4.勤めとは何か






1967年ダンマ大使講習にて

 またみなさんの授業と見なす所定の時間になりました。全体の要旨をまとめるため、聞いて理解し易くするため、進歩のため、そしてパーワナーカンマターン(バーヴァナーカンマターナ。念処に励む)等をする人たちの勤めをする方法として、もう一度、勤めについての理解を復習したいと思います。

 前回は、この「勤め」という言葉を、低くて簡単な状態、初歩すぎる段階と見なしたように思いますが、本当は、これも人の考え方次第、理解次第です。

 ここで私たち森の僧、業処(念処)をする僧も勤めをし、そして先ほど相談して納得したように、勤めをすることに満足しなければなりません。みなさんが、彼らが来たばかりの頃にしたような意味の、低い初歩の形で勤めをするなら、そういうのは滑稽で、西洋に自慢できる話ではないかも知れません。

 だから「勤めをする」という言葉について良く理解するべきです。勤めをすることを、懇願や祈願する話にし、知らないうちにブッダを懇願される人にしません。だから朝の勤め夕べの勤め、あるいは朝の読経夕べの読経をそうでない状態、つまり懇願や祈願でなく、もっと善い、もっと素晴らしい状態、そして三学の形であるようにします。

 この説明はパティサンピダーマッガ(無碍解道)のアーナーパーナサティの教えと比較することができます。比丘が慎重にする行動、心の管理、心の支配、呼吸を意識することなど、それらに慎重にすることは戒であり、安定した心がある行動、そのように感情を排除することはサマーディであり、初歩でも、自分がしていることに全身の感覚があること、そして次の段階で生じる感覚、あるいはニャーナ(知ること。智)でも、それは智慧です。

 だからブッダは「アーナーパーナサティを始めるだけで、戒もサマーディも智慧も、全部揃う」と言われました。そしてそうなるはずです。アーナーパーナサティ十六段階のうち、初めの二つだけを「パチャーナーティ(知る)」と言われ、後の十四段階すべてを、「シッカティ(学習する)」と言われている点を見ることができるからです。三つあるシッカー(学習)を説明すれば、戒学・サマーディ学・智慧学です。

 次にみなさんの勤めを見ると、朝の勤め、夕べの勤めを慎重にし、自分を律し、心を支配しなければなりません。こういうのは戒学です。みなさんがしている勤め、つまりブッダ・プラタム(教え)・僧、あるいはブッダ、・プラタム・僧の徳行に心を集中すれば、確実にブッダーヌサティ(仏隨念)、ダナマーヌサティ(法隨念)、サンガーヌサティ(僧隨念)であり、これはサマーディ学です。

 「ブッダヴァーラ タヌタワンターティクナーピユットー」という文の中の、ブッダなど徳行に沁みこんでいる自覚の状態の感覚はどのようか、これは知らなければならない、理解し、明らかに沁み込ませなければならない状態を表していて、これは智慧です。

 だから、みなさんが勤めをしている時は、戒・サマーディ・智慧であるべきです。戒・サマーディ・智慧の部分が高いか低いか、あるいは広いかはみなさん次第です。みなさんの能力次第、みなさんの行動次第で、最高にもできます。決意すれば、勤めをする時の気持ちを広くして知性で段々高くすることも、あるいは理由をつけて勤めをしないで、オウムや九官鳥のように口だけで唱えることもできます。

 寺の規則だから、集団が強制するから、しない訳にはいかないから、時には仕方なく勤めをすることもあります。こういうのは意に逆らって上の空の心でし、口ではオウムか九官鳥のように唱えます。こういうのは戒・サマーディ・智慧にならないので、避けてしまうべきです。学生でもあり、念処家であるみなさんにあってはならず、初めに述べたような戒・サマーディ・智慧の状態であるべきです。これが初めの項目です。

 次にみなさんに、その時の心にタンマがあるくらい、清潔・明るさ・静かさがあるくらい善くできれば、そのような状態でタンマが心に現れ、みなさんの勤めをすることは、ブッダの時代のインドで、ブッダの生存中に朝夕していた、ブッダを拝謁するのと同じです。

 今みなさんは本当のブッダに、ブッダの徳として残っている本当のブッダに拝謁します。タンマはブッダ、ブッダはタンマという状態の、「如行が見える人はタンマが見える。タンマが見える人は如行が見える」という状態の、本当のブッダに拝謁できます。

 だからみなさんの朝夕の勤めを、ブッダとの拝謁と見なすべきです。当時の人の中には心にタンマがない人もいて、心でタンマが見えない人は、本当のブッダではなく、ブッダの外面、つまり身体に拝謁するだけでしたが、それよりも本当の拝謁です。

 現代の私たちは、二千五百年の時の隔たりがあり、国もこのように遠いですが、みなさんは正しい勤め、あるいは意味に合った勤めをすることで、本当のブッダに拝謁することができます。だからこれを思って、みなさんの勤めを、このような状態にするよう調整してください。これが二つ目です。

 次にもっと考えなければならないことは、夕べ話したことと同じで、前回、お供えするロウソクや線香に火を点けて勤めや何かをする度に、罪のない体と言葉と心がある身体でなければ、安置してある仏像でも、あるいは、みなさんがロウソクと線香に火を点けて勤めをする何でも、名の物(抽象的)である不潔がある人を大声で追い帰します。

 たとえばサマナなどの義務をする時デタラメな心があり、それで菩薩堂に入ってロウソクと線香に火を点けて勤めをすれば、仏像に菩薩堂の外に追い返されるので、それを善く改めてから、もう一度ロウソクと線香に火を点け直して、勤めなどをします。

 これは考えなければならないことと捉えてください。みなさんがブッダに拝謁した途端に、ブッダに追い帰されない状態で行かなければならないからです。いろんな経に「追い帰された」とあるように、何か間違った行動、ふさわしくない行動があってブッダを訪ねると、追い帰えされ、あるいは祇園精舎に訪ねて来た比丘集団が門の所で大声を上げ、ブッダのお耳に届くと、改善するまで拝謁させず、追い払われました。

 みなさんも同じです。菩薩堂に入ってロウソクと線香に火を点けて勤めをするなら、そのような勤めをするために、何一つ身に汚れがないようにするべきです。だからみなさんは、勤めをする時間はブッダ・プラタム・僧に拝謁するのと同じと見なし、自分自身を洗う時間と見なすべきです。例えで言えば、罪の告白のようなことをし、それから勤めをします。

 タンマの面の罪の告白なら、他に良い言葉があるかどうか知りませんが、私はこのように、罪の告白という言葉を使わせていただきます。つまり、律の面の罪を告白してからパーティモッカをするように、タンマの面の罪を拭い去って、それから、ブッダに拝謁することである勤めをしに行きます。パーティモッカをする前に、律の面の罪を告白しますが、本気で私の様式で勤めをするには、タンマの面の罪の告白をしなければなりません。

 イスラム教の人たちが回教寺院へ入る時、入口の外に清潔な水、清潔な物があり、清拭やら何やら、何重にもしなければならないのと同じです。

 要するに本当の物質面でも、菩薩堂に入るために清潔にします。寺院は不潔な物と一緒に入れないほど神聖です。深い意味では心の中の不潔を意味しているのかも知れませんが、人々が愚かになると、物質だけの問題と見るので、物質の問題としてだけ関心を持ち、形骸だけが残って物質の話になりました。これが、現代人の精神面の低さです。

 私たちはそのような状態に落ちるべきではなく、心の面、精神面の知識と理解があり、行動があり、心を重んじる人、精神を重んじる人であるべきです。そして、ブッダに拝謁して勤めなどをする前に、罪を告白する純潔な心、精神がありたいと考えます。これが三番目です。勤めをすることの三番目は、毎日毎日心の沐浴するように、タンマの面の罪の告白をします。

 朝の勤め、夕の勤めをすることで、少なくとも三つのことができます。戒・サマーディ・智慧、すべての呼吸、すべての挙措を維持するのが一つ。勤勉に、私たちに対して偉大な悲があるブッダに拝謁し、このように毎朝毎夕勤めをすることに怠慢でないこと、これが一つ。拝謁する前に沐浴するように、タンマの面の罪の告白で心を洗い流すことが一つ。

 この三つだけで、朝晩の勤めをすることは小さな問題ではないと述べるに十分と見ます。ほとんどの人が「新参にさせる初歩の決まり。あるいは伝統儀式を維持する行動」と考え、理解しているような小さな話ではありません。あるいは「庶民から怠け者」と非難されるのを恐れてすると考える人もいます。みなさんには、そういうのはあるべきではありません。

 そのようなら、どうすれば勤めをする時に最高の戒・サマーディ・智慧になるか、どうすれば最高に本当のブッダとの拝謁になるか、最高に善いタンマの罪の告白、あるいは毎日の心の沐浴になるか、という問題が生じます。これはみなさんが判断し、相談し合わなければならない問題です。同時に自分の行動、特に自分の心がそれに応じて高くなっているかどうか、朝夕の勤めをすることで試す努力をしなければなりません。

 だからここで、あるいはどこででも、みなさんの勤めをこれくらい高く調整できたかどうか、あるいは勤めをしている間中、自分の心を昨日より善く管理できたかどうか、考えてください。

 なぜ時々「間違い」と言うのか、勤めの言葉が間違うはあるのか。その間違いは本当のブッダの意味を考えすぎることから生じ、それで口が間違っていると言うのか、あるいは心が浮ついて常自覚がないのか、考えるべきです。これは勤めをすることにとって損失であり、害があります。

 しかしタンマや本当のブッダを思いすぎて「失敗」「間違い」と言うのは、心配ありません。それは、口は管理下になく、心はタンマを思っているからで、間違い、あるいは損害と捉えるべきではありません。しかし事実はどうか、みなさん自身で試す物にしてください。

 だから、朝夕の勤めをする中に、三つの意味のどんな落ち度があるのか、あるいはないか、完全な三学にし、毎朝夕ブッダに拝謁する話にし、勤めをする度にタンマの面の罪の告白をしているか、専ら試してください。だから夕べのように勤めを始める前に心を調整し、心を清潔に拭い、抵抗する状態、あるいはブッダの望みを尊重しない、支持しない状態を何も残さないでください。

 現代人は私も含めて、宗教の布教でも、厳格な実践行動でも、知識の面、名誉の面での善いこと、目立つことを思い浮かべがちですが、こういうのは勤めをする時、ブッダに拝謁する時の身体の中、心の中にあるのはふさわしくないと見なします。

 だから勤めをする時、そしてブッダに拝謁する時、口から出まかせで信用できない人にする、小さなことと見られている行状や態度、あるいは性分として癖になっている行儀まで、これらを全部忘れてください。

 これは、みなさんは「ブッダの前でそのようにしてはいけない。ブッダに拝謁に行く時は残っているべきでない」、あるいは「私はタンマ大使で、外国、あるいはどこへ行こうと、タンマである目的がある行動をし、本当のタンマに言及する」、あるいは「自分について話し、自分のことだけを考えるか、あるいは世界について話し、社会について話すか」と、このように考えるべきです。

 だから今日、もう一度行動できる夕べの勤めの言葉を述べる時、この問題、この真実を自分で検証し、自分を調整してください。

 する前に、今心はどうか、行動はどうか。自分はそれらを捨てたか。テストして見、試験して見、熟慮して見、熟考して見、篩にかけて見てください。みなさんは行動する度に「カーイェーン ヴァーチャーヤ ヴァ チェタサー ヴァー=どうぞ軽視したことをご堪忍ください。二度と致しません。これからは慎重にします」と言っているからです。

 みなさんがどんな行儀作法も、いい加減なことも喫煙もふさわしくないと見なせば、ふさわしくない話でなければならず、ブッダに近づく人にふさわしくない物の中に入ります。今、特に今、そのようなことがないように誓願し、そしてこれからどんどん増やします。

 私は、いろんなことは七日も掛からず、全部同じに善くなると考えます。タバコも止めることができ、こうしよう、ああしようという考えも捨てられ、気まぐれで当てにならないことも捨てられます。自分のことだけを考えるより、ブッダを愛しているからです。

 だから勤めをする度に、そして勤めをしている時も、このように勤勉に考え、このように心に自問し、心の中で最高にこのようにし、そして勤めが終わった後も思い出すようお願いします。このようにすれば、勤めをすることには偉大な恩恵があり、望ましくない物を捨て、清潔、明るさ、静かさにし、朝夕の勤めをする毎日、毎回、サンマーサンブッダの弟子になるよう、全身全霊を善く改める最高の道具になります。

 だから心に慎みがあり、すべてがこのような軌道に乗るよう慎重にし、それから朝夕の勤めをしてください。そして読経する口も、常自覚の考えをする心で勤めという言葉の意味を知り、喜悦や歓喜が染みわたるまで本当に明らかに感じる心も、昨日より善くするよう望みます。

 だから本当にお願いします。朝夕の勤めをすることは小さなこと、仏教に入って来たばかりの初歩、あるいはそのような何かと考えないで、阿羅漢になるまで終わらない課題と捉えてください。述べたような三つの正しい状態で朝夕の勤めをすることは、まだ成功していない、試験に合格していない課題で、みなさんが阿羅漢になるまで終わりません。

 このように言うと、「それは大変すぎる。止めた」と心が挫けます。それも正しくありません。サーキャプッタサマナは、みなさんも耳馴れている「ヴァーヤメーテヴァ プリソー ヤーヴァ ウッタッソ ニップター」というブッダパーシッタ(ブッダが言われた言葉)で、絶えず努力しなければなりません。

 だからみなさんは、学生として、タンマ大使として、心の努力をする人として、森に住む人として、あるいは「次第に高くなっていく」と言う物として、朝夕の勤めを益々高い行動にすることに専心し、心に銘じ、誓願しなければなりません。

 みなさんにふさわしい勤めをすることは、みなさんの仕事に満足し、そしてみなさんも、能力の限り最高に善くしたと言われ、善い物を得ることであり、非難されなければならない物はありません。みなさん。高くて善くて難しい、委ねられた任務をするために、朝夕の勤めを、みなさんにふさわしい状態に調整してください。 

 だからどうか「今まで、今日という日まで、自分の勤めをすることに今のような関心がなかったから、自分の首に提げたクズ籠のように何も利益がなく、重くて邪魔なだけだった」と捉え、今から始まり、生涯続くと捉えて、その後は大きなクズ籠でないように調整し、捨ててしまってください。

 そしてダイヤモンドのような小さな物、まだ心の奥にあって見えない物にしてください。どうぞ心の中をそのようにして、もう一度規定どおり夕べの勤めをしてください。

 昨夜は、プログラムにあれば維持しておくと満場一致で決定したので、みなさん維持しておいてください。しかし維持しておくというのは、今までのように足踏みするような状況を維持しないで、述べたような意味で進歩させてください。

 そうすれば、私は勤めをすることに言及し、言及させていただき、考え、あるいは昨夜ずっと意見を述べた理由をまとめて理解を調整してもらい、そしてもう三十分、短い言葉にまとめたと言うことです。みなさんはこれから勤めをすることができます。





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