3.空っぽの心で働くことの問題点





1969年8月22日

 今日は「空っぽの心で働くことの問題点」というお話をします。前回は世界で生きる時の一般原則にしていただくために「空っぽの心で働く」という話をしました。そして「空っぽの心とは何か」から、「なぜ空っぽという言葉を使うか」まで、適度に十分お話ししたのは、空っぽの心で働くということを理解していただくためです。

 そして当たり前ですが、よく問題や障害があります。何をするにも、あるいは何をしようとしても、当然問題や障害に遭遇します。問題や障害は、だいたい二種類に分類できます。自分の能力不足が原因で生じる問題が一つ。もう一つは自然でも人間でも、何でも外部の環境によるものです。

 今私たちは、全員こういう問題を抱えています。この二種類のどちらの問題であろうと、すべて心を空っぽにすることを知らないことに関係があります。結局、問題は心を空っぽにすることを知らないことにあるので、いつも心を空っぽにする方法以外では、解決できません。

 その人個人の問題でも、原因は心を空っぽにすることを知らないことにあります。前にたくさんお話したことを忘れないでください。心を空っぽにすることができれば、問題は自然に解消します。この項目を忘れないでください。心に「俺、俺の物」がなければ、知性がいっぱいです。

 現代人の能力不足の問題は、知性があるようにするために、心を空っぽにすることで解決できます。頭がイカれてしまって何も考えられないのは、混乱しているからです。心が混乱しているのは、心が空っぽでないからです。空っぽにすれば、もともと智慧はあるので、答え、あるいは道は自然に開けます。

 少なくとも解決するのに十分な、あるいはそれらを乗り越えて行ける、すべての障害を通過するに十分な自然があり、必要がある障害は残りません。良く聞いてください。必用な障害とは、私たちの行く手を妨害する本当の障害のことです。

 空っぽの心で働く問題は、必ず心を空っぽにすることを知らなければならないことです。知性で心を空っぽにすることを知らなければ、自然に心を空っぽにして解決できます。憂鬱になった時は、自然の簡単な方法でも、常識的な方法でも、心を一つにして空っぽにします。

 呪文を唱える時と同じです。呪術家たちは心を空にする何らかの術を心得ていて、適度に空になってから呪文を唱えます。良く考えてください。それは自然に生じます。そのような感覚は自然に生じます。いろんなことを経験するうちに、自然がそのような感覚にしてくれます。

 無意味と捉えられている精神統一に関する本の細部は、少なからず意味があります。しかし捉えられているのは無意味な形、あるいは呪術に使われる傾向が強すぎますが、本当は、呪術の中の立派な科学です。心を妨害している物がなくなって、心が空っぽになれば、とたんにすべてが良い方へ変化します。話したような呪術でも、空に関して心を空っぽにする真実があります。

 戦争で傷を負った鬼が、心を統一して空にし、それから体を撫でると、起きられないほど重傷だった怪我が治り、再び戦うことができたという話があります。読むと「これはつまらないおとぎ噺、あり得ないことで信じがたい」と思います。しかし空っぽの心の力は、野蛮な種類の物であっても、これほど大きな利益があります。その空っぽの心がタンマがあれば、それ以上に良い物になります。

 まじないや呪術を信じる人が無意識に心を空にする時、必ずしなければならない決まりがあります。呼吸やその他いろんなことがあります。家を出て仕事に向かう時も呼吸を観察し、もし軽く滑らかでなければ、まだ出掛けられません。何で滞っているのか彼らは説明しません。まず心をすっきりさせ、呼吸を滑らかにし、都合よく、何でも思ったとおりにしなければなりません。

 これも自然に心を正常な状態に調整することで、私が言う「心を空っぽにする」ことと同じです。まだたくさんあります。よく観察すると、自然の法則に合わせた使い方を知らなければならない、自然の一つと分かります。

 本当の能力は神秘ではありません。不可能というほど難しくありませんが、私たちはそれを使うことができません。元からある知識や能力を使うことができないのは、心が憂鬱だからです。心が憂鬱だから、手に入れる能力の方が重要なのです。勉強したり、訓練や教育を受け、修行して得る物も能力の一つで、人は非常に重要視しています。聞く耳を持たないほど重要視しすぎているかもしれません。

 しかし「引き出して必ず使える能力」には、あまり興味がありません。これが空っぽの心です。俺、俺の物がない空っぽの心の仕事なので、いろんな能力を引き出して使うことができます。

 たとえば非常に的確に射撃をする人を例にしましょう。これは初めの能力です。しかしこの才能を完璧に使うためには、心をコントロールする能力がなければなりません。つまり空っぽの心にできれば結果があります。心が乱れていて空っぽでなければ、的確に銃を撃つ人も、すぐに的を外します。非常に正確に的を射たことのある人も、心に俺、俺の、がいっぱいの時はすぐに的を外します。

 それは、このように重要な能力に欠けるからです。射撃の腕のない人、その道のチャンピョンでない人でも、心を空っぽにすることを知っていれば、自然の不思議な力で銃を撃つことができ、しかも的中します。銃を撃つ話しは見るのが難しく、まだ理解できません。発明された物なので、正確なこともあれば正確でないこともありますから。

 自然だけの、何かを投げて的中させる話の方が良いです。私が子供の頃の遊びは、山崩し、穴入れ(どちらも博打の一種)と言うのですが、今では知らないかも知れません。時間があれば遊びに行きました。昔は今のように発展していませんから、今のような遊ぶ場所はありませんでした。

 それでタマリンドの種やカシューナッツの実を貯めて遊びました。小さな穴があって、どういう人が勝ち、どういう人が負けと決めたルールに従って、その穴にカシューナッツの種を投げ込みます。勝った人は他の人の物を全部持っていけます。

 この穴入れ、山崩しでも、心を空っぽにしなければなりません。熟練で穴に入るのではありません。心を空っぽにしなければできません。理解したければやってみてください。何かを小さな穴に投げ込めばいいだけです。必ずしも賭け事でなくても構いません。普通に投げるには、心をちょうど良く、空っぽの状態に調整しなければなりません。

 次に人間には期待があります。空っぽでない「俺、俺の物」の問題、願望の問題です。これも適正な調整を難しくします。意気込みが足りなかったり、意気込みが強すぎたりして、どちらも穴に入りません。多すぎず少なすぎないように心を空っぽにすれば、それほど練習したことがなくても、自然の力で自然に穴に入ります。

 非常に練習した人、あるいは得意な人が惨敗することもあります。彼らをちょっと不機嫌にする方法を使うだけで、いつも勝っている人が負けることもあります。それを何と呼んだらいいか分からないので、「今日、俺はついてない」と言いますが、本当はバカです。心を空っぽにすることを知らないで、「今日俺はついていない」せいにし、何かのせいにします。運のせい、精霊のせい、何でもそのせいにします。

 仏教の教えであるタンマ、あるいは自然のタンマがあれば、つまり心を中道にし、多すぎず少なすぎない空にすれば、ツキが落ちることはありません。実際に演習してみてください。細々したいろんな問題が介入してきますが、一番大きな問題はここ、心を空にしなければならないということです。

 私は今でも穴入れ遊びをしています。つまり魚に餌を投げてやる時、窓の中から投げます。正確に投げなければなりません。他の場所に落ちては駄目です。こうやって穴入れをしています。

 次に小さな問題があります。投げる物が粘って手に貼り付き、普通に振り払っても手に付くので、的が外れ、自分が投げたい場所に落ちません。こういう小さな問題は大したことではありません。他の方法で解決できます。あるいは重すぎるか軽すぎるか、というのも小さな問題です。

 大きな問題は、片寄らない心、あるいは空っぽの心でする点にあります。手に貼りつくなら、貼りつかないようにします。あるいは強く振り払うことで粘着力を調整します。これは知性の問題です。何も怒りを生じさせる問題ではありません。

 どうぞこの話を忘れないでください。子供の遊びでも空っぽの心や、その他いろんなそのようなものを使います。同じです。個人的な障害の解決も、心を空っぽにすることで解決します。心を空っぽにすることで、既に持っているいろんな能力を使うことができます。外部、あるいは他人が原因の問題の解決も同じですが、それは遠く、あるいは難しくなります。

 今私たちには、空っぽの心に関係のない、いろんな問題解決の方法があります。正しくない空っぽの心で解決する、野蛮な空っぽの心もあります。時にはそれも役に立ちます。しかしほとんどの場合使い物になりません。それもある意味心の話ですが、野蛮な心による解決です。

 幽霊を怖がるような、幽霊を恐れる個人的な問題です。野蛮な空っぽの心でも勇んで突進でき、自我も何もないと感じ、あるいは幽霊と闘って幽霊を蹴ったり殴ったり自由にできます。これもある種の、あるいは一定時間だけの幽霊恐怖症の克服です。こういうのは、求める空っぽの心ではないと言います。使えるかもしれませんが、もっと良い方法があります。

 もう一つ、お守りを使います。幽霊恐怖症にお守りを使います。たとえば幽霊除けを首に掛けるのは、あまり効き目がありません。首に掛けていても幽霊に騙されます。首に掛けていることを忘れるからかもしれません。

 一番効果があるのは、何かに自信を持つことです。もう一つは一種の無明を使って幽霊恐怖症を解決します。つまり頭から信じ込んでこの問題を解決し、無明と言います。これも野蛮な空っぽの心に近いです。

 次も心を幽霊以外の物に向けます。墓地などを通りぬけるような時、何かを考えます。墓地の恐怖はそれほど強くはありません。しばらく我慢すれば墓地から出られます。目を瞑って通り抜けるぬける子供もいます。

 私は他のことを考える方法でしました。私が出家したお寺、あるいは子供の頃いたお寺から他のお寺に行く時は、草深い墓地を通らなければなりませんでした。用事があり、用事を言い付かって他のお寺のお坊さんを訪ねることがありました。時々楽しく思うことがあったのは、大勢の子供たちで、誰が墓場を通り抜けられるか賭けをしたことです。

 宵の口になると、あっちのお寺からこっちのお寺まで何かを運んで、本当に墓地を通りぬけた証拠にしようと賭けました。仲間の子供がスタート地点を見張ります。みんな意気地なしで誰も行けはしないと、誰もが体験で知っていて、あるいははしゃぎ過ぎて見破られていました。そこが墓地ではないように、心で他のことを考える方法は使えました。

 こういうのは「強制」と言って、サマーディと同じ種類です。しかし本当に、あるいは完璧な空っぽの心ほど良くはありません。それは気がつかなくても、野蛮な空っぽの心に近いです。次第に大胆になって吉祥時を探そうとか何とか言い出しますが、それは元々ある本当の自然ではありません。それに、仏教の十分な手法でもありません。

 仏教の手法は「猛火」といわれるような方法で、どっちに向けても空っぽに燃やし尽くしてしまいます。

 眼が燃えている鬼のように、どこを見ても燃やし尽くしてしまいます。私たちもブッダに倣った猛火があります。どっちを見ても何もない、動物も、人間も、自分も、私も、あの人もありません。

 しかしこれは、適度に勉強して練習しなければできるようになりません。シヴァ神のように簡単に与える物ではないので、ブッダの手法で実践して、心をすっかり空っぽにできるようにならなければなりません。動物も、人間も、幽霊も、仕事も、障害も、何もありません。それは魂の問題で、野蛮な空ではありません。少なくとも智慧であり、科学です。指しゃぶりをしている子供の算数でも智慧の話です。

 私たちは「幽霊は、人が魂と呼ぶ物がある」と考えることがあります。人が魂と呼ぶ以上のことは何も知りません。幽霊には魂しかありません。私たちにも幽霊のような魂はもちろんあります。幽霊は死んだばかりなので魂だけが残って浮遊しています。

 私たちの中にも、当然同種の魂があります。しかし私たちにはまだ肉や血や筋肉や何やら、魂以上の物があります。幽霊が一なら、私たちは二か三あります。だから私たちは幽霊より力があるので、幽霊を怖がらなければならないことはありません。こう考えると幽霊を恐れる気持が消えます。

 算数なら、一足す一は二、二引く一は当然一です。こうすれば恐怖は消えます。これは知性の問題です。野蛮ではありません。知性と、野蛮な突進は区別しなければなりません。野蛮な突進は混乱した心ですが、空っぽの心は知性で、方向が違います。

 仏教式の正しい「空っぽの心」は、智慧の問題でなければなりません。それができるようになれば、智慧は子供の算数より高度になります。これは見落とされていて、まったく関心を持たれません。初めからこのような手法に慣れていれば、それを基礎にして、簡単に心を空っぽにできます。つまり智慧を重ねるだけです。もう既にあるので、それを増やし向上させるだけです。

 一つしかない物をですが、それを多く発展させ、一つしかないものを、濃く、多くすれば、問題はすべて解決できます。最高の智慧の問題なので、動物、人間、自分、私、あの人などはないと見、それらは、ああだ、こうだと仮定ばかりしている、真実を知らない人の話と見ることができます。幽霊もなく人もいません。で、誰が誰を騙すのでしょう。

 だから教えの岸にたどり着いた人、つまり阿羅漢にはこれらの問題はありません。幽霊はなく、幽霊に騙される自分もいないからです。

 子供の頃のことを憶えています。出家して学んでいる人に質問したことがありましたが、その人は何も知りませんでした。私は大胆にも「あなたは何も分かってない」と言ったことがあります。しかしその人は、「阿羅漢になれば問題はすべて解決するから幽霊も騙さない」と、考え考え言いました。

 ヴィパッサナーの先生になれば幽霊は騙さないとも言いました。その人はヴィパッサナーが何か、どんなものか、知りもしないのにです。それでなぜ幽霊が騙さないのか、この人は知らないに違いないと、観察して分かりました。しかしその人は信じた通りに言いました。

 今考えれば本当だと分かります。本当のヴィパッサナーの先生なら、いつでも動物も、人間も、私も、彼もないと見るので、幽霊は騙しません。

 高く熟慮して、何も無いくらいすべてを空にしてしまえば、黄檗希運が言ったように「雷のように、雲の上を来るように」と言います。

 黄檗希運の本を少し読めば、黄檗希運や黄檗希運の教義は「空」という一語しか使わないということが分かります。空の他には何もありません。ブッダは空、タンマも空、サンガ(比丘の集団)も空、これくらいにしておきますが、何もかも空です。煩悩も空、苦も空、何もかも空です。本当は仏教の智慧、あるいは率直に表現された仏教の教えです。良く聞かないといい加減に聞こえますが、本当はいい加減ではなく、知性です。最高に高度な智慧の結果です。

 十分深く見て、そして真実を見極めれば、石ころも空、犬も猫も、何でも空、人も空、何もかも空で、仏法やサンガまでも空です。そしてその空もまた空です。しかし誰もそれを有効に使う人はいません。読んでもまったく意味が分からないからです。これがどんなに素晴らしく、どれほど真実でも、人が有効利用できなければ利益がありません。

 しかしそれ自体に価値があります。それ自体は、誰も有効に利用できないダイヤであり宝石です。このように幽霊を怖がる問題でも、いろんなレベルの克復方を用いなければなりません。

 最高に良い方法は、火のように敏捷な智慧ですべての方向を空と見ることです。それがブッダの手法です。

 ブッダは「常に世界を空と見るサティをもちなさい」と言われています。どんな問題でもすべて解決できます。聞いて意味が分からなければ、最高にバカバカしい話しですが、その人は伝統習慣として仏教を信仰しているので、ブッダに文句を言うわけにもいきません。

 もし私が言ったら、あるいは私が勝手に言ったと解釈すれば、バカバカしい話だと非難するでしょう。しかしブッダが言ったらしいと知っているので、黙ってしまいます。理解できないことは非常に大きな障害です。黄檗希運が言っているように「ブッダは空」というのも真実です。だから空を知らないことはブッダを知らないことです。

 その人が仏教を信じていると主張しても、ブッダの外側に至るだけで、内側の本当のブッダに至っていません。タンマも空で、その人にはタンマもなく、タンマを知りません。サンガも空で、その人はサンガも知らず僧もいません。黄檗希運は実にすべての系統を言っています。それは猛火のような物で、ただ一つの例外もなくすべて燃やし尽くしてしまい、すべては空です。

 ブッダがブッダであるのは、心に俺、俺の物がない空だからです。タンマが教えになったのは、俺、俺の物が混入していない自然だからで、学ぶために教えるタンマも自分をなくすよう教えます。実践も自分をなくすためにし、その結果は自分がなくなることです。ですからタンマすなわち空です。自然の体を見れば空であり、俺でも俺の物でもありません。

 僧サンガも同じで、空の心、あるいは空になってこそ僧です。人ではありません。僧は人という意味ではありません。ブッダが人という意味でないのと同じで、すべてがタンマという意味です。そしてタンマは自然です。俺、俺の物でも、人でもありません。すべて空です。ブッダが「世界を空と見る」と言われたのは、すべて空、形の物も名の物も空、名の物である煩悩も空、名の物である苦も空です。

 出家している間に武器である、仮に猛火と呼ぶ物を身につけることができれば、それは何を見ても空に見えるレンズです。猛火は近づけるだけですべてを燃やし尽くします。多少物質的な話ですが、これは譬えです。私たちは精神的な物、あらゆる物の中の「俺、俺の物」を燃やし尽くします。レンズなら光を集めて「俺、俺の物」だけを燃やし尽くします。

 他の何が残っても勝手です。それは残骸です。命も残骸として残り、心も残骸として残ります。俺、俺の物はありません。みなさんが今出家している間に身につければ、還俗してからとても役に立ちます。還俗すれば第二種の障害、外部や環境に起因する問題に遭遇しなければならないからです。一人だけの世界に住んでいるのではないので、仕事で他人と関わらなければならないからです。

 普通は還俗すると結婚したり何なりして、いろんな物、いろんな人に囲まれます。それらはすべて障害を生む物ばかりです。そしてそれ以上に、たくさんの人の責任を負わなければならなくなります。その人が汚職でもしたら大変な問題です。それ以上にライバルや足を引っ張り合う人に囲まれています。

 俗世の、あるいは俗人の性として、腹が立つような問題がたくさんあります。腹が立てば死です。人間、腹を立ててしまったらその時は死です。つまりすべて破滅します。だから腹を立てない方法は心を正しく維持すること、狡賢い知恵でなくブッダ式の知識がある智慧を維持します。生きること以外の何物でもありません。

 ブッダ式の純粋な智慧は、心が空っぽになった後にあります。これはいつでもあります。それは今話しているような武器で、関わって来るすべての物を燃やし、威力をなくしてしまいます。しかしそれを実行するのは非常に難しく、どんどん難しくなります。

 もともと嫌ったり怒ったり憎んだりしている時、元手として、敵あるいは妨害、反対する人を嫌っているので、基本的にすごく空っぽでないので難しいです。真っ暗で、問題を解決する智慧がありません。

 「善で悪に勝つ」というブッダの言葉を信じることができません。善で悪人に勝つことができないのは、心が混乱して曇っているからです。ブッダが言い出した人であり、私たちはブッダの弟子なのに、二三回やられると投げ出してしまい、「この方法は駄目だ」と泣き言を言います。

 現代は、善で悪に勝つ方法は通用しないと信じる人が増えています。世界がそう信じないからです。コミュニストは悪で、自由主義、民主主義が正しいと捉えるので、善で悪に、あるいは悪人に勝つべきと誰も考えず、誰も努力しません。人々は常に「目には目を、歯には歯を」という考え方をし、時には同じような方便を使います。善をしても正しい善ではなく、本物でないので勝てません。

 みなさんは仏教の僧として、ブッダの弟子として、ブッダの言ったことが正しいか正しくないか考えて見てください。善で悪に勝つ。与えることでケチな人に勝つ。みなさんは、ケチな人に与えることで勝つことが、何回できますか。要するに心を空にできないから、何もできません。

 「自分の家から一匹の犬も追い出せない」とナポレオンが愚弄されているように、家族も支配できません。大皇帝でも、一匹の犬を追い出すことができません。奥方が犬好きだからです。これは俺、俺の物の問題で、だから何にも勝てません。

 みなさんは家庭の中を初め、いろんな問題に遭遇しなければなりません。これは還俗する人についてですが、還俗して他人の支配下になるとか、外部の人、敵などに出会った時、これらの問題をどう解決しますか。私は空っぽの心を使うしかないと繰り返します。一つだけの素晴らしい道具なので、急いで探して使ってください。

 みなさんは先ず、自分に勝たなければなりません。先に自分に勝利しなければなりません。煩悩に勝って自分をなくし、自分の物をなくします。そうすれば他人に勝つ方法が分かる智慧が得られ、他人を支配することができます。

 しかしそれは、口で言うように簡単ではありません。智慧に加えて、非常にきつくて辛い忍耐が必要です。忍耐できなければここで挫折します。仕事のために働かず、俺、俺の物で働く人なら尚更大変です。

 仕事のために働くのも、まだ最善ではありません。ブッダの智慧で、仕事でなくなるように、仕事でないように、遊びのようにしなければなりません。何でも空っぽと見れば仕事もありません。働くこともありません。仕事のために働くよりもっと素晴らしいです。自分のため、自分の物のために働くことは、終始、生き地獄にいることです。

 自分のために働けば、その間中怒りを感じます。そして自分の身内の中で働いていても、ずっと混乱しています。仕事のために働けば気持ちが正常で、障害を乗り越えるだけの智慧があるので素晴らしいです。これについては、また別の機会にお話します。

 それより何より素晴らしいのは、するべき仕事がないことです。

 「私はしなければならない仕事はありませんが、動きはあります。歯車であることには変わりありません」。

 していることを仕事、あるいは重荷と感じません。遊びをしているように、すべて遊びであって仕事ではないので、何でも楽しくなります。得る事ばかりで失う物はありません。得ることばかりです。知識を得、何でも得ます。失敗しても知識を得ます。

 このようにたくさん、得る物だけです。知識を得、真実を得、常に何かを得ます。だから「働く」ことはありません。あるのはいつも得ることばかり。休まず精神面の成長があり、精神的な発達があります。苦も地獄もありません。こういうのは自分にも他人にも勝ち、何にでも勝てます。

 現代は仕事が山ほどあって、問題も山積みです。仕事もいっぱい、責任も重く、障害もたくさんあり、食べていくには、大変な仕事の障害を乗り越えなくてはならないと、世間では言っています。

 人間は自覚していませんが、犬より、あるいはその他一般の動物より愚かです。私が言っている意味は、動物の仕事は食べることで、小鳥がドウダイグサの実を食べるのを見ていると、食べたり遊んだり、半々くらいで、仕事という程のことはありません。飛んできて食べる以外には何も義務はありません。それが小鳥たちの仕事です。

 あれの仕事は食べることです。犬も同じです。食べる以外には何も仕事をしません。食べることが仕事です。他に犬が自分のこととしてするのは、全部遊びです。人間に使われたり、他の動物に噛みついて追い払ったり何だりするのは、全部遊びです。人間のように山積みされている心の重荷はありません。

 人間は何でも仕事で、何でも責任を負わなければなりません。食事を摂ることも義務であり、精神的苦痛になります。だから仕事は溢れるほど、山ほどあります。しかし動物には仕事はありません。あいつらの仕事は食べること。人間は仕事を探さなければ食べられません。愚かと言わなければ他にどんな言い方があるでしょう。

 罪業がある人と言うのは、仕事をしなければ食べられないという意味です。動物の仕事は食べることで、仕事という感覚はありません。遊び、あるいは快適、あるいは幸福という感覚だけです。私たちは仕事がいっぱいで、犬は遊びがいっぱいなので、犬の方がいいです。

 人生のいろんな障害を解決するには、人間関係でも、敵でも、仕事でも何でも、どうしたら追い出せるでしょうか。

 私は「それは、身につけている武器で見る物すべてを燃やし尽くし、空にしてしまうブッダの方法以外にはない」と言います。あらゆる問題を空の心で解決します。心を空にすること以外に方法はありません。つまり空が生じることで現れる知性で、俺、俺の物を退治します。それが心を空にすることによる解決です。

 心が空になると、人が問題と呼んでいるいろんな問題を解決する知性が生じます。少なくともそれらの問題は消滅します。いろんな問題は、心が空っぽになると同時に消滅します。それから先どうするか次第です。

 自分だけの個人の問題も、外部の環境に起因する問題も「解決法は心を空にすること」と言います。心を空にしたければ、常に明で智慧を生じさせ、心を空にする以外にありません。無明も、常に無知を作ります。明は明から生じ、無明は無明から生じ、仏教式の質問の答の終点です。

 論理学、あるいは現代の哲学ならどう答えるか、私にも分かりません。仏教教団員式に簡単に答えるなら、愚かな無明は無明から生じ、明と智慧も明と智慧から生じ、最高のものは、俺、俺の物がないことから生じます。それ自体が智慧であり、引き続きその他の知識を、限りなく生み出す智慧です。




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