6.空の飯を食う





1969年8月25日

 今日は「空の飯を僧が食うように食う」という題で、先日の続きをお話します。以前に話したことを、「空っぽの心で働く」から「仕事の成果を空にやる」、そして「空の飯を食う」まで、順におさらいしなければなりません。

 「空の飯を食う」に関わる問題は、聞いても全然意味が分からないように見えます。つまり「空のために働いてやるなら、人は何を食べるのか」という、別の側面の問題です。

 こうした問題が生じるのは、人はいつでも、俺、俺の物がある考え方しかないからです。だからいつでもこのように「できる訳ない」とか、「何を食べるのだ」という問題になり、この空の話に興味が無くなります。

 次に、まだ良く見なければならないことがあります。何度も何度もお話している項目を忘れないでください。みなさんはまだ実践しなければならない人で、実践が終わった人ではないからです。実践が終わった人なら自然にそうなっているので、何も問題はありません。阿羅漢は空の心で働き、仕事の成果も空にやり、ご飯も空のように食べます。

 これは、空、あるいは空の心が空のご飯を食べることは、これは僧の食べ方と同じという、考えるべき項目があります。食べる物も食べられる物も、空であり、空の物であるという観察事項を思い出してください。食べる人も空の物です。動物でも人でもないからです。食べられる物も空の物、あるいは自然の元素にすぎないので、食事も空になります。食べる人も食べられる物もないからです。

 「僧が食うように食う」という言葉は、在家、あるいは一般の人も僧を手本にする、あるいは僧のようにする、あるいは僧になってしまうと、はっきり説明しています。自分は在家と強く感じているなら、僧のように食べるよう努力します。自分を僧とか在家とか捉えていなければ、僧が食べるように、つまり常に空であるように食べなければなりません。

 ここで忠告させていただきたいのですが、仏教の実践には、正しくは僧も在家もなく、まったく同じにします。僧がすることを在家もします。これが事実、あるいは真実です。しかし一般の人の感覚ではそうではなく、僧と在家を区別します。その上大きく引き離して別の道になり、違うことをします。

 教育で発展した今のクルンテープ(バンコクのこと)では、ローキヤ(世界の)と言われるいろんな物があり、在家は世界にいるので世界のようにしなければならないと信じ、僧と在家は違う行動をするように言われています。

 一方の僧は世界を超えるため、あるいは涅槃と呼ばれるもののため、森に住ませます。そして在家が僧のように行動することに反対し、禁止します。無知な人は何を信じ、どう行動したら良いか分かりません。

 本当は、僧でも在家でも、誰でも同じ教えの同じ項目を、同じように実践しなければなりません。多いか少ないか、高いか低いかという違いだけで、正反対の区別はしません。僧には空で食事をさせ、在家は俺、俺の物で、執着で食べなければならないというのは誤りです。損失や苦を生じさせます。

 在家も僧が食べるように、昨日お話したような空で、空の心で、空の感覚で食べなければなりません。「妻のある在家も妻がないように、財産があっても財産がないように、苦楽があっても苦楽がないように、市場で買い物をしても何も持ち帰らない」。これは正真証明、在家に言った教えですが、同じ話です。同じように最高の教えです。僧も在家もこのように実践しなければなりません。所有と存在に執着してはいけません。

 次は食べる問題で、有る物、あるいは手に入る物を食べます。これも空の心でしなければなりません。仕事も空の心で働き、仕事の結果を食べる時も、空の心で食べます。「空の飯を僧のように食う」と言います。

 誰の物を食べるのかといえば、その人が掻き集め蓄えておいた、空の物を食べます。そのように正しくできれば、俺のない空の心で集めたことを意味し、何らかの義務の遂行です。俺、俺の物と考えて執着しない心で義務を行うので、大いなる空のストック、空の大きな蓄えが残り、それを食べます。これは人間の言葉による仮定です。一般の人は聞いても良く分かりません。

 本当はそれ以上で、空の心で食べれば、空の物を食べることなので、食べる時も僧と同じ心にします。つまり「この食べ物には実体がない。それは自然の元素」という自覚があります。「食べても実体はない」と、つまり「自然の元素である」と、このように言います。

 理解できない人達や、からかいたい人は揶揄します。理解できなければ愚かで「元素が元素を食う」と言ってからかいます。「元素が元素を食う」というのは、人物である元素が食物である元素を食うという意味です。知識や知性のある人は理解でき、最後には阿羅漢になります。元素が元素を食うという感覚があれば正しくなり、正しい言葉になり、そして真実になります。

 からかっているどうしょうもない人達は、元素という言葉を揶揄します。あり得ないとして信じないで、そして馬鹿にします。だから低劣な冷やかしになります。元素が元素を食う。喧嘩をしていると、元素と元素が衝突した。あるいは子孫繁栄に関わるいろんな感情を味わう行為を、元素と元素が結婚したと笑い話にします。

 この言葉には二つの意味があります。正しい意味を知っている人にとっては真実で、愚かな人にとっては見ることができない、信じようとしない物で、冗談になり揶揄になるので、気をつけてください。

 この「元素」は揶揄する言葉です。特に私が出家したばかりの頃は、このように揶揄する言葉が耳に喧しかったです。今でもまだあります。若者たちが著しい物質主義に傾く現代は、増えています。人は何でも煩悩で、俺、俺の物でしたがり、空っぽで、空っぽの心でできないので、それをからかいます。

 何かを空でする人、空っぽの心でする人、あるいは仏教の教えでするのを揶揄し、言われた人が逃げ出したくなるような囃し方をします。そして元素が元素を叩いても、元素を噛み殺しても罪にはならないとか、元素が元素を元素に布施しても、元素しかないので徳にはならないというような、間違った見解になります。

 これはブッダの時代にもあった空である間違った見解です。こういうのは必ずあります。実践したくない人の言い訳です。彼らはからかう事柄が必要なのです。実践できない人は、自分に言い訳をするので、世界は低劣になります。善人の世界でなく、低劣な世界、苦に満ちた世界です。

 次に煩悩について話します。いつでも知っておかなければならない一つの重要な状態があります。

 煩悩と名がつけばいつでも、自分に言い訳する、言い逃れをすると、良く知っておいてください。約束を違えた時の自分を思い出してください。一生懸命約束を破って、一生懸命自分に言い訳します。

 その時自分は亡霊になっている、人間ではなく無明の亡霊だと、自分に教えてやらなければなりません。必死で自分に言い訳する方法を探します。それは自分で考え、自分で言い、何でも自分でしなければならないので、非常に大変です。

 誰に言い訳する必要もありません。裁判官にも誰にも言い訳する必要はありません。しかし次に、結果は裁判官に言い訳するより悪くなります。つまり自分の肩を持ち、自分の考えで何かを言い、罪を罪でなくし、何をしても何でもない事になるまで言い訳し、あるいは恐怖心やら何やらを消すために自分を慰め、自分を騙します。この類です。

 正しくは、それは自分自身に不正直なことです。自分に誠実でないこと、自分を騙し自分を裏切ることを言い訳と言います。これが分からなければこれに注意しないので、他のことまで駄目になります。いつでも言い訳できるからです。

 これをロクデナシとか何とか言います。現代は特に増えています。あの原理、この原則、その基準で理屈を言う勉強ができる人が多いからです。しかし最後は利己的な亡霊妖怪の規則になり、無明と欲望と取が、望み通りの結果を生じさせます。

 下品な言い方をすれば、いい気味です。言い訳する知恵、知識、考えのある人は、被告を弁護する弁護士と同じで、物質的問題、外部の問題、騙す話です。しかし自然の真実の話になると、自然は誰の味方もしません。

 それは、自覚なしに気が済むまで頬を叩くことで、それが酷い苦痛だと気づきません。心の病気や神経の病気、いろんな病気で苦しんでいても、何が原因か、何によるのか、どうすれば治るか、何も知りません。いつでも生き地獄にいるようです。言い訳することに慣れ、それが習性になると、俺、俺の物である煩悩の言いなりになります。だから一般の人にタンマがあることは難しいです。

 一般の人の話に任せている普通の人には、非常に難しいと見なければなりません。普通の人はタンマを持つことはできません。生まれてから今現在まで、一度もタンマに興味を持ったことがないからです。

 興味があるのは、いつでも確実な意味がある、口の話、腹の話、俺、俺の物の話だけです。最高にタンマがなければ、最高に苦になります。精神的な苦は最高になります。どうしましょう。気が変になる人もいます。死んでしまう人もいます。気が変になったり、死んだりしない人は、問題を山ほど抱えて、生き地獄のように苦しみます。

 働くことも「タンマがなければ非常に苦しいだけ」と言います。お金がたくさんあっても、とても有名でも、何がたくさんあっても、神経が痛むほど苦しみます。それが感覚を失わせ、自分の落ちつきを維持できなくなり、平安がすっかり失われます。

 運を信じれば運勢で解決し、神や霊や精霊を信じれば神や霊や精霊で解決し、最高に良くても医者へ行って薬を貰ってきます。こういうのは解決になりません。

 薬はほんの一時しか鎮められず、本当の原因は取り除けないからです。薬を飲んでしばらく鎮静させても、重くなれば効果はありません。原因、あるいは病原が消滅していないので、取り除けてないからです。タンマに興味をもったことがなく、タンマが十分でないからです。

 私は常々、タンマは魔法の武器ですと言っています。しかし普段使いの武器、つまり愛用品です。
 タンマは愛用の物です。私たちがいつも使い慣れている物という意味です。この武器を使う練習をし、いつでも熟練していなければ、必用な時に役に立ちません。銃があっても、剣があっても、何の槍があっても、熟練しなければ肝心な時に使えません。

 現代はまったく練習しないので使えません。有益に使えません。武器があっても持ち腐れ、銃や剣を持っていても持ち腐れっで、使い熟せなければ利益がありません。

 バカな人のタンマの話はそれ以上です。武器であるタンマを身につけて、使い方を熟知し、熟練するまで練習しなければならない時に、武器であるタンマがありません。

 武器であるタンマがあれば、煩悩が何かを生じさせる時に、煩悩を殺すことができます。煩悩の問題とは、俺のお金、俺の金銀、俺の子供、俺の女房などの話で、毎日耳をつんざくような怒鳴り合いになります。それでもどうしようもありません。つまり武器であるタンマがなく、練習もしていません。武器がないのに練習はできません。

 伝統習慣なら「宗教やタンマは苦を滅すことができる」と言い、その人達は、人々が言うように苦が減るだろうと考えています。それでお寺へ来てタンマを訪ね、宗教を訪ねます。

 ほとんどの人は聖水を掛けてもらいに来ます。あるいはタンマを勉強しに来ても、もう間に合いません。頭が神経の病気やら何やらで苦しんでいる時、そうなってしまってからタンマを聞いても、意味が分かりません。だから利益がありません。これが現状です。

 私が「空の飯を僧のように食う」と言うと、すごく正しい言葉にも関わらず、バカらしい言葉に聞こえます。この種の族には、バカが言っていることに聞こえます。これがタンマに関わったことがない、タンマを持ったことがないご利益です。

 何十万、何百万の布施をしても、タンマを持ったことがありません。布施をしたことがないからです。いつでも何倍もの見返りを期待して商投資をしているだけだからです。

 何十万、何百万の布施は、俺、俺の物を寄付しません。来世のために投資するのもあります。彼らは「ブッダ銀行に預ける」と言います。彼ら自身がそう言います。天国の銀行に預ければ、死んだ後天国で何十倍もの見返りが手に入ります。

 こういうのは俺、俺の物のための商投資と同じです。タンマではありません。タンマなら、俺、俺の物を攻撃して、木っ端微塵にしなければなりません。だから何十万、何百万と布施をした人が神経の病気になっても、どうしてやることもできません。いつでも俺のために手に入れることだけだからです。布施の話では、私はいつも非難されます。こういう話をするからです。

 試してみましょう。つまりタンマを知り、理解して、何十万、何百万というお金を正しい方法で、正しい考えと心で布施すれば、本当の徳があります。そして精神的な障害や敵を攻撃する本当のタンマがあります。本当の布施、正しい布施と言います。罪を洗う意味のある布施と言います。

 徳を「罪を洗う」と訳しても良いです。しかし人々は罪を洗うために徳を積むのでなく、満足のため、気分を良くするため、心を脹らませるために罪を作ります。

 徳という言葉も同じ意味です。心を膨らませる物、満足させる物。来世は今の何十倍もお金持ちになると期待して、満足し、心が脹らみます。洗い流す布施、あるいは研いて清潔にする布施でなく、この種の布施ばかりです。

 本当にタンマのある人は、常にこのようなタンマの感覚がなければなりません。お金を稼ぐことも、お金を所有することも、お金を使うことも、空っぽの心で働き、仕事の結果は空にやり、空のご飯を食べる教えを使わなければなりません。そうすることができます。そうしていけます。

 外部には外部の仮定で、生活の便宜のために、財産や妻子や夫、名誉や名声などがあります。しかし心の内部では俺、俺に執着しません。あるいは妻があってもないのと同じ、一緒に働く人だけです。俺、俺の物という感覚なしにすれば、仕事をするのも、仕事の結果を食べるのも、何でもすべてタンマの行動です。

 しなければならない自然の義務でするよう努力してください。俺、俺の物ですれば必ず苦があります。私たちはまだ阿羅漢になっていませんが、阿羅漢の足跡を追いましょう。実践しても、それを話す必用はありません。まだ阿羅漢ではないけれど、可能な限り阿羅漢の後を行く努力をしていると自認できる人は、人に話しても構いません。

 次に俺で行動する人と阿羅漢は道が分かれなければならないようにし、「俺」は「俺」の話で歩きます。こういう人達は人々に空の話、無我の話をしないようにお願します。つまり庶民に仏教の要旨を教えることを禁止します。

 しかし私は「他に話はありません。これ一つなので、ふさわしい形で教えるしかありません。可能な方法、適切な方法で阿羅漢の後を追います」と言います。どんな種類の人であれ、真っ直ぐに阿羅漢と同じ道を目指さなければなりません。西洋の後を追うより阿羅漢の後に続く方が安全です。

 西洋の後を追うことは、欲望・煩悩の後を追うことであり、何もかも失う道です。あれもこれも、何が何でも思い通りにするために闘います。たとえば女性たちは今後もミニスカートを穿きつづけるために闘います。

 今クルンテープ(バンコクのこと)の智恵や権力のある人たちが、何とかまねしようと奮闘しています。そこでは精いっぱい西洋の後を追っています。もう一方の阿羅漢の後を追うことには、良く調べず、何も知らず、一斉に目を閉じてしまいます。

 だから私が「空っぽの心で働き、仕事の結果は空にやり、空の飯を食う」話をすると、そういう人達の感覚では最高にバカバカしい話です。

 しかし、個人的にも社会的にもどんどん増えている、生き地獄のような苦を振り返って見てください。良く見れば、自分にふさわしい程度でも、阿羅漢の後を追わないことが原因だと分かります。間もなく、世界中、心が生き地獄のような人でいっぱいになります。今のこのようになっています。

 見てください。近代的な発展がまだ届いてない田舎でも、そうなり始めています。新構想の発展をしている村や町は、心の中の地獄が、個人的にも社会的にもどんどん増えています。「僧が食べるように、空のために空のご飯を、空からもらって、空の心で食べ」ようとしないからです。俺、俺の物のために食べ、そして体の亡霊のように貪欲です。

 どうか煩悩を断つこと、「ヤターパッチャヤン」という観察項目について熟慮し、更に厳しくして行ってください。

 毎日の食事のこと、毎日の僧衣のこと、器具や道具を使うこと、治療のための薬の使い方にしても、俺、俺の物を塗りたくることにしないでください。あるいは行きすぎないでください。死が怖いから、俺が死ぬのが怖いから、だから俺が薬を飲むのは行き過ぎです。「この俺」も確実に死ななければならないのですから、威張らないでください。

 いつか必ず死にます。病気を治療する薬を飲んで死を治す。死を治す薬を飲むほど愚かにならないでください。本来薬を飲むこと、あるいは使うことは、まだ死なないうちは、障害になっている辛い苦を和らげるため、働けるようにするため、普通に生きるため、利益になる仕事をするためだけにします。

 薬を飲むのは、今言った目的のためだけでなければなりません。俺、俺の物のためではいけません。それは治りません。俺、俺の物の病気はどんな薬を飲んでも治りません。まだ不注意やガサツさや心配があり、いつでも痛みを伴います。

 俺、俺の物がある人はこうです。薬を飲むこともこのようなためですから、衣食住に関しては言うまでもありません。薬の飲み方一つでも、適量と場合を心得なければなりません。心臓移植などは月へ行くのと同じくらいバカらしい話です。するべきことでしょうか。しなければならないことでしょうか。話になりません。行き過ぎです。自然に逆らって何でもやりすぎるのは、宗教的に愚かなこと、罪なこと、道徳的に正しくないことです。

 死ぬべき時には死ななければなりません。行き過ぎは、ただ大変なだけで、見合わない結果を得ることになります。あるいはただ大変なだけです。その時間に何かをした方が、あるいは他のことをした方が良いです。死ぬべき人は死にます。無意味な延命のために莫大なお金と時間を使いません。

 私は心臓移植のようなことは拒否します。誰かが無料でしてくれても、無駄金を使う必要はありません。これは行き過ぎです。行く必用のない月へ行くのと同じ、バカバカしいことです。この世界を平安にするための何かをする方がマシです。先ず俺、俺の物を粉々に踏み潰してから、月の土を踏んだ方がいいです。

 だから「空の心で働き、仕事の成果は空にやり、空の飯を食う」と教え、お願いしています。どうか毎日、毎時、毎分、そうしてください。そうすれば心臓移植をしなければならないような病気も含めて、いろんな問題を解決でき、寿命が尽きるまで穏やかに過ごせます。

 次に方法が間違っているので害になり、心臓病や高血圧症、その他のいろんな病気になり、無くてもいい厄介な問題が何百倍、何千倍も増えています。生まれてから今までタンマを捨て、タンマがないので、こういう病気に罹ります。そして治療に時間を費やします。病気の人はとてもお金と時間を使います。

 医師である人間同胞にとっても、厄介で時間の浪費です。この病気を予防できれば、医師も患者もゆっくり休息できます。現代は時間のかかる、苦痛で厄介な方向へ向かっています。医者も患者も、世界中です。阿羅漢の後に従わず、わき目もふらず全身全霊で西洋の後を追うからです。こういう言葉を使わせていただきます。

 自分でできる範囲で、能力にふさわしく阿羅漢の後を追ってください。空っぽの心で生活し、空っぽの心で働き、仕事の結果は空にやり、空のご飯を食べます。この話は、いつか分かっていただけることを願って、繰り返し繰り返しお話します。全部は分からなくても、距離が離れていても、何とか阿羅漢の後を追えるだけ理解できれば、まだマシです。

 人々が空っぽの心を愚弄するにするように、揶揄しないでください。空っぽの心という言葉で揶揄します。それは仏教の要旨を知らない低劣な性質です。空っぽの心という意味を説明しても知らん振りで、責任も何もありません。

 本当は、空っぽの心は良く知り、何にでも責任を取り、そして一つ残らず問題解決できます。一方何も知らない空っぽの心は、そういう人の心のように、ロクでもないタイプの空っぽの心です。ロクでもない空の心しか知らないので、いつでもその意味でしか使いません。

 仏教の正しい意味を知れば、世界中の人が平安になるような、神経の病気も無くなり、患者もいなくなるような、危機を未然に防ぐような使い方ができます。


 今日の話をまとめます。ご飯を指で掴んで口に入れる時も、空っぽの心でしなければならず、仕事も空っぽの心でし、田んぼや畑仕事をする時は、「空にやり、空の蔵にしまっておく」という仏教の方法で正しくします。ご飯を炊いて汁を煮て口に入れる段階は、「空の飯を食う」という空っぽの心でします。

 みなさん後で考えてください。僧として残っても還俗しても、同じ教えです。同じ方向を向いて、一列になって後を追います。後ろを向いて別の道を行ってはいけません。人間が到達するべき最高地点に到達しなければなりません。あるいは人間が得るべき最高のものに到達するべきです。

 毎日、毎時、毎分、空っぽの心でいられるよう努めなさい。「空の心でいる」という一語に尽きます。一つ一つに分ければ、「空っぽの心で働き、仕事の成果は空にやり、空の飯を食う」です。しかし全部をまとめれば、一呼吸ごとに空の心で生きることは、病気の人にとっては最高の薬であり、まだ病んでいない人にとっては最高の予防です。

 空の心は最高の武器です。肌身離さず身につけて使い馴れていれば、敵が生じた時に素早く攻撃できます。武器の扱いに慣れておくように、いつでも僧が食べるように空で食事をして、練習しておきます。うっかりガツガツ食べないでください。俺や亡霊で食べないでください。食べることで精神病になったり、心の病気になったりする人がたくさんいます。




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