第三章  アショーカ王

タンマを実践して世界に仏教を広めた大王

(BC273−BC222)

 ブッダが般涅槃した約二百七十年頃、パータリープッタの都にアショーカ大王という王がいた。領地の北はアフガニスタンに接し、南は現在のマドラスまで広がり、現在のインドのほとんど全域を治めていた。アショーカ王は自身でタンマを実践した史上初めての王で、仏教の教義や理想を深く理解し、国と広大な領地を仏教の教えで治めた。その結果インドと周辺の国々の人々は、かつて実現したことのない平和を享受した。王は周辺の国々にサマナ使節を送って仏教をすべての方角に布教した。タイが仏教を信奉する機会を得たのも、アショーカ王の布教のお陰である。

 アショーカ王は王位に就くとすぐに兵を挙げてカリンガを攻め落とし、この戦いで夥しい数のカリンガ人が殺害され、一般の国民やサマナ・バラモンたちもこの戦いによって非常に困窮した。アショーカ王はその悲惨さを見て衝撃を受け、転向して仏教を信奉し、今後自分の領地を広げる時は、歴史の中のタンマを守った皇帝のような方法にすると心に誓った。

 初めの二年半、王はタンマの実践があまり厳格ではない清信士で、その後約六年間比丘サンガと共に生活し、厳格にタンマの実践をした。自分自身でタンマの実践をすると明かに実践の結果を見ることができ、当時のインドでは沢山の天人が信じられていたが、「天人の話は最上ではない。人間が天人と同じように、あるいは天人以上に幸福になるには、仏教の「タンマ(教え)」と「律」を実践することである。「タンマ」と「律」で行動すれば、天上の天人よりも素晴らしい幸福が実現する。身分の高い者も低い者も、誰でも平等にその結果を受け取ることができる」と見えた。

 アショーカ王は、次のような人類の利益になる業績により、多くの世界の手本となっている。

 

1 タンマの実践を勧める

 国内の至る所にタンマの実践を振興する王の言葉を刻んだ碑を建立した。

 「身分の高き者も低き者もタンマを実践しなさい。この世界の幸福も来世の幸福も非常に得難きものだが、最高のタンマを求めること、自分自身を深く省みること、非常に謙虚なこと、最高に罪を恥じることは、最高の信仰によって到達できる」。

 「タンマは素晴らしきものである。タンマには何があるだろうか。タンマには自分の執着を抜き取ること、善と慈悲と奉仕だけを行うこと、正直と純潔がある」。

 「国民がタンマを実践できるよう、そしてタンマが末永く栄えるよう、朕はこの碑を建立する」。

 

2 正しい業、正しい生活を振興する

 アショーカ王は動物の殺害と、菩薩日(陰暦八日、十五日、二十三日、晦日)の娯楽饗宴を禁止し、王族が国民の手本となるよう指導した。

 「この慈悲の碑は王の直命によって建てられた。ここに動物を殺して生贄とすることを禁じ、饗宴を催すことを禁ず。王は饗宴の害を幾つもご覧になられたからである。かつて王宮の厨房では、毎日色々な動物が食用として殺されていたが、この慈悲の碑を建立した現在は、孔雀二羽と鹿一頭だけを定期的に殺している。時に鹿は除外されることもある。しかしこの三匹の動物も、将来は殺すのを止めるであろう」と碑に刻まれている。

 

3 慈善施設の設置

 「王の領地内の至る所、隣接する地域の至る所に、王の名で療養所が設置され、通常人間の療養所と動物の療養所の二種類があり、人間用の薬草も動物用の薬草も、不足する所があれば直ちに補給し栽培させる。

 同様に根を食用にするもの、果実を食用にするものが不足すれば他から補給して栽培させる。街道には緑陰を作る並木を植え、人や動物のために井戸を掘らせる」。

 

4 王の代わりに生活の面倒をみる役人を置き、タンマの実践の便宜を計る

「(タンマの実践を調査する)王の家臣はプラタムをすべての国民に広め、根づかせ繁栄させる義務がある。

 王の家臣は、すべてのタンマを求める者が豊かで幸福になるよう支援する義務がある。

 王の家臣は、労働者とサナマ・バラモンと金持ちと貧民と老人の福祉を充実させる義務がある。

 王の家臣は、タンマを実践するすべての正直者の道の障害を取り除く義務がある。

 王の家臣は、誤った投獄や処刑(不公正)をなくす義務がある。

 王の家臣は、子だくさんによる貧困や不運、あるいは老齢による生活苦から抜け出す支援をし、貧困をなくす義務がある」。

 

5 国民を子や孫と見なす

 「家臣たちが、国境付近の様々な民族に関する王の願いは何かと尋ねるなら、国境付近の臣民に苦がないことを願っていると私は答える。すべての国境付近の臣民は「王は臣民に対して善意をもっている」と確信して良い。すべての民族がタンマの実践をして、現世でも来世でも、その結果を受け取ることを願っている。

 家臣たちが王の願いを理解するなら、その勤めを忠実に果たしなさい。すべての民から「王は我等の父のようだ。王は自身の危険に注意するように、王がわが子と見なす臣民を危険から守ってくれる」と安心できるよう、臣民への義務を果たしなさい」。

 上に立つ人が下の者を子や孫と見なし、下の者が上の人を父と見なすのは現代まで受け継がれている仏教文化であり、すべての仏教徒は、当然人も動物も共に生まれ、生き、老い、病んで死ぬ兄弟と見なしている。

 

6 心の食べ物を配る

 「数百年の時が流れて、動物の殺害、動物の虐待、親戚間の争い、サマナ・バラモンを尊敬しない風潮などが国の内外のどこにも見られる。

 しかしながら王がタンマの実践をなさるので、陣太鼓の代わりに民衆を楽しませる太鼓の音が聞こえ、山車行列やかがり火を焚いた象の行列、それに類する楽しい行事もある。

 数百年の間見ることができなかったものを今見ることができるのは、王がプラタムを公表した結果、殺生の禁止、動物虐待の禁止、親戚間の親和、サマナ・バラモンを尊敬し両親を敬い、年長者の言うことを聞くことが広まったからである。

 これらは、ことごとくタンマの実践が広く行われていることを表すものである。そして王によるタンマの実践の振興は、ますます繁栄なさるだろう。

 王の子、孫、曾孫は輪廻が終わるまで、そしてすべての人がタンマと戒で自分を維持するまで、タンマの実践の振興を支援する。すべての行いの中の最上の行いは、プラタムを広めることだからである」。

 

7 仏塔と石碑の建立

 アショーカ王は、アジャータサトル王(ブッダ在世時のマガタ国王)が保有していた仏舎利を発見し、領内とその周辺に新たに仏塔を建てて祭った。言い伝えによると八万四千あったと言われる。それによって仏塔の建立は、当時仏教を信奉していた各地に広まった。

 王は領内のあちこちにプラタムを刻んだ石碑を建立し、現代の考古学者によって多数発見され、それによって私たちはアショーカ王時代の仏教繁栄の歴史を知ることができる。それらの碑には仏教が最も繁栄していた時代のタンマの実践について書かれているので、非常に興味深いものである。

 第三章で引用した文章は、碑文から引用したものであり、できるだけ原文を活かすよう心掛けた。

 

8 「法律」の再確認

 アショーカ大王は仏教を国教と定め、仏教の比丘を手厚く援護したので、他の宗教を信じる者や仏教の潤沢な供物を期待する人たちが、仏教の中で生きるために多数出家した。その結果タンマと律に従わない恥知らずな比丘たちが、タンマと律を厳守する純潔な比丘たちに混じったので、純潔な比丘たちは恥知らずな比丘たちと一緒に菩薩行をしたがらなくなった。

 仏教界に曇りが生じていることを知ったアショーカ王は、領内の比丘全員を一堂に集め、同じ教義のグループ毎に分かれて座らせ、御簾の中に王とモッカカンリープトラティサテーラという阿羅漢が座って、グループごとに呼び出してブッダは比丘たちにどのようなタンマと律を規定したか質問すると、恥知らずな比丘たちはタンマと律に従って正しく答えることが出来なかった。アショーカ王は、不純な動機で出家した破廉恥な偽の比丘たちを強制的に還俗させた。その数は実に六万人と伝えられている。

 恥知らずな比丘と行いの正しい比丘を選り分けたアショーカ王のこの処置は、仏教史に於いて真に手本となる粛清であり、後世の多くの王がアショーカ王に倣って破廉恥な比丘を追放することで仏教を擁護した。

 タンマと律を厳守する比丘だけが残った時、モッガリープトラティサテーラは阿羅漢千人を選んで第一結集、第二結集に倣って三蔵の再確認を行った。

 この第三回目の三蔵の確認(結集)では、全員で唱和し記憶するだけでなく、文字として完全に記録された(ウチワヤシの葉と金属片に)。スリランカに渡った三蔵は、この第三結集後のものである。

 

9 仏教布教のためにサマナ使節として阿羅漢を送る

 すべての方向に仏教を布教するために、アショーカ王は周辺各国へサマナ使節を送り、王子であるマヒンダテーラをスリランカに派遣すると、スリランカのテーヴァナムピヤティッサ王は仏教に帰依し、多くの人が説教を聞いて聖向聖果を得て出家した。その後スリランカから使節があり、三蔵と出家式を執り行う戒師としてサンカミッタ長老尼(王女)を、是非スリランカにと招請を受けた。この時の使節団は仏教立教の記念するために、スリランカに聖なる菩提樹の枝を持ち帰った。

 サンカミッタ長老尼が手ずから植えた菩提樹は、二千年以上の樹齢の樹として今日まで美しく茂っている。スリランカは現在でも正しい仏教の教えが伝承され、実践が盛んな国である。

ソーナテーラとウタラテーラの二人の阿羅漢はスワンナプームへ派遣された。スワンナプームとはインドシナ半島のタイ国とモン国(現在ビルマ南部にいるモン族の国。場所はタイ・ビルマ国境付近で、時代により流動的)の辺りを言う。仏教はこの辺りにしっかりと根づき、現在まで安定した繁栄を続けている。タイとモンには、国王が受戒して出家すること、石碑の建立、仏塔の建立など、アショーカ王の時代の仏教文化が現在まで受け継がれている。

インドの北部にも仏教は広まり、トルコや中央アジアには沢山の仏教遺跡や仏教の繁栄の跡が残っている。

 西はエジプト、シリア、ギリシャ、ペルシャ、アフガニスタンまで仏教が広まっていたことが分かっている。しかしこの辺りには深く根づくことはなく、やがてこの地域からキリスト教とイスラム教が生まれている。しかし教え、戒、サマーディ、智慧、質素な生活、個人の所有物を持たない、己の善以外に頼らないなど、仏教との共通点が多数見られる。

 その後アショーカ王時代に仏教が伝わった国から、王自らタンマの実践をし、プラタムを広めたアショーカ王の願いどおりに、中国、朝鮮、日本、カンボジア、ベトナム、スマトラ、ジャワ、シベリアそして世界各地へと仏教は広まっていった。

 

仏教の建造物

 ブッダ在世時とその後三百年間、仏教教団は崇拝の対象となる像を建造しない方針を貫いていた。仏教の教えに「ブッダ、プラタム、僧」以外のいろんなものを崇拝することは、仏教の外部を崇めることとある。

 

仏教初期の記念建造物。

1 仏舎利を収めた仏塔(チェディー。ストゥーバ)。

  初めにブッダの遺灰の分配を受けた国王が建立した八か所の仏塔。アショーカ王が建立した八万四千。その後に建造されたもの。

2 ブッダの遺品を収めた仏塔。

  ブッダの生涯に関係のある重要な地、あるいは四聖地と呼ばれる地に建立された。

   生誕地カビラバスツ(ネパール)のルンピニーの森

   大悟したブッダガヤ(インド)

   初めて説法をした(初転法輪)バラナシー(インド)のイシパタナマルカダーヤの森

   般涅槃したクシナラー(インド)のサーラワン。

3 タンマを書いた法塔。

  プラタムをまとめた重要な詩のうち、アッサジがまだ若者だったサーリープッタに答えた言葉は、いろいろな所に刻まれている。

4 以上三項以外の記念碑として建てられてもの。

  ドンラン樹の台座、アーサナ石などでできた台座、仏足石、法輪を意味する石に彫られた車輪など。

  ブッダ入滅後四百年くらから、どこにも見られるような仏像が建立されるようになった。

 


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