13.還俗する人への訓辞






1975年11月6日

 もう一度しっかり聞いて、利益があるようにしてください。還俗するには、出家する時のように、サンガカンマ式にする必要はないので、私はこのようにします。僧集会の結界内でする必要はありませんが、心でしなければなりません。そうすれば十分な利益があります。だから説明したように、心の中を正しくしてください。

 常自覚と、僧籍を去る挨拶を終える平常心がなければなりません。心でしなければならないと言うのは、常自覚があることで、通常僧籍を去るには、決めておいたように還俗しなければならないと知っているので、無理やり還俗させられるようなのと違ってあまり問題はありません。

 捕まえて還俗させるようなのは、その人に還俗する考えがないのに無理やり還俗させられ、その人の心が還俗しないのは問題があります。そのような還俗ではなく、今みなさんは、口と気持ちが一致した還俗する人であることは確かということです。

 ここで心の中を正しくしなければならないことは、この還俗(タイ語では「学習を返す」つまり「テキストを返す」と言う)は比丘としてだけであり、何もかも返す訳ではありません。三宝であるブッダ・プラタム(教え)・僧を返すと言いません。それには触れないでください。みなさんは宗教を返す、ブッダ・プラタム・僧を返すと言わないで、還俗の言葉は、比丘の学習だけについて言います。

 シッカンという言葉は、一語で比丘のような学習から去ることを意味し、その後は、その後も遵守しなければならない在家のような学習をします。だから心の中を正しくして、それから言葉で行動します。つまりパーリ語でシッカーを返す言葉を「シッカン パッチャカーミ ギヒーティ マン ダーレータ」と言い、心で十分感じたと確認し、それから礼拝して、その後体の行動、つまり着衣を変える等をします。

 そうすれば、その人の行動は心と言葉と体で完璧で、そして比丘であることを捨てて、在家になります。すべてを平常心でしなければなりません。それから規則に則って戒を与え、祝福し、訓辞を与えます。

 今みなさんは、比丘のような正しい「学習を返す」という言葉を述べました。だから今後は渋染めの衣をまとう資格がないので、この段階で衣服を変えなければなりません。常自覚と平常心でするよう忠告したいと思います。

 それから冷静に整然と、あるいはしとやかに順に退くようにするので、五戒の代わりに八戒を与えるのが好まれます。それはまだ落ち着いた心がある人、心が軌道上にある人であることを表しています。

 それには以前に見本があり、還俗して五戒を授かって、夜になると映画を見に行って頭を殴られました。その晩です。その人の心は非常に低く、籠から出た小鳥のような気持ちで、規律やいろんな規制事項が好きでない証拠です。

 落ち着きのある人なら、風俗習慣に従って、八戒を一日だけ、あるいは信仰次第で三日間守ります。だから戒をお招きしなければなりません。全員で言うなら一緒に、言えなければ代表一人だけで、「マヤン バンテー」と言い、全員で一緒に言うなら、「アハン バンテー」と言います。八戒にしたければ「パンチャ シーラーミ ヤーチャーミ」の代わりに、「アッタ シーラミ ヤーチャーミ」と言います。 

 ここでもう一度良く聞いてください。戒を与えたら、祝福、あるいは訓辞をします。

 「祝福を与える」とは、善い物を与えて行動させることです。福とは「善い」あるいは「善」という意味で、祝福は善い物を与えてその行動をさせます。善い教えで実践しなければならず、そうすれば幸福、発展があります。

 祝福を乞い、祝福をもらうと、何の根拠もなく「発展する」と誤解をしている人がいます。善を受け取ったら行動しなければなりません。そうすれば福も受け取れます。聞くこと、実践することに、益々完璧な常自覚を持ってください。そうすれば本当の祝福になり、益々利益があります。

 八戒を遵守させる伝統では、これよりきちんとした身なりをしなければなりません。還俗した人として、少なくともパーサバイ(註)を斜めに掛けるのも、白衣を着るのもあり、十分な物は繋ぎ止め、引き寄せておいて、「好きでない物から離れる」ように背を向けさせません。

 (註: 幅も長さもマフラーくらいの肩に斜めに掛けるサッシュのような布)

 現代の還俗する人を観察して見ると、自分が好きでない物から逃げたい子供のように、好きでない物から急いで逃げる、離れるような気持ちがある人がいます。未練も執着も、あるいは出家であることに常自覚もないので、常自覚があるように、未練があるように還俗させる伝統規則があり、少しずつ、少しずつ後退させます。

 みなさんにできなくても、昔からどんな目的があったか知っておいて欲しいと思います。昔の人は話したような目的があり、そして少しずつ、少しずつ常自覚で後退させました。そうすれば立ち上がって回れ右して放り投げて出て行くのではなく、今までどおり正しい感覚のある人になります。

 このような気持ちにしておいてください。そうでなければ、その人にとって不吉であり、出家したことからも、何の利益も受け取れません。

 出家になることを理解せず、満足せず、帰依しないで、それで立ち上がって放り投げて出て行くのは正しくありません。「私はある状態で来たが、常自覚で退出し、持って行ける善い物を、持てるだけたくさん持って行く」というような常自覚をお持ちなさい。

 だから昔は後退させるような決まりがあり、白衣を着て戒を受け、還俗した後も三日のことも、七日のこともありますが、お寺にいて用事や仏像の勤めを、強い自制でしました。つまり煩悩を非常に抑えて、ゆっくり出て行きました。今は話して、それから何らかの必要によって出て行くように変わりました。話して教えたいのは、彼らの規則はこのようであり、そして彼らもこのように実践し、それで変化してきたことです。

 そこまでできなければ、「今日帰る」と言うようにするにも、自分がどのようにするか、どのように後退するか、帰って行く間、心の中を常自覚にしておいてください。立ち上がって放り出して逃げ帰る、それに不満がある子供のようなのは、精神面では使い物になりません。これが、そのとおり十分に行動できなくても、知っておいていただきたい初めの項目です。

 出家して還俗して家を治める人の心を、いつでも常自覚の感覚でいさせるよう護る方便、方法があります。職務が変わり、出来事が変わっても、心はいつでも常自覚を維持する、この項目を憶えておいてください。そうすれば、福と呼ぶ善の行動、善の実践が簡単になり、そして本当の戒、本当の福と呼びます。

 ここで彼らはまだ何か儀式があり、聖水を掛けたり、何かを撒いたりするなどは後になって考え出したこと、後世に始められたことで、人が愚かな時代は、非常に愚かになって臆病になり、信じ易くなるので、この種の儀式がたくさん出来ました。

 初めは知性、常自覚、博識でしたので、迷信のような物は何もなく、聖水を掛けると言えば、プラタム以上の聖水はありませんでした。だから理解を生じさせる行動で、プラタムを心に沁ませます。それは水を掛けるように涼しいですが、水よりも涼しいです。

 だからこの機会にふさわしく必要な、つまり再び世界に戻る機会に、自分の心がこの感覚を受け取るようにするべきです。それは、普通の水を掛けるのとは比較にならないほど価値があります。

 普通の聖水を掛けるは、むしろ心理面の話で、プラタムの水を掛けるのは、より真実の話、より本当の聖水です。モン(訳注:聖水=ナムモンの聖の分部に相当する語句)という言葉は「考え」「知識」という意味です。私たちがモンと発音するマナという言葉は「知識」と「考え」という意味です。知識があって考えが生じれば、その時モン、あるいはナムモン(聖水)になります。

 普通の水を掛けても確実ではないので、私は、知識である考えのナムモン(聖水)を掛けて、ブッダの聖水にします。ブッダはこのような水だけで、彼らが濡らすような聖水は掛けないと信じます。その種の水を掛けることでは変えられない、あるいは純潔にならないからです。

 『その聖水で罪を無くせるなら、幸福になるなら、ガンガ(ガンジス河)の亀や蟹は罪がない。あるいは死を知らない』という要旨で言われているほどです。ね。本当の聖水は、考えの流れ、知識、正しい理解であるべきです。

 チャヤントーを唱えるのは、しても良いですが、あれは勝者のために唱える経なので、見るとしっくりしないようです。チャヤントーは、ブッダが悪魔に勝利したことを、勝者と称賛します。今はまだ、みなさんは勝者でなく、別の角度から見ると少なからず敗者で、梵行に負け、今出て行かなければなりません。

 彼らもあまりチャヤントーは唱えません。他の教え、「ヤッセーテー チャトゥロー ダンマー」などを唱え、これは在家のための四つのダンマを教えます。これは話したことがあります。集団で唱えるパーリ語でなくても、心の中をこのようにして、秩序があるように、賢い人のように後退し、形式的にする愚かな臆病者のようにしないでください。

 ここで戒と祝福という言葉について、もう少し話します。戒を与えるのは、戒は実践するよう強制し、行動しなければならないいろんな規則を意味しますが、祝福はプラタムのようにあれこれ強制しないので、たくさんした人はたくさん得、少ししかしない人は少し得ます。みなさんは戒も福もあるよう努力し、戒も福もある人でいてください。

 戒は基礎のようで、踏むことも立つことも座ることも寝ることも、住むこともできる大地のような基礎で、福は発展で、基礎よりどんどん良くなり、美しくなることです。戒を授ける、祝福を与えると言うなら、その人は、戒も福も受け取って、そしてそれが本当にあるようにするべきです。

 在家として家族の中で暮らしても、戒も福もあるようにできます。人は知らず、関心がなく、小さなことと見るので、仕方なく、あるいはぞんざいにし、戒も福も得ず、安定した発展もせず、一時自分を欺くに近いです。

 さて次に出家することについて、みなさんの決意について話します。良く知っている人、まだ知らない人、忘れた人もいるので、もう一度「出家した日に話したように、この出家でから、少なくとも三つの利益を受け取ってください」と忠告させていただきます。

 三つの功徳の一つ目は、出家した人自身が、出家しないより善いもの得、より善い人生、より善い知識、より善い行動振る舞いを身に着けます。これを出家した人が得ます。

 二つ目は、両親など多くの親族も付随して得、少なくとも正しい見解のある人になります。だから両親を失望させないでください。両親を初めすべての親戚を、みなさんが出家したことで失望させなくても良いです。みなさんは、以前と同じではいけません。以前より悪くてはいけません。以前より善い人になって、幾つも以前より善くなって戻ります。たくさんではなくても、以前より善い物がある人になって戻ってください。

 両親などは喜び、そして両親の利益にもなります。彼は要旨を「両親など親戚全員は、ブッダ・プラタム・僧、仏教にますます安定する」と、要旨をまとめています。重要な部分はここにあります。それは説明が難しい心の話ですが、両親など親戚全員が、以前より仏教に信仰心を増し、プラタムに安定し、正しい見解のある人になり、悪を憎み、善を愛し、最高の解脱を知る結果を出してください。

 みなさんが出家したことが、両親など親戚全員という言葉を使いますが、両親など、つまり親戚全員がこの利益を受け取れるようにしてください。そうすればみなさんに命を与え、養育し、みなさんの成長のためにあらゆる投資をした価値があります。その人たちを失望させないでください。短い要旨はこのようです。

 三つ目は、すべての人類、あるいは仏教にとって利益のある出家にしてください。みなさんが出家して仏教を消滅させず、仏教の寿命を延ばし、その時代時代、その時々、まだあるようにし、そのような状態で二千年以上の間、続いて来ました。

 最高レベルの比丘から最も低いレベルの在家まで、出家する人がいたから、学習する人がいたから、実践する人がいたから、教える人がいたから、このように仏教の寿命を延ばしてきました。

 だからみなさんが出家したことはで、この義務を良く果たすことができました。そして世界中の人間も、世界にまだ宗教があることから利益を受け取ります。偉大な結果で、できないより善いです。そして犠牲にして出家したことに極めて利益があると満足するべきです。

 何をするにも自分のためだけで、それしか見えない幼児のように身勝手ではいけません。それは人間、仏教教団員、智者であり目覚めた人であり明るい人であるサンマーサンブッダ(自力で悟ったブッダ)の弟子と言うにふさわしくありません。

 繰り返すと、出家したみなさんは、必ず利益を受け取らなければなりません。少なくとも、話したような三つ、自分も受け取り、両親を初め親戚全員も受け取り、所属しているすべて、つまり宗教、あるいはすべての人間も受け取ります。

 どうぞ心で憶えておいて、ずっとこのような利益があるよう維持してください。そうすれば確実に、出家したことは無駄でなく、却って一人の人がなし得るものとして、言葉で述べられない偉大な儲けがあると言われます。

 還俗しなければならなくても、このように、言葉で表せない利益があり、功徳があります。まだい続ける人は、それ以上の利益を何倍も成すことができます。還俗しなければならない人も、それでもここまでできます。だから遊びと見て、立ち上がって埃を振り払うように、払い捨てて家へ帰らないでください。それは正しくありません。そして非常に間違いになってしまいます。

 いつでもその三つの利益について考えてください。自分も善い物を得、両親など親戚も善い物を得る恩返しの出家であり、そしてこの世界のすべての所属社会も、みなさんが出家したことから、多少の利益を得ます。みなさんが出家したことは、この世界を善くしたので、この世界のすべての人が、利益に与ります。

 要旨を話せば、短い時間でこのように話せます。しかし意味は極めてたくさんあります。このような機会にお話したことを、特に憶えておいてください。


 次の話は、出家したことを無駄にしない、つまり最高に善い在家、仏教教団員である在家になるために身に着けて行くダンマがあります。率直に言うと、このようなのは最高に善い在家で、人間が得るべき物何でも得なければなりません。出家として得るべき物を得るのは言うまでもなく、在家として得るべき物を得なければなりません。みなさんは、今在家になる所だからです。

 最高に善いと言うのは、本当に最高に善くなければなりません。だから「私はタンマがなくても、何かを最高に善くできる」と自慢しないでください。それは目を瞑って言っています。この世界の最高に愚かな人は、タンマがなくても何かを最高に善くできると考えます。それは世界で最高に愚かです。何でも最高に善くするには、タンマと呼ぶ物でしなければならないからです。

 していることを考えて見てください。それはタンマですが、愚かな人は、それがタンマと知りません。以前に発展したことがある物は、タンマによって発展していますが、自分は、それがタンマと知りません。

 今、十分に完璧にしなければならない別のダンマがあるので、「何でも良くすることはダンマの実践」と言ってしまいます。職務を良く遂行することも最高にタンマの実践をすることです。もう一度見てしまうと、それは手本と一致していて、簡単で、前より早くなります。

 在家なら、在家になければならない物、例えば在家が持つべき適度な財産があるなど、標準が決めてありますが、それは狂気になるほど、その財産に呆けてしまって悪の行動になるほどでなく、正しく純潔に所有すべき、身にふさわしいだけにしてください。どんなに多くても構いません。

 次に善があると保証する適度な名声名誉があります。たくさん財産があっても悪人であることもあり、下賎な悪人であることもあり、それは名声ではなく、それば悪名、偽の名声で、欲しくありません。私たちが欲しいのは、他人から尊敬され、親密で仲良くさせる善で、そうすれば名声があります。そしてまだ、適度に善友がいなければなりません。

 だからこの三つの利益を得る努力、つまり適度な財産と適度な名声があり、善友、つまり幸福でいるため、職業を営む便宜のために、ほどほどに善い人に囲まれているよう努力してください。善友には、このように利益がありますよ。職務を良く遂行できるよう援け、善友に囲まれることで幸福にしてくれます。彼はこのような教えを話しています。財産があり、名声があり、そして善い友情に囲まれていることです。

 財産については、話す必要はありません。財産を求める方法を学び、あるいはしている、あるいは財産を求める方法を良く知っているように見えるからです。残るのは自分を管理できないで、浪費したり、無駄使いしたりするので、適度な財産がなく、愛欲の奴隷になり、十分ということを知らずに、愛欲を買うために財産を求めるので、財産を蓄える術がないことだけです。だからみなさんは、愛欲に関して、必要という点でちょうど良いということ、正しさ、ふさわしさを知らなければなりません。

 適度にだけで、現代の人のように過剰にしないでください。彼らがフリーセックスとか何とか言っているものは限度がなく、最後には狂人になり、魑魅魍魎になります。こういうのは財を成さず、名声を成さず、何も善い物を作りません。だから私たちは財産があるように管理するダンマがあり、品行がなければなりません。

 財産がなくても、善人なら人から愛され、尊敬され、純粋な名声があります。これは良く愛し合っている仲間内だけでしなければなりません。そうすれば名声があるので、自分を律す、助けになるタンマがなければなりません。それは還俗する人、あるいは結婚する人にこのように戒を授けて祝福する、パーリ語で「ヤッセーテー チャトゥロー ダンマー サッダッサ カラメーシノー サッチャン ダモー ディティ チャゴー サヴェー ペッチャ ナ ソーチャティ」と言う文句です。

 彼らはこのように唱えます。要旨は「四つのダンマ、つまりサッチャ(真実。誠)・ダマ(自制)・カンティ(忍耐)・チャーガ(棄捨)は、家を治める在家のためのダンマであり、幸福や発展に遭遇し、この世界を捨てて逝く時も善趣に行く」です。つまり死ぬ前から、いつも変わらず悪趣から善趣に変化させ、死んでも善趣に行きます。

 大切なことは、今日要旨を話したこの四つのダンマにあります。詳しくは時間が掛かるので、本を探して読んでください。だから「サッチャ・ダマ・カンティ・チャーガは在家のためのタンマ」と口癖になるよう暗唱してください。在家でなくても誰でも良く、自分を律せば利益だけがあります。自分を支配するので僧でも使うことができます。

 サッチャは誠実、ダマは自制、カンティは忍耐、チャーガはあるべきでない物を犠牲にする。これだけで十分です。理解すれば、あるのは発展だけです。

 今、善あるいは誠実であるべき物に誠実でなく、煩悩に誠実で、煩悩の奴隷になり、煩悩に頭を下げて誠実にします。煩悩と呼ぶ物にこのように誠実なのは、本当にしてもサッチャとは言いません。煩悩に誠実なのは使い物になりません。正しさ、あるいは善に対して誠実でなければなりません。

 現代人は、ほとんど煩悩、欲望、五欲に誠実で、そこまで誠実なのは堪りません。それは、本当に煩悩、愛欲の奴隷になります。今はそのような誠実で、そういうのは欲しくありません。

【第一項】サッチャは、正しさに誠実、ダンマに誠実、人間であることの理想に誠実です。だから人間であることの理想を正しく知り、それからそれに真誠にします。

 生まれて来たのは食べるため、性のため、名誉のためと捉える人もいますが、それは欺瞞するだけの名誉で、そして愛欲に陶酔し、そしてそれらに誠実な人もいます。そういう人たちもいますね。仏教教団員ではありません。仏教教団員は正しく、ちょうど良く、性の話もお腹が空いたらご飯を食べるように、あるべき状態であります。

 それも食べ物の一種で、欲望を静めるためだけで、後の時間は利益になることをする方が良いです。終りを知らない話、満足を知らない話、つまり愛欲に溺れないで、人間であることの理想、ブッダ、プラタム、僧、あるいは何とでも呼び方次第ですが、それらに対してこのように誠実でなければなりません。

 まとめれば、人間であることに誠実にする、それが善です。時間に誠実、友達に誠実、職務に忠実、いろいろある何にでも誠実で、誠実はここに集約できます。つまり人間の理想に対して誠実で、何としても人間になります。

 本当の話、私たちは目的を作り、適度な財産、適度な名声、適度な善友があるなど、何としても目的である物を作り、これらの理想に対して誠実で、そして自制でします。

【第二項】ダマは、支配してさせます。普通ではあまりしないので、自分を支配して軌道上にいさせれば、ほとんどはします。したくなって、そして一時して、そして支配できなくなり、逸れて、気楽な方へ変化します。

 気楽になりすぎれば煩悩の言いなりで、すべては水の泡です。支配してできるようにすれば、ダマにできれば、ずっと自制して支配できることをダマと言います。第二項は、決意したように自分を支配でき、本当に維持します。

【第三項】カンティと言うのは、忍耐しなければなりません。自制すればいつでも痛みがあり、焦燥があるので、その時忍耐しなければなりません。忍耐しなければ、再び理想を捨ててしまうので、男子の不撓不屈で耐え忍んで、忍耐できなければなりません。待てなければなりません。

【第四項】チャーガと言うのは、同時に棄てることがあり、悪い物、低劣な物、すべての不吉な物を棄て、自分に無いようにします。善くない物はね、何でも不吉と見なして減らして行き、自分にあるべきではありません。

 だから率直に、僧がタバコを吸うなど、こういうことはすべて不吉と言いたいと思います。捨てる努力をする方が簡単になり、軽くなり、放置するより善いです。。悪い考えは棄てます。何かを学んで見て、熟慮して見て、悪いと見えたらそれを棄てます。これを、常にチャーガをしていると言います。

 四つ全部、つまりサッチャ(誠実。真実)・ダマ(自制)・カンティ(忍耐)・チャーガ(棄捨)が揃えば、それだけで人間に生まれた利益があります。この四つのダンマを、最高にしっかりと憶えておいてください。そうすればきっと危機から脱せます。それはブッダからの贈り物で、ブッダは、先ほど言ったように、水鉢の水を掛けるより、ブッダの聖水を掛ける方が良いと、このように主張され、委ねられています。

 少なくともサッチャ・ダマ・カンティ・チャーガ(誠実・自制・忍耐・棄捨)は、伝承して掛け続けて来たブッダの聖水で、「サッチャ・ダマ・カンティ・チャーガ(真実・自制・忍耐・棄捨)の聖水と呼ばれる物は、何よりも護ってくれる物」と言われる聖水を受けさせ、今しているような聖水を受けさせることを、伝承するよう託されました。

 (ペンダント型の)仏像を首に提げて首を折らせても、これらのダンマの行動をしなければ、護ってくれるブッダはいませんが、このようにすれば本当のブッダが心の中にいるので、仏像を首に提げなくても、はるかに善い結果があります。だから正しくしてください。

 仏像を首に提げるなら、これらのタンマを忘れないよう忠告することに利益があります。首でカチカチ鳴ったら、サッチャ・ダマ・カンティ・チャーガ(誠実・自制・忍耐・棄捨)を思い出してください。首でカチカチ鳴っている音は、いつでも「誠実・自制・忍耐・棄捨」と鳴っています。あるいはそういういう意味があります。

 それも自分を本当に危機から脱出させます。使い方次第で、サティを喚起する利益に使えば、首に提げる仏像などは、四つのダンマがあるように忠告します。

 名声を求めるにも述べたこの四つを使い、善友に囲まれているようにするにもこの四つを使います。細かく分けて、それだけに使うこともできます。この四つは、涅槃に到達するのも助けるので、庶民の話、庶民が危機を脱すのは言うまでもありません。それも支援する道具であるこの四つのダンマで良く暮らすことができます。

 この四つ全部を、戒と対の福として持って帰って、普段実践行動をしていれば、幸福と発展があります。これを「聖水である、あるいは託す福である四つのダンマ」と言います。

 次は油断してはいけない、いつものように常自覚がなければならない細々した項目です。つまりいつものように常自覚がなければならず、支援する物を思い出さなければなない、特に不注意にならないで関わらなければならない物は仏教、お寺です。「今のお寺はどうしようもない。今の僧はどうしようもない。私はお寺へ行かない。僧と関わらない」と、愚かに言い訳して無視しないでください。

 それは正しくありません。本当にしている人、正しくしている人もいると見なさなければなりません。つまり少なくとも自分の心の中にお寺を建てることができます。

 みなさんがこのダンマを思い出せば、お寺へ行っているのと同じで、外部のお寺へ行けなければ、内部のお寺に行くのでも善いです。しかし今、外部のお寺も、全部が悪くはないので、行き来する努力をし、連絡を取り、常に自分に忠告します。交際すべき人と交際する機会であり、そしてそのお寺のいろんな儀式のいろんな仕事をする努力ができるからです。

 戒を授けてもらうなどは、しないより善いです。先ほどは、授戒がまだ終わっていません。授戒が終わっていれば、人から信頼され、尊敬され、あるいは他人の利益になる人で、戒を持つよう誘い、仏教教団員社会でするべきことを何でもする、善い紹介者、連絡人になります。

 宗教儀式である小さなことも、何でもしないより善くすることができ、損失はなく、何も疲れず、投資した以上に価値のある結果があり、社会を善くします。これをまとめて「絶えず宗教と呼ぶものと関わらせる」と言います。

 物質でも、記念すべき場所でも、いろんな儀式でも、あるいは、彼らに時々ある本当の実践行動でも、宗教は私たちが社会的に安定するのを援けます。これは細々した話です。まだたくさんあるので、自分で考えても、彼らが印刷している物を読んでも良いです。

 今回の出家で使用した黄衣を、出家した記念に持って行って自分を律し、「出家したことがあるんだぞ」と自分を脅すなら、非常に利益があると提案したいと思います。将来子や孫に与えれば、「父はこのように出家したことがある」と知ることができます。それも子供たちを簡単に宗教に引き寄せる利益があります。最高に智慧のある人たちを見ると、彼らはそのようにしています。

 出家した記念に黄衣を持って行くのは、気取った写真より良いです。写真は陶酔させる物で表面的な話ですが、黄衣は、自分が身に着けたことがある仏教の神聖な物、阿羅漢の勝旗と見なします。それも、大いに自分を律して注意深い人にする助けになり、その人を護る神聖な物が増えます。

 しかし深遠すぎる話なのであまり関心がなく、理解できないので気を配りません。しかし本当はこのようで、宗教を忘れさせない物、自分が出家したこと、つまり阿羅漢の勝旗である黄衣をまとったことを忘れさせない物の一つと言わなければなりません。

 これが福と言うもの、あるいは還俗する人の心に振り掛けるブッダの聖水と言うものです。このような機会に適度な時間お話しました。だから最高に良く受け取って、持って行って、人間であることの完成に遭遇し、在家として、あるいは出家として、人間が得るべき最高の物を得る努力をしてください。

 いつでも心に冷静さがあり、どんな場合にも明るくほほ笑む人で、何が生じても苦になって泣き嘆かなければならず、あるいはほとんどの愚かな人のように自殺するようなことにならないでください。

 還俗するみなさんが成功に遭遇し、私たち全員の拠り所である教祖の仏教で、一時も絶えることなく成長するよう、祝福させていただきます。





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