第四章 自我の発生

 

 「自我」が生まれるのは誤った心の持ち方が原因です。ブッダは『心の持ち方が間違っていれば、残虐な敵から加えられる害よりもっと危険な害がもたらされ、心の持ち方が正しければ、両親など最高に善意の人から与えられる利益より多くの利益がもたらされる』と言われています。

 これはすべて、心の持ち方が間違っていることの害の指摘です。しかし世界の人間が今恐れているのは心の持ち方の誤りではありません。彼らはまだそれを知らず、それについて考えたことがないので、それよりはるかに恐れるべきでないものを恐れています。たとえば反対政党の主義を恐れたり、戦争や貧困を恐れたり、お化けを怖がり精霊を怖がり神聖なものを恐れるなど、現在の幸福が消えてしまうほど恐れ、あるいは昼も夜も苦になります。

 世界のすべての危険や苦は、心の持ち方の誤りが原因です。心の持ち方が誤っていれば望ましくない主義が生まれ、貧困や搾取、戦争などが生まれます。しかし世界の人はそれらが何から生まれるか関心がないので、恐怖で間違った解決をします。恐怖を克服することができるタンマがないからです。(ブッダは、一つでも恐怖はすべて心の持ち方の誤りと見なしています)。

だから部分部分の心の持ち方が間違って繋がっていて、正しい状態を維持しなければ、「自我」と呼ぶもの、あるいは著しい身勝手や自分がいるという考えがいっぱいになります。誰も気に掛ける人はいないし、それがどう生じるのか関心がないので、その結果この世界を無明の枠の中に、厄介な問題がいっぱいの混乱した闇に突き落とします。要するに苦になり、そして楽しく興奮した気分になることで苦を解決します。つまり新奇な知識を使って腕試します。世俗の苦を解決できなくても、新しい知識や能力に夢中になることは、キリもなく騙して心を慰める道具です。

このような症状はすべての危機の本当の原因を隠して興味を持たないようにし、特に誤った心の維持し方、つまり「自我」に関心を持たせないので、「自分、自分のもの」はどんどん流出します。だから自我、あるいは「自分、自分のもの」を生むものは無明だと分かります。

 一つ不思議なことは、誰でも自分が無明を知っている人に見えるよう努力し、無明の意味を自分の好き勝手に解釈します。その人は無明を理解している人、あるいは明らかに知っている人のように見えますが、滑稽なことに、その知識を少しも役立つように使うことができず、おまけにブッダが説いた無明の意味と一致しません。無明は何も知らないという意味だけでなく、何でも際限なく知ることも意味します。しかし誤りばかりで、すべてを反対に見ます。

たとえば「転輪(地獄の責め具の一種)を蓮の花と見る」と言われるように、苦の原因を幸福の原因と見て、その人は、苦とは一体何か、苦の本当の原因は何か、本当に苦のない状態はどのようか、そしてどんな実践をすれば苦のない状態に到達できるかを真実のままに正しく見ません。どんな種類の知識がどれほどたくさんあっても述べた四つの正しい知識がなければ、すべて無明と見なさなければならないと言うことができます。つまり滅苦に使えない知識です。

だから「無明」という言葉にぴったりした正しい訳語は、「苦を滅すことができる類の知識に欠ける自然」、あるいは「滅苦ができる知識に欠けた状態」と訳さなければなりません。それがブッダが言われた無明です。特に四聖諦を知らないことを無明と言い、その人にどんな知識がどれほどあっても四聖諦を知らなければ無明と見なします。

だから私たちの世界は無明の殻の下にあると明らかに見ることができます。ブッダの明でない知識は世界の人を救うことができないので、「頭からこぼれるほど知識があっても危機を脱せない」と言われるようになり、その種の知識は世界を破滅させるものになります。

 仏教の教えで知っておかなければならないのは、心に生じるいろんなものには、みな居場所、あるいは重要な縁である「感情」と呼ぶものがあることです。「感情」とは喜びで掴んでいるものという意味ですが、本当の意味は、喜びででも不満ででも握りしめることです。その心が受けてきた訓練次第で、つまり無明があれば、目・耳・鼻・舌・体・心が、形・声・臭・味・触・考えに触れた時に感覚が生じますが、それぞれの人の感覚は同じではなく、正反対の感じ方をすることもあります。

 心の方になっても無明がすっかり消滅した心以外は、まだすべて「自分、自分のもの」が生じる場所なので、無明は「自分、自分の」を生じさせる原因で、感情が縁になっているので、悪い感情なら悪い「自分」が生まれ、善い感情なら、善い「自分」が生まれます。

 「自分、自分の」という感覚がこの形で十分に生じれば「生」あるいは「新しい世」が現れたと見なし、そしてその後、場合にふさわしい苦が付いてきます。つまり多いこともあり、少ないこともあります。阿羅漢のように無明が消滅した人は、満足や不満足という感覚はありません。つまり良い感情も悪い感情も作る考えがないので、「自分、自分のもの」という感覚が生まれる余地はありません。

生じさせる無明がないので、本物の明しかなく、目・耳・鼻・舌・体・心を通じた触は刺激するだけで、それが何か分かればそれで終わり、考えて感情にしません。あるいはその後欲しがらないので「自分、自分のもの」という感覚は生じません。生まれる流れは触れた段階で断たれてしまうからです。すべては、無明があるから感情が生じて意味が生じることを証明するものです。

 無明がある心は「自分、自分のもの」という考えになり、その感情が強くて長く感動しているので、その感情を私は大きな感情と呼び、少し感動している感情を小さな感情と、中間の感情を普通の感情と呼び、作ったカンマが大きいか小さいかは、感情の威力次第で、大きなカンマを作る感情は、当然体を震わせ、心を震わせる十分な威力があります。

つまり非常に心に感動があれば意図も大きいので、結果として大きな「自分、自分のもの」が生じ、それが大きな混乱を生じさせる苦になり、小さな感情なら小さな「自分、自分のもの」であり、苦も小さいので、普通の人間の「自分」で、地獄の生き物のような自分にも、畜生のような自分にも、あるいは神のような、梵天のような自分にもなることができるという意味です。

 人間のような自分の場合はまた違うかもしれません。たとえば「親だ、子供だ、妻だ、夫だ、金持ちだ、貧乏人だ、主人だ、被雇用者だ、美人だ、美人でない、勝者だ、敗者だ」から、「愚かだ、賢い、徳がある、罪がある、善人悪人、幸福な人、不幸な人」まで、その時「自分は何」と感じているか次第です。これが無明によっていろんな形に作られる「自分」で、どれも「何々だ」という執着で必ず苦になります。自分は何々だという理解によって必ず身勝手が生じるからです。

身勝手が生じる前に「欲望」と言うものが先に生じます。何かに何らかの種類の願望があれば、執着あるいは「取」と呼ぶものが生じます。なぜならその望みの中に、いつでも「望んでいる人」という気持ちがあるので、気に入った感情ならある種の望みになり、気に入らない感情ならまた別の種類の望みになり、どちらも同じ望みです。望んでいる人という感覚がここで言う「自分」です。この二つの感覚を「執着」あるいは「取」と言い、「自分」と執着し、「自分のもの」と執着することです。

 学習者は、この欲望と執着の原因は無明だと、つまり知らないから欲しがり、執着すると観察して見ることができます。貪りがあるのは貪るべきでないと知らないからで、怒るのは怒るべきでないと知らないからで、迷うのは迷うべきでないと知らないからです。これは「貪・瞋・痴は無明が原因だ」ということを表しています。だからすべての間違った感覚は、すべて無明が原因です。

欲望を三つに分類することができます。愛らしいものの欲望を渇愛と言い、あれになりたい、これになりたい、あるいは生きていたいという願望、これらを有渇愛と言い、最後は有渇愛の反対でああなりたくない、こうなりたくない、生きていたくないまで含めて、これを無渇愛と言います。

 三欲の意味を明確に理解することは非常に重要です。混同するとタンマの理解が難しくなるので、種類別の分類を知らなければなりません。そうすれば「自分」の感覚が欲望の種類に対応しているのが、つまり同じ三種類あるのが分かります。愛欲の類の「自分は」愛欲に関して自慢し、形梵天の類の「自分」は愛欲に関わっている人たちより高い、素晴らしいと自慢し、無形梵天の類の「自分」は、自分の純潔を形梵天の純潔より高いと自慢します。だからどれもマーナ(慢心。慢)あるいは傲慢であり、苦があります。

 このような状態を第一義諦で言えば、人間にはすべての種類の欲望と「自分」が揃っていて、たとえば時々人の心は、愛しいもの可愛いものの愛欲から離れて名誉に執着することがあり、これは欲望に支配されている症状です。仮定で言えば形梵天の「自分」になっていて、時には心がもっと高い所へ移動し愛欲や名誉を考えず、真実の知識や本当の善など高尚な抽象に夢中になって、もう一段階高い心になることがあります。

次はもっと高い所へ移動し愛欲のことばかり考えず、名誉ばかり考えないで、本当の知識や本当の善などの上品な無形のものに熱中し、もう一段高い心であり、無形梵天の形のない純粋なものに「自分」があります。これを簡単に理解するために例えれば、野鳥や(観賞用の)食わず芋の木や盆栽などに夢中になっている人は、当然愛欲つまり異性に夢中になっている人より心が清潔で、形や無形のものに興味をもって熟慮している人の方が鳥や芋の木や盆栽を趣味にしている人より心が清潔です。

だから無明による段階的な分類、つまり欲界、形界、無形界のレベルが生きている私たちにあります。これは、どの形の引っ張って行くか無明次第です。しかしすべては無明に根源がある欲望にすぎず、そして必ず形の違う苦があります。

 欲望と呼ばれるものを知ったら、次は感情の中に欲望が生まれ、その結果取や「自我」が生まれることを熟慮します。たとえば美しい花を見ると欲望の感覚が生じることもあり、欲望にならないこともあり、それを美しいと感じ、その色と香りに心を奪われて陶酔すれば、そのような「見ること」は欲望になります。

しかし見ても自然科学の勉強をする気持ちになれば、あるいは「この花は人間を疲れさせて散財させ、そして溺れさせる原因」と見ることもあり、あるいは美しさや芳香に隠れている無常・苦・無我を感じることもあります。こういうのを、欲望に支配されていないと言います。それに「見ること」が欲望の基盤になってなく無明が関わらないので、反対に明が関わるので欲望は生じず、苦になりません。自分が生まれないからです。これが接触して来る感情の意味に関わる規則です。

常自覚がある人は、常自覚が多ければ多いだけ自分の感情を管理できます。無明の威力下に落ちない人は、感情は感情だけで、触、あるいはその感情から生じる感覚は単なる触なので、感覚が欲望や取を生じさせません。つまり苦が生じるようにしないので、元のままで苦がなく、そして知性は将来更に苦をなくす方向に発展することを意味します。 

 愛欲になる感情に依存する一つ目の欲望は、特に異性に関わる意味がある時は、当然強烈で十分な欲望になります。だからこのような形で生じる欲望は欲界の生き物、つまり地獄の動物、畜生、餓鬼、人間、天人の欲望に分類されます。

 二つ目の欲望は、特に違う点は愛欲と呼ばれるもののお世話にならないことで、その上愛欲と呼ばれるものを嫌悪します。ある種の人、又はある時は心が愛欲に無関心になるという意味で、普通の人の場合は名誉や善や美、自分の執着で、あるいは欲しいと感じるものを望み、時には誰にも邪魔されないでじっとして居たいと感じ、時には遠くへ旅をしたくなり、あるいは海辺の静かな所へ行って一人で静かに座っていたいと思い、そしてそうすることから生じる味に満足し、満足するものなら欲しくなります。

この種の欲望は初めに述べた愛欲に分類されるべきではなく、愛欲を嫌悪する類の欲望です。もっと凄いのは昔の教本で読んだ詩に「何か月もの長い定に入って体を動かさず、戒を遵守して風を食し、毎日毎夜幸福」とあるような、定から生じる幸福に満足する人の惑溺です。これは首丈になる一種の強烈な意図を表しています。要するに瞑想家やヨギー式苦行をする人達が、愛欲に関わらず静寂の幸福を望んですれば、愛欲に関わらない欲望と言います。

しかしそのような苦行が現世あるいは死後に、五欲に恵まれた極楽に生まれることなど異性からの幸福をもたらすと信じ期待しているなら、その人の望みは愛欲に分類されます。この項目は本当の善や名誉に執着している人に例えられますが、その名誉や善が、五欲である物質的なものをもたらすことを期待したり、その後の異性による幸福を期待していれば、彼らの欲望は元と同じ愛欲です。

 至る所で聞く「人間界」「梵天界」あるいは「欲界」「形界」「無形界」という言葉は、私たちの心の状態という意味で、欲界は心が愛欲に夢中になっている生き物の状態で、形界は愛欲に関心がなく無形の物の満足に夢中になっている人物の状態で、それを心を見つめる時の、あるいは定に励む時の感情にします。

無形界はもっと上品な欲望なので、もっと高い心の状態を意味します。形のないもの、あるいはすべて無形のものに溺れている人たちの状態です。それを心を見つめるとき、あるいは定を目指す時の感情にし、成功すれば満足してますます緻密な惑溺になります。

欲望は三つの界(状況)にあり対にすることができ、愛欲は欲界になり、有渇愛は形界になり、無渇愛は無形界になります。これが人間の望みで、人間が得るべき最高のものに出合いたいと願って考える努力をする人がこのような終わりに至っても、まだ完璧な滅苦には出合えません。「自分、自分の」を捨てたいと願わないので、彼らはいつまででも欲望の枠内にいて、いくら努力しても欲望の輪から出ることができません。本当に明らかに分かるまで学ばなければ、タンマの実践の近道にならないと見なします。

 欲望はどんな種類でも、すべて六つの感情、つまり形・声・香・味・触・考えに基礎がなければなりません。六つの感情は、目の前の感情だけを意味せず、過ぎ去った過去の感情も、現在の感情に関わることで、追想追憶と呼ばれる過去を思い出すことで欲望の感情になり、後で手に入れる未来の感情も非常に欲望の感情になります。それは「希望」と呼ばれるもので、おまけに他のものよりも厄介な問題に見えます。

人がキリも無くたくさん望み、そして気力を養うものなので、揃って人生は未来の感情である希望によって生きられると信じます。それは人間にとって最高に厄介な問題に、つまり非常に大きな、現代の世界の複雑な問題になります。大小様々な危機も、あるいは世界が一度に破滅する問題も、すべては欲望の未来の感情が原因です。要するに現在の感情も未来の感情もすべて欲望になります。

 述べたように学習者は三つの欲望、つまり愛欲・有渇愛・無渇愛の初めの欲望は愛欲が感情としてあり、後の二つの欲望には感情として愛欲はないと観察して見なければなりません。だから欲望は愛欲に関わる欲望と愛欲に関わらない欲望の二つに分けることができます。だから人間の精神面の危険、あるいは敵は二種類あり、好んで「愛欲」と「界」と呼ぶと言うことができます。

ヨギー(ヨガの教義の人)やムニー(修行者)だけが規定した言葉で、「恐ろしいもの、怖いものは愛欲と界である」というように使われるので、彼らは非常に努力して解脱する道を探求します。現代人はこの二つが何かをほとんど知らず、それを知ることに興味がなく、望みどおりに愛欲と界を手に入れるために必死で努力するだけです。

そして「蛇を魚と見る」ように危険なことと見ないで、たくさん集めて取で、つまり「自分、自分の」という感覚で抱きしめます。自分が危険なものを愛していると知らないからです。何も愛さずにいるべきだと、つまり純潔な心で、何にも「自分、自分の」という気持ちを持たないで暮し、そして純潔な心でいろんな実践ができると知らないからです。

 「愛欲」と「界」と呼ぶものを良く知れば、愛欲は「自分のもの」という取の基盤であり、界は「自分」という取の基盤であることが自然に見えます。しかし「自分のもの」という感覚があれば、必ずその中に「自分」という感覚が隠れているので、人間はまったく気付かずに「自分、自分の」の欺瞞の餌、あるいは奴隷に陥っているという基本を忘れてはいけません。これが「悪魔や魔王はいつでも、誰も知らない形で来る」あるいは「いる」と智者たちが信じている教えです。

もう一つは間違って知ることで、魔王や敵と見ずに「自分」と見てしまうことで、魔王は好きなだけ危害を加え、筆舌に絶する損害を与えることができます。しかし「それは魔王だ」と知るだけで魔王は途端に姿を消してしまいます。あるいは「悪魔が息絶える」とか「すぐに飛び下りて死んでしまう」とよく擬人的な言い方をします。これが「自分」と考える無明で「自分」がなければ純潔な心です。

しかし世間の人は何も魔王について知らないので、楽しさで、あるいは志願して日課のように自分自身を焼き炙る「自分」があります。つまり際限なく繰り返す結果ひどくなって、なぜこんなことをするのか自分でも答えられなくなります。すべては「愛欲と界」あるいは「自分、自分の」というものを知らないことの害です。

 今日まで人間が世界で苦しんできたのは、愛欲と界が原因であり、何千年、何万年もの間そうして来ました。愛欲と界と呼ばれるものは変化しませんが、物質あるいは外部の感情には変化があります。現在の世界はますます物質主義になり、愛欲の世界になっているので、どんなに上品に繊細にしても愛欲の害から逃れることはできず、上品で繊細な害になるだけです。愛欲と界の話を良く知らないので、愛欲あるいは物質の奴隷であることが拡大するばかりで、愛欲や物質主義に抵抗する頑強な砦と見なされている仏教のお寺の中までも侵入しています。

しかし現代の出家がどれだけ愛欲の奴隷に陥って愛欲に夢中になり、あるいはどれほど物質に執着しているか、まったく庶民と変わらないと観察して見えるように、砦も崩れてしまいました。これを、昔は愛欲(カーマ)と呼んだ物質主義の拡大と言います。このような状態で、自分を物質主義や愛欲の害から守ることに関して誰かの拠り所になれるでしょうか。

 二つは密接な関連があるので、愛欲の威力下に陥っている人は避けようもなく界の威力下に陥っています。愛欲があれば愛欲の所有者である自分が現れ、それが界という意味です。界である「自分」を奪う人、あるいは競う人がいれば、威力は更に強くなり濃くなって、「自分」は愛欲や欲望から「瞋り」に変わります。瞋がひどくなると「自分を忘れる」と言われるレベルになり、「自分」に酔って何でも怒りの威力でしてしまいます。「命より名誉を愛さなければならない」と言います。

自分に酔っている人間社会では、界だけの話である面目を維持することしか考えず、夢中になっているので善悪を考えなくなります。これこそ、何か得るものがあるかも考えずに人を死ぬまで噛み合う動物のようにする原因です。「自分」の威力に支配されているので、あるいは目隠しされているので、愛欲のものでどんなに誘惑し、なだめ、脅しても、その時の関心事である愛欲一つ殺すことはできません。界の形に変えると殺しやすくなります。

これが、私たちの心を支配している愛欲と界の様相なので、私たちの義務は愛欲の段階で妨害して心を支配させないようにし、愛欲が心を支配してしまったら、文明や文化や宗教にも配慮することなく、好き勝手に何でもする原因である界にならないように妨害します。これが愛欲と愛欲に関わる界の危害です。

 ほとんどすべての人間が、愛欲あるいは愛欲に関わる界の威力下に陥っていますが、一部の人たちには愛欲の害が明らかに見えます。非常に多くの愛欲を経験した場合でも、あるいはそう見るよう勉強し心を訓練した場合でも、愛欲は苦の基盤なので厭わしいものと見、望ましくないものと見なし、人が非常に崇拝する善も、人間のものも極楽のものも愛欲の縁として嫌悪します。

だから彼らに愛欲の未練を断ち切ることができる本当の善を探させれば、最後に愛欲に関わらない新しい心の状態を見つけます。本当は自然に存在していますが、普通の人間は見落としています。例えば私たちの心は、時々愛欲を追い出し、愛欲が無いことに満足していますが、愛欲を汚らわしいと見る特別な人以外はそういう状態に関心がなく、その上休息と見なしません。

偶々誰かがそうなれば、その人は普通の人と違う人物と認めなければなりません。それが梵天と二つの界、つまり愛欲に関わらない境地または界が生じる原因で、「自分、自分のもの」という感覚が十分残っていても、仏教が目指すローグッタラ(世俗を脱すこと)と、仏教が目指すものは何もないローギヤ(俗)を分ける境界線と見なします。

 だから誰でも、仏教の教えは欲界地・形界地・無形界地になるためでなくローグッタラになるためと、明らかに見なければなりません。これらの裏話しをすれば、これが滅苦の実践の障害だということを説明するために話していると、そしてどんな界もないようにするために、愛欲と界のどちらも通過しなければならないと理解してください。それがローグッタラブーミ(脱世間界地)、あるいは涅槃はどんな界にもなれないという主張項目です。

本当に「自分、自分のもの」が無いので、私たちは本当にこのレベルに到るだけで本当の仏教に出合います。迷ってローギヤ(世俗のもの)を仏教だとし、そして激しく議論し、あるいは人に教えて誤解させません。これは非常に深い罪を作ることと見なされます。要するに梵天でも、まったく愛欲が無くても、「自分、自分の」という取から脱すことはできず、それにまだローギヤブーミ(世間界地)であり、輪廻と見なされます。

まだその人には「自分、自分のもの」が目いっぱいあるので、凡人であり聖人ではないからです。このような真実の主張を、自分は仏教を教える哲学者だと自負している人たちが、「勝手に言っている。教科書にない」とか、「自分が勉強したアビダルマと違う」と決めつけないよう望みます。

本当の仏教に早く到達するために仏教の実践をするなら、私たちはブッダの伝記や仏教史、いろんな経典、いろんな本生経からアビダンマまで、教える人や学ぶ人に「自分、自分のもの」を生じさせ大きくするもの、私たちに時間を浪費させるものを越えなければならないからです。

 


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