1.正しい見解

 世界の流れに身を任せて当てもなく漂う生き方は、苦と憂鬱の道を漂うことです。奪い合いや悪事や得をすること、不正にばかり興味をもって、見たり聞いたり考えるのは、世界のどこにでもある、不正して自分だけ有利になる悪事ばかりです。

 ほとんどの人間は自分だけを基準に考えるよう、一面だけしか見ず、しかも自分の一時的な利益しか見ないよう教育されたいます。ほとんどの人間は、そうした狭い考え方や知識を集めて心の基準にします。そのような心の基準は間違った基準なので、自分の幸福と他人の幸福にとって非常に危険です。

誤った見解

 読者のみなさんもきっと、次のように自信たっぷりに言う人に会ったことがあると思います。

 「この世界には正義なんてありゃしない。誰も彼も仲間の味方をし、身内の利益だけを考えているよ。潔癖な人や純粋な善など何処にもない。誰でも、僧でも自分の悪を隠している。人に親切や援助をするのは、その人から見返りがほしいからで、本当の慈悲なんてありっこない。この世界には真実なんてないさ。人はみな嘘をついて騙し合っているんだから、こっちも同じように振る舞わなければならない」。

 このように話す人は、自分は真実を話していると確信していますが、本当はその人にとって世界がそうなのです。そのように考える人にとって、今この世界は地獄であり、その人自身も報復という行為で世界を地獄にしています。

 どうしてそのように確信し、そう言うのでしょうか。世界のどこにでもある善を見たことも観察したこともない人間は、狭い世界で自己教育をするので、友達や自分自身の悪ばかり見て、みんな自分と同じような悪人で、自分より善い人はいないと確信してしまいます。誤った見解である精神基盤は非常に厚い闇に包まれていますが、自分は真実を知っていると自惚れます。

 誤った見解は畜生のように訓練された精神基盤です。誤った見解に執着する心の人は、長くなれば、猛獣のように残忍な強盗になるか、狡賢く人を騙してばかりいるかで、大衆にとって非常に危険な存在になります。

 人間が多くの苦や憂鬱を受け取らなければならないのは、誤った見解を心の基準にして、いつも自分と他人の苦の原因を作っているからです。誤った見解の人が減らなければ、苦も減りません。世界中の人間が心の狭い人の考えのように誤った見解になれば、世界は、人が詳細に描いている地獄絵のような様相になるに違いありません。


正しい見解

 人間が動物より幸福になるにはどうすれば良いでしょうか。私たちには住む場所である家があり、家族があり、自分が愛す友達も、自分を愛してくれる人もいます。だから自分と他人を幸福にする義務をし、病気や困難に遭遇した時は言うまでもなく、いろいろな仕事を助けて協力する準備があります。私たちは幅広い交流と商売をし、他人を援助し、資本や労働力を出し合って有益な大事業をなし遂げます。

 人間が動物より快適で幸福な生活を営めるのは、人間には生きる技術や正しい生活規則があり、いつでも、より良くしていく努力をするからです。人間は誰でも、自分を助け、自分に幸福をもたらす人がいると、「善い行いだ」「善い人だ」と言います。善は心を満足させる結果である幸福を意味するので、誰でも善行や善人が好きです。

 善や幸福は、いつでも見本として見ることができる当たり前の法則です。仕事をすれば欲しい物を手に入れることができ、種を蒔いて育てれば直接作物を収穫でき、雇われて働けば欲しいものと換えることができるお金を賃金として貰います。休まず働けば休まず結果を受け取れ、怠けて働かなければ労働の結果も受け取れません。


善・真実・正義

 人間が自分の義務を行うこと、自分と他人の幸福を生じさせることをすることを善と言い、物事がいつでも正しく経過して確かな結果が現れることを真実と言い、本物(善)に反する物として偽物(不善)が現れた時、道理で正しく判断し、善い側にとって好ましい結果、あるいは善い側が幸福である判断を正義あるいは公正と言います。

 善・真実・正義はいつどこにでもある当たり前の法則です。人間の幸福の原則をまとめて人道と言います。誰でも当然、当たり前の法則や人道に慣れていて、人道に則っていることも、人道に反していることも、いつでも見本を見ることができます。教育のない人や奥地の原住民や町から離れた遠い島の人たちも、自分たちを苦しめたり物を奪う人があれば、善くないことと知っています。


貧困・苦

 多くの人間の苦である貧困は、自分も良く知っている当たり前の法則に逆らった結果です。自分の義務である仕事をしない(悪)、継続して働かない(不実)、収入が少なく支出が多い(不公正)ことは、全種類の貧困の原因です。船の転覆や地震などの不運、あるいは自然災害による貧困は、悪による貧困と比べるとほんの一部の原因でしかありません。

 動物は毎日餌を探さなければならないので、餌が獲れない日は飢えに耐えるしかありません。人間は食料を長く蓄える方法があるので、人間が貧に甘んじ困に耐えなければならないなら、動物より能力が劣るのと同じです。人間には「仕事がない」問題があると動物が知ることができたら、動物は自分たちの能力を誇りに思い、「仕事がない」という問題がないので人間より幸福に思うに違いありません。


誤った見解の結果

 泥棒や悪人たちは、悪と不正義で心の基盤を訓練された人間です。純粋に交際しようなどという人は誰もなく、悪人たちの世界では互いに誠実に付き合うことが出来ないので、生涯苦に遭遇し続けなければなりません。他人の物を奪ったり盗んだりすることはできても、正当に手に入れたような幸福を掴むことはできません。

 あの手この手でお客を騙し、不正な商売をする物売りたちが、昔はたくさんいました。今は非常に少なくなり、丁寧で正直な店や物売りが増えました。正しい見解のある人と正しい見解の家系は盤石で、誤った見解の人たちは反対の結果になります。


最後には正しい見解が勝つ

 時には誤った見解の人が多い時代があり、そうした時代には正しい見解の功績は一時潜伏して表面に現れることはできませんが、最終的には、恒久的で幸福の側である正しい見解が勝ちます。

 人間は誰でも、常に善を行って善人になる機会があります。善人になるのは権力者やお金持ちになるより簡単です。善行はいつでも簡単にでき、お金や物の資本は必要ありません。常に善の側に立つことを原則にして、他人と自分の幸福に注目するだけです。

 正しい見解のある、善側の正しい心情の人は「この世界にはあどけない幼子に注がれる母親の慈愛があり、正義の支援や援助があり、善を愛する人がいて、正義を守る裁判官もいる。善を行う人はますます尊ばれ尊敬される」と見る十分純粋な心があります。

 正しい見解の人は純潔と善について考える広い心があり、その人は「自分よりもっと善を維持している人、もっと素晴らしい功績を維持している人もいる」と確信しています。「人は自分と同じような悪人か、自分以上の悪い人ばかり」と見る間違った心情の持ち主と正反対に世界を見ています。


力を合わせてこの世界を楽園にする

 平安をもたらす善、真実、正義はどこにでもありますが、人間は自分に幸福が訪れることを願い、他人が自分に対して一方的に善・真実・正義を行うことを期待します。もちろん正しいことではありません。人間の義務は、自分で善・真実・正義を行うことです。正義を望んで自分で正義を行わない人は、どこから正義を受け取るのでしょうか。

 この世界には、明と暗のように悪・虚偽・不公正と反対の善・真実・正義があります。

 正しい見解を心の基盤にしている善側の人は、他人の善ばかり探し、善いことだけを考え、人道に忠実なので良い業だけ作り、常に結果として永続的な幸福を受け取ります。誤った見解を心の基盤にしている悪側の人は、他人の悪ばかり探し、悪いことばかり考えるので悪業ばかり作り、常に自分の心と体に苦をもたらします。

 この世界には、人間が望みどおり探求できるように善も悪もあります。幸福を求める人が多い時には、幸福はどこにでも溢れていて、正しい見解の人々の中にいると「善と幸福はどこにでもある。人道の実践、善人であること、真人であること、正義を愛することは実に簡単で、知識のない人や文字の読めない人でも善人になれる。善は世界に溢れ、世界は幸福で満ちている」と感じます。

 正しい見解の人は善い友であり、両親を敬愛し、子供に対して本当に慈しみ深い親になります。正しい見解の人にとって、この世界は完璧な楽園であり、いつでも望みどおりの幸福と明るさだけがあります。

 『輝く光に満ち溢れ、無辺に広がる天国が西方にあり、意志の強い人が世界の業に倦み飽きて、心をサマーディにして幸福な状態を目指せば、天国の池の蓮華の中に生まれる。天国を目指す人は水晶の海に神聖な天の花を咲かせる縁になる。常に純潔な考えと、休みのない善行はその花を育てる原因』。

 人間が現世で遭遇する、正しい見解である心の基盤から生じる心と体の幸福以外に、どこに天国があるでしょうか。善いことだけを考え、善いことだけを行ない、常に善を増やして行くこと以上に、確かで素晴らしい天国はどこにもありません。

 多くの哲学者が「善は何よりも素晴らしい」と、その価値を認めています。ゴーテというドイツ人哲学者は次のように言っています。

 「善と真実を愛す性質の人間は確実に幸福になる。その善が心を幸福にする聖水だから。反対に悪が好きで悪を行う人間は、当然苦を受け取り、いつも苛立っている。彼らは自分が原因の奇妙なトラブルに遭遇し、そうしたトラブルが彼らを憂鬱にし凋落させる」。

 ソクラテスは次のように言っています。

 「最も素晴らしい人間は、純潔な善人になるために最善の努力をする人である。最も幸福な人間は、善行によって自分が純潔な善人になっていくことを確信する人である」。

 人間は誰でも幸福を好み、幸福になりたいと願っていますが、望みどおりの幸福を受け取り、心も体も晴々としている人は本当に少数です。大部分の人間は心と体の憂鬱を受け取って耐えなければならず、望みどおりにならないことで苦しみます。

 ブッダが公開した滅苦の道であるプラタムは永遠にあるのに、これらの苦に耐えなければならない人間を救うことができないのは、それらの人々の心の基盤が間違った見解なので、プラタムの光が届くほど心が明るくないからです。

 仏教という緑陰の涼しさに触れたことのない人間は、間違った見解を心の基盤にしていて、大人の言うことを聞かない子供のように、自分の考え方は間違っていないと自惚れて誰の忠告も聞こうとしないので、純潔で完璧な幸福は本当にあり、到達できると信じません。教えを実践しても疲れるだけで、心の喜びや幸福は得られないとためらい、賭け事で大金を手に入れることや、線香とロウソク代だけの投資で神聖な物を拝んで願いが叶うような一時的な幸福に執着し、後で苦々しい苦の結果を受け取ります。


素晴らしい精神基盤

 ブッダが教える方法で安心を得る機会があった人間は、次の四項目と一致する正しい見解を心の基盤にしています。

1.苦とは、何かが望みどおりにならないことに遭遇した時も、下へ置いてしまうことができない「自分、自分の物」という取の結果である。

2.苦が生じる原因は、自分が満足するようにならない時、望みどおりにしようと焦燥し足掻くことで、欲望と言う。

3.苦からの脱出は純粋で完璧な幸福、つまり欲望と取を消滅させることができる。自分の義務に従っていろんな仕事を行っても、心は陶恍惚とならず、出来事で悪戦苦闘しない。

4.純潔で完璧な幸福である滅苦に到達する方法は、ブッダが発見し、先導者として自身が実践し、後に続く人は泥水を弾いて咲く蓮の花のように曇りのない心の人になる結果を受け取る八項目の道である。正しい見解を盤石な心の基盤にする人間は、確実に滅苦の道を歩いていると確信し、苦と憂鬱が減り始め、そして消滅し、代わりに心が明るく澄みきって次第に常に成長し発展する。

 国、つまり私たちの体と心が、正しい見解を先導者、計画者にすれば、すべての物は更に明るく澄んで素晴らしい道を歩み、ふさわしい時に、穏やかな幸福の極みに達すことができます。




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