第二章 真実の探求





 望みどおり出家したシッダッタ王子は、アヌピヤアムパワンというマンゴーの森に滞在し、出家の満足と幸福を味わって七日間の断食をした。

 豪華で贅沢な生活を捨てた王子は、粗末な布や、人が捨てた糞掃衣と呼ぶ布を身にまとって木の根元で寝起きし、ビンタバータ(托鉢)と呼ぶ、庶民から貰った食べ物を食べ、病気の時は何処にでもありふれた物で治療をした。本当の出家は自ら「質素な生活が最も幸福な生活であり、何も心配がなく、あまり欲がない。世界中の人がこのように簡素な生活をするなら、奪い合いや苦しめ合いは決して起こらない」という手本になるために質素な生活をした。

 ほとんどの人間は、自分の財産や物をたくさん所有することで幸福でいられると理解している。しかし出家者たちは反対に「みんなが必要最小限の、自然な欲しかなければ、みんな一緒に幸福に暮らすことができる。人間の必要最小限の物は手近にある」と説明して理解させようと望んでいる。

 シッダッタ王子が貧しい村人から貰った初めての食事は、宮殿で食べた最後の食事と比べると、出家の生活について考える常自覚がなければ、とても喉を通る物ではなかった。しかし人間の体内にも、この食事のように不浄な物があると自然の真実を熟慮して、厭うことなくその食事を摂ることができた。

 シッダッタ王子はマガタ国の都、ラージャガハを目指して南下した。当時のラージャガハにはいろんな教義の教祖が集まり、自分の教義を説いていたので、それらの教祖の最高の幸福に到達する方法を学ばなければならなかった。

 ある朝マガタ国のピムピサーラ王は、見たことがない優雅な態度の僧が托鉢の列に混じってラージャガハの都に入り、人々が騒めいているを見て、遣いをやって調べさせると、元サキヤ族の王子で、多くのバラモンや哲学者たちから「大悟してブッダになる。さもなければ世界を治める皇帝になる」と予言されていた人が、今は出家してラージャガハの都に托鉢に来ていると分かった。

 ピムピサーラ王はシッダッタ王子の居所である山の上の樹の下を訪ね、サキヤ族の家系や出家した理由について質問し、その答えに満足して領土の半分を分け与え統治させると誘ったが、シッダッタ王子は、自分は素晴らしい真実を探している途中であり、それは天国の玉座より素晴らしい物ですと説明した。

 ピムピサーラ王はシッダッタ王子の説明に同感し、その真実を知ったら自分にも教えてくれるよう頼んだ。

 シッダッタ王子は、多くの人から尊敬されている有名な出家であるアーラーラとウダカの弟子になり、二人の説く教義をすべて学んだ後、本当に苦を滅す道ではないと考え、二人の元を去った。

 それから、マガタ地方のウルヴェーダーセーナーニカマへ行って、全裸で立ち続けて決して座らない、刺の上を歩く、刺の上で寝る、水浴をしない、人と会わない、呼吸を我慢する、ごく僅かしか食べないなど、心を苦から脱出させると評判の数々の苦行を試みた。すると極度に体が痩せ細り、残るのは骨と皮だけになった。

 ゴーンダンニャ、バッディヤ、ヴァッパ、マハーナーマ、アッサジという五人の修行者は、バラモンたちの予言で聞いたことがある王子が苦行をしていると知ると、王子が悟りを開いたら自分もその真理を知る機会が得られると期待して、弟子になってその時を待った。シッダッタ王子は、誰もこれ程まで自分を苦しめることはできないと明らかに見えるまで様々な苦行をしたが、このように体を苦しめることは苦しいだけで、心の進歩は何も得られなかったので、悟りは別の方法にあるに違いないと考えた。

 シッダッタ王子は、子供の頃、父王が執り行った始耕式の時のことを思い出した。幼い王子は涼しいフトモモの木の陰に座り、罪である考えが静まって非常に心の幸せを感じたので、心が静まることが苦に勝つ道に違いないと考えることができた。

 そこでシッダッタ王子は「普通の成り行きである幸福を恐れるべきでない。その種の幸福は空腹で衰弱した体では到達できない。だから体が求める食事をしなければならない。それから心を静めて深い真実を探究する力をつけるために、心を静めて幸福になる訓練をすべきだ」と、新しい考えが生じた。

 王子は以前のように健康な体を取り戻すために、ご飯や果物などがある食事を始めた。王子が厳しい努力を止めたのを見た五人の修行者は、「王子には最高の真実を探究することはできない」と見て去って行った。

 紀元前五八八年、六月の満月の朝、ウルヴェーダー村セーナーニカマの村長の娘スジャダーは、牛乳と砂糖で炊いたマトゥパヤーサという飯を樹の精に供えるために森へ行くと、そこに堂々と座っているシッダッタ王子の姿が見えたので、持っている飯を献じた。王子はマトゥパヤーサを残さず食べた。スジャダーが献じたマトゥパヤーサは、シッダッタ王子が大悟する日の食事である。

 その日の夕方、ソーダティヤという男が萱を運んで近くを通り掛かり、萱を八束献じたので、王子は大きな菩提樹の根元の東側に敷いた。萱を敷いた台座に座ると東の方向を向いて「たとえ血肉が干乾びて骨と皮だけになろうと、大悟するまではこの萱の台座から立ち上がるまい」と決意して、真実の探究を始めた。

 シッダッタ王子が真実の探究を始めると、善の敵であり、悪魔に譬えられる欲望と呼ぶものが生じて心を混乱させた。王子は、それまで積んできた波羅蜜(善)について考え、日没前に悪の考えに勝つことができた。それから王子は、子供の頃の始耕式の時のように心を集中させ、苦に勝つ方法について考えた。

 初更(夕方六時から九時まで)には、難行苦行をしたこと、王宮を出たこと、老人や病人や死人を見たこと、王宮での幸福な生活、前生でヴェッサンダラとして生きたこと等々を順に逆行して考えた。

 中更(夜九時から十二時まで)には、正しい見解による善い行いをした動物、あるいは人間は幸福に生きると、カンマ(業)の法則について熟慮し、三更(〇時から三時まで)には、互いに依存しながら鎖のように次々に連なって生じる道理のある縁起の原則について次のように熟慮した。

    老いと死の原因は何か。     誕生である(生)

    生まれることの原因は何か。   有である

    存在の原因は何か。       執着である(集)

    執着の原因は何か。       欲である。等々

 王子は根源について熟慮し、すべての物を、真実のままに明らかに見えないことである無明を発見した。

 だから苦の消滅は、欲望と無明を消滅させることで生じる。人にすべての状態の真実を明らかに知る智慧が生じれば、欲望も執着もないので、苦は消滅すると。

 王子は「数えきれないほど輪廻を繰り返して来たが、欲望が苦の家の建築主と気がつかなかった。だからいつの生にも苦があった。欲望よ。今私はお前を見つけることができたので、今後苦の家を建てさせはしない。お前が建てた柱も屋根も、私は壊してしまった。私の心は欲望の終焉に到達した」と感嘆した。

 夜明け前にシッダッタ王子は大悟した。つまり欲望が苦の原因であること、あるいは聖諦(素晴らしい真実)と呼ぶ欲望を消滅させて苦を滅す方法を発見した。紀元前五八八年、六月満月の朝、ガヤー村(現在のブッダガヤー)のネランジャラー河のほとり、菩提樹の木の根元に萱を敷いて東を向いて座してのことだった。

 ブッダとは「真実が明らかに見える知識、目覚め、明るい」という意味で、正式にはサンマーサンブッダと呼ぶ。自分の力で悟った人という意味で、阿羅漢サンマーサンブッダとも言う。

 真実が明らかに見え、心が欲望のない純潔に到達した人を阿羅漢と言い、煩悩のない純潔な人という意味である。



ホームページへ 次へ