第六章 自我の減らし方





 絶妙な教えに依存して簡単に「自我」を減らす方法を理解するために、サンヨージャナ(動物を輪廻に結ぶ煩悩。結)と呼ぶ十項について熟慮すれば、仏教がいかに効率よく「自我」を減らすことを目指しているか、実践者自身で知ることができます。

 サンヨージャナの初めは「有身見」と言い、「この体と心は自分の物」と執着することで、このような考えがあると、「自分」の利益のためにそれ(特に体)を良くしたい、永遠に変わらないようにしたいと大切にします。

 本当の自然では、その人の物は何もありませんが、自分の物があると勘違いするので、土・水・風・火・空、魂の集まりでしかない物を「自分の体と心」と執着します。だから身勝手になり、何でも自分と他人の苦になるようにします。

 世俗の知恵は「自分、自分の物」を著しく増やし、正しい教育やしつけを受けた時、あるいは仏教の教えで正しい実践をすれば、他人の物を盗んだり殺したり苦しめたりする「自分、自分の物」が無くなります。そしてすべての体、すべての元素の固まりは生老病死を同じくする友と考え始めるので、以前のように必死で他人の利益を自分の物にすることが少なくなります。

 有身見が少なくなると穏やかさを生じさせ、穏やかさは常自覚を生じさせ、常自覚は自分と他人を安全にします。私たちがサンヨージャナの第一項を捨てることができれば、それだけで世界は表と裏のように変わり、少なくとも世界から虐待はなくなり、代わりに本当の助け合いだけがあります。

 次はサンヨージャナ(結)の二項目の「疑」と呼ばれる形の「自分」を減らすことです。疑とは疑惑や恐怖による迷いという意味です。良く考えなければ「自分」「自分の物」と関係があるようには見えず、その上この迷いは苦と滅苦の話に関して何も重要でないと見落としてしまいますが、本当は疑も重要です。

 サマーディの段階の実践では、疑は目隠しする「蓋」で、心を妨害してサマーディにしません。智慧の段階の実践では、智慧や信仰を妨害して軌道から逸れさせるので、苦に勝利することができません。その迷い自体が宗教面でも世俗面でも幸福を妨害するものです。あるいはそれ自体が一種の苦です。

 高い気持ちと低い気持ちが闘うことを「疑」と言い、自信がないこと、臆病、不信、あるいは自分を信頼しないことまで拡大することができます。最も庶民的な「疑」は、どんな仕事に就いたら良いか、何をするか、何の名声を求めたら良いかなど分からないことで、もっと高いのは善や正義を本当に教えとして掌握すべきかどうか確信がないことです。

 個人の利益を失う恐怖、他人に負け、他人より不利になる恐怖が、善や真実を基本にする信念を失わせ、義務や道徳の面で不安で落ち着かなくさせる原因です。世界の混乱や困窮、あるいは様々な危機は、世界の人に信念がないこと、特に様々な社会の指導者レベルの人が善や真実を信じる確信がなく、自分自身の不誠実を許してしまうことが原因と見えます。

 戦争が起きると、怖くなって神様や宗教に近づきますが、事態が治まれば「自分、自分の物」の利益を求め、せっかく「何が何か」を知っていても、善や真実を教えとして掌握する信念がありません。自分の信仰や知性を安定した枠組みの中で管理できないので、世界は偽りや迷いや自己欺瞞の淵に落ちています。だから宗教的なことも世俗的なことも、世界に「疑」の症状があり、世界の人のためらいによってふわふわ漂っています。

 仏教の「疑」を人々が信じている教え風に言えば、ブッダ・プッラタム・僧に関わる迷い、ブッダの大悟に関わる迷いで、ブッダに関する不信は、今までの自分の感覚に反し、自分が期待する利益に反すので、ブッダの教えを信じること、あるいはブッダの提言で実践することにためらいを感じます。

 プラタムに関わる迷いも同じで、口だけで宗教を信じ、あるいは自分の神様を揶揄します。このような症状はどこにもあります。聖人に対するためらいは「聖人が苦から脱したと見る」という意味ですが、聖人たちは本当に苦から脱したと信じないので、あるいは聖人の方々の滅苦を自分にも応用できると信じないので、自分が後を追うことに迷いがあります。

 教える人と教えられる物と、そして教えを実践して成功した人たちに疑念があれば、その愚かな人はいくら勉強しても、益々迷いの多い人になるだけで、神経症になり、あるいは心の病気になることもあります。

 述べて来たすべてで、自分の宗教の教祖や教え、あるいは哲学原理などに迷いの考えが生じる本当の原因を「自我」と見ることができます。迷いの症状は「自我」の状態の一つなので、あるいは身勝手が、世俗面でもタンマの面でも、迷いを生じさせる原因なので、迷いをなくすことができれば、あるいは迷いを支配できれば、「自我」を消滅、あるいは支配できるという意味です。

 サンヨージャナの三項目の「戒禁取」は、戒と滅苦のために実践する戒律に関わる愚かな誤解の呼び名で、滅苦のために実践すると信じているもの、つまり仏教、あるいはタンマの間違った理解、間違った使い方、間違った行動で、二つに分けることができます。最初から間違っている物を間違って理解し、あるいは間違った実践をすること、正しい物を間違って理解し、愚かにも間違った実践をすることの二つです。

 これは油断や傲慢がある「自分、自分の物」があることが原因で、周到な知性がなく、反対に本当の意味と違う実践項目を掴みます。「自分、自分の物」の愚かさや頑固さであり、不思議な物、珍しい物に飛びつく、どこにでもいる愚かな凡夫に当たり前にあります。自分が考えたこと、誰かに教えてもらったものから、今やっていることが後でとんでもないことになると知らない無知まであります。そしてそれに自信があるので盲信になり、それらが自分の拠り所になると考えます。

 しかしそうはなりません。道理がなく、あるいは理論に合っていないので多分形式だけ、自分自身の慰めだけです。あるいは恐怖を無くすための自己欺瞞ですが、自分は、元々間違っている物を実践するために執着する愚か者と知らないからです。

 (戒禁取の)ほとんどは大昔から伝わっている行動で、石器時代にも執着している人がいました。しかし一部の人の智恵にふさわしいので、現代でもまだ、智恵の不足と愚かさと無知で、厳格に行動している人がいます。

 もう一方はいろんな狂った振る舞いや常軌を逸した行動で、間違った見解によるもの、あるいは頭が良くて不正な職業の人たちが他人からお金を巻き上げるために規定したこと、あるいは誤解で「善い」と考えたこともあり、すべて風変わりなことばかりです。これを、初めから間違っているものに執着し、愚かな誤解で代々実践原則にして来たと言います。

 正しい物を人が間違って掴む戒禁取は、タンマの教えから様々な実践規則まであります。仏教が正しく規定したもので、それで実践すれは本当の滅苦ができる道理に適った理論も、掴みを間違えば「清潔な物を撫で回して、愚かさで汚す」と言います。

 この種の戒禁取は、人間の世界で評判の、最高の教育を受けたと言われる学生たちにもあります。別の話なので、彼らにはタンマの項目、あるいは正しい完璧な宗教教育がないからです。

 大学や大学院や博士課程を修了した人の中で、どこででも見られるように、世界の学術関係者でも、願い事を祈願すれば、あるいは非常に愚かな宗教儀式を行なえば、ブッダは何でも叶えてくれると理解し、子供のない人に子供を授けることまでできると理解しています。中には地面に水を注ぐ儀式は「衰退」を洗って金持ちにすると考えている人もいます。

 あるいはそういう類のことも仏教と考えて、留学が終わって帰国すると、急いで聖水を掛けてもらいます。これは、学んできた非常にたくさんの知識は、彼らの愚かさを無くすことはできないことを表しています。そしてタンマ、あるいは宗教は滅苦ができ、あらゆる点で神聖だと聞いただけで、宗教は自分の願いどおりに何でもする義務があると決めつけます。

 他の宗教も同様で、神様は万策尽きた時に心を慰める義務があると決め、教会へ行っていろんな儀式をするのは、もしもの時のために神様に気に入られておくため、あるいは徳を積んでおくためです。本当の神様とは何か、本当の善とは何かを正しく理解しない、寝言のような症状があり、本当の神様、あるいは善は、「自分、自分の物」を断つことで、生きている間に正しい行動をして心を洗い清めることと、少しも知りません。

 そしてどこにいるかも知らない神様に、子供のように護ってもらうことを期待するだけです。行き詰まった時は大騒ぎをして、どこにいる何かも知らない物に助けを求めます。タンマ、あるいは宗教のすべての項目は体と言葉と心を清潔にするため、苦のない状態にするため、あるいは苦を少なくするためなのに、自分の正しい見解で自分自身の心の苦を除くことができません。

 特に仏教側に関しては、学習面でも、実践面でも、仏教教団員の中に戒禁取が蔓延しています。学習面では、相変わらず仏教でない物をいい加減に掴んで「仏教のものだ」と詐称し、仏教でない物をブッダの言葉にします。

 滅苦のためより、哲学者になるために際限なく広い論理を勉強するのが好まれ、四聖諦など直接滅苦に関した話を教えないで、ブッダが話題にするのを禁じて自身も教えられなかった「人は死んだ後生まれるのか否か」のような「アッパヤーカタワットゥ(ブッダが託宣しなったこと)」の話を取り上げます。

 バラモン教の常見の教義を仏教の本物と誤解して、際限なく論評、研究、学習し、カンマの話、無我の話、涅槃の話も掴み方が間違っているので間違いになり、他の宗教のカンマや自我や涅槃の話を、仏教のカンマ、自我、涅槃と信じることが原因で、争いや分裂が生じます。

 三蔵に関わる部分も、三蔵と呼ばれるすべての文字はブッダの言葉と執着するなど、幾つもの間違った執着がたくさんあるので、批評眼で関わることができません。中には三蔵を神聖な「物」として崇拝する人達、あるいは三蔵を作るだけ、買うだけで滅苦ができると考える人たちもいます。

 中には三蔵のある巻を占いの道具に使う人までいます。本、あるいはニッパ椰子の葉の間に竹串を刺し込んでから、自分が竹串を挟んだページの内容を元に良い話か悪い話か開いて見て、それが本当に正しい占いと強く信じています。戒禁取、あるいは教典に関して生じた前代未聞の愚かさと見なします。

 彼らは、ブッダがこういうことに関して何と言われているか、三蔵がどういう経過を辿ってきたかという真実を判断するために、ブッダがカーラーマ経、あるいはマハーパテーサ(大教法)で言われている内容を知りません。これが学習の部分の戒禁取の例で、あまりに多すぎて全部話すことができません。

 実践の部分の戒禁取は、更に生じる余地があります。ほとんどの人が信じやすく、そして恐怖がいっぱいあり、知性、あるいは信仰と恐怖を管理する十分な知識が無いので、何をするにも愚かしくし、あるいはそれらの信仰や恐怖の威力で簡単にその場しのぎにします。あるいは他人を使ってやらせる人までいます。

 たとえば自分の罪を他人に洗ってもらい、あるいは死は先延ばしにできるもの、儀式をすれば寿命は延ばせるものと信じています。そして自分が恐れている物、あるいは苦でも何でも、いろんな宗教儀式で解決できると信じています。これは最低レベルの愚かさの例で、これも話し切れないほどたくさんあります。

 それより高い部分、布施や出家することや戒・サマーディ・智慧から、その他の細かいタンマの実践に関する誤解という意味ですが、あらゆる種類、あらゆる点で正反対の結果を生じさせてしまう誤解もあります。

 いろんな実践項目は当然貪り・瞋り・愚かさなどの煩悩を削り落とし「自分、自分の物」という取を駆除しますが、反対に「自分、自分の物」という感覚をどんどん多く強く深くする実践になり、その結果自分が望むものを与えてくれる神聖で霊験のある物の話になります。

 本当は「自分、自分の物」である煩悩が欲しがっていて、知性が欲しがっているのではありません。だから変わった方法、変わった目的で布施させる教えが生まれ、そして社会経済の危険になり、最後には宗教にとっても危険になります。

 持戒も身勝手になる原因である煩悩をなくすと考えず、自分に神聖さや霊験が生じると考え、あるいは将来の何かを保証をする物と考えて戒を遵守します。サマーディやヴィパッサナーをする段階になると心の威力の話になり、非常に不可思議なものにし、タンマでない望みで歪める余地があるので非常に逸脱します。

 だから「商売のヴィパッサナー」「珍しさで評判になりたがるヴィパッサナー」と呼ばれる行為がたくさん生まれ、どれも煩悩を無くす方向でなく、反対に「自分、自分の物」の威力に支配され引っ張られて、神通力や幸運や供物や賞賛を求める道具になります。

 それらが間違って進行すれば、その人の聖向聖果涅槃と呼ばれる物の目的も間違った物になり、最後に完全に間違った見解になります。これを「タンマの実践に関する戒禁取が、新しい肉腫になる」と言い、仏教を消滅させるための仏教のと見なします。これもすべて「自分、自分の物」に執着することが原因です。

 何かを間違って理解して、本当の目的と違った使い方をすれば、当然すべて戒禁取と呼ぶことができます。社会を平和にするために使われるべきタンマの知識を稼ぐ道具にすれば、社会に困難や苦が生じるので、こういうのも戒禁取と呼ぶことができます。

 「自分、自分の物」である感覚がこれらの人の心を支配して、著しい利己主義にするので、清潔なもの、利益のある物が汚れた物になり、あるいは社会の苦や害になるので、一般人はこの罪を受け取らなければなりません。だから「自我」を減らすことができれば、すべての分野の人間の戒禁取はその分だけ少なくなり、人間は凡人から聖人に移行することができます。

 つまり「自分、自分の物」を、いずれかの満足すべきレベルまで減らすことができた聖人になります。ブッダは有身見・疑・戒禁取を無くすことができた人を「涅槃の流れ(過程)に到達した人」ソターパンナ(預流)と規定しました。「自我」がすっかり消滅すれば、その人は当然阿羅漢に到達するので、ソターパンナは当然「自我」を一部分だけ消滅させた人という意味です。

 「ソターパンナ」という言葉は「ソタ」と「アーパンナ」に分けることができ、ソタは「流れ」という意味で、アーパンナは「入った」という意味です。ここで「流れ」と言うのは、涅槃への道を意味します。もう一つの呼び方は正しい知識、あるいは「自分」「自分の物」と執着するべき物は何もないと、すべての物を真実のままに教える正しい見解がある、重要な八項目がある八正道です。

 ソターパンナ(預流)には家を治めている人も出家もいます。二種類の人を同じように涅槃への流れに至らせるものは何でしょうか。答は先ほど述べたサンヨージャナ(動物を輪廻に結びつける煩悩。結)の三項目を捨てることです。

 サンヨージャナの三項を捨てることは、愛欲をすべて捨てるより前にあり、まだ愛欲と関わっている在家でもサンヨージャナの三つを捨てることができますが、愛欲に陶酔していない人でなければなりません。

 確実なことはソターパンナには必ず貪・瞋・痴があることで、一般の人より少ないですが、欲・怒り・迷いがまったくないという意味ではありません。だから貪・瞋・痴の一部だけ捨てることは在家にもあり得ること、できることです。

 サンヨージャナの三つが消滅しても(三種類のサンヨージャナは一つの形の貪り・怒り・迷いです)、そしてどの種のサンヨージャナも別の名前で呼んでいるだけで、どれも「自分、自分の物」という感覚だからです。

 何かを自分の物にする「自我」の感覚は欲貪、あるいは貪りであり、何かを嫌って遠退ける「自我」である感覚は怒りであり、理解できない物の周りを躊躇して旋回している「自我」である感覚は迷いで、全部「自我」の症状です。

 だからソターパンナ(預流)が煩悩を完全に捨てることができない間は、つまり完璧な涅槃に到達していない時は、ソターバンナは正しい道を歩いている状態だけです。そして近いうちに確実に涅槃へ到達します。

 凡夫(厚い人という意味)にはこの三つのサンヨージャナが厚くあるので、この種の人は聖人を理解できず、聖人の方々は(サンヨージャナの)厚さを減らし、いろんな物を真実のままに見ることができるので、聖人もこの種の人の暮らし方に満足しません。そして自分自身を、絶対に悪に陥らせないなど「危険から脱した」「被害から脱した」状態を維持します。

 凡夫と聖人を分ける境界線はサンヨージャナの三項を捨てることで、捨てることができれば「涅槃へ向かう道を歩いている」あるいは「涅槃の流れに到達した」と言われます。そして新たに、敵から退いた人という意味の「アリヤチャナ(聖人)」と呼ばれ(アリ=敵、ヤ=行く)、ソターパンナ(預流)には「チャックマー(慧眼のある人)」という呼び方もあります。

 ソターパンナが初めの慧眼のある人と呼ばれる時、更に高い聖人は、確実にもっと高い目がある人です。そして盲目、あるいは眼が無いのと同然にするものは「自分、自分の物」と言われるものです。

 「自我」を減らすことは、低い段階から順に高くなり、「自我」が消滅すればするほど世界の領域から離れ、その分だけ脱世間の域が増えます。そして初めの段階の聖域は、ソタ―パンナ(預流)です。預流はまだ完全に凡夫の境地を越えていなくても、世界より上にいて、将来確実に完璧に世界の域を越えることができる、と言うことができます。

 すべての聖人(預流から阿羅漢まで)の心のレベルをロークッタラブーミ(聖の境地)、あるいはロークッタラヴィサヤ(聖の境地)にいると言い、世界の感情に踏み付けられないという重要な意味があります。世界の仕掛けを見破っているので、すべての感情が「自分、自分の物」を生じさせることはありません。初等の聖人では生じても本の少しだけで、凡夫のようにめいっぱい生じないと保証できます。

 初等の聖人はまだ「自我」が消滅していないので、多少は苦がありますが、凡夫の苦とは違う、苦を知り尽くしている人の苦、あるいは「苦と、苦の原因と、滅苦と、滅苦の方法」を明らかに知る知性のある人の苦です。凡夫はこれらに関して何も知らないので、目も耳も塞いでいるような苦に沈んでいますが、最高レベルの聖人阿羅漢は、「自我」が完全に消滅したので、当然完璧な苦の終わりに至っています。

 高いレベルの聖人が捨てなければならないサンヨージャナ(結)の七項がまだ残っている、預流の次の聖人サカダーガーミ(一来)は、まだ残っているサンヨージャナの七項目を捨てることができません。預流の段階で捨てた三項目の外には、貪・瞋・痴その他の形の「自我」を預流よりも多く捨てられただけです。

 サカダーガーミ(一来)とは一回だけ来る人という意味で(サク=一回、アーガーミ=来る人)で、「一回だけ来る」とは綿々と執着する物に一回だけ戻って来るという意味です。愛欲のある状態(界)や暮らし、はっきり言えば人が非常に思いを寄せる性(カーマ)を意味し、預流は聖人の知性で性と関わっている状態で、一来はもっと遠く、つまり性から遠ざかっていますが、まだ未練があって次のレベルに進む前にもう一度戻ってきます。

 一方出家である預流は、律の規制があるので性に関わることは避けなければなりませんが、その人の心の本音は、預流の境地の愛欲に満足していて、在家の預流以上に高くなることはできません。愛欲の物質に関わらないのは律の規制があるからで、本当の感覚ではありません。

 だから在家であろうと出家であろうと、サンヨージャナ(十結)を捨てる大きな原則、あるいは預流という言葉の真実の意味から言えば、預流の心は、在家も出家も同じレベルと言うことができます。通常預流であることは出家することを強要せず、一来は当然出家させる後押しが多くなるので、「自分、自分の物」は預流より明らかに少なくなります。

 人としての素晴らしさは、当然「自我」をどれだけ滅したか次第で、「自分」を滅した分だけ聖人の意味が増えます。次の聖人アナーガーミ(不還)は、あと二つのサンヨージャナ(結)カーマラーガ(欲貪)とパティガ(瞋恚)を捨てなければなりません。愛欲に満足する形で生じる「自分、自分の物」という感覚(欲貪)と不満や焦燥として噴出するもの(瞋恚)という意味ですが、怒りと言うほどではありません、。

 これ、は初等の二つのレベルの聖人には捨てることができないほど、捨てるのが難しいものです。しかし初等の二つのレベルの聖人は普通の凡夫のように、この煩悩に厚く陶酔しているという意味ではありません。アナーガーミ(不還)は愛欲の喜びより上にいて、その上怒ることを知りません。だから「自我」は愛欲に満足する形でも、どんな怒りの形でも噴出することはありません。

 アナーガーミ(不還)とは「来ない人(アン=否定、アーガーミ=来る人)」という意味で、一来はもう一度愛欲(カーマ)に戻る、未練がありますが、不還は愛欲への未練は残ってなく、二度と愛欲の魅力について考えないので「還らない人」と呼ばれます。不還は貪りと怒りを完全に捨てることができても、ある種の迷いはまだ残っています。

 それは、捨てなければならない非常に微細なレベルなので、その後カーマラーガ(欲貪)とパティガ(瞋恚)の形の「自分」が生じる余地がなくても、後で捨てるもっと微細な「自分」が残っていると言うことができます。

 一つ熟慮するべきことがあります。それはカーマラーガ(欲貪)を捨てられること、あるいは魅惑的な物の威力より上にいることは、どんなに素晴らしいかです。一般の人、あるいは一般の凡夫は「何も素晴らしくない」、そして「素晴らしさは愛欲で満たされていなければならない」と見るかも知れません。まだそのように見る人は、当然仏教は勉強するべきもの、あるいは人間の拠り所と理解する術はありません。

 その人が愛欲に噛みつかれながら愛欲を享受し、その結果常に愛欲の害が見えるようになれば、その時「隠れていて見えないだけで、愛欲には苦と害があり、陶酔という形で休まず炙っている」と自分自身で感じます。そうなれば愛欲の威力を排除して、愛欲より上にいる人です。そして愛欲である意味がない、どんな苦も害も生じさせない愛欲を享受する人になるためにタンマに興味を持ち始めます。

 愛欲は、自然が自然の目的に従ってすべての動物を騙して生殖させるための餌、あるいは賃金と同じです。生殖は重労働、あるいは苦しい仕事なので、動物に苦しい仕事と感じさせないために、何かしら目隠しする物が無ければなりません。時には見えても、敢えて餌や賃金を受け取って代償にすることもあります。餌あるいは賃金は「愛欲」と呼ぶ物です。

 だからこの種の労働者に身を落とすことと、身を落とさないことはどちらが素晴らしいか、そしてどちらが「聖」と呼べるか、本当に素晴らしい人と呼ばれるべきか、そして仏教の聖人の教えは愚かなものかどうか熟慮して見てください。パティガ(不満。瞋恚)も根深い原因は愛欲にあるので、カーマラーガ(性欲の貪り。欲貪)を捨てられれば、当然それはパティガの根源を断つことです。

 世間一般の人は、何でも愛欲に集約されます。病気による怒り、死の恐怖も根源は愛欲にあります。彼らは愛欲のために生きていたいので、病気になりたくないのも愛欲のためです。愛欲の感情を断つことができれば、病気と死の不満も減ります。だからアナーガーミ(不還)がどんなに素晴らしいか、今述べたカーマラーガ(欲貪)とパティガ(瞋恚)の形の「自我」を消滅させることの価値を知ることができます。

 阿羅漢になるとルーパラーガ(形のある物の欲。形貪)とアルーパラーガ(形の無い物の欲。無形貪)の形の「自分」と、マーナ(慢)、ウダッチャ(落ち着きがないこと。掉挙)、そしてアヴィチャー(無知。無明)を捨てなければなりません。

 この三つはすべて繊細なモーハ(愚かさ。痴)であり、無明はすべての煩悩の根源、あるいは母、あるいは首領の立場です。預流と一来はモーハの種の煩悩を捨て始め、不還は貪りと怒りを捨て、阿羅漢は残っている貪りと残っている愚かさを完全に捨てます。

 四種類の聖人の煩悩を捨てる全過程を見ると、愚かさ(痴)の類の煩悩を初めに捨て、それから貪りと怒りの類の煩悩を捨て、それから残っている貪りと愚かさを捨てることを発見します。つまり智慧、あるいは「正しい見解」から始めるので、何をするにも智慧の先導ですることを仏教教団員だけの状態と見なさなければなりません。

 どんな仕事もきちんとした形で進めるには、始める前に広い方向を教える類の智慧で、自分がしなければならない系統を明らかに教える智慧で始めなければなりません。そうすれば便利で、することは最後に成功します。このことは「仏教は終始一貫して道理のある宗教なので、智慧による宗教と呼ばれるにふさわしい」と見せます。

 阿羅漢が捨てなければならないあと五つのサンヨージャナ(結)の、ルーパラーガ(形貪)とアルーパラーガ(無形貪)の二つは、愛欲に関わらずに形に注目することと、形のない物に注目することから生じる静かな幸福の味に満足するだけです。当然緻密な幸受なので、緻密なレベルの執着の基盤であり、「梵天界の人の寿命は刧単位」というように、捨てるのが難しいものです。

 これは、ルーパラーガとアルーパラーガ、あるいは梵天である満足は、人間の一般のカーマラーガ(欲貪)に満足することと比較すると簡単に抜き取ることが難しい、非常に強くて深い力があるという意味です。簡単に言うと、心の静まりとサマーディの威力から生じた幸受は、愛欲から生じた幸受とは比較にならないほど深い味わいがあります。

 次はマーナ(慢)と呼ばれるサンヨージャナで、「自分はあの人より良い」「あの人と同じ」「あの人より劣る」と他人と比較して喜んだり萎れたりすることです。

 「梵天たちは愛欲と怒りに関わることを知らないが、自分が愛欲と怒りのない純潔な人であることを自慢し、あるいは陶酔し、誰よりも高く純潔で平安だと、他人に自慢するようなものだ。そして普通の人のように本当に知らないから訊くのではなく、知ったかぶりをするために、敢えてあれこれ質問してブッダの境地を試す」と言われるようです。これがマーナと呼ばれる物の例です。

 次のサンヨージャナはウッダッチャ(掉挙)と言い、サマーディの敵である五蓋のウッダッチャと混同しないでください。サンヨージャナのウッダッチャは、同じ名前で意味も似ていますが、智慧の敵であるくらい繊細なレベルなので、感情の妨害による散漫、あるいは蓋の類に取り囲まれる意味ではなく、それが生じると触れて来るいろんな物への興奮や疑念で心が波立つ感覚の一種です。

 例えば、それは何かを知りたい、可能性はあるか、自分にとって何の利益があるかなどを知りたい、見たいというのも、ここではウッダッチャと見なし、「自分」があるという感覚が本当に無くなった時だけ心が無関心でいられ、あるいはいろんな出来事で波立ちません。

 ウダッチャを捨てることができれば、当然すべての物に動じない心があるという意味で、初等の聖人は自分の利益になる物を求める十分な「自分」が残っていて、自分に訪れる危険を嫌悪し、阿羅漢だけがこれらの感覚を完全に捨てることができます。自分という感覚が消滅するからです。

 自分という感覚が捨てられると「自分の物」という感覚も居場所を失って無くなるので、「アハンカーラ(我慢)」と「ママンカーラあ(我所有)」と呼ぶものは一緒に生まれて一緒に消滅します。「自分、自分の物」を捨ててしまえば、ウッダッチャの症状はあり得ません。

 最後のサンヨージャナは、阿羅漢になる前に捨てなければならない無明です。最後まで残っている痴の類の煩悩であり、他の煩悩と「自分、自分の物」があるという感覚の原因、あるいは根源です。無明を捨てることができれば、知るべきことすべてを知るという意味の「明」が生じます。

 つまりすべての苦を知り、すべての苦の原因を知り、すべての苦の消滅を知り、そしてすべての苦を消滅させる方法を知ります。聞いて知るのではなく、理論で考えて知るのでもなく、自分自身で体験した自分の心で明白になっている種類の知識です。




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