(現在のモン国=ビルマ)であると主張している。

 考古学者は、スワンナプームと呼ばれる地域は、インドシナ半島のタイとモンの辺りからマレー半島まで含まれるとの見解で一致している。インドシナ半島のタイとモンの辺りを、インド人はスワンナブーミと呼び、マレー半島をスワンナタヴィーパと呼んだ。ギリシャ人はクライセー(黄金)とクライセーサーソーニースッサ(黄金半島)と呼び、中国の王朝史には、それぞれキムリン(黄金の地)、キムチウ(黄金半島)と記されている。

 ダムロンラーチャヌパーブ殿下は、スワンナプームの首都、あるいは中心地はナコンパトムであろうと推測している。その地では石の法輪やマガタ語で書かれた偈などが多数残っているからである。その辺りでは、仏像が作られる以前から仏教を信奉していたことも分かっている。つまりブッダの台座や仏足石(ドンラン台座、シラーアート台座、サラブリの仏足石等)を作って祭っている。

 ナコンパトムでは、この他にもアマラワディ時代(西暦120-132)の遺跡が発見された。いずれも仏像が作られる前、そして西暦六十年代からこの地に仏教が伝えられていたことを表している。



パノム時代(仏暦600-1100年)

 首都がどこにあったかはまだ定かでなく、ナコンパノムという説もあれば、サコンナコンという説もある。

 仏暦およそ600余年(西暦57年)、パノム(中国ではフーナンと呼ぶ)と呼ぶ国がインドシナ半島に誕生した。現在のタイ東北地域である。この国は次第に栄え、後に勢力を増してマレー半島の多数の小国を支配下に治め、仏歴773年(西暦230年)にはスワンナプームを併合して、インドシナ半島全域に広がる大国となった。

 パノム時代には、インドからパノムへサマナ使節が送られ、パノム国からは中国にサマナ使節を送って教典の翻訳に協力している。中国の記録には、仏教が非常に盛んだと記されている。

 パノム仏舎利塔は仏暦1007年(西暦464年)頃、その地での仏教がまだ隆盛な時に建立された。

 仏暦1100年(西暦557年)頃、現在のカンボジアに生まれたイスラム教国チェンラの攻撃によって、パノム国の仏教は衰退した。



タワラワディ時代(仏暦1100-1500年)

 首都はナコンパトム、あるいはロッブリと推定される。チェンラ国の勢力はチャオプラヤー川流域まで平定できなかったので、そこにタワラワディ国が興った。この国はスワンナプーム時代のように、再び仏教を繁栄させることが出来た。

 タワラワディ国の仏教は声聞派(テーラワーダ)で、常にインドと交流し、マガタ国の文化と技術を取り入れた。クパダ時代(仏暦860-1042年、西暦317―499年)に、クパダ様式を模したタワラワディ様式の仏像が多く建造され、東はナコンラーチャシーマ、プラーチンブリ南部からマレー半島、スマトラまで頒布している。

 タワラワディ式の厳しい声聞派仏教を、スワンナプームとスワンナタウィープ全域で信奉していたことを表している。中国の多数の記録は、タワーパティ国の仏教の繁栄について記述している。


シーウィチャイ時代、あるいはシーポーティ時代(仏暦1200―1500年)

 インド北部に始まった大乗仏教はインドの中部南部に広がり、仏暦1200年(西暦657年)ベンガル湾を渡ってマラーユ国(現在のマレーシアのグランタン地方)に伝わった。

 仏暦1200年頃、ナコンポーティに滞在したことのある中国人僧イ・ジンの記録には、ナコンポーティはタワラワディ式の声聞派仏教が繁栄し、千人以上の比丘が当時のインドと同じように厳しい律を実践していたとある。

 ナコンポーティ国王は次第に勢力を増し、マレー半島の国々とマレーシアを征服した。王は大乗の信奉者だったので大乗を賛美し、マレー半島全域に大乗仏教を広めた。その後ジャワのパーレムバンとスンダーも征服したので、大乗仏教はジャワ、スマトラまで広まった。

 後継の王は更に領地を広げ、クメールとチャムパーを征服した。そしてレンガ造りの城を三つ建造して戦勝碑を建て、シーウィチャイの都の大王と名乗り、すべての王国の中の王と宣言した。

 チャイヤーのウィエン寺で発見されたクルンシーウィチャイ碑(仏暦1318年、西暦775年)には、当時の仏教の繁栄と、王がアショーカ王のように貧しい人々を保護していたことが記されている。碑文の一部を紹介する。

 「クルンシーウィチャイ王は周辺国の王から生じる後光による勝利と百の福徳がある。シーウィチャイ王は大梵天によってこの世界に遣わされた王であり、梵天がプラタムの未来の安定を望まれているようだ」。

 碑文にあるように、クルンシーウィチャイ王は大乗を賞賛し、国教に定めることでプラタムをこの地に根づかせた。そしてシーウィチャイの都とタームポーリンの都と領土内の町や地域に、仏教と並んて広まっていたバラモン教を仏教と統合したので、バラモン教の人々も仏教を拝むようになった。

 仏教の輝く灯は、シーウィチャイ時代の約三百年間、マレー半島、スマトラ、ジャワ、クメール、チャムパー地域のバラモン教の光を遮った。この大乗仏教の国はシーポーティ、またはサムポーティ(シーリー、フッシー、サムフッシー、シーブーチャー)と呼ばれる。

 シーウィチャイの都が仏教の教育の中心地として栄えていた頃は、中国やネパールから仏教の勉学のためにやってくる比丘が多数いた。シーウィチャイからは、聖地参拝や勉学のためにインドへ渡る比丘や学生も多かった。スワンナタウィーパのパーラプットラテーワ王がナーランダに、シーウィチャイ人のための宿泊施設として寺を建設するほどだった。

 シーウィチャイの都が衰退すると、クルンシーウィチャイに続いてシーポーティの都であるシリタンマナコンが繁栄した。



ロッブリ時代(仏暦1500-1600年頃)

 仏暦1546年(西暦1003年)ころ、シリタンマナコン(名近氏-タンマらーと)のチーウォク将軍が兵を上げロッブリの都は敗北した。

 仏暦1546-1592年(西暦1003-1049年)頃、スリヤオーラマン一世がロッブリを治め、ロッブリでは大乗仏教と昔ながらの声聞派が並んで信仰された。

 スリヤオーラマン王は触れを出し、サマナがサマナの義務を行なう場所を敬うこと、ヨーガの実践をする仙人を妨害しないことを国民に命じた。当時のロッブリではタンマの実践やヴィパッサナートゥラ(技法的なヴィパッサナー)が盛んだった証拠である。

 パーリ語の記録によると、スリヤオーラマン王をアーティッチャラート(太陽王)と呼んでいる。この王はカムボジヤ国(クメール)からエメラルドブッダをロッブリに移し、ラムプーンのハリブンジャイ仏塔の他、多数の仏塔を各地に建立している。

 シーウィチャイ式の大乗仏教はスワンナプーム地域とインドシナ半島全域に広まった。ブッダになれるよう誓願すること、苦行に近い修行、お守り、家で祭る小仏像、仏像の形をした鈴、呪文、呪文を書いたお守り、護符の書かれた布などはすべて大乗仏教のものであり、インドシナ地域に広がり、現在も残っている。



シータンマラート時代(仏暦1500-1800年頃)
 古代のナコンシータンマラートは、仏暦1200年(西暦657年)頃、タームポンリンと呼ばれ、ナコンポーティと並ぶ国だった。中国の記録ではポーリン、あるいはホーリンと呼ばれている。シーウィチャイ時代まで仏教とバラモン教が並んで栄えていたが、大乗がバラモン教を制してから、バラモン教徒も仏像と菩薩像を拝むようになった。

 仏暦1500年(西暦957年)頃、タームポンリンがシーウィチャイに代わって繁栄し、都をシータンマナコンと改称した。シーウィチャイの血統であり、タイ語でチーウォック(ジャーワカ)将軍と呼ぶ王が治めるシーポーティ、またはサムポーティの首都である。(この時代の領土はマレー半島だけで、クメール、チャムパー、スマトラ、ジャワは独立国だった)。

 マラッカ海峡を通過する船の交易が盛んだったので、アラブ、スリランカ、カーチャー(現在マレーシアのケダ、サイブリー)との交流があった。

 仏暦1696年(西暦1157年)頃のスリランカは、パラッククロムパーフ大王が治めていた。王は仏教への信仰が厚く、アショーカ王に倣って純粋な仏教を繁栄させようと努めた。王はマハーカッサパテ-ラが中心になってタンマと律の結集を行い、勤めの規定を定め、幾つもの宗派に分かれた比丘たちを一つの宗派に統一するよう要請した。

 実践規範を「ダンマと律」と一致させたことで、スリランカの仏教は再びアショーカ大王の時代のように復興繁栄した。仏教の純粋な繁栄の栄光は、ビルマ、モン、タイにも及んだ。確かな信仰があり、本当のタンマの実践を尊重するそれらの国の比丘たちは、スリランカへ旅をして調べ、勉強し、純粋な仏教の様式を自国に広めた。

 かつてはタワラワディ式の純粋な声聞派仏教だったシリタンマナコンは、その後シーウィチャイ式の大乗仏教を受け入れ、大乗仏教が衰退した後も、仏教でない様々な儀式が混合して残った。シリタンマナコンは、新たにスリランカから純粋な仏教を取り入れたので、声聞派仏教は元どおりに繁栄した。ナコンシータムマラートの仏舎利塔は、この時代にスリランカ様式で建造されている。

 シリタンマナコンの最後の王はチャントラパーヌ シータンマラート王と言ったので、王の名に因んで都はシータンマラートと呼ばれた。仏暦1773年(西暦1230年)のタームポンリン碑には、この地でアショーカ王に倣った治世が行われたいたことが記されている。

 「平安なり。タームポンリンを治める王は仏教を支援しておられる。王は輝かしきパトゥムウォン家の血筋で、お月様のように美しいカーマ神に似ておられる。タンマソーガラート王のように法学に造詣が深い一族の長である。その名をシータンマラートと言う。

 平安なり。タームポンリンを治める王はパトゥムウォンの血筋を支援される。王の御手には偉大な功徳による神通力があり、王がすべての人間に対して行った善は、太陽にも月にも匹敵する。チャントラパーヌ・シータンマラート王の偉名は世界の隅々まで鳴り響く」。

 この碑文は、アショーカ王を手本にした治世と仏教の保護育成が行われたことを表している。

 ナコンシータンマラート仏舎利塔縁起には「シータンマラート王はバーンナー郡のウィエンサラに遷都し、その後ハートサイケオに移した。ハートサイケオを首都にした後、以前からあった仏舎利塔を壊して再建した」とある。

 ナコンシータンマラートには、仏舎利塔を建立した王を讃える仏像と、仏舎利を持って敵陣からハートサイケオまで逃げてきたと言われる、タナクマン殿下とナーンヘーマチャラー兄妹を讃えて作られた仏像がある。

 ナコンシータンマラートはスリランカ様式の声聞派仏教の布教の中心として長く栄えた。「この街のサンガ王と三蔵に精通した碩学たちはみな、ナコンシータンマラートから来た方ばかりである」とスコータイの石碑に刻まれている。



スコータイ時代(仏暦1800-1981年)

 スコータイ時代はアショーカ大王の時代のような仏教が盛んだったことが明らかになっている。ラームカムヘン大王が残した碑文は、アショーカ王が建てた碑と同様、非常に歴史的な価値のがある。当時の仏教の純粋な繁栄について述べ刻まれているラームカムヘン大王碑文には次のようにある。

 「スコータイの都の人は良く布施をし、良く戒を維持し、施しをする。スコータイの都のラームカムヘン王と領民は、身分の高きも低きも、夫たちも妻たちも、王の臣民も領主の家来も、男も女も、一人残らず仏教を信仰している。雨期には全員戒を守り、雨期が明ければカティン(カティナ。僧衣を縫う儀式)で一ヵ月がすぎる。カティンの時には、三方に山盛りの献金、山盛りの果物、山盛りの献花、枕やクッションが供えられ、手伝いも多勢いる」。

 スコータイ時代のカティナ行列は、大掛かりな年中行事だった。アランジック寺(ヴィパッサナートゥラ派)のカティナは大行列で、思い切り楽しいもので、蝋燭やかがり火で飾り、竪琴などの楽器や歌や演奏もあり、人々は街が壊れるほど集まって行列を楽しんだ。

 スコータイの街の中心には寺院があり、黄金の仏像があり、アッタロット仏像があり、大仏があり、優美な仏像がある大きな寺院もあり、壮麗な寺院もあり、老師、長老、大長老もおられる。

 スコータイの西にはサンガ王のおられるアランジック寺があり、閑静なヴィパッサナートゥラのための場所である。サンガ王は哲学者で、三蔵の学習を終了し、この街のプークルーの誰よりも教えに精通している。老師、長老達もすべてナコンシータンマラートから来た人である。

 ラームカムヘン王は石工に命じて石の台座を作らせて椰子の木の間に置き、毎月菩薩日には大長老や老師が台座に座って、戒を守っている清信士にタンマを説いた。満月と新月の日毎に、ラームカムヘン大王は象に乗ってアランジック寺へ参詣した。

 仏暦1830年(西暦1287年)亥年、仏舎利を掘り出して衆人に見せ、一ヵ月と六日の間祭った後、街の中心に埋め、その上に六か月かけて仏塔を建立した。仏塔の完成後、塔を囲む塀の建造には三年の時を要した。

 ラームカムヘン大王以前のスコータイにはロッブリの大乗仏教が広まっていたので、大乗様式の仏塔が何か所もあった。チンカーラマーリニという書物には、

 「ロートラーチャ王(スコータイ時代の王)がナコンシータンマラートを訪れると、ナコンシータンマラート王は友であるロートラーチャ王を歓迎し、二人は獅子仏(重要な仏像で現在タイに三体しかない)を戴きたいとスリランカに遣いを送り、ロートラーチャ王は獅子仏をスコータイにお迎えした」と記録されている。



パヤーリタイ時代(三蔵に知悉した王)

 パヤーリタイ王時代(仏暦1897-1919年。西暦1354-1376年)の王は哲学者で、三蔵を学んで精通していたので、仏教は非常に繁栄した。王は地獄天国と功徳について説明した「三界」という本を著した。アショーカ大王を見倣って一時期王位を退いて比丘として出家し、王自身がタンマの実践、修行をしている。

 その時代の比丘は三蔵を学ぶことが流行り、非常に厳格にタンマを実践していた。シーチュム寺の石碑には次のように記されている。

 「王孫であるシーサッターラーチャチュラームニという名の大長老は、よく密林の中で持戒と努力をなさる。勤めはすべてスリランカを手本にし、謙虚で礼儀正しい態度、恥を知り、年寄りや目上の人、両親や先生、戒師や友人に対しての罪や誤りを知ることを、御自身と多くの人に教えておられる」。

 菩提樹の植樹、仏塔の建立、仏像の建立などは信仰を育て、至る所で盛んに行われた。チンナラート仏像、チンシー仏像(ともに優美な仏像)はこの時代に造られた仏像である。



クルンシーアユタヤ時代(西暦1355年-1767年)

 クルンシーアユタヤ時代の仏教は、スコータイ時代と同様に繁栄した。プラボロマトライローガナート殿下は、アショーカ王に倣って一時期出家するほど、仏教に信仰が厚かった。

 王がタンマを護持している時代に、タイの僧がスリランカへ行った時、タイ領内のスワンナ地域に仏足石があるという話をスリランカの僧から聞き、仏足石の発掘を行うと、その結果、現在のサラブリ県で発見された。この仏足石が何時代に造られた物かは定かでない。仏足石には「ブッダが足跡を取らせてくださった」と説明がある。

 プラボロマコート王の時代にスリランカから招聘があり、タイからウバリとアリヤムニ、他に十四人の僧がスリランカに渡り、タイ式の仏教を広めている。



クルントンブリ時代(西暦1767年-1782年)

 アユタヤがビルマに敗北した後、タイの仏教は非常に曇り、仏教の教育やタンマの実践は頽廃した。ナライ王の時代に都をビルマに奪われた後、サワンカブリでは、王族は自分が神のように振る舞い、僧を大将や隊長の地位に据えて自分の任地を治めさせた。



苦境時のタイ人の父、タクシン

 幸運なことに、大乗仏教の仏道がある大王がビルマから国を奪還し、同時に自らが手本になってタンマの実践の再興に力を注いだので、仏教は昔のような繁栄を取り戻すことができた。

 シーウィチャイ時代以後、大乗仏教がタイのいろんな儀式に染み込んでいる。タクシン将軍も大乗仏教思想を崇拝し、まだラヘン村にいた時、運を占って誓願をした。

 「もし将来、本当にプラプロマーピセークサンポーティヤーンと言うことができるなら、ガラスの鐘を叩いたら、叩いた所だけ割れてくれ。それを仏舎利塔の基礎にしよう」。そう誓願してガラスの鐘を叩くと、願いどおり当たった所だけが割れ、他は壊れなかった。

 敵国ビルマから国を取り返すと、タクシン王は国民をわが子と見なしたアショーカ王に倣って、タイ人の父の役割を果した。王は象に乗って自らの手で困窮する人々に米や食べ物を分け与え、貧しい国民を「我が子」と呼んだ。

 国が復興すると、王は仏教の復興に取りかかった。

 「小暦子年(トンブリの都で治世を始めた年)、仏教を発展させるには四衆(比丘・比丘尼・清信士・清信女)がブッダの言葉に従って実践をすることに依る。そして今日の僧たちは、四戒を完癖に守っているとは言えない。三蔵の学習や止観を教えられる王室がいないからと王はお考えになった。そこで長老という長老を探し出して集会を開き、善いアーチャンをサンガ王にし、本堂や僧院、宿坊を建てて寄進した。

 そして「すべての僧のみなさん、自分の行動に細心の注意を払って、四戒を純潔に守り曇らせてはいけません。四依の何が欠乏しても、それは世話をする在家の人達の仕事です。みなさん方が在家の人の血や肉を望まれるなら、人々はわが身を献じることもできます」と忠告した。

 毎月八日、十五日の菩薩日には、王はすべての乞食たちに食べ物を与え、飢えた人々のために布施小屋を建設した。



裏切りサンガ王

 サンガ王が僧隊長の隊に滞在していた時、僧隊長と計って管轄している村の村人に寄進の催促をしたことがあるので、火の上を歩かせて審判し、白黒をハッキリとさせてほしいと訴える者がいた。審判の結果(火傷をすれば有罪と見なす)サンガ王は証明に負けて還俗した。(火の上を歩かせる審判は古代からよく行われ、非常に有益だった)。

 プラポンラットの弟子である沙弥が、プラポンラットは密かに自慰行為を犯したと訴えたので、審判の結果事実と認められ還俗させ、その後僧務局(王室の行事で僧に関わる仕事をする局)の長として取り立てた。

 サンガ王とポンラットという僧の事件からも、当時のタンマの実践がいかに衰退していたかが分かる。タクシン王は一度罪を犯した者は反省して善人になると考えて、罪を犯した人に立ち直る機会を与え、公務員に取り立てた。


三蔵の写経

 ナコンシータンマラートの一団を追放すると、比丘・長老・沙弥・尼僧に米一樽(約三十キロ)、現金一バーツを配り、日頃托鉢僧に食物を献じる信徒には、菩薩日毎に一サルンの補助金を与えた。王は多大な散財をして兵や領民を雇って僧院や大小の精舎、クティ(僧房)、集会堂などの修繕、修復を行った。そして祝賀会とウィエンティエン(都にある大仏舎利塔の周りを、蝋燭と線香をもって三周する行事)を丸三日間催した。

 王室のパーリ語学者たちに三蔵を船に積ませて都へ持ち帰り、人を雇って三蔵の写経をさせた。人件費として銭一包み、つまり現金一バーツ、米一樽、おかず代一日半サルン、ビンロウジとキンマ(噛み煙草のような嗜好品)一日一袋、煙草一日十本、昼間の食べ物は毎日。王にとって甚大な散財である。


 ビルマから逃げて来て、ナコンシータンマラートのパナンチュン寺にいたアーチャンシーと比丘、沙弥、弟子たちを都に招聘し、アーチャンシーをサンガ王に任命した。


破戒僧の追放

 チャオプラファーンという僧の行状は、戒に反して非常に悪辣だった。大将や隊長である仲間の僧たちと酒を飲んで、重罪である殺人を犯し、それでも僧衣をまとって還俗しなかった。そして兵隊に命じて民家を襲い、食べ物を奪い、家に火を放った。それを知った王は軍を出して征伐した。

 チャオプラファーンの一団を征伐した後も、北部の僧の中には純潔な僧と恥知らずな僧が混じっていた。タクシン王はサンガを純潔な僧だけにする妙案を思いついた。つまりすべての僧を一堂に招き、仏教界の粛清について次のように説明した。

 「ここに座っているすべての僧と貴族の方々が潔癖なら僧だけなら、人民の徳の田になることができます。どうか僧の方々、真実に従って正直に答え、四重罪を犯したことのある者、自分は仏教の汚点だと思われる人は告白なさるが良い。還俗させ新しい住まいと衣服を与え、仏教の汚れを除くことに協力した正しさにより、王室の役人として取り立てる。過ちを犯しながら認めず、後になって認めた者は死罪に処す」。

 タクシン王は潜水審判(一定時間潜水して無事ならば罪がないとし、水死すれば罪があると見なす)の方法を用い、幕で仕切った審判室を作って天上には白い布を張り、祭壇を作って天人を祭り「私の積んだ徳と天人の偉大な力により、純潔な比丘が時計に負けないように純潔な僧を守り、不純な比丘は時計に負けて天人に殺されるよう、世間にはっきり見せてください」と祈った。


王の出家とタンマの実践の振興

 タクシン王は菩薩戒を順守し、先祖の法要を機にバンジールアタイ寺で出家し、五日間念処に励んだ。それ以来、タンマの実践を振興し、自身もタンマの実践をした。

 クティ(僧房)を百二十棟建てさせ、バンジールア寺の仏像、菩薩堂、仏塔、僧院と寺全体を修繕し、本堂周辺の堀の底を浚って、きれいにして蓮を植えた。そしてヴィパッサナートゥラの僧を招聘してクティを建てて寄進した。すべての公務員に実践をさせ、自身も出向いてそれらの僧に、王自身の方法を説明した。

仏教の瞑想とイスラムの瞑想

 王が座ってサマーディをしている所をトケーグに三十分ばかり見せ、どう思うかとトケーグに尋ねると、トケーグは「このようにお座りになるのは、以前教えを受けた先生と違うと思います」と答えた。

 七月の上弦の水曜日の朝方、サンガ王と王宮の人々みんなで、バーヴァナー、サマーディ、念処方法について書かれたパーリ(ブッダの言葉である経)を唱和し、トリッド、トトーン、トノックケーグの三人は、座ってサマーディの心の維持のし方について書かれたイスラムの書物を読んで奉じた。

 清浄道論を持ち帰って都の様式にするために、テープカウィーをカンボジアへ、ボロマムニをナコンシータムマラートへ派遣した。

 タンマの実践の振興がまだ始まったばかりという時に、トンブリの都に乱が起こり、サン将軍が仲間と組んで王宮を包囲し、敗北を悟ったタクシン王は出家する条件で命乞いをし、ジェーン寺で戒を受けて僧になったが、後に処刑された。タクシン王の遺骸は、王がタンマの実践の振興のために建てたタンマの実践の場であるバンジールアタイ寺に埋葬された。しかし事は、王の願いどおりにならなかった。




ラッタナコーシン時代(西暦1782年~)

 チャオプラヤーマハーカサットスック将軍が総大将となって、ウィエンチャンとルアンプラバンを攻撃した際(トンブリ時代)、マハーマニーラッタナパティマコン(エメラルド)仏をウィエンチャンから持ち帰り、王宮内のジェーン寺に安置した。

 要請を受けてチャオプラヤーマハーカサットスック大将軍が王に即位すると、都をクルンテープ(バンコク)に定め、マハーマニーラッタナパティマコン仏に因んで、都の名をクルンテープマハーナコン、ボーウォンラッタナコーシン、マヒンタラーユッタヤ(非常に長いので以下省略)と名付けた。

 そして王宮内にエメラルド仏を祭る寺としてプラシーラッタナサーサダーラム寺を建立した。

 プッタヨードファーチュラー王(ラーマ一世)の時代には、マハータート寺に僧と宮廷学者を集めて三蔵の口頭試問が行われた。結集が行われている五か月の間、王は毎日会場へ足を運び、そして三蔵の写経をさせ、比丘や沙弥が仏教を伝承するために、主なるお寺に配った。




ラーマ一世時代(西暦1782-1809)の僧に関する法律

涅槃を施す

 「たとえ神通力のある方がチョムプータウィープ(インドシナ地域)一帯を戦勝太鼓の表面のように平らに均して阿羅漢を一列、不還を一列、一来を一列、預流を一列お招きし、チョンプータウィープの総裁としてブッダがおわし、四依(衣・食・住・薬)とバナナの木の若芽のように木目の細かい僧衣を寄進しても、一度法施するほどの功徳はない。

このような理由で王はサマナ、バラモン、役人、すべての国民が三宝によってすべての危険と輪廻から脱出する方便をお考えになった。すべての臣下が三宝(ブッダ・プラタム・僧)に帰依し、常に五戒、八戒、十戒を心の拠り所とすることは、四依を寄進するよりも素晴らしく偉大な善を尊重する実践である」。

 「臣民に説法を聞かせるため、法施として恩賜局を創設する。つまり法施として涅槃を施す」。


仏教に対する盗賊行為を禁止する

 「布施を受け、教条を維持する今日の比丘、沙弥などは、頭が呆けてしまったのか欲深く、律で禁じている現金を手にし、物や財産を貯め、少しずつ在家の業を成し、葬儀や火葬、マサージや占い、薬の処方や檀家の御用聞きなど、在家の業をなして何か良いことに使おうと小金を貯め込んでいる。あるべきでないタンマへの背反である。

 それに今日の比丘は、律に則って実践するために出家するのではなく、健康な体を養うだけの、タンマから見て誤った生活をしているだけに見える。牛や水牛のように体を養うためにだけ食べれば、智慧やサティを養うことはできない。仏教の下品な比丘、沙弥である。

 在家の側も智慧がなく、このような布施は、自分自身にほんの僅かの結果も生じさせないと知らず、私財を貯め込む僧たちに布施して、自己満足している。騙されやすい人は、寄進してはいけない現金を寄進し、比丘たちも欲が深くそれを貯め込んでいる。

 ブッダの規定に反するこのような行為を「それらの在家は仏教の盗人比丘の応援をする」と言われる。その布施に結果はない。誤った布施は仏教を消滅させると言われる」。

 以上引用したラーマ一世時の僧の法律の内容を見ると、当時タンマの実践が振興され、三蔵の結集(再確認)が行われ、恥知らずな比丘を追放する法律が出されたと見ることができる。しかし不行状の比丘の方が仏教を考える聖人たちより多かったので、お互いの非を隠し合って楽をすること、快適に暮らすことばかり考え、タンマの実践の振興は思うように捗らなかった。

 ラーマ一世時代の僧に関する法律は、禁止事項と当時の仏教を曇らせた恥知らずな比丘の名前で溢れている。ある時粛清によって追放され還俗させられた比丘の数は、百二十八人いたとある。

 「そして比丘、沙弥たちが反乱を起こすのは、仏教に対する盗賊行為も甚だしい。住職や仏教界の重鎮僧たちも見て見ぬふりをして、教え諭しているようにも見えないので、僧の役員と僧務局の役人、宮廷学者たちが恥知らずな比丘たちを審判し、百二十八人の比丘に事実を認めさせ、悪い手本にならないよう還俗させ、奴隷の印の刺青を彫って国の重労働に使った」。

 僧の法律を見ると、人は現生で涅槃を成就することができると、まだ信じていたことが分かる文章がある。

 「臣下たちは身分の高き者も低き者も、力を合わせて仏教を護ることに公務として正しさがあると見るなら、仏教を維持するため、現生と来生のために出家してタンマの実践をすることを、王は許可する。仏教に出合えたこの機会を無駄にしてはならない。

 もし前生の徳で、この生で聖果が得られれば非常に喜ばしいが、徳が少なく、徳があるだけしか出家を続けられないなら、還俗した後、経歴に応じて取り立てる」。

 ラーマ三世は、高さ三メートルのハームサムット仏(両腕を前に出し掌を正面に向けたブッダの立像)を建造した。二つの像は、共に黄金で覆われ、使われた金は一体三十八キロ二百五十グラムで、七宝焼きに近い技法の国王のような衣装を着けている。一柱の仏像にはヨードファーチュラローグブッダと銘が刻まれ、もう一柱にはルートラーンパーライブッダと刻まれている。

 二体の仏像の名にちなんで、ラーマ一世、二世を仏像の名で呼ぶように勅命が出された。クルントン時代やアユタヤ時代の王を「法王陛下」と呼んだのと同じである。大乗の考え方がタイの伝統に浸透していることの現われである。



モンクッド王子、三蔵を学ぶ

タムマユット派を樹立する

 ラーマ三世の時代のモンクッド王子は、比丘として出家して三蔵を学んで精通した。そして仏教界が古い都の時から乱れていること、比丘僧全般の実践が非常に衰退しているのを見て、王子自身が手本となってタンマを実践し、その後タンマの実践をする志のある者を指導し、タムマユット派を樹立して手本として広めた。

 王子は乾季には頭陀行に出て仏塔を巡礼し、そしてスコータイにある仏塔をあちこち巡礼して祈り、マナンガシラーの石碑と台座を発見して都へ持ち帰った。この時のタムマユット派の樹立により、大宗派もタンマの実践に非常に目覚めたので、仏教は以前より純粋な繁栄を取り戻した。


三蔵を作って配る  ラーマ五世時代には三蔵を改訂し、タイ文字の書籍として三十九巻一セットで千セット印刷し、寺院や仏教の学習施設、図書館、そして外国の大学に配付した。


仏舎利を分与する

 仏暦2441年(西暦1898年)にインドでブッダの遺骨が発見された。インドの政府は、ラーマ五世が世界でただ一人の仏教の庇護者である王と見て、その仏舎利を託した。日本、ビルマ、スリランカの仏教教団から仏舎利を分けてほしいと要請があったので、求めに応じて分配し、残りはサケット寺のバンポット山の頂上にあるストゥーバ(塔)の内部に青銅の塔を造って安置した。


タイ文字の三蔵、第二版

 ラーマ七世はサンガ王と長老という長老の協力を求め、ラーマ五世が出版した三蔵をより正しい物にするため質問調査し、四五巻一セットで千五百セット印刷し、国内外の仏教教育施設や寺院に配った。


仏教大学の創設

 タイ人仏教教団による外国人への仏教布教活動は、スリランカやビルマのようには行われていない。世俗的な教育と語学力を十分に身につけた比丘がいないためである。現在はマクットマハーラーチャ大学基金による比丘と沙弥のための大学があり、外国に仏教を布教するために必要な現代の知識と外国語と仏教を教えている。「教育施設」と名付けたこの施設の比丘や学生たちによって、新しい仏教の布教が始まっている。

 一方、パーリを学ぶ学生が最も多いマハータート寺は、「マハーチュラロンコンナラート大学」という大学を創設した。この二つの大学は、世界に向かって新しい仏教布教に奉仕する学生を育てる責務を担っている。





僧とは正しい実践をする比丘、比丘尼、清信士、清信女であり、

仏教を伝承して純潔に繁栄させる人であり、

永遠に衆生の灯火である

仏教が仏歴二千五百年のこの時代に益々繁栄するには、

すべての比丘、比丘尼、清信士、清信女が

タンマにふさわしいダンマの実践を

正しく実践することである

みながこのように知ったら、

純潔な僧を支援し、

仏教を純粋に繁栄させ、

世界の人の灯火になるよう仏教を護持する一人になることで、

自分の義務を果たしなさい



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