精神的柔道

 

 柔道というのが何か、私も良く知りませんが、重要な意味は、僅かな力で大きな力のあるものを撃退できる技術で、力の弱い人が柔道の知識を使って、頑強な人を掴んで窓に投げ飛ばすことができるように、この能力があれば女性でも、強壮な男性を窓に投げつけることができます。こういうものです。精神面の柔道も使う方法があります。つまり僅かな力で、僅かな苦労で、あるいは少しに見える、簡単に見える実践で、あるいは煩悩を消滅させるためにほとんど何もしないで、です。

 一般のことにはこの技術は使いません。「いつでも正しく生きていれば、世界に阿羅漢が欠けることはない」とブッダが言っていると、何度も繰り返しお話していますが、これは、面と向かって虎と戦うのは億劫なので、虎を包囲して、餌になる鹿などを捕まえられないようにする方法と同じです。

虎を包囲してしまえば、鹿は虎に近寄らず、虎も鹿を探しに出られません。虎は草を食べないと言われているので、草はあっても食べず、最後には死んでしまいます。つまり次第に痩せて死にます。こういう方法は普通の方法で、精神面の柔道と呼ぶようなものではありません。

 精神面の柔道の話は、特別な知性と技を使って、虎を殺すことで、電気や酸液や、あるいは何でもいいですが、一瞬で死んでしまう類のものです。だから特別の技術と言います。私たちは努力しなくても、何もしなくても自然に死んでしまいます。つまり精神面の何か特別な武器があるので、物質的な武器を使わず、槍や刀や銃を使わず、精神面の武器、みなさんの想像通り「空」を意味しますが、これでどこを狙っても、狙った場所を破壊してしまい、戦いはありません。

 インドのラーマヤナには、シバ神から、火か電気でできた目を貰った鬼がいて、どこを睨んでも、見られた人は死んでしまいます。その鬼はシバ神から火の目を貰ったので、人間や神をいじめ回わり、ナライ神が成敗しなければならないほど、シバ神の不注意の結果を征伐しなければならないほど、大事になりました。

非常に軽率なシバ神は、誰に与えるべきか知らずに、いい加減に、ロクでもない鬼にしょっちゅう与え、鬼はあの人この人をいじめ回るので、ナライ神が降りてきて、非常に知性を使わなければならないので、毎回征伐するのに苦労します。

 この種の粗忽者のシバ神は、煩悩の迂闊さ、不注意と同じで、そして煩悩、迂闊さを征伐するものは知性で、不注意でないこと、正しい行動はナライ神です。ナライ神がいれば、苦労を引き受けてくれるので良いです。大梵天は迂闊に何でも次々に作り出し、慈しみだと言います。それも慈ですが、むしろ昨日お話したような、慣れっこの暑苦しい慈です。

つまり俺、俺のもののための、深い考えのない慈しみです。大梵天が作り続けるので、いつでも問題が続き、シバ神はいつでも軽率で、自分の利益しか考えず、そして不注意なので、問題を解決する人に苦労をさせます。

 ここで譬えを見ると、その鬼は、どこを見ても、見た物を焼き滅ぼしてしまう火の目がありますが、私たちも同様の物が欲しいです。その鬼は火の目があり、私たちも酸液のような心があるので、どこへ垂らしても燃えて消滅します。こういう方法を使えば、精神的柔道と呼ぶことができます。どこを見ても破滅させ、つまり目が燃えている鬼のように、敵をやっつけて破滅させられます。

これは、以前にお話した空にすること、「知性、つまり仏教の本当の空を使う」ことで、どこを照らしても、照らした所を燃やしてしまう武器と同じように、そこを空にして、何も無くしてしまうので、煩悩を照らせば、煩悩を捨てなくても、煩悩を捨てる儀式をしなくても、煩悩は無になります。

 どうぞ詳しい説明を探して読んでください。空の話を理解でき、空を武器にすることができる人は、どこを照らしても、残らずすべて空になってしまいます。ほとんどは、煩悩を空にするという意味で、煩悩がありません。煩悩があれば、私たちは煩悩を捨てる義務があり、問題がたくさんあります。煩悩を無くして無にしてしまえば、問題は少しで、一瞬で済みます。だからそれを、精神面の柔道と呼びます。

 特にこの種の柔道は仏教だけでなく、どこででも、どの宗教でも、あるいは哲学面にも使え、誰が使うこともできます。仕方と出来事と場合にふさわしい正しい意味で、最高に効率の良い、最高に賢い武器として使います。これは彼らが、他の宗派が考えて使っている新しい言葉ですが、私は仏教にピッタリだと思うので、spiritual judo という可笑しな言葉を作りました。一種の武器を作るように、どこを照らしても空にしてしまいます。

 もし orthodox  な手本のようにするなら、あるいは手本に従ってするなら、それもあります。煩悩の話、煩悩の原因、目・耳・鼻・舌・体・心を管理することを学び、いつでも常自覚があること、それで完璧です。

 この spiritual judo を使う時、何に使うかですが、それは煩悩に使います。たとえばラーガ、愛欲の煩悩、特に性的な欲情が先です。現代の知識のような方法でも利益があります。つまり、本当は、煩悩と呼ばれるものには実体はない、あるいは煩悩として存在するのではない、ただの心のメカニズム、つまり心の神経系統にすぎないと見ます。

それには自然の、それ自体のものがあり、それ自体の規則があり、そしてメカニズムが生じて、心に何らかの義務をさせ、たとえば内処入(根。目・耳・鼻・舌・体・心)と外処入(境。形・声・香・味・触・考え)の接触があれば、段階的な反応であるメカニズムが生じます。欲情がある感覚、あるいは欲情の味を感じることでも何でも、それは一種の機械のような、神経系統のメカニズムと見る知性があれば、その欲情の感覚は消えます。

 しかし先日お話したように、私たちの力は十分ではありません。火葬夫や解剖学の知識のある医師も、カーマサンヤー(愛欲想)やイッティーサンヤー(女性に関する想)を抑える十分な力がないので、普通の人と同じ煩悩があります。だから、「すべてはただのメカニズム」と熟知するには、理解するまで、真実が明らかに見えるまで学ばなければなりません。

あるいは、それらに負けた時はいつでも、毎回必ずそれを捕えて、正体を知らなければなりません。そうすればただ知るだけ、理解するだけでない「洞察」が生じます。必ず身に染みていること、明らかに見抜くことでなければなりません。原因が見える経験であり、精神的に明らかに見える、十分な精神的体験でなければなりません。そうすれば智慧があり、「ああ、それはただ自然のメカニズムにすぎない」という智慧を創ります。

 このような実践原則は、目が形を見たら見るだけ、耳が声を聞いたら聞くだけ、あるいは鼻が臭いを嗅いだら嗅ぐだけ等々、すべてそれだけです。すべてそれで終わり、その後変化しないよう制止することができ、「聞くだけ」にすることができます。見ること、聞くこと、嗅ぐこと、何でも、ただそれだけ、それだけです。

 次に私たちは、「見る時はいつでもただ見るだけ、聞く時はただ聞くだけ、嗅ぐ時はただ臭いを嗅ぐだけ、その時自分はない」というブッダの言葉で、これらを抑止できる強さがなければなりません。ブッダはこう言っています。

「見る時はいつでもただ見るだけ、聞く時はただ聞くだけ、嗅ぐ時はただ嗅ぐだけ、等々。その時あなたはいない、あなたの自分はない」。この種のブッダの言葉を、これらの刺激は、精神には達していない、ただ心の、神経のメカニズムだと、熟知するまで訓練すれば、スピリチュアル柔道のように使うことができます。

私が話している標準では、それはただ心の面、メンタリティだからです。憶えやすい、私が好きな詩があります。お聞かせしてみてもいいです。これはクローンダン(詩の形式)で、書き取るなら、クローンダンの形に書かなければなりません。

     愛欲の蝕は 体の機械

     感情が根に 出合えば

     規則正しく 働くだけ

     しかし世間は 素晴らしいと勘違いして、情欲が熟す

 この詩は、情欲の触はただの体の機械であり、感情が根に出合うと、自然の法則で正確な働きがあるだけだが、人は素晴らしいものと勘違いして、情欲で熟す、ということを理解する助けになります。触とは、内処入と外処入の接触という意味で、触れて欲情し、ラーガを生じさせます。それは体の中の機械、つまり私たちの中のメカニズムにすぎません。

ただ外部の感情、つまり形・声・臭・味・触・考えが根、つまり目・耳・鼻・舌・体・心に出合うと、規則、つまり自然の規則に忠実に働きます。それは、自然の法則で義務をしているだけですが、人は知らないので、「世間は水晶と勘違いして」、世間とは、この世界の人という意味で、素晴らしいもの、人間の最高のものと勘違いし、そして五欲が熟す感覚があります。つまり五欲に関した、愛欲に関した欲情の気持ちが溢れます。

 これを知り、理解するまで学べば、そして生じるたびに明らかに見抜けば、たとえそれに負けた時でも、その後サティ、特別のサティ、つまり非常に速くて、非常に強く、感情が目・耳・鼻・舌・体・心から変化させる度に、大鬼を窓に投げつけることができるサティを持つのが簡単になります。

  それはただのメカニズムでしかないという知性が完璧に生じ、一心不乱に心を集中させて儀式を行するのと違って、一気に煩悩が無くなります。だから spiritual judo と呼びます。

 怒りも愛欲や貪りと同じです。生じてくる怒りも同じと見ます。怒りは、感情が根に出合う時、体の中の機械が規則通りに働くだけですが、人は「俺」と、「俺はそうだ。俺はこうだ。俺は正しい。他人は間違っている。あれは俺の敵だ」と考えます。だから瞋があり、怒りがあります。愛欲の時と同じように見れば、それは、自然に必ずそうなるメンタリティのメカニズムであり、そしてただの自然の元素です。軽く見ないでください。

「ヤター パッチャヤン パワタマーナン タートゥマッタメーヴェータム」、沙弥が暗唱する簡単な、非常に簡単な文章ですが、すべてはただの自然の元素と、メンタルメカニズムと教えています。名前を挙げたどれも自然の元素にすぎません。

つまり名の元素、あるいは精神的元素です。感情に出合うと、環境に触れると、どんな感情も、自然の決まりで働くだけです。だから愛や、怒りや、嫌悪や恐怖や、どの煩悩を意図するかで、いろんな感覚が生まれます。

 科学、あるいは数学の手法でも利益があります。魔法の目、火の目、酸液の目で一回見るだけですべてを空にしてしまうように、煩悩を一気に無くす助けになります。しかし反対の感覚を作れるだけの、十分同じだけのものがなければならないことを忘れないでください。

ここで聞くだけでは十分ではなく、あるいは成功する訳ではないので、柔道の練習のように練習しなければなりません。好きなだけ何年でも練習して、できるようになれば、習熟すれば使い物になります。

次に柔道の方法を愛欲・恨み・怒り・迷い・迂闊・粗暴に使えば、貪・瞋と同じように、自然のメカニズムである自然の規則になります。だから、何でも愚かにする前に知性が駆け付けるまで制止すれば、貪・瞋・痴になりません。つまり誤ることはありません。

 それは早道、近道で、とても儲けがある方法です。つまり注ぐ力が少なく、そして存分の利益があります。これは煩悩を育てることなく、座ってそれを捨ててしまい、無にしてしまう直接煩悩の話です。これは一つの話し方で、感情が根、あるいは目・耳・鼻・舌・体と境、あるいは形・声・香・味・触に触れて煩悩が生じる度に空にするために、非常に短く切り取りました。

 柔道式の方法を使うように、煩悩になる前に、止まってサティを使って空にします。あるいは、ただの元素、ただ自然の心のメカニズムにすぎない自然の元素として、煩悩になる前に粉砕してしまえば、動物でも人間でも、自分でも、私でもあの人でもありません。つまり煩悩がある自分ではありません。これを「精神的柔道で煩悩を捕える」と言います。こう言うこともできます。そして重要点は空、煩悩がない空、煩悩が空にされてしまった、という点にあります。


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