7.そうすればハナから死んでいる





1969年8月28日

 今日は前からの続きで「そうすればハナから死んでいる」という主題でお話します。初めの題は「空っぽの心で働く」で、二番目は「仕事の成果は空にやる」、三番目は「空の飯を食う」、四番目は「そうすればハナから死んでいる」です。

 この「死」という言葉には意味があります。微妙な言い方で、こういう言葉に慣れていない人は混乱するかもしれません。一般的には「タンマの実践は不死のためにする」と聞いています。

 永遠に死なないことを不死と言います。どうして今「死ぬために実践する」、そして「初めから死んでいる」と言うのでしょうか。それは、永遠に死んでいるという意味です。永遠に死なないことと、永遠に死んでいることが、どうして同じ話だと、聞いたことの無い人は混乱するかも知れません。

 初めに、これは仏教の何を狙うかによって、目的によって変わる高度なタンマの慣用句である言葉と理解してください。「不死」という言葉はむしろ人の言葉です。「私がいる」「残っている」「以後死ぬことはない」というのは、理解しやすい人の言葉です。そして「死にたくない」「死なない命が欲しい」というように、前から、初めからそのような考え方は知っていました。「既に死んでしまっているので何もない」と言うよりは普通の言い方です。

 みなさん、死という言葉と涅槃をいう言葉を対比して見なければなりません。涅槃は滅亡するという意味で、苦の滅亡、つまり冷え切ることです。

 「滅亡」は不死よりも、むしろ死という意味があります。しかしそれでも誤解します。死と言うと、みなさん嫌います。誰も死にたくありません。だからこの死という言葉は別の意味の、体が死ぬ必用のない死、まだ命が壊れていない死、別の種類の死で、体は死んでいなくてもよい死です。命はまだ崩壊していないのに死ぬ、つまり「俺、俺の物」が死滅するという意味です。

 昔の言葉で「涅槃とは死ぬ前に死ぬこと」、あるいは「体が死ぬ前に死ぬこと」という言葉があります。この死とは何でしょうか。それは「俺、俺の物」と感じる根源である煩悩が死ぬことです。

 体が死ぬ前に煩悩が死滅すること、それを涅槃と言います。これは「捨てることに善があり、真実の中に僧が居、死ぬ前の死に涅槃がある」と憶えておかなければなりません。これだけでもややこしい言葉に感じます。

 ある時は「死の前に死になさい」と教える人がいて、またある時は「不死にしなさい」と教える人がいます。本当はどちらも正しい言葉です。それぞれ意図する意味があるからです。要するに「俺、俺の物」を消滅させることができ、「俺、俺の物」に執着が残っていないこと、それが実践の要旨です。自我を消滅させることが死です。俺を攻撃し、「俺」を完全に殺します。こういうのを「俺を死なせる」と言います。

 次に死ななくても「俺、俺の物」がなければ、残っているのは純粋なタンマだけです。死を知らない純粋な自然は涅槃です。つまり死ぬことがない自然です。良く理解してしまえば道を妨げる物は何もありません。「初めからそれ自体死なせてしまいなさい」と言うのは、初めからずっと「俺、俺の物」という感覚、気持があってはいけないという意味です。これを「俺、俺の物」が死んだと言います。初めから、あるいは永遠に残っていません。

 初めから「俺、俺の物」が死んでいれば、残っているのは純粋な自然だけ、死ぬことのない自然の感覚があるだけです。「俺、俺の物」がないので、生まれることも知らず、老いることも知らず、病むことも知らず、死ぬことも知りません。生まれること、老いること、病むこと、死ぬことは、すべて「俺、俺の物」に起因するからです。

 「俺、俺の物」と体に執着すれば、生老病死する俺がいます。そこで体に「俺、俺の物」と執着しなければ、それは自然の物になり、生老病死と呼びません。なぜなら「俺、俺の物」という言葉の意味を取り出してしまい、残っていないからです。生老病死の意味が消えます。生まれず、老いず、病まず、死なないと言います。時と話の流れで、このように言い方が変わります。

 「死」と「不死」の一語だけで混乱しないように注意してください。

 ブッダが生まれる以前から、人は不死を探求していたという歴史を知ってください。ブッダも同じように不死を探しに出ました。つまり出家です。ブッダが生まれる前から、人々は不死について、死なないことについて語り、自分なりの考えがありました。死ぬことに飽き飽きし、死を嫌悪していたからです。

 何度も何度も死んで、このように輪廻の中を泳ぎ回っていると知れば知るほど、死ぬことに嫌気が差しました。だからどうしたら死なないでいられるか、不死を求めました。ブッダが生まれる以前から、長いことそのように不死を求めて遊行していました。もしかしたら何百年かもしれません。その言葉の起源であるインドでは特にそうです。

 もう一つ世俗の話で、飲めば不死になる薬があるとか、神様たちには飲むと不死になる水があると言っているのを、小耳にはさんだことがあります。人もそのような不死身になりたがります。非常に世俗的なのは、殺されても死なないようになりたいと、誰もが不死の方法を探求します。

 タンマであるものも、繰り返し生まれないこと、死なないことを望んでいます。これも不死になりたいと言います。そしてその不死を、段階的に発見しました。しかしブッダが生まれて、それらの人達と同じように不死を探求し、こういう形の不死を発見するまでは、本当に正しい物でも真実でもありませんでした。

 次に死である物は、すべて死なせてしまいます。人間が死と呼ぶ物は何も残さないで、すべて抜き取ってしまいます。誰もが非常に恐れる「死」である物は、すべて抜き取って、反対の物だけ残します。

 人が死にたくないのは、希望があり、期待する物があり、満足している味を望むからです。それらの物と離れたくないから、死にたくありません。このように利己的です。この利己主義を抜き取ることができれば、この問題は無くなります。そうなれば生きる意味はないので、平静でいられます。つまり無関心になれます。しかしまだ何らかの希望があれば、死にたくありません。

 不死のためには、希望や欲望、あるいは煩悩を消滅させなければなりません。いろんな呼び方があります。希望である煩悩は何十種類も名前がありますが、意味は希望です。だから涅槃へ行くこと、あるいは不死、または涅槃に到達するには、これらの希望、あるいは欲しい物を残さず破壊しなければなりません。

 つまり涅槃とは自我の死であり、不死、あるいは純粋な自然の「死なないこと」です。心は、愚迷な自然である無明、欲望、取を捨てなければなりません。死という感覚をすべて捨ててしまえば、死ぬことのない純粋な自然に出合います。

 「そうすればハナから死んでいる」と教えるのは、空っぽの心で働き、仕事の成果は空にやり、空の飯を食うという、前の項目と繋がっています。このようにできれば、初めから死んでいます。初めから死んでいるというのは、そのような行為の中で自然に死んでしまっているという意味です。空という感覚しかない行動は、初めから自我が死んでいることです。

 この言葉は曖昧であり、そして詩という制限のある言葉と言わせていただきます。「ハナから死んでいる」というのは、自然に死ぬという意味です。何もしなくても自然に死ぬ、自動的に死ぬという意味です。この体が死んでいるのではありません。

 英語の訳はここを間違って訳し、「体が死んでいる」になっています。そのように訳すのは、空っぽの心の実践、あるいは空のために働けばそれ自体が自然に死ぬ、「初めから死んでいる」という意味を理解できないからです。

 私が初めから死んでいると話している死は好ましい死、望ましい死になります。苦である死ではありません。自我の死、死の恐怖の死です。もしまだ自分があれば死を恐れます。そのような死は好ましくも望ましくもない、誰もが恐れる物です。これは、自分が残らず絶滅したので、誰にとっても好ましい物、望ましい物になったと言うことです。まだ生きていても、過ちを犯して苦しむことはありません。好ましい死、望ましい死です。これが「死」という言葉の意味です。これは、非常にややこしいので注意してください。

 この「初めから死んでいる」というのを聞いたことがない、一般の非常に俗人すぎる人は怖がります。愚劣な空っぽの心しか理解できない人たちは、理解できないので怖がります。何でも死ぬことは怖がります。

 この種の死がどういう意味か、この種の死はその種の死の問題を解決すると理解できません。苦である死は、俺、俺の物と執着する心にある死の意味であり、俺、俺の物の死は、苦を消滅させる物で、その後苦はありません。この種の死について学び、理解しておかなければなりません。

 忘れないように簡単に「『俺、俺の物』という煩悩・欲望・取があれば、全部苦しい死であり、そして非業の死である」と言っておきます。一般人の死は誰の死でも、聖人の言葉で言えば非業の死に分類できます。

 一般人の言葉の非業の死は、木から落ちて死ぬとか、水牛の角や何かに突かれて死ぬなどの死を「非業の死」と言います。そのような非業の死は、普通の人の非業の死です。それは「永遠に死にたくない」という要旨があります。死にたくないのに何かに命を断たれて死んでしまうこと、心の準備ができないうちに死ぬことを非業の死と言います。

 可能な限り闘う心の準備ができてから死ぬ場合は、人は非業の死とは言いません。それは俗人の言葉、あるいは普通の人の言葉としては正しいです。しかし人々が言う非業の死の意味を良く考えてみると、「死にたくないが、突然何かで、死にたくない人の命が奪われた」という重大な意味があります。

 難しい書物の言葉、あるいは精神面の言葉、タンマの言葉、聖人の言葉もみな同じで、死にたくないのに死ぬことを非業の死と言います。心の準備ができてから死ぬなら、非業の死ではありません。この項目はハッキリ説明した方が良いです。普通の人は死にたがらず、死を受け入れたがりません。だから死ななければならない時は、心が乱れて大騒ぎをし、苦です。

 何度も言っているように、死に方を知りません。死に方を知らないとは、どう死ぬのが最善か、死に方を知りません。このように死に方を知らなければ、どれもこれも非業の死です。

 特別な言葉、タンマの言葉、聖人の言葉で言う非業の死、あるいはてんやわんやの死には、医者を呼んであれこれ処置をし、意識が無くなって目をパチパチして息を引き取るまで、手の限りを尽くす人もいます。これも死にたくない人の、死なないように必死で引き止める人の「非業の死」です。ね、普通の人と聖人の大きな違いがあります。

 この項目に関しては、ブッダが自分の死を予告したと言われる涅槃の話を思い出します。ブッダがパーワラチェディーに行った時、三ヶ月後に涅槃に入ると予告しました。それを死期を悟ると言います。魔王がどうぞ涅槃に入ってくださいと言って、ブッダが納得したというのは仮定の話です。

 本当の話は、ブッダがその日から約三ヶ月後に肉体を死なせる決意をしました。これを死期を悟ると言い、肉体が滅びるという意味の死を決めたことです。

 タンマ語の死は、ブッダの場合、菩提樹の根元で大悟した時から死んでしまっています。つまり大悟したその日その時、ブッダの「俺、俺の物」は死んでしまいました。これを人の言葉で大悟と言います。

 特別のタンマの言葉では、大悟した日から「その時、初めから、それ自体死んでしまった」と言います。そしてその後、四十五年間布教と説教のために生き、そして最後の年になり、あと三ヶ月で体が死ぬと悟り、その日から三ヶ月後にその体を消滅させることを告げ、予告どおりに体が涅槃に入りました。

 考えなければならない重要点は、人は死に方を知らなければならないことです。死に方を知るとは、ふさわしい状態で体を崩壊させます。まだブッダでなくても、まだ阿羅漢にならなくても、できるだけ見倣います。

 だから死に関しては、死ぬ時が来たら「死期を悟った」と言われるように身体を死なせることと知ります。大騒ぎをして抵抗する必要があるでしょうか。心臓移植などは、死を知らない人の愚かな行為と、私は捉えます。

 死に方を知らなければ非業の死です。死にたくない心で死ぬのは、みんな非業の死です。私はそう捉えます。タンマ、あるいは聖人の言葉では、そういう意味です。死にたくないのに死ぬのは、非業の死である体の死です。

 悲しい死、憐れな死で、死にたくないのに死ななければならず、悲しみながら、苦しみながら死にます。こういうのを非業の死と呼ぶのは正しいです。高度な意味の非業の死です。木から落ちたり水牛の角に突かれたりして死ぬだけではありません。これは世俗の言葉、人の言葉です。

 比丘や沙弥、清信士、清信女の仏教教団員は、あれやこれやを惜しみ、心が動揺して、悪足掻きする非業の死にならないように気をつけてください。嫌でも死ななければなりません。それを非業の死と言います。いつ死ぬか分からない状態で生存しているのも、非業の死と言います。死にたくない人の死、死を知らない人の死だからです。

 次にタンマを学ぶ、あるいは本当にタンマを知るというのは、この項目を、非業の死にならない項目を知りたがります。つまり、死にたくないのに死ななければならない死にしてはいけないと言います。自然を知らない愚かな人にならないでください。それはそうならなければならないのですから。

 だから死ぬべき時が来たら、あまり面倒なことにしてはいけません。ブッダが、三ヶ月後に涅槃に入ると、つまり体が崩壊して自然に還るという意味ですが、そう予告したように、それを手本にしてください。煩悩の涅槃は、大悟した時に涅槃に入ってしまいました。この話のタンマが十分あれば、非業の死になることはありません。

 どんな仕事も空っぽの心でし、仕事の成果は空にやり、いつでも空の飯を食べることは、それ自体初めから死んでいます。非業の死を完全に予防でき、付け入る隙を与えません。だから非業の死を遂げたくない人は、このように実践してください。つまり確信して死んでしまいます。

 まだ煩悩があっても、煩悩を絶滅させられなくても、このように死ぬよう努めなさい。払い捨てて死ねるよう、開放して死ねるよう、死にたくないと足掻き回らない努力をします。嫌でも死ななければなりません。まだ煩悩がある人、煩悩が絶滅していない人も、このように死ぬ努力をなさい。

 仏教教団員の伝統で、昔からこのように教えられている方法もあります。在家でも高度なタンマがあれば、仏教の良い薫陶を受けていれば、そのように死ぬよう教えられています。心に「俺、俺の物」が残っていても、俺、俺の物に執着しないで死ぬ努力をし、知性と常自覚で、粛々と死を志願します。

 つまり体の自然な崩壊と捉えます。そうすれば阿羅漢になるチャンスでもあります。あるいは心が消える瞬間に煩悩が滅亡することもあり得ます。それはとても簡単で、苦に妨害される問題はありません。

 どうぞ「初めから死んでいる」という言葉の意味を良く理解してください。未来永劫、非業の死を遂げないよう予防する利益があります。そして現在、煩悩・欲望・取を消滅させる助けになります。

 あるいは体が崩壊する最後の瞬間になったら、自ら滅尽を志向し、執着する物は何もない、手に入れるべき物はどこにもない、なりたい地位、状態は何もないと明らかに見るよう、それまで熟慮してきたいろんな事実について考える知性があります。

 だから「要らない」「ならない」と志します。つまり何かの身分であることに、どんな欲望も取も持たないでください。その心は純潔であり、純潔な心は純潔な五蘊になります。永遠に純潔な体と純潔な心になります。つまりこの知識がある間は、五蘊は純潔な五蘊です。そしてこのように滅亡すれば、体が崩壊すると同時に煩悩も滅亡すると言います。これは利益があり、難しくありません。

 まだ死ななければ、まだ煩悩が終わらなければ、煩悩がない時、煩悩が生じない時、その五蘊は純潔である、という教えがあります。つまり一時的に純潔です。あるいは「タタンカニッバーナ」と言われる一時的な涅槃です。一時的に純潔な五蘊、一時的に純潔な心でも、まったくそれを知らないよりマシです。

 サティがぼんやりすれば再び心に煩悩があり、五蘊も再び一時的に汚れます。俺、俺の物という煩悩が厚くついている五蘊、汚れた五蘊です。次にサンカーラ(行)の無常、因と縁の無常で変化すると、それは無くなり、縁がなくなれば「俺、俺の物」も消え、五蘊は再び一時的に純潔になります。そのように交互になっています。

 次に五蘊が純潔な時間を長くし、不潔な時間を短くするよう努力して、ぼんやりしないように、煩悩が生じないようにすれば十分です。これを実践するだけで十分です。そして誰でもどこででも使うことができます。

 それは森の中で阿羅漢を目指す人に相応しいと言わないでください。そう理解してはいけません。これはすべての人のための物という教えで、この道で、可能なかぎり実践しなければならないと、正しく理解してください。

 他の道や選択肢はありません。「エーカヤナマック」と呼ぶこの道一つしかありません。この道しかないので、この道を歩いて行くしかありません。しかしどこをどう歩くか、どれだけ歩くかは、能力と知性次第です。

 どう実践すれば死ぬ前に死ねるかと問えば、正しい知識があるなら、「俺、俺の物」を消滅させるために、執着しない実践をしなさいと答えます。

 子供に実践を教えるにも、執着しないよう、あるいは執着を減らすよう、子供のレベルで「俺、俺の物」を消滅させるよう教えます。子供には執着しない部分がたくさんあります。子供にとっては執着しません。でなければ、子供は泣き止むことがなく、薬を飲んで自殺するでしょう。

 そのように良くない出来事を予防するために、泣かないために、薬で自殺しないために、嘆き悲しんで後悔しないために、執着しないことを教えなければなりません。間違ったら正しくする、それだけです。正しいとか間違いとかの問題に執着し、変えられないと思ってしまうほど執着しないでください。

 だからどんな人でも、子供も大人も、誰でもみんな「初めから死んでいる」という実践に努めるべきと言うことができます。意味の深さは違っても、誰でも自分でできるだけ、「初めから死んでいる」よう努力するべきです。

 死の恐怖を知らない子供に教え、敢えて死に直面させるのも正しいです。死の恐怖を知らない、死を知らないのを向こう見ずとか、あるいは役に立つ善を何もしないと誤解しないでください。生きたい気持は元々あります。初めからそう教えられているので、溢れるほどあります。

 愛するもの、満足しているものと離れなければならない時に、苦しむ必要はありません。死はどんな物にもある自然と知っているのですから。次に「ああ、この子は親を愛すことを知らないので、親が死んでも泣かない」と考えてしまっても構いません。そう考えたければどうぞ勝手に。

 親が死んでも子供が泣かないのを心配する必要はありません。泣くことは泣きます。泣くけれど、それほど泣かないように、あるいは全然泣かないように解決しています。泣くことは執着の部類の考えだからです。

 中国の皇帝が死に臨む時、泣く人がいなければいけないと聞いたことがあります。愛されていた人全員、侍女や側室全員が泣かないと駄目なんです。皇帝が気持良く死んでいくために忠誠心を見たいことに関わっているのでしょう。「死んでも泣く人がいる」と言われます。

 それが伝統習慣になり、死人が出ると泣く人を雇うようになりました。それであれほど大げさになります。それが愚かか賢いか、考えて見てください。普通に泣くだけでは足りなくて、人を雇ってまで泣かせます。どれくらいの執着か、勘定することができます。

 普通に泣くことも、有るべきか有るべきでないか、考えてみてください。誰も泣く人がいなければ、この人は悪い人だから誰も泣く人がいないと考えるでしょう。人々はそういう風に考えるかもしれません。子供は親を愛していないから泣かないと考えるのは滑稽です。どちらの形にするか、自分で考えてみてください。

 非業の死を遂げなければならないタイプの人は、自分が死ぬ時、他の人に泣いてもらいたがります。死にたくないという執着が強いという意味です。その人は、自分が死ぬ時他人に泣いてもらえば、自分は愛されている、惜しまれていると満足できます。せっかく死ぬのだから、愛する人、惜しむ人がいなければなりません。

 これほど欲しがります。これほど欲深いと、仏教教団員、つまり知性があり知識があり、智慧のある人、あるいは、苦しまないようにするという意味の、知識のある人の仲間と呼ぶにふさわしくありません。苦がない、あるいは苦を減らす方法を知り尽くしている集団なら、必要以上に苦を増大させる必要はありません。それは無明、あるいは迷いであり、仏教教団員ではありません。

 僧や沙弥は、死を怖がる臆病者と他人に悟られないように注意してください。僧衣の恥です。犬も食いません。断言するなら、そう言わなければなりません。犬が食うだけの良さもありません。何かちょっとあると死を恐れて、ビックリして飛びあがって大騒ぎをするのは、村人がミミズやヤモリやオオトカゲを怖がり、青蛇を怖がるのと変わりません。

 毒も何もない小さな蛇が足元に近づいただけで、飛び上がって驚き、大騒ぎをします。僧でも沙弥でもいます。これをどれほど未熟かと言います。これは未熟で、いくらも熟していません。つまり僧として沙弥としての徳行がありません。何度も見たことがあります。

 こう言うのは、けなして言うのではありません。そうさせないように努力しています。だから大声で騒いだり、ビックリして飛び上がったりする必用はありません。それで試すことができます。蛇が足の甲に這い上がってきたら、見てください。ビックリ仰天して飛び上がったら、僧でも沙弥でも、まだ百パーセント未熟者です。

 こういう例はどこにでもあって分かりやすいので、見本にしました。テストできる話は、まだ何十もあります。死の恐怖の話もあるし、愛や欲情の話もあるし、業突張りの話もあるし、怒りや怒りを煽る話もあるし、嫉妬や妬みの話など、テストしてみることができる話はたくさんあります。

 しかし心の中の問題は一人一人の物で、見ることができません。何が誰の物か見ることができません。体の行動として現れた物は、どれくらい未熟か、どれくらい未熟者か見ることができます。出家して勉強しても、まだ効果がありません。まだまったく成熟していません。犬は知っています。死んで横たわっていても、食べられる良いところが何もない人の死骸と知っています。

 真実を遊びにしないでください。このタンマあるいは真実は誰の味方も贔屓もしません。あるがままです。人間はふざけて騙し合いますが、タンマや自然がふざけることはありません。人は、人間が何であるかを知っている犬の話をよく引用します。

 あるいは神や精霊と言ってもいいですが、それらにも騙せない物が一つあると言います。私は、タンマと自然は誰も騙すことができないと言います。それはタンマの教えと一致します。苦があれば必ず苦しまなければならず、苦がなければ苦しむ必要はありません。

 苦しまない方を選び、聖人や阿羅漢のように行動するよう努めなさい。初めから死んでいる、あるいは死ぬ前の死である涅槃です。できるだけ執着する気持を捨てる努力をしなさい。

 一般の人のように死を恐れてはいけません。普通の人のように欲深くてはいけません。普通の人のように怒りや憤懣があってはいけません。普通の人のように惜しんだり、望んだり、妬んだり、掻き集めたりしてはいけません。これが涅槃へ直行するたった一本の、一筋の正しい道です。

 そうできるよう努力し、小さな子供にも執着を減らすことを理解させ、執着しないように実践させます。あっちの世界に住む時に持って行くと、愚劣な考えをしないでください。人は汚れた世界にいたいので、どんなに汚く恥ずべき行為でも、何としてもその方法を探すと、そう教えているのもあります。

 世俗を脱出したい、世俗を超えたい、ロークッタラになりたいから、あっちの実践をすると言う、そう教えているのもあります。彼らは、人々に煩悩と欲望、自分の所属に対する誇りを持たせ、仲間を愛し、国を愛し、敵を消滅させようと考えています。こういう考えは全員が地獄に落ち、業火で蒸し焼きにされ、全員が非業の死になるので、そういう考えをしないでください。

 常に「俺、俺の物」がなく、いつでもタンマがあるよう考える練習をします。敵と戦う時は、タンマだけを考える純粋な心で、タンマのため、タンマを維持するために戦い、「俺、俺の物」のため、俺の命を守るためではありません。戦いには、このようなに二種類あります。

 「俺、俺の物」のために戦えば罪で、非業の死です。知性で、拭って純潔にした「俺、俺の物」のない五蘊で戦い、正義を守るため、世界の正義を守るために銃を撃てば、「俺、俺の物」のためでなければ罪でなく、非業の死でもありません。

 殺し合いをしなければならない世界に住んでいても、このように教育し、このように実践し、このように教えを捉えれば、罪もカンマも非業の死もありません。それは「初めから死んでいる」話です。ずっと五蘊は純潔だという意味です。つまりいつでも自分であるタンマがあります。

 自我である「俺、俺の物」を持たないでください。自分という考えがある愚かな煩悩や欲望を持たないでください。愚かな空の心は、そういう考えしかないので、愚かな自分があります。ブッダのような空の心がある人には、愚かさはありません。俺のない心で仕事もでき、財産を維持することもでき、戦争に行くこともできます。

 タンマだけがあり、タンマだけを考え、体もタンマになってしまっています。罪もカンマもないので、非業の死にはなりません。このように何でも「空の心で働き、仕事の成果を空にやり、空の飯を食い、いつでもそれ自体死んでいる」と繋がっています。最高のものにするために、仏教全体から選りすぐった精華である技術、あるいは重要なコツです。苦をなくすため、二度と死なないために誰もが飲むべき甘露です。

 既に死んでしまっているので、その後は死ぬ必要はありません。煩悩欲望、執着する物はすべて死んでしまったので、その後死ぬ物は何も残っていません。この種の死には、このように永遠の不死があります。

 誰でも、何になるにも、どうぞ理解するまで勉強して、日常生活で実践できるようにしてください。戦争に行く在家でも、あるいはこの世に生まれて目が開いたばかりの赤子も、このような教え、つまり「利己的ではいけない。自分に都合のよい執着をしてはいけない。それは煩悩を塗り重ねることであり、生き地獄に落ちる」と捉えなければなりません。

 みなさんは子供たちに礼儀正しさを理解させ、善い子、善い人になるよう教えるべきです。正しく教えるには、こう教えなければなりません。利己的になるよう教えてはいけません。利己的になるような教え方をすれば、必ず問題が起きます。将来、煩悩の悪霊に脅されます。

 よく見られるように、自分で心を堕落させます。女性の例ではミニスカートの問題、男性は「飲む、打つ、買う」の放蕩が増えています。死を知らない問題、死にたくない問題、「俺、俺の物」を塗り重ね、煩悩、あるいは愚劣を塗り重ねる問題、それは今話していることと正反対です。

 「初めから死んでいる」は、平静、静謐、冷静、整然になることです。この「それ自体初めから死んでいる」は、完璧に穏やかに暮すという意味があり、反対は苦で、熱い火で常に炙られ、いつでもそれ自体が罪です。何よりも恐ろしいです。

 いつでもそれ自体が罪であることは、恐ろしいか恐ろしくないか考えてみてください。いつでもそれ自体、百パーセント罪です。煩悩や欲望で生きることは、そういうことです。しかしそれを追い払って、できる限り心と体を純潔にすれば、反対にいつでも穏やかです。後で考えてみてください。

 私たちは同じ人でも、時には火のように熱く苦しく、時には水のように涼しく穏やかです。そこで水のように涼しい状態を選んで、その状態が定着するまで維持します。どんな場合にも熱くなってはいけません。そして更に恐ろしい熱(苦)は、愚かさでの熱、ラーガ(愛欲。欲貪)による熱、性的な欲情の熱です。

 どんな方面も愚かさほど熱くはありませんが、人は知りません。ラーガの熱は非常に熱いと感じます。怒りによる熱も非常に苦しいと感じます。表面的に、普通の愚かな人に現れる物だけを見るからです。知性がある人なら、表面に出ない怒りの方が深く苦しいと知っています。

 タイ方医には「内熱、外熱」という言葉があります。体を触って熱があっても、内部が熱くなければ大したことはないと言います。もし内部が熱かったら怖い、あるいは危険、もしくは病人が死ぬこともあるので、良く観察しなければなりません。

 昔式の医学で「内熱」と言います。普通の人は熱く感じません。触っても熱くありませんが、その方面の知識があれば非常に熱いと分かります。体(の表面)は熱くないのに、内部が熱くて死にます。昔の医学はこのようです。

 煩悩も同じです。内部を焼き炙る煩悩は、外に表れる煩悩より凶悪です。外から見えるラーガ(愛欲。欲貪)、外から見える怒り。しかし痴、無明は内部の深いところで熱くなっています。それはラーガの燃料であり、際限なく怒りを作り出します。だからその方が恐ろしく、危険です。

 湿った冷たい火に注意してください。炎を上げて燃える火よりも熱いです。「俺、俺の物」は深奥部にある湿った火、内熱です。完全に出してしまわなければなりません。あるいは、毎日、毎晩、毎時、いつでもそれを殺していなければなりません。空の心で働き、仕事の成果は空にやり、空の飯を食うことを、いつでも正しく実行していれば内熱は治ります。そうすれば外熱も自然に治ります。

 「それ自体初めから死んでいる」話は、このように良いです。非業の死を回避でき、内熱の治療ができ、望ましくない物は何でも解決できます。だから良く考えて、何としても理解してください。そして仏教の要旨として、涅槃への道として、可能な限りたくさん実践してください。




次へ ホームページへ 法話目次へ