5.仕事の成果は空にやる





1969年8月24日

 今日は「仕事の成果は空にやる」という題でお話します。先日は空っぽの心で仕事をするというお話をしました。今日は、みなさん良く知っている「どんな仕事も空っぽの心でし、仕事の成果はすべて空にやり、空の食事を僧が食うように食い、それ自体ハナから死んでいる」という順に、続きの「仕事の成果は空にやる」という話をします。

 詩の形にしたのは、憶えやすく、熟慮し実践するのに便利なようにです。つまり常にサティを維持できるようにです。詩の言葉にはいくつも例外があります。詩には詩の決まりがあるということをご了承ください。完璧に理解しなければならないことは、そうしなければなりません。

 それ以上に、この言葉は中立に話したいのです。実践者の実践にはいろんな側面があり、まだ煩悩がある人は、実践に努めなければなりません。これが一つです。

 この教えには、お願いや命令のような言葉が含まれています。「仕事の成果は空にやれ」という言葉はまだ実践している人のためなので、お願いや強制して、実践するよう教えます。実践し終わった人、あるいは煩悩のない人なら、お願いあるいは強制しないで、「仕事の成果は空にやる」になります。もうできているからです。

 そしてそれ以上に、本当に空っぽの心で働ければ、すでに仕事の成果も空にやっています。空が働き、自分が働いているのではないので、仕事の成果も自動的に俺の物ではないからです。

 その後心が空でなくなれば、また混乱に戻り、仕事の成果が再び自分の物になることもあります。だから一度空にやった仕事の成果を奪って、もう一度自分の物にしないよう、その後も注意を集中させなければなりません。これらの言葉には、隠されているいろんな意味があります。特に詩の言葉はそうです。

 次にまだ実践しなければならない、執着がまだ無くなっていない人についてお話します。

 執着を消滅させる実践をしなければならない人、日常的にいろんな問題に遭遇している人は、まだ執着があります。ですから苦をなくすために空っぽの心にし、空っぽの心で働くことで、仕事が苦でなく、楽しいことになります。その人は仕事の成果を自分の物にしないよう、その後も楽しく幸福でいるために、注意する必要があります。

 空っぽの心で働く方法はどのようでしょうか。空っぽの心で働くにふさわしく、仕事の成果を自分の物にしない、この方法を使うしかありません。俺、俺の物の混じっていない自然の純潔な心で働き、成果を手にしたら、全部自然にやってしまいます。口だけそう言って、何とかしてその仕事の成果を生活に使いますか。俺、俺の物で言えば、俺、俺の物があれば、そういう問題があります。

 しかし俺、俺の物がない心は、そういう問題はありません。その後は食べる人も使う人もいません。それは自然の問題で、反応が生じ、そして自然の法則で変化する何かがあります。その自然の経過では、考えや感覚に俺、俺の物は生じません。

 しかし今、心は変化し、縁次第でめまぐるしく変わるので、それにまだ縁の影響下にあるので、休まず注意しなければなりません。いつでも全面的に管理をするため、挫折したり後で悪い結果にならないよう、課題としなければなりません。「仕事の成果は空にやる」という言葉には「再び俺、俺の物に戻って、成果を自然から奪って自分の物にしないよう注意する」という言葉が続いています。

 「仕事の成果」とは、その時の結果だけでなく、財産やその人が財産と捉える、持っているいろんな物という意味です。このタンマの言葉は、子供、妻、夫なども財産とします。それらは、その人に関わるすべての物で、財産と呼ぶ以外にありません。

 「仕事の成果は空にやる」という言葉は、「どんな財産も自分の物と捉えない。自分はいる、それらの財産があると捉えない」という広い意味になります。すべては仕事の成果なので、空にやってしまうと捉えるべきです。それが完璧に空にやることです。これは少し派生しました。つまり結果である部分が生じました。

 本当は、命は俺でも、俺の物でもありません。それに俺の命でもありません。

 命が自分の物でなければ、他のものも自動的に消えて無くなります。自分が無くなってしまえば、自分の物はどこにもないという教えで自分がなくなってしまえば、自分の子供、妻、夫、どんな財産もありません。

 この項目の真実が見えれば、仕事の成果を全部空にやるのは簡単です。あるいは既に自動的にやっているので、わざわざやる必用はありません。こういうのは忘れっぽい俗人、気分や状況に流される粗忽者を意味し、新たに俺、俺の物になるのを待っています。行為も、行為の結果も、後戻りしてあれやこれ支配し、忘れたと言います。

 「忘れるサティがある」というのは、サティがないことです。サティがないと「忘れるサティがある」などと言います。だから実践をする時の重要点は、サティを忘れないこと、サティをぼんやりさせないことです。まだ実践しなければならない人は、サティをぼんやりさせません。実践が終わった人は常に完璧なサティがあり、サティがぼやける問題はありません。

 次にこの説明の言葉は、人々が実践できるようイエスの言葉をまとめた、キリスト教の福音書を思い出すと良いです。こういう場合はどの宗教も同じです。仏教にも遅れている人、教育は少なくても、自然のサティは非常に鋭い人たちもいます。だから人に教える方法もいろいろです。要約して話すにも、いろいろな話し方があります。

 仏教では重要な経である「大念処経」に関する話があります。サティについて述べた経で、新しい経です。アッタカターの中でグル村、つまりグル地方の人だけに言った章に書かれている説明です。

 彼らは特に賢かったので、そこの住民は既にタンマに特別な関心があったので、大念処経という特別な経を説きました。聞き手に合わせて特別に按配したものがあると言います。

 イエスの教えの中に、ある村人、コリントの人々に要約して話した人がいたとあります。それが偶然、今私が話していることと一致します。つまり「何でも空にやる」です。人間の視点では「神」です。彼らも神について言っています。あるいは神という言葉で空について語っていますが、意味はそういうことです。

 注目すべきは、彼らが「妻を持っても持っていないように、財産があってもないように、幸福でも幸福でないように、苦があってもないように、市場で買い物をしても持って帰ってはいけない」と言っていることです。これは美しく整えられた最高に意味のある言葉で、話している「仕事の成果は洗いざらい空にやる」という話に使うことができます。

 一般の人の仕事の成果は、普通は財産、子供、妻、夫、あるいは子孫、仕事、幸福、苦です。精神的な財産は、幸福または苦で、物質的財産は土地、金銀、果樹園や田畑、子供、妻、夫などです。精神的財産はどんな仕事をしているか次第で、幸福と苦とまとめています。

 だから物質的な財産も精神的な財産も拒否します。あっても無いのと同じという心の感覚は、空です。しかし「仕事の成果を空にやる」と、私が話している言葉はありません。

 キリスト教のような神を信じる宗教、神がいる宗教の言葉なら、自然に、初めから、いつでも「神の物」という意味になり、私たちの物ではありません。自分の財産、子供、妻、夫と考えてはいけません。何でも自分の物と考えてはいけません。私たちの幸福も苦も神の物、神の支配であり、神の領域であり、神の思し召しです。何も自分の物はないという意味です。これが人の言葉による神の説明です。

 タンマの言葉、行為を主体に述べる話法では、それは自然の物で、私たちの物ではありません。自分自身も自分の物でなく、自然の物、あるいは神の物です。これくらいすっかり払い落としてしまいましす。これくらい完全に払い落とせば「洗いざらい空にやる」と言えます。

 関りのある心の教えでは、これは前もって予防しなければならないことで、今現在、完璧に予防します。あるいは過去に遡ってもかまいません。過去・現在・未来に俺、俺の物が無いようにします。この三つの時元すべてを通じて予防するには、三つを関連させて、生じた成果を自分の物にすることはできないという知識にします。 

 仕事は、利己主義のためでなく働くようになります。仕事の成果を自分の物にできないと知っていれば、簡単に空っぽの心で働けるようになります。それは、心を利己主義のない純潔にする方便です。

 自分のためでなく、仕事のため、タンマのために働くので、楽なり、前も後も中間も大切にします。このようにすることを、完璧なサティがあると言います。考えてみてください。サティがこのように過去、現在、未来と繋がっていれば、俺、俺の物を生じさせない最高の防具です。

 高度で深遠なタンマの言葉で、このサティを「流れを止めるサティ」と言います。

 流れとは、水の流れのように当てのない心の流れです。堰き止める物が無ければ「自我」へ流れていくだけなので、そういう流れが生じないように止めなければなりません。過去・現在・未来に、このように「正しい考え」があれば、いつでも俺、俺の物という考えが生じないように防止できます。それが一番快適であり、一番幸福であり、あらゆる点で安全です。

 次に自分がどんなに落ち着きがないか、どんなに堕落しているか、どんなに気まぐれかを見ると、いつでも安定した完全なサティがなく、ピカピカチカチカ点滅するサティしかなく、感情のままです。休まず笑い、休まず自慢し、休まず油断し、休まず自惚れるからです。

 だから混乱して、継続したサティがありません。サティがあってもすぐなくなります。ちょっとサティがあってもすぐなくなるので、使い物になりません。そこが問題です。実践する人の日常的な問題はそこにあります。「実践者」というのは、森の中で修行する人たちだけではありません。家に居る人、仕事をする人、何らかの職務や責任を負っている人も、すべて実践者、タンマの実践者と呼びます。

 タンマの実践をしなければ、あるいはタンマに欠ければ、何もかも台なしになります。とたんに破滅します。つまり悪趣になり、苦があり、心の中が火のように熱くなります。仕事も破産し、苦が増えます。だからこれらに関する良い方便、良い方法がなければなりません。

 今まで聞いたことのない人も、聞いてしまってください。知ってしまってください。パーリ語で方便と言います。このような行為を方便と言います。タイ語で方便と言うと、あまり正直でない面、あるいはわざと曲がった面を見て、騙すことに使われる道具、純粋でない物という含みがあります。

しかしパーリ語では、初めから煩悩を騙し討ちにする実践に使われてます。煩悩は亡霊、無知は亡霊、それらの部下は亡霊の手下とお話しているように、煩悩は亡霊です。そこでそれらの亡霊を騙し討ちにする方便が必要になります。相手は亡霊なので、方便という言葉を使うにふさわしいです。

 「空っぽの心で働く」、あるいは「仕事の成果を空にやる」は、最も素晴らしい最高の方便、最高級の方便と言いたいです。簡単に煩悩をやっつけ、煩悩と闘い、あるいは煩悩を騙し討ちにする、このように素晴らしい方便は他にありません。

 いつも空っぽの心でいれば、疑うまでもなく、煩悩は生じることが出来ません。これが一つ。つまり煩悩の種、あるいは煩悩による習性を支援しないことが一つです。煩悩が餓えて衰弱するので、煩悩による習慣が衰弱すると言います。種である小さな煩悩が衰弱し、いくらもしないうちに無になり、死滅します。

 煩悩に餌を与える機会を許しません。例え話しばかりです。人間や動物に譬えれば、煩悩の扱いは猛獣の扱いと同じで、餌を与えないで自然に餓死させます。

 この教えもブッダが繰り返し諭すよう説かれた重要な教えなので、何度も繰り返しお話してきました。記憶が薄れないように判を押すようなものです。仕事をする方便、仕事の成果を空にやる方便、そして次ぎに、倉庫にある空を食べることがあります。

 今日は一部分の意味を特別に分けて、「仕事の成果を空にやる」という項目だけお話します。本当は「空っぽの心で働く」という項目の一部です。空っぽの心で働くことができれば、それ自体が「仕事の成果を空にやる」ことです。

 しかし明確にするため、初めの項目に重みを持たせるために、あるいはその成果を自分の物にするのを認めないことも含めて、「空っぽの心で働く」ことを明らかにするために、もう一度繰り返してお話します。仕事の成果は、財産、名誉、名声、あるいは気に入った物は何でも陶酔する物なので、それらと一緒にいません。

 仕事の成果を空にやらなければ、心は塗り上げられ、塗り重ねられ、俺、俺の物である何かが際限なく増大して、最後には世界を自分の物にしたくなります。これは現代の重大な問題です。世界の主人になりたがる人も、あるいは世界の主人と言わないまでも、世界のあらゆる面で最高の安全を求める人もいます。

 そして疑い深く、世界のすべての面の危険を恐れています。世界のあらゆる危害を攻撃したがるので、世界の権力を握ったような態度があり、そうすれば自分の身の安全が得られるとでも言うようです。だから世界を自分の物にしたいのも、全世界を支配したいのも同じです。

 世界の所有者になりたい、世界は自分の物、というのが一つ。全世界を自分の支配下において、自分の身の安全を確保したいというのが一つ。しかし本当は、二つは一つです。

 世界を自分の物にする振る舞いは非常に尊大ですが、それはとても小さなことから始まっています。一本のマッチ棒を擦った時は、まだ小さな火で、それに燃料を注げば拡大して、全世界を燃やし尽くすこともできます。

 だから俺、俺の物の問題を遊びにしないでください。初めは小さな火でも、世界中に広がることもできます。私たちはすべてを断ってしまいます。燃料を与える道をすべて断って燃え上がらせなければ、自分の物は何もないと肝に銘じ、何も自分の物と支配しないで、この賢い方便で止めてしまいます。あるいは前もってこの原則を掌握しておくだけで十分です。

 「仕事は空っぽの心でする」というのはこういうことです。何かを自分の物にしようと望まないことは、空っぽの心で働くことです。現代は俺、俺の物の問題ばかりなので、非常にひどい損失が生じ、それが仕事を辛い苦しい物にし、常に悪をする用意があります。

 善行である事業もすっかり汚れた仕事になり、何とか協会という慈善団体は他人のために設立されますが、十分な活動をしないで、善行をする職員による不正が行われます。これは世界中どこにもあります。慈善事業の内部の不正がどれほど多いか、考えてみてください。

 「仕事の成果を空にやる」にばかり文句を言わないでください。反対に空の物を盗み、空のもの、慈善事業である公共の財産を奪って、自分の物にする人もいるのですから。非常に残忍で凶悪な人と言います。至る所います。そして、利己的になる一方の世界の発展に伴って、益々増えています。

 だから良く観察し、心に関して良く注意し、良く熟慮しなさいと言います。人間が月の世界を奪って自分の物にしてはいけません。それは何としても手に入れようとするので、際限がありません。これは愚かさや迷いが、苦の原因やその類が増えることです。その度に「俺の物」を捨てる状態を増やさなければなりません。

 出家する前にどれほど自分の物があっても、今は出家し、あるいは出家する意図があったので、出家の意味にしたがって自分の物を捨てる心の訓練をしなければなりません。両親も捨てなければなりません。すごく残酷で冷徹に聞こえますが、意図はそうです。両親も捨てます。

 出家は財産のない人、自分の物を何も持たない人です。自分の物が何もない訓練をすれば、この出家期間中に本当に訓練できれば、これからお話しする項目の大きな成果があり、自分の物を持たない方向に進歩します。

 これはよく注意しなければなりません。出家している間は、本当に実践する課題にしてください。注意するのは一つだけ。不注意で際限もなく喋り捲らないでください。自慢しないでください。出家している間中、自分のため、自分の物のために何かをしていないか、熟慮して見てください。

 両親や妻子、夫、何でも今の感覚は無にしてください。維持するのは自然の物、タンマの物、あるいは神様か何かの物だけです。かつて俺、俺の物と執着していたすべての物を避け、通過することを出家と言います。意味は、仕事の成果を全部空にやることと同じです。

 どれも十分注意深く、サティがあるかどうか、注意深く一つ一つ確認します。そして人が「名誉」と呼ぶものから「徳」と呼ぶものまで、それらについて注意します。徳と呼ばれるものは、私がすごく非難されるものです。名誉も徳も、自分のため、自分の物のために欲しがる人の心を支配します。

 誰も、決してお金のためにしているのではないと思います。誰もお金を払ったり褒美を出したりする人はいないのですから。しかし「こうすることは名誉」という気持、あるいは自分の善という気持、自分の徳という気持が残っています。

 布施になる、他人を救えるなどというのは間違いではありません。普通の人にとって、世間一般の教えでは間違いではありません。しかし仏教の本質に到達する教え、つまり純潔の最終目標である解脱、あるいは涅槃に到達する教えでは間違いです。

 私が、徳と呼ぶものに注意するように言うのは、人々は徳を積むように教えていますが、私は反対に過剰であり、徳に陶酔していると感じるので、その人たちは私を馬鹿と見ます。見直してしまい、徳と呼ばれるものも「自分の物」と捉えないでください。ブッダの言葉に「徳もウパディ(依)であり、俺、俺の物という執着の基盤」とあります。徳もウパディのように、人を低い方へ引っ張る重石です。

 人が徳によって善で苦しんでいる例はたくさんあります。みなさんも善や徳と関わる時は、困らないように関わらなければなりません。そうでなければ凄いバカになってしまいます。つまりその善ゆえに、あるいは徳ゆえに困難に陥り、苦になります。

 良くなりたい、目立ちたいと思えば、良くなりません。目立ちません。バカになり、愚かにになって、選手仲間や善行をする人たちの間で、喧嘩や口論になります。期待どおり良くならないと、期待どおりに目立たないと、善をしている時に喧嘩や口論になり、暴力を振るいます。

 徳も同じです。神経の病気になる人がたくさんいるほど、心を苦しめます。間違って徳を捉えるからです。徳を積んでいる人の中には、いつも青白い顔でやつれて、飢えて餓鬼になる人もいます。それは、徳とは何かを知らず、ぼんやりやっているからです。

 徳に溺れる人は、徳は素晴らしい物だ、自分が望む何か、形・声・臭・味・触、あるいは欲しい物すべてが得られるなどと、いろんな考えに迷います。酒に酔うように徳に酔ってしまう人もいます。徳を積むために家屋敷や田畑を売ります。子や孫に売るのかも知れませんが、できれば売って徳を積みたいのです。

 これは目的が間違っています。いつでも俺の善、俺の徳と捉えれば、振り払う時がないので不善になり、徳ではありません。その人の意味の善行、徳を積むことは罪になります。あるいはその人を炙る火になります。

 空っぽの心は罪の心でなく、徳に迷う心でもありません。徳と罪を振り払ってしまえば、非常に穏やかな人になり、熱い熾き火はないと言います。熱い熾きがいっぱいの生活とは、最も熱い火、炎の見えない火という意味です。熾きがなければ、灰の下に埋もれている火のない炭ですから、消えてしまいます。これは徳や罪を超えていることを明示しています。

 徳も罪も、それらに関われば執着で熱いです。それは徳のせいで熱いのでも、罪のせいで熱いのでもありません。徳や罪に執着するから熱いのです。振り払うことができれば、熱い物はありません。徳も罪も、財産がない人です。徳も罪も、何も財産のない人、徳も罪も、何もかも空にやってしまった人です。

 いつでも、どんな時でも心で明らかに見える例を、熟慮して見ることができます。自分自身を善人とも悪人とも感じない時が、最高に快適な時です。冗談でなく、ブッダが言っわれているすごく本当の話です。罪とも徳とも感じない時の心はどうか、観察して見てください。その時最高に快適です。

 罪と感じれば暗くなり、罪を恐れて動揺します。徳と感じれば興奮して、心がエキサイトしてじっとしていられなくなります。そしてこの徳が消えはしないか、あるいは増えなかったらどうしようと心配になります。

 徳を貪れば、焦燥ばかりです。罪も心を騒がせ、徳も心を騒がせ、心が空っぽの時、徳や罪と考えない時、その時が最高に快適です。だから聖人式の徳のある人と言います。タンマ語で言う徳です。聖人は必ずこうでなければなりません。普通の徳や罪を超越しています。

 聖人の善は、こういう善、つまり一般人の善悪より上にある善でなければなりません。だから一般人の仕事の成果は、どんな種類でも捨てなければなりません。仕事の成果は、善も悪も、正しいのも誤りもあります。

 仕事に失敗した時の結果は、困難で苦です。この結果も空にやらなければなりません。仕事の仕方が正しければ、結果は良く、儲けがあります。この結果も捨てて、どちらも空の物にします。心が善悪より上にあれば、精神的な成果があります。それは 仏教の純潔な行動であり、意図したとおりの、解脱や涅槃という結果があります。

 純潔な行動のために出家したみなさん、(出家期間が)三日間でも三ヶ月でも、純潔な行動と言います。他の呼び方はありません。結果は空に到達することなので、つまらない物から最高級な物まで、何でも空にやる人と言います。

 そうすれば望ましい結果になります。望みとしては、これ以上望むべきも物はありません。つまり望むことが無くなることを望みます。欲しい物がなくなること、期待がなくなること、俺、俺の物である何もなくなることを望みます。これが望むべきことです。一方庶民が望んでいる物は、善も悪も、徳も罪も、幸も不幸も、全部苦の話です。

 最高の空は涅槃で、仮定で最高の幸福と呼びます。仕事の成果を空にやるとは、涅槃にやることです。

 涅槃のため、苦の滅尽、熱い熾きがなくなるためにします。灰の下にある赤い火は、何の威力もないように見えますが、踏めばものすごく熱いです。これを無くせば、その後するべきことはありません。俺、俺の物を残らず捨てれば、成功します。「俺」は俺のために働きません。「俺の物」も、俺のために残さないで、みんな空にやってしまいます。

 これが概略、あるいは要約である説明です。あるいは「仕事の成果はすべて空にやる」話の全容です。これは、ガサツで何でも誤解しやすい人を誤解させる曖昧さがあるので、誤解を防ぐためにお話しました。




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