第五章 自我の消滅

 

 四章で述べたように「自我」は誤った心の持ち方から生じます。だから心の持ち方の正しさは「自我」を消滅させることの基本で、心の持ち方が正しい時はいつでも、その分だけ「自我」の消滅があります。その行動が偶然でも、あるいはサマーディの威力で「自我」が生じる機会を妨害することに因るものでも、あるいは「私、私のもの」の根を断ってしまう智慧の威力によるものでも、どれもその時は「私、私のもの」が消滅している状態と言うことができます。

違うのは、初めのは表面的になり、二番目は強制している間中続く根を断つことによる完璧な消滅で、特に私が望む消滅は三番目の意味ですが、誤解や混乱を防ぐために、一番と二番のようなものも理解しておかなければなりません。

 一番の「自我が現れないこと」は、折よくそういう状態になります。偶々その時何か(見ること、あるいは聞くこと、読むこと、あるいは何も考えを生じさせないように誘う静寂である感情を受け取ることでも)が、一定時間「私、私のもの」が消滅した感覚を生じさせるという意味で、意図しなくても、普通の人にそういう感覚がある間はいつでもそういう状態になっています。

そしてふさわしい良い環境にいる人、あるいはふさわしい人と交際している人、あるいはふさわしい天候でもそうなります。簡単に「心地良い」と言えるような状態を「タダンガヴィムッティ(彼分滅。決定滅。相反するタンマで一時的に煩悩を消滅させること)」と言うことができます。つまり偶々良い具合になった「私、私のもの」の力で脱します。中には簡単に心が「自分」を無くせるような習性を、自然から授かっている人もいます。つまり「私、私のもの」という感覚が生まれ難いこともこの項目に含めます。

 二つ目の心の方の(智慧の方でない)「自我」の消滅は、その時心を何らかのサマーディの感情に夢中にさせているので、頸木に繋がれている牛のような状態であることを意味し、つまりサマーディの感情は好きなように他の感情に逃げていく機会がないので、その時「自分,自分のもの」という感覚が生じることはできません。

このような状態の「自我」がないことは偶然なるのではなく、「自分」が生じないように純潔な感情に引き止めておく本気の行動に依存してそうなります。「自分」が多少あっても良い方向、つまり善い「私、私のもの」になるので、それほど危険ではありません。

 まだ正しいサマーディで消滅させる道があり、たとえばアーナーパーナサティをして心をサマーディにできれば、サマーディから幸受が生じ、常自覚が十分あればいつでも正しい方法の行動なので、心に「自分」という感覚は生じません。「サマーディから生じた喜びはマヤカシ、つまり無常であり苦でありそして無我である」と熟慮するだけで「自我」は生じられません。

サティがぼんやりすれば、あるいは間違った方法なら幸受に満足して陶酔し、あるいは「自分は素晴らしい成功をした」と自惚れた感覚が生じるほどなら「私、私のもの」も当然生じます。その時は正しいサマーディでないので、こういうのをサマーディのせいにするのは正しくありません。。

 ヴィッカムバナヴィムッティ(抑えて煩悩を消すこと。鎭伏滅)は何かで「自我」が生じるのを賢明にしっかりと塞いで「自我」の威力から脱すことで、悪い感情を支配するために何らかの努力をする、たとえば「私、私のもの」である悪い感情を支配するために経を唱えるなどして成功すれば、この項目に含めることができます。

これは、普通の人にもできる小さな行動の例で、誰かに腹を立てる前に数を十まで数え、そして怒りが生じなくなるまで数えるよう教える話、こういう方便もこの項目に含めます。というのは、非常に努力しなければならないという短い教えがあり、一番のように偶然そうなるのではないからです。サマーディをするなど「心の行動の威力で自分を消滅させる」と言い、まだ智慧の行動ではありません。

 三番目は智慧による「自分」の消滅ですが、更に非常に巧妙な方便を意味し、直接強制するのではなく「根絶やしにする」という行動で、たとえば草を除去する時鎌やナイフで表面だけ刈っても、草がなくなるのは一時でまた伸び、あるいは何かを載せて見えなくすれば草は見えなくなりますが、載せている物を取り除けばまた草が生えますが、一番の方法より長く、草の根を抜いて燃やしてしまえば草は永久になくなります。

私たちは「無明」が「自我」の根と知っているので、無明を絶滅させることは「自我」を消滅させることです。そして明あるいは智慧で無明を絶滅させるので、二番目のように心の力を使いません。だからこの方法を「智慧の威力でする」と言い、そしてこのような状態で「自分」を消滅させることを「サムッチェダヴィムッティ」(正断滅)と言います。根を完全に引き抜いて「自分」を絶滅させます。

 人が一番の方法のように偶然「自分」が消滅することに出合っても、興味を持つべき重要な問題と見る人は誰もいません。彼らは今欲しい物、望んでいることにしか興味がなく、希望がない話、望みがない話、あるいは望まない心の味に関心がないので、「自分が無い心」の状態を知る機会がありません。本当はそれはしょっちゅうありますが、知らなくて興味がなければ、ないのと同じ価値しかありません。

宝石の山の上を歩いている鶏は宝石に興味深い価値があると感じませんが、地面にご飯粒が一粒落ちているのを見れば途端に価値を見るのと同じで、清信士・清信女から出家、長老に至るまでこのような症状があります。だから「自我」を消滅させる実践を形にすることができないで、休みなく「自我」を生じさせるばかりなので、偶然になる「自我の消滅」も手にすることができません。

人が鶏と同じなら、仏教にたくさんある宝石はその分だけ不毛です。私が今言っている宝石とは、ブッダ、プラタム、聖人である僧、タンマの頂点である「自分」を消滅させるダンマ、つまり最高レベルのダンマ、あるいはボロマタム(梵法)という意味です。本当に最高に、自分を苦しめず他人も苦しめなくなるので、近道である実践のために方向転換して興味を持ち、何らかの種類の宝石を選ばなければなりません。

つまり初めに自分にふさわしい何らかの種類の「私、私のもの」を消滅させ、それを勲章にし、段々に進歩して最後に「自我」が消滅することは、体の滅亡、あるいは命の滅亡という意味でなく、禅定の威力で感覚が静かに消滅するという意味でもなく、「私、私のもの」があるという感覚が消滅することを意味し、私は便宜のために短く「自我の消滅」と言います。そしてここで言う「消滅」は生じないように防ぐという意味で、現れている「自分」の消滅も含めるので、本当の要旨は「私、私のもの」という感覚がない心の状態です。

更にもっと良い意味があります。つまり心が空っぽで何もないという意味でも、心自体が消滅するという意味でもなく、「自分」が消滅した時一種の空が現れ、自我はないけれど素晴らしい知性がある空と知っておかなければなりません。まだ「自我」が煮えたぎっていれば心には混乱しかなく、「自分」がある時は「自分」があるという感覚が煮えたぎっているので心は真っ暗で、「自分」が消えれば心の闇も無くなり、代わりに明るさが生じます。

「自分」があれば、心には無明による愚かさしかなく、それが「自分」を生じさせる原因で、「自分」が消滅すれば心は愚かさから脱し、十分感じる感覚のある自然になります。つまり空であり無苦である物を知り、「私、私のもの」があると感じるものはタンマではなくアタンマ(悪いタンマ)であり、「私、私のもの」があると感じなくなったのがタンマと知ります。

もう一つ「私、私のもの」があるという感覚がある心は、当然純潔を失ったと見なします。つまり純潔で清潔な元々の心ではなく、ただのマヤカシであり、心を包囲して「私、私のもの」があるという感覚を生じさせる感情の言うなりになっている考えにすぎません。心に考えがない時、あるいは「私、私のもの」がない時、心は元の状態、つまり自然の清潔な心に戻ります。

 まとめると「私、私のもの」という感覚が消えると、代わりに他のものが必ず現れます。それが元々の心の状態、考えの威力による混乱のない状態であり、タンマである状態と明るさが生じます。そして非常に重要なことは、知性が完璧になることです。だから「自我」の消滅は恐ろしいものでも価値のないものでも能力を衰退させるものでもなく、反対に智慧で完璧にさせ、失敗する隙はなく、あるのは心の面の穏やかな幸福だけになります。

 この話を聞いて理解できない人、あるいは良く理解できない人はひどい誤解をして、「私、私のもの」の消滅を害と見るかもしれません。つまり「私、私のもの」があるという感覚が消滅すると、何かをする気力の元になるものが無いので何もしなくなり、国を発展させたがらず、社会の利益になることをしたがらず、石や土くれのようにじっとしていたがると誤解します。このよう迷いは「私、私のもの」の消滅の話を正しく理解しないことから生じます。

そしてもう一つは「私、私のもの」という感覚に慣れ切っているので、「私、私のもの」という感覚が生じると幸福を感じ、あるいは心の味があるので中毒になって陶酔します。そして歳を取れば取るほど「私、私のもの」と離れられない友達になり、煩悩が厚くなり、つまり非常に「蛇を魚と見る」状態の凡人になるので、「私、私のもの」の消滅を理解することが非常に難しくなります。

 これは、智慧が照らすことができないほど目、あるいは心を覆っているものが「厚い人」という意味の「凡人(凡夫)」にふさわしいです。あるいは智慧を覆っているものが厚く、智慧の代わりに「私、私のもの」が照らすので、すべてを間違って見ます。これらの愚かな人はすべてが吹っ飛んで元も子もなくなると理解して「私、私のもの」を消滅させることに満足しません。

だから凡人すぎる人の集団に、このような取を抜き取るレベルのタンマを教えることはできません。教えられるのは、とりあえず危険すぎない「私、私のもの」を選んで掴むようにさせることだけで、そうすれば泣かなければならないにしても、合間に笑う時間があります。しかしまだ、笑ったり泣いたりしなくても良いようにはできません。

 ここで「上級の凡人」「善凡人」と呼ばれるもう一種類の人は、目を塞いでいるものが厚すぎない人という意味で、目の埃が多すぎないので、目のゴミを全部洗い流すことができます。ゴミとは「私、私のもの」という感覚で、「目の中の埃がごくわずかな人」とは、初めから正しい仏教のタンマ教育を受け、同時に頑固でなく、賢さを自慢しない性格で、すべてを真実のままに知ることができる類の知性があり、いつでも、更に真実が見える知識を増やす準備のある人という意味です。「私、私のもの」の害の説明やアドバイスを受けると、非常に呑みこみが早いです。要するにその人は「私、私のもの」が消滅すれば身勝手がないので何でも沢山でき、非常に良くでき、何をしても失敗せず、そして最終的に社会が本当の平和になり、結果として国も発展して今のような汚職も無くなると、確実に理解できます。

 最近の世界の統計によると、ある国では三十四分に一件強姦事件があり、三十九分に一件小さな窃盗事件があり、五十分に一件殺人事件が起きている事が分かっています。この例だけでも、世界に忌まわしい出来事は少なくないということが分かります。そして確実なことは、人口の増加よりはるかに加速していることです。これは人間が「私、私のもの」の威力下に陥ることが加速していることを説明しています。

だから「私、私のもの」を消滅させることができればその分だけ、それらの望ましくないものも消滅します。人間がこれらの悪の根源を掴むことができなければ、それを無くすことはできません。「私、私のもの」の消滅の話を見落としているので、世界はこういう非運に遭遇し、個人の危機が世界の危機に、一時的な危機が永続的な危機になり、その結果こういう間違いを正しいと見る状態に溺れている人間には解決できなくなります。

 強姦やコソ泥、窃盗や薬で眠らせた後の盗み、怒りによる殺人、あるいは計画的な殺人、そしてその他の犯罪と呼ばれる行動は、「自我」つまり「私、私のもの」という感覚の噴出に深い根源があり、最高度に噴出すれば何も怖い物はないので、強制力や法律の威力でこれらを支配することはできません。なぜならその時、死も、どんな罪も恐れないからです。

ここで一般のしつけや教育など強制でない方法で「自我」の消滅の話を正しく理解させれば、「自我」が消滅すればした分だけ知性が増えるので、人は著しい身勝手でなくなると主張させていいただきます。あるいは仏教の教えの道理が多くなれば、道徳も、高くなって行く真実も、あるいは何らかのロークッタラタム(世俗を脱す教え。出世間法)も、ずべて「自我」と呼ばれるものを消滅させ、残るのは命を管理する智慧だけで、人間が得るべき本当の目的に到達させると言うことができます。

正直、思い遣り、慈愛、懺悔など、美しい名前で呼ばれるいろんな道徳は、ほとんど標榜するだけの言葉、あるいはいろんな所に貼っておくレッテルだけなので、悪を退治することはできません。今の世界の人間の「自我」はどんどん厚くなり、そして煮えたぎるほど強くなっているので、道徳を人々の拠り所にしようと望むなら、仏教の教えで「すべての苦の唯一の根源」と主張している「自我を消滅させる話」に興味を持たなければなりません。

 


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