テーラワーダ仏教の幾つかの不思議なこと




1954年ビルマで開催された第六結集にて
(英語による講演のタイ語訳)

 生老病死を共にする同朋のみなさん。私はビルマ連邦仏教議会主催、ドクター・バー・ウ閣下と、閣下の政府の支援による第六結集の偉大さと荘厳さに、タイ国民を代表して敬意を表明し、講演させていただきます。

 初めに、仏歴二千五百年を迎えた仏教の偉大さと崇高さを崇めるために、この素晴らしい結集を開催するに際して、ビルマのすべての方々が、気力と体力と財力その他を傾注してくださったことに、出家と在家すべてのタイ人仏教教団員の喜びを表明させていただきます。

 このような純潔と、テーラワーダ仏教の教えの永遠不滅のために開催することは、一般の人間だけでなく、五欲に陶酔している天国の天人も、私たちの事業を共に喜ぶために、しばらくそのような行動を停止するに違いありません。

 次に述べるのは、両国は昔から現在まで、テーラワーダの盤石な砦である誇りです。現在の地理学によれば、本当はタイのテーラワーダは、アーチャリヤ、あるいは大乗仏教と直面する危機を二度経験しています。一度はタイ最南端のシリウチャイ時代、そして国外から来た大乗を信奉する王によって、中部のある地域が統治されていたロップリー時代と呼ばれる時代で、期間は仏歴十一世紀から十二世紀の間です。

 いずれにしても、タイのテーラワーダは純潔清浄を維持伝承してきました。これも不死である教えの、真実の力によるものです。ビルマのテーラワーダは、たぶんこのような困難に遭遇したことはないと、私は考えます。このことに関しては、ビルマの仏教徒のみなさんが、タイの仏教教団員に対してご理解くださるよう、心から願っています。

 次の話は私たち両国の友好、交流における不思議な神聖さです。タイとビルマは先祖の時代からずっと仲違いばかりしてきたので、懐疑心のない友情など成立するはずがないと言う人がいます。私は、この言葉に失笑を堪える機会を頂戴しなければなりません。

 考えて見てください。仲違いをしていたのは煩悩で、私たちではありません。私たちは煩悩に支配されると、本来の自分でなくなってしまい、実の兄弟でも殺し合うほどの喧嘩をします。非常に愛し合っている夫婦も、血を流すほどの喧嘩をしますが、その後その夫婦に、何人もの遺産相続者が生まれることもあります。

 これはたった一つの重要な縁、タンマを尊重する基盤に立つ愛や友好が仲を取り持つので、壊れることがありません。両国は、ブッダによる素晴らしい縁の交流があります。つまりテーラワーダの素晴らしい教えによって、兄弟のように繋がっています。そして将来は、すべての疑惑をすっかり消滅させることができます。私たちにとってこれ以上の喜びはありません。

 私たちにとってこの世界に、テーラワーダの教えほど尊重すべき物はありません。仏教の教えが私たちの心を管理している間はいつまでも、四方八方、凶悪な復讐の嵐が、二度と形になることはありません。

 どうかみなさん、再び検証することなく、テーラワーダの教えを、心を管理する拠り所にしてください。以上の理由により、手を繋いでテーラワーダ仏教の純潔を維持することを、両国のすべての人の心の拠り所にすること、それが私たちの生き方であることは、どちら側の人にも明白です。これと違えば、私たちは死ななければなりません。身体面でも精神面でも、少なくとも死ぬほど苦になるのは、疑うまでもありません。

 バラモン教などの教えが混入した仏教宗派は、当然私たちにふさわしくありません。だから私は、テーラワーダ仏教の純潔と一致団結を強調しました。ですから第六結集で心を一つにすることの本当の中身は、当然テーラワーダの教えの盤石な基礎を維持することであり、直接両国の、そして間接的には隣国も含めて、それらの魂を育くむ宝の蔵があるのと同じです。

 開会の言葉で、一時間と限定された時間の中で、両国の生と死についてすでに述べました。これから、今日お話しする内容について、つまりテーラワーダの幾つかの不思議なことについて、時間の許す限り述べさせていただきます。

 どうぞ観察して見てください。私は「幾つか」しかお話しません。というのは、時間に限りがある上に、テーラワーダの不思議なことは、まだまだたくさんあり、太洋よりも深いので、私が全部を取り上げて話すことはできないからです。しかしいずれにしても、人類の幸福に関わる部分もあるので、その部分について、先に述べる努力をします。

 もしどこかの部分を煩わしく感じる方、あるいはそれ以上に感じる方がいらっしゃいましたら、どうぞご寛恕ください。私が述べる本当の意図は、共有できる平和を増やすことだからです。つまり本当に正しいテーラワーダの教えの理解に導くことを目指しているだけです。

(イ) テーラワーダ仏教は、本来の純潔な教えを維持していると世界に認められている宗派です。元の教えの厳格さを守るために、増やすことだけを認める規定があり、ほんの少しの削除や変更や改革も忌み嫌い、恐れてきました。

 私たちテーラワーダの不思議なことの最初は、現在確実に信じられていることは、どんな宗派の仏教も、自分たちの三蔵があり、そして初めの時代から次の時代へと、どんどん増やす一方だったということを知ってしまわなければなりません。これは、これ以上証明する必要のない、明白な事実です。

 私たちテーラワーダには、特に不思議なことがあります。ブッダは涅槃に入られる日に①、些細な問題は変えても良いと規定されたにも関わらず、どんな小さなことでも、あるいはどんな利益のためにも、教祖が規定した事を変更する正しい権利を与える規定がないことです。

 このように厳格なテーラワーダは、実にマハーカッサバがサンガの長であった当時、第一結集②の最終成果として、どんな小さなことも抜き取ることを防ぐために宣言した時から続いています。

 増やすことは、ほとんどの人が信じているように増やす一方です。古い物を厳格に護るため、あるいは称賛するために、元の物を同じ系統で説明し、解説するだけで、元の物と追加された物が常に並んでいます。ここがテーラワーダと、元の教えを多少は改革することがある他の宗派と違う点です。

 私たちテーラワーダは、時と場所、あるいは他の環境によってどんどん増やし、直接でも間接でも神やアートマンのある教義になり、元の教えが無くなってしまう、あるいはそれ以上に呪術やいろんな古い物になってしまうことはありませんでした。

 私たちはこのような行動を臆病と認めます。喜んでこのような行動を臆病と認めますが、かつての、そして現在のこのような臆病によって、テーラワーダの当初からの純潔清浄が維持されています。

 どうぞこのように臆病であり続けてください。増やすことがどんなに多くても、環境の部下でいるために、あるいは古い物が格別に厳格で優れていることを称賛するために、加える一方でなければなりません。

 何らかの出来事によって間違った物、偽物が混入しても、元の教えの内容と同じ形になることはないと、それ自体が証明しています。ブッダはマハーパテーシー(四大法教)と呼ぶ二つの教えを、さまざまな問題が生じた時に正誤を判断する道具として、毅然と規定されています。

 一部はタンマ③のために、もう一部は律④のためです。混入された物を、マハーパテーシー(四大法教)の教えで検証すれば、誰にも偽物が混入したとはっきり分かる状態になります。そして最後には自然に淘汰されます。どこかの経典の中に迷って残ったとしても、元からある教えと矛盾するので、誰も振り向かない状態になります。

 これがテーラワーダの不思議なことの初めの項目です。そしてそれは「比丘のみなさん。比丘たちがまだ規定したことのないものを規定せず、すでに規定したものを撤回しなければ、それは、規定した戒条を遵守続け、厳格に受け入れた分だけ発展が期待でき、それだけ衰退することはありません」という大涅槃経⑤のブッダの言葉に、しっかりした基礎があります。


(ロ) テーラワーダ仏教には、重要な教えである八正道があり、直接人間の生活に関わる教えであることが明らに分かります。これらの教えがなければ、世界中の誰も、普通に幸福に暮らすことはできません。あるいは危機を脱すこと、あるいは自身の涅槃に到達することができないので、世俗面と世俗を超えた面のどちらの結果のためにも、実践規範として使うことができます。

 どうかみなさん、躊躇うことなく、八正道を仏教の、特にテーラワーダの要旨として遵守してください。ブッダは「比丘のみなさん。私はこの八正道は梵行と述べます」と言われています⑥。仏教そのものという意味です。

 この八正道は正しくすること、あるいは個人が生活のいろんな場面で、生き方の美学と捉えなければならない八項目以外の何でもありません。つまり見解、考え、言葉、仕事、生業、努力、自覚、集中し安定した決意の八つを、正しくするよう努めることです。これが言葉の意味と一致する、ブッダ技術と呼べる唯一つの物です。

 この教えは、普通に思慮分別のある人が到達できる⑦範囲にあるので、ブッダはこの八正道をエーヒッパシコ(来て見るべき)と、つまり誰にでも開かれている、あるいは誰でも来て実践しなければならないと、言われました。ブッダはこのタンマを「道」あるいは「流れ」という名誉な言葉で讃えています。

 その川底は自然に涅槃へ傾いているので、流れに入った人を直接涅槃へ流れ着かせます。不思議に、避けようもなく、そのようなります。だから真実、すべての人にとっての涅槃への道です。


 八項目の初めの項目、考えの面の正しい行動、短く言えば「正しい見解」は、当然智慧、あるいはすべての種類の正しい理解の集積です。

 ローグッタラの智慧、直接苦と滅苦に関わる四聖諦⑧、すべての物が順々に生じる縁起と呼ばれる互いに加工する法則⑨、三相と呼ばれる「無常・苦・無我」の絶対不変の状態の話、そしてカンマ、あるいは因果の法則などすべてを洞察できれば、同じ結果である涅槃、すべての世俗の物への倦怠が生じます。

 その上正しい見解という言葉には、人をすべての種類の世界の幸福に至らさせることができる、善である世界の智恵まで含まれます。

 ブッダはこの正しい理解(正しい見解)を、人の心を鼓舞するように「あらゆる善の夜明け」と呼ばれ⑩、そしてもう一つ、涅槃、あるいはすべての苦の絶滅の前兆である「四聖諦を洞察する夜明け」と呼ばれました。夜明けが昼の前兆であるように、その後確実に涅槃が訪れます。

 「正しい見解」、あるいは完璧に正しい理解があれば、誰でも続いて、当然「目的」「言葉」「仕事(業)」「生業」「努力」「身を守るサティ」「専心」のすべてが正しくなり、適当な期間を経れば、すべての苦からの脱出に到る、という真実が見えます。この真実は、パーリ(ブッダの言葉である経)・アングッタラニカーヤ(増支部)で、「すべての苦から脱出した人は、正しい見解を遵守している」と述べられています⑪。

 ですからブッダは正しい見解を「解脱の夜明け」と讃えられています。だから結果は、ブッダが私たちに極めて偉大な、驚異的な希望をくださったのと同じです。私たちは急いで、ブッダのご慈悲に対して、勤勉と精通で八正道の初めの項目である正しい見解を満たす努力をするべきです。

 大きな希望は、ここで「正しい見解」と正しく呼ぶ明らかな考えを生じさせるために、本気で熟考すれば、特に意図しなくても、いつでも同時に、その明らかな考えと比例して、多少のアナンタリヤサマーディ(無限禅定)と呼ばれる禅定と同種のサマーディが得られることです。

 自然の法則では、自然に生じるサマーディなしに何かを熟考できる人は誰もいません。自然の普通の動物の考えは、生じるサマーディも普通の物で、秩序ある熟考、あるいは体系的な熟考なら、生じるサマーディも秩序がある物、学問体系の物のようになります。更に正しい見解にするための熟考なら、その時のサマーディは自分を高くし、自然に正しい見解を生じさせる十分な土台になります。

 正しい見解が欠けてしまえば、どう熟考していいか分かりません。すでにある正しい見解の力は、いつでも、その時自分の義務を行っているサマーディの力を増進させ、新たに生じたサマーディも一緒になって、これから生じようとする正しい見解の力を増進させます。

 これについてブッダは「定は智慧のない人にはなく、智慧は定のない人にはない。定と智慧がある人は、涅槃に近い」と言われて⑫います。この二つは互いに支え合う縁なので、智慧がなくて定がある人、あるいは定がなくて智慧のある人はいません。自然にそうなります。

 自然にそのようになる例は、弓を射ることで見ることができます。人が弓を構えて的を狙えば、その人にサマーディを生じさせる意図は必要ありません。サマーディを生じさせる意図は、狙うと同時に、自然にそうなります。矢を正しく射る知識が確かなら、狙う時のサマーディも自然に強くなります。知識や確信は、当然いつでも、サマーディの力を増進させます。同じように、自分が目指す解脱の価値の正しい理解は、当然サマーディの力を増します。

 他になりようがありません。そして先ほど述べた「定は智慧のない人にはない」という言葉と一致します。ですから、更にサマーディを生じさせるために、熟考する力を掻き集める努力をしてください。その行動が、熟考にふさわしい十分なサマーディを集め、同時に新たに生じさせます。普通は、良い衛生と知性がある人なら、当然、非常に満足できる状態でそのようにすることができます。

 サマーディ全般に関して、ブッダはパーリ・アングッタラニカーヤ(増支部)⑬で、四種類あると言われています。

(1)現在、現世で生きているうちに、最高の幸福を味見するためのサマーディで、初禅など四つの形禅定に励むこと。

(2)天眼の一種であるニャーナダッサナ(智見)を生じさせるためのサマーディで、アーローガサンニャーとティワーサンヤーに励むこと。

(3)サティと知性を完璧にするサマーディ、ヴェーダナー(受)とサンニャー(識)とヴィタッカ(尋)の発生と存在と消滅を熟視、熟考すること。

(4)四つすべての煩悩を消滅させるサマーディで、取がある五蘊の発生と崩壊を熟視、熟考すること。

 この話から、四種類のサマーディの四番目が、経の処々で述べられている智慧、あるいは正しい見解を生じさせる実践と、明かに見えます。この種のサマーディに励むことは、直接智慧を発展させることと、実に明白に見えます。この項目は「サマーディをする」という言葉は、ただ四種類の定を意味する一般的な解釈より、広い意味があるという見せています。

 だから本当の実践の教えのサマーディは、智慧、あるいは正しい見解と切り離すことができません。テーラワーダの教えのサマーディは、目的つまり解脱に向かう智慧と、常に一緒でなければなりません。それはひけらかされることなく、密かに、ヴィムッティ(解脱)になります。ほとんどの人が理解しているような、ただ静かに座ること、そして連続して座ることではありません。

 パーリの至る所にある、直接八正道のサマーディは、ブッダは四つの禅定と明示されています。パーリマハーカッターリーサカ(大四十)経で「何が正しく、何が誤りかを良く知り、正しく知る、正しい見解に囲まれた、あるいは導かれたエーガッターチッタ(専心した心。一境心)」と言われています⑭。ですから「正しい」という状態のサマーディになれるのは、正しい見解による物でなければなりません。

 そうでなければ四つの禅定は、仙人や修行者等の、他の教義の禅定になってしまい、八正道の項目の一つになることはできません。そして仏教教団員の最終目的である、涅槃に導くことはできません。この真実により、正しい見解と正しいサマーディは、常に手を繋いで、どこへ行くにも一緒でなければなりません。そうすれば正しいテーラワーダの教えになります。

 更に不思議なことは、正しい見解、あるいは正しい理解がその義務を行なっている時は、八正道の残りの六項、つまり「正しい目的」「正しい言葉」「正しい行動」「正しい生業」「正しい努力」「正しいサティ」を実践するうえで、何も問題がないことです⑮。

 正しい見解の自然は、当然すべての物を、何が正しか、何が誤りか、何ができるか、何はできないか、何はするべき結果があるか、そして何はするだけの価値に見合う結果がないか、何をどのようにするべきかなどを、良く知ることができます。

 その上正しい見解で正しく見る力は、当然その人の知識を、正しい知識体系にします。避けようがありません。だから正しい見解によって正しい目的にすることができます。そして正しい目的だけがあり、言葉は正しい発言だけになり、行為(カンマ)はすべて正しい行為になり、生活は正しい生活だけになり、努力は正しい努力だけになり、サティは正しい方のサティだけをします。

 避けようがあり得ません。述べた理由により、正しい見解の力で、残っている六項目の実践は困難でなくなります。

 別の角度から熟考して見ると、戒の項目である「正しい言葉」「正しい仕事」「正しい生業」は、慙愧や根律儀(六根を慎むこと)など、十分それを支援する他のタンマがなければならないと見えます。支援するタンマである正しい見解があれば、不思議なほど簡単に戒を持すことができます。

 サマーディの項目である「正しい努力」「正しいサティ」「正しいサマーディ」の、これらのタンマも、カーヤパッサッティ(身軽安)などの支援する働きがあるタンマを必要とします。これらのタンマも、正しい見解で簡単に持つことができます。

 正しい見解は旅のプログラムを作り、そして他の聖向すべてを具えているので、ブッダはパーリ・マハーカッターリーサカ(大四十)経で「先導者」と名誉な名で呼ばれています⑯。智慧の項目である「正しい考え」と「正しい見解」も同様に、正しい見解の先導で達成させなければなりません。

 特にローグッタラ(世俗を脱す話)の正しい見解は非常に面倒見が良く、この種の正しい見解は、先ほど述べた他の六項目、あるいは正しい見解を含めた七項目から生じるすべての問題を排除することができます。冒頭で述べたローグッタラの四つの正しい見解から生じる明らかな考えは、「自分にとって、欲しがる物は何もない。なりたがる身分は何もない」と、要約できるかも知れません。

 実践者の心が、述べたような「欲しい物は何もない云々」という教えがある正しい見解で満ちていれば、誤った見解、誤った考え、誤った言葉、誤った仕事、誤った生業、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディは、当然その人の心に生じる隙はありません。更に確実なのは、その種の心は、すべての誤りからすべての正しさに、完璧に傾いて行きます。

 そして最後に「滅尽」、つまりどの世界の何物にも執着しない威力で、すべての苦と、その原因も含むすべての完璧な消滅である「涅槃」に到達するまで進歩します。ここに至れることは「私にとって、欲しがる物は何もない。なりたがる身分は何もない」という正しい見解の威力で生じます。

 これに関わる極めて不思議なことは、この八正道は、世界に阿羅漢が欠けないようにすることができることです。この真実についてブッダは、涅槃に入られようとする夜に「スパッダさん。これらの比丘のすべてが正しく生きれば、この世界は阿羅漢が欠けることはありません」と言われています⑰。「正しく生きる」とは、八正道の八種類の正しさを意味します。

 ブッダは同じ時に「八正道のないダンマヴィナヤには、当然一、二、三、四のサマナ、つまり預流、一来、不還者、阿羅漢はいない」と言われているからです。そして「八正道は、ブッダのタンマヴィナヤにある」と言われているからです。

 なぜ八正道は、世界に阿羅漢が欠けないようにすることができるのでしょうか。この真実は、誰でも簡単に見ることができます。誰でも八項目の正しさで生活すれば、正しい理解(見解)等があり、極めて正しい決意があれば、その人の生活には、あらゆる種類、あらゆるレベルの煩悩の餌がないので、目・耳・鼻・舌・体・心のすべての餌を断たれ、兵糧攻めに遭った煩悩は、最後は痩せ細って餓死してしまうからです。

 誰でも八正道の教えで生活するだけで、煩悩は餌を断たれて死滅します。煩悩がなくなれば初めのサマナ、預流と呼ばれる段階であり、当然避けようもなく、四番目の阿羅漢まで昇って行きます。だからすべての人にとって偉大な希望ということです。初めのサマナに到達するために⑱努力するのは、誰にとっても不可能ではないからです。

 「私にとって、執着するほど夢中になる物は何もない。欲しがる物は何もない。なりたがる身分は何もない」という真実を熟慮して心を明るくすることが、心をすべての物から隔離し、滅尽に傾かせ、正常な暮らしにします。何も束縛する物がないからです。

 この真実に確信があれば、それ自体が非常に正しい理解なので、目的も自然に涅槃に傾き、言葉、仕事、職業、努力、サティとサマーディも誤る余地はなく、極めて正しくなります。そしていつでも、最高に正しい八正道になります。いつでも、終始煩悩の餌を断つことであり、最後には煩悩が減って、いずれかの段階のサマナ、あるいは最高の阿羅漢に、本当になることができます。

 これが誰でも十分できる方法で、世界に阿羅漢が欠けないようにする八正道の不思議の、最後の項目です。非常に誇らしい、私たちテーラワーダの不思議なことの二番目と見なします。


(ハ) テーラワーダ仏教は、神様と呼ばれる物の威力も含めて、あらゆる種類のでっち上げる威力を超えることを目指しています。これらをまとめれば三種類に、つまり創造する威力、管理する威力、破壊する威力に分けることができます。生まれず死なない自然の涅槃は、この三つの威力を超えているので、私たちテーラワーダでは素晴らしいタンマと見なします。

 いろんな教義の教典が、いろんな状態で説明している神様という言葉を、仏教教団員の教えと比較すると、三種類にまとめられます。創造主である神様、管理する神様、そして破壊する神様で、創造主である神様は、世界やすべての物を造る時であり、管理する神様は、威力で経過するように維持管理している時であり、そして破壊する神様は、一つの時代毎に世界を破壊する時です。

 そのようにする威力がある間は、人の心を超えた成り行きになります。あるいは人間が神様を信仰、あるいは執着すればするだけ、その人たちは造られ、管理され、破壊される人になります。この三つの威力を一人の神様に預けている宗教もあり、三人あるいはそれ以上の神様に分けている宗教もあります。

 しかしこれは考えなければならないほど重要ではありません。重要なことは、一人の神様でも複数でも、神様を信じている人は、神様を祭って祈る義務があるという点です。

 このような神様と呼ばれる物の三つの威力の下にいること、その神様の天国で暮らすことも、仏教教団員は決して誇らしいこと、あるいは自由、あるいは解脱、あるいは涅槃と呼ばれる完璧な苦の消滅と見なしません。

 このような三つの威力の下に陥っていることは、まだ変化する威力の下にいることであり、「輪廻の輪の中を循環しなければならない」と言われます。まだいろんな物の管理下、影響下にあり、少なくとも純潔な心の「存在しない」自由、あるいは「生存しない」自由がなく、自分が望む世界に生まれて、永遠に暮らしたい希望の下にいます。

 果てしなく繰り返す創造と支配と破壊の循環から抜け出すことを目指す人である仏教教団員は、そのような天国を手に入れることは初歩すぎて、あるいは低すぎて、受け入れ尊重することはできません。これらの人々は、天国に永久に繋がれることも束縛と捉え、最高の自由、最高の脱出、束縛からの究極の解放を求めます。

 本当に最高に束縛がないことは、本当に最高の平安である、支配する威力が何もない状態で、どれも現世で手にすることができます。創造と支配と破壊の威力はすべての束縛であり、人間の束縛と天国の束縛から自由になった心にとって、何の威力もありません。ブッダの導きの下で、仏教教団員は次の真実を熟慮して見ます。

(1) 創造主という名のいろんな物を造る自然の威力は、無明(何が苦か、何が滅苦かという知識に欠ける状態)であり、「無明が縁で行があり、行が縁で識があり」等々、パーリ(ブッダの言葉である経)で言っている順に、いろんな物を作り出す働きがあり、その結果煩悩に満ちた人間が生まれ、そして世界をいろんな危機で混乱させます。

(2) 何処も彼処も支配する神様という名の、すべてを維持管理する自然の威力は、自然の教え、あるいは別の呼び方では因果の法則と呼ぶ法則、まだ善悪という執着の威力下にいる人や動物を、それ自身の無明でこの法則に縛り付ける法則です。

(3) 破壊する神様という名の破壊する自然の威力も同じ、三種類の欲望の形の無明です。それは世界の動物を、欲しがること、掻き集めること、愛欲に夢中になること、金持ちになることや、慚(罪を恐れること)と愧(罪を恥じること)がなく権力を求めることまで、欲望で煮えたぎらせます。

 私たちテーラワーダは「人間でも人間以外でも、世界で何かを作って、その威力下に縛り付け、渦を巻いている水に落ちたように果てしなく苦の中を回転しなければならないよう支配し、そして破壊する威力を生じさせる物は、いろんな形があっても、すべては無明でしかない」と洞察する方法があります。

 次に私たちは、作られた人間である私たちの義務は、創造と支配と破壊する威力、つまり先ほど述べた無明ですが、それを根こそぎ断つために闘うことです。私たちは神様の慈悲に身を委ねることはできません。神様には、創造して支配して破壊し、そしてまた際限なく、新たに作る義務があります。神様を一人の神にすれば無明で、三人ならアビサンカーラとカンマと、欲望です。

 ブッダが説かれた八正道の実践によって、無明の天敵である「明」と呼ばれる物を作ることができます。明こそが、すべての物を真に正しく見せる物です。

 そして私たちの心に世界を超える智慧が生じ、「どこの世界にも、執着するべき物は何もない。神様の天国にも。どんな世界にも、なりたい状態はない。自分自身も、本当は無明から生じた自分という執着の幻想でしかない。何かになろうと探求する必要はない。神様にも、神様の天国の動物にも」と、最高の真実が見えます。

 私たちに「自分」があるのは、誤った見解の仕業以外の何物でもありません。誤った見解から心が純潔になれば、その時「自分」という気持ちも消滅し、残るのは純粋な心だけで、それはすべての神様の創造する威力を超えています。

 純潔な心は何も求めず、ならなければならないどんな状態もなく、いるべき界もなく、剥がなければならない束縛もなく、そして背負って行かなければならない「自分」もありません。だから誰かに助けを求める必要がなく、誰かの機嫌をとる必要もありません。

 以上の理由で純粋な心は、創造も支配も破壊も、すべて含めたすべての神様の創造力、支配力の圏外にあります。これが最高の自由、最高の解脱、最高の束縛からの脱出、そして最高のすべての苦の消滅です。これは現世で実現でき、弥勒菩薩の世界、あるいはどのような神様の天国も待つ必要もありません。

 これがテーラワーダの涅槃、あるいは人類の本当に素晴らしいタンマです。これは、人間が現世で実現できる最高の利益です。そして「ブッダの人は涅槃を素晴らしいタンマ、ボロマタム(梵法)と言う」と言われたブッダの言葉⑲にふさわしいです。これはパッチャッタン(自分自身で知ることができる物)で、知ることができ、理解できるのは自分が到達した時、そして人々にアヘンを配る教義に夢中になっている人々の理解を超えた時です。

 テーラワーダ仏教には、どこにも神様の国、天国はありません。三宝、つまり本当に純潔な心の静寂、清明、清潔さ以外に、実体のある神様、あるいは人々を執着させるその他の物はありません。その人の心を明るくするために、神様に代わる三宝がその人自身の心にあります。以上の理由により、テーラワーダ仏教は、誰も「大衆の麻薬」と分類することができない状態にあります。

 テーラワーダのタンマ大使の事業は、軍隊がなくても、撒き餌をしなくても、あるいはどんな見返りや、物質主義の華やかで賑やかで楽しい儀式が何もなくても、実践を試して見るだけで味わえる「タンマの実践の味」によって、あるいは一回聞いただけでも理解できる道理があるので、維持することができます。

 世界の宗教史は、いつの時代でもこれを十分証明しています。これが「人類の麻薬」であることから離れることができた、テーラワーダの不思議の三つ目です。


(ニ) テーラワーダには、他の教義が忠誠心だけで執着する外部の神様の代わりに、智慧による到達の基礎である、自分自身の内面にある種類の三宝があります。だから忠誠のための神様でなく、智慧のための神様がいます。

 「他の教義の神様に代わる」と言うことができるテーラワーダの三宝には、熟慮して明らかにしなければならない次の二つの意味があります。

 初心者のための初等の、外側の三宝の意味は、数えれば三種類です。

(1)ブッダ。自分自身で悟って知り得たことを他の人に教えた人という意味です。

(2)タンマあるいは、ブッダが悟り、教えた真実は、教え、実践し、実践する人の解脱のために明らかにしなければならない物です。

(3)僧はブッダの教えを聞き、そして理解し、実践して、ブッダと同じように、いろんなものが明らかに見える人たちです。

 要約すれば、ブッダはタンマを大悟して教えた人であり、学習・実践・結果の形があるタンマは、明らかにして、次々と継承しなければならない物で、僧はブッダと同じ結果を目指して、ブッダに倣って実践する人です。述べた三つの状態である宝を「プッティカ トリームラティ」あるいは「三つの現象の神」と呼ぶことができます。少なくともこの場合はそう名付けることができます。

 私たち仏教教団員の考えを、他の教義の考えに例えれば、神様(この場合はブッダの資質)とは、神様①、神様と呼べる何らかの物②、そしてある人々を神と同じ性質に到達させることができ、そして神と同じ物に到達できる、あるいは将来確実に到達できる物③の、三種類を一つにまとめたものです。

 しかし高い知識と見識がある人の三宝は、「エーキープータムパナッタトー」という教えを基準にした内面の価値を捉えるので、一つだけです。深い意味を掴めば、三宝はこのように一つです。一つの物とは「清潔、清明、静寂のボロマケームタム」の状態です。(便宜のために略して、三Sと呼ぶことができ)、心があらかじめ決めておいた段階的な純潔に達した時、その時心に現れるものが本当の三宝です。

 あるいは、時を限定せずいつでも、ある人をブッダと呼ばせ、あるグループをサンガと呼ばせ、そして自分をタンマと呼ばせる三宝の、心臓部です。

 なぜ私が、後者の例のように述べるのかは、大悟して教えた人物について考えると、「大悟して、先ほど述べた三Sである、素晴らしく安全なタンマに到達させるために教えた」という真実に出合うからです。そしてそれは、常にブッダの御心の神髄としてブッダの心にあります。ブッダの心のすべては、それだけです。

 ブッダは、煩悩の代わりにそれがあるので「ブッダ」と呼ばれます。それがブッダの心になければ、ブッダの意味はありません。その大事な物がボロマケムタムで、ブッダであった生身の人間ではありません。心と、心の受け皿である身体は、ただの外皮、あるいはボロマケムタムの容れ物でしかありません。

 ブッダが知られ、そして教えられた物について述べれば、みなさんは、それはブッダの御心に常にあった三Sであるボロマケムタムと見えます。もう一つ言えば、この場合明白に見なければならない三つの重要な物があります。

(1)論理面で教えられてきたのは、ボロマケムタムになる方法、あるいは理論です。

(2)実践面で実践されているのは、ボロマケムタムになるための実践です。そして最後の

(3)は、これ以上に良い言葉がないので、「洞察面」と勝手に呼ばせていただき、洞察するものは、三Sのボロマケムタムです。

 以上の理由により、ブッダが探求し、発見し、実践し、実践の結果を受け取り、そして教えられた物は、三Sであるボロマケムタムの状態以外の何物でもありません。ですからボロマケムタムこそが、正しい意味で本当のタンマです。そして地図のような学習と実践があり、地図に従って歩き、そして実践の結果、真実を明らかに見ることが旅の終わりです。

 タンマを聞いて理解し、ブッダと同じ結果を受け取るまで実践する人たちは、自分をボロマケムタムの状態に到達させる理解がある人たちであり、ボロマケムタムの状態に到達するために実践する人たちであり、そして最後にボロマケムタムの状態に到達する人たちで、彼らの心には生涯、常にこれだけがあります。  彼らが理解し、実践し、そして明らかに見た物は、彼らの心にあります。本当の「僧」であるものは、体と心だけではありません。容器である身体と心は、たぶん外皮、あるいは元から のボロマケムタムの状態を受け取る容器でしかありません。

 述べた理由により、三Sであるボロマケムタムの状態だけが本物の三宝である、ブッダ・タンマ・サンガです。自分の心をボロマケムタムの状態にできる人は、本物の三宝の三つ全部を、同時に持っていると言われます。一つの物の三つの状態が、自分の中に厳格にあり、本当にその人の物であり、他の物になることはあり得ないからです。


 まとめると、外面的な意味が三つある三宝も、初めに話したように深い意味で数えれば一つの物でも、同じように最高の物である神様を信じる宗教教義の、神様に代わる物です。このような形の三宝に到達した人は、神様と同じ物に到達したと言われます。

 しかし仏教教団員の意味の神様で、何物も作り、支配し、破壊する義務はありません。これが私たちテーラワーダの神様で、望むなら、先ほど述べた方法で智慧で到達する神様であり、忠誠、あるいは信仰で信じるだけの神様ではありません。これがテーラワーダ仏教の不思議なことの四つ目です。

 生老病死を共にするみなさん、残り時間も少なくなくなりました。この機会に、私たち両国は、命と精神を養うものとして、また友好を維持する道具として、純粋なテーラワーダ仏教がなければならない、と結論させていただきます。私たちテーラワーダの教義は、学者の世界では誰もが認めるところですが、元来の純潔を維持しています。

 そしてこれからも大切に掌握されていくものです。教義の核心である八正道は、誰にも不可能でない状態で、世界に阿羅漢が欠けることがないようにすることができます。正しい方法で実践すれば、軽い物が水に浮いて海に流れ着くように簡単です。世俗的にも、ロークッタラ(世俗を脱す)のためにも、信頼して使える教えです。

 私たちは、すべての煩悩の、創造と管理と破壊の、計り知れない威力を超えることを目指します。つまり、生まれず誕生せず死なない自分があることへ、あるいはどんな神様の世界に住むことにも傾かない、テーラワーダ式の涅槃への到達です。私たちは煩悩が消滅した心の「清潔・清明・静寂」の種類の、本当の三宝があります。他の教義の神様に代わる拠り所であり、崇拝する物です。

 私たちの行動は常に自立でき、明らかな理由があり、本当に人生に必要な利益を与えるので、誰も「大衆の麻薬」と言える範囲にありません。そして物質主義と闘う、あるいは本当に威力を無くすことができます。

 私たち誰もが知り、理解し、実践し、実践の結果が明らかに見える状態であり、そして物質より高い精神の話と、すべての世俗の話より深遠なローグッタラ(脱世俗)の話を理解できる十分高い心があるので、本当に教え、継承して行くことができます。

 私は他の言語のことわざを知らないので、タイのことわざで「私たちはサイであってはならない」と言わせていただきたいと思います。サイはローグッタラタム(世俗を超えるタンマ。第一義諦)の美しい笛の音、休みなく奏でている美しい演奏を聞くことができないので、私たちがサイなら、聞こえません。

 西暦紀元前五百年余りの頃、世界から哲学の森と見なされていたギリシャで、ヘラクレス(Heraclitus)は笛を吹いて、たくさんの自分のサイたちに聞かせました。ブッダの時代と同時代で、何年も違わない時に「ペンタレー、すべては流れる」という彼の論理を宣伝しました。

 要旨は「すべての物、あるいはまとめて世界と呼ばれる物は、絶えず継続して流れているだけで実体は何もない。あるのは変化だけ。どの部分も消滅しようとしていて、絶えることなく続いている。燃え上っている炎の連続した消滅のように」です。

 私たちの「ペンタレー、すべては流れる」は、ブッダの「すべての行は無常である」です。しかしそこにいたすべての人は、聞いて意味が分からないばかりか、変人と非難しました。というのも、当時のギリシャ人は物質的哲学のサイ以外の何物でもなかったからです。そのサイたちは世俗を超える話を聞いても理解できませんが、現在まで世界中から哲学の国と讃えられています。

 みなさん、ブッダのローグッタラの歌を聞いて、意味が分かり、理解できることを誇りに思ってください。私たちは庶民の麻薬である教義のサイになるのは容認できません。人間の国でも神の国でも、物質である結果だけを期待しているのは確かだからです。

 テーラワーダの哲学は、厳格に精神主義でなければならないので、結果である涅槃、つまり惑溺の基盤である、創られ、支配され、破壊されることを果てしなく繰り返す、すべての威力を超えることを目指します。

 私たちの国は僧衣で黄金色に輝いています。それは創造主、支配者、破壊者の威力を超越している人の標であり、智慧あるいは明るさの象徴であり、すべての苦を完全に消滅させ、二度と苦が戻ってくることがない純潔の印です。

 以上が「テーラワーダの素晴らしい教えの不思議」のまとめであり、みなさん全員がテーラワーディンであることの不思議です。みなさん、塩が自らの塩辛さを維持するように、私たちはこの美徳を永遠に維持しまなければなりません。

註:

① 長部マハヴァッガ 大涅槃経 10巻/178頁/141項

② 論蔵 バンチャサティカカン チュラヴァッガ 7/385/630

③ 長部マハヴァッガ 大涅槃経 10/144/112

④ 論蔵マハーヴァッガ 5巻/131頁/92項

⑤ 長部マハヴァッガ 大涅槃経 10/91/70

⑥ 相応部マハーワーラヴァッガ 19/31/112

⑦ 長部マハヴァッガ マハーコーヴィンダ経 10/285/234と 

  相応部マハーワーラヴァッガ  19/23/69 と 

  増支部チャトゥカニバータ 21/329/245

⑧ 長部マハヴァッガ 大涅槃経 10/348/299

⑨ 相応部ニターナヴァッガ 16/21/44と増支部ティカニカーヤ 21/227/501

⑩ 増支部ダサカニバータ 24/254/121と相応部マハーワーラヴァッガ 19/554/1720

⑪ 増支部チャトカニバータ 21/68/49

⑫ 小部ビックワッカ  25/65/35

⑬ 増支部ローヒタッサワッガ チャトゥカ  21/57/41

⑭ パーリ語中部ウパリパンナーサ マハーチャッタリーサカ経 14/180/253

⑮ 増支部ダサカニバータ 24/254/121

⑯ 中部ウパリバンナーサ マハーチャッターリー経 14/180/254

⑰ パーリ 大涅槃経 10/176/138

⑱ 相応部マハーワーラヴァッガ 19/465-6/1511-2

⑲ 長部 マハーヴァッガ マハーパターン経 10/57/54




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