仏教は現代人をどう支援できるか


1947年6月2日

 苦を共にする友であるみなさん。他の話をする前に、みなさんから慈しみを頂戴し、私が「苦を共にする友」という言葉でみなさんをお呼びしたことに注目していただきたいと思います。これから述べる理由で熟慮して、つまり私が「苦と幸福を共にする友」という言葉を使わないで、「苦」だけを共にする友です。それは、私たち人間は苦があり、本当の自然で苦を共にする友で、政治に関わらなくても、あるいは何にも関わらなくても、すべての人間は苦に陥っていて、幸福が生じること、あるいはこの世界の「幸福」と呼ぶものは、すべてのタンマの規則で正しく言っているのではなく、おおざっぱに呼んでいるのであって、人間が受ける幸福とか、今受け取っている幸福とか、かつて受け取った幸福とか簡略に言うのは、更に苦に沈ませるための騙し餌にすぎません。

 物質面でも感情面、あるいは心の面でも、どんな幸福も愉しさも、世俗的な苦に自分を深く埋め込むと考えてみてください。だから人間の自然で、苦に沈んでいて、幸福あるいは楽しさはふざけて騙すもので、私たちの行動の状態を今ある状態と正反対に変えない限り、純粋に「私は幸福」と言うことはできません。今の状態と正反対になった時「幸福な人間」と信じます。今はいてもわずかなので、私の幸福と呼ぶことはできません。

 私たちが人間の自然で苦に沈んでいるのも一部であり、そればかりか、有る時代のある時は危機の淵に落ちなければならず、そして特に戦災など爆弾を投下される危険の恐怖から、戦後欠乏から生じる危険に遭遇すること、そしてその欠乏から生じるいろんな困窮まで、自然に関わりのない人間が作った物質面の特別な搾取がある時代もあります。だから私は、むしろ苦を共にする友と言います。私たちは幸福と苦が混ざっているから幸福と苦を共にする」と言うことはできません。よく考えて見ると、私たちは今、苦だけを共にする友です。しかしいずれにしても、すべてではなくても、一人一人の苦は解決できるものです。

 これからサンマーサンブッダのプラタムで熟慮すると、つまりブッダの教えであるプラタムは誰のものでもなく、時を限定しないので、何時でも同じように苦を軽減させることができ、自然の苦でも、特に人間が作った苦でも、プラタムはそれらの苦を払い落すことができます。しかし地域社会に関わる場合は、たくさんの人を私たちの、あるいはプラタムの規則で回転させることはできません。

 このように述べることは、世界の人間が一斉にタンマの行動をしなければ、世界の人が幸福になる、あるいは苦から脱す希望はないと言うに近いですが、そのような心配はありません。世界の人の九割が教えに従って行動する努力をしなくても、残りの一割は自分を幸福にする、あるいは苦から脱出させることができます。

 考えて見てください。この世界にはたくさんの国があり、それぞれ自分の自由と力があり、それらすべての国を引っ張って同じ教えで行動させることは、当然できないことです。だからそれならどのように世界を幸福にできるか、あるいは苦の部分を少なくできるかという問題が生じます。

 特に私たちタイは、ほとんどの庶民がタンマを見過ごしている時、一部分の庶民は苦から脱す希望がどのようにあるか。仏教の教えの言葉、プラタムの威力はこの危機を完全に解決できます。つまり宗教を維持する人がたった一人しか残らなくても、自分自身を幸福にする方法があります。そして正しく純潔なものは当然強い威力があるという理由で、自分が作った、あるいは行動したたくさんの幸福を他人に分配して普及させることができます。

 だから教祖の教えの言葉プラタムは、最高に不思議な一つの状態があり、全員が教えの言葉プラタムで行動できない時は、残りの人たちに幸福を受け取らせることができ、少しも線引きをするものではないという理由で、私たちには希望があり、すべての方法で希望があり、今は苦がある人でも、苦から脱す希望があると言えるということです。しかし二倍の数の世界の人がプラタムで行動すれば、世界にとってそれだけ早く、そして広く良い結果があります。

 冒頭で言及したのは、私たちはほとんど世界中の人が苦の淵に落ちているので、少数でも、たとえ一人でも、誰か自分を苦から抜き出す望みがあれば、残りの九割がしなくても、できる道があるからです。だからだからこの意味で、あるいはこの角度で苦を共にする友になり、サンマーサンブッダの教えの言葉プラタムを自分の能力の限り、利益になるだけ熟慮し判断します。

 今日の講義は「仏教は現代の私たちを幸福にするためにどのように支援できるか」と題してお話します。ここでの「私たち」という言葉は広い理解にして、私たちすべて、つまり仏教教団員だけでなくすべての人類です。これからお話することを簡単に理解させるために、「仏教」「私たち」「どう支援できるか」の三つに分けさせていただきます。

 このように「仏教とは何か」を共通の問題にすれば、正しく理解する人も間違って理解する人もいます。だから良く知られていることを話して時間を無駄にすると理解しないでください。ここでは「私たちを助けられる仏教はどの種の仏教か」だけに限定して、仏教という言葉全般について述べたいと思います。

みなさんは、仏教の教えは、ブッダは三つにまとめられ、「罪を作らない、あるいは悪をしないことが一つ、善を行うことが一つ、そして心を、心に止まるべきでないものが無い清浄にすることが一つ」と、パーリ、ブッダヴァチャナである教えがあると、繰り返し聞いたことがあると思います。そして最後は「それがすべてのブッダの教えです」で終わり、「すべてのブッダ」という言葉を使っています。

 思考をするのが好きな人は、初めに「悪を行わないように禁じるのは、ブッダの時代以前にもあり、あるいは仏教以外にもあり、他の宗教もそう教えている」と疑念を持たれると思います。そして良くすること、善をたくさんすることもブッダの時代以前からあり、他の宗教にもあります。心に止めるべきでないものを拭き取って、心を清潔にするのは、ブッダの時代以前からあり、宗教以外でもそのように教えています。それで何か仏教のオリジナルが残るかと、このような疑問が生じます。

 私たちの仏教はどのような本質意味があるかという疑念を払拭する項目を、私たちは最高に絶妙に考えて見なければなりません。仏教教団員は乱暴に他人の物を抉り取って自分の物にしないので、自分のものを正しく知るべきです。そして「これが仏教」と言うなら、十分に正しく述べるべきです。これは簡単に熟慮できます。「エータン ブッダーナサーサナン」:これはすべてのブッダの教えです。この場合の「ブッダ」とは、「智者」、つまり広く知る人です。特別に、あるいは語句の規定、あるいは仏教用語で「ブッダ」とは、ブッダである人物を意味します。

 このパーリの根拠は「ブッダ」は一般の智者を意味すると、あるいは特に人物であるブッダを意味するとはっきりと現れていません。だから自分の考えと、ブッダに名を連ねない他の智者たちも同じように、悪を捨て、悪を避け、善を行い、心を拭いて清潔にするよう、ブッダの時代以前からそのように教え、いろんな施設で暗唱し勉強していたと分かっているので、その智者はブッダ以前からいて、そして以前から「悪を行わないで徳を積み、心を拭き清めなさい」と教えられていても、ブッダも重ねて言われたのは、私たちの教祖はそれらの知識がある人物も同じブッダであると保証しているということです。

 仏教の教えではブッダを四つに分け、一般の智者をブッダと呼び、ブッダと同じように悟った弟子もブッダと呼び、自分だけで悟って他人に教える能力のないパッチェカブッダ(独覚ブッダ)もブッダと呼び、サンマーサンブッダ、つまり大悟して大衆に教える能力がある人もブッダと呼びます。だからこの四種類の智者が、「これがすべてのブッダの教えです」という教えの中の「ブッダ」です。

 だから私たちはこの部分で、仏教、つまりブッダの教えは非常に広く、知識のあるすべての人を含めるほど広く、ブッダの時代以前、ブッダ在世時、あるいはブッがダの時代以降でも、私たちが「これが仏教」と仮定する仏教でも、キリスト教やイスラム教など他の宗教でも、人に悪を捨て、善を行い、そして心を清浄に維持させるものなら、すべて仏教の教えと見なします。これを仏教という言葉の限界のない一般的な意味と言います。仏教はまだたくさんあり、もっと深い一つの理由にするには、これだけ「仏教は普遍なものである」と少なからず表明しています。これが一番です。

 二番目に、三項ある教えが普遍のものなら、私たちの教祖と宗教、つまり仏教は、すべての智者の宗教とどのような違いがあるのかを問題にしてみます。これは約二千年前に姓はゴータマ、名はシッタッタという名の教祖の仏教の教えはどのようか、私たちがハッキリと知っておかなければならない点です。

それは一般の智者の教えと一致しない必要があります。なぜなら特にこの教祖の教えは、以前からあったすべての智者の教えと何も違いがなければ、「私たちのブッダが世界の生じた」と言うべきではないからです。その言葉には何も意味はなく、私たち仏教教団員も空事、つまりすべての智者の教えの言葉が限界なく広く、簡単に遅れるように、限界なく広くなります。

 特に悪を行わず、善を行い、心を清潔にするというサンマーサンブッダの教えは、すべての智者と共通の教えである三つの原則があるのは事実でも、その三項にたくさんの相違点があります。つまり心を清潔にすると言う項目です。

 罪を作らないという初めの項目は簡単すぎて、多少知識のある人なら、ブッダにならなくても「善くない。捨てなければならない」と知ることができます。

 二項目の徳を行う、あるいは善を行うも同じで、普通の人、そして普通の感覚は理解でき、行動するためにみんなで規定することができます。

 しかし三項目になると、多くの問題、幾つもの説明があります。つまり心に生じるべきでないものを清浄に拭き清めなさいという項目は、心とは何で、どこにあるのかなど、初めから難しい問題です。

 現代のほとんどの人も、心とは何かをまだ知らず、心とは何かを多少知ることができても、今感じ、考えている自分の内面に現れている心は、それの自然の正常はどのようか、つまり正しい種類の心、あるいは非常に間違っている心、厚く塗っているものがある心、あるいは普通にいつでもすっきりしている心を知ることはできません。この心が何かを厚く塗りたくっている心かどうかを知るには、テキストを引用する必要はありません。

自分自身を思い出して、智慧があり、考え、感覚、良い意識がある時、その心は何か塗っているものがあるかどうか考えてみれば、時々は、炭や火になるほどの衝撃はない、あるいは目の前が真っ暗で上の空か、自分で感じることができます。私たちの心は時には覆う物があるので、目に蓋がある人や生まれつきの盲人が何かを真実のままに見るのが難しいように難しいです。

 だからすべての智者たちは、アヌッタラサンマーサンブッダになるまで更に智者になる努力をしました。つまりそれ以上の人がいない人を「アヌッタラサンマーサンボーディニャーナ」あるいは「アヌッタラサンマーサンブッダ」と言います。智者たちは更に知る努力をするので、振り向いて三項目の問題に関心を深くなります。しかし心は幾重にも厚く塗り重ねられているので、バナナの皮や万年青の皮を剥くより剥くのは大変です。たまたま智者の誰かが一枚剥いで非常に喜び、自分の教義を公開し、このようだと、このように純潔だと自分の宗教を公開し、一つの教義、一つの宗教を規定し、一段高い教祖になり、そしてそれを苦の終わり、あるいは涅槃と規定しました。

 このような理由で、教祖や教義の提唱者はたくさんいて、高いのから低いのまでレベルがあり、そしてこの世界にアヌッタラサンマーサンブッダであるブッダが生まれるのは極めて難しい、最後の段階です。だから「涅槃」という言葉は、この三項目の問題、心を曇らすものを拭き取ることに関心があることによって、一般の多くの教義にあります。

 三蔵長部のブラフマチャーラスッタ(梵網経)に、人は四禅だけで涅槃と規定したことがあり、そしてしばらく非常に熱中しました。なぜなら四禅の状況にある心は緻密で、純潔で、清潔で、緻密さは少なくなく、普通の人が「これはまだ終わりではない」と思う以上に緻密なので、議論して終わりということにしたと明らかにあります。しかし心を憂鬱にするものから純潔になったと規定するものが何もない純潔とすると、サンマーサンブッダ式に完璧に苦を捨てることにはまだ大きな隔たりがあるので、非常に間違いです。

 教義の主、あるいはブッダがこのように段階的であり、そして最後まで剥くまで、つまりバナナか万年青の皮を剥くように残りがなくなるまで本当に全部剥けば、純潔なものに出合い、そうすればサンマーサンブッダになります。

 だから私たちの教祖のサンマーサンブッダであることの要旨、あるいは意味は、特にこの点に、つまり心を曇らすものがない最高に純潔な心にあります。だからこれが私たちの仏教は、ここに神髄、あるいは重要点があると言いたいと思います。つまり第三項の問題。心を覆うべきでない物を拭き取って純潔にすることに関心を持ちます。

 罪や悪を行わず、善を行い、心を清潔に拭き清めさせるこのように広い教えは、誰の教えもすべて仏教の教えで、どの智者の教えも仏教で、特に今私たちが関心をもっている教祖の教えである必要はありません。しかしこのように最高に悟ったブッダは一人だけで、ここ二三千年間の教祖として尊敬する人は、(それ以外に)いません。教典でも「時代時代にたくさんいて、遠い未来にもまだ生れる」と述べています。

 特に教典でこのように主張し、そして普通の人の道理でも「このようにいるなら、今後もまだ生れる」と考えます。だからこれほどのブッダもまだ数を限定せずに生じ、最高に悟った阿羅漢サンマーサンブッダであり、至上人物である人が何劫、何百劫に何人いても、どのブッダもこのことについてはすべて同じで、心を覆っているものを拭き取り、最高に清潔にするよう教えます。

 本質での、本当の要旨での仏教は完璧に純潔で清潔な点にあります。一般的な仏教について最高に広く言えば、三つにすることができ、悪を行わず、善を行い、そして心を清潔に拭き清めます。しかし冒頭でブッダの時代以前からあると述べたように、普通の人の感覚であり、仏教以外の宗教にもあるので、私たちの仏教が「私たちのはこのようです」と公開し主張できる教えはここにあります。

 みなさんは、今の社会の人が「空の教えは仏教にしかない」というのは、特にこれを意味すると理解することができるということです。特に阿羅漢サンマーサンブッダの仏教だけが、すべてのものの無我、誰も信じる人がいたことがない無我を説明しています。そしてこれが、最後の心を包んでいる物を剥ぐことです。いろんな物を何枚も剥いで、最後は「自分という執着」を剥ぎます。つまり無我です。

 苦から脱すために自分を掴んで捨てる勇気のある人は誰もいないのは、それらの人は所有する物、手に入れる物を惜しむからで、結局彼らは苦から脱せません。いつでも彼らが「あるべき、得るべき」と考える物を惜しむからです。十分勇敢で、もう一枚剥げるだけ厳格なのは、阿羅漢サンマーサンブッダだけです。「自分」という執着を掴んで遠くへ投げ捨てて何も無くするので、心を最高に完璧な純潔清浄にする、それ以上剥げない完璧な苦からの脱出です。

 だから「仏教はどのように現代の私たちを幸福にする援けになるのか」と私が初めに提示した主題では、ほとんどこの完璧に純潔に心を拭き清める段階の仏教を狙っています。それはなぜでしょうか。それは、ただ悪を成さず、善を成し、心を曇らすものを清浄に拭き清めるだけなら、このようにするよう誘う必要ななく、更に世界中の人は当然できないからです。それは能力を越えています。だから完璧に純潔清潔なレベルまでできる人は涅槃へ行く人で、できない人は、今後も努力を続けます。

 世界中の人に罪を捨て、徳を積ませることは不可能であり、全世界の人に取を捨てさせ、煩悩を捨てさせるのは更に不可能なので、どこででも可能である仏教は、欲望・取・煩悩を完全に捨てる高度な部分の仏教ではなく、一般には、世界の庶民ができるだけするよう誘う、悪を成さず、善を成し、心を拭き清めると述べた広い部分です。

 心を完全に純潔にする深い部分の仏教は、みなさんが理解しているように、当然深いものである点で難しいのは事実ですが、仏教の深さは、知って本当に自分自身を援けたい人のように熟慮して見れば、誰もが三蔵を学ばなければならないほど深くも難しすぎもしないので、不可能と思えほど深い部分の仏教を、どうすれば深くなくできるか、もう少し解説したいと思います。

 仏教以外の一般の智者を見る必要はないので仏教の世界だけを見ると、仏教も宗派に分かれていますが、宗派に分かれたのは喧嘩別れでも団結が崩れたのでもなく、早く行くか、順々に進んで行くかで分かれました。

 早く行きたい人は、自分を早く行かせる道に関心があるので、心の話に関心がある人たちが生まれ、心の話だけを探求し、「ジャーナ」あるいはサンスクリット語で「dyana」ニカーヤとして現れ、その後中国に入ると「dyana」あるいは「ジャーナ」、あるいは中国語の音が生まれ、日本に入ると禅宗と発音します。この人たちは三蔵の中の言葉である教えに頓着せず、深い物を浅く、有益なものにすることを目指します。このような仏教の側の人たちは一つの側、あるいは一つの宗派です。

学生になって広く教書の理論に関心をもちたい人たち、パリヤッティの人たちも一つの部類です。徳を望み、極楽を望む庶民の要求に妥協して従いたい人たちは自分の仕事を営む、これも一つの部類です。しかし私たちはすべて自分を愛し、自立を望むので、自立でき、不可能でない深い仏教に関心をもつべきです。だから私たちはこの宗派に関心を寄せて見るべきではないでしょうか。この人たちは何を信じても、特に心の話に関心がある人たちで、心で考える努力をし、普通の基準で考える威力に依存して心の方面になり、教書に関わらず、彼らが心を覆う物と見なす教書を基礎として信じることに依存しません。

 例えば、私たちが快適に座って休息するには、どこが一番良いかという問題には、一般の方は、きっと涼しい木陰、そよ風が吹いている池の畔が最高に涼しいと答えるでしょう。しかし学生のような考えのある人は、反対にそこはまだ暑いと見ます。五欲の考えが心を妨害するからです。そのことに満足する感覚も心を妨害するので、自由ではありません。だから彼らは何も心を妨害するものがない状況、つまり禅定にいることなどを涼しいと規定しました。

 もっと簡単に理解させたい禅宗のような人たちが現れ、「溶鉱炉の真ん中が一番涼しい」と言い出し、前者の人たちは訳が分かりません。私でも、定でも非常に涼しいと、つまり池の畔、風が吹く木陰に座るより涼しいと思います。しかしそれでもまだ妨害する物、つまり自分への満足、あるいは自分が受け取っている涼しさの満足があり、満足を感じると消えてしまう不安があり、少なくともこのような憂慮があります。こういうのも涼しくなく、まだ暑いので、まだ努力を続けなければならないと見なします。

 禅、あるいは禅宗の人たちが溶鉱炉の真ん中が涼しいと言うのは、妨害するものが何もないからで、物質で言えば、溶鉱炉の真ん中は妨害する物がないので、その火は熱くなく、熱いものではありません。それは体の熱さの話です。貪り、怒り、迷いなどの煩悩の熱さと比べるとそれほど熱くはなく、あるいは自我に関わる、自分に関わる迷いの加虐に比べると、まだその方が熱いと見えます。だから最高に涼しい物は何も妨害する物がない物でなければなりません。

 溶鉱炉の真ん中は妨害する物が何もない、妨害する物がないので本当に涼しいと分かります。物質面で話すと道理で理解できますが、本当のタンマの意味の解釈で話すと、何も妨害する物がないから涼しいという意味になります。みなさんが池の縁に座って涼しい風が吹いていても、まだみなさんを妨害する物があり、少なくともみなさんの心が妨害します。あるいは妨害する人が現れるかもしれません。禅定の中にいても、禅定を惜しんで禅定の味に夢中になり、そして愛着が妨害します。

 だからみなさんは妨害のない場所にいなければなりません。だからこの人たちは溶鉱炉の真ん中のように涼しいと譬えます。つまり妨害する物がありません。この例を挙げるのは、仏教はどれほど深淵か、どのように私たちを本当に支援できるか、本当に支援できるのはどのようにあるかを説明するためです。

 ここで私たちの仏教を更に理解するために仏教のもう一つ特徴について述べます。つまり私たちの仏教は、目前の問題に突込む特徴があります。ここで言う「目前の問題」とは、私たちはどのように心から苦を出すことができるか、つまり心を覆っているものをどのように剥ぐことができるか。これを目前の問題と言います。私たちは何から生まれたか、誰が世界を作ったかなど、目前でない問題にしません。私たちの未来はどのようか、死んで何に生まれるかなど、こういうのはまだ本当の仏教の状態ではなく、そして仏教の目的ではありません。目前の問題を解決すれば、つまり心から苦を取り除けば、あるいは心を覆っている物を全部剥げば、残るのは純潔だけで、過去や未来の問題は終わり、必要がありません。

 だから私たちの仏教は「先のこと、後のことを憂慮しないで、今の心はどのようか、自分を覆っているものはあるかどうかという目前の問題に突進する」という不変の状態があります。一枚剥いでも満足せず、まだ覆っているものがあり、心を圧迫する重さがあり、まだ剥ぎ続けます。このような行動を「目前の問題解決」と言い、仏教はこれだけの教えしかないので「先生がいなければならない、アーチャンがいなければならない、そして非常に三蔵に依存しなければならない」とあれこれお心配しなければならないほど難しすぎるものではありません。これは深い部分の仏教と反対の状態です。特に私たちのブッダは、過去と未来の問題に関心がある人を非難されています。

 いずれにしても、仏教の教えはどのようかということについてたくさん話してきたので、多くの人が誤解している仏教のもう一部の教えについて述べさせていただきたいと思います。それはカンマの話で、いつも善をしてきた人が幸福を受け取らず、反対に悪をしている人が満足できる結果を受け取っている問題があります。こういうのはどうしようもないカンマの話と見なし、仏教が間違って言っている言葉ではありません。このことの解説は多くはなく、お願いするのは、仏教のカンマは行動の反応である結果も含んでいると、カンマの話を良く理解していただきたいだけです。

 例えばある人が他人の物を盗んで食べて消費しても心が咎める、こういうのも盗みと物を手に入れて消費することも含めてカンマと呼ばなければなりません。そして次の段階は、その行動から生じるカンマの結果です。例えばある泥棒が他人の物を盗んで捕まり罰を受けるようなのは、盗むことも捕まって罰を受けることもカンマに含めなければなりません。それからその後のカンマの結果を聞きます。それで終わります。

 みなさん、このように理解すれば仏教のカンマの話を誤解しません。ある猫が自分の家の魚を盗んで、すぐに捕まえわれなければ、後日捕まえて罰を与える希望があり、その時猫はまだカンマの結果を受け取ったとは言われません。しかしその後何日もその猫を捕らえることができず、その間に猫が善いこと、美しいこと、猫の義務をすべて実行し、主人に気に入られると、主人は心変わりして罰を与えないこともあります。

 だから善いことをして良い結果を得ることと同時に感化の結果を受け取ったと見なします。このようなカンマの結果を「物質面では正しくない。まだ正しくない」と見なすのは正しくなく、行動と反応を合わせてカンマとし、それから後でカンマの結果を聞くのを待たなければなりません。このようならカンマの話は普通の原則と矛盾せず、仏教は私たち仏教教団員の心の中でより堅固になります。

 この部分を、「一般の意味の仏教は悪を行わず、善を行い、心を清潔にして私たちを援ける」とまとめます。  二番目は私たちが自分自身を知らなければ、自分自身を援けることはできない、あるいは自分は今どのようかを知ることはできません。「自分」という言葉は、人は現在の状況を思い浮かべがちです。仏教はどのように現代の私たちを援けることができるかは、現代だけを思い浮かべがちですが、すると自分自身を正しく理解できなくなるので、私たちは「自分、あるいは私たちは誰なのか」と広く思わなければなりません。

 この意味では「私たちは考えることができるすべての生き物より高い心のある動物であり、目・耳・鼻・舌・体に触れるもの次第で、毎日教育のために使うことができる身体と心があると広く見なければなりません。一方私たちは今、あるいは現代は、覆われ、呑み込まれることが多くなり、自分が作ったものに呑み込まれています。例えばウィサーカブーチャーの日は、揃って宗教の儀式に参加するよりは、むしろ人は海水浴や踊りを踊ることを思い浮かべます。

 それはなぜでしょうか。それはそれらの波に呑まれるからです。つまり世界はみんなして煩悩と欲望の望みに一致する物を創ることが増えているからです。創れば創るほど創る人間を包みます。これを、宗教儀式に参加するためのウィサーカブーチャーも、踊りに行きたい、魚釣りや鳥を撃ちに行きたい人の方が多いほど呑み込まれていると言います。これを、私たちは呑み込まれていると言います。

 大混乱にする呑み込まれた結果は、今世界を覆っている大きな苦です。現代、自然が与えるのは、あまり誘惑しません。みなさん自然のものを熟慮してみてください。例えば動物の生殖などの要求は、自然では切りもなく加工することを知っている動物のように多くありません。だからそれらの動物は切りもなく考えることを知る知恵や考えのある生き物ほど呑み込まれません。

 煩悩欲望と一致する誘惑を、全部まとめて五欲と呼び、愛欲の財産、あるいは、願望の願望があるものの財産という意味です。この五欲は世界のどこでも困難、困窮困苦、原因になります。戦後、人間は同じになり、他人の物を掻き寄せて自分の物にする機会があると、すぐに機に乗じ、人間が呑み込まれたので宗教が消えたからです。

 通常人間の要求は、このような困難を生じさせるほど多くありません。私たちが自然が与えるだけ望んでいれば、今日のような困難はなく、儲ける人たちもいません。このように言うのをお許しください。儲ける人たちも普通以上の欲があって欲を減らそうとしないので、欠乏時は反対に欲が増え、機会を伺うので機会を得ます。商人でも、あるいは政治家、あるいは口利きでも何でも、要求を拡大できる機会があれば何でも望みどおりにするので、話は複雑になります。ある権力のある集団の五欲の面の要求が多く、五欲を欲しがれば、国中が分裂します。つまりたった九人か十人の人の何としても手に入れたい五欲の面の望みが、国中の人、そして多くの国の人を困窮させることもあります。

 だからこのように呑まれている私たちは今のような状態にあり、他になり様がありません。それで誰を責められますか。神様を責め、あるいは誰を責めても、最後は私たちが深く呑み込まれているからこのようであり、別のようにしてもらうことはできません。危機を脱す道は、急いで自分を知り、そして解決して反対に変えなければなりません。

 禅宗の長老は、自分の教団の弟子をたしなめる時、「あなたは菩提の門まで歩いて来て久しいが、あなたはその門に踏み込めない。涅槃の探求、あるいはあなた式の滅苦はあり得ません」と言いました。これも同じで、みなさんは何代も前の先祖の時代から仏教教団員であり、苦労して知識の門の前まで来て、学ぶことも学び、宗教儀式をして徳を積み、布施をし、戒を順守し、宗教儀式は何でもしても、結局悟りの知識の門の前にいるだけで、門を入ることができません。それは、今自分はどのような状況にあるか、自分を知らないことが原因です。だから現代の私たちは、どれくらい呑み込まれているか、そして普段どのように苦に沈んでいるか知る必要があります。

 これを簡単に理解するために、一つの話をしたいと思います。時々話している昔話で、何も奇妙ではありませんが、みなさんの考えを掘り起こしたいと思います。

 話は、世界を創る義務のある物の威力で世界が現れると、科学で言えば何かの威力が燃え上がる霧を固めて世界にし、あるいは宗教教義で「神様が創った」と言ってもいいです。神様はこのように何もない世界は良くない、利益がないと考え、世界の住人である人間あるいは動物がいるべきだと考え、その種の動物を創りました。創られたばかりの動物は、長い時間目隠しをされた後、仰向けにされて目隠しを外されて陽射しを見た人のように訳が分からず、何ひとつ知るものはなく、そして自分の体を見ても、自分が何かも知りませんでした。

 神様が仮に「人間」と呼ぶと教え、何をする義務があるのか質問すると、この世界に楽しさがあるようにするためにこの世界の住人になるためと答えました。どれくらい長くいさせるのかと質問すると、三十年と答えました。幸福で愉快で楽しければ三十年はあっという間なので、その人間は非常に残念がりましたが、どうするべきか分からないので黙っていました。

 その後人間がいるのを見た神様は、人間に仕事をさせる道具があるべき、人間の道具になる動物を創るべきだと見て、最後に牛の種類の動物を創ると、牛も人間と同じで、自分が何か知りませんでした。神様は牛に「三十年いさせ、人間に仕える義務がある」と教えました。牛は、人間に仕える三十年は長すぎると苦を訴え、楽しさのために生まれたのでないので不公平と捉えると、神様は二十年減らしてやると言いました。すると人は急いで恐る恐る、その二十年を人に足してくださいとお願いしました。神様はその二十年の意味が何かをよく知っているので、与えました。

 その後神様は「人の仕事を援ける動物はいるので、人が集めた財産を維持する動物を創るべきだ」と見て、犬の部類の動物を創ると、犬も同様でした。神様は、犬は家の番をして荷物を守る義務があり、三十年いさせると言いました。犬が、他人に仕える三十年は長すぎ、不公平だと訴えると、神様は同じように二十年減らしてやりました。人間はそれを見ると、気を奮い起こして急いでもう一度神様を訪ね、その二十年を人間に足してくださいとお願いしました。神様は非常に嫌らしく感じましたが、どうするのがそうするより良いか分からないので与えました。合わせて二回二十年ずつ増えた、人間の寿命は七十年になりました。

 その後神様は、人間にまだない感情面の賑やかさを生じさせる物があるべきだと見て、その種の動物、例えば猿などの動物を創り、人間を楽しくする、あるいは感情的に賑やかにする義務を与えました。しかし三十年の寿命を与えると言うと、猿は同じように長すぎると訴え、神様は二十年減らしてやりました。人間は三度目も気を奮い起こして神様を訪ねて、その二十年を人間に足してくださいとお願いすると、神様はすべての物を規律どおりにしました。

 このような理由で、私たちは一歳から三十歳までは自分自身が非常に多く、例えば青年になるまで子供らしい明るさがありますが、その後牛からもらった二十年、重荷を背負わなければならない時期になるとどのようか、つまり三十歳からの二十年は、仕事のことでどんなに心が重いか、思い浮かべてみてください。その時代をすぎて二番目の二十年は、犬のように夜も眠れないのはどのようか、つまり憂慮が多くて眠れないので、家の番をする人のように眠れません。その後の二十年になると、体の異常は子供たちに笑われ者、諧謔の的で、年寄りの耄碌は自分自身を苦しめ、他人に笑われる人であり、棺に入るまでそのような賑やかさがあります。

 この話は人間を貶す話だと誰でも見ることができます。しかし私は、ここでみなさんを貶すつもりはなく、正常な状態、あるいは人間全般はこのようだと説明したいだけです。現代、特に現在は呑み込まれることが多くなりましたが、人間であること、あるいは牛であること、あるいは犬であること、あるいは猿であることは更に増えました。これが現代の私たちの状況です。

 仏教は現代の状況下の私たちをどのように援けることができるでしょうか。これから「自分」という部分を熟慮して見なければなりません。少なくとも自分自身を見ている人が「自然ではそのようだ」と分かるように、つまり初めに人間であり、それから牛人間、犬人間、猿人間、過去から現代から未来まで、自然ではそのような基礎になっています。そして新しい時代になり、新しい時代の人間は呑まれ、あるいは人間が自分で作った惑溺から生じるものに覆われます。

 現代の人間は、昔の人間より賢いと信じますが、昔の人間は揃って賢い時代より呑まれる人が少ないのは、その賢さが自分自身を窮屈に感じさせるからです。つまりその賢さは考える代わりに、人間の静かさや昔の人間らしい幸福を受け取らせたという意味で、正反対です。つまり人間は、人間が創った物の更に深い満足に陥り「自分の井戸に落ちる」あるいは「自分を操る糸を引く」と言います。自分の井戸に落ちた昔の人は、現代人がたくさん自分の井戸に落ち、そしてどんどん増えているより少ないです。

 この井戸に落ちるのは、一気に深くに落ちて消えるのではなく、人間が五欲と呼ぶものをどんどん精密に、良く創ることを知る度に少しずつ落ちます。その五欲は目・耳・鼻・舌・体の面のものがあり、感情面つまり特に心の面のもあります。人間はこれらの五欲と欲情の物を作ることを知り、発明する賢さがあると言います。深くできれば、それだけ自分を縛り付ける、あるいは井戸を深く掘って自分を埋めるだけで、牛、あるいは犬でなければならないことの混乱が倍増します。

 人間が次第に自分の井戸に落ちるので、なぜ人間は考えることを知らないのかという問題が生じます。それは心が厚く塗られ、厚くなる度に暗くなるからです。自分を騙す人間が増える分だけ、低い側の身勝手、あるいは堕落に陥っている低い自然は、どんどん言い訳が増えます。だからどんどん深い沼に落ち、あるいは自分を縛る糸がどんどん太くなり、蚕を閉じ込める蚕の糸より強くなります。五欲の面の人間の発展は、自己欺瞞を発展させるからです。

 人間の心の話を、サンマーサンブッダはよくご存じなので、弟子たちに「自分を埋める穴をほらないように注意しなさい」あるいは「あまり自分の井戸に落ちないように」と時々言われていました。悪の側、あるいはアタンマの側は当然言い訳が多く、そして鬱でもそれで終わらせてしまうだけ十分あります。賢い反論者は何かの事実を裏返してしまえるように、人間の煩悩も、いつでも言い訳する能力があります。だからブッダはどのように話されたかについて話したいと思います。

 この話についてブッダは、タンマとアタンマ、高い側の自然と低い側の自然がどのように反駁し合うか、昔話のように話されました。内容は、

 アタンマには羽があり尾があり、世界の中を群れ飛んですべての動物の心を訪れて心に現れ、五欲の面の自分の心に従う考えを生じさせ、思うままにできなければ生き物を殺し財産を奪い、何も考えずに邪淫を行います。すべての生き物の心に現れる感覚は、黒い体があり、黒い車に乗って世界を左回りに回転して、黒だけの兵力があるアタンマです。

 しかし時々の人間の心の中に高い側の自然が現れ、反対の考えが生まれて「そうしてはいけない」と反論します。つまり時々ある私たちの高い側である心の制止です。白い天人が白い車に乗って世界を右回りして、布施をし、戒を守り、慈悲の心を広げるよう誘って話したと、ブッダが話されたブッガラディターナ(擬人話法)があります。

 ある時低い自然と高い自然が出合うと、商人でも政治家でも記者などでも、誰が儲けが多いかと考えるような、一方は良く、もう一方は良くないという感覚で、一方は良くもう一方は良くないと反論し、このような状況で、どちらが心から出て行くべきか、つまり心から去ってしまうか、どちらが道を譲るべきかという問題が生じました。聞いたことがあり、崇拝したことがあり、したことがある道徳、高い側の自然は高い側の道理で忠告し、低い側も低い側の道理で反論し、高い側の自然がその人に「考えて見なさい。高い社会に参加していると理解しているのは、タンマの側、高い側が徳の側である善や美を行っているからだよ。このように名誉がある人でいられるのはタンマのお陰だよ」と言いました。

 「サマナバラモン、つまり善い行い、正しい行いの人は私のこの側だけに注目し、この側だけに布施をするよう教えた」。

 「人間のことだけを言ってはいけない。天人もあなたの中にある徳を拝む。これがタンマで、あなたは自分自身の心で熟考し道を譲った方が良い。アタンマよ、私はタンマだ! 私はタンマだ。あなたは道を譲って、心から出て行かれるが良い」。

 教祖はアタンマの反論である二番目の詩を述べて比丘たちに聞かせました。要旨は、 「お前は恐れなくて良い。私たちにも力があり、丈夫な道具があり、私が望めば強い道具もある」。

 「私の神経は怯懦に震えず、力がある私の神経の焦燥は生じない」。

 「私は避けない。だから私は避けない。私はこうすれば居続けられると確信している」。

 これが低い側の自然を意味し、時には言い訳があります。高い側の自然も言い返す努力をし、「良く考えて見なさい。あなたが子供の時は子供なりの純粋さがあった。他にもこの世界が生じた時まだ悪はなく、善だけだった。黒くて闇である悪、つまりアタンマは後で増えた。だからタンマは兄、あるいはより素晴らしい、あるいは長老(優れた人)側と見なす。あなたは弟なので、譲った方が良い」。

 これを、道理の主張と言います。時には悪のカンマをするために自分自身を非常に励ます努力をしますが、いつものようにアタンマの側の理由があるので、教祖は低い側へ言い返す言葉である詩を詠んで聞かせました。内容は

 「あなたがこのように懇願しても、あれこれふさわしくないと言っても、私は卑怯な状態があるあなたに道を与えるべきではないと、そして自分の強さと、目前に見えている自分の心に従う方が良いと考えます。そうでなければ戦ってみます」。

 それで二人は、どちらが勝って台、つまり座を手に入れるか戦ってみました。高い感覚であるタンマ側はその後も熟慮してチャンスを窺ったので、教祖は次の内容の詩を詠みました。

 「一般的に言えば、世界中どこでも、人は高い側が好きで、私たちは力が備わっている」。

 「名誉について言えば、善、真実、公正は力があり、計ることができる重さについて言えばタンマ、あるいは善は非常に重みがあり、アタンマは綿のように軽く、ほとんど重さがない」。

 「タンマと名がつけばあらゆる美徳が備わっている」

 「世界中がこのようにタンマの側を見ていれば、世界のほとんどの天人、人間は私の側にいるので、私とあなたの戦いはどのように勝てるか考えてごらんなさい」。

 まだ降参しないアタンマ、あるいは低い側の自然は理屈があり、何時間でも文句を言えるので、教祖は次の要旨の詩を詠みました。

 「金を打つ時、鉄で金を打って美しくし、金で鉄を打つ人は誰もいない。アタンマ、あるいは低い自然が勝つというのも同じだと、それ以上にこの鉄を金と同じ美しい物にする以上だと考えてみなさい」。

 低い側の性状である無理無体を言い始めたと見えました。いずれにしても低い側は、儲けに行くか、あるいは何としても何か自分の出口を探さなければならないという意味で、教祖はタンマの側の主張である最後の詩を詠まれました。内容は、

 「何を言っても、あなたはタンマの声を聞かず、未来を見せてやる、あるいは戦う、そして戦って見せるの一本槍。そしてもう一つあなたには年寄り、老人、先生はいない。つまりあなたがこのようにいきり立った時、年寄りや老人が止めても、あなたは言うことを聞かず、かつては尊敬していた先生たち、導師、アーチャンの声を聞かない。あなたは、このように先生がいない、年寄りがいない、老人がいないレベルにまでなった。だから誰が正しい、間違いと見ても構わない。私は、あなたが正しい側と認めよう。それ以上に、あなたに何かを教えたことを詫びなければならない」。

 結局タンマはタンマのようになり、アタンマはアタンマのようになりました。続いて「大地があり続けることはできない。黒い物たち、つまりアタンマは地下に引き込まれて阿鼻地獄へ行く」と感嘆されました。

 これは、大昔の、高い自然と低い自然の闘いである感覚は普通であったこと、そして低い側は当然このように次々と言い訳があるのが普通であることを説明した話です。

 世界の、あるいは普遍的な人間は自分を埋める井戸を掘り、蜘蛛の巣を張って自分を覆います。つまり自分が今見えるくらい深く呑まれ、ほとんどは信仰している宗教があり、思い通りの形・声・味・臭いを手に入れて、感情面の身体に与える教義があります。ここまで呑まれると、現代の病人である私たちは、このように呑まれていなかった昔の、あるいは大昔の病人と比較にならないという意味です。

 述べたように、苦を見ることで「自分を抜き出すため」の実践法を公開すれば、苦からの脱出に出合います。あるいは光が生じることで闇が消えます。私たち全員が「初めはこのようではない、古い人はこのようでないと、あるいはもっと狭めてはっきりと、元々の心はこのようではない」と詳細に熟慮して見ることができます。このように正反対の違いが生じると、どちらが私たちか、どちらが私たちの「自分」か、考えて見なければなりません。

 私たち自身に出合えば、苦からの脱出に出合うことができます。だから仏教に助けてもらうにはほんの少しだけで、自分自身を知らなければなりません。だから自分を知るために十分使えるだけ長く自分について述べます。いつでも自分を見る努力をしていれば、苦からの脱出に出合い、そしてブッダもそのように教えています。

 これが自分あるいは自分たちを十分に見るよう指摘して述べる二番目で、私たちは元々自然に経過し、自然に生まれて老いて病んで死ぬ、人間のような、牛のような、犬のような、猿のような状態があるのは自然の成り行きですが、現代は反対に泥で厚くなっています。

 三番目あるいは最後は、仏教はどのように援けられるか、仏教はどのように私たちを援けられるかという問題です。

 率直に述べれば、つまり正しく言えば援けられません。仏教は助けられないに違いなく、私たちは自分で自分を援けなければなりません。これは教典で言われているように、仏教教団員に「すべての如行は道を指す人で、旅はあなた自身であるかなければならない」とブッダバーシタで、そして道理で述べたということです。

 仮にブッダを信じなければ、「自分が自分を援ける以外には、仏教は援けられない」と簡単に熟慮して見ることができます。悪あるいは煩悩の深い泥沼に落ちるのは、私たちが自分で作って、掻き寄せて自分を入れるからです。だから自分を知る努力をしなければなりません。自分自身の状況を非常に見れば、衝撃を受け、倦怠し、憐れみ、倦怠と憐れみが生じれば確実に自分を援けたい気持ちが生じる機会があります。

 世尊は最も多く話された説法、つまり「アヌプッピカター」と呼ぶプラタム、つまり順に説かれた話を話されました。初めに福祉を広げる話、つまり自分を社会の利益になるようにします。二番目に戒の話をされ、身体と言葉のきちんとして害のない行儀作法のある人にします。三番目は極楽、つまり普通の凡人である人間の期待通りの結果の話をされました。極楽と言うのは五欲のことです。四番目にカーマーディーナバ、愛欲の害、あるいは極楽の凶悪な毒という意味ですが、その話をされ、そして五番目にネーカンマニサンサカター、つまりそれらの愛欲から出る善い結果の話、それらの極楽から出る話をされました。

 短くまとめると、布施の話、戒を維持する話、極楽の話、極楽の毒の話、そして極楽から出てしまうことができる善の話です。純潔な状態の物から生じた極楽、つまり布施と戒から生じても、すべては無意味なもので、反対に毒があり害がある物と否定なさっています。商売や汚職で自分が作った極楽と比較すると、どんな形の極楽でも、更に何倍も否定されている極楽なので、自分を知るまで熟慮熟考して、見え、そして浅はかな行動に対して倦怠し、十分倦怠してからなら、自分自身を援けられるということです。私たちは、仏教にその泥沼から抱き上げてもらうことはできないので、自分自身で出て行く知識と賢さが生じるまで自分を正しく知らなければなりません。

 まとめると、国を作る、あるいは世界の人間を幸福で発展させるには、心を創らなければならず、述べたような心の問題を片付けなければなりません。すべての人をそのようにできなくても、少なくとも自分自身だけはそうする方法があります。そして一度に何人もできることも、猫の首に鈴をつけるような智慧に窮した話ではありません。一部の人は加害するのが好きで、得することが好きで、あるいは身勝手でもその人の勝手で、私たちは出て行く希望があり、その人たちが協力してもしなくても、その人たちが反対しても賛成しても、私たちには希望があり、その成り行きになります。それはすべて心の話だからです。

 いずれにしても、みなさんの心に、世界に対しての善意を生じさせるために、ここでハッキリ理解したいと思います。つまりある人たち、たとえ一人でも善を行う努力をする人がいれば、悪の方へ回転している世界を非常に遅らせる重さがあり、もしこの世界に一人も善人がいなければ、この世界は今よりずっと早く破滅して沈みます。ブッダ一人だけしかいなくても、そして阿羅漢の数が世界中の人の零点何パーセントでも、世界を涼しくすることができます。その善や正しさには、たくさんの悪よりも重みがあるからです。

 これは重要なことで、みなさんが悪い考えをすれば、波に抵抗する気力がなくなります。私たちの世界が沈まないで、あるいは燃え上がらないで来たのは、この世界にタンマがあったからと考えて見えなければなりません。つまりタンマがある人の心の中にあるタンマです。身勝手な側が多く、九九パーセントでも、これらはいても、タンマはまだ世界にあるので、まだ世界に失望しないでくださいだから一人が脱出するよう自分を援けることは、述べたように極めて重さがあるので所属社会を援けることです。私が人物について熟慮するのは、このように地域社会の実践であり、これも世界のパートナーとしてタンマがあるためだけです。

 私たちは初めの勇気を生じさせるために新たに心を作らなければなりません。つまり「いずれにしてもタンマは常に勝者の側でなければならない」と述べたように考えます。そのタンマは世界の初めであり、そして世界そのものだからです。この世界が純潔でタンマだけが残れば、疑念はなくなります。

 しかし世界はまだ純潔でなく、今見えるように異常な姿をしているのは、何かが世界を呑み込んで覆っているので、その威力を取ってしまえば元の土台を見つけ、新しく作って、元々の心を呼び戻すと言います。だから自分を援ける、あるいは世界を援けるのは同じことで、自分の心を新たなものに取り換える以上のものはありません。あなたが心は消えかかった小さな玉と信じていても、あるいは心は世界より大きいと理解していても、心を新しく作り替えなければなりません。誰がどれだけ心を知っていても、元々の心を取り戻すまで創らなければなりません。

 仏教は私たちを援けることはできないので、自分で自分を援けなければならなくても、私たちは仏教に頼ることを望まなければなりません。つまり仏教の教えで自分を援けなければなりません。元々の心を取り戻す方法は、仏教の教えです。しかしこの形で述べれば、先々憂慮する問題である、長い問題を生じさせます。だからブッダは、ブッダの教えの言葉の規則を作って公開し、四聖諦の形に、つまり苦、苦が生じる原因、苦の完全な消滅、そして苦の消滅に至る道になりました。

 苦とは、失敗、あるいは低い側の自然、あるいは煩悩欲望の威力になる世界です。苦が生じる原因は、低い自然とそれらの悪です。苦がすっかりなくなった状況は、煩悩がないこと、悪や苦がないことです。そして一人一人の心を苦がないスッキリした状態にする方法は、自分の心で実践し、つまり自分の心を新しくし、自分を知る努力をします。つまり心を自分と見なすなら自分を知る努力をし、あるいは自分は全部と見なすならすべてを知る努力をし、つまり世界を知る努力をし、自然の法則、あるいは自分あるいはその心に関わる真実で正しく実践すれば、その時苦がすっかり消滅した状況に至ります。

 これは最高に当たり前の話で、哲学者だけのものではありません。目前の問題に傾注する仏教にふさわしく、誰でも現代を標準にして熟慮判断できるからです。

 ある人の心に困苦があって苦になるのは、必ず原因として何らかの欲望があります。つまり一番に何らかの五欲を欲しがることで、二番目は好みであれになりたがり、これになりたがり、三番目は嫌いなものを無くしたい、居なくさせたいと望みます。

 この三つの欲望は、初めに苦を生じさせ、その欲望で行動を始めると、次第に困窮させます。欲の威力の結果は五欲に焦燥することです。五欲を味わう人が五欲味わっている時、私たちは涼しいと感じます。これもここで説明しなくても想像できるものです。これは、「その苦と焦燥は欲に、五欲、所有欲、生存欲、職位の欲、あるいは人が賞賛する状況の欲に由来し、すべての善と美を投資して気まぐれでへつらう人になり、最後にはタンマは溶けてなくなる」と、ブッダがどれだけ正しく話されているか指摘して見せるだけです。

 この熱さはお湯のようですが、愚かさになる熱さで、手に入れる前から熱く、手に入れている時、そして手に入れた後もみんな同じで、欲望と同じで、その欲は非常に広い意味があり、職位あるいは何らかの状況を失いたくない、地獄の生き物になりたくない、望まない動物になりたくないなど、このような苦闘を意味します。欲と名がつけば何でも、どんな欲望でも、すべて熱くします。

 ブッダはこのように言われ、第一に、苦あるいは熱さは欲望から生じると言われました。欲望と熱さがない時の元々の心は、欲しくなく、そしてこのように熱くはありませんでした。だからこのように確実に知れば二番目の実践、つまり熱さを消す、あるいは欲望を滅す実践を簡単に知ります。そして熱を消す方法とは、自分を心の規則で正しくし、「放っておけば大変なことになる」と心について知るので、放置せず、このように努力します。

 仏教で体や言葉や心などと分類するのは、初歩の学習のためで、道徳の部分は智慧が少ない人のためですが、智慧がある人には心の話と正しい見解を持つための智慧の話しかしません。道は八つもあると理解している人がいますが、本当はその道、戒・サマーディ・智慧に分類される正道智と呼ぶ真実と一致する正しい知識です。しかし私たちが欲しいのは正しい知識、すべての物を真実のままに知ることなので、能力の限り早く八正道を実践できる方法があります。ある人はその時に聖向聖果に到達し、ある人はその後で、またある人は今もまだできません。それは速成法に関わりがあります。

 常にこのような速成法を探求する人がいるので、方法次第でいろんな宗派が生じます。しかしいずれにしてもこれらはすべての人のためにあると安心できる方法があります。非常に賢い人も少し賢い人も、あるいは賢くない人も、すべて達成させる方法があります。賢い人は野望が少なく、愛着させるものが少なく、問題が少なく、賢くない人も少なくなり、賢くない人も必要な物だけになります。だからある教義の教えには、自分の心だけを監視しなさいと教えます。私は、これは非常に、述べたようにすべての人にとって利益になる正しい教えと認めます。

 今私たちは心を作り直す、あるいは世界を取り換えることを目指し、自分の心を見守って真実のままに明らかに知る努力をします。禅宗のように心の話についてだけ関心をもって教え、教典には関心を持たず、智慧知識の話に直行することを目指す努力をする人たちの宗派について話して来たら、この宗派の教訓を取り上げたいと思います。つまり一般の人がどのように深遠なブッダダンマに到達できるか、あるいは心がすべての苦から脱すことができるかという話について述べます。そのようにできれば満足できるからです。

 私たち仏教の、特に心だけに関心がある禅宗の六代目の大師である僧は、後世の人の利益になる最高に良い手本と見なされているので、その人について少し話したいと思います。その人は薪売りで文字が読めませんが、少なくとも自分の心の中を見る性分があり、ある日薪を届けに行くと、道端で男が、執着しない心について述べている経を唱えているのを聞いて心が明るくなったので、どこで勉強したのか質問しました。

 その結果お寺があることを知ってそこへ訪ねて行きました。寺の第五代宗祖はその人をまだ知らないので、あるいはその人が優れていると理解できないので普通の人と見ました。「大使様は、南部から来た人は野蛮人だ、山猿だと、そのように仰るべきではありません。北部の人、南部の人の区別はありますが、北と南には人の元々の心を別々に変化させる威力はありません。

 苦からの完璧な脱出の話の真実を知ることができる人間の自然は、南北が、北の人はこう、南の人はこうと変えることはできません。だから私は文字が読めない薪売りですが、大師である方と何もちがいはありません」と言うその人の言葉を聞いた時、大師はその人の洞察力と智慧が見えました。しかし文字が読めない薪売りの男を取り立てれば施設の騒ぎになるので気づかぬ振りをして、その後もその人を観察する機会を探しました。

 しかし誰がどれくらい知っているか、この人とすべての弟子を試験するために、大師は「二日以内に詩を書いて提出しなさい。誰でも書かなければならず、熟慮する時間は与えません。真実が見える人はすぐに答えられ、すぐに書けるので、この話について話す人がいれば、即座に答えられなければならず、直接答えられなければならないからです。

 その知識あるいは真実が心に染みていれば、その明らかさは、常に心にあるからです。その人が世界のこと、仕事や商売など世俗のことに紛れている時だけでなく、戦場で刀を以て斬り合って血で汚れ、痛みを手でさすって戦場で倒れて死んでも、その明らかさは木陰や池の畔に静かに座っている時と同じように明らかなので、熟慮する時間は与えません。知っている人はすぐにそれを書かなければなりません」と命じました。

 弟子たちは茫然として、書くことができませんでしたが、内弟子の筆頭弟子は「私は筆頭弟子と持ち上げられているので、その立場上、何としても書かねばならない」と考え、書いて提出するために奮闘努力しました。しかし直接提出できないで、菩薩堂の塀に書いておきました。内容は「この身体は菩提樹、心は澄み切った鏡、鏡に誇りが付かないように、一時間ごとに鏡を磨く」。

 このように書くと、教書や教典に夢中になっている人たちは「最高に正しい」と一同に認めました。この身体は菩提樹のよう。大悟した菩提樹を意味すると理解しないでください。桑科、あるいは菩提樹や榕樹のような Ficus 科、あるいはいろんな桑科の木という意味だけです。それらには芯がなく、肉は全部柔らかく、もろく、身体は心がない菩提樹のようで、心は清潔な鏡のようで、身体に執着しないで、一時間ごとに拭いている鏡のように、真実を写す澄み切った鏡のように、ブッダの言葉である教え、あるいは道理に反すと反論する人がいないように、心に注意する方が良い。

 この詩を書くと、いつ大師が見るかと隠れて見守っていました。大師がその詩を見ると、線香と蝋燭を持って来て拝ませ、そして弟子たちに、自分の利益のために暗唱するように言いました。つまり体に実体がなければ心は清潔で、そしてみんなで汚れや曇りがないようにするという要旨があります。

 その後文字を知らない薪売りの男が、塀に書かれている詩を聞いて、つまり大師が暗唱するように言った詩を諳んじている人の声を聞いて、その詩が書かれている場所へ行って人に読んでもらうと、「それは間違っています」と言い、新たに詩を書く気持ちがありました。

 居合わせてそれを聞いた人は怪訝に思い、そして内心で「薪売りの文盲の男、寺では米搗きと水汲みだけを仕事にする男に、このような詩が書けるはずがない」と嗤うと、彼は「そのように見下すのは善でなく、罪です。真実が一瞬で現れ、現れるとすべてを知ったので、反対しないで私のために詩を書いてください」と言いました。人々は書いてやることを受け入れ、その詩を消して新しく書きました。「菩提樹はなく、鏡もない。すべてが空なら、つまり菩提樹も鏡もないのに、何を夢中になって拭くのか」。

 私たちは、どのように近道か見ることができます。ある人たちはいろいろあって、いろんなものに関心を持たなければならない時、もう一方の人たちは、全部払い捨ててしまいます。あるのは物質である自然の状況だけなので、身体はなく、心もなく、あるのは自分ではない心のダートゥである自然の状況だけです。この身体も心も全部放り出し、つききりで拭き清めることもなく、体の実践、心の実践の代わりに荷台も体も心も注いで捨てれば、それは却って最高に近道である実践になります。

 ブッダが「すべてのものは自分ではない」と言われている時、それはこれを意味します。つまり菩提樹もなく、鏡もありません。つまり身体もなく、心もなく、そして何を夢中になって拭くのでしょうか。これも「すべての物は自分ではない、自分のものではない」と結論できる理由です。

 次の問題はどのように苦から脱せるか、仏教は現代の私たちの苦をどのように解決できるかという問題です。次のように順に熟慮できます。身体と心、つまり世界と心が自分でなければ、欲も願望もありません。欲も願望もなければ、不正をすることもなく、殺生も、窃盗も、邪淫も、これらのものはなく、そしてああなりたい、こうなりたい、あれが惜しい、これが惜しい、あれが懐かしい、これが懐かしいというのもなく、四聖諦の第二項、苦の根源である苦集は生じられません。欲しがる自分がないので、すべての苦の消滅、ニローダ(滅)は簡単に生じられます。

 何らかのカンマを作る人は世界の人間にとって危険なのは、自分のものである自分があるというような誤解があるからです。このように自分の物と感じると、いつでも自分の物にしたくなるので、探求する努力をし、自然に熱くなります。正当に得られないと不正な方法で探求し自然に生じる熱さが増えます。世界が熱くなり苦があるのは、この理由ということです。つまり自分を知らないからです。

 だからみなさん、世界の火を消す努力をしてください。つまり自分自身だけを完璧に良く知る努力をしなければなりません。この行動は当然他のすべての行動より良い行動で、自分を消滅させるようにするだけで、宗教を広めることになります。宗教を広めるには自分でできなければならない点が重要だからです。他人に教える人ばかりで実践する人がなければ、結果は誰も実践する人がいなくなり、居るのは教える人だけです。反対に自分を信じて自分で行動する人だけなら、世界に実践者が溢れ、教える人は必要ありません。

 だから自分が善行をすることは仏教を広めることです。そして一度に二つの結果を得ます。自分は結果に到達し、世界の人間も結果に到達します。深い部分の宗教は口で教えることはできず、文字で教えても理解させることはできませんが、自分ですることで、自分の心が今どのように迷っているか見守ることで、簡単に教えられます。見守って剥ぎ、見守って一枚ずつ迷いを剥ぎ取ります。一枚剥いで十分なら、二枚目は疑うまでもありません。

 心の中の苦はまだあるので、もう一枚あると確信しますが、微妙で緻密になるので、どんどん剥いで行きます。剥く努力をすれば他の人も幸福になります。そしてその人もつられて剥き始めます。これがブッダの宗教の布教です。ブッダが比丘たちに「みなさん、天人と人間の、すべての生き物の幸福のため、利益のために行きなさい」と言われたのは、剥ぎ取って見せなさいという意味で、剥ぎ取って見せるだけでも、世界はこのように利益を受け取ります。

 だから私たちは、仏教が不思議なものであることを誇らしく思うべきで、あなたが自分ですれば、それが宗教を広めることになります。口で教えることは、外部の、ほんの一部の助けになり、労力で支援することは外部の支援です。ほとんどは、自分で自分を援けることが宗教を援けることで、一人一人が自分の心を清潔に拭き清めること、つまり覆っている物を剥ぐことから手を付けなければなりません。

 心の面を充実させる方法については、非常にたくさん書かれていて、そしていろんな所で講義したことがあり、今残っているのはいつ剥ぎ始めるかだけです。述べたことはすべて、ほとんどはまだ始めていない、まだ差支えがある方の説明です。つまり確信あるいは勇気だけです。

 自分を縛る巣を張ること、穴を掘って自分を埋めることを破壊し、引き返して心を覆っているものを剥いでください。どうぞ引き返して、宗教の特別な祭日であるウィサーカの日は、鳥を撃って魚を釣る、あるいは踊りを踊る代わりに、最低でも宗教儀式に加わるべきです。最高なら自分の心を観察して、憂鬱が無くなって行き、ブッダの心と同じ清潔清浄な心を知ります。私たちに元々あった心も同じです。違いは、今私たちは幾重にも覆われていて、ブッダの心は覆う物が何もないだけなので、私たちが自分の物を全部剥げば、清潔清浄で明るく、そして同じように静かです。

 これが仏教です。特にこの話だけを教える目的があり、そして仏教のauthorityである教義の引用でなく、「悪を避け、善を行う」と教える人は全部仏教と、広く述べるのでもない、本当に私たちの仏教です。他の宗教を全部仏教とするのは恥ずかしいです。私たち仏教教団員は、本当の要旨である仏教、すなわち述べたように心を拭いて清潔にすることを知り、自分を覆うのを止め、穴を掘って自分を埋めず、そして覆っている物を一枚一枚順に剥げば、それは涼しさと、自分で見つけることができる本当の愉しさと分かります。ブッダは恋人と海辺に座るのではなく、溶鉱炉の中に座るのが最も涼しいという言葉に共感します。これは、このような精髄がある仏教という意味です。

 どうぞ目前の問題に突進し、先のこと、三蔵のこと、先生のことを心配しないでください。「私たちの心はこのようではなく、何かを理解できるものだったが、覆われてしまった」という教えがあります。そして私たち人間は、牛人間、犬人間、猿人間と哲学者が言う昔話のような状態があります。私たちのタンマの実践は、「本当にあのようだ、このようだ」と見えるまで自分の心を観察し、そして牛人間、犬人間、猿人間であることを脱ぎ捨て、元々の自分に戻れば、菩提樹もなく、鏡もありません。仏教はこのように遠くまで行けます。

 池の畔の涼しい風が吹く木陰以外にはないと、すぐに決めつけないで、溶鉱炉の中の涼しさを探す努力をしてくださいとお願いします。そのような見方があれば何も援けることはできません。自分自身も援けられず、仏教も助けられません。ましてみなさんと同じ人間である私など、みなさんを援けることはできません。仏教が現代の私たちをどのように援けて幸福にするのかと言うのは、私たちは仏教の系統に依存して自分自身、あるいは自分たちを援けるという意味だけで、それは述べたように明らかです。そして自分、あるいは何と呼んでも、熟慮して見れば、陶酔して恍惚とした考えや感覚でそれを自分と感じさせ、焦燥が自分と感じさせるのは何か、それは苦が生じるほど幾重にも覆われているからと簡単にまとめることもできます。

 元のものは純潔なのに、陶酔恍惚が何枚も覆って、このように縛られているのはどうしてでしょう。そしてアタンマ、つまり低い側、誤っている側がどれくらいあり、それはどのように驚愕するのでしょう。それはこのように知っている人を、罪に、悪に引きずり下ろすことができます。すべては冒頭で引用した、タンマとアタンマ、つまり見本として使った黒い側と白い側について述べたブッダバーシタの比較考察に依存しています。そして述べたようなカンマの話を良く理解し、広く真実のままに正しく見てくださいと繰り返させていただきます。

 現代の私たちは物質的に快適でも、心の面は大変だと明らかになっています。呑まれているからです。このようなら私たちはタンマを殺してしまい、タンマも私たちを殺し、あるいは私たちがタンマを蹂躙し、タンマも私たちを蹂躙し、そして更に人間同士を蹂躙するということです。しかしもし私たちがタンマを蹂躙しなければ、タンマは必ず私たちに何かを与えます。助け合うことができる道は、自分をたくさん愛すことです。

 自分を愛さなければ、援け合うことはできません。他人を愛すというほど多くはお願いしません。まず自分を愛し、そして「他人を愛すことは、どうすれば本当の愛と呼べるか」と考える努力をします。自愛を理解することを知れば、つまりこのように自分を尊ぶこと、愛すこと、自分の名誉を愛すことを知れば、教育のある人と見なし、この世界に生まれれば、善があり価値がある世界で、世界の善い物を自分の物にすることができます。自分を援ける道は一つだけ、すべては覆っている悪から急いで出てしまうことで、そうすれば自分を援けることができます。

 それぞれの人の自分を援けることは、すべての人を援けることとおなじです。中にはたくさんの集団を援けるのと同じ人もいます。述べて来たように、仏教は私たちを援けることはできないので、常に自分の心を観察することで自分で自分を援けなければならず、そしてその間に、疑う必要もなく、恐れる必要もなく、一枚一枚剥ぎ取る中に確実に新しい感覚が生じます。ハムフェル氏は「私たちはすぐにするべきで、三蔵の勉強が終わるまで待つ必要はない」とまとめています。

 この講義の最後に、苦を共にする同朋として、幸福を共にする同朋とは言いません。苦を共にする友の立場と言わせていただいて、お願いします。なぜなら幸福は、私たちを影で操って縛るために騙す自然の餌、あるいは穴を掘って自分を埋めさせる罠にすぎないからです。だから苦を共にする友人のみなさん、今信じる決まりでなく、あるいは信じるだけで信じさせる決まりでなく、後で熟考するためにこの話を思ってください。

 持ち帰って、私たちは苦を共にする友だけで、幸福を共にする友ではないと熟考してください。このように凡人であるみなさんの通常は、あるいはまだ厳格な涅槃に到達していなければ、あるのは苦だけで、苦からの脱出はありません。どうぞみんなで思いやる努力をしてください。私たちは苦を共にする同朋だからです。

 みなさん、互いに思いやる努力をしてください。五欲である幸福、あるいは所有している何でも、あるいはたくさん手に入れたもの、あるいはこれから手に入る物を犠牲にできるレベルまで思いやってください。

 タンマの恩恵によって、自分と人類に対して率直さがある仏教教団員であるみなさんが、今日の講義の目的と一致する幸福と発展を受け取られますよう。


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