(自我の減らし方Ⅱ)




  実践者は「知識には三つのレベルがある」と観察しなければなりません。つまり

1.聞いて知る(学習で知ると言います)。
2.実践によって熟知する。
3.その後煩悩を捨てた結果を見て、煩悩があることと、自分の心から煩悩が無くなったことを知ること(実践の結果で知る)で、洞察する知識です。明、あるいは聖諦を知ることは、これが目的です。

 阿羅漢という言葉はブッダの時代以前から使われていた言葉で、その教義の最高レベルに至った人を呼んでいました。だから教祖、あるいは自分の教義の最高の修行をした人誰でも、阿羅漢と呼びました。ブッダの時代まではすべての教義が阿羅漢という言葉を使っていて、都の王もそれぞれの教義の教祖を阿羅漢と呼ぶのを認め、政治的な利益、あるいは何のためでも、これらの阿羅漢に対して平等な態度で接していました。

 最高の苦行をした人たちも阿羅漢と呼ばれ、裸の人たち(執着のない人、あるいは財産を持たないという意味)も阿羅漢と呼ばれ、理解できない変わった行をする人たちも阿羅漢と呼ばれ、教育のない人たちの間ではもっとたくさんの種類があり、あり得ないほど変わった種類の阿羅漢がいました。

 タイでも霊力のある人や騙す人をアーチャン(先生)と言って持ち上げるのが好きで、教育のないバカみたいな人もアーチャンと呼ばれます。だから阿羅漢という言葉は、その人の教義の最高レベルの修行を終了した人という意味にすぎません。

 仏教では煩悩あるいはサンヨージャナ(動物を輪廻に縛りつける煩悩。十結)を完全に無くし、何にも「自分、自分の物」と執着しないことを阿羅漢果に到達したと見なし、阿羅漢の幾つかの特徴を阿羅漢を呼ぶ代名詞にしました。

 「梵行を終わった人」「苦を越えた人」「最高に遠い旅をした人」「上陸した人」「座れる人」「輪廻に突っ走らない人」「他人に奢らない人」「下ろすことができた重い荷物を担いでいる人」など、これらの意味を掴む努力をすれば、それだけ阿羅漢を理解できます。

 阿羅漢を「座れる人」というのは、阿羅漢でない人はいつもせっつかせる煩悩があるので、座ることができないという意味で、「止める人」と呼ぶのはアングリマーラの話のような意味で、「すっかり毛が抜け落ちた人」というのは、恐怖で鳥肌が立つことがないという意味で、これは当然阿羅漢には恐怖の根源である煩悩が残っていないという意味です。次に率直に「びっくりしない人」「ぞっとしない人」「走って逃げない人」と呼ぶこともあります。

 取り上げていないその他たくさんのものも含めて、一つの意味にまとめることができます。「自分、自分の物がある」という感覚が無くなるだけで、あるいはすべての執着から脱しただけ、あるいは取で執着しないだけですべてが消滅してしまい、「空」または「空っぽの心」という意味が生じます。

 執着させる根源である煩悩が消滅し、執着がなければ「自分」は無いのと同じなので、仏教の意味の「空」、あるいは「空っぽ」と言い、「自分」がない空っぽ、苦がない空っぽ、苦を生じさせる煩悩がない空っぽという意味です。

 そして何でも自分の物にして苦を生じさせる「掌握すること」がなければ、苦の終わりである涅槃です。無明を捨てることができれば、それが「自分である物は何も無い。あるのは自然だけ」と教えます。このように明らかに知れば、形のある物も無い物も、目が形を見、耳が声を聞き、鼻が臭いを嗅いでも、それまで何かを「自分、自分の物」と掴んだことがある取は生じません。

 これが、感情を欲しがることから生じていろんな物に執着させる「自我」の消滅です。「自分、自分の物」という取による執着を断つことだけが、涅槃の意味の空で、「残らず消滅する」という意味の「涅槃」にふさわしく、「自分、自分の物」が完全に消滅するので究極の空と見なします。

 更にこの「自我」の消滅は四聖諦の第三項の「滅」で、すべての人、すべての場合に望ましい苦の消滅です。述べたような空と「自分」の消滅が同じなら、空は一般の人に、そしてどんな場合にも望ましい物であるべきですが、これが理解できない人や誤解している人は、仏教徒でも、出家でもこの空を恐怖し嫌悪します。空は国を発展させないとか、社会の発展を妨害すると誤解し、あるいはその知識を自慢するからです。

 一般の人が「自分がない」あるいは「空」という言葉を聞くと、掴まる所がなく、そして無限の空間に投げ出される恐怖を感じ、空とは自分と呼ぶものが空っぽになることであり、落ちるものは何もないと理解しません。これはその人が空を理解できないで自分の愚かさで勝手に推測している証拠です。

 その人が述べたような状態の空に到達すれば、「自分」は「自分の物」と一緒に空っぽの物になってしまうので、空の中に落ちて行く物は何もないと明らかに見えます。だから空の状態は、無明と取がある人が理解しているような恐ろしい状態でなく、反対に恐れや愛着や怒り、嫌悪、憂慮などがない状態になり、それらに妨害されることはありません。

 何の煩悩にも妨害されないことが苦の滅亡で、仮定で言えば最高の幸福(ニッパーナン パラマン スッカン = 涅槃は究極の幸福)です。だから涅槃と空が同じなら、空の状態も涅槃と同じように最高の幸福です。究極の空は涅槃である(ニッパーナン パラマン スンニャン)という不動の教えがあるからです。

 だから「涅槃はほしいが空は怖い」と言う人は、涅槃に関して寝ぼけていて、それらに関する理解がない人です。涅槃について話せば、お寺の東屋に寝転んでお喋りする人が、自分も仏教の最高の物について知識があると、自慢する伝統だけです。

 涅槃という言葉は、種が残っている物と、種が残っていない物の二つに分類することができます。種が残っていない方は「自我」が消滅した物で、種が残っている方は「自我」は完全に消滅していない(けれど「自我」が消滅し始めている)という意味です。預流、一来、不還などまだ阿羅漢でない初等の聖人の「自我」の消滅で、どれも種が残っている種類の涅槃に到達しています。

 だから残っている種に応じて「自分、自分の物」という感覚が再び生れることがありますが、薄くて軽い「自分」で、どんな部分も捨てたことがない凡夫のように最悪ではありません。初等の聖人の涅槃をサウパーディセサニバーナ(有余依涅槃)と言い、種が残っている涅槃という意味です。だからまだ「究極の空」であるアヌパーディセサニバーナ(無余依涅槃)と言われる涅槃ではありません。

 正しくは「空」と訳すべき「スンニャ」というパーリ語を、「消滅して無になる」、あるいは「何もない」と間違って訳す人がいます。これは使い物になりません。何の利益もありません。意味は非常に似ていますが正反対です。

 私たちにあるべき物が何でもあり、そして「自分、自分の物」という執着さえなければ、何でも有益に使えるので、この言葉を「消滅して無になる」と訳せば、仏教の教えの詐称、あるいは仏教教団員と自称する人の手による、仏教の最高の教えの破戒行為です。

 「この世で寂滅する」あるいは「この世で涅槃する」という言い方は、死、あるいは死後の結果を待つ意味ではなく、執着を無くして寂滅し、この世界で生きているという意味です。ブッダは『空にわる話は深い意味があるので理解は難しいが、直接在家を助ける利益があるもの』と言われています。すべての人が寂滅して生きること、あるいは(煩悩の)種が残らない(煩悩の)消滅で生きることを目指したからです。

 この空の教えに依存しないで苦を回避できる人は誰もいないので、人間という意味にふさわしくこの世で穏やかに生きるには、空の話を学んで理解し、そして実践しなければなりません。そうすれば何一つ間違って見、間違って考え、間違って行動することはありません。そしてこのような人がいる社会には穏やかな幸福しかなく、治め易く、現代のように解決の難しい問題は何もありません。

 自分のために生まれたのでなければ、何でも所属社会のためで、その人は徳行でこの世界を美しくするために生まれました。しかしほとんどの人がこの考えを受け容れない時、世界に一人で渡り合って生きている「私」はどうしたら良いでしょうか。答は、一人で「自我」を消滅させる努力をします。

 そうすれば世界の利益になり、自分自身は誰よりも早く完璧になります。社会が汚れて(汚職)いれば直接正反対である空の話(身勝手でないこと)の知識で解決しなければなりません。

 「自我」の消滅に関わる実践方法は「マッガ(道)」、あるいは宗教の「梵行」と呼ぶ物、そしてタンマでもいいです。タンマは道で、タンマが見えれば道が見え、道を歩いて行くことはタンマで歩いて行くことで、そして目的地に到達することは苦の消滅、あるいは涅槃(ここでは「自我」の滅亡)です。

 小聖諦、あるいは普通サイズの聖諦である八正道で、ブッダは「生まれること」は苦であり、苦の原因は貪・瞋・痴・迷い・愚かさであり、苦の絶滅は貪・瞋・痴・迷い・愚かさの消滅であり、苦を消滅させる方法で八正道を説かれています。

 大聖諦は縁起の形で、苦の原因は生・界・取・欲・受・触・根・名形・識・行、無明で、そして苦を滅すには生・界・取・欲・受・触・根・名形・識・行、そして最後に無明を消滅させなければなりません。

 つまりもう一つの八正道です。八正道で正しく暮らせば、当然無明を生じさせない、あるいは常に消滅している結果があるからです。

 最初の項目に「正しい見解」があり、最後に「正しいサマーディ」がある八正道の最も重要な項目は「正しい見解」です。つまり無明の反対の明で、少なくても無明を滅すことから実践を始めなければなりません。そうすればたとえ一部でも、無明に関わるいろんな物が消滅します。

 別の言い方をすれば、明が生じれば簡単に他の正しさが生じ、その結果八つ揃った道になります。あるいは順に十分な明になり、自然に「見えない滅の側の縁起」になります。

 「縁起」は何によって何が生まれ、何が消滅することで何が消滅するかを教えています。実践方法は「生の側の縁起」が生じないように、あるいは「滅の側の縁起」になるようにしなければなりません。感情が形・声・香・味・触・考えに触れたら、それらの感情が苦や喜びの感覚にならないようにし、苦や喜びの感覚になってしまった時は願望にならないように、つまり喜びや苦の感覚に留めます。

 願望が生まれなければ、あれこれ掴むことや「自分」という感覚も生まれません。しかし受が欲望を生じさせないようにするには、無明、あるいはすべての受は無常で苦で無我と、あるいは騙すマヤカシと明らかに見る正しい見解がなければなりません。だから八正道の心臓部である正しい見解は、縁起の心臓部でもあります。

 だから「自分、自分の物」を生じさせないことだけを教えとする実践は、縁起の滅側のすべての実践であり、その中に八正道が揃っています。「自分、自分の物」という感覚を生じさせない正しい見解の力で、自然に正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが完璧に揃うからです。

 そして「自分、自分の物」という感覚を生じさせない実践をするだけで、仏教のすべての実践をすることになります。戒・サマーディ・智慧・八正道・縁起、何もかもすべてです。それ以上に「自分、自分の物」の消滅の中には、当然ブッダ・プラタム・僧であることがあり、あるいはすべてが含まれている実践の結果である聖向聖果の涅槃です。

 「自我」を消滅させる実践は、目に形が触れるなどの衝撃がある時、ブッダが『バーヒヤさん。あなたが形を見る時は見るだけ、舌が味わう時は味わうだけ、体が触れる時は、触れるだけになさい。そうすれば「あなた」がいない時はいつでも、あなたはこの世界にも、他の世界にも、そしてどの世界にも現れていません。それが苦の終わりです』とバーヒヤに言われた言葉の要旨に依っています。

 このブッダの金言から、感情が触れて来る時「自分」が生じないようにする実践法があります。それが苦の終わり(つまり涅槃)と見ることができます。実践の要旨は、その感情に自分の心を支配する力を与えない点にあります。その「見ること」を「見るだけ」にし、見ることで好きや嫌いの感覚を生じさせ、幸受・苦受にしないようにし、短く「受にしない。見るだけに留めれば、知性の形に生まれ変わる」と言います。

 つまりどう対処するかと言えば知性で対処し、煩悩欲望である感覚、あるいは「自分」があるという「取」を無くし、あるいは何も対処もするべきでなければ、止めます。「見ただけと見る」と言われる実践は、何かを見て、そしてそれが何か分かったら「それはただの形」あるいは「ただの有」と感じ、あるいは理解します。

 美しいバラを見たら、あるいは魅力的な異性を見たら、あるいは大小便のような厭わしい物でも、それは見ている形、あるいは状態にすぎないと思い、欲しがったり嫌ったりさせ、あるいはいろんな執着にする類の良い悪い、心にその物の意味を捉えさせないで止めます。

 このような行動は、幸受と苦受はいつでも騙すマヤカシ(苦受は思うようにならない幸受に執着することの結果)と見る練習をすることでできます。幸受の意味がなければ、感情に執着するよう唆さないので、煩悩欲望の基盤になる気に入った物に触れても「見るだけ」と見ます。

 聞いただけである聞くこと、嗅いだだけである嗅ぐことなどは同じ原則で、その人が幸受の奴隷にならないことが重要で、これを「この世界、あるいはどの世界にも自分はない」と言い、「自分」が無になった涅槃です。生の側の縁起を生じさせないからです。

 接触(刺激)した時、接触しただけなら、処入(つまり接触の基盤である目と形など)には意味も価値もないので、それが処入の消滅です。処入に不毛の状態があれば、処入の基盤である名形(心身)も不毛になり、名形が不毛なら名形を作り出す識も不毛になり、識が不毛なら識を生じさせる行も不毛になります。つまりないのと同じ、消滅したのと同じです。

 すべては縁起の中間にある小さな原因、つまり不毛にしなければならない「触」に依存するからで、触が不毛なら受は生じないので、縁起のすべては不毛です。これを滅の側の縁起と言います。だから触の時に関わる無明があるかどうかを、隠れた重要点と見てください。触の時に無明が関われば、その触は苦を生む一連の縁起の基盤になるので、反対になり、触の時に良く管理されれば、無明は関われないので、その触は滅の側の縁起の基盤になります。

 だから幼稚な人、愚かな人、迷っている人の触は無明が関わっている触で、聖人あるいは智慧のある人の触は無明が関わらない触です。それは触(つまり刺激)だけで、「自分」あるいは「自分の物」が生まれないので、永遠に苦は消滅したままです。このようでなければ文字どおりに話す寝ぼけた縁起、あるいは気のきいた言葉で競って説明する縁起で、ほんの少しも滅苦の実践に使うことはできません。

 すべてのタンマの実践は欲望を消滅させるためですが、欲望の消滅には本当の消滅と本当でない消滅の二種類あります。本当でない消滅は、普通に自然に消滅するもので、餌を食べると新しい餌、あるいは少し高い新しい感情を探すために欲望が消滅します。たとえば屍骸や不淨物を見るなど憐みの感情になるなど、そういう偶然で運良く消滅します。

 更に高くなると善悪正誤の感覚、あるいは道理で熟慮しても欲望は消滅しますが、本当の消滅ではなく、一時的な消滅、そして当面の解決でしかありません。これが長年聖諦を学んでも、長期間ヴィパッサナーをしても、アーチャンのレベルになっても欲望を滅すことができない理由です。それは一時的な消滅だからです。

 本当の欲望の消滅をパーリ語で「アセーサヴィラーガニローダ」と言い、ヴィラーガ(つまり欲が薄れること)の威力で消滅するという意味です。すべての物は無常であり苦であり無我なので「自分」「自分の物」と執着すべきでない、と真実のままに見ることで、ニッビダー(倦怠)に続いて生じます。方便による消滅と後者のような状態の消滅だけが本当の消滅で、それ以外は一時的な消滅、あるいは欺瞞です。

 「欲望の消滅、欲望の消滅」と呪文を唱えて念じる人もいるし、無理に抑え込んで欲望を滅す決意をする人もいますが、非常に手強い欲望を消滅させるには力が足りないので、成功しません。もっとすごいのは「自分は欲望を脱した」といろんなマヤカシで他人を騙す不正な人たちで、自分を騙す人もいます。

 つまり「自分はまったく感じない、男も女もいない」と、このように勝手に考えますが、欲望の威力による行動がいっぱいあります。自己欺瞞であると同時に他人も欺瞞します。すべては永続的でない不正で愚かな欲望の消滅です。

 だから残るのは一つだけ。すべてのものは本当に執着するべきではないと明らかに見ることに因る「アセーサヴィラーガニローダ」という種類の消滅だけです。




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