(自我の減らし方Ⅲ)





 すべての物は執着するべきではないという明らかな知識、あるいはそのように明らかに見ることにも、三つの段階があると理解しなければなりません。

 聞いて知る(これを知識と言う)、道理の威力で考えて知る(これを理解と言う)、それらを全部実践した結果、すべての種類のすべての物のすべての部分を完全に理解し、その実践から生じた結果に到る知識(これを洞察と言う)がニッビダー(倦怠)を生じさせ、心の感覚を変えることができるヴィラーガ(煩悩が薄くなること)が生じるよう促します。

 次に「すべての物は執着するべきでない(サッペー タンマー ナーラン アビニヴェサーヤ)」という言葉になりました。この文章を仏教の核心と見なさなければなりません。パーリ(ブッダの言葉である経)に、ある人がブッダに「すべての教えを一つの文章にまとめてください」とお願いした話があり、その時ブッダはこの文章で答えられているからです。

 そして『これがすべての教えの要旨であり、これを実践すれば教えのすべてを実践することであり、これを聞けばすべての教えを聞くことであり、この項目の実践の結果を得れば、すべてを実践した結果を得ることです』と主張されています。だから私たちはすぐに、すべてのタンマの学習は何にも執着しないために学び、それ以外は膨張した学習と見ることができます。

 タンマの実践になったら、すべての執着を捨てるための実践でなければなりません。それ以外は何らかの不正か愚かさなので膨れ上がった実践です。持戒をするなら、今あるたくさんの執着を軽くするような結果のためでなければなりません。(殺人、盗み、性に関する誤った振る舞い等々は、すべて執着が原因です)。

 サマーディをするなら執着を止めなければなりません。これと違うなら仏教の目的と違うサマーディです。智慧を増やす、あるいはヴィパッサナーをするなら執着の根を抜いて、二度と芽が出ないように根絶させなければなりません。そうすれば仏教の教えで正しい智慧になり、これと違うものは騙す知恵、あるいは愚かな知恵です。

 聖向聖果涅槃と呼ぶ実践の結果は、執着より上にいる状態、あるいは執着を完全に消滅させた(初等の聖人は一部だけ残っている)結果なので、何で欲望や執着を消滅させるのかと問えば、執着しないことで消滅させると答えます。これを重要と見るなら、それをいつどのように使うか、詳細に勉強しなければなりません。

 一番の方法は、何も心を妨害する感情がない時、すべての物は何なのか、なぜすべての物に執着するべきでないのかを「すべての物は本当は執着するべきでないマヤカシである」ことに憐憫が生じ、そしてそれらの物に執着する自分自身の愚かさに憐憫が生じるまで学んで熟慮し、知ります。

 いつもこのようにしていると、いつでもこの真実に知識と理解と洞察があり、貪・瞋・痴が薄くなります。憐憫の威力で絶えずそのように行動しているのでそれが習性になり、すべてに対して淡白になります。

 二番目の方法は、目・耳・鼻・舌・体・心から感情を受け取った時に、一番の実践方法で得た知識を「すべての物は無常であり苦であり無我なので、本当に執着するべきでない」と明らかに見え、自分がそれらに執着していることに憐憫が生じ、そしてその場にふさわしい倦怠、ニッビダーと煩悩の薄らぎが生じるまで、常自覚の威力で感情と触れる時に間に合うように実践しなければなりません。

 生まれつき智慧があっても、ここまででない人がこれくらいになるにはまだ時間が掛かるので、念処を加えなければなりません。つまり心が純粋な一つの感情で安定するよう、そして心の力を最高に敏速に使えるよう、心が智慧にふさわしくなる訓練をします。

 智慧を発展は、すべてのサンカーラ(行、あるいは心身)に真実を、絶対に「自分、自分の物」と感じなくなるまで洞察する事を意味します。その結果憐憫が生じ、すべての物に「自分、自分の物」と執着することに倦怠が生じ、そして倦怠は二度と迷って執着しない段階になり、煩悩がすっかり消滅します。

 どんどん増える知識、どんどん濃くなり賢くなる知識の威力でそのように知ることを「智慧を発展させる」と言います。だから主な実践、あるいは基本的な実践には戒・サマーディ・智慧があることが分かります。他のいろんな名前の実践はすべてこの三つにまとめられます。

 心をサマーディにする訓練は、呼吸以上に良い物はありません。すべての物は「自分、自分の物」と執着するべきでないという知識と理解と洞察を、煩悩、欲望、取を消滅させるだけ、あるいは攻撃できるだけ十分心に焼き付けたいので、少なくともそれらが生じないように防いで、一呼吸ごとに生じさせたい物を生じさせる練習をしなければならないからです。そのために簡単な物を選んで成功させなければなりません。

 最初の部分にふさわしいのは呼吸です。呼吸は体と繋がっていてリズムがあるからです。初めの段階では自分が望むだけ長い時間、呼吸する度にサティが呼吸から逃げ出さないように意識することを目指します。これを「心を繋ぎ止めたい物に繋ぎ止める段階の練習に成功した」と言います。

 このような形の心の訓練が正しくできれば、今まで味わったことのない幸福な静かさになります。味わった人なら誰もでも満足して陶酔する類のもので、愛欲から生じる幸受もこの幸受には敵わないと言うことができます。だから最高の幸受に本当に勝利できれば、それより低い幸受は問題ではないという教えが生れます。

 しかしこの最高レベルの幸受は無常であり苦であり無我でありマヤカシにすぎないので、熟慮してどんな執着もするべきでないと見なければなりません。

 心を管理する段階の実践が終わったら、一呼吸ごとに真理、あるいは知るべき真実を意識する練習に移ります。すべての物の無常が見えるようになるには、何のタンマによってかに注目し、あるいは煩悩を薄くするタンマがどのように自分に現れているかを見ます。

 そして煩悩と苦(「自分、自分の物」と呼ぶもの)の消滅が何のタンマで、どんな方法で、どんな状況、あるいはどんな現象の中にあるのかを見て、最後に心がすべてのものを手放す状態はどのようか、何のタンマの威力で経過するか熟慮して見、すべて呼吸をしている間いつでも明らかに見えるように熟慮します。

 私たちは、常自覚や明らかな知識があるようにする訓練は、当然それ自体が戒であり、サマーディであり、智慧であり、信仰であり、力であり、努力等であり、本の短いサティの訓練に含まれると見ることができます。

 次に訓練に使う感情は、呼吸(体)・受・心・タンマの四種類あります。(体に繋がっている重要な部分なので呼吸のことをパーリ語で「カーヤ(体)」と言います。ほとんどの訳者は間違って「身体」と訳しています)。だから呼吸を意識する練習をカーヤーヌパッサナーサティパダーナ、受を意識して受が心を作らないよう管理する練習をヴェーダーヌパッサナーサティパダーナと言います。

 心を意識することから、先ほど述べた方法で心の訓練することをチッターヌパッサナーサティパダーナと言い、タンマあるいはいろんな教えを意識することをタンマーヌパッサナーサティパターナと言います。これらの熟慮はすべて呼吸をしている間中継続して行ない、途切れる間はありません。呼吸をしている間中ずっと意識するので、この四種の実践をアーナーパーナサティ(呼吸念)と呼びます。

 念処をする時間がない庶民はどうしたらよいでしょうか。率直に言えば、同じ結果になる、講義してきたすべての実践をしなければなりません。つまり何にも執着しない教え、あるいは欲しがる物、なりたがる物は何もないという教えを掴んで、最終的に完全に消滅するまで休まずに「自分、自分の物」を管理します。

 これは何かを所有しても、何かの身分になっても、世界の仮定や法律で所有しているだけ、法的社会的にその身分でいるだけにするという意味です。全身全霊、あるいは執着で所有しないで、身分になってはいけません。常に注意深く、このような常自覚あるいはサティがあるよう自分を管理します。これを「呼吸をしている時はいつも正しい生活をする」と言います。

 息をしている間中正しく生活することは煩悩の餌を断つことなので、「猫を飼うだけでネズミがいなくなる」ように、何も大変ではありません。ネズミに何もしなくても、望まない物を駆除する確実で手っ取り早い方法と見なします。そして字の読めない老人でも実践できます。本当の実践なので、どこにでもいる、頭から溢れるほど知識があっても解脱できないパーリ語学習者たちの実践より、素晴らしい結果があります。

 「智慧で苦から脱し純潔になれる。一切の物は執着で手に入れるべきではない。あるいは何かの身分になるべきではない」と記憶のために復習させていただきます。執着しなければ「自我」を生じさせないからです。

 これと違えば、何らかの自分の利益を期待する間違った考えで、説明する人のように偽物の仏教です。だから私たちには、最初から最後まで執着しないタンマの実践はどの系統かを探し、そして教育の少ない人々にも簡単にできる方法が見つかるまで、探す義務があります。

 すべては騙す物マヤカシであり、そしていつでも毒になるので欲しがるべき物、なりたがるべき立場は何もないのに、時には自然の、あるいは社会の、あるいは体の要求に強要されて所有し、あるいは立場を手に入れ、避けようもなくいろんな物を所有しなければならないので、どのように所有すれば苦が生じないか、良く見なければなりません。

 そうすれば最後には「欲しくない、なりたくない物」という状態でそれと関わらなければならないということに気づきます。

 「トラのような猛獣と関わるなら、最大限の知性でトラと関わらなければならない。手抜かりやうっかりしてはいけない」と言われるように、知性で関わって所有し、あるいは何かになります。そうすればそれを支配下に置くことができます。いろんな感情はトラよりも危険なのに、そう見る人は誰もいません。

 凡夫である人は例外なくすべて、息をしている間中、感情に危害を加えられているので、そして堕落させ、あるいは人間としての尊厳を失わせるほどの害があるので、トラより恐ろしいです。

 だから私たちは絶妙な方便、あるいは方針、あるいは最高の技術で「欲しくない。なりたくない」という感情で生活しなければなりません。つまり何も要らない、何にもなりたくないと考えておき、社会的、法的に「この人はこれを手に入れた、あるいは何かになった」と見なしても、私たちは世間の仮定、あるいは法的な仮定だけにして、他人が知ることのできない心の深奥は、静かで淡々としています。

 つまり手に入れていないのと、なっていないのと、所有していないのと同じです。何も掌握しないので両面の良い結果があります。外部、あるいは世俗的には何不自由ない生活があり、誰とでも何でもでき、最高の義務もあり、内面、つまり心には自分がなく、あるいは今までと変わらず正常で焦燥がなく、重さもなく、上がったり下がったりしません。外部のいろんな物に失望したり喜んだりし、動揺して変化しません。

 この種の暮らしを例えれば「外部は輪廻、内部は涅槃」と言わなければなりません。本当はすべて涅槃で、すべての苦と苦の原因はありません。これが仏教の教えで生きる技術です。

 字の読めないお婆さんにも使えると言うのは、それらのお年寄りはいろんなものを「欲しくない。なりたくない」と見る以外に、何も勉強する必要はないという意味です。善人は善人の苦があり、悪人は悪人の苦があるので、何にもならなければ苦はありません。もう一度言うと、徳のある人は徳のある人の苦があり、罪のある人の苦と違いますが、苦であることに変わりがないのは、どちらも重い物を背負っているからです。

 違うのは、悪人の重荷は燃え上がっていますが、善人の重荷は静かに薫っているので隠れた重荷である点です。

 もう一度高い話に戻ると、幸福はまだ背負わなければならない物なので、幸福な人は幸福な人の苦があります。幸福は変化の上に根を張って最高にマヤカシであるいろんな感情を基礎にしているので、何にもならないことには敵いません。だから「欲しい物、なりたい物はない」と言います。

 次に、すべての物はたった二つの意味、益と害しかないと見みなければなりません。つまりすべての物には必ず益と害があり、益だけの物、害だけの物はありません。しかし凡夫はそれを見破れないので「これは益だ、これは害だ」と迷いますが、すべては執着すれば苦になるので執着できないマヤカシです。

 頑張って何も手に入れないのがいいです。つまり何にも執着しない心で、そしてこの二つ(益と害)を支配下に置いて、関わらなければならない必要なだけ管理します。これが「何にもならない」と対の「何もいらない」の意味です。

 老人のためにもっと簡単にして「人でいることは楽しいですか。女であることは楽しいですか。男であることは楽しいですか。夫であることは楽しいですか。妻であることは楽しいですか。母親であることは楽しいですか」と質問をすると、老人たちは全員が首を横に振ります。これらの物に非常に精通し、十分身に沁みているので、こういうことを何も知らない子供や若者とは違います。

 しかし説明を聞けば、理解できる若い人もいるかもしれません。そういうのは仏教史の中に二、三人いる、十五才で阿羅漢になった人の状態で、これらの老人が悟って、そしてそうできれば瑞々しい幸福になります。

 体は腐って棺に入っても、二度と老いることのない、別種類の若者になります。これが仏教の核心である教えで生きる技術です。だから仏教は字が読めない欲張り爺さんでも、述べたように正しく実践すれば到達できる、最高の生きる技術です。

 もしそうならないで死ぬ時まで生きたら、心が消滅する最期の一瞬にチャンスがあります。つまり「梯子から落ちて飛び上がる」という類の方便を使います。体が確実に滅びようとする時、同時に「どこにも欲しい物、なりたい物は残っていない」という信念で飛び上がれば、学習し、実践してきた「欲しい物、なりたい物は何もない」という知識が駆けつけるのが間に合います。

 これを「極めて優れた理性で蘊を消滅させる」と言い、「梯子から落ちて飛び上がる」という方便で涅槃に到達できます。事故で死んでも、そして残された時間が一秒か二分の一秒しかなくても、意識が消える前に、これらの老人が「消滅」させる知識を思い出し、そして心を「消滅」に傾けて名形(心身)を消滅させられれば、涅槃に到達します。

 助けや財産のこと、孫子たちのことを何も考えないで、その時考えているのは消滅することだけだからです。

 これを、最高に簡単で最高に近道のタンマの実践と言い、誰でもできます。講義してきたすべては、すべての人類の重要問題である「自分、自分の物」と呼ぶ呼ぶ物の色んな状態を指摘して、それ(「自分、自分の物」)が生まれる原因、反対のもの(つまり「自分、自分の物」がないこと)、「自我」がない状態になる実践方法を見せています。

 すべての人の苦は、どんな境地にいても、どんなに高くても低くても、すべて「自分、自分の物」と呼ばれる物から生じる苦だけだからです。

 ブッダが『最高に短く言えば、取のある五蘊が苦です』と言われているように、その「自我」が苦です。無明が自我を生じさせる根源なので、無明を消滅させることができれば、それが苦を完全に消滅させることです。

 感情に妨害されていない普通の時も、感情と遭遇している時も、呼吸をしている間中正しい生活をしていれば、それが正しい実践です。あるいは自我を生じさせる泉である無明を消滅させ、内面も外部も、社会も個人も、人類を永遠の平和に遭遇させる仏教の梵行です。

 人間がこの項目の真実に到達できない間中、この世界に誰にも解決できない恒久的な危機があり、休まず混迷混乱しているのは、タンマの真実の教えに反す行動、あるいは神様の心に背いた行動をしているからです。だから自我の話を甘く見ないで、もう一度熟慮し直して、正しい見解、あるいは「体と言葉と心」を正しく理解してください。そうすれば疑うべくもなく人間が得るべき最高に素晴らしいもの、最高に善いものに出合います。

 仏教の目的はこれだけ、仏教の教えの要旨はこれだけです。本当の仏教を早く理解したいと望む人は、あるいは仏教から存分に利益を得たいと望む人は、注意深く周到に学んで熟慮してください。そうすれば仏教から利益のすべてを得ることができ、仏教に関わったことが無駄になりません。



〔生側の縁起〕

 無明が縁で行(作ること、加工すること)が生じ

 行が縁で識(知ること)が生じ 

 識が縁で名形(身体と心)が生じ

 名形が縁で六処(触を生じさせる物)が生じ

 六処が縁で触(衝撃)が生じ

 触が縁で受(感覚)が生じ

 受が縁で欲(願望)が生じ

 欲が縁で取(執着)が生じ

 取が縁で有(心の状態)が生じ

 有が縁で生(自分の誕生)が生じ

 生が縁で苦が生じる。


〔滅側の縁起〕

 生が消滅すれば苦が消滅し

 有が消滅すれは生が消滅し

 取が消滅すれは有が消滅し

 欲が消滅すれば取が消滅し

 受が消滅すれば欲が消滅し

 触が消滅すれば受が消滅し

 六処が消滅すれば触が消滅し

 名形が消滅すれば六処が消滅し

 識が消滅すれば名形が消滅し

 行が消滅すれば識が消滅し

 無明が消滅すれば行が消滅する

(1961年)




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