7.正しいサティ

  8.正しいサマーディ

 八正道の中の最後の二項は心の行動、あるいは心の訓練と呼ばれ、この二項は互いに依存し合い、支援し合って次第に強力にし合います。

 明るく目覚めた心があり、常に望みどおりの幸福であること、あるいは短く「ブッダ」である心があると言われることは、すべての生き物の最高の望みです。まだブッダでない心は欲望の支配下にあるので、身体は何でも欲しい物を手に入れ、玉座や金塊の上に座ることができても、苦と恐怖と心配と怒りに満ちています。だから普通の状態の心を「ブッダ」である心に変えることが、すべての生き物にとって一番必要な仕事です。

 若い人は、心の訓練は年寄りがする古臭いことと考えがちですが、本当は年寄りより若い人にこそ必要なことです。若い人こそ心の改革を受けるべきで、人生最高の望みに到達できれば、残りの長い年月を本当に幸福に生きることができ、人生の素晴らしさを満喫できます。

 仏教の手法による心の訓練は、初歩だけでも考えをスッキリさせ、記憶力が確かになり、何を学んでも完全に理解できるようになるので、非常に利益があります。

 サティとは注意深さ、何が正しく何が間違いかを正しく判断する能力で、失敗することがありません。タイ語ではサティパンヤー(知性)という言葉がよく使われます。

 

 サマーディ(三昧)とは懐中電灯の光で見たい場所を照らすように、心が一つの考えに専心するよう強制することです。教えている言葉をしっかり聞いている学生に教室外の音が何も聞こえないのは、心にサマーディがあるからで、面白くて夢中になる本を読んでいる時も、読むことにサマーディがあり、自分がその話の中にいるように感じます。子供も大人に負けないサマーディの心があるのを、私たちは子供が遊びに夢中になっている時に観察して見ることができます。シッタッタ王子が子供の頃、フトモモの木の下に座っている時にサマーディがあり、滅苦の道を探求している時心がサマーディになって明るく気分が良い時が本当の幸福だ」と気付くことができました。

           

 サティとサマーディの欠如による失敗は数限りなくあります。手紙を書いて返事を求めながら、住所の文字を崩しすぎて相手が読めなかったり、住所を書き忘れたりすることがあり、学生が計算間違いをするのは、サティとサマーディの欠如、周到さの不足で、心に十分な落ち着きがないからです。数学や手工芸、素描などは、常にサマーディを要求される科目です。          

 目を惑わすものを初めて見ると目は間違った報告をしますが、目を惑わすものを見る練習をしたことがあるサティとサマーディのある人は、惑わされずに正しく判断できるよう心を管理する智慧があります。

 人間の生活で心を惑わすものに遭遇することは多々あり、人が幽霊を恐れれば、いつでも幽霊の像が騙し、サティとサマーディがあれば恐怖もなくなり、心を惑わす像も消えます。人が死を恐れると、いつでも心の中に心を惑わす像が生じ、恋をしていると、心に恋人の像が現れて夢見心地に迷わせます。仏教の方法のサティとサマーディの訓練は、これらの真実を明らかに理解させ、そして寝ている時も目覚めている時も心を惑わす状態はなく、生涯明るく爽やかな心で生きることができます。           

 仏教には、サティとサマーディを鍛えて周到で注意深くし、真実を明らかに見る智慧が生じるよう心を訓練する「四念処」と呼ぶ方法があります。この方法で正しく実践する人はたった七日間で、現世で(死んでからではなく。死んでから聖向聖果を得ても何の利益もありません)聖向聖果阿羅漢になれる、あるいは不還に到達できるとブッダは言っています。

 

 体を見る訓練

 若い人の身体は健康で美しいので、明るく健やかな面だけを見ていると、体の変化や衰えに遭遇すると、あるいは自分よりも美しく健康な人に会うと不満や苦を感じ、心を惑わす状態を見ている分だけ苦が多くなります。美しい女性の中には服を一回しか着ない、繰り返し着ない人がいて、一度着た服や他人と同じ服で、名誉ある自分の体を装うことはできません。同じ服を着たくないという衣服に関する複雑さが、起こらなくてもいい問題を起こし、なくてもいい仕事を作っています。

 体を見る実践は、体に関わる苦を生じさせない十分なサティ(自覚)とサマーディをがあるようにします。

1.呼吸を熟慮してサティとサマーディを訓練する

 心に心配事がない時、できるだけ静かで気持ちの良い適当な場所を選んで、足を組んで座り体を真っ直ぐに立てて座り(楽な姿勢で座れるイスに掛けても良い)、心が明るくすっきりするのを感じたら、呼吸の感覚を意識、あるいは規定する練習をします。

 動物や人間の呼吸は普通にあるもので、命がある間は肺や気管や鼻が脳の指令によって、あるいは惰性でそれぞれの義務をしていて、脳が呼吸を大きくするよう命じれば呼吸器は大きく呼吸し、脳が呼吸を短くするように命じれば呼吸器は呼吸を短くし、一時呼吸を止めるよう命じれば呼吸器は呼吸を止めます。

 脳、あるいは周到な考えは、呼吸を観る練習のどんな微妙な変化も感じ取ることができ、一般人の正常なサティとサマーディがあれば、長く息を吸った時には長く息を吸ったと、長く息を吐いた時には長く息を吐いたとはっきりと自覚することができ、短く息を吐いた時には短く息を吐いたと、短く息を吸った時には短く息を吸ったと自覚できます。

 微細なものを良く知り、観察したことがない物を注意深く観察して知る訓練は、心を静めて安定したサマーディにします。心が適度に静まったら「呼吸は息を吸う度に生じて、そして吐く度に消滅する」と熟慮します。人間の体も呼吸と同じで、今体があっても、いずれこの体は消滅して無くなります。呼吸のように、いつも望みどおりに永久に存在する身体はないので、この身体を本当にあるものと捉えるべきでなく、体は無我であり、実体はなく、所有者もいません。この体は呼吸と同じ、一時、時々存在するだけです。

2.挙措を周到に熟慮してサティとサマーディを訓練する

 サティとサマーディに欠けた振る舞いあるいは行動はいつでもあり、本を開いてページを捲っていても何も見ていなかったり、目は見ていても心がそこになかったり、車で外出しても目的がなかったり、音楽を掛けても聴いていなかったりということがたくさんあります。このような行動はサティとサマーディの欠如が原因で生じます。普通の言い方をすれば「上の空」で、どこにでもあり、勉強や生活にとって非常に危険です。仏教ではすべての挙措の心を訓練するよう教えています。

 歩く時は「自分は歩いている」とはっきり知り、立っている時は「自分は立っている」とはっきり知り、座っている時は「自分は座っている」とはっきり知り、寝ている時は「自分は寝ている」とはっきり知ります。

 どんな挙措でも、心が適度に静まっている時「歩く、立つ、座る、寝るなどの行動は生じては消えるので、不変でないものは何もなく、誰のものでもない。他のすべてのものと同じ無我である」と考えます。

 前進する時、後退する時、何かを見る時、体のどこかを伸ばしたり曲げたりする時も、努力のある人にとっては同じようにサティとサマーディを磨く機会です。

3.体内の汚物を熟慮することでサティをサマーディを鍛える

 皮膚に覆われているこの体がまだ美しく愛しているものである時は愛しいと思っていますが、周到に熟慮すると、髪・体毛・爪・歯・皮膚・肉・靱帯・骨・骨膜・脾臓・心臓・肝臓・筋膜など、いろんな汚いものでいっぱいに見えます。美しく見える髪や爪なども、体を離れて水や食べ物の中に落ちると汚い物と見なします。本当は自分、あるいは愛している人の身体は、内部に汚物をいっぱい詰め込んだ二つ口のある袋と同じです。人は誰でも、絶世の美女でも、汚いもので満ちていることに変わりありません。愛に溺れている人は自分を愉しませる美しさは永遠に変わらないよう望んでいるので、体の異常に遭遇すると悲嘆に暮れます。

 普通の人は自分の体を楽しみ、体を真実のままに熟慮することを見落し、中には正反対に「自分の身体は常に美しくなければならない、常に健康でなければならない」と誤解をしている人もいて、当然の変化に遭遇すると苦があり、大騒ぎして惜しんで悲しみます。

 病人の看病、死体を見ること、医療施設や教育施設に展示してある臓器の見本を見るのは、観身不浄念処をするのにとても良いです。

 

 本書に書いたのは、実践者が簡単に実践できる初歩のサティとサマーディの訓練だけです。高くなっていく幸福を求める人は、佛教新聞1934年8月号に掲載したパーリ・大念処経を読むべきです。

 


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