第一章 苦に関する真実

 

 誰も教える人がいなくても、人は誰でも苦はどのようかという知識があるように見え、何か不満なことがあるとそれを苦と感じます。しかし深く考察すれば、苦を真実のままに知っている人は少なすぎ、多くの人は苦を嫌い幸福を求めているにも関わらず、苦の真実を知らないために苦を増やしていると見ることができます。

 いろんな楽しく夢中になることを探すには寝食を忘れ危険を冒し、疲れも厭わず駆け回らなければならなくても、寝食を忘れ危険を冒し、疲れも厭わず駆け回ることは紛れもない苦であると考えず、好んでそれらの行動をする人がいます。悲しみも、誰も好む人がいない苦の一種ですが、それらの悲しみが生じるのは他人のせいでしょうか。それとも本人に関係のないことが原因でしょうか。

 一般の人の希望は、夢中になることを探し満足する物を探すことだけで、それを得られれば満足し、みんなして苦を見過ごす決意、目を瞑って苦に関わらない決意をしています。苦は人間の生活の一部分で、健康と病気のように幸福と対になっています。病理に関する知識を学ぶ医師のように苦に関する真実を学ぶ努力をしなければ、苦と闘い、苦に勝つ知識を得ることは出来ません。何も手当をせず、生活の半分である苦に背を向けたままにすれば、本当の人生を知って理解する機会は生涯ありません。

 遊びに夢中になっている人は「仏教は苦を知るよう教えるので、苦がある人にする。苦についてばかり考えるので明るい気持ちが萎んでしまう」と言い、仏教は幸福をもたらさないという見解になります。

 楽しく夢中になることばかり考えている人たちは、体があらゆる病気に冒されているのに、治療もせず痛みの治療だけをして「何も病気はありません」と言う医者で満足するでしょう。確かに、苦に関心をもつことや苦についてだけ述べることは楽しくはありません。しかし苦は幸福より多く、この世界の人間の生活に常にあり、そして苦は貧乏人であろうと大富豪であろうと、相手を選ばず危害を与えるので、苦は世界を妨害する最高に凶悪な敵です。幸福を求め、不幸に妨害されたくないなら、学習し、常に戦って勝つように是が非でも備えなければなりません。体を苦しめる病気なら医師に苦痛を軽減してもらうことができますが、苦の病はどんな名医も治療を引き受けてくれません。

 人間の信じやすさ、苦と闘う努力をしないこと、真実を探求しないなどが、世界中のほとんどの人を「苦は天国の神聖なものから与えられるもので、人間には苦に勝つために身構える機会もない。天から与えられるままに受入れて耐えるしかない」と迷って信じさせます。これが人間を弱くし、勝利する努力をするべき苦を恐れさせる重要な項目で、その結果この世界は永遠に苦や不幸に覆われています。

 ブッダは他の宗教と反対に、苦の原因は自分自身であり、天国から与えられるものではないので、苦に完璧に勝利する道があると教えています。

 ブッダ自身、完全に苦から解脱した人の手本になり、その時代の沢山の人々を涅槃に導きました(阿羅漢と呼ぶ)。

 医者が病気の種類を分類するように、ブッダは理解しやすいように苦を種類別に分類しました。苦の状態と症状が分かれば、苦に勝利する正しい知識が得られるからです。苦を十一種に分類し、執着、あるいはいろんなものを自分のものと捉えることが苦の根源とまとめています。

 1.生まれることは苦です。生まれるとはいろんな意味の誕生を意味し、たとえば発酵で生まれること、卵に生まれること、母の胎内に生まれること、初めから大人に生まれること(天人や地獄の動物は子供に生まれる必要はない。分かりやすい例では、生まれると同時に贖罪をするための囚人になるとか、何らかの責任を取らなければならない生のこと)。

 2.老

 3.死

 4.悲しみ

 5.嘆き

 6.体の苦

 7.心の苦

 8.困窮

 9.嫌いなものと一緒にいること

10.愛するものと離れていること

11.望みどおり得られないこと

 要するに執着愛着になるものは全部当然苦をもたらします。そして苦、執着のある五蘊(体と心)に基礎があります。もっと短くまとめて言えば、苦は執着のある五蘊にあります。

          苦とは何か

 苦とは「自分あるいは自分の体と心は自分だ」と誤解し、苦も自分のものと執着する威力によって生じ、自分も苦も自分のものではないと真実のままに見る智慧があれば、執着で誤解しないので、苦は生じません。自分には実体がないからです。

 この真実を簡単に見るために、ブッダは「自分」の部分を義務によって五つに分けました。

〔形〕とは体のこと。人が住む家のように、心が住む形。

〔受〕とは嬉しい、苦しい、嬉しくも辛くもないというように心に生じる味。

〔想〕とは記憶する働きと、意識があると感じること。

〔行〕とは心の行為や言葉や考えなどを生じさせる部分。

〔識〕とは心の感情を知る部分で、入口は目・耳・鼻・舌・体・心。

 ブッダはこの五つの部分に分けて「体は不変ではなく刻々と変化していく(無常)ので、病気になってはいけない、老いてはいけない、いつまでも若く美しくあれと、望みどおりに支配することはできない。自分のものと言うには、自分の思いどおりに支配できなければならない。自分の自由にならない物を自分の物と考えるなら、それは真実に反す誤解であり、決して執着できないものに執着していると思い込んでいるだけ。体に実体があるなら、あるいは本当に自分のものと呼べるのなら、すべて自分の思いどおりにできなければならない」と熟慮するよう教えています。しかし人間は自分の体を自分の思いどおりにすることができないので、仏教では世界と正反対の考え方、体は無我と見なしています。つまり自分では選べないものであり、人々が考えるように自分のものではなく、ただ一般に自分のものと仮定しているだけです。

 他の四つの部分も、同じ理由で実体はないと教えています。だからタンマの面の五つの部分の集合体である私たちも「無我であり、自分ではなく、自分のものでもない」と、世界と反対に捉えなければなりません。今まで自分と思い込んでいるのは、世間の仮定のように教えられたからで、ブッダは「愚かな人が本当にあると、そして本当だと見ているものは、真実は本当にはない」と教えています。

 自分で非常に満足している自分も本当に自分のものではないのに、誰もが好きでない苦を自分のためのものと執着することに何の利益があるでしょうか。

 この無我の思想を説いた思想家や教祖は、ブッダの他に現れていません。あるのは、目に見えるものは自分であり自分の物であり、目に見えないものも実体があり、あるいは目に見えるものより威力があると教える宗教ばかりです。ブッダは反対に、

    すべての行は不変ではない。

    すべての行は苦である。

    すべてのダンマは実自分ではない(自分として執着するべきものはない)と教えています。

 この三項は、自然を真実のままに理解するためにブッダが教えた当たり前の状態で、この当たり前の教えを明解に理解している人は、当然苦を自分のものと考えないよう努力し、またそうすることができます。

本当に苦をなくせるのか

 「自分ではない」という無我の教えで自然を理解するのは奇妙で、生まれた時から両親や兄弟が「これは自分のもの。これは自分」と教えるので、自分の気に入らない時は怒ることを憶え、私たちは教えられたようになります。

 小さな子供の頃は体の痛み以外には怒りも欲も苦も知らないので、澄んだ心で幸せで、痛ければ泣き、嬉しいことがあれば痛みも忘れて笑います。子供は執着して苦にする記憶がないので、執着して苦にすることを知りません。いろいろなことを記憶するようになると、人間の苦はどんどん増え始めます。

 人間が心を変えて「自分ではない。自分のものはない」と捉えるのは非常に難しく見えます。ほとんどの人はないものを有ると仮定することが好きだからです。例えば幽霊などを実際に見た人は非常に少ないのに、幽霊の話はどこにでもあります。しかしよく観察して見ると、時には自分で意識せず無我になっている時もあります。例えば自分で自分に苦を作った時、その原因を作った人と結果を受ける人が同じであるのも忘れて自分の胸や頭を叩いたりします。スポーツの試合で自分の学校の応援をしたことのある学生は、卒業すると母校を自分の学校と思いますが、在学する学校と母校が闘う試合があると、掌を返すように現在の学校を応援します。時には執着しないで簡単に考えを変えることもあります。

 例えば何か大切な物を盗まれると愛着のあるものと離れるので苦を感じますが、それがもう一度誰かに盗まれると、その時は苦よりも喜びを感じます。そしてもし最初の泥棒が、盗まれた物は元の持ち主の物で自分の物ではないと考えていれば、二度目の盗みでは誰も苦しむ人はいません。

 人間が閻魔大王を作り上げるほど非常に恐れている死。私たちが転げ回るほど死を恐れるのは、愛するものと別れたくないから、そして死んだらどうなるのか知らないので、少しでも長くこの世界にいたいと望みます。両親や兄弟、あるいは愛している人が亡くなると揃って号泣し嘆き悲しみ、夜も眠らず、食事もせず、自分の苦を増加させます。その時心を抑えて悲しさを見せない人がいれば、一般の人が満足するものではありません。

 死は人生の最終幕で、何処にでもある当たり前のものです。夜になれば陽が落ちて光が無くなると同時に闇になるように、死は一瞬の間存在するだけです。(死んだ人は物を思うこともなく、休息します)。死はとても簡単なことで、死んだ人は悲しみも後悔もありませんが、まだ死なない人が揃って嘆き悲しみ、苦しまなければなりません。みんなで悲しまないようにすれば、誰かが死んだ時も自分が死んで逝く時も、死に関わる苦は非常に減ります。

 他の苦も同じで「苦には実体はない。自分の苦ではない」という無我の教えで苦と闘う方法があります。そして苦を減らすようにみんなで誘い合ってそれまで執着していたものを捨ててしまえば、体の苦さえ、他人の確かな愛があれば痛みは少なくなり、あるいは感じません。

 無我の教えは最高に真っ直ぐな苦の解決法で、無我の教えは苦と闘うため、そして真実のままに熟慮するためにあり、何も食べなくてもいい、眠らなくてもいいという意味ではありません。食べないこと、眠らないことは苦の一部で、体と心は苦を好まないのは当然なので掻き集めません。理解したように「苦は自分でも、自分のものでもない」と捉えることは無我であり、直接苦を滅す最高の方法です。

 


ホームページへ                                            次へ