7.旅する目的




1970年10月14日

 今日の方向の講義は、方向の意味をまとめる状態で考え、これらを細かく見て、どのようかまとめます。「方向」とうい言葉は、歩いて行って、かならず到達しなければならない所を意味します。

 そこで子供たちは、「前後、左右、上下の方向について話して、それで人は真ん中にいてどう歩くの」と質問します。誰も歩けません。一度東へ歩いて、それから真中へ走って戻り、次には西へ駆けつけ、また真中に戻るようなら、どこへも行けません。これは方向に迷った人、愚かな人で、方向について知っても、どう歩いたら良いか知りません。

 こういう問題を解決するには、知性、つまり愚かでないことが必要で、それがどういう意味か、どう歩くかを知って歩かなければなりません。そうすれば成功します。

 どうぞ、仏教は知性の話ということを忘れないようお願いします。ブッダとは「悟った人、目覚めた人、明るい人」という意味です。何かを知れば、眠りから覚めたような状態になり、眠っていないので正しい行動ができ、そして明るいです。これがブッダという言葉の意味です。だから私たちは智慧に関して、智慧は、危機から脱す話である本当の智慧、という不動の教えがあります。

 いつも考えていなければならない重要なブッダの言葉があります。たとえば「智慧で純潔になれる」で、こういうのは、智慧は罪や無明を洗い落とす物です。智慧で純潔になり、それで十分です。他に義務はありません。

 たとえば「正しい見解ですべての苦から脱す」という言葉の最高に重要なのは、正しい見解は智慧のことです。これは非常に厳密に意味が規定され、タイ語でもパーリ語でも、間違いやブレは許されません。

 ただの知恵には狡賢い智恵もあります。タンマでない、純粋でない知恵は、盗賊にも盗賊の知恵がありますが、正しい見解と言えば身じろぎできません。正しい(サンマー)という言葉が、はっきりと制限しています。正しい見解があるとは、タンマであるタンマ、正しい知識、理解、考えがあることです。それも智慧です。そして正しく純粋な智慧です。

 このようなブッダの言葉はたくさんあり、「人は智慧で解脱しなければならない」という所が同じです。もっと広く代表的なのは「すべての賢者は、月があらゆる星より明るいように、智慧は最高に素晴らしいと言う」です。

 つまり戒(善い行い)、吉祥、幸運、すべての善人のタンマは、当然引き寄せる智慧の力にあります。智慧はすべてのタンマを引き寄せるので、とても広く、幸運や吉祥も引き寄せます。幸運とは運が良いこと、良いことばかり起こることです。

 だから智慧がなければなりません。智慧があればどの道を、どの方向へ行けば良いか知り、あっちこちぐるぐる走り回りません。それに「真ん中に止まっていたらどうか。どこへも行けない」と、問題を解決できます。これは譬えで教えています。だから良く注意しなければなりません。解釈を間違えなければ実行できます。

 でなければ実行できない知識であり、哀れな話です。意味を履き違え、たとえば八正道を八本の道と解釈すれば、全部誤りなので、どうにも歩けません。道が八本もあったら、みなさん歩けますか。八正道は八項目、八つの善、八種類の徳行がある一本の道を意味しています。それなら歩けます。

 方向という言葉も同じです。人間が行かなければならない目的である方向に連れて行く方向です。最高に正しい言い方もでき、最高に中らずと言えども遠からぬ言い方をすれば、苦の終りが涅槃で、道の終点です。必ずそこへ行き着かなければなりません。六つの方向で話すので、聞いて意味が分からず、どう歩いて行くの?と子供は聞きます。六方でも八方でも、八正道と同じ比喩の言葉と知らなければなりません。

 歩くことに関わるすべての問題を、正しく歩かなければならないという意味です。在家は重い荷を背負って歩くように、両親、妻子や夫、先生などの話があり、それはいろんな物を背負って旅をすることです。正しく背負えば、在家も出家も、それぞれの人の目的で涅槃へ向かって歩いて行くことができます。

 「方向」という言葉について考えて見てください。それは人が話す言葉です。ある言葉、あるいは同じ言葉でも、その時の状況や状態で意味するものが違います。だから方向という言葉にも、物質的、物理的な方向もあり、心の言葉、タンマの言葉もあります。そしてもっと高い精神の言葉もあります。

 物質的な方向と言えば、自分が良く知っている物質を基準にします。物質の塊である太陽が昇る方向が東で、沈む方向が西で、その時代の人の視点では、物質を基準にしました。東を向くと右と左があるので、その腕が基準です。

 現在なら磁石の方向を基準にします。磁石は北を指し、反対が南です。磁石を基準にします。これは船で航海したり、足で歩いたりする物質面の話です。何かを計測するのも、すべて物質の問題です。「この方向」は、物質を基準にしています。

 このような物質的な方向から、次第に抽象的な方向が生まれました。こうしていれば物質的な方向から、次第に抽象的な意味の後と前が生まれます。私たちには教育や職業や交際、そして苦を無くす実践がなければならないので、そういう方向が生れました。

 前方が教育なら、いつでも勉強をしなければなりません。柩に入っても勉強します。それから後をついてくる方向、つまり職業があります。これも方向の一つです。そして社会で上手に交際することも一つの方向で、心の実践を知ることも一つの方向です。これが抽象的な方向、前方、後方、右側、左側、上方、下方です。

 次にまた別の所で、もっと深い意味の方向が生まれ、両親は前方、妻子は後方などと言うのは高い意味であり、物質を基準にしていません。要するに物質を基準にすれば一つの方向になり、人物である両親や妻子を六方にすれば、このように人物を基準にした方向になります。

 抽象的な物、教育や職業、交際などがある抽象的な物を基準にすれば、また別の形の方向になります。しかし必ず行かなければならない、しかも智慧で行かなければならない方向の話で、そうすれば仏教になり、あるいは危機を脱すことができます。

 だから旅の道具になる智慧を忘れてないでください。しかしその旅は同じ場所、涅槃へ向かいます。目的地である涅槃があります。低い生活の中の一時的な涅槃もあり、最高の実践をすれば、厳格な涅槃もあり得ます。だから「最終目的は涅槃」という、避けられない教えがあります。

 在家も、正しく旅するために関心をもたなければなりません。今はまだ到達できなくても、道に迷わず正しく歩くために、この方向を知っておかなければなりません。ごちゃごちゃした重い荷を背負っていても、正しく、ゆっくりと旅します。

 私たちが略してタンマティンナスッタと呼んでいる「イェー テー スッタンター、スンヤタパティサンユッタ」という大切なブッダの言葉があります。この経は、ブッダを尊敬しているある清信士が、その人は妻子や財産のある在家ですが、その人がブッダに拝謁して、「永久に在家を援け、利益になるお話は何でしょうか。それを聞かせてください」と言いました。

 ブッダは次のように話し始められました。「私が話した深い意味がある、深遠な空に関わる教えはどれも、世界を越えることができる。それがすべての在家を援け利益になる」。その人は「在家」という言葉を使い、「在家の常として妻子等がある」と明言しています。ブッダは在家を永久に支え、利益になるのはすべての空の話ですと言われています。

 これです。よく注意してください。良く理解しなければ、なぜ在家が空に至るのだと、反抗的に見ます。空という目標がなければ、在家は地獄で、在家でいることは地獄に沈みます。縛り付けている物、絡んでいる物、焼き炙る物、突き刺す物などを、適度に取り除く知識がなければなりません。

 でなければ気が狂います。助けに来る空の話がなければ、少なくとも、永遠に神経の病気を病みます。愚かな人は理解できないので、在家は空の話と関係がないと非難して、別方向、別の道に行かせます。頭の悪いタイの哲学者にも、空の話、空の心が理解できない人がたくさんいます。

 空の話は深遠で素晴らしいです。しかし誤解すれば間違った見解の空になります。間違った見解の空は、ブッダの時代からあります。空の感覚のある心を、私は「空っぽの心」と呼びます。空という言葉の一部が誤解されて誤った見解になれば、空っぽの心も誤解による誤った見解になり、誤った見解の空っぽの心、ロクデナシの空っぽの心になります。

 次に一般の人は自分の感覚を基準にし、「空っぽの心」、あるいは「空」という言葉の意味を自分の感覚にするので、全部ロクデナシになり、空なら何もない、何もしなくても良い、何も考えなくても良い、何もできないなどと言います。これがロクデナシの空っぽの心です。

 もっと酷いのは「何もないなら戒も律も守らず、何でも勝手にできる、したいように人を苛め苦しめても良い」と言います。これはロクデナシが暴走した空っぽの心です。

 その人は、実生活に応用できない、ロクでもない空っぽの心しか知りません。せっかくブッダが、「永遠に在家を援け役に立つもの、それがすべての空の話である」と言っているのに。「イェー テー スッタナター スッタンタ」とは、直線という意味で、教えを意味します。この言葉は直線という意味です。経(スッタ)とは直線という意味です。空に関係ある経はどれも、永久にすべての在家を援けて役に立ちます。

 みなさんがまともな仏教教団員なら、在家に関わる様々なことに合うように、空を応用することを知らなければなりません。特に六方の話は、一つの方向からも苦が生じないようにします。あるいはすべての方向が空に導き、どっちへ歩いても正しい方向に歩けます。正しい方向の行動なら、それは空の話になります。

 それというのも、空は、例外なくすべての物の真実を教えているからです。両親も、妻子も、友達や先生も、これらの人物すべて、あるいはどんな仕事も、これらの思いや考えを「すべて」と言い、それは「空である」真実があります。

 つまり自然に経過し、自然の法則の下にある自然で、誰かの物でなく、そしてその人も人物ではありません。それは自然に変化していく自然にすぎません。自然の法則があり、自然は人物ではないので、自然の法則に合った関わり方、行動をしなければなりません。それを空と言います。

 この空の話はキリスト教も教えていると、何度も繰り返し指摘し、繰り返ししつこく話してきました。新約聖書の終わりの方のコリンの章で妻子や財産について述べ、セントポールがイエスの言葉を要約して、ある村人たちに教えています。

 妻がいても妻がないように、財産があっても財産がないように、幸福でも幸福でないように、苦があっても苦がないように、市場で買い物をしても何も持ち帰ってはいけないと言っています。これは仏教と変わらない空の話です。

 そして家で、妻や夫や子どもや財産と、日常的に生じる苦楽と一緒に、在家の家で暮らしています。その結果、市場で買い物をしても、自分のお金を使ってもという意味ですが、自分が市場で買った物に所有権があると捉えないので、何も持って帰りません。お金も買った物も自分の物と捉えないので、何も持って帰らないのと同じで、いつでも空です。妻子も空、財産も空、幸も不幸も空です。

 だから仏教教団員のみなさん、この項目に関して、空という言葉を在家の生活すべてに応用しているキリスト教徒より愚かにならないでください。今私は六方の話をし、そして今執着の話をしてしまいました。だから仏教でなくなりました。執着が生じないように正しく行動する話にしなければなりません。そうすれば幸福でいられます。そうすれば方向を知っていると言われます。

 すべての方向が良家の子息にとって明るく輝いて見えれば、方向を知っている人と呼ばれ、どの方向、どの方面の問題にも対処できます。手足を引っ張る問題がないので、快適に行けます。止まり木を担いで行くようの聞こえ、それは物質的な話です。精神面の話なら、これらの問題を全部無くすことができるという意味です。世界の、両親、先生、妻子から生じる問題を正しくきちんと処理するので、問題になりません。

 どの方向にも正しく実践すれば、このように問題が消滅するので、苦はなく、煩悩も生じず、苦も生じなければ、これも空になったと言います。だから愚かでロクでもない哲学者のように、「空は在家には関係ない」とブッダの教えに異論を唱えて、自然の論理に反する、自然に反する、自然に反する理解をしないでください。

 考えてください。まだ見えない間は、熟慮して「人生は旅」と見てください。つまり自然の法則で流れ、すべては正しい行動をするか、誤った行動をするか次第です。誤っていれば誤って流れ、正しければ正しく流れて終着点へ向かいます。

 私たちには、過ぎ去った人生で経験したすべての熟練から生じる方法があり、正しい熟練は私たちの知性を濃くします。それを道具、あるいは考える materialと言います。 Spiritual experience という言葉を、人々は今盛んに使います。いろいろな精神的経験と。

 お金を持ったことのある人は、お金とは何か、どんなかを知っています。妻子を持ったことがある人は、妻子とは何か、どんなかを知っています。それには深い意味があります。名誉名声とは何か。どんなか。何が何であるかを深く知っています。経験して完璧に憶えていることを、精神的経験と言います。経験と呼ぶ物は、人が正しい方向へ行くよう、涅槃まで後押しします。

 次に時間の無駄にならないように規定や規律ができ、正しく実践するための規則が作られました。六方向はシンガローワーダ経という経にあり、それで行動すれば時間の節約、あるいは短時間で最高に良い経験を生じさせます。

 その良家の子息は、在家でも涅槃に向かって流れて行きます。だから「なぜ生まれてきたかは、正しい旅の目標のため」と知らなければなりません。だから私はこの話、なぜ生まれてきたかという話をよくします。

 何らかの問題を提起する人がいれば、私は「なぜ生まれてきたのかを知ってからにしなさい。そうすれば自然に問題の答えが出ます」と言います。自分はなぜ生まれてきたのかを知らなければ、目標を誤ります。今自分がしようとしていること、あるいはいましていることの、目標を誤ります。

 勉強をするにも、教育として勉強をするにも、なぜ生まれてきたのか知らなければ、教育はどっちへ行ったら良いか分かりません。つまり今の教育のように不安定です。

 現在の世界の教育には、「人間は何のために生まれてきたか」という教えがありません。だから教育は崩壊して不安定で、だだっ広く宇宙全体を網羅します。その結果世界に平和はなく、あるのは頭から溢れるほどの、何の役にも立たない焦点のない知識だけです。なぜ生まれてきたかという、たった一つを知らないからです。

 最終目的である神様、あるいは涅槃のために生まれたと教えれば、教育は手際が良くなり、自然と神様、あるいは涅槃に早く到達する形になり、世界は平和になります。しかし今の教育は焦点が定まらず、煩悩が好きに選んでいるので、教育は誤ったものになり、世界には恒常的な危機が永遠に続きます。それが世界を永続的な危機に陥らせます。

 人間はなぜ生まれてきたのか知ってしまうことができれば、正しく学び、良く学び、目標に向かって学びます。仕事も同じで、なぜ生まれて来たのかを知らなければなりません。そうすればその目標にとって正しい仕事をします。音楽やスポーツでも、自分がなぜ生まれてきたかを教えて、本当に、確実に知れば、その目的に合った利益がある音楽やスポーツになります。

 そうでなければ、今のように煩悩を増やす音楽やスポーツになります。食べたり住んだり身を飾ったり、生活の何をするにも、なぜ生まれて来たのかを知らなければなりません。そうすればその結果があります。

 今の暮らし方や服装はどうか見てください。大変になっていくばかりです。今までよりも愚かになっていくばかりです。これは、なぜ生まれたかという方向を知らない人です。だからなぜ生まれてきたのか、自分で正しい答を探したいと望んでください。知らないなら、自惚れないでください。

 この世に生まれてきた子供、あるいは若者は、なぜ生まれてきたのかまだ知らないうちは、自惚れてはいけません。ブッダを首領とする智者たちの教えに耳を傾けなければなりません。これはかなり有利な言い方です。「すべての賢者には、王であるブッダがいる」。これは仏教で良く使われる言葉です。

 すべての知識者が「ブッダは、なぜ生まれてきたかについて述べている、誰よりも素晴らしく、誰よりも優れている」と称賛しています。先ずは聞いてみてください。理解が簡単になります。ブッダを基準にすれば、すべて涅槃に行くために生まれました。涅槃の時輪廻が終わるので、涅槃のために生まれたのということです。

 仏教が生まれたインドの文化では、仏教以前から、最も崇高な目的へ向かうために生まれたと言われていました。よく話す四修道(ヒンズー教の考えに基づいた人生の送り方)のように、正しい子供になるために生まれ、それが学生期。正しい大人は在家期で、正しい中年は心の静寂を求めるために家を出る隠遁者で、正しい老人は正しい世捨て人で、子供たちをランプで照らします。

 このような学生、在家、隠遁者、世捨て人になります。あるいは裏にある十の人生画の中の、牛に乗って縦笛を吹く話も、そのように歩かねばならない旅の段階です。自分は空に至るまで旅をしなければなりません。残りは発展して物を配り、灯火で他人を照らして空にします。だから私たちは涅槃まで歩いて行き、それから他人が涅槃へ到達するまで付いて来るよう手助けします。なぜ生まれて来たかは、この考え、あるいはこの教えを見ます。

 在家なら、モタモタ旋回ばかりしているカメのように、ぐずぐずしないでください。みなさんは好くこういうカメを軽蔑します。目の見えないイシガメを思い描いて見てください。命ある動物の全身にある元々の本能は知識です。「ブッダ(知ること)である自然」と言い、どの生き物にもあり、すべて最高地点を目指しています。ただ無明が割り込んで来るだけです。

 無明がどれくらい、どのように介入するかは、常に目・耳・鼻・舌・皮膚・心を通じて刺激があり、たまたま愚かな方へ、無明の方になるからです。しかしブッダ(知ること)の種はいつでも正しい方向へ向かおうとします。いつでも転げまわってその方向へ行き、無明を消滅させます。無明が生じていなければ、正しい方向へ向かっています。自然の法則では、正しい方向である、危機を脱出する方向へ向かうからです。

 だからカメをバカにしません。カメも他の動物に負けてはいません。カメも心の中に、心の流れの中に、ブッダ(知ること)である自然があります。このお寺のカメと同じです。試しに外で放してご覧なさい。ちゃんと家に帰ります。間違った方向へ行きません。いつでも安全な方向である森や茂みの方へ向かい、町の方へ行きません。

 こういう話を聞いたこと、あるいは本で読んだことがある人はいませんか。母ガメはとても遠くて高い陸に上って卵を産みます。生まれた子は、全員が走って水に飛び込みます。誰も教える人はいません。心の中に継承されている本能で、海に向かって走ります。全部が水に向かいます。

 誰も教える人がいない小さな子ガメですが、山には駆け上りません。これは、自然には何か秘密があるということを見せています。ブッダ(知ること)の種のようなものです。どれにもこういった知性があります。だから生き延びることができます。

 もう一つ観察して見えることがあり、魚を捕まえて、わざと乾いたところに放すと、魚はどっちの方向が低いか、どっちに水があるか知っています。不思議なほど知っています。もっと乾いている方、あるいは高い方へ跳ねて行かないで、低い方へ跳ねて行きます。今の人たちが言うレーダーのような感覚、つまり自然の波動を感じて、どちらが低地か、どちらが海か分かります。

 だから動物を軽蔑しません。私たちは、動物も最高の目的に向かって旅をし、そして進歩する動物、進歩する人間になり、そして涅槃へ行くと認めます。

 だから「輪廻は涅槃で終わらなけらばならない」と言います。物質面でも精神面でも、輪廻は、最高に素晴らしい物で終わります。それらの生き物が得るべき物は涅槃です。永久に輪廻しではありません。これが「なぜ生まれてきたか」です。

 だから、なぜ生まれて来たかという言葉に興味をもって、正しく、良く、高くしてください。そうすれば様々な問題の答えは、ブッダの種の感覚によって自然に出てきます。自然のブッダ(知ること)は、どの動物にもありますが、開花しません。環境的要因が良くないので萎れて凋んでいます。

 次に私たちは、良い肥料をやり、土を掘り反して水を撒くように、環境を良くします。これが自然の実践です。そうすれば成長してブッダになれます。学習していろんな方面について知るのは、こういう知識のためです。

 大涅槃経の最後の部分にある「すべての比丘が正しく生活するなら、世界に阿羅漢が欠けることはない」というブッダの言葉と一致するように、知ることの自然は毎日、毎月、毎年育っているという状態の生き方をしてください。それだけです。

 ブッダが今にも涅槃なさろうとする時に言われた言葉で、遺言と見なされています。「これらの比丘が正しい生活をするなら、世界に阿羅漢が欠けることはない」。まるで「するべきことはそれ程ない。木に水をやり、肥料を施し、土を反すだけで、誰が育てなくても木が成長するように、自然の法則で正しく生きるだけで良い」と言っているようです。

 目・耳・鼻・舌・皮膚、そして心を通した危害がない種類の正しい生活をすれば、自然の「ブッダであること」が成長し開花するので、短期間で阿羅漢になります。だから正しい生活をしてください。じっとしていても構いませんが、正しくします。このじっとしていることは、正しさです。

 だからこの正しさは、何もしないことではないかもしれません。しかし「じっとして正しく暮らす」という言い方をします。何にもしないでいることではありません。正しい意味のじっとしていることです。正しさが身についていれば、煩悩は生じられないので、長くなれば消滅します。

 これも「方向を知り、耳目が開いている」という言葉に含めます。いつでも明るさがあり、その人にとってどの方向も闇でなく、どの方向も輝いています。このように正しく暮らせば、この世界に阿羅漢が欠けることはありません。

 今回の話は、在家の義務を果たさなければならない人を目指し、善い在家になり、明るい方向があり、人生は発展し、最終目標へ向かって進歩します。早いか遅いかは、環境次第、縁次第で、在家が僧より先に阿羅漢になることもあり得ます。誤解しないでください。

 ブッダの時代の話を根拠にすれば、在家がブッダに拝謁して、出家より先に、その場で阿羅漢になっています。他の何人もの僧、何百人もの僧がブッダの傍に同座しているのに阿羅漢になれないにも拘らず。なれないのは、ちょうど良い方向へ歩いていないから、時期的に合ってないからです。

 タイミングが良いことを、当時の人は「サマンギー」と言いました。マッガサマンギーは八正道のことです。正しく適切な「タイミングの良さ」があるので、その場ですぐに阿羅漢になります。だから低劣な在家、愚かな、バカな、執着の厚い俗人なら、泥の中に沈んで苦労するのも事実です。

 しかし善い仏教教団員で、ブッダのタンマを実践している在家なら、いつでも阿羅漢になれる希望があります。苦は課題になり、忙しさも課題になり、子や妻や夫など何でも課題になります。財産も課題になり、食べる話、性の話、名誉の話も課題になります。これらの課題は涅槃へ後押しします。

 つまりこれらに勝つことができます。だからこの人は最高に幸運な人です。このように幸運な人になりたかったら、占い師に相談する必要も、祈祷やまじないをする必要もありません。

 最高に幸運な人になりたければ、すべての在家を永遠に支援し利益があるとブッダが言われた、空の話に興味を持ちます。その空を聖水にし、吉祥時にし、浴びるものにし、俺、俺の物に執着しないでください。そうすれば穏やかな在家でいられます。

 強く執着すればするほど愚かな在家になり、そして衝突し合って、際限なく苦しめ合います。正しく暮らしていれば、俺、俺の物は生じないか、生じ難いか、生じても少しで、それが「幸運」です。

 次に身勝手でないことを、いろんな方向を正しく実践する教えにします。何かが成功しないのは、あるいは何もできないのは、何をするにもタンマを使わないのは、俺、俺の物が介入するからです。自分のことしか考えない人は、「俺」のことしか考えないので、他人のことを考えず、妻子のことも考えません。

 自分より妻子のことを考える人がいれば、それは「俺の物」だけを考える人で、俺、俺の物から脱せません。俺の物しか考えないことから脱せません。自分より妻子を愛しているのは、俺の物だけを愛しています。

 妻子より自分を愛している人は、身勝手です。俺、俺の物の話は、妨害する蓋で、誰にでもある自然のブッダの種を育てないで、成長を止まらせます。あるいは萎びさせ、しょっちゅう枯らしそうにし、あるいは何度も枯らしています。

 これで在家の方向に関わるすべても、まとめて詳しく見たということです。ブッダが、空の話は在家に必要と言われたように、これは在家に必要な知識と見なします。ナヴァカワーダにあるような細かい実践項目は、説明がたくさんあるので、自分で読んでください。時間を無駄にする必要はありません。

 みなさんのように教育のある人は、両親に対してどう振舞えばどういう結果になるか、妻子にどう振舞えばどういう結果になるか、簡単に理解できます。

 しかし忠告したいのは「このように借りがある、借金がある」とだけ理解しないでください。気づかぬうちに別の執着になります。ナヴァカワーダを読むと、私たちが親に対して正しく振舞うのは、両親が子に恩返しを要求する権利を生じさせるため、先生に対して正しく振舞うのは、先生が返礼を要求する権利を生じさせるため、と誤解するかもしれません。

 こうなっては埒を超えます。両親は子にこうする義務がある、子は両親にこうしなければならないと理解してください。先生は弟子にこうしなければならず、弟子は先生に対してこう振舞います。貸し借りの権利を生じさせないでください。滑稽です。それに確実に後退します。

 そして、一人の人が全部になるということを忘れないでください。私などは比丘ですが、父も母もいます。亡くなってしまっても両親がいると見なします。そして私にも子がいます。人が呼ぶところのタンマの子で、弟子でも何でも、タンマの子と呼びます。

 在家の人がこの方向を見れば子がいます。あちらを見れば両親がいます。自分も親であり、子であり、弟子であり、先生でもあります。同じ一人の人が。だからこのようにいろんな義務や役割があります。区別して一つしか受け入れない、あるいは一種類だけを受け入れないでください。

 誰でも、どの方向にも義務や責務があります。子に対しては先生だけでなく、サマナ・バラモンの立場になることもあります。小さい子を精神的に正しい方向へ導かなければならないので、全部です。

 全部責任を負わなければなりません。一つしかできないとか、一度に一種類だけと田分けたことを言えば、眩暈がします。全部を一緒にできる物があり、それが歩くのを後押しし、目的地へ向かわせます。行くべき方向とは終着地、涅槃です。

 仏教である梵行は一本道で、自分で実践し、独りで歩く道で、たった一つの目標、涅槃へ向かいます。いつでも一つきりです。だから子や妻や夫があることは、それぞれ自分のカンマ次第と捉えます。どんなに愛し合っていても、どんなに気心の合う伴侶でも、みんな異なるカンマがあります。それを一人と言います。自分のカンマで一本の道を歩かねばなりません。

 だから、何度生まれ変わっても一緒に歩く心の伴侶、人生の伴侶になると言うのは寝言です。しかし絆を強くして愛情を生じさせ、強く連帯し、仲良くさせる利益はあります。これは世俗界の話であり、真実ではありません。自然の成り行きでは、一個は一個の原因であり、縁であり、カンマで自然に経過するので、正しい方向で自分を危機から脱出させなければなりません。

 だから方向の話は、最低レベルから最高レベルにまで使うことができると結論させていただきます。同じ方法でも、小さな子どもから年寄り、老人、男も女も使うことができます。解釈の仕方を知っていれば、出家も使えます。タンマを正しく解釈できれば、在家も出家も使えます。

 出家のためのタンマを在家が使うことはできない、在家のためのタンマを出家が使うことはできないと、誤解しないでください。タンマには在家も出家もありません。自分の立場にふさわしく、適度に適切に使います。

 タンマには男も女もなく、殿方法も婦人法もなく、男法も女法もなく、誰にどの段階が合っているかだけで、合っている人が合っている段階のタンマを使います。これを正しい方向を知っていると言います。




ホームページへ 法話目次へ