9.素晴らしい仕事





1989年8月13日

 タンマにご関心をお持ちのみなさん、私は「楽しく働けば、働いている間中幸福」というテーマで、繰り返しお話してきました。今日はもっと凄い「素晴らしい仕事」です。

 このような明け方の、素晴らしい時刻を選んでお話をします。眠りを貪っている人は、素晴らしくありません。しかし起きてこういう使い方をすれば、今まで見たことがない新しい世界に出会えます。明け方はブッダが大悟した時刻ですから素晴らしい時刻です。

 すべてのブッダ、あるいは大切な教祖であるブッダの身体にとって、素晴らしい時刻と理解します。人間が一番休息して、新しい一日が明けた時には、闘う準備が整っています。元気があって明るく澄み切っているので、その価値に見合った使い方をします。しかし眠ることに興味がある人たちは、あまり賛成しません。

 この素晴らしい仕事は、楽しく働く、あるいは幸福に働くより高いです。素晴らしいという言葉は幸福より上です。良く聞いてください。しかし幸福も並大抵でなく、非常に満足でき、次に楽しさもあります。楽しく働くこともでき、幸せに働くこともできます。

 そして今、素晴らしい仕事をする段階になりました。自分の仕事、あるいは他人の管理下での仕事、どんな形の雇用者、労働者も、自分自身の仕事、学生として勉強をすることも、すべて仕事と呼びます。

 次に楽しく働く最初の段階についてお話します。人々は首を横に振って信じませんが「スポーツをするように楽しく働く」と主張させていただきます。彼らは、心の有りようとかけ離れていると言います。物質主義に偏りすぎているので、これらの言葉が理解できません。これはむしろ精神面の言葉です。

 みなさんが働く時、勉強でも、天秤棒を担ぐ労働でも、田畑の仕事でも、すべてそれ自体の中に闘いがあります。したい気持としたくない気持の、勤勉と怠慢の闘いがあります。仕上げたい気持と、放り出したい気持の闘いがあります。最後までし遂げたい気持の一方で、寝たい気持もあります。

 みなさんはスポーツをする人であり、試合を楽しむ選手であり、スポーツ観戦者でもあります。見るのも楽しいです。そしてみなさんは審判で、自分で勝ち敗けをが知ることができます。審判まで兼任して、楽しくないことはありません。心をそうできれば楽しいです。同時にスポーツ選手であり、観戦者であり、審判でもある。このようにできます。

 考えて見てください。畑仕事、果樹作り、何をしても疲れて汗が長く流れ落ちます。そういう自分はどうか見て、最後に自分自身で、勝ったか負けたか、つまり仕事を投げ出して寝てしまったか、あるいは最後まで続けたかを知ります。最後までやれば、試合に勝ったと言います。

 観戦者でもあり、審判でもあります。こういうのを楽しく働くと言います。勉強も楽しく勉強し、照りつける日差しの下で土を耕すと、汗が筋になって滴り落ちますが、それでもこのようにします。従業員でも労働者でも何でも、このように良く働きます。

 自分は雇われ人だという考えを止めれば、世界を美しくできるとお話したことがあります。田畑の仕事も果樹作りも、この世界を価値ある物に、美しい物にできます。商売をする人も世界を美しく、便利で快適にすることができます。天秤棒を担ぐ労働者も、この世界を便利に美しくすることができるので、心は労働者より高いです。

 天秤棒を担ぐ労働者も、世界を便利で美しくするので、心は労働者より高いです。給料を貰ったら、賃金と捉えないで経費と捉えます。みんなで力を合わせて世界を美しくするために貰った経費です。

 従業員と雇用者というのを拡大していくと、果てしなく闘争している資本家と労働者の二つの派になります。雇用者と労働者がいれば、必ず有利になろうとする闘争があります。このように「俺とお前」の対立をしていれば、世界に平和はありません。

 労働者と資本家がいれば、世界に平和はありません。止めてしまいます。どちらの側も、生・老・病・死の友、同じように苦と闘う友達です。そして協力し合ってこの世界から苦を無くし、美しくします。そうすれば二つの立場で対立しません。みんな一緒、一つです。

 俺とお前の二派に分かれるのを止めて、生老病死の友になり、そして一つになれば、闘う相手はいません。考えてみてください。相手より有利でいたい、どこからでも誰からでも何でも奪おうという両者が一つになれば、それが世界の平和です。物質的にも肉体的にも、精神的にも智慧の面でも、どんな面でも苦しめ悩ます物はありません。

 これを「解決して仕事を徳や善にしてしまう」と言います。汗が出たら聖水であり、苦の水ではありません。俺、あいつという考えがあれば闘争で、穏やかでなく、熱い水の汗が出ます。幸福に働けるのは、汗は聖水だからです。

 義務という言葉は、最高に素晴らしい言葉です。しかし義務を知らない人は首を横に振って、義務が最高の物か? 死ぬほど疲れ、どう最高か? どこが素晴らしい?と考えます。

 そう理解している人は、あまり義務をしないで、あれが欲しいこれが欲しい、ああしたい、こうしたいと、人々がしているように権利の主張ばかりします。まったく義務を考えない人もいます。これは最高のバカです。義務は必ずあります。最高に正しく義務を果たせば要求する権利があります。

 最高の物と言われる義務について考えてください。聞いたことのない人はたぶん理解できません。聞いたことのある人は、義務と呼ばれる物はタンマと理解しています。タンマという言葉は義務という意味です。タイ語では義務、パーリ語ではタンマ、同じです。

 ブッダが大悟してブッダになったばかりの時、今後誰を尊敬するのかという疑問が生じました。誰を尊敬するか。すべてを悟ってブッダになり、これからは誰を尊敬するか。何度も考えた後、そうだ、タンマを尊敬しようと納得しました。タンマ、つまりブッダ自身の義務です。

 ブッダにはどんな義務があったでしょうか。すべてのブッダ、過去、現在、未来のすべてのブッダは、タンマを、つまり義務を尊重しています。義務は最高の物でしょうか。最高の物ではないでしょうか。

 みなさんはブッダを、最も尊い人と尊敬しています。その方にも尊敬するべき、まだ上のものがあるのか、考えてみてください。だからタンマ、あるいは義務と呼ぶ物は、ブッダより更に崇高です。なのになぜ人は義務を尊重しないのでしょう。義務を尊重すれば、最も崇高な物を尊ぶことに満足します。

 次に義務という言葉を見てみます。ブッダはみなさんよりもっと義務を尊び、義務を遂行しました。みなさんはたった八時間しか義務をしませんが、ブッダは常に、生涯、最期の一瞬まで、義務を行いました。ブッダの義務は、人類が苦から抜け出す手助けをすることです。

 みなさんが認める、あるいは良く知られている話では、ブッダは朝から晩まで日課である義務を行いました。このような明け方に目を覚まし、『世界を照らす狙い』と言われる「今日はどこへ誰を救いに行こうか」と考えました。ブッダは、どこの誰がどのようか、どこの金持ち、どの百姓、どこの王様、どこの貧民がどうしているかが観察して見ていたので、今日はあの人を救済しようと決めました。

 夜が明けると、ブッダはそこへ出掛けました。会って話をするために、托鉢に出掛けました。ブッダの時代の托鉢は現代とは違い、行って乞います。だから会って話す機会があります。時には家に招じられ、その家で食べることがあるので、話す機会がありました。ブッダは正午、あるいは昼前までブッダの義務をし、そして寺へ帰りました。

 正午頃、寺に帰り着く前に、どこかで少し休憩するだけで、午後寺に戻ると、寺に来て待っている人に教えます。寺に訪ねて来る人もいたので、夕方まで教えました。

 陽が落ちると比丘やら沙弥や何やら、寺に常住する人達に教えました。宵の口には比丘に教え、深夜には天上の天人や、天人と仮定した王たちの問題に答えました。天人たちは午前零時ころ、ブッダを訪ねて来ました。

 こういう話があります。ある王が松明隊と一緒にブッダを訪ねました。つまり松明を持った人が隊になって従っていました。その王は敵が多いので、どこかへちょっと出かけるにも、それほどの護衛が必要でした。夜中に寺へ出かけるにも松明隊付きです。王は身分が高いので、これが天人、つまり汗を流さない人です。夜更けには天人の質問に答えました。

 午前零時すぎに、ほんの少し休息すると、まもなく明け方です。夜明け前には世界を照らす狙いをつけ、またそこへ出掛けました。二十四時間で一巡りします。ブッダは私たちのように八時間労働ではありません。私たちは、八時間働かない人もいます。

 ブッダは昼も夜も、一回り働いていました。ブッダはセンブ州全体、インド中を裸足で歩いて移動しなければなりませんでした。ブッダは自動車を持っていませんでした。そして私たちの律では、出家者は動物に引かせる馬車や牛車には載りません。牛車は牛に、馬車は馬に引かせます。

 ブッダは動物にも乗りませんでした。動物に乗らないでどうしたでしょう。歩くしかありません。どんなに遠くても、何ヨード(1ヨード=16km)でも歩きました。パーリ経典には、ブッダは傘もなく、靴もなかったとあります。

 ブッダがどんな風に歩いたかは、こう歩きました。ブッダの奉仕の心が、何ヨードでも歩かせました。あちらの国、こちらの国、当時のインドの小さな国々へ。ブッダは生涯そうしました。

 その日の夜涅槃に入るという日も、日中いっぱい何ヨードも歩きました。現代人のように病院に入院して、ヨレヨレになって寝ていません。そこで涅槃に入ろうと決めた庭園まで、何ヨードも歩いています。そして建物の中でなく、地面の上で、です。庭園なので、何か少し薄い寝床を作って、地面の上で般涅槃しました。

 涅槃の間際にも、異教徒である修行者が訪ねて来て、質問がしたい、教えてくださいと言うので、比丘たちは「世尊は今にも般涅槃しようとしていらっしゃる。力尽きて今まさに般涅槃しようとしているこんな時に、何の質問ですか」と追い払いました。

 ブッダはそれを聞いて、追い払ってはいけないと言い、呼んで気が済むまで質問をさせ、そして求めに応じて繰り返し詳細に質問に答え、阿羅漢になれるだけのタンマを知りたいという男の願い通りに教えを説き、そして数分後に般涅槃しました。

 考えて見てください。ブッダは最後の一秒まで義務をしました。みなさんはそのように働けますか。たぶん病院で寝て死を待つでしょう。

 要するにブッダは、このように昼も夜も、そして最後の一秒まで働きました。なぜでしょう。義務を尊敬していたからです。タンマは義務という意味です。学校で間違って教える先生方は、タンマはブッダの教えと教えています。それはほんの少し合っています。爪の垢程度しか合っていないのでは駄目です。

 タンマという言葉は、ブッダが生まれる前から使われていました。タンマ、タンマと、最も崇高の物である義務という意味で使われていました。原初の人は最も必要な物と見て、タンマは義務と定義し、そして義務と呼ばれる物をずっと教えてきました。

 だんだん高くなり、そして宗教のタンマで精神的な話の中で使われるようになりました。最も高度なタンマ、普遍的なタンマは義務です。

 義務という言葉には非常に意味があります。義務を行わなければ死ぬからです。義務をしないでいてみてください。人も死に、動物も死に、木や草も死にます。命は義務によって存在します。体の中のすべての細胞が義務を行わなかったら、途端に死にます。

 だから命は義務によって存在します。腕や脚・手・足・耳・目・肝臓・腎臓・腸・腹が義務を行わなかったら、死にます。人も死に、木も枯れ、すべての生き物も死にます。草木も死にます。木は二十四時間義務を行っています。

 義務は伴侶以上です。もし欠ければ、その時は死んでしまいます。夫や妻などの伴侶は、一月離れていても大丈夫です。一人は外国にいて、もう一人はタイにいても、この伴侶は大丈夫です。時にはいがみ合ったり喧嘩したりもします。何かそのような伴侶です。

 タンマの伴侶を見れば、一分欠けるだけで死にます。身体の中で正しく義務を行わなければ死にます。義務は命であり、命の伴侶です。

 タンマの実践をして、「自分は正しくした。ブッダが尊敬し、実践したようにした」と自認し、感じるならば危険はありません。満足と幸福を感じます。そういう気持で働けば幸福になります。スポーツをするような感覚で働けば、仕事は楽しいです。タンマと呼ぶ感覚で働けば、このように最後まで幸福です。そして、タンマで生きなければならないという結論します。

 次に最高に素晴らしくする方法があります。「楽しく」にも、「幸せに」でもできます。今は「素晴らしくする」のが良いでしょう。タイ語で素晴らしいというのは、パーリ語では「セッタ」です。どう素晴らしいのかと言うと、今日詳しくお話しさせていただきます。「楽しく働く」は話しました。「幸せに働く」も話したことがあります。今日はちょっと上の「素晴らしい仕事」です。

 素晴らしい仕事は、義務をきちんと遂行することです。タンマを最高の物にすることです。憶えやすいように簡単に「三宝であるブッダと共に、プラタム(教え)と共に、僧と共に働く」と言います。「楽しく働く」と同じように、みなさんはこれも信じないでしょう。まだ信じなくても構いません。


1.ブッダと共に働く

 初めの項目は「ブッダと共に働く」です。もうブッダを知っていますか。生きている人であったブッダは、二千年以上前のインドにいて、般涅槃し、亡くなって、荼毘に伏されて骨しか残っていないのに、ブッダと一緒に働ける訳がありません。この項目は、ブッダのこの言葉を思い出さなければなりません。

 『タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える。たとえ私の僧衣に触れても、どこかへ同行しても、その人にタンマが見えなければ、私を見たと言われない。タンマが見えた時、私が見える』。タンマが見えてからブッダが見えます。ブッダがいます。

 続きがあります。「縁起を見ることはタンマを見ること」です。縁起を見るとは何を見るのでしょうか。縁起を見るとは、自然の最高の真実を、苦はどんな原因によって生じるか、苦はどんな原因によって滅亡するかを見ます。このような話を縁起と言います。苦はどう生じ、どう滅亡するか、明確に見える人は、詳細な縁起である、聞いたことがある十一の状態が見えます。

 縁起をまとめて見ると、内処(目・耳・鼻・舌・体・心の六つの知覚機関。六根)のたとえば目が、外処(形・声・臭・味・触・考えの六種の知覚される物。六境)のたとえば形などと触れ合うと、視覚である識が生じ、内処と外処と識と、三種類が一緒に働きます。

 これを触と言います。触があれば受(感覚)が生じ、受があれば欲が生じ、それぞれの感覚の意味で行動したくなります。幸福の受なら欲しくなり、苦の受なら攻撃したくなり、幸福でも苦でもなければ、今までどおり愚かで疑います。

 このように受が生じると、その受によって欲望が生じます。欲望があれば欲しがる人、俺が生じ、取と言います。俺が生じると有である三界になり、俺が生じて俺の命になり、そしてすべてが俺に引き込まれ、生・老・病・死・苦・怒り、何らかの喜び、すべてが俺の物になります。

 縁起はこのように生じます。苦はこのように生じます。知るのが間に合えば生じないように管理できます。このように生じなければ、滅苦ができたと言われます。苦はどのように生じ、苦はどのように滅亡するかを知り、そして縁起が見えます。これがタンマが見えること、つまりブッダが見えることです。

 この縁起を、お願いですから遊び半分にしないでください。良く理解するよう努力してください。間違って教えているのもあります。千年以上前に間違って説明された物もあります。本当のパーリ(ブッダの言葉である経)の縁起はこうです。

 自分は無いということを明らかに見てください。ここにいても、それは自分ではありません。それで何が死んで、何が生まれ変わるでしょう。ここにいるのは自分ではありません。今ここに居るのはただの名形、原因と縁によって変化していく体と心だけで、誤ってすれば苦が生じ、正しくすれば苦は生じません。

 縁起は、自分が無いことを教えています。ここでも、現在も、たった今も、自分ではありません。それで、何が輪廻するでしょう。それは、輪廻しないこと、自分が無いことを教えています。今は縁起の話で輪廻ねする自分があると教えます。本当のバカです。

 ブッダは、輪廻しないために自分は無いと教えていますが、私たちは、輪廻すると主張するために教えます。これはバカです。

 正しく学ぶ機会を探し、良く理解する努力をすることは、非常に意味深い話という意味です。この項目が見える人はタンマが見える人と見なします。タンマが見える人はブッダが見える人です。つまり如来、ブッダが、私たちの心の中にいます。

 そのように見て、ブッダと一緒に働きます。本物のブッダが心の中にいるとは、縁起が明確に見える知識です。縁起が見える知識で働けば、ブッダと一緒に働くことができます。

 私たちはこのような本当のブッダを知りません。亡くなって、涅槃して、火葬して、骨になったと、本で読んたブッダの外部しか知りません。ブッダの身体を、ブッダは私ではないと言われているのに、どうして骨やレンガ(仏塔など)がブッダになれるでしょうか。それはブッダではありません。本物のブッダはタンマです。苦はどう生じるか、苦はどう消滅するか。それがブッダです。

 これを心に取り入れてください。そうすれば私たちはブッダと一緒に働くことができます。しなければならない義務を、この感覚でします。最高の縁起の賢さですることを、「義務での正しさは、タンマを命の伴侶にする」と言います。俺が働く。俺の仕事、という感覚はありません。

 俺の名誉のため、俺の権力のため、俺の家族のため。こういうのはありません。あるのは「こういうのは苦が生じ、こういうのは苦が消滅する。苦が生じない類のことをしよう」という心だけです。このように心の中で縁起が見えることを「ブッダと一緒にいる」と言います。私たちはその感覚で働きます。

 私たちはブッダと一緒に働き、本当のブッダはタンマです。縁起が見えるところはどこでも、縁起を見せているところはどこでも、それがブッダです。縁起の状態を見て、よく理解すれば、「ブッダが教えた」と知ります。これが本当のブッダです。非常に珍しいです。本当のブッダは縁起が見えること、縁起の状態が見えることです。

 このブッダは、生まれず、悟らず、涅槃しないで、永遠に存在し続けます。それが本当のブッダ、つまりタンマ、縁起が見えることです。このタンマは、人物をブッダにします。

 シッタッタ王子が母親のお腹から生まれた時、胎内ではブッダではありませんでしたが、縁起が見えた時ブッダになりました。最高のタンマ、縁起があれば、その人はブッダです。あるいは最後にブッダになります。縁起を良く学び、正しい知識があり、そのような気持で働きます。

 このように生滅する自然の法則、このように生じる苦、このように消滅する苦を、このような感覚で見れば、ブッダと一緒に働くと言います。心の中に本物のブッダがいて、素晴らしい仕事をします。心の中にブッダが居て一緒に働いているからです。


 もっと分かりやすい言葉を使わせていただきます。ブッダを侮辱していると非難しないでください。外皮であるブッダは、私たちの心に入ることはできません。二千年以上前、人間の体をしたブッダが歩いて行ったり来たりしていましたが、知る人は誰もいません。

 その頃のインドには、ブッダを尊敬しない人がたくさんいました。信仰する人より、信仰しない人の方が多かったのです。ブッダの殺害を企てる人や、ブッダを排除しようと考える敵や、競争相手がたくさんいました。滅苦の話が分からない人、縁起が見えない人は、ブッダを好ましく思いませんでした。

 当時のインドの女性の多くがブッダを罵りました。人妻を後家にするだけと罵りました。それで女性の敵になりました。夫が出家してしまうと、ブッダが彼女たちを後家にしたことになるので、ブッダを罵りました。

 歩くことができる人物であるブッダを見ても、何も利益はありません。考えて見てください。縁起が見えた時が、外皮でなく、中身であるブッダを見た時です。つまり生まれず、悟らず、涅槃しない永遠のブッダが見えます。心でブッダが見えます。

 見えれば阿羅漢、預流、一来、不還になります。それが内面であるブッダを見ること、あるいは本物のブッダを見ることです。外皮であるブッダを見ても何にもなりません。心に取り入れることはできません。同時代に生きていてもできません。

 ブッダは「たとえ私の僧衣に触れても、どこかへ一緒に出かけても、私を見たとは言わない。どう苦を滅すか、どう苦が生じるかというタンマが見えれば、それが私を見ることである」と言われました。

 そしてそのような智慧が自分の心にあり、そして働き、どんな仕事でもすれば、それをブッダと共に働くと言います。それは非常に素晴らしく、苦はなく、あるのは幸福と楽しい満足です。ブッダと一緒に働くからです。

 つまり「俺、俺の物、俺のために」のない仕事で、あるのはタンマである純粋な義務だけです。体と心を知り、知ったら働きます。田んぼの仕事も、果樹園も、肉体労働も、何でもしてください。このような心があれば、誰でも自分の義務を行うことで、この世界を静かに平和にしなければならない人間の義務をするので、疲れを感じません。

 義務とは苦から脱す手助けをすること。つまりブッダが尊敬していた物です。豚の糞、犬の糞を掻き集める職務でも、道路の清掃が職務でも、義務の遂行です。この世界を清潔にし、平和にする手助けです。ブッダが尊重したものは義務です。

 だからブッダのように、義務を尊重する気持で働いてください。それは、ブッダと共に働いたと言われます。ブッダと共に働くことは、素晴らしいでしょうか。それとも素晴らしくないでしょうか。ブッダと一緒に働くことは素晴らしいか素晴らしくないか、考えてみてください。


2.タンマ(プラタム)と共に働く

 ここで言うタンマ、プラタムとは、戒・サマーディ・智慧の三種類とみなさん学んだことがあります。最も重要な意味はタンマの実践で、戒・サマーディ・智慧で、最高に高い、最高に善い意味のプラタムです。プラタムはタンマの学習まで広い意味があります。これは教育という角度のプラタムです(パリヤッタム)。そして実践の角度のプラタム(パティバッタム)で、戒とサマーディと智慧の実践をします。そして実践の結果である穏やかな幸福、聖向・聖果・涅槃を、結果であるダンマ(パティウェータム)と言います。結果の面から見たプラタムです。

 重要なのは実践の角度です。学習しても実践しなければ結果はありません。重要なことは、実践すれば結果があることです。そして実践すれば心配はいりません。結果は自然に現れます。実践の結果は実践から生じます。寝て結果を待っても、結果はあり得ません。必ず実践しなければなりません。

 だから実践は、プラタムという言葉の最も重要な意味です。パリヤッタム、パティバッタム、パティヴェータムの中で、実践(パティバッタム)が最も大切です。それを人生の伴侶にします。

 みなさんご存知のように、タンマの実践は、戒・サマーディ・智慧の三つに分けられます。一般の低い段階は戒、高くなってサマーディ、そして高くなって智慧です。話す時の並び方は「戒・サマーディ・智慧」ですが、実際に実践する時は「智慧・戒・サマーディ」の順で、智慧が先でなければなりません。そうすれば戒を正しく維持し、正しいサマーディを実践できます。憶えておいてください。話す時、勉強する時は「戒・サマーディ・智慧」ですが、タンマの実践をする時は「智慧・戒・サマーディ」の順です。

 これは簡単に分かります。八正道の正しい見解、正しい考えが先にあり、これは智慧です。次の正しい言葉、正しい行為、正しい仕事は戒で、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディはサマーディで、後から来ます。智慧が先頭でなければなりません。そうでなければ、正しく実践できません。戒は密林や藪に迷い込んで、仏教の戒になりません。智慧なしに戒を維持すれば、本当の戒はなく、あるのは執着する戒だけです。

 私は、「智慧が戒より先だ」と馬鹿みたいに教える、間違って教えると、痛烈に罵られたことがあります。いつでも「智慧は戒より先」と主張させていただきます。智慧がなければ、戒は密林や藪に迷い込むからです。実践するなら、智慧が先でなければならないが、話す時には戒が先で、それからサマーディ、智慧と知らなければなりません。

 初めの段階では、みなさんがどんな仕事をするにも、タンマはみなさんと共になければなりません。タンマが共にある仕事をすれば、タンマはみなさんと一緒に義務を行うので、みなさんの仕事は素晴らしい仕事になると述べることができます。田んぼの仕事でも、労働者でも、道路の清掃でも、戒とサマーディと智慧で義務を行ってください。道路掃除でも、労働者でも、仕事をする時、戒・サマーディ・智慧があってください。

 戒とは何かをはっきりさせます。戒とは、体と心の面になる善である意図、悪でない意図です。体と言葉で、他人が愛し満足している物の体や命を害さない、自分の知性を害さない、他人の正義や公正を侵さない意図。それが五戒の意味です。他の人は違う意味を捉えますが、私は簡単に、害にならない、つまり台無しにしない、破滅させないという意味で使わせていただきます。


1.不殺生。他人の身体に危害を加えない。

2.不偸盗。誰の財産に危害を加えない。

3.不邪淫。他人が愛する物に危害を加えない。

 他人が愛するもの何でも、危害を加えてはいけません。手を出さないでください。命がない物でも、他人が愛している物なら何でも手を触れてはいけません。子ども同士の友達の玩具に手を触れてはいけません。その子が気分を悪くしますから。

4.不妄語。虚言によって他人の正義、公正に危害を加えない。他人の平和を害するようなことを言ってはいけません。

5.不飲酒。あらゆる種類の酔わせる物を飲むことで、意識、あるいは自分の智慧に危害を加えないこと。どんな種類でも酔わせる物を飲むと、自分の意識やサマーディ、智慧の害になります。

 これを一般的な戒でと言います。いつでもこの戒を遵守してください。どんな仕事でも、田んぼや畑の仕事でも、労働者でも商売でも、公務員でも何でも、このような戒を持して働いてください。

 そしてサマーディをもって働きます。このサマーディというのも理解が難しく、間違って理解していて、結局何も分かっていません。本当のサマーディとは純潔な心があること。正しい、悪がない、煩悩がない心。これが純潔な心です。

 レンズが太陽光を一点に集めて発火させるように、純潔な心は、心の力を一つに集めます。このようにすべての力を一つに、一点に集めた心をサマーディ(三昧)と言います。

 カンマニヤ(仕事に適した)である心は、非常に敏捷で軽快に義務を行い、働きます。一般的には active、あるいは activeness と言います。世界中の人はアクティブネスを欲しがります。アクティブネスとは、義務の遂行に積極的なことです。心が純潔な時、心の力が一つに集中している時、心が働くことに積極的な時、その時サマーディがあると言います。

 みなさんが働く時、どうぞ心をサマーディにしてください。道路清掃の仕事でも、サマーディを正しく使って欲張らず、怒らず、迷わず、そしてすべての力を一つに集めて、研ぎ澄まされた知性が満ちている敏捷さで働きます。それは愚かな人より良く掃除できます。

 厨房で皿やコップを洗う仕事でも、愚かな人より良く洗えます。だからすべての行動を集中した心でしてください。皿やコップを洗う仕事や家の掃除でも、働く時はサマーディをもってください。

 次に智慧があります。働くことの智慧です。仏教の最高の智慧を、みなさんが憶えやすいように短くまとめると、智慧とは正しくて十分な知識です。正しく、そして十分です。ブッダが四聖諦で話されている教えの知識を持ってください。

 つまり、1.それは何か、2.何から生じるか、3.何の利益のために、苦を滅亡させて涅槃に行くために、4.どんな方法で、と知ることです。

 論理の側面から見れば、論理の世界の誰の論理よりも崇高な論理です。ブッダの論理はたった四句だけです。「とは何か。何によって。何のために。如何にして」。こういう知識がある人は、ブッダのような知識や知性があります。自分がするべきことを知る智慧で、「それは何か。原因は何か。どんな利益のために。そしてどんな方法で」と知ってください。

 苦に関してなら、「ああ、それはこのように辛く耐え難い物だ。それは愚かさから生じる。無明・煩悩・欲望が生じたら消滅させてしまおう。消滅させてしまえば穏やかな涅槃だ。それは戒・サマーディ・智慧、あるいは八正道を実践すれば到達できる」と考えます。

 八正道には、自分の行動を明らかに知る教えがあります。どんな義務を行うにも、「この義務は何か、なぜこの義務が生じたのか、この義務を果たしたらどんな利益があるか、そしてどんな方法でその義務を行うか」と知ります。

 私はインドへ旅行したことがあります。アヂャンターへ行って、ある石の彫刻を見ました。四頭の鹿の形をしていますが、頭は一つです。ああ、これには凄い意味があるに違いないと思いました。でなければ作った意味がありません。

 するとすぐに、四聖諦の象徴だと分かりました。四頭の鹿の頭が一つになっています。彫像ホールで見ることができます。「とは何か。何によって。何のために。如何にして」を一つにまとめて頭が一つ。成功はこの理由で生じます。

 四つの意味は智慧です。心の中で暗誦してください。とは何か、何によって、何のために、いかにして。この四項の教えを使って職務を行えば、成功するに違いありません。智慧でするからです。これを「智慧で働く」と言います。

 初めは戒で、戒の教えで働き、サマーディの規則で働き、智慧の規則で働きます。戒とサマーディと智慧を合わせてプラタムと言います。プラタムと共に働きます。

 プラタムと共に働くことが素晴らしいか素晴らしくないか、考えてみてください。ブッダと共に、プラタムと共に、僧と共に働き、戒・サマーディ・智慧であるプラタムで働きます。プラタムである戒・サマーディ・智慧と一緒に働きます。


3.僧と一緒に働く

 一番はブッダと共に働く、二番目はタンマと共に働く、そしてこの三番目は僧と共に働くです。義務である仕事をする時、みなさんと一緒に僧が働きます。

 次に「僧は善い実践、正しい実践をする人」という言葉の意味を知らなければなりません。僧は輪廻の害が見え、苦の害が見える人で、苦を嫌い、苦を減らすために実践します。苦を減らすための実践が僧です。簡単に言えば、一秒ごとに、「俺、俺の物」を減らすこと。これが僧です。「俺、俺の物」があって慢心していれば僧ではありません。良く憶えておいてください。「俺、俺の物」を減らそうとしている人、それが僧です。

 先ほどブッダには「俺、俺の物」がなく、空っぽだと言いました。まだ「俺、俺の物」を減らしている途中の僧なら、俺を減らすためにどうするか、何をするべきでしょうか。教えには十項目の減らす物、サンヨージャナ(十結)があります。

 サッカーヤディティ(有身見)、ヴィチキッチャー(疑)、シーラッバタプラーマーサ(戒禁取)、カーマラーガ(欲貪)、パティガ(瞋恚)、ルーパラーガ(形貪)、アルーパラーガ(無形貪)、マーナ(傲慢)、ウッダッチャ(落ち着きがないこと。掉挙)、そしてアヴィッチャー(無明)。みなさんには難しいですが、その十項は、いろんな方法で俺を減らして行く、つまり愚かさである「俺」を減らすことと結論できます。

 初めに「俺」は本当にある物ではないと知ります。幽霊がいないように、愚かさが作り上げた物です。愚かさがあれば何でも、かならず感情面の感覚があります。

 たとえばここが痛むと、神経に痛みを感じると、痛みがあると幽霊を作り上げます。俺は痛い。俺は痛みのある人。俺が後から生まれます。痛みが先にあり、痛む人は後です。学生たちは「違う。間違っている。私は信じない」と反論します。子供は物質面だけ見すぎるので、何かする人が先に待ち構えいて、そして義務をしなければなりません。

 今は心の話、精神の話なので、そうではありません。俺は本物ではありません。愚かさが生じるので、行動の後から俺が生まれます。これを西洋人たちに説明して理解させようとすると、ものすごく大変です。彼らは「行動する人がいなければ行動はない」と、子供と同じ論理です。

 それは、物質的な話です。しかし心の問題、精神の問題は、そうではありません。俺は愚かさの結果で、本当にはありません。ただ感じるだけの物なので、「行為者は後から生まれる」と言うことができます。

 たとえ身体のどこかに痛みがあるとします。神経系統が痛みを感じると、俺は痛い、俺は怒った、俺は何だ、という感覚が生じます。それは後から生じます。行為の後に行為者が生まれます。これが心の真実、精神の真実です。俺が先に生まれて、痛みやら何やらを知るために待ち受けているのではないと、知っておいてください。俺は行為の後から生まれます。こう知れば俺が減り、俺への執着が減ります。

 先ず心に愛情が生まれなければなりません。それから俺は愛している、俺の愛という感覚が生まれます。嫌悪、不満、怒りが先に生まれなければなりません。それから嫌う人、怒る人、不満に思う人が生まれます。何らかの感覚が先に生じなければならず、それから俺という感覚が生じます。

 この俺はものすごいマヤカシ、マヤカシの極致です。後から生まれて「俺」と言います。俺は無我であり、マヤカシであり、本当にはありません。それは一種の亡霊なので、減らしてしまいます。少なくしてしまいます。どんな方法でも俺を減らします。俺を減らすために闘う努力をします。それを僧と言います。

 みなさんの行動の中に僧の精神ががあります。ごく簡単に言えば「どんな種類の仕事も、利己主義を減らして働きなさい」と言わせていただきます。利己主義を減らすことは、俺を減らします。まだ愚かなので、外側から実践していかなければなりません。

 利己主義は、最高に良く知りなさい。最高に凶悪な最大の敵、最高の悪魔、これらのすべてが利己主義の中にいます。利己主義になれば破滅しなければなりません。今世界が破滅に向かっているのは、利己主義だからです。

 見てください。利己主義を減らさなければ、まもなく全滅します。世界は消滅します。どちらの側も自分の利益ばかりで、いつ世界が破滅してもおかしくありません。利己主義は最高に凶悪です。最高の悪魔です。しかし人々は反対に、もっと利己的になることに満足しています。

 次に利己とは何か、利己的な人とはどんなか、自由な心を見ます。利己的な人は働きたくありません。寝ていたい。怠けたい。自分のこともしません。利己的になると寝ていたがりますが、お金は欲しいです。働かずにいろんな物を欲しがります。これが利己主義です。

 利己的なら多分寝ていて、今話を聞きには来ません。利己的だと疲れるから何もしたくありません。したいのは寝ることだけ。でもお金は欲しい。これほど悪いです。

 利己的は団結しません。誰とも力を合わせません。利己主義者は嫉妬したり妬んだり。嫉妬や妬みは利己的だからあります。

 有利になろうとすることもあります。雇用主が従業員より得をしようとするのは、利己的だからです。どちらの側にとっても敵でしかありません。利己主義がなくなれば雇用主も従業員もありません。あるのは生老病死の友だけなので、このような問題はありません。

 道路が混乱しているのも利己主義のせいです。道路が交通で渋滞しているのは、すべては人が利己的だからです。

 そして最終的にはおかしくなります。利己主義が非常に著しくなると、自然に変になります。私は精神病院へ行って患者の経歴を詳しく調べたことがあります。どれも道を誤った利己主義が原因で、最後には気が変になりました。利己的すぎて気が変になります。

 精神病院へ行かなければ自殺します。自殺のどの事件も、潜在的な原因は利己主義です。自殺ができるんです。利己主義が道を誤れば、金持ちも自殺できます。すべての悪はどれもこれも利己主義が原因なので、人間にとって危険です。


 次に他の人を見て見ると、利己主義の人はロクデナシで、犯罪者で、この世界を混乱させます。問題がないと、わざとケチをつけます。利己的な人は自分自身を傷つけ、最後には自殺するほど頭がおかしくなります。そして死ぬまでいかなければ、世界中、国中の他人を困らせます。平和を乱し、秩序を乱し、何でもかんでも利己主義で攻撃します。自分自身も喧嘩や仲違いをします。

 疑うまでもなく、夫婦の間に利己主義が生じれば、離婚しなければならなくなります。夫婦が離婚しなければならないのは、利己主義になるからです。別れなければいがみ合います。夫婦でありながらいがみ合います。利己主義は非常に自分自身の害になり、他人の害になり、世界全体、宇宙全体の利益を消滅させます。

 利己主義がなくなれば、その時世界は弥勒菩薩の世になります。聞いたことがなければ聞いてしまってください。弥勒菩薩の世界です。ずっと昔からそう書いてあり、そう言っていました。

 弥勒信仰の世界を願わずにはいられません。弥勒菩薩の宗教、あるいは弥勒菩薩の世界とは、何でもなく、利己が微塵もないことです。あるのは、生老病死の友として他人を愛することだけ。利己主義はありません。

 人間の最も尊いことは、利己的でないことです。利己主義が消滅して、すっかり絶滅すれば阿羅漢です。阿羅漢にならなければ、それに次ぐ人です。利己的でなく暮らす善良な国民でも良いで、生老病死の友のことばかり考えて暮らします。

 弥勒菩薩の世界の話は、たくさん書かれていて、全部穏やかな幸福ばかりで、助け合いが満ちています。最高の福祉のように、欠乏する人はいません。次に心の部分は、家から通りへ出ると、どこへ行っても、誰が誰か、誰が何か見分けがつかないと書いてあります。

 みんな同じで、全員明るく微笑む人ばかり。何か手伝います。手を上げて「何か手伝いましょうか」と言って来ます。その人が自分の家に戻ってくると、「ああこれが我が子、これが我が妻、我が夫」と言えますが、道へ出てしまうと、みんな同じです。誰が誰やら判別できません。これが利己主義のない弥勒菩薩の世界です。

 弥勒とは友情を援けるという意味です。友情が基本にあります。ミッタとはミトラ、友情があるという意味で、弥勒は「友情で、友情に支えられている」という意味です。タイ語のメートライは、サンスクリット語のメートライから来ています。パーリ語ではメータイです。利己主義が滅亡すれば弥勒菩薩の世界になります。

 だからみなさん、どんな場合でも、何をするにも、僧の精神で働き、「利己主義は破滅」と、輪廻の害が見える人でいなさい。これを、仕事の同僚である僧がいると言います。

 みなさんは、一緒に働くブッダ、一緒に働くプラタム、一緒に働く僧がいます。このようで、素晴らしい仕事と呼ばずにはいられません。考えて見てください。楽しく働くこともしたことがあり、幸せに働くこともしたことがあり、今は素晴らしい仕事のレベルになりました。

 素晴らしい仕事、素晴らしさのある仕事、素晴らしさがいっぱいの仕事。働く人も素晴らしく、人々も素晴らしさを受け取ります。私たちはすべての側の利益のために働きます。自分の利益のためでもあり、他人の利益のためでもあり、混じっていて分けることができない利益のためでもあります。

 ブッダは三種類の利益について語られているのに、愚かな人は自分の利益しか考えません。それでは十分ではありません。自分にも利益があり、他人にも利益があり、そして混じり合って分けることができない利益も一つの利益で、三つの利益です。

 「アッタッタ」は自分の利益で、「パラッタ」は他人の利益で、「ウバヤッタ」は両者が混じり合って分けることができない利益です。この三つの利益を揃えば最高です。三つ全部揃うので、最高に利益になる人です。

 さて今日は、素晴らしい仕事、ブッダと一緒に働き、タンマと一緒に働き、僧と一緒に働くことについてお話してきました。炎天下で汗を流す仕事も、カンカン照りの下で長い汗を滴らせて道路清掃をする仕事も、厨房で汗に塗れて皿やコップを洗う仕事も、素晴らしい仕事にすることができます。

 ブッダとプラタムと僧が一緒に働いているように知性で働き、苦がどう消滅するかを知り、サマーディのある心で働きます。戒とサマーディと智慧があれば、僧がいます。つまりいつでも利己主義を減らしています。いつでも利己主義を減らしています。

 利己主義が減らなければ僧は残っていません。坊主頭でも長髪でも、黄衣をまとっても白衣をまとっても、利己主義を減らさなければ僧ではでありません。

 これがブッダと一緒に、タンマと一緒に、僧と一緒に働くように働くことです。「これは言い過ぎだ、暴走しすぎて実践できない」と考える人がいるかも知れません。そう考えないでください。実践できます。話したように、ブッダとタンマと僧と一緒のように働くことができます。

 どうか本当のブッダを知って、いつでも、どこでも、心に入れておいてください。お話したように本当のブッダは生まれず、悟らず、永遠に死なないので、いつでもみなさんの心に入ることができます。プラタムはブッダが尊重した義務で、私たちにもそうし、煩悩を減らし、俺を減らし、利己主義を減らす僧はいつでもいます。この三つと一緒という気持で働いてください。

 そうすればブッダとプラタムと僧が一緒に働くと言われます。田んぼを耕し、果樹の手入れをし、皆さんと一緒に働きます。一緒に道路清掃をし、厨房で一緒に皿やコップを洗う手伝いをします。敢えてこう言います。検証して見てください。もし本当でなかったら罵ってください。ブッダとタンマと僧がいて、いつでも一緒に働いているような仕事は、ここまでできます。

 自然が最高に素晴らしく与えた価値にふさわしく、みなさんが最高に価値のある、つまり阿羅漢になることもできる、素晴らしい人生を送ることを望みます。自然はこれほど素晴らしい命や心をくれたのに、私たちはすっかり別の物にしてしまい、五欲に熱中し、悪事に熱中し、有益に使いません。

 どうか、いつでも阿羅漢になることもできる儲けを得るための資本として自然が与えたものにふさわしく、利益を得てください。ブッダと一緒の仕事、プラタムと一緒の仕事、僧と一緒の仕事があると言えるような人生にしてください。

 まとめると、いつでも利己主義を減らし、戒・サマーディ・智慧があり、苦はどう生じるか、苦はどう消滅するか、真実のままに知り、そのように正しく実践すれば、みなさんも素晴らしい人生になり、素晴らしい仕事をして、世界の利益になり、この世界を弥勒菩薩の世界にします。これが、知らなければならない、理解しなければならないタンマです。これを使って人生を素晴らしくしてください。


 復習させていただきます。

 「スポーツのように楽しく働く」はもう話しました。「幸せに働いて、自分自身を尊べばいつでも天国」も話しました。今日はそれより高い「素晴らしい仕事」について、聖向・聖果・涅槃に繋がる素晴らしい生き方をするために、何も問題がない、何も支障がない、いつでもブッダとタンマと僧が一緒にいる素晴らしい仕事についてお話しました。信じなくても構いませんが、自分自身で試して検証してみてください。

 みなさん、信じる必用はありません。しかし後で良く考えてください。いま信じなければ、後で考えてみれば自然に分かります。そうすれば実践を全部成功させることができます。そして最高に素晴らしい物を受け取ります。

 人間に生まれ、そして仏教に出合い、自由があり、苦より上、すべての物より上にいる自由があり、ある意味、ある段階の涅槃である冷静さだけになり、昼も夜も、このように過ごせますよう! 今日の話はこれで終わらせていただきます。




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