6.問題を作る発展






1969年4月16日

 五時になりましたので、今朝は「ボロマタムと発展」というお話をしたいと思います。特に現代世界の発展を意味します。この問題が考えやすくなるので、初めに発展という言葉の、パーリ語サンスクリット語の意味から考えて見ます。

 パーリ語の「発展」という言葉は「散らかる」、つまり非常に乱雑するという意味です。たとえば「草茫々」とか、「髪がボサボサ」なども「発展(発達、繁栄、繁茂)」と言います。もし何も世の中のためにならない行動をする人がいるなら、人が世界を散らかすと言います。発展という言葉と同じに使います。だから「世界を散らかす人になってはいけない」という言葉があり、禁止します。そう促しまません。

 だから世界を利益がない物で散らかすことには利益がなく、その人は世界を散らかす人です。要するに発展とういう言葉は散らかすこと、乱雑にすることです。善い人、善い物で散らかしたければ、体を導く心を発展させなければなりません。

 難しい問題、大混乱や大騒ぎで散らかすなら、物質を発展させて心を埋もれさせてください。私はこれを原則にしたいと思います。本当かどうか、後て考えて見てください。

 善い人、善い物で散らかしたければ、体を導く心を発展させてください。

 大騒ぎでいっぱいにしたければ、物質面で発展させて心を埋めください。

 体の発展と心の発展、あるいは物質面の発展と精神面の発展はどう違うか、試しに考えて見てください。本当は精神面だけ、あるいは物質面だけで暮らすことはできません。発展も二つ揃ってです。しかしある時代、ある時期には、どちらか一方だけの発展を目指します。

 たとえば溢れるほど物質面が発展しても、精神面は顧みられることなく、徳やカンマ任せにされています。これが現代の世界です。大昔のことに思いを馳せると、森に住むムニーや仙人たちは、体を嫌悪して、心の発展だけを目指しました。こういうのもありました。

 一方だけの発展があり得ると仮定すれば、精神面だけが発展する結果はどうか、体だけの発展はどうか、という比較ができます。精神面だけの発展は、まだ安全に見えます。物質だけの発展はすべてを失います。

 精神面だけの発展は、心を善くし、心を高めるので、一方的に発展すれば、体を必要に応じて正しい方へ導くことができます。無駄にはなりません。だから心だけの発展は、体が心の支配下にあるので安全です。心が善くて高ければ、体は部下として従うので一緒に善くなり、一緒に高まります。

 もし体だけ、物質面だけ発展したらどうでしょうか。それは肉体に酔って溺れることが分かります。つまり肉体の幸福が心を支配し、心に何かするので、心は抵抗できず、あるいは低下して大人しくなり、煩悩だけになります。物質的な幸福は、煩悩を増やすからです。

 そこです。もし物質面だけの発展しかなければ、心が陶酔して物質の威力下に沈むのを、遅らせる方法があります。だから一方だけの発展と言うなら、心だけの発展はまだ安全で、物質だけの発展は危険に満ちています。

 今世界は物質だけの発展に向かっています。後れること、武器がないこと、あるいは豊かな生活ができないことを恐れるので、物質面だけの発展を目指さなければなりません。そして心の発展と言って神様を騙します。だから世界中このようです。混乱して揺れ、難しい問題、特に道徳の衰退や心の低下による問題がキリもなく発生します。物質の奴隷になっているからです。

 だから心の発展は非常に求められることです。そしていつでも、それが先でなければなりません。心が賢く正しければ、物質面も過度ではなく、自然に適度に発展します。しかしどちらが大切かと言えば、心の発展で、重要であり安全であり、光です。

 今は何もかも混合させ、物質的発展は溢れるほどです。心が発展する機会がないほど、あるいは枝葉のような発展しかできないほど溢れています。枝葉のレベルの心の面の発展。幼児のように低レベルの発展です。

 しかし物質面の発展は言葉で話せないほど巨大で膨大です。物質面の発展が心の発展を越えれば越えるだけ、神の罰のように、悪魔に顔を叩かれるだけのように、世界に苦が生じます。だから気を付けてください。混同して失敗しないでください。心と精神の発展を物質面の発展と一緒にできるかも知れません。

 例をお話する方が良いでしょう。スアンモークには犬が何匹もいるので、簡単に見えます。母親が何かを銜えて来て子犬に食べさせます。こう言うのは物質的発展です。それから暫くすると、母親はもう同じようにしないで、子犬を連れて行って自分で食べさせます。あるいは自分で探して食べさせます。

 子犬はお腹が空いていますが、自分で探して食べるよう強制されます。母親は以前のようにしてくれません。これは、子犬が自分で生きていく知恵をつけさせる心の発達です。

 今の世界も同じです。物質的な繁栄がコンピューターやら何やら、いろいろ言われている機械を人に与えます。現代のすべては、どれもどんどん人を愚かにし、心を低下させ、能力を失わせます。人は快適さだけを求め、自分の幸福だけを求め、益々働く意欲が無くなります。

 これは心が低下する病気です。深い部分、精神の部分では確実に利己主義が増えています。ゴロゴロ寝ていたくて、むしろ六処の幸福を求めています。

 最高に低い角度を見ると、土地を開墾する手伝いをして、彼らが生活できるように、土地を持てるようにする援助などは、物質的な発展です。物質的にその人を助けることです。しかし他の方法で、自分一人で稼いで生活できるような知性が生じるようにすれば、そういうのは心の発展です。田んぼで働いて食べるのは同じですが、それには物質の問題と心の問題があります。

 物質的に発展しすぎれば膨張した話になり、その人を怠け者にし、身勝手にし、いろんな物にし、しまいには何もできない人になります。何から何まで支援するのは、支援する人の限界を超えています。しかし、いつでも彼自身で生きられる方法にすれば、貧困が教え、貧困が愚かさを罰し、怠け者だった人も、最後には自分で生きられるようになります。こういうのが心の発展です。

 「心の面」という言葉にも二種類あります。心には二つのレベルあるからです。初めのレベルは mentality、つまり体と繋がっている心で、神(神経という言葉のしん)、いろんな考えを生むことができる神の感覚で、体次第です。これは心の一種で、体と繋がっていて自由がありません。もう一つのレベルは本当の心で、より深い問題です。それは Spiritual Faculty 、つまりもう一段階上で、自由でいることができ、身体に関わりません。

 心の面の発展とは、 Spiritual の意味です。若い人は、食べる物があり、使う物があり、快適な住まいがあれば神も心も快適で、遊ぶことができ、この頭が快適なのは、心の発展だろうと勘違いするかもしれません。

 これは体と関連がある類の心で、mental sphere の一部で、Spiritual ではありません。何と言ったら良いか分かりません。言葉がありません。英語では Spiritual Faculty と言います。私が病気に譬えて、体の病気、心の病気、精神の病気というのを考えて見てください。

 若い人は、感じる物はすべて心の問題と理解してしまいます。本当は、体で生じる感覚は完全な心でなく、reaction あるいはただの反応、体の反応です。本当の心と言うなら、分けることができる、あるいは mentality で作られた、あるいは体も含めた物質と、この心を合わせて精神的な物にした、もう一つの種類でなければなりません。

 たとえば体や心は病気でなく元気でも、精神は愚かという病気で、怒りの病気で、地獄へ落ちる病気で、内心怒り狂っています。善人と言われる人、紳士と言われるくらい善人でも、時にはまだ、地獄へ落ちるような怒りの心になることがあります。これは精神の病気です。

 みなさん、自分の子や、大人になってもまだ子供じみたところがある人に、心や精神という物はこういう意味と教えなければなりません。体が快適なら心も快適、身体が正常なら心も正常というのは、指しゃぶりをしている子供の考えで、知性のある人の考えではありません。

 私たちは物質しか好まないので、「物質は身体を快適にし、そして心も善くなる。心を快適にする」と言います。それを心と勘違いしています。物質主義の人に質問して見てください。どんなタイプの物質主義者も、全員そう答えます。

 物質面の問題は、快適さにガツガツしています。汚い下品な言葉を使ったことをお許しください。時間の節約のためです。物質面の問題はガツガツする問題で、肉体の幸福へ導いています。それを、気が済むまで報いる愚かな行動と考えません。私は困難が増す話を先にしています。

 ここのトイレは、平たい手桶二杯の水を使います。新式の鎖のあるトイレは、三、四リットルも使うのがあります。手桶二杯は一リットルの半分に相当しますから、六倍から十倍の水を使います。私はクルンテープ(バンコク)へ行くと新式のトイレを使わなければなりませんが、水タンクの鎖を引くたびにびっくりします。

 ここで使っている水の十倍も使います。慣れるのに何日も掛ります。これは六倍から十倍もの無駄を増やしていることです。これは、心の面の簡単な発展、心を重要とするのと、物質を重要とするのとの浪費の違いの面です。

 お爺さんお婆さんの時代は、心を高く維持して暮らしていました。排便をした後は、何度も何度も洗いました。必ず水で洗いました。排便をしたら洗わなければならない、律に厳しいお坊さんと同じです。現代人は排便をしても拭くだけです。見てください。これが物質主義で発展した人たちです。

 それほど汚れてはいない顔は、反対に何度も何度も洗い、何度も拭き、何度も何度も塗ります。何を塗っているのか知りませんが、何度も何度も顔に。でも排便したお尻は拭くだけです。世界が物質的に発展した時代に増えています。

 顔を洗って拭くのに時間を使って、お尻を洗う時間を節約する気持ちになります。物質的発展と、体の発展はどう違うのかということを、理解する時間を省くために、このように尾籠な話をさせていただきました。そして何が生まれるか比べて見てください。

 人工衛星の時代の物質的発展、それとも何の時代と呼ぶのが良いでしょう。現代人は宇宙の時代、人工衛星の時代と呼び、核の時代と呼ぶのはもう時代遅れです。時代遅れの呼び方です。他の世界へ着陸しようという宇宙時代は、物質的な進歩という意味であり、他の世界へ行くことは、肉体的に珍しい幸福を貪る以外には、心や何かを善くしません。

 あるいは秘密の謀略で、宇宙の知識を集めるのは、他のことより、ライバルに勝つためかも知れません。欲で、怒りで、迷いで、陶酔で、このように物質のことだけに掛りっきりになっている時は、心のことを忘れ、心の問題をどこに捨ててしまったか知れません。物質面の陶酔は、世界に道徳の衰退という結果をもたらし、精神の堕落を生じさせました。

 「精神面のヤクザ」。聞いて意味が分かりますか。意味が分からなかったら、取りあえず聞いていてください。いつか分かると思います。つまり常軌を逸した心で不道徳なことをし、何でも常軌を逸したことをします。畜生の心で、恥知らずな猥褻事件を起こします。

 最近発表された統計によると、非常に物質的繁栄をしているある国では、性に関した、男女に関した猥褻犯罪が千件だそうです。性犯罪が一分間に千件起きています。聞いても信じたくありません。一日に千件でも多すぎですが、向こうの発表では、性犯罪が一分間に千件です。道徳の衰退はこのように問題を増やし、苦を増加させています。

 これも物質に溺れた結果です。物質的発展に血眼になることが、若い男女の精神をヤクザにします。ヒッピーやら何やら、何でもいいですが、すべて精神面のヤクザです。物質面に溺れた結果です。道徳を維持できないほどストレスが多いので、欲望のままに、思った通りに飛び出してしまうので、精神面のヤクザ、社会の問題が増えています。

 二三日前の新聞に載っていましたが、六万人の大学生たちが示し合わせて、フロリダの海岸で全裸になって大麻を吸っていたと書いてありました。これはまだヒッピーまで行っていません。大学生でありながらこういうことをします。これが本当なら、精神面のヤクザはここまで進んでいます。これは、心を無視して、心を忘れて、心のことを考えないで、心を育てないで、物質だけを発展させた害です。

 みなさんは、私たちには体と心があり、分けることはできなくても、物質的発展と精神的発展という言葉の意味を分けることを知っています。心だけ発展すれば、体にも善や正義をもたらしますが、体だけの発展は、心を忘れ、心をほったらかし、あるいは心を低劣な方向へ引っ張ります。あるいは心が体の支配下になるので、低劣な方へ引っ張られます。

 体が心の支配下なら、少なくても見られる方へ引っ張られます。心が発展すればするほど、物質の支配から解放されるからです、重要な意味はこのように違います。

 心が発展すれば徐々に高くなり、少しずつ開放され、物質より上に、物質の支配より上になります。反対に体が発展して至れり尽くせりになれば、劣化して物質の支配下になり、煩悩崇拝者になります。このように違います。どちらか一方だけの繁栄は、心だけなら安全です。心が自由なら、体を物質より上にある自由で正しい所に引っ張って行くからです。

 次にボロマタム(ブラフマダンマ。梵法)と発展の関係についてお話します。ボロマタムは、以前に詳しくお話ししたように、私たちが求め目指す物です。心の発展は、ボロマタムに関して必要不可欠です。世界にボロマタムが残るか、あるいは世界にボロマタムがあるかないかは、心の発展に関わっています。

 心の面の正しい発展があれば、ボロマタムもこの世界に残ります。陶酔して体や物質を崇拝すれば、低級な物のを崇拝し、下等なタンマ、あるいは猥褻なタンマか何かそのようなもので、ボロマタムではありません。

 ボロマタムという言葉は、最高の、最も素晴らしいという意味です。心が発展するとどのようにボロマタムが生じるか、理解しなければなりません。大したことではありません。述べようなボロマタムを、普遍的な道徳のボロマタムを、仏教教団員の意味で見てください。

 つまり四種類のボロマタムが心の発展で、心の発展の結果です。みなさん、正しい幸福を、もう一度思い出してください。

①十分な人間性があること、 ②純粋な義務、つまり義務のための義務、 ③普遍的な愛、 ④自分と他人がないこと、

 この四つを合わせたのがボロマタムです。そしてそれは、発展でもあり、発展の結果でもあります。

 お金のためでなく、義務のために義務を行なう人、仕事のために仕事をする人は、このボロマタムの心の発達です。だからこのボロマタムは、義務のために義務をすることです。だから直接発展であり、直接心の発展です。

 普遍的な愛に努めていれば発展です。普遍的な愛があり、自分と他人の区別がなくなるくらいまで心を高くなった発展です。そして本物の普遍的な愛が生じれば、それは高い心のある人の、普遍的な愛のある人の発展の結果です。

 正しい幸福と人間性を満たすことは、発展の結果です。だから四種類のタンマで示した普遍的な道徳は、発展でもあり、発展の結果でもあります。結果を先に話してもいいです。結果は幸福で、人間性を満たすこと、これが目標です。私たちは何をするにも、まず正しい目標を定め、それから始めなければなります。

 次に「仕事のための仕事、義務のための義務」で働きます。これを純粋な義務と言います。それは正直で誠実で、曲ったことができない人、愚かでない人です。不正から精神的なヤクザまでは、義務のための義務、仕事のための仕事をしないで、お金のため、煩悩のため、何でも思い通のままにするために働くから生じます。

 最後には自分と他人の区別なく暮らします。つまりそうなるよう努めます。自分と同じくらい他人を愛し、すべての人を自分と同じだけ愛せば、世界はすべて自分しかいないのと同じになります。自分も他人もありません。これが本当の心の発展です。そしてそれ自体に、心の発展の結果もあります。

 次に人々はこうしているでしょうか。世界には正しい平安があるでしょうか。見ると悲しく、哀れになります。世界の人は人間性を満たしているでしょうか。見れば悲しく哀れになります。彼らは、満たすとはどのようかを知らないからです。正しい人間、満たされた人間とはどのようかを知らないからです。

 知らなければ、どの人が満たしているか満たしていないか、分かるはずがありません。今世界中が、腹のため口のために働いています。コントロールされることなく、物質的な豊かさを追い求め、限度を失っています。限度がないことが、淵へ突き落します。

 この世界に普遍的な愛はありません。あるのは普遍的な憎悪だけです。民族間の憎悪、国家間の憎悪、政治主義の憎悪、何の憎悪も見えます。そして個人も腹と口のことしか考えず、自分のことしか考えず、憎み合っています。

 その結果スポーツ選手も競技場内で暴力行為をし、果ては両親や先生を敬うことも薄れてしまい、ほとんど残っていません。物質主義が著しい子供たちは、親に貸があると考えています。以前にお話ししたことがあるように、彼らが親の顔を立ててやっているからです。

 ですから発展は、ボロマタムと密接な関係があるということ、そしてボロマタムは発展であり、発展の結果でもある、ということを考えなければなりません。今の問題は一種類だけ、つまり解決できない複雑さです。良い計画があり、体力があり、気力もあり、お金もあり、それでもまだ穏やかな幸福がないのは、心の発展がないからです。心の発展がなければ、利己主義がいっぱいです。

 この短い言葉を考えて見てください。「心の発展が遅れていれば、利己主義がいっぱいです」。つまりボロマタムがありません。このように身勝手でボロマタムに欠ければ、人類は人間でなく、ただのヒトです。心が高くないからです。「人間」とは「心が高い」という意味で、「人」とは「生まれてきた」という意味です。ボロマタムがなければ国民と呼ぶにもふさわしくありません。良い政府、良い官吏になる話は止してください。

 ボロマタムに欠ける、つまり心の発展が遅れていれば、国民にもふさわしくありません。良い官吏、良い政府、あるいは良い支配階級になるなど、言うまでもありません。国民にもふさわしくありません。一匹のアリになるのもふさわしくありません。これを考えてください。普遍的な道徳レベルのボロマタムさえないので、良い計画があっても、たくさん借り入れができても、それらはすべて不毛です。

 構想が良く、計画が良く、予算的に良くても、それでも世界の発展、国の発展は不毛です。心の発展に欠けるので百パーセント不毛です。どんなに良くても、二五パーセント以上の結果は得られません。後の七五パーセントは勿体ないです。もし良い計画通りに、十分な予算どおりにすることができれば、百パーセントの結果を出せます。しかし心にボロマタムがないので、心の発展が欠けているので、できません。

 次に重要な問題の話になりました。重要点は、ほとんどの人が理解しているように、心の発展をタンマと世俗に分ける必要はありません。心が発展すれば、すべてタンマになり、世界はありません。そして世界のことに使うこともできます。

 今人々は心の発展を、世界のこと、タンマのことと区別しています。見当違いな区別をして、世界のことは食べていくことだから、善い心で仕事を営み、良い在家として暮らすことで、タンマの方向へ心を発展させるのは、森に住む出家者や仙人や修行者の物と見なします。

 このように二種類の心の発展に分類します。これはボロマタムを二種類に分けるようなものです。そんな必要はありません。どうぞ心を発展させてください。世界もタンマの方も、どちらも良くなります。二つは同じです。同じ系統の物です。浅いか深いか、あるいは狭いか広いかの違いだけです。別の種類、別の問題と捉えないでください。

 家にいる子供たちも、子供のレベル、子供の分量、あるいは庶民レベルで発展します。しかし同じ問題でなければなりません。つまり高い心を持たせます。同じ形、つまりボロマタムです。分ければ誤解です。これに対する誤解です。そしてそれは気づかないうちに、物資的、あるいは肉体的発展になり、良い暮らしに迷います。それが発展の結果で、すべて物質の話です。

 どうか憶えておいてください。良い生活は物質の話、あるいは物質的発展です。ちょうど良い生活が心の発達です。ちょうど良い生活をするよう注意してください。そうすれば心が発達します。しかし良い生活を崇拝すれば、気づかないうちに物質的発展、肉体的発展になり、そして暴走し、問題や世界の混乱の原因になります。

 タンマによる心の発展、あるいは正しい世界の面の心の発展は同じで、心を高くします。心の高さは一つの系統しかありません。初等か最高かだけで、二つに分けることはできません。

 心を高くするには、仏教の教えですれば十分です。あるいは有り余ります。心を高くするとは、良く訓練された心にすることです。仏教の教えは、心をよく訓練すること、特にサマーディである心に言及しています。仏教の教えでは、この段階まで心が発展すると、以前にも何度も概略を説明したことがあるように、三つがあります。

     純潔な心であること。

     安定した心であること。

     義務に対して敏速な心であること

 純潔な心、Pure と言われる純潔のある心が、高い心です。そして安定した力のある心、Firm であり、 Steady であり、そのような心が高い心です。そして義務に対して敏速、つまり最高に Active な心が高い心です。これで十分です。

 初めに、試しに心を高くしてみます。それは清潔な心、つまり「ボリストー」です。清潔な心なら、智慧があり、誠意があるという意味です。義務のために義務を行い、それ自体が本当の幸福で、人間性に満ちています。そして清潔な心があることは、当然慈悲があり、自分より他人を愛しています。

 心が、仏教で教えているような純潔なら、国内に、世界に、苦はありません。贈収賄も汚職もなく、どんな複雑困難の原因もありません。ただ仏教の教えの純潔な心だけで。

 二つ目の安定した心は「サマーヒトー」で、考える力のある心です。高い心の力があり、高い智慧があり、ついでに二つの力、つまり気力と体力があり、自分をコントロールでき、勤勉で、不撓不屈の忍耐でさまざまな障害を乗り越えることができます。建物の中で、車の中で、贅沢な生活にデレデレしていません。これが安定した心、サマーヒトーです。

 三番目は「カンマニヨー」、仕事に対して敏速な心です。この種の心を使って、どんな場合のどんな仕事もすることができます。この心は active です。今の私たちは鈍い心があり、物質主義に溺れているので、何もまともにできません。捨てて自由にならなければなりません。

 この三つの言葉が、心の発展に重要です。つまりボリストー、純潔な心、あるいは pure、サマーヒトー、安定した心、あるいは Firm、カンマニヨー、自分の仕事に敏速な心、つまり active。心の発展には、この三つがあれば問題はありません。これは本当のタンマの話、本当の仏教の要旨です。

 次に世界の話ですが、世界的に善い心、高い心にするには、どう言いましょう。それには今話したことを、このように反対にしなければなりません。これです。心の堕落、純潔でない心、力のない心、義務に敏速でない心、つまり物質主義に酔い痴れている心です。

 だから心を物質面に発展させ、物質面に落としてはいけません。どうぞ心の面に心を発展させて、清潔、安定、そして義務に敏速な高い心にしてください。

 そうすればその心が、心の力で物質を引っ張り、身体を引っ張り、何でも引っ張ります。仏教の教えではすべては心次第で、それから身体や世界の物質も良くなります。心が善いからです。

 心にいつでもボロマタムがあるか、あるいは少なくとも、いつでもボロマタムがあるように発展させるので、世俗のこと、たとえば商売や生業を営むこと、子供の話でも、心を涅槃に向かわせるのと同じように心を純潔にし、安定させ、仕事に対して敏速にさせる原則がなければならないということです。

 涅槃に到達するにはこの三つをしなければなりません。庶民が生業を営むにも、この三つの形の実践をしなければなりません。心がそうなるように勤勉に訓練すれば、いろんな問題はなくなります。家族の問題も無くなり、地域の問題も無くなり、国の問題も無くなり、世界の問題も無くなります。心がそういう形で発達するからです。

 だから私は、「心の発達を世俗とタンマの二種類に分ける必要はない」と主張します。それは同じです。心の発展や高さは、一つの系統だけで、正義も一種類しかありません。違うのは多様なレベルだけです。タンマである宗教面の心の発展を、家庭内や日常生活の普通のことに使えば、世界の話のようになるので、人はそれを誤解します。

 本当はブッダ、タンマ、僧を家の中に、心の中に、台所や浴室やトイレに置いておけば、それは心の三つの状態、清潔、安定、いつでも仕事ができる敏捷さがあることで、トイレの中にも高い徳があります。日常生活に、工場に事務所に、そしてどこにでもあります。

 例えるなら、例えさせていただけば、日本はこういう状態でした。物質ではなく心の発展を採ったので、物質的発展も順調で、西欧が恐れるほどになりました。その基本は心の発展にあります。日本人には高い心の発展があります。しかし気付きません。私たちには見えません。それは日常生活の中にあり、文化の中にあります。つまり禅と呼ぶ仏教です。当時の中国、日本などの極東の地域にしかありません。

 日本人には禅の精神があり、しつけや教育によって文化に沁み込んでいるので、世界の普通ことのように見えます。つまり高く持ち上げられる宗教の形でなく、庶民の日常生活、家庭内の文化の形になっています。仏教哲学で著名な鈴木貞太郎大拙文学博士は、「禅を取り出してしまえば、日本の独自性は無い」と言っています。

 禅、つまり仏教の禅を取り出してしまうだけで、日本人でなくなります。武士の剛健さから、不撓不屈の精神、温厚な礼儀正しさ、何度でも頭を下げて詫びることができることなど、仏教の禅から来ている日本文化は非常にたくさんなので、それを除いてしまえば、日本の独自性はありません。

 それが世界の方、タンマの方と分ける必要がない心の発展です。それは体の中にあり、分野別目的で段階的になっているので、不撓不屈の精神を養うこともでき、温厚な礼儀正しさも養え、職務に対しての勤勉さや、知性や空の心を養うこともできます。花を活けること、三、四年も勉強しなければならない華道である花を活けることもできます。日本文化の何もかも、高い心があること、高い文化によっています。

 そして自覚していません。日本人自身でさえ何人も気づいていませんが、本当にあります。本当のことです。仏教の禅は、自覚する必要がないくらい日本人の心に沁み込んでいます。彼らには消えることのない長所がいろいろあります。それを取り除いてしまったら日本人としての意味がない、日本の日本らしさはないと、鈴木博士は言っています。

 次に私たちのタイですが、昔からこれと同じように意味のある物がありました。昔のタイには、堅忍不抜、不撓不屈、厳しい伝統習慣、高い心、そして神様を(この場合の神とは、他の種類ではなく、昔から神様と呼んでいるタイ人の神で、いつでも神様のことを考え、神の威徳を引き合いにしていました)崇拝していました。

 これもタイ人の先祖にとっては、日本人と同じように、自覚しない心の発展と呼ぶことができます。残念なことに、現代は西欧の尻を追いすぎます。(理解しやすいように粗野な言葉を使いました)。つまり肉体面の物質を祭り上げ、物質的に非常に発展した西欧を追います。西欧を引き合いにするのは、はっきりした例だからで、彼らに対する非難でも、悪口でも、抵抗でもありません。

 しかし一度言えば分かる特別な定義です。西欧の尻を追いすぎれば、タイの血がなくなります。タイの先祖の血を失います。少なくとも薄くなります。今は肉体面の物質主義の虜になっているので、善い文化は消滅しつつあります。道徳は地に落ちて難しい混乱や騒動があります。間もなく、一分間に性犯罪が一千件と言われる状況になります。気をつけてください。

 大学生として、国の将来の希望として、みなさんはこのような心の面、精神面の責務があるので、自然に責任を持たなければなりません。この責任を捨ててしまえば人間ではありません。だから責任があると知ったら、関心を持たなければならず、この問題を良く、正しく理解しなければなりません。

 そうすればタイ人の先祖の血は、心の発達によって確実に再び濃くなります。これが発展とボロマタムです。これは分けることができません。ボロマタムの方針、心の発展で正しく発展しなければなりません。




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