2.正しい考え

心の向きを変える

 ほとんどの人は人生を、川の流れに浮いて水面を漂う塵芥のように、目標もなく流れるに任せていて、自分自身の堕落、あるいは自分の出来事を知らないことが原因の苦に遭遇すると愚痴を言うしか術がなく、苦を受け入れるしかないと勝手に信じて、運不運に振り回されるままで、人の自然は苦に耐えなければならないと誤解します。

 一部の人は自分の目標があっても目標が正しくないので、後に反対に苦をもたらします。この世界にはそれしかないと考えて、面白いこと楽しいこと、一時的な幸福を目標にするので、ほとんどすべての人は苦が多く、永久で不変の幸福を手にすることが出来ません。

 ごくわずかな勤勉な人は、あらゆる障害を乗り越えて自分の欲しい物が揃っている場所へ船を着けることができる船頭のように、自分が努力していることに確信があり、目標に向かって直進し、自分が望んでいる幸福を掴むことができます。このタイプの人は、自分が流されるまま不満に耐えている人を、当然、不満を受け入れて耐えている人、つまり本気でない堕落者と見ます。

 楽しく面白いことと苦や憂鬱の他に、この世界には人間の最高の望みである幸福、二度と苦が戻ってくることのない永久に続く純潔な幸福もあります。人間の望みである最高の幸福は、すべての物と同じようにどこにでも自然にあります。しかし到達できない人間は、あるのが見えないから、そしてその幸福の極みへ直行する確かな目標がないからです。

 永遠に変わらない最高の幸福は、確実にそれを目指す人、そして自分の望みに誠実な人だけにあり、心が静まって怒りや焦燥がなくなれば、人間は最高の幸福に達します。あるのは体が自然に求める要求だけで、心はいつも満ち足りて満開の花のように晴れやかです。そしていつでもそのような状態で、自由で明るい心はどんな自然や環境も危険ではありません。

 ほとんどの人は、述べたような静かで幸福な心になれるのは仙人などの成功者だけと誤解していますが、元々の人間の心は誰でも同じで、生まれた時から間違った教育をされ、愚かさや悪や勘違いを教え込まれて心が真っ黒に染まってしまったので、穏やかな幸福になれないだけです。すべての子供たち、あるいは躾けることができる動物が生まれた時から自然の法則に合ったしつけを受ければ、悪の道に引っ張られる前に世界の利益になる善い人、善い動物になり、不思議なほど怒りの心がなく、頑固に言い張ることもなく、少しでも得をしようとすることもありません。

 ブッダの時代にブッダの教えを聞いた子供の中には、聖人になった人もいます。間違って教育された人でも心の向きを改めて正しい方向に向き変えれば、誰でも最高の幸福がある人になることができます。

 中には、在家の人は仕事とお金と子や妻と混じっているので、静かな幸福になる場所などないと誤解している人がいますが、パーリ(ブッダの言葉である経)のあちこちに、在家も出家と同じように聖向聖果を得ることができる、つまり預流、一来、不還、阿羅漢になれるとあります。そしてそれらの聖人になっても、阿羅漢以外の三種類の聖人は在家でいることができ、出家しなければならないのは阿羅漢だけです。出家していなくても体が心の支配下にあり、心が何もかも捨ててしまっているので、そのこと自体が出家です。

 ブッダは、聖向聖果を得た在家を真の僧、真の仏弟子と賞賛し、反対に聖向聖果を得ることができない僧を仮定の僧と見なしています。家族と一緒に家で暮らし、愛欲や他の物も、体が自然に求める欲だけで生きることは、たくさんの戒を守っていても心は自分の義務以外のことがしたくて煮えたぎり、煩悶している出家より幸福になれます。

 このように述べるのは、すべての僧を非難するつもりはありませんが、道理で言っても、同じ程度の静かな心の在家と出家では、出家の生活の方が障害がなく快適な機会が多く、在家も出家も同じように自然で、違う点は在家は任務を果たすために働かなければならず、混乱に巻き込まれ平坦な毎日ではないということだけです。

 明るく澄みきった心があり家を治めている人は、当然少しも煩わしくなく一日中穏やかな心で働くことができ、本当の善意があり、そして起きているうちいっぱい仕事がある公務員は、疲れも知らず愚痴を言うこともなく働くことができます。夫婦共に自然で暮らし、子供を育て、自分の義務であるいろいろんな仕事を明るく穏やかなサマーディのある心でする夫婦は、当然最高に幸福です。そういう人たちは出家にも負けない道の実践者です。

 在家でも出家でも、心の自然を真実のままに理解して焦燥がなく、心を静かに自然の穏やかさを維持できれば最高に幸福な人と見なします。在家は出家ほど幸福にはなれないと誤解して挫けないで、まだ本当に正確でない目標を見直して心を最高の目標に向き変えれば、とたんに最高に幸福な人になり、間もなく幸福の極みに達します。

                  

愛欲から脱す考え

 胃で自然に生じる空腹は欲望ではなく、体を温めるため、あるいは隠すために衣服を求めることも欲望ではなく、家族に対する義務のために一生懸命働くことも欲望ではなく、自分の妻や夫と普通に暮らすことも欲望ではありません。心配や苦の原因である欲望は自然の欲求以上の、そして体の正常な権利を超える渇望です。

 より美味しい食べ物を望むこと、体や心が忍耐しなければならないほど仕事に欲を出すこと、洋服や装身具などキリもなく新しいものを欲しがること、僧が禁止されているにも関わらずいろんな楽しい行事を見に行くこと、まだ使える物に飽きること、古い妻に飽きて新しい妻を欲しがる等々は、心に燻る欲望の表出です。時には欲望の火が燃え上がり、豪華な食事を満腹以上に食べ、古いものに飽きて数えきれないほどの衣服を買い、いつも新しいものが欲しくて数えきれないほど妻を換える人も、還俗する機会があるのに破戒する僧もいます。

人間の心は幼い頃からキリもなくたくさん欲しがるよう、いつも新しいものを欲しがるように教えられるので、地平線を目指して歩く旅人のように、一つの目標に到達すると目標が遠くへ逃げてしまい、確かな目標がなく、欲しいものが手に入れると更に大きな欲望が生まれます。

 目・耳・鼻・舌・体・心を通して心を楽しくするものは、更に強い欲望を持つよう心を訓練するので、益々苛立ちや怒りを増やします。これを愛欲と言います。心の自然は純潔で、必要最小限の僅かな欲しかありません。幸福を望む人は自然を越えた欲望が生じないよう、絶えず注意しなければならず、そして愛欲から脱出するよう、自然以上のものを欲しがらないよう努力します。欲望から出ることは何かを失うことではなく、心を苦の炎から遠ざけ、自然の涼しい場所に避難させることです。

 愛欲に埋もれていた人が新しい生き方に変えると「私はあどけなさを脱した。自然に対してのあどけなさを脱し、自然について理解している大人になった」と感じ、あるいは今まで奥山の獣道を歩き回っていた人が、目的地まで送ってくれる車が待つ、幹線道路に出たように感じます。

          

恨みを脱す考え

 満足できない物や事があると途端に表れるイライラした感情を怒りと言い、長期間続く怒りと報復しようと考えることを恨みと言います。これらの感情は元からあるものでも自然に生じるものでもなく、熱が自分自身を焼き炙ることで生じます。自分をよく炙る練習をして来て得意な人は、強く長く炙りつけます。自分の心を炙って熱くしなければならない必要などあるでしょうか。心の自然は静かで涼しいのに、どうして人は熱くなって心を炙るのでしょうか。

 いろんな事が自分の望むようにならないと、ほとんどの人はすぐに火を熾して自分の心を炙りますが、哲学者や賢者は自然について知悉しているので、微笑んで、すぐに誤りを解決してしまいます。ペンが壊れたらペンに腹を立てますか。それとも新しいペンで書くのが善いでしょうか。乗っている車が途中で故障したら怒るのが善いでしょうか、修理を始めるのが善いでしょうか。

 恨みは怒りの二倍悪く、誰か気に入らない人がいるとその人に仕返しであることをし、すると復讐を企てる心の苦と、相手の報復を恐れる苦があります。

 幸福を望み、その望みに忠実な人は、当然怒りの炎で自分を焼くこともなく、復讐で怒りを倍増させません。心の自然は熱くないので、熱くなって自分の心を焼いてはいけません。心を自然のままに静かにしておけば本当の幸福で暮らせます。

 

苦しめない考え

 動物あるいは人間は当然幸福を望み、他人を苦しめ他人より有利になることは、当然相手を困らせ苦しめます。人も動物も自然な状態では幸福に暮らし、人を苦しめ有利になろうとすることは、幸福である自然を消滅させる行為で、それは行為者の心が悪に慣れるよう訓練するので、どんどん残虐非道になります。自分のことばかり考えないよう心を訓練し、他人の幸福も考え、他人が更に幸福になるよう援助すれば、世界は可能なかぎり住みやすい場所になります。

 心の自然は欲や怒りはなく、他を苦しめることもありません。だから心が自然になるように引き上げ、訓練してください。そうすれば本当の幸福で暮らせます。人は通常様々な悪や誤解で育てられてきて、心が自然と一致するように高めると、自分は幸福な世界の人の一人と感じ、世界にとって自然で生きる人の手本となり、自分の欲望で苦しむ人の中で自然を越えた欲望のない人に、熱くなって自分を炙っている人々の中で誰をも傷つけない人に、幸福がない人々の中で最高に幸福な人になります

 欲望の強い人から欲望のない人に、残っているのは体の要求だけで、恨みや怒りのある人から恨みも怒りもない人に、他人を苦しめ他人より得をしようとする人から他人を蹴落とさない人に心の向きを変えるのは、非常に難しいに違いないと考える人もいます。長い間誤った方向を向いていたからですが、本気で努力すれば、雨垂れがいつか水瓶から溢れるように少しずつ変化し、自然を正しく理解できる人は直ちに心を反転させ、苦のある人から完璧な幸福の人へ、別人のように変わります。

 エミール・クーエという医者は「考え方を変える」療法で患者を治療して有名になりました。患者の考え方を「私は毎日いろんな方法で良くなっていく。どんどん治っていく」と変えさせることで、患者が考えを「私は治る」と変えるだけで、病気や痛みが治りました。

 暇な時、心がすっきりしている時、毎日自分の経過を熟慮すれば、本当に自分は常に良くなっていると感じます。善人になり幸福になるのは、時には時間が掛かることもありますが、内部と外部から正しい支援があれば、ブッダや聖人方のように最高に幸福な、心の自然で本当に純潔な善人になり、どの瞬間も幸福なら「ブッダとプラタムと僧、そしてすべての幸福な人に会った。到達した」と見なします。

 天人、極楽の神、預流、一来、不還、阿羅漢とは、苦のある人から幸福な人へ、幸福な人からとても幸福な人へ、そして最高に幸福な人へと次第に心の向きを変えて行った人の呼び名です。自然で最高に幸福な心の人以外に、神も天使も素晴らしい人もいません。

         


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